食べ物

 

先月の、終わりの方に、鎌倉(kamakura)を散歩して来た時の物です。

 

投稿の本文に入る前に、写真以下25枚、おまけ。この投稿の本文に関係がある物です。

 

私の街(東京中心部(東京23区)の西部に有る渋谷(shibuya)区の中北部)の南西の隣り街(目黒(meguro)区最北部。ちなみに、私は、この、私の街の南西の隣り街に有る、公立の高校(都立高校)に通っていました)に有る、元、貴族の邸宅です。現在は、公園となっていて、地域住民達の憩いの場となっています。周辺は、私の街と同じく、山の手(yamanote。東京中心部(東京23区)の西部。東京中心部(東京23区)の東部(下町(shitamachi)(旧市街))に対する新市街(新市街と言っても、ソウルの江南(Gangnam)等と異なり?、1920年代から1930年代頃に開発された、ある程度の歴史を有する新興住宅地ですが。。))の静かで落ち着いた住宅地と言った感じとなっています。また、この、私の街の南西の隣り街は、専門分野を学ぶ前(1年生と2年生)の、東京大学の学生達が通う、東京大学の教養学部のcampus、東京大学のresearch campus(東京大学の先端技術研究所等が入る)、(名門高校を含む)6つの高校があり、静かで、落ち着いた住宅地に加えて、学問地区としての、性格も有しています。この点が、ひたすら住宅街であり、何の特徴も無い私の街と若干異なります。

 

写真以下25枚。私の街の南西の隣り街に有る、1929年に建てられた前田 利為(maeda toshinari)侯爵(貴族)の邸宅(東京の本邸)です。写真(全て、同じ時に撮影した写真と言う訳では有りません)は、前に、enjoyでアップ(upload)した写真の再利用です。前田 利為(maeda toshinari)侯爵が、16代目の当主となった前田(maeda)家は、近世(16世紀から18世紀半ば)の名門大名家(名門地方領主)の一つ、前田(maeda)家の子孫です。邸宅の敷地面積は、12,000坪(tsubo)強(約40,400平方m)。現在は、(元)邸宅の敷地が、ほぼ、そのまま、公園として一般に開放され、地域住民の憩いの場となっています。

 

写真以下2枚。邸宅の入り口(表門)。


 

 

 

 

当時は、右の門番小屋で、専属の守衛(guard)が、交替で24時間、門番をしていたことでしょう。

 

写真以下2枚。邸宅の門から、邸宅(現在は、公園となっている)の敷地内へ入る。

 

 

 

第2次世界大戦前、この、敷地面積12,000坪(tsubo)程(約40,400平方m)の邸宅に、6人家族が暮らしていました(もちろん、使用人を、雇っていましたが)。

 

(かつての)邸宅の敷地内には、(邸宅の中心である)家族が暮らす西洋式邸宅、訪問客を接待する為の日本式邸宅の他に、いくつかの、(当時の)建物(写真以下2枚)が有ります。

 

この建物だけでも、かなり立派。

 

 

倉庫かな。。。

 

写真以下18枚。邸宅の中心的な建物(1929年に建てられました)。前田 利為(maeda toshinari)侯爵の家族(6人)は、普段は、この西洋式の邸宅の建物で暮らしていました。邸宅の敷地内には、この他に、主に、訪問客を接待する為に使われていた、立派な日本伝統式の邸宅の建物が有ります。

 

当時の皇族(天皇の一族)の、赤坂離宮(現在は、外国の要人を迎える、国の迎賓館として使用されている)の様な西洋式の邸宅(宮殿)に比べれば、規模、豪華さ等、はるかに及びませんが、それでも、さすがに高価な材料が惜しみなく使われた邸宅の建物は、とても、しっかりと、頑丈に造られているように見えます。

 

 

正面に立派な車寄せ(自動車が乗りつける所)が有ります。

 

 

 

 

写真以下3枚。横から見た西洋式邸宅。西洋式邸宅の側面(横側)は、この様に、テラス(terrace)になっています。

 

 

 

 

 

 

 

写真以下12枚。西洋式邸宅の内部の一部。前田 利為(maeda toshinari)侯爵の趣味(好み)は、どちらかと言えば、派手よりも、質実剛健と言った感じで、質朴だが良い物を選ぶと言う感じだったのだろうかなと言う印象を受けます。見た目(ぱっと見)は、華美ではないけれども、豪華な材料が、惜しみなく使われていると言う感じです。

 

 

1階廊下から外を眺める。

 

 

写真以下2枚。1階玄関横のsalon。邸宅でパーティー(party)が開かれた時には、紳士・淑女達が、ここで社交話に花を咲かせたことでしょう。

 

 

 

写真すぐ上。salonの隅にある暖炉も立派です。

 

 

 

 

1階の食堂。当時は、さぞかし、豪華な机と椅子が並べられていたことでしょう。ここで、通常、前田(maeda)家の6人家族は食事をしていました。庶民の私には、たった6人で、この空間は、少し寂しいように思えます。

 

 

この様に、邸宅の側面(横側)に面した部屋は、開放的であり、気持ち良い日差しが差し込みます。

 

 

 

 

 

 

 

邸宅の2階へと、続く階段です。階段の窓が立派です。次ぎは、2階を見ていきます。

 

 

テラス(terrace)に面した長女の部屋。「東京 古き良き西洋館へ」という本には、「バルコニー(balcony)で子供たちがよく遊んだ」と記してあります。

 

この部屋は、何に使われていたのかは不明です。とは言え、侯爵夫人と娘達が、お茶を飲んで話しをしながら、優雅な午後の一時を過ごす姿等が思い浮かんできそうな部屋です。

 

 

三女(末娘)の部屋です。末っ子の部屋だからなのか、たくさんある邸宅の部屋の中で最も小さな部屋の様です。それでも、やはり窓の造りとかは立派です。

 

 

邸宅の広い敷地(約12,000坪(tsubo)(約40,400平方m))内を前田(maeda)侯爵は、朝、散歩したり、子供達は、自由奔放に走り回ったり、探検したりして遊んだことでしょう。貴族や資本家等の上流階級にとっては、古き良き時代でしょう。ただし、当時は、貧富の格差が激しく、農村の小作人や都市の低賃金肉体労働者などの低所得者層の生活は実に悲惨なものでした。現在は、昔に比べて貧富の格差が縮小し、少なくとも、地価が高い東京中心部(東京23区内)では、どんなに金持ちでも12,000坪(tsubo)の敷地の家に暮らすことは、無理です。東京中心部(東京23区内)では、せいぜい広くても2,000坪(tsubo)(約6,600平方m)位が限度でしょう。第2次世界大戦後、農地改革により、地主から小作人が開放され、貴族制度が廃止され、財閥は解体されました。その結果、上流階級は、かなりの土地と財産を処分せざるを得ませんでした。このようにして、上流階級が以前のように贅沢な暮らしが出来なくなった一方で、農村の小作人達は、東京・大阪・名古屋等の大都市や、地方都市に流入し、日本の都市化(urbanization)を引き起こすとともに、工場労働者やサラリーマン(会社員)として、新しい都市庶民層を形成するようになりました。農村には、比較的裕福な自作農民が残った一方で、高度経済成長による大量生産・大量消費時代の到来により、都市庶民層の消費生活水準は、飛躍的に向上しました。このように、上流階級の没落と小作人の消滅、田舎の農民・都市庶民層の生活の向上の結果、日本は1970年代から1980年代には、西側先進国で最も平等な国とまでいわれるようになりました。しかしながら、近年は、アメリカ型の競争社会になりつつ有り、再び、日本で貧富の格差が拡大しつつあります。

 

以上が、おまけ。以下、投稿の本文です。

 

先月の、終わりの方に、鎌倉(kamakura)を散歩して来た時の物です。

 

東京近郊にある、鎌倉(kamakura)は、中世(1185年から1333年まで)に、日本の政治の中心地であった中都市であり、中世以来の歴史を有する、寺や神社(shrine)が、数多くあります(ただし、鎌倉(kamakura)の寺や神社(shrine)の、現在の建物については、(極一部の例外を除き)中世よりも後の時代に、火事等の焼失により、再建された物であったり、時代に合わせて、建て替えられている物です)。その為、鎌倉(kamakura)は、東京近郊の主要な観光地の一つとなっています。鎌倉(kamakura)は、(中世には、日本の政治の中心地でしたが)、15世紀半ば以降衰退し、一時期、基本的に衰退した状態に有りましたが、19世紀頃から、徐々に観光地として発展しはじめ、また、19世紀後期以降、東京に近い近代別荘地・保養地として発展し、再興しました(wikiを参考にしました)。

 

鎌倉(kamakura)は、19世紀後期以降、作家や詩人等、多くの文学者が、好んで、居住し、若しくは、別荘を構えて来ました。鎌倉(kamakura)は、現在も、小説家や、画家、文系の大学教授等、文化人達に好まれ、鎌倉(kamakura)及びその周辺には、こうした人々が、多く暮らしているイメージが有ります。 

 

写真以下61枚。鎌倉(kamakura)に有る前田 利為(maeda toshinari)侯爵の、(元)別荘です。メイン(main)の建物は、上で紹介した、東京の本邸の中心となる建物(西洋式の邸宅)に比べると遥かに規模が小さいですが(まあ、それでも、普通に立派な家の建物ですが)、敷地面積は、約9,000坪(tsubo)(約30,000平方m)と、東京の本邸と比べても、それ程、見劣りしません。現在は、鎌倉(kamakura)に縁の有る、作家や詩人等の文学者に関する資料を展示する資料館として、一般に公開されています。近代(19世紀末から第二次世界大戦までの)日本の上流階級の本邸又は別荘の、何れかが、現存していて且つ公開されている例は、ある程度あるのですが(それでも、現存且つ一般に公開されていると言う2つの条件を満たす物は、多くは無い)、この様に、近代日本の上流階級の、一つの家(家族)の、同時代の、本邸と別荘が、供に現存していて、且つ、一般に公開されていると言う例は、非常に、稀だと思います(まあ、前田(maeda)家は、この鎌倉(kamakura)の別荘の他にも、いくつか別荘を保有していたかもしれませんが。。。)。前田 利為(maeda toshinari)侯爵の、(元)鎌倉(kamakura)の別荘の、現存する建物は、鎌倉(kamakura)の別荘のメイン(main)の建物だった物で、1936年に建てられた西洋式の建物です(現在は、鎌倉(kamakura)に縁の有る、作家や詩人等の文学者に関する資料を展示する資料館の建物となっています)。前田 利為(maeda toshinari)侯爵の義理の父親で有る、前田 利嗣(maeda toshitsugu)侯爵が、1890年頃に建てた、前田(maeda)家の鎌倉(kamakura)の別荘の、初代のメイン(main)の建物から数えて、4代目の建物です(尚、前田(maeda)家の鎌倉(kamakura)の別荘時代、敷地内に、メイン(main)の建物以外に建物が有ったのかは、ちょっと分かりません。何れにしも、前田(maeda)家の鎌倉(kamakura)の別荘時代の建物で、現存している、主な建物は、メイン(main)の建物だけの様です)。建物の中は、(作家や詩人等の文学者に関する資料を展示してある為か)、残念ながら、写真撮影は、禁止となっていますが(したがって写真は、撮影しませんでしたが)、豪華なシャンデリア(chandelier)等が有ります。

 

前田 利為(maeda toshinari)侯爵の、(元)鎌倉(kamakura)の別荘(現在は、鎌倉(kamakura)に縁の有る、作家や詩人等の文学者に関する資料を展示する資料館として、一般に公開されている)の入り口(最初の表門)。周りは、静かで落ち着いた住宅地となっています。


入り口(最初の表門)から敷地内に入る。敷地面積は、約9,000坪(tsubo)(約30,000平方m)と、上で紹介した、東京の本邸と比べても、それ程、見劣りしません。別荘のメイン(main)の建物は、海の眺めが綺麗な高台に建っています。

 

 

 

2番目の表門。前田(maeda)家が、鎌倉(kamakura)の別荘で過ごしている間は、守衛(guard)が、ここで番をしていたのでしょうか。。。

 

写真以下2枚。別荘の敷地内の道に有るトンネル(tunnel)。自動車1台が通れる程の幅の道ですが、前田 利為(maeda toshinari)侯爵の家族が、鎌倉(kamakura)の別荘で過ごしに来た際、自動車で(もちろん、普段は、専属の運転手(driver)付きの自動車だったと思います)、このトンネル(tunnel)を、潜る際、ああ別荘(非日常の場所)に来たのだなぁと思ったのでしょうか? また、前田(maeda)家に招待された人が、このトンネル(tunnel)を、潜る際、ああ、とっておきの場所(秘密の素敵な場所)に招待されたのだなぁと感じたのでしょうか? 私の勝手な想像と言うより妄想なのですが、何だか、このトンネル(tunnel)は、日常の世界と非日常の世界の境(日常の世界と非日常の世界を分ける)の役割を果たしていた様に思います。ちなみに、このトンネル(tunnel)を潜る際、冗談で、彼女に、「私の別荘へ、ようこそ」と言ったら、「執事(butler)さん。案内、有難うございます」と返されてしまいましたorz。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 


写真以下4枚。先にアップ(upload)してしまいますが、この日の夕食後に、鎌倉(kamakura)で、お気に入りのケーキ(cake)西洋菓子屋さんに併設されているcafeで食べたケーキ(cake)です。

 

写真以下2枚。私が食べたヨーグルト系のケーキ(cake)。ケーキ(cake)本体の赤い部分は、薔薇のジャム(jam)です。

 

 

 

 

写真以下2枚。彼女が食べた、コーヒー(coffee)系のケーキ(cake)?だったかな。。。

 

 

 

 

 

 

先にアップ(upload)してしまいますが、この日、我が家に帰って来てから、お茶菓子として食べた、マカロン(macaron)(上のケーキ(cake)西洋菓子屋さんで買った物)。

 

鎌倉(kamakura)散歩&食べ物後編に続く。。。

 

おまけ。先月の後半、仕事の用事で(残念ながら遊びでは有りませんでした)、箱根(hakone。日光(nikko)と並ぶ、東京近郊を代表する、観光地・保養地・避暑地)を、訪れた時に、山のホテルの庭園にて撮影した一枚。取引先の方と、山のホテルで、庭園を、少し散歩して、コーヒー(coffee)を飲んだ後、昼食を取ったのですが、その際に、撮影した物です。調度、ツツジの花が、見頃でした。あいにく、天気は悪かったのですが、それは、それで、幻想的で良かったです。山のホテルは、箱根(hakone)に有る高級リゾート(resort)ホテルの一つで、庭園の、ツツジの花が綺麗な事で知られています。山のホテルは、個人的に、子供の頃、親に連れられた、箱根(hakone)の旅行で、1度、宿泊した事が有ります。山のホテルは、日本最大級の財閥の一つで有った、三菱(mitsubishi)財閥(現在の、三菱(mitsubishi)group(日本最大級の企業グループ(conglomerate)の内の一つ))のオーナー(owner)で有り、貴族(男爵)でも有った、資本家の家、岩崎(iwasaki)家(上の前田(maeda)家よりも、遥かに、お金持ちでしたが、貴族としては、最も低い階級(男爵)で、(侯爵(5段階有った近代日本の貴族の階級の内、上から2番目の階級)であった)上の前田(maeda)家よりも、ずっと低い階級でした)の、1911年に造られた、敷地面積、約100,000坪(tsubo)(約330,000平方m)の、箱根(hakone)の別荘(建物は、現存せず)の敷地の一部(約半分)を利用して、1948年に開業したリゾート(resort)ホテルで、庭園の面積だけでも、約45,000坪(tsubo)(150,000平方m近く)有ります。ちなみに、上にも書いた様に、第2次世界大戦後、貴族、資本家、地主等の日本の上流階級は、貴族制度の廃止、財閥の解体、地主や広い土地を持っている者に、従来よりも不利益となる制度改革等により、かなりの土地と財産を処分せざるを得なくなり、(以前の様に贅沢な暮らしが出来なくなり)、没落しました。


카마쿠라(kamakura) 산책&음식 전편.

 

지난 달의, 마지막(분)편에, 카마쿠라(kamakura)를 산책해 왔을 때의 물건입니다.

 

투고의 본문에 들어가기 전에, 사진 이하 25매, 덤.이 투고의 본문에 관계가 있는 것입니다.

 

나의 거리(도쿄 중심부(도쿄 23구)의 서부에 있는 시부야(shibuya) 구안북부)의 남서의 이웃가(메구로(meguro) 구 최북부.덧붙여서, 나는, 이, 나의 거리의 남서의 이웃거리에 있는, 공립의 고교(도립고교)에 다니고 있었습니다)에 있는, 전 , 귀족의 저택입니다.현재는, 공원이 되고 있고, 지역 주민들의 휴식의 장소가 되고 있습니다.주변은, 나의 거리와 같이, 높은 지대(yamanote.도쿄 중심부(도쿄 23구)의 서부.도쿄 중심부(도쿄 23구)의 동부(변두리(shitamachi)(구시가))에 대한 신시가(신시가라고 말해도, 서울의 강남(Gangnam) 등과 달리?, 1920년대부터 1930년대무렵에 개발된, 어느 정도의 역사를 가지는 신흥 주택지입니다만..))의 조용하고 침착한 주택지라고 한 느낌이 되고 있습니다.또, 이, 나의 거리의 남서의 이웃거리는, 전문 분야를 배우기 전(1 학년과 2 학년)의, 도쿄대학의 학생들이 다니는, 도쿄대학의 교양 학부의 campus, 도쿄대학의 researchcampus(도쿄대학의 첨단기술 연구소등이 들어간다), (명문 고등학교를 포함한다) 6개의 고등학교가 있어, 조용하고, 침착한 주택지에 가세하고, 학문 지구로서의, 성격도 가지고 있습니다.이 점이, 오로지 주택가이며, 어떤 특징도 없는 나의 거리와 약간 다릅니다.

 

사진 이하 25매.나의 거리의 남서의 이웃거리에 있는, 1929년에 지어진 마에다리 때문(maeda toshinari) 후작(귀족)의 저택(도쿄의 본댁)입니다.사진(모두, 같은 때에 촬영한 사진이라고 말하는 것이 아닙니다)은, 전에, enjoy로 업(upload) 한 사진의 재이용입니다.마에다리 때문(maeda toshinari) 후작이, 16대째의 당주가 된 마에다(maeda) 가는, 근세(16 세기부터 18 세기 중반)의 명문 영주가(명문 지방 영주)의 하나, 마에다(maeda) 양가집 자제손자입니다.저택의 부지면적은, 12,000평(tsubo) 강( 약 40,400평방 m).현재는, (원) 저택의 부지가, 거의, 그대로, 공원으로서 일반적으로 개방되어 지역 주민의 휴식의 장소가 되고 있습니다.

 

사진 이하 2매.저택의 입구(정문).


 

 

 

 

당시는, 오른쪽의 문지기 오두막에서, 전속의 수위(guard)가, 교체로 24시간, 문지기를 하고 있던 것이지요.

 

사진 이하 2매.저택의 문으로부터, 저택(현재는, 공원이 되고 있다)의 부지내에 들어간다.

 

 

 

제2차 세계대전전, 이, 부지면적 12,000평(tsubo) 정도( 약 40,400평방 m)의 저택에, 6 인가족이 살고 있었습니다(물론, 사용인을, 고용하고 있었습니다만).

 

(한 때의) 저택의 부지내에는, (저택의 중심이다) 가족이 사는 서양식 저택, 방문객을 접대하기 때문에(위해)의 일본식 저택 외에, 몇개의, (당시의) 건물(사진 이하 2매)이 있습니다.

 

이 건물만으로도, 꽤 훌륭함.

 

 

창고일까...

 

사진 이하 18매.저택의 중심적인 건물(1929년에 지어졌습니다).마에다리 때문(maeda toshinari) 후작의 가족(6명)은, 평상시는, 이 서양식의 저택의 건물에서 살고 있었습니다.저택의 부지내에는, 이 그 밖에, 주로, 방문객을 접대하기 위해 사용되고 있던, 훌륭한 일본 전통식의 저택의 건물이 있습니다.

 

당시의 황족(천황의 일족)의, 아카사카 별궁(현재는, 외국의 요인을 맞이하는, 나라의 영빈관으로서 사용되고 있다)의 같은 서양식의 저택(궁전)에 비하면, 규모, 호화로움 등 , 아득하게 미치지 않습니다만, 그런데도, 과연 고가의 재료가 아낌없이 사용된 저택의 건물은, 매우, 제대로, 튼튼하게 만들어지고 있는 것처럼 보입니다.

 

 

정면으로 훌륭한 차대는 곳(자동차가 타 붙이는 곳)이 있습니다.

 

 

 

 

사진 이하 3매.옆으로부터 본 서양식 저택.서양식 저택의 측면(횡측)은, 이와 같게, 테라스(terrace)가 되어 있습니다.

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 12매.서양식 저택의 내부의 일부.마에다리 때문(maeda toshinari) 후작의 취미(기호)는, 어느 쪽일까하고 말하면, 파수보다, 질실강건이라고 한 느낌으로, 소박하지만 좋은 것을 선택한다고 하는 느낌이었던 것일까라고 하는 인상을 받습니다.외형(쫙 봐)은, 화려하지 않지만, 호화로운 재료가, 아낌없이 사용되고 있다고 하는 느낌입니다.

 

 

1층 복도에서 밖을 바라본다.

 

 

사진 이하 2매.1층 현관옆의 salon.저택에서 파티(party)가 열렸을 때에는, 신사·숙녀들이, 여기서 사교이야기에 꽃을 피운 것이지요.

 

 

 

사진 바로 위.salon의 구석에 있는 난로도 훌륭합니다.

 

 

 

 

1층의 식당.당시는, 필시, 호화로운 책상과 의자를 늘어놓을 수 있고 있던 것이지요.여기서, 통상, 마에다(maeda) 가의 6 인가족은 식사를 하고 있었습니다.서민의 나에게는, 단 6명으로, 이 공간은, 조금 외롭다고 생각됩니다.

 

 

이와 같게, 저택의 측면(횡측)에 접한 방은, 개방적이고, 기분 좋은 햇볕이 비춥니다.

 

 

 

 

 

 

 

저택의 2층으로, 계속 되는 계단입니다.계단의 창이 훌륭합니다.다음는, 2층을 보고 갑니다.

 

 

테라스(terrace)에 접한 장녀의 방.「도쿄 옛것이 좋은 서양관에」라고 하는 책에는, 「발코니(balcony)에서 아이들이 잘 놀았다」라고 적어 있습니다.

 

이 방은, 무엇에 사용되고 있었는지는 불명합니다.그렇지만, 후작 부인과 낭들이, 차를 마시고 이야기를 하면서, 우아한 오후의 한때를 보내는 모습 등이 생각해 떠올라 나무 그런 방입니다.

 

 

삼녀(말낭)의 방입니다.막내의 방이니까인가, 많이 있는 저택의 방안에서 가장 작은 방의 같습니다.그런데도, 역시 창의 구조라든지는 훌륭합니다.

 

 

저택의 넓은 부지( 약 12,000평(tsubo)( 약 40,400평방 m)) 안을 마에다(maeda) 후작은, 아침, 산책하거나 아이들은, 자유분방하게 돌아다니거나 탐험하거나 해 논 것이지요.귀족이나 자본가등의 상류계급에 있어서는, 옛것이 좋은 시대지요.다만, 당시는, 빈부의 격차가 격렬하고, 농촌의 소작인이나 도시의 저임금 육체 노동자등의 저소득자층의 생활은 실로 비참한 것이었습니다.현재는, 옛날에 비해 빈부의 격차가 축소해, 적어도, 지가가 비싼 도쿄 중심부(도쿄 23 구내)에서는, 아무리 부자라도 12,000평(tsubo)의 부지의 집에 사는 것은, 무리입니다.도쿄 중심부(도쿄 23 구내)에서는, 겨우 넓어도 2,000평(tsubo)( 약 6600평방 m) 정도가 한도지요.제2차 세계대전 후, 농지 개혁에 의해, 지주로부터 소작인이 개방되어 귀족제도가 폐지되어 재벌은 해체되었습니다.그 결과, 상류계급은, 상당한 토지와 재산을 처분하지 않을 수 없습니다였습니다.이와 같이 하고, 상류계급이 이전과 같이 사치스러운 생활을 할 수 없게 된 한편, 농촌의 소작인들은, 도쿄·오사카·나고야등의 대도시나, 지방도시에 유입해, 일본의 도시화(urbanization)를 일으키는 것과 동시에, 공장 노동자나 샐러리맨(회사원)으로서 새로운 도시 서민층을 형성하게 되었습니다.농촌에는, 비교적 유복한 자작농민이 남은 한편, 고도 경제성장에 의한 대량생산·대량 소비 시대의 도래에 의해, 도시 서민층의 소비 생활수준은, 비약적으로 향상했습니다.이와 같이, 상류계급의 몰락과 소작인의 소멸, 시골의 농민·도시 서민층의 생활의 향상의 결과, 일본은 1970년대부터 1980년대에는, 서쪽 선진국에서 가장 평등한 나라와까지 말해지게 되었습니다.그렇지만, 근년은, 미국형의 경쟁 사회가 되면서 있어, 다시, 일본에서 빈부의 격차가 확대하고 있습니다.

 

이상이, 덤.이하, 투고의 본문입니다.

 

지난 달의, 마지막(분)편에, 카마쿠라(kamakura)를 산책해 왔을 때의 물건입니다.

 

도쿄 근교에 있는, 카마쿠라(kamakura)는, 중세(1185년부터 1333년까지)에, 일본의 정치의 중심지에서 만난 안도시이며, 중세 이래의 역사를 가지는, 절이나 신사(shrine)가, 많이 있습니다(다만, 카마쿠라(kamakura)의 절이나 신사(shrine)의, 현재의 건물에 대해서는, (극히 일부의 예외를 제외해) 중세보다 후의 시대에, 화재등의 소실에 의해, 재건된 것이거나 시대에 맞추고, 다시 세워지고 있는 것입니다).그 때문에, 카마쿠라(kamakura)는, 도쿄 근교의 주요한 관광지의 하나가 되고 있습니다.카마쿠라(kamakura)는, (중세에는, 일본의 정치의 중심지였지만), 15 세기 중반 이후 쇠퇴해, 한시기, 기본적으로 쇠퇴한 상태에 있었습니다만, 19 세기무렵부터, 서서히 관광지로서 발전하기 시작해 또, 19 세기 후기 이후, 도쿄에 가까운 근대 별장지·보양지로서 발전해, 재흥 했습니다(wiki를 참고로 했습니다).

 

카마쿠라(kamakura)는, 19 세기 후기 이후, 작가나 시인등 , 많은 문학자가, 기꺼이, 거주해, 혹은, 별장을 지어 왔습니다.카마쿠라(kamakura)는, 현재도, 소설가나, 화가, 문과의 대학교수등 , 문화인들에게 선호되어 카마쿠라(kamakura) 및 그 주변에는, 이러한 사람들이, 많이 살고 있는 이미지가 있습니다. 

 

사진 이하 61매.카마쿠라(kamakura)에 있는 마에다리 때문(maeda toshinari) 후작의, (원) 별장입니다.메인(main)의 건물은, 위에서 소개한, 도쿄의 본댁의 중심이 되는 건물(서양식의 저택)에 비하면 훨씬 더 규모가 작습니다만(뭐, 그런데도, 보통으로 훌륭한 집의 건물입니다만), 부지면적은, 약 9,000평(tsubo)( 약 30,000평방 m)와 도쿄의 본댁과 비교해도, 그렇게, 열등하지 않습니다.현재는, 카마쿠라(kamakura)에 가장자리가 있는, 작가나 시인등의 문학자에 관한 자료를 전시하는 자료관으로서 일반적으로 공개되고 있습니다.근대(19 세기말로부터 제이차 세계대전까지의) 일본의 상류계급의 본댁 또는 별장의, 어느 쪽인가가, 현존 하고 있어 한편 공개되고 있는 예는, 어느 정도 있습니다만(그런데도, 현존 한편 일반적으로 공개되고 있다고 하는 2개의 조건을 채우는 것은, 많게는 없다), 이와 같게, 근대 일본의 상류계급의, 하나의 집(가족)의, 동시대의, 본댁과 별장이, 보조자에 현존 하고 있고, 한편, 일반적으로 공개되고 있다고 하는 예는, 매우, 드물다고 생각하는(뭐, 마에다(maeda) 가는, 이 카마쿠라(kamakura)의 별장 외에도, 몇개인가 별장을 보유하고 있었을지도 모릅니다만...).마에다리 때문(maedatoshinari) 후작의, (원) 카마쿠라(kamakura)의 별장의, 현존 하는 건물은, 카마쿠라(kamakura)의 별장의 메인(main)의 건물이었던 물건으로, 1936년에 지어진 서양식의 건물입니다(현재는, 카마쿠라(kamakura)에 가장자리가 있는, 작가나 시인등의 문학자에 관한 자료를 전시하는 자료관의 건물이 되고 있습니다).마에다리 때문(maeda toshinari) 후작의 의리의 부친으로 있는, 마에다리 상속인(maeda toshitsugu) 후작이, 1890년경에 세운, 마에다(maeda) 가의 카마쿠라(kamakura)의 별장의, 초대의 메인(main)의 건물로부터 세고, 4대째의 건물입니다(히사시, 마에다(maeda) 가의 카마쿠라(kamakura)의 별장 시대, 부지내에, 메인(main)의 건물 이외에 건물이 있었는지는, 잘 모릅니다.어느 쪽으로 하지도, 마에다(maeda) 가의 카마쿠라(kamakura)의 별장 시대의 건물에서, 현존 하고 있다, 주된 건물은, 메인(main)의 건물만의 같습니다).건물가운데는, (작가나 시인등의 문학자에 관한 자료를 전시되어 있기 때문에(위해)인가), 유감스럽지만, 사진 촬영은, 금지가 되고 있습니다만(따라서 사진은, 촬영하지 않았습니다만), 호화로운 샹들리에(chandelier) 등이 있습니다.

 

마에다리 때문(maeda toshinari) 후작의, (원) 카마쿠라(kamakura)의 별장(현재는, 카마쿠라(kamakura)에 가장자리가 있는, 작가나 시인등의 문학자에 관한 자료를 전시하는 자료관으로서 일반적으로 공개되고 있다)의 입구(최초의 정문).주위는, 조용하고 침착한 주택지가 되고 있습니다.


입구(최초의 정문)에서 부지내로 들어간다.부지면적은, 약 9,000평(tsubo)( 약 30,000평방 m)와 위에서 소개한, 도쿄의 본댁과 비교해도, 그렇게, 열등하지 않습니다.별장의 메인(main)의 건물은, 바다의 경치가 깨끗한 돈대에 세워지고 있습니다.

 

 

 

2번째의 정문.마에다(maeda) 가가, 카마쿠라(kamakura)의 별장에서 보내고 있는 동안은, 수위(guard)가, 여기서 차례를 하고 있었는지요...

 

사진 이하 2매.별장의 부지내의 길에 있는 터널(tunnel).자동차 1대를 통과할 수 있을 정도의 폭의 길입니다만, 마에다리 때문(maeda toshinari) 후작의 가족이, 카마쿠라(kamakura)의 별장에서 보내러 왔을 때, 자동차로(물론, 평상시는, 전속의 운전기사(driver) 첨부의 자동차였다고 생각합니다), 이 터널(tunnel)을, 기어들 때, 아 별장(비일상의 장소)에 왔던 것이다라고 생각했는지요? 또, 마에다(maeda) 가에 초대된 사람이, 이 터널(tunnel)을, 기어들 때, 아, 소중한 장소(비밀의 멋진 장소)에 초대되었던 것이다라고 느꼈는지요? 나의 제멋대로인 상상이라고 하는 것보다 망상입니다만, 무엇인가, 이 터널(tunnel)은, 일상의 세계와 비일상의 세계의 경계(일상의 세계와 비일상의 세계를 나눈다)의 역할을 이루어 있던님이 생각합니다.덧붙여서, 이 터널(tunnel)을 기어들 때, 농담으로, 그녀에게, 「 나의 별장에, 어서 오십시오」라고 하면, 「집사(butler).안내, 고맙습니다」라고 돌려주어져 버렸던 orz.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


 


사진 이하 4매.먼저 업(upload) 해 버립니다만, 이 날의 저녁 식사 후에, 카마쿠라(kamakura)에서, 마음에 드는 케이크(cake) 서양 과자 가게씨에게 병설되고 있는 cafe로 먹은 케이크(cake)입니다.

 

사진 이하 2매.내가 먹은 요구르트계의 케이크(cake).케이크(cake) 본체의 붉은 부분은, 장미의 잼(jam)입니다.

 

 

 

 

사진 이하 2매.그녀가 먹은, 커피(coffee) 계의 케이크(cake)?(이었)였는지...

 

 

 

 

 

 

먼저 업(upload) 해 버립니다만, 이 날, 우리 집에 돌아오고 나서, 차과자로서 먹은, 마카론(macaron)(위의 케이크(cake) 서양 과자 가게씨에서 산 것).

 

카마쿠라(kamakura) 산책&음식 후편에 계속 된다...

 

덤.지난 달의 후반, 일의 용무로(유감스럽지만 놀이가 아니었습니다), 하코네(hakone.닛코(nikko)와 대등한, 도쿄 근교를 대표하는, 관광지·보양지·피서지)를, 방문했을 때에, 산의 호텔의 정원에서 촬영한 한 장.거래처쪽과 산의 호텔에서, 정원을, 조금 산책하고, 커피(coffee)를 마신 후, 점심 식사를 배달시켰습니다만, 그 때에, 촬영한 것입니다.세간, 철쭉의 꽃이, 볼만했습니다.공교롭게도, 날씨는 나빴습니다만, 그것은, 그래서, 환상적이고 좋았습니다.산의 호텔은, 하코네(hakone)에 있는 고급 리조트(resort) 호텔의 하나로, 정원의, 철쭉의 꽃이 깨끗한 일로 알려져 있습니다.산의 호텔은, 개인적으로, 어릴 적, 부모 에 이끌린, 하코네(hakone)의 여행으로, 1도, 숙박한 일이 있습니다.산의 호텔은, 일본 최대급의 재벌의 한 살로 있던, 미츠비시(mitsubishi) 재벌(현재의, 미츠비시(mitsubishi) group(일본 최대급의 기업 그룹(conglomerate) 중의 하나))의 오너(owner)로 있어, 귀족(남작)이라도 있던, 자본가의 집, 이와사키(iwasaki) 가(카미노마에전(maeda) 가보다, 훨씬 더, 부자였지만, 귀족으로서는, 가장 낮은 계급(남작)에서, (후작(5 단계 있던 근대 일본의 귀족의 계급중, 위로부터 2번째의 계급)에서 만난) 카미노마에전(maeda) 가보다, 훨씬 낮은 계급이었습니다)의, 1911년에 만들어진, 부지면적, 약 100,000평(tsubo)( 약 330,000평방 m)의, 하코네(hakone)의 별장(건물은, 현존 하지 않고)의 부지의 일부(약 반)를 이용하고, 1948년에 개업한 리조트(resort) 호텔에서, 정원의 면적만으로도, 약 45,000평(tsubo)(150,000평방 m 가까운 시일내에) 있습니다.덧붙여서, 위에도 쓴님이, 제2차 세계대전 후, 귀족, 자본가, 지주등의 일본의 상류계급은, 귀족제도의 폐지, 재벌의 해체, 지주나 넓은 토지를 가지고 있는 사람에게, 종래보다 불이익이 되는 제도 개혁등에 의해, 상당한 토지와 재산을 처분 하지 않을 수 없게 되어, (이전과 같이 사치스러운 생활을 할 수 없게 되어), 몰락했습니다.



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