食べ物

 

少し前の事になりますが、4月の後半に、府中(fucyu)市美術館に、歌川 国芳(utagawa kuniyoshi)の展覧会(exhibition)を見に行って来た時の物です。

 

府中(fucyu)は、東京の西の郊外に位置する中都市で、東京の都心部から近くも無ければ遠くもない、中位の距離の郊外に有ります。基本的には、東京都心部に通勤する人々が、多く暮らす、東京の西の郊外の静かで落ち着いた住宅地域となっています。府中(fucyu)の中心地の南部には、大國魂(ookunitama)神社(shrine)(111年創建)と言う、とても古い歴史を有する規模の大きな神社(shrine)があり、そこで、毎年、春に行われる、長い伝統を誇る、くらやみ(kurayami)祭は、東京圏で行われる多くの祭の中でも、かなり規模が大きな有名な祭となっています。個人的に、父方の伯母が府中(fucyu)に住んでおり、私は、子供の頃、いとこ(cousin)、伯母、伯父、私の両親等と供に、くらやみ(kurayami)祭に、遊びに行ったりしました。

 

府中(fucyu)市美術館は、府中(fucyu)市が運営する公立の美術館で、日本に多く有る、公立の美術館の内の一つです。

 

写真以下7枚。この日、昼食は、府中(fucyu)市美術館の近くに有る(近くとは言っても、府中(fucyu)市美術館からは、歩きだと10分強位の所に有ります)、フランス料理レストランで食べました。このレストランは、この時で、利用するのは、2回目でした。


 

 

 

写真以下6枚。この時、食べた昼食。これにパンが付きます。


 

前菜。一人一皿ずつ。

 

 

私が飲んだ、海老とホタテ(帆立)のクリーム(cream)系スープ(soup)。スープ(soup)で見えませんが、下の方に、海老とホタテ(帆立)が、入っています。

 

こちらは、野菜のトマト(tomato)系スープ(soup)。

 

 

 

私が食べた、メイン(main)料理。仔牛(牛肉)のヒレ肉(fillet)だったかな?を使った料理。

 

 

こちらは、海老とホタテ(帆立)を中心とした魚介類(seafood)のパイ(pie)皮包み焼き系の料理。

 

 

デザート(dessert)。ルバーブ(rhubarb)のタルト(tart)(左)、パッションフルーツ(passion fruit)のシャーベット(sherbet)(右)。一人、一皿ずつ。

 

府中(fucyu)市美術館は、府中(fucyu)の森公園(府中(fucyu)の、(比較的中心地域に近い)北部に有る、広い公園)の中に有ります。

 

府中(fucyu)の森公園周辺の風景。

 

 

写真以下6枚。府中(fucyu)の森公園。調度、この時、公園の新緑が綺麗でした。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

公園内の桜並木。私は、この場所に桜の花の時期に来た事が有りませんが、桜の花の時期は、綺麗な事でしょう。

 

 

 

写真以下8枚。府中(fucyu)市美術館。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この時、府中(fucyu)市美術館で、行われていた、歌川 国芳(utagawa kuniyoshi)(下の補足説明参照)の展覧会(exhibition)を見て来ました。尚、この日は、丸一日休みではなく、展覧会(exhibition)を見た後、仕事に向かいました。

歌川 国芳(utagawa kuniyoshi):歌川 国芳(utagawa kuniyoshi)(1798年生まれ、1861年に亡くなる)は、東京(江戸(edo))の染物業を営む商人(職人?)の家に生まれ、実家とは別の染物屋で修行中の12歳の時に描いた絵が(絵が好きで、幼い頃(7、8歳の頃)から、版本を手本に絵を描いていた)、歌川 豊国(utagwa toyokuni。1769年生まれ。1825年に亡くなる。当時活躍していた、(大衆)画家・(大衆)版画家(浮世絵師))の目にとまった事が、画家を志すきっかけとなった(後に、歌川 豊国(utagwa toyokuni)に弟子入りした)、19世紀初めから半ばまで活躍した、日本の有名な、(大衆)画家・(大衆)版画家(浮世絵師)です。歌川 国芳(utagawa kuniyoshi)は、奇抜な作品を数多く残した画家(版画家)として有名です。


この展覧会(exhibition)の展示作品(約230点)は、全て、ある一人の、歌川 国芳(utagawa kuniyoshi)の作品の収集家(collector)の、2,000と数百点にも及ぶ、歌川 国芳(utagawa kuniyoshi)の作品コレクション(collection)の中から貸し出された物でした。

 

現在は、個人的に、展覧会(exhibition)を見に行っても、めったに、カタログ(catalogue)を買わないのですが、この時、思わず買ってしまったカタログ(catalogue)。ちなみに、昔は、あまり展覧会(exhibition)に行かなかったのですが、展覧会(exhibition)に行ったら、結構カタログ(catalogue)等を買っていました。逆に、美術館及び、美術館等で開催される展覧会(exhibition)に、ちょくちょく(頻繁に)行く様になってから(私が、美術鑑賞に広く興味を持ち、美術館及び、美術館等で開催される展覧会(exhibition)に、よく足を運ぶ様になったのは、ここ、7、8年位の話です)、展覧会(exhibition)に行っても、わざわざカタログ(catalogue)を買う様な事は、ほとんどなくなりました。

 

写真以下50枚。歌川 国芳(utagawa kuniyoshi)の作品(この展覧会(exhibition)の展示作品例)。個人的に、歌川 国芳(utagawa kuniyoshi)の作品は、後の時代の、日本の漫画やアニメ(anime)に通じる部分が、少なからずあると思います。ちなみに、上の写真のカタログ(catalogue)の表紙となっているのは、「道外化もの夕涼み」(1830年代末から1840年代前半)の部分です。

 

「頼朝時代きやうげんづくし」(1815年)。

 

 

「頼朝光土蜘蛛の妖怪を斬る図」(1810年代後半から1820年代初め)。

 

 

「坂田怪童丸」(1830年代半ばから1830年代後半)。

 

 

「文月の七夕」(1830年代半ばから1830年代後半)。

 

 

「清月の月」(1830年代半ばから1830年代後半)。浴衣(yukata)(下の補足説明参照)の柄は、19世紀に流行した雪の結晶になっています。

浴衣(yukata):暑い時期(主に夏)に着られる、日本の伝統衣装。簡易の着物(kimono)の様な物。現在の様な形で、庶民の間で着られる様になったのは、江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)になってから。江戸(edo)時代に入ってから庶民(現代日本人の若い女性等が、祭りの時等に好んで着る様な、華やか若しくは複雑な柄の物を、当時(江戸(edo)時代)、着る事が出来たのは、商人層等、比較的裕福な庶民層?)の愛好する衣類の一種となった(wikiを参考にしました)。

 

 

「春の虹」(1836年)。女性が手に持って食べているのは、鰻の蒲焼です。

 

 

「五行の内 西瓜の水性」(1843年から1846年)。

 

 

「魚の心」(1840年代前半)。

 

「二十四孝童子鑑 大舜」(1840年代前半)。

 

「百種接分菊」(1845年頃)。江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)、園芸が盛んになり(上流階級等の間だけで無く、都市庶民層等の間でも、園芸への関心が広がり)、新しい品種を生み出す技術が進みました。これは、一本の木に異なる種類の木をついで、百種類にも及ぶ花を咲かせた、「百種接分菊」を描いた物です。菊の周りに、小屋を設けた展示の様子が描かれており、商人層等の東京(当時は、江戸(edo)と呼ばれていた)市民が、それを見物する姿が描かれています。絵の中の説明書きは、「これまでにも、十種、二十種の、つぎわけはあった。菊の名花だけを選び百品をつぎわけ、形も色も異なる花の名を一つ一つ掲げて、観覧に供する」と言った内容で、東京(江戸(edo))の駒込(komagome)の今右衛門という植木屋の名が記されています(絵に関する説明は、カタログ(catalogue)の説明文を参考にしました)。

 

「子供遊八行の内 智」(1830年代末から1840年代前半)。草履(履物)隠しのゲーム(game)をする子供達を描いた物です。右下の子供は、寝ている犬の下に、草履(履物)を隠そうとしています。

 

「子供遊八行の内 礼」(1830年代末から1840年代前半)。左には、人形を背負い、母親の真似事をする女の子。その右では、年上の子供が、年少の子を世話する様子が描かれています。その後ろには、それに無関心な、ペット(pet)の猫が描かれています。

 

「新版子供遊び之内 雪あそび」(1830年代末から1840年代前半)。雪で遊ぶ、子供達を描いた物です。

 

以下2枚は、現代の漫画等に、かなり通じる部分の有る、時代を先取りした作品だと思います。

 

「荷宝蔵壁のむだ書き(黒腰壁・「さやあて」とある図)」(1847年から1848年頃)。

 


「荷宝蔵壁のむだ書き(黒腰壁・「しめたしめた」とある図)」(1847年から1848年頃)。

 


「欠留人物更紗 十四人のからだにて三十五人にミゆる」(1830年代末から1840年代前半)。14人の体で、35人に見えると言った題名の作品なのですが、大雑把に描かれており、実際は、14人の体で、35人に見える訳では無いと思います。とは言え、後の時代のM.C. Escher(1898年生まれ。1972年に亡くなる)の作品を思わせる様な、不思議な作品です。

 

「当ル奉納願お賀久面」の部分(1848年頃)。

 

 

「甲越勇将伝 武田家廿四将 三討死之内 諸角豊後守昌清」(1840年代後半から1850年代前半)。

 

「艶曲揃」(1853年)。艶っぽい(色気がある・なまめかしい)内容の本を読む女性を描いたシリーズ(series)です。

 

 

「八代目市川団十郎 見連摺物」(1854年)。

 

 

「忠臣蔵十一段目夜討之図」(1830年代前半)

 

 

「義士の忠誠芳戯」(1840年代後半)

 

 

「道外てうちんぐら 三段目・四段目」(1840年代前半)。

 

 

「蝦蟇手本ひやうきんぐら 四段目」(1840年代後半)。

 

写真以下2枚。歌川 国芳(utagawa kuniyoshi)は、奇抜な作品を数多く残した画家(版画家)として有名ですが、もちろん?、この様な、まともな?絵も上手でした。

 

「納涼立美人図」

 

「納涼立美人図」の部分。

 

 

「水を呑む大蛇図」

 

 

「近江の国の勇婦於兼」(1830年代前半)

 

 

 

「相州江之島之図」(1850年代初め)。 東京の南部近郊、現在は、東京areaに暮らす人々にとって、最も身近なビーチリゾート(beach resort)地となっている湘南(syonan)の、江ノ島(enoshima)areaに有る、陸続きの小さな島、江ノ島(enoshima)は、中世の頃(12世末頃)からの行楽地で、特に、江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)から現在に至るまで、庶民の行楽地として栄えて来ました。江ノ島(enoshima)の、(陸側から見た)裏側は、確かに、この様な、岩場になっているのですが、この絵は、かなり誇張して描かれています。

 

「朝比奈小人島遊」(1840年代後半)。小人達が、巨人に、全く動じていない(動揺していない)点等が、面白い作品です。

 

 

「相馬の古内裏」(1840年代半ばから後半)。よく知られた、歌川 国芳(utagawa kuniyoshi)の代表作の一つです。

 

 

「鬼若丸と大緋鯉」(1840年代半ばから後半)。

 

 

「五拾三次の内 岡崎の場」(1835年)。

 

 

「竹沢藤次 独楽の化物」(1844年)。

 

写真以下2枚。「化物忠臣蔵」(1830年代末から1940年代前半)の部分。後の時代の、漫画等に、かなり通じる部分が有ると思います。

 

 

 

 

 

 

 

「猫と遊ぶ娘」(1840年代初めから1840年代半ば)。団扇(uchiwa)用の団扇(uchiwa)絵(木版画)です。


「くつろぐ夏の猫美人たち」(1830年代末から1940年代前半)。団扇(uchiwa)用の団扇(uchiwa)絵(木版画)です。

 

「つくづくけん」(1847年)。

 

 

「金魚づくし いかだのり」(1830年代末から1940年代前半)。

 

写真以下3枚。現代の漫画や現代art等に、通じる部分の有る、かなり時代を先取りした作品だと思います。

 

「荷宝蔵壁のむだ書き(黄腰壁・「これわ大でき」とある図)」(1847年から1848年頃)。

 

「荷宝蔵壁のむだ書き(黄腰壁・「月もといなばの助」とある図)」(1847年から1848年頃)。

 

 

「荷宝蔵壁のむだ書き(黄腰壁・「さけがのミてへ」とある図)」(1847年から1848年頃)。

 

 

「荷宝蔵壁のむだ書き(黄腰壁・「月もといなばの助」とある図)」(1847年から1848年頃)の部分。

 

 

「絵鏡台合かが身(みみずく・獅子・般若面)」(1830年代末から1840年代前半)。庶民が買って来て、切り抜いて、自分で、団扇(uchiwa)の表裏に貼って楽しむ為の絵、団扇(uchiwa)絵(木版画)です。

 

「其面影程能写絵 おかづり、えびにあかがひ」(1830年代末から1940年代前半)。

 

 

「嵌め絵 こま」(1840年代前半)。

 

 

左、「両面相 だるま・げどふ、伊久・とくさかり」(1840年代後半から1850年代半ば) 右、「両面相 ほてい・あさひな、張飛・せうき」(1840年代後半から1850年代半ば)。上下どちらから見ても顔になる絵です。この様な絵(上下どちらから見ても顔になる絵)は、何も、歌川 国芳(utagawa kuniyoshi)が生み出した斬新な物では無く、昔から、中国にあったそうです。

 

写真以下2枚は、「猫の当字」と言う、猫が寄り集まって、文字を作るシリーズ(series)の、「たこ(蛸)」と、「ふぐ(フグ・河豚)」です。

 

左、「猫の当字 ふぐ」(1840年代前半)。 右、「猫の当字 たこ」(1840年代前半)。

 

 

「みかけハこハいがとんだいい人だ」(1848年頃)。よく知られた、歌川 国芳(utagawa kuniyoshi)の代表作の一つです。「見掛け(外貌)は、怖いが、良い人だ」と言った感じの題名の絵で、多数の人物を組み合わせて、一人の人物として描き出した作品です。

 

 

府中(fucyu)市美術館の展覧会(exhibition)のスケジュール(schedule)のパンフレット(leaflet)。

 

 

表紙になっているのは、円山 応挙(maruyama oukyo)(下の補足説明参照)の、犬を描いた作品、「時雨狗子図」(1767年)の部分。
円山 応挙(maruyama oukyo):1733年生まれ。1795年に亡くなる。18世紀後半に活躍した、日本の有名な画家(絵師)。

 

 

来年の春に府中(fucyu)市美術館で、行われる予定の、江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)の人物画の展覧会(exhibition)に展示される予定の絵の一つ。曾我 蕭白(soga syohaku)(下の補足説明参照)の作品、「美人図」(18世紀)。
曾我 蕭白(soga syohaku):1730年生まれ。1781年に亡くなる。18世紀に活躍した、日本の有名な画家(絵師)。超有名と言う程では無い。

 

府中(fucyu)市美術館は、企画展(exhibition)だけでなく、収蔵品(collection)の展示(常設展示)も、行っています。府中(fucyu)市美術館は、19世紀から現在に至るまでの、日本の有名な画家の作品を中心とした、幅広い、コレクション(collection)を有している様ですが、牛島 憲之(ushijima noriyuki)(下の補足説明参照)の作品の、充実したコレクション(collection)を有している所が、特徴となっています。

牛島 憲之(ushijima noriyuki):1900年生まれ。1997年に亡くなる。1920年代後半から1990年代にかけて活躍した、日本の、有名な、近代・現代画家。熊本(kumamoto)県出身、世田谷(setagaya)区(東京中心部(東京23区)の西端に位置する区)在住だったが、身近な郊外で有る府中(fucyu)によくスケッチ(sketch)をしにに出かけた(wikiを参考にしました)。

 

写真以下2枚。絵葉書の写真で、申し訳有りませんが、府中(fucyu)市美術館収蔵の、牛島 憲之(ushijima noriyuki)の作品例。

 

「田園風景」(1944年頃)。

 

 

「麦秋の道」(1955年頃)。

 

以下、おまけ。

 

写真以下5枚。先週の土曜日は、個人的に仕事だったのですが、仕事を終えた後、私の街(東京中心部(東京23区)の西部に位置する渋谷(shibuya)区の中北部)の北の隣り街(渋谷(shibuya)区最北部)の、結構馴染みの、庶民的な商店街を、ブラブラ。。。どの店で、夕食を食べようかと迷ったのですが(裏路地に新しく出来た、やきとん屋?が、ちょっと気になっているのですが、結局利用しませんでした)、結局、たまに利用する、西洋料理・創作料理レストランで、食べる事に決まりました。この西洋料理・創作料理レストランは、印象は、悪くはないのですが(たまに利用する分には良い)、個人的に、時々利用する店、又は、よく利用する、お気に入りの店にするには、何か、物足りない感じの店です。

 

樅の木の新芽のリキュール(liqueur)を使って作られたカクテル(cocktail)。さっぱりしています。

 

写真以下4枚。このレストランで食べた、先週の土曜日の夕食。全て二人で食べました。

 

エンガワ(ヒラメ・カレイの鰭を動かす為の筋肉)とキビナゴのカルパッチョ(carpaccio)、自家製ラー油載せ。

 

 

鮪の頬肉と、天使の海老(New Caledonia産の海老)のフリット(fritto)。マンゴー(mango)カレー(curry)ソース(sauce)。

 

 

シーフード(seafood)パスタ(pasta)。バジル(basil)ソース(sauce)。

 

 

黒トリュフ(truffle)の五穀米リゾット(risotto)。

 

以下、ガラクタ的な、おまけ。

 

写真以下2枚。名古屋(nagoya)(東京、大阪に次いで、日本第3位の都市圏人口を有する都市)の南部近郊に本店を構えるパン屋さん(名古屋(nagoya)都市圏を中心に店舗を展開している様ですが、東京にも進出しています)の天使のチョコレートリング(ring)と言うパン。中々美味しかったです。

 

 

 

 

 

 

マンゴー(mango)&パイナップル(pineapple)紅茶。

 

 

「シークレットコード 芸術・自然・科学を支配する神秘の法則」。所謂、黄金比(golden ratio)等に関する本なのですが、ちょっと面白そうかなと思って買ってみたものの、私は、理数系では無いので、ちょっと読んで、すぐ頭が痛くなって、ギブアップ(give up)しましたw。


미술관 산책&식사.

 

조금 전의 일이 됩니다만, 4월의 후반에, 후츄(fucyu) 시 미술관에, 우타하와 구니요시(utagawa kuniyoshi)의 전람회(exhibition)를 보러 갔다 왔을 때의 물건입니다.

 

후츄(fucyu)는, 도쿄의 서쪽의 교외에 위치하는 중 도시에서, 도쿄의 도심부로부터 근처도 없으면 멀지도 않은, 중위의 거리의 교외에 있습니다.기본적으로는, 도쿄도심부에 통근하는 사람들이, 많이 사는, 도쿄의 서쪽의 교외의 조용하고 침착한 주택지역이 되고 있습니다.후츄(fucyu)의 중심지의 남부에는, 대국혼(ookunitama) 신사(shrine)(111년 창건)라고 말한다, 매우 오래된 역사를 가지는 규모의 큰 신사(shrine)가 있어, 거기서, 매년, 봄에 행해지는, 긴 전통을 자랑하는, 어두운 곳(kurayami) 제는, 동경권으로 행해지는 많은 제 중(안)에서도, 꽤 규모가 큰 유명한 제가 되고 있습니다.개인적으로, 아버지 쪽의 백모가 후츄(fucyu)에 살고 있어 나는, 어릴 적, 사촌(cousin), 백모, 백부, 나의 부모님등과 보조자에, 어두운 곳(kurayami) 제에, 놀러 가거나 했습니다.

 

후츄(fucyu) 시 미술관은, 후츄(fucyu) 시가 운영하는 공립의 미술관에서, 일본에 많이 있는, 공립의 미술관 중의 하나입니다.

 

사진 이하 7매.이 날, 점심 식사는, 후츄(fucyu) 시 미술관의 근처에 있는(근처라고는 말해도, 후츄(fucyu) 시 미술관에서는, 걸음이라면 10분 강위의 곳에 있습니다), 프랑스 요리 레스토랑에서 먹었습니다.이 레스토랑은, 이 때로, 이용하는 것은, 2번째였습니다.


 

 

 

사진 이하 6매.이 때, 먹은 점심 식사.이것에 팬이 뒤따릅니다.


 

전채.일인일명씩.

 

 

내가 마신, 새우와 가리비(범립)의 크림(cream) 계 스프(soup).스프(soup)로 보이지 않습니다만, 아래쪽에, 새우와 가리비(범립)가, 들어가 있습니다.

 

이쪽은, 야채의 토마토(tomato) 계 스프(soup).

 

 

 

내가 먹은, 메인(main) 요리.송아지(쇠고기)의 필레육(fillet)이었는지?(을)를 사용한 요리.

 

 

이쪽은, 새우와 가리비(범립)를 중심으로 한 어패류(seafood)의 파이(pie) 가죽 싸 구이계의 요리.

 

 

디저트(dessert).르바브(rhubarb)의 과일 파이(tart)(왼쪽), 패션 프루츠(passion fruit)의 샤벳(sherbet)( 오른쪽).한 명, 일명씩.

 

후츄(fucyu) 시 미술관은, 후츄(fucyu)의 숲공원(후츄(fucyu)의, (비교적 중심지역에 가깝다) 북부에 있는, 넓은 공원)의 안에 있습니다.

 

후츄(fucyu)의 숲공원 주변의 풍경.

 

 

사진 이하 6매.후츄(fucyu)의 숲공원.세간, 이 때, 공원의 신록이 깨끗했습니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

공원내의 벚꽃길.나는, 이 장소에 벚꽃의 시기에 온 일이 없습니다만, 벚꽃의 시기는, 깨끗한 일이지요.

 

 

 

사진 이하 8매.후츄(fucyu) 시 미술관.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

이 때, 후츄(fucyu) 시 미술관에서, 행해지고 있던, 우타하와 구니요시(utagawa kuniyoshi)(아래의 보충 설명 참조)의 전람회(exhibition)를 보고 왔습니다.상, 이 날은, 꼬박 하루 휴일이 아니고, 전람회(exhibition)를 본 후, 일로 향했습니다.

우타하와 구니요시(utagawa kuniyoshi):우타하와 구니요시(utagawa kuniyoshi)(1798 년생, 1861년에 죽는다)는, 도쿄(에도(edo))의 염색물업을 영위하는 상인(직공?)의 집에서 태어나 친가와는 다른 염색물가게에서 수행중의 12세 때에 그린 그림이(그림을 좋아하고, 어릴 적(7, 8세의 무렵)부터, 판본을 표본에 그림을 그리고 있던), 우타가와 도요쿠니(utagwa toyokuni.1769 년생.1825년에 죽는다.당시 활약하고 있던, (대중) 화가·(대중) 판화가(강호시대의 풍속화사))의 눈에 멈춘 일이, 화가를 뜻하는 계기가 되는 것( 후에, 우타가와 도요쿠니(utagwa toyokuni)에게 입문 한), 19 세기 처음부터 중반까지 활약한, 일본의 유명한, (대중) 화가·(대중) 판화가(강호시대의 풍속화사)입니다.우타하와 구니요시(utagawa kuniyoshi)는, 기발한 작품을 많이 남긴 화가(판화가)로서 유명합니다.


이 전람회(exhibition)의 전시 작품( 약 230점)은, 모두, 어느 한 명의, 우타하와 구니요시(utagawa kuniyoshi)의 작품의 수집가(collector)의, 2,000으로 수백점에 달하는, 우타하와 구니요시(utagawa kuniyoshi)의 작품 콜렉션(collection)중에서 대출된 것이었습니다.

 

현재는, 개인적으로, 전람회(exhibition)를 보러 가도, 좀처럼, 카탈로그(catalogue)를 사지 않습니다만, 이 때, 무심코 사 버린 카탈로그(catalogue).덧붙여서, 옛날은, 너무 전람회(exhibition)에 가지 않았습니다만, 전람회(exhibition)에 가면, 상당히 카탈로그(catalogue) 등을 사고 있었습니다.반대로, 미술관 및, 미술관등에서 개최되는 전람회(exhibition)에, 가끔(빈번히) 가는 것처럼 되고 나서(내가, 미술 감상에 넓게 흥미를 가져, 미술관 및, 미술관등에서 개최되는 전람회(exhibition)에, 잘 발길을 옮기는 것처럼 된 것은, 여기, 7, 8년 정도의 이야기입니다), 전람회(exhibition)에 가도, 일부러 카탈로그(catalogue)를 사는 것 같은 일은, 거의 없어졌습니다.

 

사진 이하 50매.우타하와 구니요시(utagawa kuniyoshi)의 작품(이 전람회(exhibition)의 전시 작품예).개인적으로, 우타하와 구니요시(utagawa kuniyoshi)의 작품은, 후의 시대의, 일본의 만화나 애니메이션(anime)에 통하는 부분이, 많이 있다고 생각합니다.덧붙여서, 위의 사진의 카탈로그(catalogue)의 표지가 되고 있는 것은, 「미치소토화의 저녁 납량」(1830년대말부터 1840년대 전반)의 부분입니다.

 

「뢰조시대꼬치」(1815년).

 

 

「뢰조광땅거미의 요괴를 베는 그림」(1810년대 후반부터 1820년대 초).

 

 

「사카타 괴동환」(1830년대 중반부터 1830년대 후반).

 

 

「7월의 칠석」(1830년대 중반부터 1830년대 후반).

 

 

「세이게츠의 달」(1830년대 중반부터 1830년대 후반).유카타(yukata)(아래의 보충 설명 참조)의 모양은, 19 세기에 유행한 눈의 결정이 되어 있습니다.

유카타(yukata):더운 시기(주로 여름)에 입을 수 있는, 일본의 전통 의상.간이의 옷(기모노)(kimono)의 같은 것.현재의 같은 형태로, 서민의 사이에 입을 수 있는 것처럼 된 것은, 에도(edo) 시대(17 세기부터 19 세기 중반)가 되고 나서.에도(edo) 시대에 들어가고 나서 서민(현대 일본인의 젊은 여성등이, 축제의 때 등에 기꺼이 입는 것 같은, 화나인가 혹은 복잡한 모양의 물건을, 당시 (에도(edo) 시대), 입을 수가 있던 것은, 상인층등 , 비교적 유복한 서민층?)의 애호 하는 의류의 일종이 되었다(wiki를 참고로 했습니다).

 

 

「봄의 무지개」(1836년).여성이 손에 가지고 먹고 있는 것은, 뱀장어의 장어구이입니다.

 

 

「오행중수박의 수성」(1843년부터 1846년).

 

 

「물고기의 마음」(1840년대 전반).

 

「24효 동자감대순」(1840년대 전반).

 

「백종접분국」(1845년경).에도(edo) 시대(17 세기부터 19 세기 중반), 원예가 활발하게 되어(상류계급등의 사이에서만 없고, 도시 서민층등의 사이에서도, 원예에의 관심이 커져), 새로운 품종을 낳는 기술이 진행되었습니다.이것은, 한 개의 나무에 다른 종류의 나무를 그 다음에, 백 종류에도 미치는 꽃을 피운, 「백종접분국」을 그린 것입니다.국화의 주위에, 오두막을 마련한 전시의 모습이 그려지고 있어 상인층등의 도쿄(당시는, 에도(edo)로 불리고 있던) 시민이, 그것을 구경하는 모습이 그려져 있습니다.그림안의 설명서나무는, 「지금까지도, 10종, 20종의, 따라 (뜻)이유는 있었다.국화의 유명한 꽃만을 선택백품을 따라 나누어 형태도 색도 다른 꽃의 이름을 하나하나 내걸고, 관람에 제공한다」라고 한 내용으로, 도쿄(에도(edo))의 코마고메(komagome)의 이마에몬이라고 하는 정원사의 이름이 기록되고 있습니다(그림에 관한 설명은, 카탈로그(catalogue)의 설명문을 참고로 했습니다).

 

「아이유8행중지」(1830년대말부터 1840년대 전반).짚신(신발) 은폐의 게임(game)을 하는 아이들을 그린 것입니다.우하의 아이는, 자고 있는 개아래에, 짚신(신발)을 숨기려 하고 있습니다.

 

「아이유8행중예」(1830년대말부터 1840년대 전반).왼쪽에는, 인형을 짊어져, 모친의 흉내를 하는 여자 아이.그 오른쪽에서는, 연상의 아이가, 연소의 아이를 돌보는 모습이 그려져 있습니다.그 뒤에는, 거기에 무관심한, 애완동물(pet)의 고양이가 그려져 있습니다.

 

「신판 아이 놀이지내눈놀이」(1830년대말부터 1840년대 전반).눈으로 노는, 아이들을 그린 것입니다.

 

이하 2매는, 현대의 만화등에, 꽤 통하는 부분이 있는, 시대를 선취한 작품이라고 생각합니다.

 

「하보장벽의 헛됨 쓰기(흑요벽·「쟁탈전」이라고 있는 그림)」(1847년부터 1848년경).

 


「하보장벽의 헛됨 쓰기(흑요벽·「닫은 닫았다」라고 있는 그림)」(1847년부터 1848년경).

 


「결류인물 사라사 14인의 몸에서 35인에 미」(1830년대말부터 1840년대 전반).14명의 몸으로, 35명으로 보인다고 한 제목의 작품입니다만, 대략적으로 그려지고 있어 실제는, 14명의 몸으로, 35명으로 보이는 것은 아니다고 생각합니다.그렇지만, 후의 시대의 M.C. Escher(1898 년생.1972년에 죽는다)의 작품을 생각하게 하는 것 같은, 이상한 작품입니다.

 

「당르 봉납원하구면」의 부분(1848년경).

 

 

「갑월용장전타케다가입4장3토사지내 모로즈미 분고수창청」(1840년대 후반부터 1850년대 전반).

 

「염곡전」(1853년).음란한(섹시한·요염하다) 내용의 책을 읽는 여성을 그린 시리즈(series)입니다.

 

 

「야시로눈이치카와 단주로 봐 련접물」(1854년).

 

 

「츄신구라 11단째야토지도」(1830년대 전반)

 

 

「의사의 충성칸바시 익살」(1840년대 후반)

 

 

「미치소토라고 집등 삼단메·4단째」(1840년대 전반).

 

 

「두꺼비 표본히임금등4단째」(1840년대 후반).

 

사진 이하 2매.우타하와 구니요시(utagawa kuniyoshi)는, 기발한 작품을 많이 남긴 화가(판화가)로서 유명합니다만, 물론?, 이와 같은, 착실한?그림도 능숙했습니다.

 

「납량립 미인도」

 

「납량립 미인도」의 부분.

 

 

「물을 감추는 큰뱀도」

 

 

「오오미의 나라의 용부어겸」(1830년대 전반)

 

 

 

「상주강지도지도」(1850년대 초). 도쿄의 남부 근교, 현재는, 도쿄 area에 사는 사람들에게 있어서, 가장 친밀한 비치 리조트(beach resort) 지가 되고 있는 쇼우난(syonan)의, 에노시마(enoshima) area에 있는, 육지가 연속되어 있음의 작은 섬, 에노시마(enoshima)는, 중세의 무렵(12세말 무렵)부터의 행락지에서, 특히, 에도(edo) 시대(17 세기부터 19 세기 중반)부터 현재에 이를 때까지, 서민의 행락지로서 번창해 왔습니다.에노시마(enoshima)의, (륙측에서 본) 뒤편은, 확실히, 이와 같은, 바위 밭이 되어 있습니다만, 이 그림은, 꽤 과장해 그려져 있습니다.

 

「아사히나 소인도유」(1840년대 후반).소인들이, 거인에게, 전혀 동요하지 않은(동요하고 있지 않다) 점등이, 재미있는 작품입니다.

 

 

「소우마의 후루우찌뒤」(1840년대 중반부터 후반).잘 알려진, 우타하와 구니요시(utagawa kuniyoshi)의 대표작의 하나입니다.

 

 

「귀 젊은 환과 대비리」(1840년대 중반부터 후반).

 

 

「5십삼차중오카자키의 장소」(1835년).

 

 

「타케자와등차팽이의 화물」(1844년).

 

사진 이하 2매.「화물 츄신구라」(1830년대말부터 1940년대 전반)의 부분.후의 시대의, 만화등에, 꽤 통하는 부분이 있다고 생각합니다.

 

 

 

 

 

 

 

「고양이와 노는 딸(아가씨)」(1840년대 초부터 1840년대 중반).부채(uchiwa) 용의 부채(uchiwa) 그림(목판화)입니다.


「느긋하게 쉬는 여름의 고양이 미인들」(1830년대말부터 1940년대 전반).부채(uchiwa) 용의 부채(uchiwa) 그림(목판화)입니다.

 

「절실히 검」(1847년).

 

 

「금붕어꼬치 뗏목 김」(1830년대말부터 1940년대 전반).

 

사진 이하 3매.현대의 만화나 현대 art등에, 통하는 부분이 있다, 꽤 시대를 선취한 작품이라고 생각합니다.

 

「하보장벽의 헛됨 쓰기(황요벽·「이것원대성과」라고 있는 그림)」(1847년부터 1848년경).

 

「하보장벽의 헛됨 쓰기(황요벽·「달도라고 있어의 조」라고 있는 그림)」(1847년부터 1848년경).

 

 

「하보장벽의 헛됨 쓰기(황요벽·「술이의 미라고에」라고 있는 그림)」(1847년부터 1848년경).

 

 

「하보장벽의 헛됨 쓰기(황요벽·「달도라고 있어의 조」라고 있는 그림)」(1847년부터 1848년경)의 부분.

 

 

「그림 경대합가가몸(부엉이·시시·한냐면)」(1830년대말부터 1840년대 전반).서민이 사 오고, 잘라내고, 스스로, 부채(uchiwa)의 표리에 붙이고 즐기기 때문에(위해)의 그림, 부채(uchiwa) 그림(목판화)입니다.

 

「기모습정능 사진그림 물가 낚시, 새우에게 때가 히」(1830년대말부터 1940년대 전반).

 

 

「감째 그림 팽이」(1840년대 전반).

 

 

왼쪽, 「양면상오뚝이·, 이구·풀고 말이야 빌려」(1840년대 후반부터 1850년대 중반) 오른쪽, 「양면상라고 있어·아사히인, 장비·키우기」(1840년대 후반부터 1850년대 중반).상하 어느 쪽에서 봐도 얼굴이 되는 그림입니다.이와 같은 그림(상하 어느 쪽에서 봐도 얼굴이 되는 그림)은, 아무것도, 우타하와 구니요시(utagawa kuniyoshi)가 낳은 참신한 것은 아니고, 옛부터, 중국에 있었다고 합니다.

 

사진 이하 2매는, 「고양이의 당자」라고 하는, 고양이가 모이고, 문자를 만드는 시리즈(series)의, 「연(낙지)」이라고, 「(후그·하돈)」입니다.

 

왼쪽, 「고양이의 당자」(1840년대 전반). 오른쪽, 「고양이의 당자 연」(1840년대 전반).

 

 

「외관하개하 겉껍데기와 야 있어 사람이다」(1848년경).잘 알려진, 우타하와 구니요시(utagawa kuniyoshi)의 대표작의 하나입니다.「눈에 띄어(외모)는, 무섭지만, 좋은 사람이다」라고 한 느낌의 제목의 그림으로, 다수의 인물을 조합하고, 한 명의 인물로서 그려낸 작품입니다.

 

 

후츄(fucyu) 시 미술관의 전람회(exhibition)의 스케줄(schedule)의 팜플렛(leaflet).

 

 

표지가 되어 있는 것은, 마루야마 오쿄(maruyama oukyo)(아래의 보충 설명 참조)의, 개를 그린 작품, 「시우구자도」(1767년)의 부분.
마루야마 오쿄(maruyama oukyo):1733 년생.1795년에 죽는다.18 세기 후반에 활약한, 일본의 유명한 화가(화가).

 

 

내년의 봄에 후츄(fucyu) 시 미술관에서, 행해질 예정의, 에도(edo) 시대(17 세기부터 19 세기 중반)의 인물화의 전람회(exhibition)에 전시될 예정의 그림의 하나.소가 쇼하쿠(soga syohaku)(아래의 보충 설명 참조)의 작품, 「미인도」(18 세기).
소가 쇼하쿠(soga syohaku):1730 년생.1781년에 죽는다.18 세기에 활약한, 일본의 유명한 화가(화가).초유명이라고 말할 정도는 아니다.

 

후츄(fucyu) 시 미술관은, 기획전(exhibition) 뿐만이 아니라, 수장품(collection)의 전시(상설 전시)도, 가고 있습니다.후츄(fucyu) 시 미술관은, 19 세기부터 현재에 이를 때까지의, 일본의 유명한 화가의 작품을 중심으로 한, 폭넓은, 콜렉션(collection)을 가지고 있는 것 같습니다만, 우시지마 노리유키(ushijima noriyuki)(아래의 보충 설명 참조)의 작품의, 충실한 콜렉션(collection)을 가지고 있는 곳이, 특징이 되고 있습니다.

우시지마 노리유키(ushijima noriyuki):1900 년생.1997년에 죽는다.1920년대 후반부터 1990년대에 걸쳐 활약한, 일본의, 유명한, 근대·현대 화가.쿠마모토(kumamoto) 현 출신, 세타가야(setagaya) 구(도쿄 중심부(도쿄 23구)의 니시하타에 위치하는 구) 거주였지만, 친밀한 교외에서 있는 후츄(fucyu)에 자주(잘) 스케치(sketch)를 죽으러 나갔다(wiki를 참고로 했습니다).

 

사진 이하 2매.그림 엽서의 사진으로, 죄송합니다만, 후츄(fucyu) 시 미술관 수장의, 우시지마 노리유키(ushijima noriyuki)의 작품예.

 

「전원 풍경」(1944년경).

 

 

「보릿가을의 길」(1955년경).

 

이하, 덤.

 

사진 이하 5매.지난 주의 토요일은, 개인적으로 일이었습니다만, 일을 끝낸 후, 나의 거리(도쿄 중심부(도쿄 23구)의 서부에 위치하는 시부야(shibuya) 구안북부)의 북쪽의 이웃가(시부야(shibuya) 구 최북부)의, 상당히 익숙한 것의, 서민적인 상가를, 흔들흔들...어느 가게에서, 저녁 식사를 먹을까하고 헤매었습니다만(뒤골목에 새롭게 할 수 있던, 이나 귀로응 가게?하지만, 조금 신경이 쓰이고 있습니다만, 결국 이용하지 않았습니다), 결국, 이따금 이용하는, 서양 요리·창작 요리 레스토랑에서, 먹는 일로 정해졌습니다.이 서양 요리·창작 요리 레스토랑은, 인상은, 나쁘지는 않습니다만(이따금 이용하는 분에는 좋다), 개인적으로, 가끔 이용하는 가게, 또는, 자주(잘) 이용하는, 마음에 드는 가게로 하려면 , 무엇인가, 어딘지 부족한 느낌의 가게입니다.

 

종의 나무의 새싹의 리큐어(liqueur)를 사용해 만들어진 칵테일(cocktail).산뜻하고 있습니다.

 

사진 이하 4매.이 레스토랑에서 먹은, 지난 주의 토요일의 저녁 식사.모두 둘이서 먹었습니다.

 

엔가와(넙치·가자미의 기를 움직이기 때문에(위해)의 근육)와 키비나고의 카파치오(carpaccio), 자가제 라유 실어.

 

 

큰 다랑어의 협육과 천사의 새우(New Caledonia산의 새우)의 플리트(fritto).망고(mango) 카레(curry) 소스(sauce).

 

 

씨푸드(seafood) 파스타(pasta).바질(basil) 소스(sauce).

 

 

흑트뤼프(truffle)의 오곡미 리좃트(risotto).

 

이하, 잡동사니적인, 덤.

 

사진 이하 2매.나고야(nagoya)(도쿄, 오사카에 이어, 일본 제 3위의 도시권 인구를 가지는 도시)의 남부 근교에 본점을 짓는 빵가게주인(나고야(nagoya) 도시권을 중심으로 점포를 전개하고 있는 것 같습니다만, 도쿄에도 진출하고 있습니다)의 천사의 초콜릿 링(ring)이라고 하는 빵.꽤 맛있었습니다.

 

 

 

 

 

 

망고(mango)&파인애플(pineapple) 홍차.

 

 

「비밀 코드 예술·자연·과학을 지배하는 신비의 법칙」.소위, 황금비(golden ratio) 등에 관한 책입니다만, 조금 재미있을 것 같은가라고 생각해 사 보았지만, 나는, 이수계는 아니기 때문에, 조금 읽고, 곧 머리가 아파지고, 기브업(give up) 했던 w.



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