食べ物

 

 

1年強程前の事になりますが、去年の10月の前半に、横浜を散歩して来た時の物です。横浜は、東京areaの海の玄関口(gateway)となっている、大きな港町です。この日は、横浜の、関内(kannai)area(横浜の都心部に有る、横浜の古くからの中心ビジネス(business)地区)にある日本郵船(Nippon Yusen)歴史博物館(前々回の投稿参照)で、日本の客船の、インテリア(内装)の歴史に関する、展覧会(exhibition)を見て来ました。

 

この展覧会(exhibition)は、主として、第二次世界大戦前の、日本の客船の、インテリア(内装)における、日本の建築家の活躍に焦点を当てた展覧会(exhibition)でした。

 

以下、横浜散歩&食べ物2からの続き。。。

 

以下、この展覧会(exhibition)に関する説明の続きです。

 

以下、この展覧会(exhibition)の説明は、主として、この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)の文を、要約又は抜粋・引用した物です。

 

以下、(主として、第二次世界大戦以前における)、日本の、著名な建築家達の、日本の客船のインテリア(内装)の設計における活躍の具体例の続きです。

 

幸いにも、多数の図面資料が現存している事から、村野 藤吾(murano togo。日本の建築家。1891年生まれ。1984年に亡くなる)は、日本の建築家の中で、第二次世界大戦以前において、客船のインテリア(内装)の設計を手がけていた事を、最も知られている建築家であると言えるでしょう。1918年に、早稲田(waseda)大学理工学部建築学科を卒業した、村野 藤吾(murano togo)は、大阪の建築設計事務所に入所します。そして、1929年に独立し、自身の建築設計事務所である、村野(murano)建築事務所を、大阪に開設しました。村野 藤吾(murano togo)は、箱根(hakone。東京近郊を代表する観光地・保養地の一つ)の、箱根(hakone)princeホテル(箱根(hakone)にある、リゾート(resort)ホテルの一つ)等、ホテルの設計も、たくさん手がけており、客船のインテリア(内装)の、華やかな空間を、その陸上建築にも見る事が出来る、希少な建築家です。村野 藤吾(murano togo)が、客船のインテリア(内装)の設計を請け負った、きっかけについては、はっきりとした事は、分かっていません。おそらくは、日本の、客船の建造数が増え、その規模も大きくなった事で、中村 順平(nakamura jyunpei。日本の建築家。日本の建築家の中で、第二次世界大戦以前において、日本の大型客船のインテリア(内装)の設計を、最も多く手がけた。前回の投稿参照)以外の建築家が必要になってきた事が、その理由の一つとして考えられます。また、大阪商船(Osaka Shosen.。現在の商船三井(Shosen Mitsui)。日本の三大海運(shipping・marine transportation)会社の内の一つ)の客船のインテリア(内装)設計を最初に手がけている事から、村野 藤吾(murano togo)と、大阪商船(Osaka Shosen)との繋がりにも注目する必要があります。おそらくは、関西(kansai。大阪・京都・神戸(kobe)を中心とする大都市圏。東京圏に次ぐ、日本第2の人口を有する大都市圏(特に、当時は、東京圏と並ぶ、日本の2大都市圏))において、最も信頼のおける建築家の一人として、当時の、大阪商船(Osaka Shosen)の工務部門の技師、和辻 春樹(watsuji haruki)(日本の船舶工学者)が、村野 藤吾(murano togo)を起用したのだろうと推測されます。村野 藤吾(murano togo)が設計した、客船のインテリア(内装)は、豪華絢爛たる、調和のとれた、上品な、「現代日本様式」(「現代日本様式」については、前回の投稿を参照して下さい)でした。新しい素材を多用した、アール・デコ(Art Deco)を基本に、現代的でありながらも、客船ならではの華やかさを存分に放つインテリア(内装)は、中村 順平(nakamura jyunpei)と並んで、豪華客船時代の、「現代日本様式」を代表するデザイン(design)であると言えるでしょう。村野 藤吾(murano togo)にとって、客船のインテリア(内装)の設計が、とりわけ、非日常性の演出と言う意味において、その後の、ホテルの設計に、少なからぬ影響を与えた事は、間違いありません。

 

写真以下3枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。


 

 

写真上。橿原丸(kashiharamaru)(1939年に建造開始され、1942年完成予定であった、 27,700トン(GT)の、幻の、日本の豪華客船。時局の悪化により、完成する事なく、日本軍に買い上げられ、空母、隼鷹(jyunyou)へと改造された)の1等(first class)喫煙室(smoking room)(村野 藤吾(murano togo)設計)のカラースキーム(1940年制作)。黒地のソファ(sofa)に赤色の座面と言う、斬新さが見られるデザイン(design)。大阪商船(Osaka Shosen)の客船のインテリア(内装)設計を多く手がけた村野 藤吾(murano togo)は、橿原丸(kashiharamaru)で、初めて、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社(日本の三大海運(shipping・marine transportation)会社の内の一つ。前々回の投稿参照)の豪華客船の設計を手がけた。

 

 

 

橿原丸(kashiharamaru)の1等(first class)喫煙室(smoking room)の、松田 軍平(matsuda gunpei)案(1940年制作)。橿原丸(kashiharamaru)の1等(first class)喫煙室(smoking room)には、村野 藤吾(murano togo)案と、松田 軍平(matsuda gunpei)案の、二つの案が、存在している。

 

 

 

あるぜんちな丸(Argentina maru。日本の客船。1939年完成。12,755トン(GT)))の1等(first class)食堂(dining room・レストラン)。村野 藤吾(murano togo)設計。壁は、総桐柾張り、窓には欄間彫刻が施され、柱には、大理石が張られた。手前の照明シェードには、蒔絵(makie)が、施され、「現代日本様式」を代表する意匠(design・装飾)である。

 

現在の京都工芸繊維大学の前身の高等教育機関を卒業した、吉武 東里(yoshitake tori。日本の建築家。1886年生まれ。1945年に亡くなる)は、1910年に、宮内省(kunaisho。天皇および皇族(天皇の一族(親族))の日常生活、教育、財産管理等、あらゆる側面を支える官庁)の内匠寮(天皇や皇族(天皇の親族)関係の宮殿・邸宅の建物や庭園等の設計等を、司っていた組織。当時の日本国内の一流の建築家や技師達が集まったエリート(elite)集団。1947年廃止)の技師となりました。その後は、大蔵(okura)省(現在の財務省。日本の財務を扱う中央官庁(ministry))の臨時議院建築局の技師として、国会議事堂の建設にも、大きく貢献しました(現在の日本の国会議事堂の建物(1936年完成。着工から完成まで、約17年かかった)の設計は、当時の、大蔵(okura)省の臨時議院建築局)。吉武 東里(yoshitake tori)が、どの様な経緯で、客船のインテリア(内装)の設計に携わったのかは、定かではありません。しかし、橿原丸(kashiharamaru)の建造は、皇紀2600年(1940年(日本の初代の天皇が即位してから、2600年))の記念事業の一環と言う要素もあった事から、その設計にあたっては、官庁関係からの、積極的な働きかけがありました。そのような事情から、国会議事堂等、権威の象徴とも言える様な、建築設計で、腕を振るった、吉武 東里(yoshitake tori)が、官庁側から、いち早く、名前があげられた可能性が高いと考えられます。いずれにせよ、一隻の客船で、1等(first class)のエントランス(玄関・入口)部分のみに、この様な、著名な建築家に設計を依頼している点は、特筆すべき点であると言えるでしょう。従来は、客船の1等(first class)のエントランス(玄関・入口)と言うと、造船所の技師が担当するか、もしくは、エントランス(玄関・入口)部分と隣り合う公室(乗客の共用場所)の設計担当者が、その延長として設計する事が、一般的でした。しかし、橿原丸(kashiharamaru)では、1等(first class)エントランス(玄関・入口)の設計者として、吉武 東里(yoshitake tori)が、迎えられているのです。この様に、日本の著名な建築家が集結し、カラースキームまで揃いながら、橿原丸(kashiharamaru)は、完成を待たずに、空母へと改造されてしまいました。建築家達に渡された、橿原丸(kashiharamaru)の図面にも、既に、黒く塗られた、機密のスペース(空間)がある等、華やかな豪華客船の設計とは裏腹に、暗雲が立ち込める中での、船内装飾設計でした。

 

写真以下2枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。

 

 

写真上。橿原丸(kashiharamaru)の1等(first class)エントランス(玄関・入口)(吉武 東里(yoshitake tori)設計)のカラースキーム(1940年頃制作)。

 

 

 

橿原丸(kashiharamaru)の1等(first class)後部のエントランス(玄関・入口)の広間(吉武 東里(yoshitake tori)設計)のカラースキーム(1940年頃制作)。

 

 

 

借り物写真(1940年代後期から1950年代初めに撮影された写真)ですが、吉田 五十六(yoshida isoya)。日本の建築家。1894年生まれ。1974年に亡くなる。

 

 

(日本の伝統住宅建築を近代化した事で知られる)吉田 五十六(yoshida isoya。日本の建築家。1894年生まれ。1974年に亡くなる)が設計する建築空間は、日本の伝統美を伝える物でありながらも、豪壮なものとして知られています。したがって、日本の文化・歴史を主張する事が必要とされた、1930年代半ば頃から1940年代初めにおける、日本の客船のインテリア(内装)の設計者として、適任だと判断されたであろう事は、想像に難くありません。現在、吉田 五十六(yoshida isoya)が設計した事が判明しているのは、安芸丸(akimaru。1942年完成)と天山丸(tenzanmaru)(下の補足説明参照)の2隻です。
天山丸(tenzanmaru):説明は、wikiを参考にしました。1942年完成。日本国有鉄道(1987年に分割、民営化されてJRとなる)の、日本の下関(shimonoseki)と韓国の釜山を結ぶ航路の客船。7,908トン(GT)。戦時中に完成した客船だが、しっかりとした設備を持つ客船であった。1945年7月、アメリカ軍の空爆から退避する為(船を守る為)、港から退避して航行中、アメリカ軍の攻撃を受け炎上。沈没は免れたが機関室が破壊され、自力航行できなくなる。修理の為に、港へ曳航されている途中、浸水し、沈没。

 

しかし、日本とシアトル(Seattle)を結ぶ航路に就航する事が予定されていた安芸丸(akimaru)は、第二次世界大戦の影響により、上部構造を単略化して完成し、完成直後に、軍に徴用されました。そのため、現在に残る、吉田 五十六(yoshida isoya)の図面が、実現したかどうかは、定かではありません。一方、日本国有鉄道の天山丸(tenzanmaru)は、図面も写真も現存しませんが、「天山丸(tenzanmaru)の特別室(特別客室)が、吉田 五十六(yoshida isoya)氏により、数奇屋風(日本の伝統住宅建築風)の設計がなされ、好評であった」と言う記述メモ(memo)が残されている事から、天山丸(tenzanmaru)については、吉田 五十六(yoshida isoya)の設計が、実現していた可能性が、かなり高いと思われます。他にも、1964年の東京オリンピック(Olympics)(夏季Olympics)開催を機に、計画された、日本の豪華客船、ミス・ニッポン(Miss Nippon)の会議議事録に、インテリア(内装)の設計者として、吉田 五十六(yoshida isoya)の名前が確認出来ます。村野 藤吾(murano togo)と並んで、豪華客船時代(前々回の投稿参照)のインテリア(内装)の設計の功績が認められての人選であったのでしょう。しかし、伊勢(ise)湾台風(1959年に、日本を襲った巨大台風。日本に全国に渡り、甚大な被害をもたらした(特に、関西(kansai)地方東南部及び中部地方西南部の被害が大きかった))の甚大なる被害の影響で、ミス・ニッポン(Miss Nippon)の建造計画は、予算の目処が立たず、幻と終わりました。仮に、ミス・ニッポン(Miss Nippon)が完成していれば、日本の、新たな客船のインテリア(内装)の歴史を紡ぎ出す客船となっていたに違いません。

 

写真以下3枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。

 

 

写真左上。安芸丸(akimaru。1942年完成。11,409総トン(GT))。1937年の、「優秀船舶建造助成施設」(大型で高速の優秀船舶の建造にあたっては、日本政府から、補助金が与えられた)に基づいて、日本とシアトル(Seattle)を結ぶ航路用に建造されたが、日本(とアメリカ)が、第二次世界大戦に参戦した事により、旅客設備は、縮小され、その構造も、著しく簡略化された形で完成した。また、予定航路には、就航する事なく、完成と共に、日本軍に徴用され、戦時中に、アメリカ軍により、撃沈された。吉田 五十六(yoshida isoya)が設計した図面は、実現しなかった可能性が高い。

 

 

 

写真上。安芸丸(akimaru)ツーリストクラス(tourist(economy)class)の喫煙室(smoking room)の家具(吉田 五十六(yoshida isoya)設計)の図面(1941年制作)。
写真下。安芸丸(akimaru)のツーリストクラス(tourist(economy)class)の社交室の壁面(吉田 五十六(yoshida isoya)設計)図(1941年制作)。

 

 

 

ミス・ニッポン(Miss Nippon。1964年完成予定)の、1等(first class)社交室(設計者不詳)。実現する事なく、幻となった、1950年代末から1960年代初めの、日本の豪華客船建造計画。畳を敷き詰めたかのような床面、つつみ太鼓のような椅子等、そのインテリア(内装)は、豪華客船時代の、「現代日本様式」を引き継いでいる事が分かる。仮に、ミス・ニッポン(Miss Nippon)が、完成していたら、おそらく、当時、日本で、戦後の復興の完成を象徴する物として、ほぼ、新幹線(1964年運行開始)に匹敵する話題となっていた事でしょう。

 

 

雪野 元吉(yukino motokichi。日本の建築家。1887年生まれ。1945年に亡くなる)は、1922年に、現在の東京芸術大学の前身の高等教育機関を卒業後、宮内省(kunaisho。天皇および皇族(天皇の一族(親族))の日常生活、教育、財産管理等、あらゆる側面を支える官庁)の内匠寮(天皇や皇族(天皇の親族)関係の宮殿・邸宅の建物や庭園等の設計等を、司っていた組織。当時の日本国内の一流の建築家や技師達が集まったエリート(elite)集団。1947年廃止)の技師として活躍した建築家でした。客船のインテリア(内装)において、雪野 元吉(yukino motokichi)が、他の建築家と異なるのは、自ら志願し、強い憧れを抱いて、その設計に携わった事です。少年時代の雪野 元吉(yukino motokichi)は、豪華客船が、たくさん出入りする横浜に育ちました。そして、養父が、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社の社員であった事から、新造船を見学する機会にも恵まれました。こうした事が、雪野 元吉(yukino motokichi)に客船に対する憧れを、強く抱かせる事になりました。雪野 元吉(yukino motokichi)は、そもそも、建築の道に進んだのも、豪華客船のインテリア(内装)を見て、「こんな物を自分で設計して、出来た物を見れば、どんなに愉快だろうな」と思った事が、きっかけだと、後に、川崎(kawasaki)造船所の同僚に語っています。雪野 元吉(yukino motokichi)にとって、客船のインテリア(内装)の設計は、長年の夢でもありました。1938年、ようやく、その夢が叶う時が、やってきました。橿原丸(kashiharamaru)の姉妹船であり、橿原丸(kashiharamaru)と共に、日本最高の豪華客船となる計画の、出雲丸(izumomaru)が、川崎(kasawaki)造船所(当時の、日本の大規模造船所(造船会社)の一つ)で建造される事を知った、雪野 元吉(yukino motokichi)は、「一生に、一度は、客船のインテリア(内装)を設計してみたい」と言う強い希望から、自ら、宮内省(kunaisho)を辞職し、川崎(kashiharamaru)造船所へと転職したのです。しかし、時局の悪化により、橿原丸(kashiharamaru)と同じく、出雲丸(izumomaru)も、完成する事なく、空母へと改造されました。

 

写真以下2枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。

 

 

写真上。出雲丸(izumomaru)の1等(first class)食堂(dining room・レストラン)第1案(設計者不明。1941年制作)。

 

 

 

 

写真右。出雲丸(izumomaru)の1等(first class)食堂(dining room・レストラン)第2案(設計者不明。1941年制作)。出雲丸(izumomaru)の1等(first class)食堂は、第1案から第3案までのカラースキーム写真が残っている事、そして、船主(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社)側の意向により、徐々に、第1案から遠ざかって、普通の案に成り下がってしまう事への無念が、綴られている事から、雪野 元吉(yukino motokichi)が設計者であった可能性が高い。柱等は、朱塗りで仕上げる事を想定していた様です。神道の神社(shrine)の鳥居を連想させる、如何にも、「現代日本様式」の設計です。
写真左。出雲丸(izumomaru)の2等(second class)喫煙室(smoking room)(設計者不明。1941年制作)。

 

 

以上、(主として、第二次世界大戦以前における)、日本の、著名な建築家達の、日本の客船のインテリア(内装)の設計における具体的な活躍について、見て来ましたが、以下、第二次世界大戦以前における日本の主要な客船のインテリア(内装)における、日本の芸術家達の協力について見て行きたいと思います。

 

佐藤 武造(sato takezo。日本の画家・漆工芸の工芸家)は、久米(kume)建築事務所(久米 権九郎(kume gonkuro。日本の建築家。前回の投稿参照)の建築設計事務所と共に、日本の客船のインテリア(内装)の設計を行っていました。現存する、久米(kume)建築事務所のカラースキームは、全て、佐藤 武造(sato takezo)の手による物です(久米 権九郎(kume gonkuro)と佐藤 武造(sato takezo)は、古くから、親しい友人関係にありました)。この様に、その国の文化の象徴とも言える、当時の工業国の、国際航路向けの豪華客船のインテリア(内装)の設計には、画家や工芸家の協力も必須でした。ちなみに、1932年から1939年にかけて(1939年、第二次世界大戦の勃発により、日本に帰国)、イギリスのロンドンを拠点に活動していた、佐藤 武造(sato takezo)は、当時、世界最高の豪華客船大国であった、イギリスの豪華客船の船内装飾設計も手がけています。当時の、ヨーロッパでは、ジャポニズム(Japonism。19世紀後半から20世紀初めにかけて、万国博覧会(expo)等を通じて、日本の美術工芸品が、欧米(特にヨーロッパ)で紹介され、大流行した現象。「日本趣味」とも呼ばれ、これらは、西洋美術にも、大きな影響を与えた)の影響により、漆の工芸品が流行していました。エキゾチック(exotic)で、見た目にも華やかな漆は、ヨーロッパの客船でも、人気を呼んだのです(例として、フランスの豪華客船、ノルマンディー号(Normandie。1935年完成。79,280総トン(GT)。完成当時、世界最大の客船)等には、ジャン・デュナン。(Jean Dunand。漆工芸で有名な、スイスの工芸家)制作の、漆パネルが、多数、掲げられている)。イギリスの豪華客船、クイーン・メリー号(Queen Mary。1936年完成。81,237総トン(GT)。完成当時、世界最大の客船になるはずであったが、Normandieが、改装されて83,423総トン(GT)になっていた為、完成当時、世界で2番目に大きい客船。何れにしても、豪華客船時代(第二次世界大戦前)における、世界最大級の客船であった)の1等(first class)サロン(salon)のキャビネット(cabinet)の漆の蒔絵(makie。日本の漆工芸の一つ)で好評を得た(佐藤 武造(sato takezo)の作品の展示会を見た、ロンドンの大規模室内装飾会社が、クイーン・メリー号(Queen Mary)に飾るキャビネット(cabinet)の装飾を、佐藤 武造(sato takezo)に依頼してきた)、佐藤 武造(sato takezo)のもとには、イギリス等の豪華客船の室内装飾設計の依頼が、次々と舞い込みました。「現代日本様式」の主要な構成要素と言える漆のパネルが、西洋の豪華客船においても、多用されていた事は、大変興味深いと言えるでしょう。

 

 

写真左上。ドミニオン・モナーク(Dominion Monarch。1939年完成。イギリスの豪華客船。27,155トン (GT)。南アフリカ連邦(現在の南アフリカ共和国)を経由し、イギリスとオーストラリアを結ぶ航路の豪華客船として建造された。イギリスとオーストラリアを結ぶ航路の客船で、史上、最大且つ、最も豪華な客船であった)のドローイングルーム(drawing room)の装飾(1939年制作。佐藤 武造(sato takezo)作)。
写真右上。船名、船室不明(佐藤 武造(sato takezo)作。1940年頃と推測される)。右下に、久米(kume)建築事務所の印が押印されている。深い信頼関係の下、共同で設計していた事が、伺える。
写真下。橿原丸(kashiharamaru)1等(first class)読書室の漆パネル習作(1940年頃制作。佐藤 武造(sato takezo)作)。久米 権九郎(kume gonkuro)とともに設計した一室。

 

日本の豪華客船のインテリア(内装)の設計には、建築家に加えて、画家、工芸家等、当時の日本を代表する、一流の芸術家達が集結させられました。ただし、画家や工芸家の場合は、たいてい、内装の空間その物に関わると言うよりは、自身の絵画を壁面パネルとして提供し、室内空間の一部を飾る事で、船内に彩りを添えると言うのが、一般的でした。例えば、松田 軍平(matsuda gunpei。日本の建築家。前回の投稿参照)が、設計した、八幡丸(yawatamaru。日本の客船。1940年完成。17,150総トン(GT))の一等(first class)社交室には、山喜多 二郎太(yayakita jirota。日本の画家)による巨大な壁画、「園遊図」が飾られ、より船内を華やかに、そして、日本趣味あふれる空間に、演出しています。また、村野 藤吾(murano togo)が設計した、ぶらじる丸(BRASIL maru。日本の客船。1939年完成。12,752トン(GT))の、1等(first class)社交室では、山鹿 清華(yamaga seika日本の染色家)の豪華絢爛たる織地が壁面を飾り、中村 順平(nakamura jyunpei)が設計した、新田丸(nittamaru。1940年完成。17,150総トン(GT)。日本の客船)の1等(first class)社交室では、松田 権六(matsuda gonroku。日本の漆工芸の工芸家)による、しだれ柳と川浪の乾漆パネルが、艶やかな室内空間を生み出しています。また、残念ながら、写真さえも現存しませんが、藤田 嗣治(fujita tsuguharu)(1886年生まれ、1968年に亡くなる。1920年代から、世界的な名声を博した、日本の有名な西洋画家。晩年(1955年)には、フランス国籍を取得)も、天山丸(tenzanmaru。日本の客船。1942年完成。7,908総トン(GT))の船内に、天山山脈を描いた絵画を提供したと言われています。また、定かではありませんが、1940年に完成した、新田丸(nittamaru)にも、藤田 嗣治(fujita tsuguharu)の絵画が飾られる予定があったと伝わっています。ちなみに、客船ではありませんが、日本海軍の戦艦、武蔵(musashi。基準65,000トン。満載72,809トン。1942年完成。同じく日本海軍の、大和(yamato。1941年完成)と共に、世界の歴史上、最大の戦艦)の艦長室に、横山 大観(yokoyama taikan。日本の、有名な近代日本伝統画家)が描いた、墨一色の、富士山の軸が飾られていました。第二次世界大戦により、日本の、ほとんどの客船(特に、客船の中でも、比較的高性能で、比較的大型であった、海外航路向けの豪華客船に関しては、ほとんど全て)が撃沈され、海の藻屑へと消えました。そして、日本の客船の船内に飾られていた、美術作品も、船と共に、海の底へと消えました。客船内に設置された、絵画や装飾パネルは、揺れても落ちない様に頑丈に固定されていた事から、船が、戦争で徴用される際も、取り外して避難させる事が難しかったのだろうと推測されます。これだけの芸術家が客船の室内装飾に協力しながらも、その作品が、現存しない事は、残念であると言えるでしょう。

 

写真以下2枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。

 

 

写真左。新田丸(nittamaru。日本の客船。1940年完成)の1等(first class)社交室の乾漆パネル(1940年頃制作。中村 順平(nakamura jyunpei)・松田 権六(matsuda gonroku)作)。中村 順平(nakamura jyunpei)が設計した室内に、後に、人間国宝となる、松田 権六(matsuda gonroku)が、中村 順平(nakamura jyunpei)と共同で、乾漆パネルを制作した。金地に、しだれ柳と川浪の鮮やかな緑色が映える、乾漆パネルは、ゆるい曲線を描き、社交室の前後の四隅に、はめ込まれていた。
写真右下。八幡丸(yawatamaru。日本の客船。1940年完成)の1等社交室の絵画(1940年頃制作。山喜多 二郎太(yayakita jirota)作)。

 

 

 

あるぜんちな丸(Argentina maru。日本の客船。1939年完成)の1等(first class)食堂(dining room・レストラン)の、漆扉(1938年から1939年頃制作。堂本 漆軒作)。村野 藤吾(murano togo)が設計した、あるぜんちな丸(Argentina maru)の1等(first class)食堂(dining room・レストラン)の、背面の造り付け、棚扉部分を、後に文化勲章を受賞する、堂本 漆軒(日本の漆工芸の工芸家)が制作した。あるぜんちな丸(Argentina maru)は、1942年に、日本海軍に買い上げられ、長崎(nagasaki)造船所により、空母へと改造された。その際、家具や調度品は、陸に揚げられた為、幸運にも、漆扉だけは、第二次世界大戦による戦禍を免れた。第二次世界大戦以前の、日本の客船の家具が、ほとんど現存しない為、非常に貴重な資料である。

 

以下、第二次世界大戦以前における、日本の主要な、客船のインテリア(内装)における、日本国内の装飾業者等の活躍について、見て行きたいと思います。

 

(日本の客船のインテリア(内装)において)日本の建築家達が活躍する以前から、日本の客船のインテリア(内装)の設計に、いち早く携わり、高い技術を蓄積して行ったのが、造船所の技師や、デパートの装飾部門の技師達でした。近代における、日本の客船のインテリア(内装)の歴史において、名も無い、彼等の活躍は、見逃す事が出来ません。かつて、川崎(kawasaki)造船所や、三菱(mitsubishi)、長崎(nagasaki)造船所のような、近代的な、高性能・長距離航海向けの客船を手がける、大きな規模の造船所には、船内装飾設計を自社で賄う為に、東京美術学校(東京芸術大学の前身の、高等教育機関)の図案(design)科等を卒業した、装飾設計を学んだ技師が勤務していました。当初は、重要度の低い、客室のインテリア(内装)の設計等が中心であった彼等も、少しずつ、1等(first class)や2等(second class)の公室(乗客の共用場所)の設計を手がける様になりました。橿原丸(kashiharamaru)の建造の頃には、まるで、建築家の設計に勝るとも劣らない様な、1等(first class)公室(乗客の共用場所)の、カラースキームを残すまでになっています。また、デパートの装飾部門の活躍も、素晴らしい物がありました。まだ、日本が、本格的な重工業化を始めてから間もない、豪華客船時代の幕開けの頃から、既に、日本の近代客船のインテリア(内装)の設計に携わっていた、高島屋(Takashimaya。日本のデパートchain。本店は、大阪。1831年、京都で創業したデパートchainで、大阪には、1898年に進出、東京へは、1922年に進出しました)等は、その技術の確かさから、数多くの、日本の客船のインテリア(内装)を手がける事になりました。当時、日本のデパートには、装飾部門が設けられていましたが、彼等は、店頭販売用の家具設計と言うよりは、大きな法人の仕事を請け負う為に、特別に設けられた、デザイン(design)集団でした。当時の日本のデパートの装飾部門は、デパート関係の仕事と言うよりも、現在のデザイン(design)会社の様な仕事を行っていたのです。また、川島(kawashima)織物(1843年創業の、京都の、織物・インテリア(内装)・繊維会社。前々回の投稿参照)は、万国博覧会(expo)等で、既に、世界的に高い評価を得て、西洋式の家具や室内装飾設計には、卓越した技術力とデザイン(design)力を誇っていました。まだ、日本が、客船のインテリア(内装)において、イギリスの様な、客船のインテリア(内装)の先進国の装飾業者に頼っていた時代に、この様な、日本国内の装飾業者が活躍していた事実は、注目に値すると言えるでしょう。この様な、名も無き、彼等の、知識や技術の蓄積が土台となり、「現代日本様式」が誕生し、日本の客船のインテリア(内装)の歴史が、紡がれて行ったのです。

 

写真以下2枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。

 

 

春日丸(kasugamaru)の1等(first class)喫煙室(smoking room)(高島屋(Takashimaya)の装飾部門が、1940年頃設計)。春日丸(kasugamaru)は、完成を待たずに空母へと改造された、幻の日本の豪華客船です。新田丸(nittamaru。日本の豪華客船。1940年完成)や春日丸(kasugamaru)の建造の頃には、日本の主要な客船の、主要な、1等(first class)の公室(乗客の共有場所)の空間の設計を、高島屋(Takashimaya)の装飾部門や、長崎(nagasaki)造船所の技師達が、手がける様になっています。彼等の設計した、客船の室内空間は、当時の、日本の有名な建築家の物と比較して、決して、見劣りする物ではありません。高い技術とデザイン(design)力を備えていたと言えます。

 

 

 

写真左上。新田丸(nittamaru。1940年完成)の1等(first class)食堂(dining room・レストラン)。三菱(mitsubishi)、長崎(nagasaki)造船所設計。
写真右上。新田丸(1940年完成)の一等(first class)特別客室(deluxe room)の椅子。三菱(mitsubishi)、長崎(nagasaki)船所設計。
写真左下。浅間丸(asamamaru。1929年完成。16,947トン(GT)。日本の豪華客船)の一等(first class)特別客室(deluxe room)の居室(living room)。川島(kawashima) 織物設計。
写真右下。浅間丸(asamamaru。1929年完成)の一等(first class)特別客室(deluxe room)の居室(living room)の、綴織パネル原画「桃園天平美人」(1929年)。川島(kawashima)織物制作。

 

以下、再び、日本の客船のインテリア(内装)の歴史の流れに、戻ります。

 

第二次世界大戦により、主要な工業国は、客船のインテリア(内装)と言う文化ではなく、武力そのもので戦う時代に突入しました。1941年から1945年(日本が第二次世界大戦へ参戦する前夜から、日本が、アメリカを中心とした連合国に敗戦するまでの間)にかけて、日本の客船(特に、海外航路向けの高性能客船)の、ほとんどは、日本軍に徴用され、中には、空母に改造された物もありました。第二次世界大戦により、(日本を含む)世界の、豪華客船と呼ばれた船は、ほとんど全滅しました。そして、第二次世界大戦の集結により、豪華客船の時代は、終わりを告げたのです。

 

 

写真上。橿原丸(kashiharamaru。1942年完成予定)の完成予想図。橿原丸(kashiharamaru。1939年建造開始、1942年完成予定。27,700トン(GT))は、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社が、(1936年にドイツのBerlinで開催された夏季オリンピックに引き続き)1940年に開催されるはずだった、東京オリンピック(Olympics)(夏季Olympics)(第2次世界大戦により中止)の前後に合わせる様に、次々と投入する予定であった、新しい豪華客船の一つで、日本の客船史上、最高の豪華客船となるはずが、就航する事なく、空母、隼鷹(jyunyou)へと改造されました。ちなみに、橿原丸(kashiharamaru)と同級の豪華客船として就航する予定で有った出雲丸(izumomaru)(27,700トン(GT))も、やはり、建造途中で、空母に変更されました(空母、飛鷹(hiyou))。
写真下。橿原丸(kashiharamaru)から改造された、日本海軍の空母、隼鷹(jyunyou)。橿原丸(kashiharamaru)は、1939年に建造を開始し、1942年の完成を予定していた。既に、最終配置図やカラースキームは揃い、一部、工事に着手し始めたばかりであったが、時局の悪化により、完成を待たずに、空母、隼鷹(jyunyou)へと改造された。

 

 

横浜散歩&食べ物4へ続く。。。

 

写真以下、板違い防止的な写真になってしまいますが。。。

 

写真以下2枚。少し前の話になりますが、8月の第一木曜日(以下、この日と書きます)に、仕事の用事で、伊勢佐木町(isezakicho)(横浜都心部の古くからの庶民的な繁華街)及び、その周辺を訪れた際に、取引先回りの合間に、前から、ちょっと気になっていた、コーヒー(coffee)豆に、こだわりのありそうな、伊勢佐木町(isezakicho)のコーヒー(coffee)豆店(店内で、コーヒー(coffee)を飲める様にもなっている)で、一休みした際に、冷たいコーヒー(coffee)と共に食べた、コーヒーゼリー(coffee jelly)。この店は、この時、初めて利用しました。この店は、この時を含めて、2回利用していますが(何れの時も、コーヒーゼリー(coffee jelly)を食べている)、この店のコーヒーゼリー(coffee jelly)は、中々美味しいです。

 

 

この時食べたのは、モカ(Mocha coffee)の、コーヒーゼリー(coffee jelly)だったかな。。。

 

 

 

 

食べている途中。。。

 

 

 

写真以下4枚、この日(8月の第一木曜日)、取引先回りを終えた後、適当に目に付いて入った、伊勢佐木町(isezakicho)周辺の、チープで(安くて)庶民的な、中国料理食堂で食べた、(この日の)夕食。この店、とても安いのは良かったのですが(個人的に、良い点は、概ね、それだけかも。。。w)、味は、全般的に、(不味くはないけど)、今一つでした。この店は、この時、初めて利用したのですが、この時以来、利用していません。

 

 

豆腐(こんなに葱が載って来るとは、思わなかった。。。)。

 

 

 

 

担担麺(Dandan noodles)。

 

 

 

 

 

鶏の唐揚げ(鶏肉の揚げ物)。

 

 

 

 

 

円盤型の、海老、餃子(dumpling)。これは、まあまあ美味しかったです。

 

 

 

写真以下10枚。おまけ。。。前に、enjoyとkjで、アップ(upload)した写真の再利用ですが、横浜の都心部の海沿いにある、北欧料理レストラン。このレストランは、横浜で、お気に入りのレストランの一つとなっています。

 

 

レストランの外観。このレストランは、1963年に開業した、北欧料理レストランですが、このレストランが入っている建物は、1920年代に建てられた建物です。

 

 

このレストランは、比較的カジュアル(casual)な雰囲気の1階と、比較的フォーマル(formal)な雰囲気の2階に分かれています(2階の方は、比較的、重厚で、豪華な、内装となっています)。2階よりも、1階の方が、安く、簡易(簡素)な、料理を食べる事が出来ます。1階の方は、大衆店と言った感じで、誰でも(と言うと言い過ぎかもしれませんが、大多数の人々)が、気軽に立ち寄って、普段(日常時に)食事する(外食する)場所として使えます。これに対し、2階の方は、高級classの店となっていて(もっとも、高級classの店としては、食事は、それ程、高い方ではない(比較的安い方。。))、まあ、裕福な人は、別として、少なくとも、(私の様な)庶民は、どちらかと言えば、何かしら、ちょっとした特別な日の食事に、利用する場所と言った感じです(夕食(dinner)に関しては。。。昼食(lunch)は、それ程ではないが、何れにしても、1階で食べるよりも、高くつく。。)。

 

写真以下9枚。このレストランの1階の、内装及び、食事等。1階の方は、比較的、カジュアル(casual)な雰囲気で、値段的に、大衆店と言った感じですが、騒々しく、大衆店的な雰囲気と言った感じではなく、(1階の方も)、落ち着いた雰囲気で、食事をとる事が出来ます(2階の方が、ずっと、重厚で、豪華な内装ですが。。。)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下も、おまけで、前にenjoyとkjでアップ(upload)した写真ですが、横浜の都心部の海沿いにあるホテル、Pan Pacific Yokohama Bay Hotel Tokyuの、バイキング(buffet)レストラン、「Cafe Tosca」。窓から見える、大きな観覧車は、かつて、世界最大の観覧車であった、cosmo clockです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


요코하마 산책&음식 3.

 

 

1 년 남짓정전의 일이 됩니다만, 작년의 10월의 전반에, 요코하마를 산책해 왔을 때의 물건입니다.요코하마는, 도쿄 area의 바다의 현관문(gateway)이 되고 있는, 큰 항구도시입니다.이 날은, 요코하마의, 칸나이(kannai) area(요코하마의 도심부에 있는, 요코하마의 옛부터의 중심 비지니스(business) 지구)에 있는 일본우선(Nippon Yusen) 역사 박물관(전전번의 투고 참조)에서, 일본의 여객선의, 인테리어(내장)의 역사에 관한, 전람회(exhibition)를 보고 왔습니다.

 

이 전람회(exhibition)는, 주로, 제이차 세계대전전의, 일본의 여객선의, 인테리어(내장)에 있어서의, 일본의 건축가의 활약에 초점을 맞힌 전람회(exhibition)였습니다.

 

이하, 요코하마 산책&음식 2로부터의 계속...

 

이하, 이 전람회(exhibition)에 관한 설명의 계속입니다.

 

이하, 이 전람회(exhibition)의 설명은, 주로, 이 전람회(exhibition)의 팜플렛(booklet)의 문장을, 요약 또는 발췌·인용한 것입니다.

 

이하, (주로, 제이차 세계대전 이전에 있어서의), 일본의, 저명한 건축가들의, 일본의 여객선의 인테리어(내장)의 설계에 있어서의 활약의 구체적인 예의 계속입니다.

 

다행히도, 다수의 도면 자료가 현존 하고 있는 일로부터, 무라노 도고(murano togo.일본의 건축가.1891 년생.1984년에 죽는다)는, 일본의 건축가중에서, 제이차 세계대전 이전에 있고, 여객선의 인테리어(내장)의 설계를 다루고 있던 일을, 가장 알려져 있는 건축가이다고 말할 수 있겠지요.1918년에, 와세다(waseda) 대학 이공학부 건축 학과를 졸업한, 무라노 도고(murano togo)는, 오사카의 건축설계사무소에 입소합니다.그리고, 1929년에 독립해, 자신의 건축설계사무소인, 촌야(murano) 건축 사무소를, 오사카에 개설했습니다.무라노 도고(murano togo)는, 하코네(hakone.도쿄 근교를 대표하는 관광지·보양지의 하나)의, 하코네(hakone) prince 호텔(하코네(hakone)에 있는, 리조트(resort) 호텔의 하나) 등 , 호텔의 설계도, 많이 다루고 있어 여객선의 인테리어(내장)의, 화려한 공간을, 그 육상 건축에도 볼 수가 있는, 희소인 건축가입니다.무라노 도고(muranotogo)가, 여객선의 인테리어(내장)의 설계를 하청받은, 계기로 붙어서는, 분명히 한 일은, 알고 있지 않습니다.어쩌면, 일본의, 여객선의 건조수가 증가해 그 규모도 커진 일로, 나카무라순평(nakamura jyunpei.일본의 건축가.일본의 건축가중에서, 제이차 세계대전 이전에 있고, 일본의 대형 여객선의 인테리어(내장)의 설계를, 가장 많이 다루었다.전회의 투고 참조) 이외의 건축가가 필요하게 된 일이, 그 이유의 하나로서 생각됩니다.또, 오사카 상선(Osaka Shosen..현재의 상선 미츠이(Shosen Mitsui).일본의 3 대해운(shipping·marine transportation) 회사 중의 한 개)의 여객선의 인테리어(내장) 설계를 최초로 다루고 있는 일로부터, 무라노 도고(murano togo)와 오사카 상선(Osaka Shosen)과의 연결에도 주목할 필요가 있습니다.어쩌면, 칸사이(kansai.오사카·쿄토·코베(kobe)를 중심으로 하는 대도시권.동경권에 뒤잇는, 일본 제 2의 인구를 가지는 대도시권(특히, 당시는, 동경권과 대등한, 일본의 2 대도시권))에 대하고, 가장 신뢰를 둘 수 있는 건축가의 한 명으로서 당시의, 오사카 상선(Osaka Shosen)의 공무 부문의 기사, 화 츠지 하루키(watsuji haruki)(일본의 선박 공학자)가, 무라노 도고(murano togo)를 기용했을 것이다라고 추측됩니다.무라노 도고(murano togo)가 설계한, 여객선의 인테리어(내장)는, 호화현난인, 조화를 취할 수 있던, 품위있는, 「현대 일본 양식」( 「현대 일본 양식」에 대해서는, 전회의 투고를 참조해 주세요)이었습니다.새로운 소재를 다용한, 아르·데코(Art Deco) 를 기본으로, 현대적이면서도, 여객선만이 가능한 화려함을 마음껏 발하는 인테리어(내장)는, 나카무라순평(nakamurajyunpei)와 함께, 호화 여객선 시대의, 「현대 일본 양식」을 대표하는 디자인(design)이다고 말할 수 있겠지요.무라노 도고(murano togo)에게 있어서, 여객선의 인테리어(내장)의 설계가, 특히, 비일상성의 연출이라고 하는 의미에 대하고, 그 후의, 호텔의 설계에, 적지않은 영향을 준 일은, 틀림없습니다.

 

사진 이하 3매.이 전람회(exhibition)의 팜플렛(booklet)보다...


 

 

사진상.카시하라환(kashiharamaru)(1939년에 건조 개시되어 1942년 완성 예정인, 27,700톤(GT)의, 환상의, 일본의 호화 여객선.시국의 악화에 의해, 완성하는 무사히, 일본군에 매입할 수 있어 항공 모함, 하야부사매(jyunyou)로 개조되었다)의 1등 (first class) 흡연실(smoking room)(무라노 도고(murano togo) 설계)의 칼라 스킴(1940년제작).검은 천의 소파(sofa)에 적색의 좌 면이라고 말하는, 참신함을 볼 수 있는 디자인(design).오사카 상선(Osaka Shosen)의 여객선의 인테리어(내장) 설계를 많이 다룬 무라노 도고(murano togo)는, 카시하라환(kashiharamaru)으로, 처음으로, 일본우선(Nippon Yusen) 주식회사(일본의 3 대해운(shipping·marine transportation) 회사 중의 하나.전전번의 투고 참조)의 호화 여객선의 설계를 다루었다.

 

 

 

카시하라환(kashiharamaru)의 1등 (first class) 흡연실(smoking room)의, 마츠다 군페이(matsuda gunpei) 안(1940년제작).카시하라환(kashiharamaru)의 1등 (first class) 흡연실(smoking room)에는, 무라노 도고(murano togo) 안과 마츠다 군페이(matsuda gunpei) 안의, 두 개의 안이, 존재하고 있다.

 

 

 

완치인 환(Argentina maru.일본의 여객선.1939년 완성.12,755톤(GT)))의 1등 (first class) 식당(dining room·레스토랑).무라노 도고(murano togo) 설계.벽은, 오동나무만으로 만들어짐정 쳐, 창에는 통풍공간 조각이 베풀어져 기둥에는, 대리석이 쳐졌다.앞의 조명 쉐이드에는, 금칠한 그림(makie)이, 베풀어져 「현대 일본 양식」을 대표하는 생각(design·장식)이다.

 

현재의 쿄토 공예 섬유 대학의 전신의 고등교육 기관을 졸업한, 요시타케 토우사토(yoshitake tori.일본의 건축가.1886 년생.1945년에 죽는다)는, 1910년에, 궁내성(kunaisho.천황 및 황족(천황의 일족(친족))의 일상생활, 교육, 재산관리등 , 모든 측면을 지탱하는 관청) 타쿠미 기숙사(천황이나 황족(천황의 친족) 관계의 궁전·저택의 건물이나 정원등의 설계등을, 맡고 있던 조직.당시의 일본내의 일류의 건축가나 기사들이 모인 엘리트(elite) 집단.1947년 폐지)의 기사가 되었습니다.그 후는, 오쿠라(okura) 성(현재의 재무성.일본의 재무를 취급하는 중앙 관청(ministry))의 임시 의원 건축국의 기사로서 국회 의사당의 건설에도, 크게 공헌했습니다(현재의 일본의 국회 의사당의 건물(1936년 완성.착공으로부터 완성까지, 약 17년 걸렸다)의 설계는, 당시의, 오쿠라(okura) 성의 임시 의원 건축국).요시타케 토우사토(yoshitaketori)가, 어떤 경위로, 여객선의 인테리어(내장)의 설계에 종사했는지는, 확실하지는 않습니다.그러나, 카시하라환(kashiharamaru)의 건조는, 황기 2600년(1940년(일본의 초대의 천황이 즉위 하고 나서, 2600년))의 기념 사업의 일환이라고 하는 요소도 있던 일로부터, 그 설계에 해당해서는, 관청 관계로부터의, 적극적인 움직임이 있었습니다.그러한 사정으로부터, 국회 의사당등 , 권위의 상징이라고도 말할 수 있는 것 같은, 건축 설계로, 솜씨를 발휘한, 요시타케 토우사토(yoshitake tori)가, 관청측으로부터, 재빨리, 이름을 들 수 있었던 가능성이 높다고 생각됩니다.어쨌든, 한 척의 여객선으로, 1등 (first class)의 엔트런스(현관·입구) 부분에만, 이와 같은, 저명한 건축가에 설계를 의뢰하고 있는 점은, 특필해야 할 점이다고 말할 수 있겠지요.종래는, 여객선의 1등 (first class)의 엔트런스(현관·입구)라고 말하면, 조선소의 기사가 담당하는지, 혹은, 엔트런스(현관·입구) 부분과 서로 이웃이 되는 공실(승객의 공용 장소)의 설계 담당자가, 그 연장으로서 설계하는 것이, 일반적이었습니다.그러나, 카시하라환(kashiharamaru)에서는, 1등 (first class) 엔트런스(현관·입구)의 설계자로서 요시타케 토우사토(yoshitake tori)가, 맞이할 수 있고 있습니다.이와 같게, 일본의 저명한 건축가가 집결해, 칼라 스킴까지 갖추어지면서, 카시하라환(kashiharamaru)은, 완성을 기다리지 않고 , 항공 모함으로 개조되어 버렸습니다.건축가들에게 건네진, 카시하라환(kashiharamaru)의 도면에도, 이미, 검게 칠해진, 기밀의 스페이스(공간)가 있는 등 , 화려한 호화 여객선의 설계와는 정반대로, 암운이 자욱하는 가운데의, 선내 장식 설계였습니다.

 

사진 이하 2매.이 전람회(exhibition)의 팜플렛(booklet)보다...

 

 

사진상.카시하라환(kashiharamaru)의 1등 (first class) 엔트런스(현관·입구)(요시타케 토우사토(yoshitake tori) 설계)의 칼라 스킴(1940년경 제작).

 

 

 

카시하라환(kashiharamaru)의 1등 (first class) 후부의 엔트런스(현관·입구)의 객실(요시타케 토우사토(yoshitake tori) 설계)의 칼라 스킴(1940년경 제작).

 

 

 

차용물 사진(1940년대 후기부터 1950년대 초에 촬영된 사진)입니다만, 요시다56(yoshida isoya).일본의 건축가.1894 년생.1974년에 죽는다.

 

 

(일본의 전통 주택 건축을 근대화 한 일로 알려진다) 요시다56(yoshida isoya.일본의 건축가.1894 년생.1974년에 죽는다)가 설계하는 건축 공간은, 일본의 전통미를 전하는 것이면서도, 크고 호화로운 것으로 해 알려져 있습니다.따라서, 일본의 문화·역사를 주장하는 것이 필요하게 된, 1930년대 중반무렵부터 1940년대 초에 있어서의, 일본의 여객선의 인테리어(내장)의 설계자로서 적임이라고 판단되었을 것이다 일은, 상상에 어렵지는 않습니다.현재, 요시다56(yoshida isoya)이 설계한 일이 판명되어 있는 것은, 아키환(akimaru.1942년 완성)과 텐잔환(tenzanmaru)(아래의 보충 설명 참조)의 2척입니다.
텐잔환(tenzanmaru):설명은, wiki를 참고로 했습니다.1942년 완성.일본 국유철도(1987년으로 분할, 민영화되어 JR가 된다)의, 일본의 시모노세키(shimonoseki)와 한국의 부산을 연결하는 항로의 여객선.7908톤(GT).전시중에 완성한 여객선이지만, 제대로 한 설비를 가지는 여객선이었다.1945년 7월, 미군의 공폭으로부터 퇴피하기 때문에(위해)(배를 지키기 때문에(위해)), 항구로부터 퇴피해 항행중, 미군의 공격을 접수 염상.침몰은 면했지만 기관실이 파괴되어 자력 항행할 수 없게 된다.수리를 위해, 항구에 예항 되고 있는 도중 , 침수해, 침몰.

 

그러나, 일본과 시애틀(Seattle)을 연결하는 항로로 취항하는 것이 예정되어 있던 아키환(akimaru)은, 제이차 세계대전의 영향에 의해, 상부 구조를 단략화해 완성해, 완성 직후에, 군에 징용 되었습니다.그 때문에, 현재에 남는, 요시다56(yoshida isoya)의 도면이, 실현되었는지 어떠했는지는, 확실하지는 않습니다.한편, 일본 국유철도의 텐잔환(tenzanmaru)은, 도면도 사진도 현존 하지 않습니다만, 「텐잔환(tenzanmaru)의 특별실(특별 객실)이, 요시다56(yoshida isoya) 씨에 의해, 다실풍(일본의 전통 주택 건축풍)의 설계가 이루어지고 호평이었다」라고 하는 기술 메모(memo)가 남아 있는 일로부터, 텐잔환(tenzanmaru)에 대해서는, 요시다56(yoshida isoya)의 설계가, 실현되고 있던 가능성이, 꽤 높다고 생각됩니다.그 밖에도, 1964년의 도쿄 올림픽(Olympics)(하계 Olympics) 개최를 기회로, 계획된, 일본의 호화 여객선, 미스·일본(Miss Nippon)의 회의 회의록에, 인테리어(내장)의 설계자로서 요시다56(yoshida isoya)의 이름을 확인 할 수 있습니다.무라노 도고(muranotogo)와 함께, 호화 여객선 시대(전전번의 투고 참조)의 인테리어(내장)의 설계의 공적이 인정된 인선이었겠지요.그러나, 이세(ise) 만태풍(1959년에, 일본을 덮친 거대 태풍.일본에 전국에 건너, 심대한 피해를 가져온(특히, 칸사이(kansai) 지방 동남부 및 중부 지방 서남부의 피해가 컸다))의 심대 된 피해의 영향으로, 미스·일본(Miss Nippon)의 건조 계획은, 예산의 목표가 서지 않고, 환상과 끝났습니다.만일, 미스·일본(Miss Nippon) 이 완성되고 있으면, 일본의, 새로운 여객선의 인테리어(내장)의 역사를 뽑기 시작하는 여객선이 되고 있는 것에 다르지 않습니다.

 

사진 이하 3매.이 전람회(exhibition)의 팜플렛(booklet)보다...

 

 

사진 좌상.아키환(akimaru.1942년 완성.11,409 총 톤수(GT)).1937년의, 「우수 선박 건조 조성 시설」(대형으로 고속의 우수 선박의 건조에 해당해서는, 일본 정부로부터, 보조금이 주어진)에 근거하고, 일본과 시애틀(Seattle)을 연결하는 항로용으로 건조되었지만, 일본(와 미국)이, 제이차 세계대전에 참전한 일에 의해, 여객 설비는, 축소되어 그 구조도, 현저하게 간략화된 형태로 완성했다.또, 예정 항로에는, 취항하는 무사히, 완성과 함께, 일본군에 징용 되어 전시중에, 미군에 의해, 격침되었다.요시다56(yoshida isoya)이 설계한 도면은, 실현되지 않았던 가능성이 높다.

 

 

 

사진상.아키환(akimaru) tourist class(tourist(economy) class)의 흡연실(smoking room)의 가구(요시다56(yoshida isoya) 설계)의 도면(1941년제작).
사진하.아키환(akimaru)의 tourist class(tourist(economy) class)의 사교실의 벽면(요시다56(yoshida isoya) 설계) 도(1941년제작).

 

 

 

미스·일본(Miss Nippon.1964년 완성 예정)의, 1등 (first class) 사교실(설계자 미상).실현되는 무사히, 환상이 된, 1950년대말부터 1960년대 초의, 일본의 호화 여객선 건조 계획.다다미를 전면에 깐 것 같은 마루의 면, 꾸러미 북과 같은 의자등 , 그 인테리어(내장)는, 호화 여객선 시대의, 「현대 일본 양식」을 계승하고 있는 것이 안다.만일, 미스·일본(Miss Nippon)이, 완성하고 있으면, 아마, 당시 , 일본에서, 전후의 부흥의 완성을 상징하는 것으로서 거의, 신간선(1964년 운행 개시)에 필적하는 화제가 되고 있던 일이지요.

 

 

유키노 모토요시(yukino motokichi.일본의 건축가.1887 년생.1945년에 죽는다)는, 1922년에, 현재의 도쿄 예술대학의 전신의 고등교육 기관을 졸업 후, 궁내성(kunaisho.천황 및 황족(천황의 일족(친족))의 일상생활, 교육, 재산관리등 , 모든 측면을 지탱하는 관청) 타쿠미 기숙사(천황이나 황족(천황의 친족) 관계의 궁전·저택의 건물이나 정원등의 설계등을, 맡고 있던 조직.당시의 일본내의 일류의 건축가나 기사들이 모인 엘리트(elite) 집단.1947년 폐지)의 기사로서 활약한 건축가였습니다.여객선의 인테리어(내장)에 대하고, 유키노 모토요시(yukino motokichi)가, 다른 건축가와 다른 것은, 스스로 지원해, 강한 동경을 안고, 그 설계에 종사한 일입니다.소년 시대의 유키노 모토요시(yukino motokichi)는, 호화 여객선이, 많이 출입하는 요코하마로 자랐습니다.그리고, 양부가, 일본우선(Nippon Yusen) 주식회사의 사원인 일로부터, 신조선을 견학할 기회에도 풍족했습니다.이러한 일이, 유키노 모토요시(yukino motokichi)에 여객선에 대한 동경을, 강하게 안게 하는 일이 되었습니다.유키노 모토요시(yukinomotokichi)는, 원래, 건축의 길로 나아갔던 것도, 호화 여객선의 인테리어(내장)를 보고, 「이런 물건을 스스로 설계하고, 할 수 있던 것을 보면, 아무리 유쾌할 것이다」(이)라고 생각한 일이, 계기라고, 후에, 카와사키(kawasaki) 조선소의 동료에게 말하고 있습니다.유키노 모토요시(yukino motokichi)에 있어서, 여객선의 인테리어(내장)의 설계는, 오랜 세월의 꿈이기도 했습니다.1938년, 간신히, 그 꿈이 실현될 때가, 왔습니다.카시하라환(kashiharamaru)의 자매선이며, 카시하라환(kashiharamaru)과 함께, 일본 최고의 호화 여객선이 될 계획의, 이즈모환(izumomaru)이, 카와사키(kasawaki) 조선소(당시의, 일본의 대규모 조선소(조선 회사)의 하나)에서 건조되는 일을 안, 유키노 모토요시(yukino motokichi)는, 「일생에, 한 번은, 여객선의 인테리어(내장)를 설계해 보고 싶다」라고 하는 강한 희망으로부터, 스스로, 궁내성(kunaisho)을 사직해, 카와사키(kashiharamaru) 조선소로 전직했습니다.그러나, 시국의 악화에 의해, 카시하라환(kashiharamaru)과 같이, 이즈모환(izumomaru)도, 완성하는 무사히, 항공 모함으로 개조되었습니다.

 

사진 이하 2매.이 전람회(exhibition)의 팜플렛(booklet)보다...

 

 

사진상.이즈모환(izumomaru)의 1등 (first class) 식당(dining room·레스토랑) 제1안(설계자 불명.1941년제작).

 

 

 

 

사진 오른쪽.이즈모환(izumomaru)의 1등 (first class) 식당(dining room·레스토랑) 제2안(설계자 불명.1941년제작).이즈모환(izumomaru)의 1등 (first class) 식당은, 제1안으로부터 제3안까지의 칼라 스킴 사진이 남아 있는 일, 그리고, 선주(일본우선(Nippon Yusen) 주식회사) 측의 의향에 의해, 서서히, 제1안으로부터 멀어지고, 보통 안에 되어 내려 버리는 일에의 무념이, 써지고 있는 일로부터, 유키노 모토요시(yukino motokichi)가 설계자인 가능성이 높다.기둥등은, 주홍색칠로 마무리하는 일을 상정하고 있던 같습니다.신도의 신사(shrine)의 신사앞 기둥문을 연상시킨다, 과연, 「현대 일본 양식」의 설계입니다.
사진왼쪽.이즈모환(izumomaru)의 2등 (second class) 흡연실(smoking room)(설계자 불명.1941년제작).

 

 

이상, (주로, 제이차 세계대전 이전에 있어서의), 일본의, 저명한 건축가들의, 일본의 여객선의 인테리어(내장)의 설계에 있어서의 구체적인 활약에 대해서, 보고 왔습니다만, 이하, 제이차 세계대전 이전에 있어서의 일본의 주요한 여객선의 인테리어(내장)에 있어서의, 일본의 예술가들의 협력에 대해 봐 가고 싶습니다.

 

사토 타케시조(sato takezo.일본의 화가·옻나무 공예의 공예가)는, 쿠메(kume) 건축 사무소(쿠메권 쿠로우(kume gonkuro.일본의 건축가.전회의 투고 참조)의 건축설계사무소와 함께, 일본의 여객선의 인테리어(내장)의 설계를 실시하고 있었습니다.현존 하는, 쿠메(kume) 건축 사무소의 칼라 스킴은, 모두, 사토 타케시조(sato takezo)의 손에 의한 것입니다(쿠메권 쿠로우(kume gonkuro)와 사토 타케시조(sato takezo)는, 옛부터, 친한 친구 관계에 있었습니다).이와 같게, 그 나라의 문화의 상징이라고도 말할 수 있는, 당시의 공업국의, 국제 항로 전용의 호화 여객선의 인테리어(내장)의 설계에는, 화가나 공예가의 협력도 필수였습니다.덧붙여서, 1932년부터 1939년에 걸치고(1939년, 제이차 세계대전의 발발에 의해, 일본에 귀국), 영국의 런던을 거점으로 활동하고 있던, 사토 타케시조(satotakezo)는, 당시 , 세계 최고의 호화 여객선 대국인, 영국의 호화 여객선의 선내 장식 설계도 다루고 있습니다.당시의, 유럽에서는, 저패니즘(Japonism.19 세기 후반부터 20 세기 처음에 걸치고, 만국 박람회(expo) 등을 통해서, 일본의 미술 공예품이, 구미(특히 유럽)에서 소개되어 대유행한 현상.「일본 취미」라고도 불려 이것들은, 서양 미술에도, 큰 영향을 주었다)의 영향에 의해, 옻나무의 공예품이 유행하고 있었습니다.이그조틱(exotic)으로, 외형에도 화려한 옻나무는, 유럽의 여객선으로도, 인기를 끌었습니다(예로서 프랑스의 호화 여객선, Normandie호(Normandie.1935년 완성.79,280 총 톤수(GT).완성 당시 , 세계 최대의 여객선) 등에는, 쟌·듀난.(Jean Dunand.옻나무 공예로 유명한, 스위스의 공예가) 제작의, 옻나무 패널이, 다수, 내걸 수 있고 있다).영국의 호화 여객선, 퀸·메리호(Queen Mary.1936년 완성.81,237 총 톤수(GT).완성 당시 , 세계 최대의 여객선이 될 것에서 만났지만, Normandie가, 개장되어 83423총 톤수(GT)가 되어 있던 때문, 완성 당시 , 세계에서 2번째로 큰 여객선.어느 쪽으로 해도, 호화 여객선 시대(제이차 세계대전전)에 있어서의, 세계 최대급의 여객선이었다)의 1등 (first class) 살롱(salon)의 캐비넷(cabinet)의 옻나무의 금칠한 그림(makie.일본의 옻나무 공예의 하나)로 호평을 얻었다(사토 타케시조(sato takezo)의 작품의 전시회를 본, 런던의 대규모 실내장식 회사가, 퀸·메리호(Queen Mary)에 장식하는 캐비넷(cabinet)의 장식을, 사토 타케시조(sato takezo)에 의뢰해 온), 사토 타케시조(sato takezo) 앞으로는, 영국등의 호화 여객선의 실내장식 설계의 의뢰가, 차례차례로 춤추었습니다.「현대 일본 양식」의 주요한 구성요소라고 할 수 있는 옻나무의 패널이, 서양의 호화 여객선에 대해도, 다용되고 있던 일은, 몹시 흥미롭다고 말할 수 있겠지요.

 

 

사진 좌상.도미니온·모나크(Dominion Monarch.1939년 완성.영국의 호화 여객선.27,155톤 (GT).남아프리카 연방(현재의 남아프리카공화국)을 경유해, 영국과 오스트레일리아를 연결하는 항로의 호화 여객선으로서 건조되었다.영국과 오스트레일리아를 연결하는 항로의 여객선으로, 사상, 최대 한편, 가장 호화로운 여객선이었다)의 드로잉 룸(drawing room)의 장식(1939년제작.사토 타케시조(sato takezo) 작).
사진 우상.선명, 선실 불명(사토 타케시조(sato takezo) 작.1940년경으로 추측된다).우하에, 쿠메(kume) 건축 사무소의 표가 날인 되고 있다.깊은 신뢰 관계아래, 공동으로 설계하고 있던 일이, 물을 수 있다.
사진하.카시하라환(kashiharamaru) 1등 (first class) 독서실의 옻나무 패널 습작(1940년경 제작.사토 타케시조(sato takezo) 작).쿠메권 쿠로우(kume gonkuro)와 함께 설계한 일실.

 

일본의 호화 여객선의 인테리어(내장)의 설계에는, 건축가에 가세하고, 화가, 공예가등 , 당시의 일본을 대표하는, 일류의 예술가들이 집결 당했습니다.다만, 화가나 공예가의 경우는, 대부분, 내장의 공간 그 물건에 관련된다고 하는 것보다는, 자신의 회화를 벽면 패널로서 제공해, 실내 공간의 일부를 장식하는 일로, 선내에 흥취를 더한다고 하는 것이, 일반적이었습니다.예를 들면, 마츠다 군페이(matsuda gunpei.일본의 건축가.전회의 투고 참조)가, 설계한, 야와타환(yawatamaru.일본의 여객선.1940년 완성.17,150 총 톤수(GT))의 일등(first class) 사교실에는, 야마키타 지로우타(yayakita jirota.일본의 화가)에 의한 거대한 벽화, 「원유도」가 장식되어보다 선내를 화려하게, 그리고, 일본 취미 넘치는 공간에, 연출하고 있습니다.또, 무라노 도고(murano togo)가 설계한, 환(BRASIL maru.일본의 여객선.1939년 완성.12,752톤(GT))의, 1등 (first class) 사교실에서는, 야마가 세이카(yamaga seika 일본의 염색가)의 호화현난인 직지가 벽면을 장식해, 나카무라순평(nakamura jyunpei)이 설계한, 닛타환(nittamaru.1940년 완성.17,150 총 톤수(GT).일본의 여객선)의 1등 (firstclass) 사교실에서는, 마쓰다 곤로쿠(matsuda gonroku.일본의 옻나무 공예의 공예가)에 의한, 수양버들과 천랑의 서북옻나무 패널이, 요염한 실내 공간을 낳고 있습니다.또, 유감스럽지만, 사진마저도 현존 하지 않습니다만, 후지타 쓰구하루(fujita tsuguharu)(1886 년생, 1968년에 죽는다.1920년대부터, 세계적인 명성을 얻은, 일본의 유명한 서양화가.만년(1955년)에는, 프랑스 국적을 취득)도, 텐잔환(tenzanmaru.일본의 여객선.1942년 완성.7,908 총 톤수(GT))의 선내에, 천산 산맥을 그린 회화를 제공했다고 말해지고 있습니다.또, 확실하지는 않습니다만, 1940년에 완성한, 닛타환(nittamaru)에도, 후지타 쓰구하루(fujita tsuguharu)의 회화가 장식될 예정이 있었다고 전해지고 있습니다.덧붙여서, 여객선이 아닙니다만, 일본해군의 전함, 무사시(musashi.기준 65,000톤.가득 72,809톤.1942년 완성.같은 일본해군의, 다이와(yamato.1941년 완성)과 함께, 세계의 역사상, 최대의 전함)의 함장실에, 요코야마 다이칸(yokoyamataikan.일본의, 유명한 근대 일본 전통 화가)가 그린, 먹일색의, 후지산의 축이 장식되어 있었습니다.제이차 세계대전에 의해, 일본의, 대부분의 여객선(특히, 여객선 중(안)에서도, 비교적 고성능으로, 비교적 대형인, 해외 항로 전용의 호화 여객선에 관해서는, 거의 모두)이 격침되어 바다의 말 부스러기로 사라졌습니다.그리고, 일본의 여객선의 선내에 장식되어 있던, 미술 작품도, 배와 함께, 바다의 바닥으로 사라졌습니다.여객선내에 설치된, 회화나 장식 패널은, 흔들려도 떨어지지 않게 튼튼하게 고정되고 있던 일로부터, 배가, 전쟁으로 징용 될 때도, 떼어내 피난시키는 것이 어려웠을 것이다라고 추측됩니다.이만큼의 예술가가 여객선의 실내장식에 협력하면서도, 그 작품이, 현존 하지 않는 것은, 유감이다라고 말할 수 있겠지요.

 

사진 이하 2매.이 전람회(exhibition)의 팜플렛(booklet)보다...

 

 

사진왼쪽.닛타환(nittamaru.일본의 여객선.1940년 완성)의 1등 (first class) 사교실의 서북옻나무 패널(1940년경 제작.나카무라순 히로시(nakamura jyunpei)·마쓰다 곤로쿠(matsuda gonroku) 작).나카무라순평(nakamura jyunpei)이 설계한 실내에, 후에, 인간 문화재가 되는, 마쓰다 곤로쿠(matsuda gonroku)가, 나카무라순평(nakamura jyunpei)과 공동으로, 서북옻나무 패널을 제작했다.금지에, 수양버들과 천랑의 선명한 녹색이 빛나는, 서북옻나무 패널은, 느슨한 곡선을 그려, 사교실의 전후의 네 귀퉁이에, 끼워 넣어지고 있었다.
사진 우하.야와타환(yawatamaru.일본의 여객선.1940년 완성)의 1등 사교실의 회화(1940년경 제작.야마키타 지로우타(yayakita jirota) 작).

 

 

 

완치인 환(Argentina maru.일본의 여객선.1939년 완성)의 1등 (first class) 식당(dining room·레스토랑)의, 옻나무문(1938년부터 1939년경 제작.도오모토 옻나무헌작).무라노 도고(murano togo)가 설계한, 완치인 환(Argentina maru)의 1등 (first class) 식당(dining room·레스토랑)의, 배면의 만들어 붙여 붕비부분을, 후에 문화 훈장을 수상하는, 도오모토 옻나무채(일본의 옻나무 공예의 공예가)가 제작했다.완치인 환(Argentina maru)은, 1942년에, 일본해군에 매입할 수 있어 나가사키(nagasaki) 조선소에 의해, 항공 모함으로 개조되었다.그 때, 가구나 일상 생활 용품은, 육지에 올릴 수 있었던 때문, 행운에도, 옻나무문만은, 제이차 세계대전에 의한 전화를 면했다.제이차 세계대전 이전의, 일본의 여객선의 가구가, 거의 현존 하지 않기 때문에, 매우 귀중한 자료이다.

 

이하, 제이차 세계대전 이전에 있어서의, 일본의 주요한, 여객선의 인테리어(내장)에 있어서의, 일본내의 장식 업자등의 활약에 대해서, 봐 가고 싶습니다.

 

(일본의 여객선의 인테리어(내장)에 대해) 일본의 건축가들이 활약하기 이전으로부터, 일본의 여객선의 인테리어(내장)의 설계에, 재빨리 종사해, 높은 기술을 축적해 갔던 것이, 조선소의 기사나, 백화점의 장식 부문의 기사들이었습니다.근대에 있어서의, 일본의 여객선의 인테리어(내장)의 역사에 있고, 이름도 없는, 그들의 활약은, 놓칠 수가 없습니다.일찌기, 카와사키(kawasaki) 조선소나, 미츠비시(mitsubishi), 나가사키(nagasaki) 조선소와 같은, 근대적인, 고성능·장거리 항해 전용의 여객선을 다루는, 큰 규모의 조선소에는, 선내 장식 설계를 자사에서 조달하기 위해, 도쿄 미술 학원(도쿄 예술대학의 전신의, 고등교육 기관)의 도안(design) 과등을 졸업한, 장식 설계를 배운 기사가 근무하고 있었습니다.당초는, 중요도의 낮은, 객실의 인테리어(내장)의 설계등이 중심인 그들도, 조금씩, 1등 (first class)이나 2등 (second class)의 공실(승객의 공용 장소)의 설계를 다루는 것처럼 되었습니다.카시하라환(kashiharamaru)의 건조의 무렵에는, 마치, 건축가의 설계에 우수한다고도 뒤떨어지지 않는 같은, 1등 (firstclass) 공실(승객의 공용 장소)의, 칼라 스킴을 남기기까지 되어 있습니다.또, 백화점의 장식 부문의 활약도, 훌륭한 것이 있었습니다.아직, 일본이, 본격적인 중공업화를 시작하고 나서 얼마 되지 않은, 호화 여객선 시대의 개막의 무렵부터, 이미, 일본의 근대 여객선의 인테리어(내장)의 설계에 종사하고 있던, 다카시마야(Takashimaya.일본의 백화점 chain.본점은, 오사카.1831년, 쿄토에서 창업한 백화점 chain로, 오사카에는, 1898년에 진출, 도쿄에는, 1922년에 진출했습니다) 등은, 그 기술의 확실함으로부터, 수많은 , 일본의 여객선의 인테리어(내장)를 다루는 일이 되었습니다.당시 , 일본의 백화점에는, 장식 부문이 설치되고 있었습니다만, 그들은, 매장판매용의 가구 설계라고 말하는 것보다는, 큰 법인의 일을 하청받기 위해, 특별히 설치된, 디자인(design) 집단이었습니다.당시의 일본의 백화점의 장식 부문은, 백화점 관계의 일이라고 말하는 것보다도, 현재의 디자인(design) 회사의 같은 일을 실시하고 있었습니다.또, 카와시마(kawashima) 직물(1843년 창업의, 쿄토의, 직물·인테리어(내장)·섬유 회사.전전번의 투고 참조)는, 만국 박람회(expo) 등에서, 이미, 세계적으로 높은 평가를 전`세라고, 서양식의 가구나 실내장식 설계에는, 탁월한 기술력과 디자인(design) 력을 자랑하고 있었습니다.아직, 일본이, 여객선의 인테리어(내장)에 대하고, 영국의 같은, 여객선의 인테리어(내장)의 선진국의 장식 업자에게 의지하고 있었던 시대에, 이와 같은, 일본내의 장식 업자가 활약하고 있던 사실은, 주목할 만한다고 말할 수 있겠지요.이와 같은, 이름도 없는 것, 그들의, 지식이나 기술의 축적이 토대가 되어, 「현대 일본 양식」이 탄생해, 일본의 여객선의 인테리어(내장)의 역사가, 뽑아져 갔습니다.

 

사진 이하 2매.이 전람회(exhibition)의 팜플렛(booklet)보다...

 

 

봄날환(kasugamaru)의 1등 (first class) 흡연실(smoking room)(다카시마야(Takashimaya)의 장식 부문이, 1940년경 설계).봄날환(kasugamaru)은, 완성을 기다리지 않고 항공 모함으로 개조된, 환상의 일본의 호화 여객선입니다.닛타환(nittamaru.일본의 호화 여객선.1940년 완성)이나 봄날환(kasugamaru)의 건조의 무렵에는, 일본의 주요한 여객선의, 주요한, 1등 (first class)의 공실(승객의 공유 장소)의 공간의 설계를, 다카시마야(Takashimaya)의 장식 부문이나, 나가사키(nagasaki) 조선소의 기사들이, 다루는 것처럼 되어 있습니다.그들의 설계한, 여객선의 실내 공간은, 당시의, 일본의 유명한 건축가의 물건과 비교하고, 결코, 열등하는 것이 아닙니다.높은 기술과 디자인(design) 력을 갖추고 있었다고 말할 수 있습니다.

 

 

 

사진 좌상.닛타환(nittamaru.1940년 완성)의 1등 (first class) 식당(dining room·레스토랑).미츠비시(mitsubishi), 나가사키(nagasaki) 조선소 설계.
사진 우상.닛타환(1940년 완성)의 일등(first class) 특별 객실(deluxe room)의 의자.미츠비시(mitsubishi), 나가사키(nagasaki) 후나도코로 설계.
사진 좌하.아사마환(asamamaru.1929년 완성.16,947톤(GT).일본의 호화 여객선)의 일등(first class) 특별 객실(deluxe room)의 거실(living room).카와시마(kawashima) 직물 설계.
사진 우하.아사마환(asamamaru.1929년 완성)의 일등(first class) 특별 객실(deluxe room)의 거실(living room)의, 철직패널 원화 「모모조노 나라시대의 연호 미인」(1929년).카와시마(kawashima) 직물 제작.

 

이하, 다시, 일본의 여객선의 인테리어(내장)의 역사의 흘러에, 돌아옵니다.

 

제이차 세계대전에 의해, 주요한 공업국은, 여객선의 인테리어(내장)라고 하는 문화가 아니고, 무력 그 자체로 싸우는 시대에 돌입했습니다.1941년부터 1945년(일본이 제이차 세계대전에 참전하는 전야부터, 일본이, 미국을 중심으로 한 연합국에 패전할 때까지 )에 걸치고, 일본의 여객선(특히, 해외 항로 전용의 고성능 여객선)의, 대부분은, 일본군에 징용 되어 안에는, 항공 모함에 개조된 것도 있었습니다.제이차 세계대전에 의해, (일본을 포함한다) 세계의, 호화 여객선으로 불린 배는, 거의 전멸 했습니다.그리고, 제이차 세계대전의 집결에 의해, 호화 여객선의 시대는, 마지막을 고했습니다.

 

 

사진상.카시하라환(kashiharamaru.1942년 완성 예정)의 완성 예상도.카시하라환(kashiharamaru.1939년 건조 개시, 1942년 완성 예정.27,700톤(GT))은, 일본우선(Nippon Yusen) 주식회사가, (1936년에 독일의 Berlin로 개최된 하계 올림픽에 계속해) 1940년에 개최될 것이었다, 도쿄 올림픽(Olympics)(하계 Olympics)( 제2차 세계대전에 의해 중지)의 전후에 맞추는 것처럼, 차례차례로 투입할 예정인, 새로운 호화 여객선의 하나로, 일본의 여객선 사상, 최고의 호화 여객선이 될 리가, 취항하는 무사히, 항공 모함, 하야부사매(jyunyou)로 개조되었습니다.덧붙여서, 카시하라환(kashiharamaru)과 동급의 호화 여객선으로서 취항할 예정으로 있던 이즈모환(izumomaru)(27700톤(GT))도, 역시, 건조 도중에, 항공 모함으로 변경되었습니다(항공 모함, 비응(hiyou)).
사진하.카시하라환(kashiharamaru)으로부터 개조된, 일본해군의 항공 모함, 하야부사매(jyunyou).카시하라환(kashiharamaru)은, 1939년에 건조를 개시해, 1942년의 완성을 예정하고 있었다.이미, 최종 배치도나 칼라 스킴은 갖추어져, 일부, 공사에 착수하기 시작했던 바로 직후에서 만났지만, 시국의 악화에 의해, 완성을 기다리지 않고 , 항공 모함, 하야부사매(jyunyou)로 개조되었다.

 

 

요코하마 산책&음식 4에 계속 된다...

 

사진 이하, 판차이 방지적인 사진이 되어 버립니다만...

 

사진 이하 2매.조금 전의 이야기가 됩니다만, 8월의 제일 목요일(이하, 이 날이라고 씁니다)에, 일의 용무로, 이세자키쵸(isezakicho)(요코하마 도심부의 옛부터의 서민적인 번화가) 및, 그 주변을 방문했을 때에, 거래처 회전의 사이에, 전부터, 조금 신경이 쓰이고 있던, 커피(coffee) 콩에, 조건이 있을 것 같은, 이세자키쵸(isezakicho)의 커피(coffee) 두점(점내에서, 커피(coffee)를 마실 수 있는 것처럼도 되어 있다)로, 좀 쉬었을 때에, 차가운 커피(coffee)와 함께 먹은, 커피 젤리(coffee jelly).이 가게는, 이 때, 처음으로 이용했습니다.이 가게는, 이 때를 포함하고, 2회 이용하고 있습니다만(어느 쪽때도, 커피 젤리(coffee jelly)를 먹고 있다), 이 가게의 커피 젤리(coffee jelly)는, 꽤 맛있습니다.

 

 

이 때 먹은 것은, 모카(Mocha coffee)의, 커피 젤리(coffee jelly)였는지...

 

 

 

 

먹고 있는 도중...

 

 

 

사진 이하 4매, 이 날(8월의 제일 목요일), 거래처 회전을 끝낸 후, 적당하게 눈에 띄어 들어간, 이세자키쵸(isezakicho) 주변의, 저렴하고(싸서) 서민적인, 중국 요리 식당에서 먹은, (이 날의) 저녁 식사.이 가게, 매우 싼 것은 좋았습니다만(개인적으로, 좋은 점은, 대체로, 그 만큼일지도...w), 맛은, 전반적으로, (맛이 없지는 않은데), 좀 더였습니다.이 가게는, 이 때, 처음으로 이용했습니다만, 이 때 이래, 이용하고 있지 않습니다.

 

 

두부(이렇게 총이 실려 온다는 것은, 생각하지 않았다...).

 

 

 

 

담담면(Dandan noodles).

 

 

 

 

 

닭의 튀김(닭고기의 튀김).

 

 

 

 

 

원반형의, 새우, 교자(dumpling).이것은, 그저 맛있었습니다.

 

 

 

사진 이하 10매.덤...전에, enjoy와 kj로, 업(upload) 한 사진의 재이용입니다만, 요코하마의 도심부의 해안에 있는, 북구요리 레스토랑.이 레스토랑은, 요코하마에서, 마음에 드는 레스토랑의 하나가 되고 있습니다.

 

 

레스토랑의 외관.이 레스토랑은, 1963년에 개업한, 북구요리 레스토랑입니다만, 이 레스토랑이 들어가 있는 건물은, 1920년대에 지어진 건물입니다.

 

 

이 레스토랑은, 비교적 캐쥬얼(casual)인 분위기의 1층으로 비교적 포멀(formal)인 분위기의 2층으로 나누어져 있습니다(2층쪽은, 비교적, 중후하고, 호화로운, 내장이 되고 있습니다).2층보다, 1층쪽이, 싸고, 간이(간소)인, 요리를 먹을 수가 있습니다.1층쪽은, 대중점이라고 한 느낌으로, 누구라도(라고 하면 과언일지도 모릅니다만, 대다수의 사람들)가, 부담없이 들르고, 평상시(일상시에) 식사하는(외식한다) 장소로서 사용할 수 있습니다.이것에 대해, 2층쪽은, 고급 class의 가게가 되고 있어(가장, 고급 class의 가게로서는, 식사는, 그렇게, 비싼 분은 아니다(비교적 싼 분..)), 뭐, 유복한 사람은, 예외지만, 적어도, ( 나의 같은) 서민은, 어느 쪽일까하고 말하면, 무엇인가, 약간의 특별한 날의 식사에, 이용하는 장소라고 한 느낌입니다(저녁 식사(dinner)에 관해서는...점심 식사(lunch)는, 그렇게는 아니지만, 어느 쪽으로 해도, 1층에서 먹는 것보다도, 비싸게 든다..).

 

사진 이하 9매.이 레스토랑의 1층의, 내장 및, 식사등.1층쪽은, 비교적, 캐쥬얼(casual)인 분위기로, 가격적으로, 대중점이라고 한 느낌입니다만, 떠들썩하고, 대중점적인 분위기라고 한 느낌이 아니고, (1층쪽이나), 침착한 분위기로, 식사를 할 수가 있습니다(2층쪽이, 쭉, 중후하고, 호화로운 내장입니다만...).

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하도, 덤으로, 전에 enjoy와 kj로 업(upload) 한 사진입니다만, 요코하마의 도심부의 해안에 있는 호텔, Pan Pacific Yokohama Bay Hotel Tokyu의, 바이킹(buffet) 레스토랑, 「Cafe Tosca」.창으로부터 보이는, 큰 관람차는, 일찌기, 세계 최대의 관람차인, cosmo clock입니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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