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以下、基本的に前に行った投稿から抜粋して来た物です。


横浜を散歩して来た時の物です。横浜は、東京areaの海の玄関口(gateway)となっている、大きな港町です。この日は、横浜の、関内(kannai)areaにある日本郵船(Nippon Yusen)歴史博物館で、日本の客船の、インテリア(内装)の歴史に関する、展覧会(exhibition)を見て来ました。


この展覧会(exhibition)は、主として、第二次世界大戦前の、日本の客船の、インテリア(内装)における、日本の建築家の活躍に焦点を当てた展覧会(exhibition)でした。

 

以下、以下の投稿の続きです。

 現代日本伝統様式(戦前日本の客船の内装)他3→

https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3755465?&sfl=membername&stx=nnemon2




以下、この展覧会(exhibition)の説明は、主として、この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)の文を、要約又は抜粋・引用した物です。



前回までの投稿では、(主として、第二次世界大戦以前における)、日本の、著名な建築家達の、日本の客船のインテリア(内装)の設計における具体的な活躍について、見て来ましたが、以下、第二次世界大戦以前における日本の主要な客船のインテリア(内装)における、日本の芸術家達の協力について見て行きたいと思います。

 

佐藤 武造(sato takezo。日本の画家・漆工芸の工芸家)は、久米(kume)建築事務所(久米 権九郎(kume gonkuro。日本の建築家。前々回の投稿を参照)の建築設計事務所と共に、日本の客船のインテリア(内装)の設計を行っていました。現存する、久米(kume)建築事務所のカラースキームは、全て、佐藤 武造(sato takezo)の手による物です(久米 権九郎(kume gonkuro)と佐藤 武造(sato takezo)は、古くから、親しい友人関係にありました)。この様に、その国の文化の象徴とも言える、当時の工業国の、国際航路向けの豪華客船のインテリア(内装)の設計には、画家や工芸家の協力も必須でした。ちなみに、1932年から1939年にかけて(1939年、第二次世界大戦の勃発により、日本に帰国)、イギリスのロンドンを拠点に活動していた、佐藤 武造(sato takezo)は、当時、世界最高の豪華客船大国であった、イギリスの豪華客船の船内装飾設計も手がけています。当時の、ヨーロッパでは、ジャポニズム(Japonism。19世紀後半から20世紀初めにかけて、万国博覧会(expo)等を通じて、日本の美術工芸品が、欧米(特にヨーロッパ)で紹介され、大流行した現象。「日本趣味」とも呼ばれ、これらは、西洋美術にも、大きな影響を与えた)の影響により、漆の工芸品が流行していました。エキゾチック(exotic)で、見た目にも華やかな漆は、ヨーロッパの客船でも、人気を呼んだのです(例として、フランスの豪華客船、ノルマンディー号(Normandie。1935年完成。79,280総トン(GT)。完成当時、世界最大の客船)等には、ジャン・デュナン(Jean Dunand。漆工芸で有名な、スイスの工芸家)制作の、漆パネルが、多数、掲げられている)。イギリスの豪華客船、クイーン・メリー号(Queen Mary。1936年完成。81,237総トン(GT)。完成当時、世界最大の客船になるはずであったが、Normandieが、改装されて83,423総トン(GT)になっていた為、完成当時、世界で2番目に大きい客船。何れにしても、豪華客船時代(第二次世界大戦前)における、世界最大級の客船であった)の1等(first class)サロン(salon)のキャビネット(cabinet)の漆の蒔絵(makie。日本の漆工芸の一つ)で好評を得た(佐藤 武造(sato takezo)の作品の展示会を見た、ロンドンの大規模室内装飾会社が、クイーン・メリー号(Queen Mary)に飾るキャビネット(cabinet)の装飾を、佐藤 武造(sato takezo)に依頼してきた)、佐藤 武造(sato takezo)のもとには、イギリス等の豪華客船の室内装飾設計の依頼が、次々と舞い込みました。「現代日本様式」の主要な構成要素と言える漆のパネルが、西洋の豪華客船においても、多用されていた事は、大変興味深いと言えるでしょう。





この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。写真左上。ドミニオン・モナーク(Dominion Monarch。1939年完成。イギリスの豪華客船。27,155トン (GT)。南アフリカ連邦(現在の南アフリカ共和国)を経由し、イギリスとオーストラリアを結ぶ航路の豪華客船として建造された。イギリスとオーストラリアを結ぶ航路の客船で、史上、最大且つ、最も豪華な客船であった)のドローイングルーム(drawing room)の装飾(1939年制作。佐藤 武造(sato takezo)作)。
写真右上。船名、船室不明(佐藤 武造(sato takezo)作。1940年頃と推測される)。右下に、久米(kume)建築事務所の印が押印されている。深い信頼関係の下、共同で設計していた事が、伺える。
写真下。橿原丸(kashiharamaru)1等(first class)読書室の漆パネル習作(1940年頃制作。佐藤 武造(sato takezo)作)。久米 権九郎(kume gonkuro)とともに設計した一室。

 

日本の豪華客船のインテリア(内装)の設計には、建築家に加えて、画家、工芸家等、当時の日本を代表する、一流の芸術家達が集結させられました。ただし、画家や工芸家の場合は、たいてい、内装の空間その物に関わると言うよりは、自身の絵画を壁面パネルとして提供し、室内空間の一部を飾る事で、船内に彩りを添えると言うのが、一般的でした。例えば、松田 軍平(matsuda gunpei。日本の建築家。前回の投稿参照)が、設計した、八幡丸(yawatamaru。日本の客船。1940年完成。17,150総トン(GT))の一等(first class)社交室には、山喜多 二郎太(yayakita jirota。日本の画家)による巨大な壁画、「園遊図」が飾られ、より船内を華やかに、そして、日本趣味あふれる空間に、演出しています。また、村野 藤吾(murano togo)が設計した、ぶらじる丸(BRASIL maru。日本の客船。1939年完成。12,752トン(GT))の、1等(first class)社交室では、山鹿 清華(yamaga seika日本の染色家)の豪華絢爛たる織地が壁面を飾り、中村 順平(nakamura jyunpei)が設計した、新田丸(nittamaru。1940年完成。17,150総トン(GT)。日本の客船)の1等(first class)社交室では、松田 権六(matsuda gonroku。日本の漆工芸の工芸家)による、しだれ柳と川浪の乾漆パネルが、艶やかな室内空間を生み出しています。また、残念ながら、写真さえも現存しませんが、藤田 嗣治(fujita tsuguharu)(1886年生まれ、1968年に亡くなる。1920年代から、世界的な名声を博した、日本の有名な西洋画家。晩年(1955年)には、フランス国籍を取得)も、天山丸(tenzanmaru。日本の客船。1942年完成。7,908総トン(GT))の船内に、天山山脈を描いた絵画を提供したと言われています。また、定かではありませんが、1940年に完成した、新田丸(nittamaru)にも、藤田 嗣治(fujita tsuguharu)の絵画が飾られる予定があったと伝わっています。ちなみに、客船ではありませんが、日本海軍の戦艦、武蔵(musashi。基準65,000トン。満載72,809トン。1942年完成。同じく日本海軍の、大和(yamato。1941年完成)と共に、世界の歴史上、最大の戦艦)の艦長室に、横山 大観(yokoyama taikan。日本の、有名な近代日本伝統画家)が描いた、墨一色の、富士山の軸が飾られていました。第二次世界大戦により、日本の、ほとんどの客船(特に、客船の中でも、比較的高性能で、比較的大型であった、海外航路向けの豪華客船に関しては、ほとんど全て)が撃沈され、海の藻屑へと消えました。そして、日本の客船の船内に飾られていた、美術作品も、船と共に、海の底へと消えました。客船内に設置された、絵画や装飾パネルは、揺れても落ちない様に頑丈に固定されていた事から、船が、戦争で徴用される際も、取り外して避難させる事が難しかったのだろうと推測されます。これだけの芸術家が客船の室内装飾に協力しながらも、その作品が、現存しない事は、残念であると言えるでしょう。

 

写真以下2枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。




写真左。新田丸(nittamaru。日本の客船。1940年完成)の1等(first class)社交室の乾漆パネル(1940年頃制作。中村 順平(nakamura jyunpei)・松田 権六(matsuda gonroku)作)。中村 順平(nakamura jyunpei)が設計した室内に、後に、人間国宝となる、松田 権六(matsuda gonroku)が、中村 順平(nakamura jyunpei)と共同で、乾漆パネルを制作した。金地に、しだれ柳と川浪の鮮やかな緑色が映える、乾漆パネルは、ゆるい曲線を描き、社交室の前後の四隅に、はめ込まれていた。
写真右下。八幡丸(yawatamaru。日本の客船。1940年完成)の1等社交室の絵画(1940年頃制作。山喜多 二郎太(yayakita jirota)作)。






あるぜんちな丸(Argentina maru。日本の客船。1939年完成)の1等(first class)食堂(dining room・レストラン)の、漆扉(1938年から1939年頃制作。堂本 漆軒作)。村野 藤吾(murano togo)が設計した、あるぜんちな丸(Argentina maru)の1等(first class)食堂(dining room・レストラン)の、背面の造り付け、棚扉部分を、後に文化勲章を受賞する、堂本 漆軒(日本の漆工芸の工芸家)が制作した。あるぜんちな丸(Argentina maru)は、1942年に、日本海軍に買い上げられ、長崎(nagasaki)造船所により、空母へと改造された。その際、家具や調度品は、陸に揚げられた為、幸運にも、漆扉だけは、第二次世界大戦による戦禍を免れた。第二次世界大戦以前の、日本の客船の家具が、ほとんど現存しない為、非常に貴重な資料である。

 

以下、第二次世界大戦以前における、日本の主要な、客船のインテリア(内装)における、日本国内の装飾業者等の活躍について、見て行きたいと思います。

 

(日本の客船のインテリア(内装)において)日本の建築家達が活躍する以前から、日本の客船のインテリア(内装)の設計に、いち早く携わり、高い技術を蓄積して行ったのが、造船所の技師や、デパートの装飾部門の技師達でした。近代における、日本の客船のインテリア(内装)の歴史において、名も無い、彼等の活躍は、見逃す事が出来ません。かつて、川崎(kawasaki)造船所や、三菱(mitsubishi)、長崎(nagasaki)造船所のような、近代的な、高性能・長距離航海向けの客船を手がける、大きな規模の造船所には、船内装飾設計を自社で賄う為に、東京美術学校(東京芸術大学の前身の、高等教育機関)の図案(design)科等を卒業した、装飾設計を学んだ技師が勤務していました。当初は、重要度の低い、客室のインテリア(内装)の設計等が中心であった彼等も、少しずつ、1等(first class)や2等(second class)の公室(乗客の共用場所)の設計を手がける様になりました。橿原丸(kashiharamaru)の建造の頃には、まるで、建築家の設計に勝るとも劣らない様な、1等(first class)公室(乗客の共用場所)の、カラースキームを残すまでになっています。また、デパートの装飾部門の活躍も、素晴らしい物がありました。まだ、日本が、本格的な重工業化を始めてから間もない、豪華客船時代の幕開けの頃から、既に、日本の近代客船のインテリア(内装)の設計に携わっていた、高島屋(Takashimaya。日本のデパートchain。本店は、大阪。1831年、京都で創業したデパートchainで、大阪には、1898年に進出、東京へは、1922年に進出しました)等は、その技術の確かさから、数多くの、日本の客船のインテリア(内装)を手がける事になりました。当時、日本のデパートには、装飾部門が設けられていましたが、彼等は、店頭販売用の家具設計と言うよりは、大きな法人の仕事を請け負う為に、特別に設けられた、デザイン(design)集団でした。当時の日本のデパートの装飾部門は、デパート関係の仕事と言うよりも、現在のデザイン(design)会社の様な仕事を行っていたのです。また、川島(kawashima)織物(1843年創業の、京都の、織物・インテリア(内装)・繊維会社)は、万国博覧会(expo)等で、既に、世界的に高い評価を得て、西洋式の家具や室内装飾設計には、卓越した技術力とデザイン(design)力を誇っていました。まだ、日本が、客船のインテリア(内装)において、イギリスの様な、客船のインテリア(内装)の先進国の装飾業者に頼っていた時代に、この様な、日本国内の装飾業者が活躍していた事実は、注目に値すると言えるでしょう。この様な、名も無き、彼等の、知識や技術の蓄積が土台となり、「現代日本様式」(前々回の投稿を参照)が誕生し、日本の客船のインテリア(内装)の歴史が、紡がれて行ったのです。

 

写真以下2枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。




春日丸(kasugamaru)の1等(first class)喫煙室(smoking room)(高島屋(Takashimaya)の装飾部門が、1940年頃設計)。春日丸(kasugamaru)は、完成を待たずに空母へと改造された、幻の日本の豪華客船です。新田丸(nittamaru。日本の豪華客船。1940年完成)や春日丸(kasugamaru)の建造の頃には、日本の主要な客船の、主要な、1等(first class)の公室(乗客の共有場所)の空間の設計を、高島屋(Takashimaya)の装飾部門や、長崎(nagasaki)造船所の技師達が、手がける様になっています。彼等の設計した、客船の室内空間は、当時の、日本の有名な建築家の物と比較して、決して、見劣りする物ではありません。高い技術とデザイン(design)力を備えていたと言えます。

 




写真左上。新田丸(nittamaru。1940年完成)の1等(first class)食堂(dining room・レストラン)。三菱(mitsubishi)、長崎(nagasaki)造船所設計。
写真右上。新田丸(1940年完成)の一等(first class)特別客室(deluxe room)の椅子。三菱(mitsubishi)、長崎(nagasaki)船所設計。
写真左下。浅間丸(asamamaru。1929年完成。16,947トン(GT)。日本の豪華客船)の一等(first class)特別客室(deluxe room)の居室(living room)。川島(kawashima) 織物設計。
写真右下。浅間丸(asamamaru。1929年完成)の一等(first class)特別客室(deluxe room)の居室(living room)の、綴織パネル原画「桃園天平美人」(1929年)。川島(kawashima)織物制作。

 

以下、再び、日本の客船のインテリア(内装)の歴史の流れに、戻ります。

 

第二次世界大戦により、主要な工業国は、客船のインテリア(内装)と言う文化ではなく、武力そのもので戦う時代に突入しました。1941年から1945年(日本が第二次世界大戦へ参戦する前夜から、日本が、アメリカを中心とした連合国に敗戦するまでの間)にかけて、日本の客船(特に、海外航路向けの高性能客船)の、ほとんどは、日本軍に徴用され、中には、空母に改造された物もありました。第二次世界大戦により、(日本を含む)世界の、豪華客船と呼ばれた船は、ほとんど全滅しました。そして、第二次世界大戦の終結により、豪華客船の時代は、終わりを告げたのです。

 






この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。写真上。橿原丸(kashiharamaru。1942年完成予定)の完成予想図。橿原丸(kashiharamaru。1939年建造開始、1942年完成予定。27,700トン(GT))は、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社が、(1936年にドイツのBerlinで開催された夏季オリンピックに引き続き)1940年に開催されるはずだった、東京オリンピック(Olympics)(夏季Olympics)(第2次世界大戦により中止)の前後に合わせる様に、次々と投入する予定であった、新しい豪華客船の一つで、日本の客船史上、最高の豪華客船となるはずが、就航する事なく、空母、隼鷹(jyunyou)へと改造されました。ちなみに、橿原丸(kashiharamaru)と同級の豪華客船として就航する予定で有った出雲丸(izumomaru)(27,700トン(GT))も、やはり、建造途中で、空母に変更されました(空母、飛鷹(hiyou))。
写真下。橿原丸(kashiharamaru)から改造された、日本海軍の空母、隼鷹(jyunyou)。橿原丸(kashiharamaru)は、1939年に建造を開始し、1942年の完成を予定していた。既に、最終配置図やカラースキームは揃い、一部、工事に着手し始めたばかりであったが、時局の悪化により、完成を待たずに、空母、隼鷹(jyunyou)へと改造された。






第二次世界大戦が終わって、1950年代に入ると、(日本を含み)世界的に、外国への渡航手段の主役は、客船ではなく、飛行機に、とって代わられました。いわゆる豪華客船の時代は、終わりを告げ、日本の客船インテリア(内装)の歴史は、しばらく途絶えてしまう事になります。しかしながら、日本が築いた、独特な、客船のインテリア(内装)様式である、「現代日本様式」(前々回の投稿参照)も、豪華客船時代の消滅と共に、完全に消滅してしまったのかと言うと、決して、そうではありませんでした。第二次世界大戦後から1950年代に建造された、日本の外国航路向けの貨物船には、わずか10数名ですが、乗客を乗せる事が出来ました。その為、細々とではありますが、その様な、貨物船の公室(乗客の共有場所)には、戦前の、日本の客船のインテリア(内装)が、脈々と引き継がれていたのです。船の規模は、随分と小さい物ですが、随所に、日本の伝統的な要素が現れる室内は、豪華客船時代の、日本の客船を彷彿とさせるのに、十分な雰囲気を備えています。




この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。相模丸(1955年完成。日本の貨物船。三菱(mitsubishi)重工業、横浜造船所製)の1等(first class)サロン(乗客が、くつろいだり、交流したりする部屋)。インテリア(内装)を設計したのは、中村 順平(nakamura jyunpei)の弟子である、大泉 博一郎(oizumi hakuichiro。日本の、内装・産業・工業(industrial)デザイナー(designer)。1903年生まれ。1996年に亡くなる)。大泉 博一郎(oizumi hakuichiro)は、第二次世界大戦以前に、中村 順平(nakamura jyunpei。日本の建築家。日本の建築家の中で、第二次世界大戦以前において、日本の大型客船のインテリア(内装)の設計を、最も多く手がけた。前々回の投稿参照)の客船のインテリア(内装)設計を手伝っていた経緯があります。

 

中村 順平(nakamura jyunpei)に学んだ、大泉 博一郎(oizumi hakuichiro)は、東京家政大学の教授等を務めながら、日本における、現代、室内インテリア(内装)の確立に、大きく貢献しました。1968年には、皇居新宮殿(日本の天皇の、東京の、新しい宮殿の建物(現在の宮殿の建物)。1969年完成)の表御座所(天皇が、日常の執務を行う部屋)の家具の設計も行っています。大泉 博一郎(oizumi hakuichiro)の功績で、特筆すべき点は、第二次世界大戦後における、日本の海外航路向けの貨物船のインテリア(内装)の設計です。大泉 博一郎(oizumi hakuichiro)は、1948年に、海の神である、「トリトン(Triton)」と言う名前を冠した、デザイン(design)事務所を、東京都心の銀座(ginza)に開設すると、日本の海外航路向けの貨物船の、室内インテリア(内装)の設計の仕事を数多く受けました。当時の、日本の海外航路向けの貨物船には、約12名程度の、乗客を乗せる事が出来ました。そして、その様な貨物船には、わずかながらも、食堂と喫煙室と言う、乗客の為の、公室(乗客の共有場所)が存在しました。大泉 博一郎(oizumi hakuichiro)は、この、当時の、日本の海外航路向けの貨物船の公室(乗客の共有場所)に、戦前の、日本の客船のインテリア(内装)で学んだ、「現代日本様式」を引き継ごうとしたのです。そして、漆工芸の工芸家と協力し、小さいながらも、素晴らしい、インテリア(内装)を造り上げたのでした。当時、大泉 博一郎(oizumi hakuichiro)が、インテリア(内装)の設計を手がけた、日本の貨物船の数は、分かっているだけでも、14隻以上にのぼります。戦後、装飾を控えた、平坦なモダニズム(modernism)が主流となる中で、大泉 博一郎(oizumi hakuichiro)が設計した、日本の貨物船の室内空間は、まるで、豪華客船時代が蘇ったかのような錯覚を起こさせる、日本の伝統工芸を採用した、手の込んだ物でした。

 

写真以下5枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。





写真上。赤城丸2(1951年完成・日本の貨物船)の食堂。大泉 博一郎(oizumi hakuichiro)設計。







写真右上。トリトン(Triton)室内装飾事務所のロゴ(logo)(中村 順平(nakamura jyunpei)作。1948年)。大泉
博一郎(oizumi hakuichiro)は、師匠である、中村 順平(nakamura jyunpei)に、自身の開設したデザイン(design)事務所のロゴ(logo)のデザイン(design)を描いて貰った。

 





写真左。YAMA(日本の貨物船)の喫煙室カラースキーム(大泉 博一郎(nakamura jyunpei)設計。制作年不詳)。





写真右。YAMA(日本の貨物船)の食堂のカラースキーム(大泉 博一郎(nakamura jyunpei)設計。制作年不詳)。

 


 




駿河丸(1957年完成の、日本の貨物船)の食堂。大泉
博一郎(oizumi hakuichiro)設計。木下 順寛(日本の漆工芸の工芸家)の協力を得て船内装飾設計を行う等、大泉
博一郎(oizumi hakuichiro)は、師匠である、中村 順平(nakamura jyunpei)の意志を、しっかりと引き継いでいた。


 
 

第二次世界大戦後、飛行機の発展と共に、一時期衰退していた、長距離航路向けの客船でしたが、その後、洋上(海の上)での、優雅なクルーズ(客船での旅)を楽しむ為の豪華客船が、先進国を中心として、脚光を浴びる様になりました。現代の日本の豪華客船のインテリア(内装)は、豪華客船時代の、「現代日本様式」の様な、日本の伝統を前面に押し出した表現方法ではありません。しかし、主要な乗客である日本人が、外国でも落ち着ける様な形で、乗客の共有場所には、漆のパネルを始めとする、日本人作家による作品が飾られているのが特徴です。

 

写真以下2枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。




写真上。飛鳥(Asuka。1991年完成。日本(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社)の豪華客船。28,856トン(GT)。三菱(mitsubishi)重工業、長崎(nagasaki)造船所製)。インテリア(内装)の設計は、剣持(kenmochi)デザイン(design)研究所と、スウェーデンの客船デザイナー(designer)が、担当。日本を起点とした世界一周クルーズ(cruise)等を行い、豪華な設備と細やかなサービス(service)で、評判が高かったが、2006年に引退。






写真下。飛鳥2(Asuka2)(2006年就航。日本(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社)の豪華客船。50,142トン(GT)。三菱(mitsubishi)重工業、長崎(nagasaki)造船所製)の船内壁画。飛鳥2(Asuka2)の船内には、田村 能里子(tamura noriko。日本の女性、画家・壁画家。1944年生まれ)による、「花筏」の壁画が飾られて、船内を、一層、華やかにしている。

 

 

日本郵船(Nippon Yusen)株式会社は、1961年に客船事業から、全面撤退しました。しかし、益々、高まるクルーズ(豪華客船の旅)需要を背景に、飛鳥(Asuka)の建造計画を立ち上げました。そして、飛鳥(Asuka。1991年完成)の完成と共に、客船事業の復活を果たしました。剣持(kenmochi)デザイン(design)研究所は、日本の伝統と合理性を重んじた、ジャパニーズモダン(Japanese modern)の提唱者として知られる、剣持 勇(kenmochi isamu。日本の有名な、工業(industrial)デザイナー(designer)。1912年生まれ。1971年に亡くなる。1950年代から1960年代にかけて活躍)が、1955年に設立した、デザイン(design)会社です。この剣持(kenmochi)デザイン(design)研究所が、スウェーデンの客船デザイナー(designer)と共に、飛鳥(Asuka。1991年完成)のインテリア(内装)の設計を手がけています。これは、日本航空(JAL。日本の2大航空会社の一つ。かつての、日本のflag carrier)のBoeing 747 旅客機や、JR東日本(1987年に、日本国有鉄道が、分割民営化された際に、生まれた会社の一つ。日本最大の鉄道会社)の特急(express)スーパーひたち(super hitachi)の車両等の室内設計を手がけていた、剣持(kenmochi)デザイン(design)研究所の実績を、三菱(mitsubishi)重工業、長崎(nagasaki)造船所と日本郵船(Nippon Yusen)が、高く評価した結果でした。加えて、豪華客船時代の、橿原丸(kashiharamaru)(前々回の投稿参照)の様に、日本の伝統文化を引き継いだ豪華客船を造りたいと言う、船主(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社)の思いも、少なからず、影響していました。約10年の、飛鳥(Asuka)の構想期間中、日本郵船(Nippon Yusen)では、内装については、様々な議論がなされました。当初は、第二次世界大戦中に、幻と消えた、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の歴史上のみならず、日本の客船の歴史上、最高の豪華客船、橿原丸(kashiharamaru)へのオマージュ(敬意)として、「現代日本様式」の採用が検討されました。しかし、消防法、コスト(cost)等の様々な制約、そして、現代性に欠けると言った理由から見送られる事となりました。そして、最終的に、飛鳥(Asuka)のインテリア(内装)は、華やかさを重視した現代的な内装に、随所に、漆や壁画、そして、日本人作家による美術作品を組み込む手法が選択されました。客船のインテリア(内装)の、世界的な流行を踏襲しながらも、飛鳥(Asuka)が、どこか、日本の豪華客船らしい、ぬくもりを放つは、その為です。この様な、インテリア(内装)は、飛鳥2(Asuka2)(2006年就航)にも、引き継がれています。

 

 


写真以下2枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。





飛鳥(Asuka。日本(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社)の豪華客船。1991年完成)のメインダイニングルーム(main dining room。客船の中心的なレストラン)。剣持(kenmochi)デザイン(design)研究所設計。






写真上。飛鳥(Asuka)の壁画。「季の奏」。1991年。田村 能里子(tamura noriko。日本の女性、画家・壁画家。1944年生まれ)作。他にも、富永 直樹の彫刻、榎木 啓の漆絵、高岡 雨星の書(calligraphy)等、多くの、日本人artistの美術作品が、飛鳥(Asuka)の船内を華やかに彩っていた。
写真下。飛鳥(Asuka。1991年完成。日本の豪華客船)のリド・カフェ(Lido Cafe)(剣持(kenmochi)デザイン(design)研究所設計)。




「現代日本伝統様式(戦前日本の客船の内装)他」、終わり。



현대 일본 전통 님 식(전쟁 전 일본의 여객선의 내장) 외 4




이하, 기본적으로 앞에 간 투고로부터 발췌해 온 것입니다.


요코하마를 산책해 왔을 때의 물건입니다.요코하마는, 도쿄 area의 바다의 현관문(gateway)이 되고 있는, 큰 항구도시입니다.이 날은, 요코하마의, 칸나이(kannai) area에 있는 일본우선(Nippon Yusen) 역사 박물관에서, 일본의 여객선의, 인테리어(내장)의 역사에 관한, 전람회(exhibition)를 보고 왔습니다.


이 전람회(exhibition)는, 주로, 제이차 세계대전전의, 일본의 여객선의, 인테리어(내장)에 있어서의, 일본의 건축가의 활약에 초점을 맞힌 전람회(exhibition)였습니다.



이하, 이하의 투고의 계속입니다.

현대 일본 전통 님 식(전쟁 전 일본의 여객선의 내장) 외 3→

https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_26/view/id/3755465?&sfl=membername&stx=nnemon2




이하, 이 전람회(exhibition)의 설명은, 주로, 이 전람회(exhibition)의 팜플렛(booklet)의 문장을, 요약 또는 발췌·인용한 것입니다.



전회까지의 투고에서는, (주로, 제이차 세계대전 이전에 있어서의), 일본의, 저명한 건축가들의, 일본의 여객선의 인테리어(내장)의 설계에 있어서의 구체적인 활약에 대해서, 보고 왔습니다만, 이하, 제이차 세계대전 이전에 있어서의 일본의 주요한 여객선의 인테리어(내장)에 있어서의, 일본의 예술가들의 협력에 대해서 보고 가고 싶습니다.



사토 무조(sato takezo.일본의 화가·옻나무 공예의 공예가)는, 쿠메(kume) 건축 사무소(쿠메권 쿠로우(kume gonkuro.일본의 건축가.전전번의 투고를 참조)의 건축설계사무소와 함께, 일본의 여객선의 인테리어(내장)의 설계를 실시하고 있었습니다.현존 하는, 쿠메(kume) 건축 사무소의 칼라 스킴은, 모두, 사토 무조(sato takezo)의 손에 의한 것입니다(쿠메권 쿠로우(kume gonkuro)와 사토 타케시조(sato takezo)는, 옛부터, 친한 친구 관계에 있었습니다).이와 같게, 그 나라의 문화의 상징이라고도 말할 수 있는, 당시의 공업국의, 국제 항로 전용의 호화 여객선의 인테리어(내장)의 설계에는, 화가나 공예가의 협력도 필수였습니다.덧붙여서, 1932년부터 1939년에 걸치고(1939년, 제이차 세계대전의 발발에 의해, 일본에 귀국), 영국의 런던을 거점으로 활동하고 있던, 사토 무조(sato takezo)는, 당시 , 세계 최고의 호화 여객선 대국인, 영국의 호화 여객선의 선내 장식 설계도 다루고 있습니다.당시의, 유럽에서는, 저패니즘(Japonism.19 세기 후반부터 20 세기 처음에 걸치고, 만국 박람회(expo) 등을 통해서, 일본의 미술 공예품이, 구미(특히 유럽)에서 소개되어 대유행한 현상.「일본 취미」라고도 불려 이것들은, 서양 미술에도, 큰 영향을 주었다)의 영향에 의해, 옻나무의 공예품이 유행하고 있었습니다.이그조틱(exotic)으로, 외형에도 화려한 옻나무는, 유럽의 여객선으로도, 인기를 끌었습니다(예로서 프랑스의 호화 여객선, Normandie호(Normandie.1935년 완성.79,280 총 톤수(GT).완성 당시 , 세계 최대의 여객선) 등에는, 쟌·듀난(Jean Dunand.옻나무 공예로 유명한, 스위스의 공예가) 제작의, 옻나무 패널이, 다수, 내걸 수 있고 있다).영국의 호화 여객선, 퀸·메리호(Queen Mary.1936년 완성.81,237 총 톤수(GT).완성 당시 , 세계 최대의 여객선이 될 것에서 만났지만, Normandie가, 개장되어 83,423 총 톤수(GT)가 되어 있던 때문, 완성 당시 , 세계에서 2번째로 큰 여객선.어느 쪽으로 해도, 호화 여객선 시대(제이차 세계대전전)에 있어서의, 세계 최대급의 여객선이었다)의 1등 (first class) 살롱(salon)의 캐비넷(cabinet)의 옻나무의 금칠한 그림(makie.일본의 옻나무 공예의 하나)로 호평을 얻었다(사토 타케시조(sato takezo)의 작품의 전시회를 본, 런던의 대규모 실내장식 회사가, 퀸·메리호(Queen Mary)에 장식하는 캐비넷(cabinet)의 장식을, 사토 타케시조(sato takezo)에 의뢰해 온), 사토 타케시조(sato takezo) 앞으로는, 영국등의 호화 여객선의 실내장식 설계의 의뢰가, 차례차례로 춤추었습니다.「현대 일본 님 식」의 주요한 구성요소라고 할 수 있는 옻나무의 패널이, 서양의 호화 여객선에 대해도, 다용되고 있던 일은, 몹시 흥미롭다고 말할 수 있겠지요.





이 전람회(exhibition)의 팜플렛(booklet)보다.사진 좌상.도미니온·모나크(Dominion Monarch.1939년 완성.영국의 호화 여객선.27,155톤 (GT).남아프리카 연방(현재의 남아프리카공화국)을 경유해, 영국과 오스트레일리아를 연결하는 항로의 호화 여객선으로서 건조되었다.영국과 오스트레일리아를 연결하는 항로의 여객선으로, 사상, 최대 한편, 가장 호화로운 여객선이었다)의 드로잉 룸(drawing room)의 장식(1939년제작.사토 타케시조(sato takezo) 작).
사진 우상.선명, 선실 불명(사토 타케시조(sato takezo) 작.1940년경으로 추측된다).우하에, 쿠메(kume) 건축 사무소의 표가 날인 되고 있다.깊은 신뢰 관계아래, 공동으로 설계하고 있던 일이, 방문한다.
사진하.카시하라환(kashiharamaru) 1등 (first class) 독서실의 옻나무 패널 습작(1940년경 제작.사토 타케시조(sato takezo) 작).쿠메권 쿠로우(kume gonkuro)와 함께 설계한 일실.



일본의 호화 여객선의 인테리어(내장)의 설계에는, 건축가에 가세하고, 화가, 공예가등 , 당시의 일본을 대표하는, 일류의 예술가들이 집결 당했습니다.다만, 화가나 공예가의 경우는, 대부분, 내장의 공간 그 물건에 관련된다고 하는 것보다는, 자신의 회화를 벽면 패널로서 제공해, 실내 공간의 일부를 장식하는 일로, 선내에 흥취를 더한다고 말하는 것이, 일반적이었습니다.예를 들면, 마츠다 군페이(matsuda gunpei.일본의 건축가.전회의 투고 참조)가, 설계한, 야와타환(yawatamaru.일본의 여객선.1940년 완성.17,150 총 톤수(GT))의 일등(first class) 사교실에는, 야마키타 지로우타(yayakita jirota.일본의 화가)에 의한 거대한 벽화, 「원유도」가 장식되어보다 선내를 화려하게, 그리고, 일본 취미 넘치는 공간에, 연출하고 있습니다.또, 촌야 토우고(murano togo)가 설계한, 환(BRASIL maru.일본의 여객선.1939년 완성.12,752톤(GT))의, 1등 (first class) 사교실에서는, 야마가 세이카(yamaga seika 일본의 염색가)의 호화현난인 직지가 벽면을 장식해, 나카무라순평(nakamura jyunpei)가 설계한, 닛타환(nittamaru.1940년 완성.17,150 총 톤수(GT).일본의 여객선)의 1등 (first class) 사교실에서는, 마쓰다 곤로쿠(matsuda gonroku.일본의 옻나무 공예의 공예가)에 의한, 수양버들과 천랑의 서북옻나무 패널이, 요염한 실내 공간을 낳고 있습니다.또, 유감스럽지만, 사진마저도 현존 하지 않습니다만, 후지타 상속인치(fujita tsuguharu)(1886 년생, 1968년에 죽는다.1920년대부터, 세계적인 명성을 얻은, 일본의 유명한 서양화가.만년(1955년)에는, 프랑스 국적을 취득)도, 텐잔환(tenzanmaru.일본의 여객선.1942년 완성.7,908 총 톤수(GT))의 선내에, 천산 산맥을 그린 회화를 제공했다고 말해지고 있습니다.또, 확실하지는 않습니다만, 1940년에 완성한, 닛타환(nittamaru)에도, 후지타 상속인치(fujita tsuguharu)의 회화가 장식될 예정이 있었다고 전해지고 있습니다.덧붙여서, 여객선이 아닙니다만, 일본해군의 전함, 무사시(musashi.기준 65,000톤.가득 72,809톤.1942년 완성.같은 일본해군의, 다이와(yamato.1941년 완성)과 함께, 세계의 역사상, 최대의 전함)의 함장실에, 요코야마 대관(yokoyama taikan.일본의, 유명한 근대 일본 전통 화가)가 그린, 먹일색의, 후지산의 축이 장식되어 있었습니다.제이차 세계대전에 의해, 일본의, 대부분의 여객선(특히, 여객선 중(안)에서도, 비교적 고성능으로, 비교적 대형인, 해외 항로 전용의 호화 여객선에 관해서는, 거의 모두)이 격침되어 바다의 말 부스러기로 사라졌습니다.그리고, 일본의 여객선의 선내에 장식되어 있던, 미술 작품도, 배와 함께, 바다의 바닥으로 사라졌습니다.여객선내에 설치된, 회화나 장식 패널은, 흔들려도 떨어지지 않게 튼튼하게 고정되고 있던 일로부터, 배가, 전쟁으로 징용 될 때도, 떼어내 피난시키는 것이 어려웠을 것이다라고 추측됩니다.이만큼의 예술가가 여객선의 실내장식에 협력하면서도, 그 작품이, 현존 하지 않는 것은, 유감이다라고 말할 수 있겠지요.



사진 이하 2매.이 전람회(exhibition)의 팜플렛(booklet)보다...




사진왼쪽.닛타환(nittamaru.일본의 여객선.1940년 완성)의 1등 (first class) 사교실의 서북옻나무 패널(1940년경 제작.나카무라순 히로시(nakamura jyunpei)·마쓰다 곤로쿠(matsuda gonroku) 작).나카무라순평(nakamura jyunpei)이 설계한 실내에, 후에, 인간 문화재가 되는, 마쓰다 곤로쿠(matsuda gonroku)가, 나카무라순평(nakamura jyunpei)와 공동으로, 서북옻나무 패널을 제작했다.금지에, 수양버들과 천랑의 선명한 녹색이 빛나는, 서북옻나무 패널은, 느슨한 곡선을 그려, 사교실의 전후의 네 귀퉁이에, 끼워 넣어지고 있었다.
사진 우하.야와타환(yawatamaru.일본의 여객선.1940년 완성)의 1등 사교실의 회화(1940년경 제작.야마키타 지로우타(yayakita jirota) 작).






있다 완치인 환(Argentina maru.일본의 여객선.1939년 완성)의 1등 (first class) 식당(dining room·레스토랑)의, 옻나무문(1938년부터 1939년경 제작.도오모토 옻나무헌작).무라노 도고(murano togo)가 설계한, 있다 완치인 환(Argentina maru)의 1등 (first class) 식당(dining room·레스토랑)의, 배면의 만들어 붙여 붕비부분을, 후에 문화 훈장을 수상하는, 도오모토 옻나무채(일본의 옻나무 공예의 공예가)가 제작했다.있다 완치인 환(Argentina maru)는, 1942년에, 일본해군에 매입할 수 있어 나가사키(nagasaki) 조선소에 의해, 항공 모함으로 개조되었다.그 때, 가구나 일상 생활 용품은, 육지에 올릴 수 있었던 때문, 행운에도, 옻나무문만은, 제이차 세계대전에 의한 전화를 면했다.제이차 세계대전 이전의, 일본의 여객선의 가구가, 거의 현존 하지 않기 때문에, 매우 귀중한 자료이다.



이하, 제이차 세계대전 이전에 있어서의, 일본의 주요한, 여객선의 인테리어(내장)에 있어서의, 일본내의 장식 업자등의 활약에 대해서, 보고 가고 싶습니다.



(일본의 여객선의 인테리어(내장)에 대해) 일본의 건축가들이 활약하기 이전으로부터, 일본의 여객선의 인테리어(내장)의 설계에, 재빨리 종사해, 높은 기술을 축적해서 간 것이, 조선소의 기사나, 백화점의 장식 부문의 기사들이었습니다.근대에 있어서의, 일본의 여객선의 인테리어(내장)의 역사에 있고, 이름도 없는, 그들의 활약은, 놓칠 수가 없습니다.일찌기, 카와사키(kawasaki) 조선소나, 미츠비시(mitsubishi), 나가사키(nagasaki) 조선소와 같은, 근대적인, 고성능·장거리 항해 전용의 여객선을 다루는, 큰 규모의 조선소에는, 선내 장식 설계를 자사에서 조달하기 위해, 도쿄 미술 학원(도쿄 예술대학의 전신?`후, 고등교육 기관)의 도안(design) 과등을 졸업한, 장식 설계를 배운 기사가 근무하고 있었습니다.당초는, 중요도의 낮은, 객실의 인테리어(내장)의 설계등이 중심인 그들도, 조금씩, 1등 (first class)나 2등 (second class)의 공실(승객의 공용 장소)의 설계를 다루는 것처럼 되었습니다.카시하라환(kashiharamaru)의 건조의 무렵에는, 마치, 건축가의 설계에 우수한다고도 뒤떨어지지 않는 님, 1등 (first class) 공실(승객의 공용 장소)의, 칼라 스킴을 남기기까지 되어 있습니다.또, 백화점의 장식 부문의 활약도, 훌륭한 것이 있었습니다.아직, 일본이, 본격적인 중공업화를 시작하고 나서 얼마 되지 않은, 호화 여객선 시대의 개막의 무렵부터, 이미, 일본의 근대 여객선의 인테리어(내장)의 설계에 종사하고 있던, 다카시마야(Takashimaya.일본의 백화점 chain.본점은, 오사카.1831년, 쿄토에서 창업한 백화점 chain로, 오사카에는, 1898년에 진출, 도쿄에는, 1922년에 진출했습니다) 등은, 그 기술의 확실함으로부터, 수많은 , 일본의 여객선의 인테리어(내장)를 다루는 일이 되었습니다.당시 , 일본의 백화점에는, 장식 부문이 설치되고 있었습니다만, 그들은, 매장판매용의 가구 설계라고 말하는 것보다는, 큰 법인의 일을 하청받기 위해, 특별히 설치된, 디자인(design) 집단이었습니다.당시의 일본의 백화점의 장식 부문은, 백화점 관계의 일이라고 말하는 것보다도, 현재의 디자인(design) 회사와 같은 일을 실시하고 있었습니다.또, 카와시마(kawashima) 직물(1843년 창업의, 쿄토의, 직물·인테리어(내장)·섬유 회사)는, 만국 박람회(expo) 등에서, 이미, 세계적으로 높은 평가를 얻고, 서양식의 가구 (이)나 실내장식 설계에는, 탁월한 기술력과 디자인(design) 력을 자랑하고 있었습니다.아직, 일본이, 여객선의 인테리어(내장)에 대하고, 영국과 같은, 여객선의 인테리어(내장)의 선진국의 장식 업자에게 의지하고 있었던 시대에, 이와 같은, 일본내의 장식 업자가 활약하고 있던 사실은, 주목할 만한다고 말할 수 있겠지요.이와 같은, 이름도 없는 것, 그들의, 지식이나 기술의 축적이 토대가 되어, 「현대 일본 님 식」(전전번의 투고를 참조)이 탄생해, 일본의 여객선의 인테리어(내장)의 역사가, 뽑아져서 갔습니다.



사진 이하 2매.이 전람회(exhibition)의 팜플렛(booklet)보다...




봄날환(kasugamaru)의 1등 (first class) 흡연실(smoking room)(다카시마야(Takashimaya)의 장식 부문이, 1940년경 설계).봄날환(kasugamaru)은, 완성을 기다리지 않고 항공 모함으로 개조된, 환상의 일본의 호화 여객선입니다.닛타환(nittamaru.일본의 호화 여객선.1940년 완성)이나 봄날환(kasugamaru)의 건조의 무렵에는, 일본의 주요한 여객선의, 주요한, 1등 (first class)의 공실(승객의 공유 장소)의 공간의 설계를, 다카시마야(Takashimaya)의 장식 부문이나, 나가사키(nagasaki) 조선소의 기사들이, 다루는 것처럼 되어 있습니다.그들의 설계한, 여객선의 실내 공간은, 당시의, 일본의 유명한 건축가의 물건과 비교하고, 결코, 열등하는 것이 아닙니다.높은 기술과 디자인(design) 력을 갖추고 있었다고 말할 수 있습니다.




사진 좌상.닛타환(nittamaru.1940년 완성)의 1등 (first class) 식당(dining room·레스토랑).미츠비시(mitsubishi), 나가사키(nagasaki) 조선소 설계.
사진 우상.닛타환(1940년 완성)의 일등(first class) 특별 객실(deluxe room)의 의자.미츠비시(mitsubishi), 나가사키(nagasaki) 후나도코로 설계.
사진 좌하.아사마환(asamamaru.1929년 완성.16,947톤(GT).일본의 호화 여객선)의 일등(first class) 특별 객실(deluxe room)의 거실(living room).카와시마(kawashima) 직물 설계.
사진 우하.아사마환(asamamaru.1929년 완성)의 일등(first class) 특별 객실(deluxe room)의 거실(livingroom)의, 철직패널 원화 「모모조노 나라시대의 연호 미인」(1929년).카와시마(kawashima) 직물 제작.



이하, 다시, 일본의 여객선의 인테리어(내장)의 역사의 흘러에, 돌아옵니다.



제이차 세계대전에 의해, 주요한 공업국은, 여객선의 인테리어(내장)라고 하는 문화가 아니고, 무력 그 자체로 싸우는 시대에 돌입했습니다.1941년부터 1945년(일본이 제이차 세계대전에 참전하는 전야부터, 일본이, 미국을 중심으로 한 연합국에 패전할 때까지 )에 걸치고, 일본의 여객선(특히, 해외 항로 전용의 고성능 여객선)의, 대부분은, 일본군에 징용 되어 안에는, 항공 모함에 개조된 것도 있었습니다.제이차 세계대전에 의해, (일본을 포함한다) 세계의, 호화 여객선으로 불린 배는, 거의 전멸 했습니다.그리고, 제이차 세계대전의 종결에 의해, 호화 여객선의 시대는, 마지막을 고했습니다.







이 전람회(exhibition)의 팜플렛(booklet)보다.사진상.카시하라환(kashiharamaru.1942년 완성 예정)의 완성 예상도.카시하라환(kashiharamaru.1939년 건조 개시, 1942년 완성 예정.27,700톤(GT))은, 일본우선(Nippon Yusen) 주식회사가, (1936년에 독일의 Berlin로 개최된 하계 올림픽에 계속해) 1940년에 개최될 것이었다, 도쿄 올림픽(Olympics)(하계 Olympics)( 제2차 세계대전에 의해 중지)의 전후에 맞추는 것처럼, 차례차례로 투입할 예정인, 새로운 호화 여객선의 하나로, 일본의 여객선 사상, 최고의 호화 여객선이 될 리가, 취항하는 무사히, 항공 모함, 하야부사매(jyunyou)로 개조되었습니다.덧붙여서, 카시하라환(kashiharamaru)과 동급의 호화 여객선으로서 취항할 예정으로 있던 이즈모환(izumomaru)(27700톤(GT))도, 역시, 건조 도중에, 항공 모함으로 변경되었습니다(항공 모함, 비응(hiyou)).
사진하.카시하라환(kashiharamaru)으로부터 개조된, 일본해군의 항공 모함, 하야부사매(jyunyou).카시하라환(kashiharamaru)은, 1939년에 건조를 개시해, 1942년의 완성을 예정하고 있었다.이미, 최종 배치도나 칼라 스킴은 갖추어져, 일부, 공사에 착수하기 시작했던 바로 직후에서 만났지만, 시국의 악화에 의해, 완성을 기다리지 않고 , 항공 모함, 하야부사매(jyunyou)로 개조되었다.






제이차 세계대전이 끝나고, 1950년대에 들어오면, (일본을 포함해) 세계적으로, 외국에의 도항 수단의 주역은, 여객선이 아니고, 비행기에, 대신해졌습니다.이른바 호화 여객선의 시대는, 마지막을 고해 일본의 여객선 인테리어(내장)의 역사는, 당분간 끊어져 버리는 일이 됩니다.그렇지만, 일본이 쌓아 올린, 독특한, 여객선의 인테리어(내장) 님 식인, 「현대 일본 님 식」(전전번의 투고 참조)도, 호화 여객선 시대의 소멸과 함께, 완전하게 소멸하게 되었는지라고 말하면, 결코, 그렇지는 않았습니다.제이차 세계대전 후부터 1950년대에 건조된, 일본의 외국항로 전용의 화물선에는, 불과 10수명입니다만, 승객을 태울 수가 있었습니다.그 때문에, 세들과는 있어요가, 그 님, 화물선의 공실(승객의 공유 장소)에는, 전쟁 전의, 일본의 여객선의 인테리어(내장)가, 맥들과 인계되고 있었습니다.배의 규모는, 상당히 작은 것입니다만, 여기저기에, 일본의 전통적인 요소가 나타나는 실내는, 호화 여객선 시대의, 일본의 여객선을 방불과 시키는데, 충분한 분위기를 갖추고 있습니다.




이 전람회(exhibition)의 팜플렛(booklet)보다.사가미환(1955년 완성.일본의 화물선.미츠비시(mitsubishi) 중공업, 요코하마 조선소제)의 1등 (first class) 살롱(승객이, 느긋하게 쉬거나 교류하거나 하는 방).인테리어(내장)를 설계한 것은, 나카무라순평(nakamura jyunpei)의 제자인, 오이즈미 하쿠이치로우(oizumi hakuichiro.일본의, 내장·산업·공업(industrial) 디자이너(designer).1903 년생.1996년에 죽는다).오이즈미 하쿠이치로우(oizumi hakuichiro)는, 제이차 세계대전 이전에, 나카무라순평(nakamura jyunpei.일본의 건축가.일본의 건축가중에서, 제이차 세계대전 이전에 있고, 일본의 대형 여객선의 인테리어(내장)의 설계를, 가장 많이 다루었다.전전번의 투고 참조)의 여객선의 인테리어(내장) 설계를 돕고 있던 경위가 있어요.



나카무라 순평(nakamura jyunpei)에 배운, 오이즈미 하쿠이치로우(oizumi hakuichiro)는, 도쿄 가정대학의 교수등을 맡으면서, 일본에 있어서의, 현대, 실내 인테리어(내장)의 확립에, 크게 공헌했습니다.1968년에는, 황궁 싱구전(일본의 천황의, 도쿄의, 새로운 궁전의 건물(현재의 궁전의 건물).1969년 완성)의 겉(표) 거실(천황이, 일상의 집무를 실시하는 방)의 가구의 설계도 가고 있습니다.오이즈미 하쿠이치로우(oizumi hakuichiro)의 공적으로, 특필해야 할 점은, 제이차 세계대전 후에 있어서의, 일본의 해외 항로 전용의 화물선의 인테리어(내장)의 설계입니다.오이즈미 하쿠이치로우(oizumi hakuichiro)는, 1948년에, 바다의 신인, 「새 톤(Triton)」이라고 하는 이름을 씌운, 디자인(design) 사무소를, 도쿄도심의 긴자(ginza)에 개설하면, 일본의 해외 항로 전용의 화물선의, 실내 인테리어(내장)의 설계의 일을 많이 받았습니다.당시의, 일본의 해외 항로 전용의 화물선에는, 약 12명 정도의, 승객을 태울 수가 있었습니다.그리고, 그 님화물선에는, 조금이나마, 식당과 흡연실이라고 말하는, 승객을 위한, 공실(승객의 공유 장소)이 존재했습니다.오이즈미 하쿠이치로우(oizumi hakuichiro)는, 이, 당시의, 일본의 해외 항로 전용의 화물선의 공실(승객의 공유 장소)에, 전쟁 전의, 일본의 여객선의 인테리어(내장)로 배운, 「현대 일본 님 식」을 계승하려고 했습니다.그리고, 옻나무 공예의 공예가와 협력해, 작으면서, 훌륭한, 인테리어(내장)를 완성시켰던 것입니다.당시 , 오이즈미 하쿠이치로우(oizumi hakuichiro)가, 인테리어(내장)의 설계를 다룬, 일본의 화물선의 수는, 알고 있는 것만으로도, 14척 이상에 달합니다.전후, 장식을 가까이 둔, 평탄한 모더니즘(modernism)이 주류가 되는 가운데, 오이즈미 하쿠이치로우(oizumi hakuichiro)가 설계한, 일본의 화물선의 실내 공간은, 마치, 호화 여객선 시대가 소생한 것 같은 착각을 일으키게 하는, 일본의 전통 공예를 채용한, 공이 많이 든 것이었습니다.



사진 이하 5매.이 전람회(exhibition)의 팜플렛(booklet)보다...





사진상.아카기환 2(1951년 완성·일본의 화물선)의 식당.오이즈미 하쿠이치로우(oizumi hakuichiro) 설계.







사진 우상.새 톤(Triton) 실내장식 사무소의 로고(logo)(나카무라순평(nakamura jyunpei) 작.1948년).오이즈미 하쿠이치로우(oizumi hakuichiro)는, 스승인, 나카무라순평(nakamura jyunpei)에, 자신의 개설한 디자인(design) 사무소의 로고(logo)의 디자인(design)을 그려 받았다.





사진왼쪽.YAMA(일본의 화물선)의 흡연실 칼라 스킴(오이즈미 하쿠이치로우(nakamura jyunpei) 설계.제작년 미상).





사진 오른쪽.YAMA(일본의 화물선)의 식당의 칼라 스킴(오이즈미 하쿠이치로우(nakamura jyunpei) 설계.제작년 미상).





스루가환(1957년 완성의, 일본의 화물선)의 식당.오이즈미 하쿠이치로우(oizumi hakuichiro) 설계.키노시타순관(일본의 옻나무 공예의 공예가)의 협력을 얻어 선내 장식 설계를 실시하는 등 , 오이즈미 하쿠이치로우(oizumi hakuichiro)는, 스승인, 나카무라순평(nakamura jyunpei)의 의지를, 제대로 계승하고 있었다.





제이차 세계대전 후, 비행기의 발전과 함께, 한시기 쇠퇴하고 있던, 장거리 항로 전용의 여객선이었지만, 그 후, 해상(바다 위)으로의, 우아한 크루즈(여객선으로의 여행)를 즐기기 때문에(위해)의 호화 여객선이, 선진국을 중심으로서 각광을 받는 것처럼 되었습니다.현대의 일본의 호화 여객선의 인테리어(내장)는, 호화 여객선 시대의, 「현대 일본 님 식」과 같은, 일본의 전통을 전면에 밀어 낸 표현 방법이 아닙니다.그러나, 주요한 승객인 일본인이, 외국에서도 안정시키는 님형태로, 승객의 공유 장소에는, 옻나무의 패널을 시작으로 하는, 일본인 작가에 의한 작품이 장식되어 있는 것이 특징입니다.



사진 이하 2매.이 전람회(exhibition)의 팜플렛(booklet)보다...




사진상.아스카(Asuka.1991년 완성.일본(일본우선(Nippon Yusen) 주식회사)의 호화 여객선.28,856톤(GT).미츠비시(mitsubishi) 중공업, 나가사키(nagasaki) 조선소제).인테리어(내장)의 설계는, 켄모치(kenmochi) 디자인(design) 연구소와 스웨덴의 여객선 디자이너(designer)가, 담당.일본을 기점으로 한 세계일주 크루즈(cruise) 등을 실시해, 호화로운 설비와 자그마한 서비스(service)로, 평판이 높았지만, 2006년에 은퇴.






사진하.아스카 2(Asuka2)(2006년 취항.일본(일본우선(Nippon Yusen) 주식회사)의 호화 여객선.50,142톤(GT).미츠비시(mitsubishi) 중공업, 나가사키(nagasaki) 조선소제)의 선내 벽화.아스카 2(Asuka2)의 선내에는, 타무라 능수양 자식(tamura noriko.일본의 여성, 화가·벽화가.1944 년생)에 의한, 「층층나무과의 낙엽저목」의 벽화가 장식되고, 선내를, 한층, 화려하게 하고 있다.





일본우선(Nippon Yusen) 주식회사는, 1961년에 여객선 사업으로부터, 전면 철퇴했습니다.그러나, 더욱 더, 높아지는 크루즈(호화 여객선의 여행) 수요를 배경으로, 아스카(Asuka)의 건조 계획을 시작했습니다.그리고, 아스카(Asuka.1991년 완성)의 완성과 함께, 여객선 사업의 부활을 완수했습니다.켄모치(kenmochi) 디자인(design) 연구소는, 일본의 전통과 합리성을 존중한, 재패니스 모던(Japanese modern)의 제창자로서 알려진, 겐모치 이사무(kenmochi isamu.일본의 유명한, 공업(industrial) 디자이너(designer).1912 년생.1971년에 죽는다.1950년대부터 1960년대에 걸쳐 활약)이, 1955년에 설립한, 디자인(design) 회사입니다.이 켄모치(kenmochi) 디자인(design) 연구소가, 스웨덴의 여객선 디자이너(designer)와 함께, 아스카(Asuka.1991년 완성)의 인테리어(내장)의 설계를 다루고 있습니다.이것은, 일본 항공(JAL.일본의 2대항공 회사의 하나.한 때의, 일본의 flag carrier)의 Boeing 747 여객기나, JR동일본(1987년에, 일본 국유철도가, 분할 민영화되었을 때에, 태어난 회사의 하나.일본 최대의 철도 회사)의 특급(express) 슈퍼히들(super hitachi)의 차량등의 실내 설계를 다루고 있던, 켄모치(kenmochi) 디자인(design) 연구소의 실적을, 미츠비시(mitsubishi) 중공업, 나가사키(nagasaki) 조선소와 일본우선(Nippon Yusen)가, 높게 평가한 결과였습니다.더하고, 호화 여객선 시대의, 카시하라환(kashiharamaru)(전전번의 투고 참조)와 같이, 일본의 전통 문화를 계승한 호화 여객선을 만들고 싶다고 하는, 선주(일본우선(Nippon Yusen) 주식회사)의 생각도, 많이, 영향을 주고 있었습니다.약 10년의, 아스카(Asuka)의 구상 기간중, 일본우선(Nippon Yusen)에서는, 내장에 대해서는, 님 들인 논의가 이루어졌습니다.당초는, 제이차 세계대전중에, 환상과 사라진, 일본우선(Nippon Yusen) 주식회사의 역사상 뿐만 아니라, 일본의 여객선의 역사상, 최고의 호화 여객선, 카시하라환(kashiharamaru)에의 존경(경의)으로서 「현대 일본 님 식」의 채용이 검토되었습니다.그러나, 소방법, 코스트(cost) 등의 님 들인 제약, 그리고, 현대성이 부족하다고 한 이유로부터 보류되는 일이 되었습니다.그리고, 최종적으로, 아스카(Asuka)의 인테리어(내장)는, 화려함을 중시한 현대적인 내장에, 여기저기에, 옻나무나 벽화, 그리고, 일본인 작가에 의한 미술 작품을 짜넣는 수법이 선택되었습니다.여객선의 인테리어(내장)의, 세계적인 유행을 답습하면서도, 아스카(Asuka)가, 어딘가, 일본의 호화 여객선인것 같은, 온기를 발하고는, 그 때문입니다.이와 같은, 인테리어(내장)는, 아스카 2(Asuka2)(2006년 취항)에도, 인계되고 있습니다.






사진 이하 2매.이 전람회(exhibition)의 팜플렛(booklet)보다...





아스카(Asuka.일본(일본우선(Nippon Yusen) 주식회사)의 호화 여객선.1991년 완성)의 메인 식당(main dining room.여객선의 중심적인 레스토랑).켄모치(kenmochi) 디자인(design) 연구소 설계.






사진상.아스카(Asuka)의 벽화.「계의 주」.1991년.타무라 능수양 자식(tamura noriko.일본의 여성, 화가·벽화가.1944 년생) 작.그 밖에도, 토미나가나오키의 조각, 에노키계의 풍속도 판화, 타카오카 우성의 책(calligraphy) 등 , 많은, 일본인 artist의 미술 작품이, 아스카(Asuka)의 선내를 화려하게 물들이고 있었다.
사진하.아스카(Asuka.1991년 완성.일본의 호화 여객선)의 리드·카페(Lido Cafe)(켄모치(kenmochi) 디자인(design) 연구소 설계).




「현대 일본 전통 님 식(전쟁 전 일본의 여객선의 내장) 외」, 마지막.




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