うちの町内

 

 

 

写真以下23枚。先週の月曜日(以下、この日と書きます)についてです。先週の月曜日は、個人的に休みで、大学時代からの親しい(とは言っても、現在は、あまり頻繁には会っていない)友人(男)と、休みが合ったので(まあ、休みが合ったと言うか、私が、友人の休みに合わせて、休みを取ったのですが。。。)、その友人と二人で、桜を見る等しながら、だらだらと酒を飲みながら休日を過ごしました。まあ、この日は、桜よりも酒と言う感じだったのですがw

 

桜の花は、おそらく日本人に最も親しまれている花で有り、菊(皇室(天皇家)の紋章(coat of arms)となっている花)と供に、日本の実質的な国家となっている花です。春には、日本各地で、所々に、多くの桜の花が咲きます。もっとも、日本は、国土が、南北に細長く伸びた国で有る為、桜の花の見頃の時期は、日本の各地域で異なります。

 

この日は、朝寝坊をし、遅い朝食兼昼食を食べてから我が家を出ました。ちなみに、この日は、天気が悪かったです。

 

写真以下12枚。この日は、まず、通勤電車・地下鉄(韓国式に言えば地下鉄)の中目黒(nakameguro)駅で待ち合わせて、雨の中、桜を見ながら&お酒(アルコール(alcoholic)飲料)を飲みながら、目黒(meguro)川を散歩しました。目黒(meguro)川は、東京都心部の南西部から南部を流れて、東京湾へ至る、全長8km程の、幅の細い川です。目黒(meguro)川の約半分、東京都心部の南西部(ほぼ、目黒(meguro)区(東京中心部(東京23区)の南西部に位置する区)の北東部)を流れる、約4km部分の川沿いが、桜並木(桜の木の並木)となっており、目黒(meguro)川は、東京都心部の桜の花の名所の一つとなっています。この日は、天気が悪かったですが(今年は、東京は、桜の花の見頃時期は、天気が悪い日が、多かった印象)、桜の花は、調度見頃でした。

 

 

まず、中目黒(nakameguro)駅の近くのマートに行って、お酒(アルコール(alcoholic)飲料)を買い、それを飲みながら、目黒(meguro)川を散歩しました。私は、まず、マートで、ビールを2本買って飲んだのですが、これは、その内の一つで、RODENBACHと言うベルギー(Belgium)のビールです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下2枚。最初にマートで買ったビールを、飲んでしまったので、コンビニで、追加でビールを買って、飲みながら、さらに、目黒(meguro)川沿いを、桜を見ながら&話ながら、散歩しました。私は、Kirinビール(日本の大手(大規模)ビール会社の一つ。その起源は、1869年に遡る)の、「Lager beer」(Kirinビールの主力商品の一つで、日本で、多く売れているビールの一つ。1888年から現在まで、125年間も、販売され続けているビール。ラベル(label)のデザイン(design)は、1889年から、あまり変わっていない)の、桜パッケージ(包装)の、缶ビールを、一缶、追加で買って飲みました。学生の頃だったら、この状況ならば、マートで、缶ビールを、纏め買いして飲みながら歩いていたかもしれませんが、私も、友人も、もう年なので、まず、この日の手始めは、大人しく、チマチマと買って、飲み歩きましたw

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下5枚は、おまけで、前に、kjでアップ(upload)した、桜の花の時期の目黒(meguro)川の写真。これは、彼女と桜の花の時期の目黒(meguro)川を散歩した時に撮影した物です。天気が良い日の、桜の花の時期の目黒(meguro)川は、こんな感じですよと、アップ(upload)しようと思ったのですが、(よく憶えていませんが)、この写真を撮った日も、(雨は降っていなかったが)雲が多くて、天気は、あまり良くなった様ですね。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

これは、桜の花の時期の出店(道端に臨時に出る店)で売られている、スパークリングワイン(sparkling wine)。

 

 

 

写真以下3枚。目黒(meguro)川を散歩しながら、このまま、雨が止まなければ、目黒(meguro)川沿いのカフェ(cafe)か、居酒屋にでも入り、お酒(アルコール(alcoholic)飲料)を飲もうと思っていたのですが、雨が止んだので、再び、中目黒(nakameguro)駅の近くのマートに行って、お酒(アルコール(alcoholic)飲料)と、おつまみを買った後、通勤電車・地下鉄(韓国式に言えば地下鉄)で、代々木(yoyogi)公園へ移動し、代々木(yoyogi)公園で、(おつまみを食べながら)、お酒(アルコール(alcoholic)飲料)を飲みました(かなり、たくさん飲みました)。ちなみに、敷物は、我が家から持って来ていました。

 

中目黒(nakameguro)駅から、代々木(yoyogi)公園(明治神宮前(meijijingunmae)駅利用)までは、通勤電車・地下鉄(韓国式に言えば地下鉄)で、乗り換えなしの一本で、5分強から10分弱程です。代々木(yoyogi)公園は、東京都心部の西部に位置する渋谷(shibuya)区の中央部にある公園で、東京中心部(東京23区)に有る公園の中では、最大級の物の内の一つで、とても広い公園です。原宿(harajyuku)(東京の主要な繁華街の一つであると共に、若者文化の発信地の一つ)に隣接している事等から、若者に人気が高い公園となっています。ちなみに、我が家から、代々木(yoyogi)公園は、近いと言えば、近いと言え、我が家から、代々木(yoyogi)公園までは、歩いて20分位です(まあ、この日は、友人を、我が家には、招待せずw、代々木(yoyogi)公園で、(お酒(アルコール(alcoholic)飲料)を)飲んだ後、新宿に移動して、(お酒(アルコール(alcoholic)飲料)を)飲んだのですが。。。w)。

 

写真以下3枚。代々木(yoyogi)公園で、(雨が降ったり止んだりの)この日の天気の中でも、花見(hanami。野外で、桜の花を見ながら、酒を飲んだり、食事をしたりする事。花見(hanami)は、伝統的に、桜の花の時期の日本人の娯楽となっています)を楽しむ人々の風景例。日本では、桜の時期には、多くの人々が、花見(hanami)を楽しみます。

 

 

写真右下は、花見(hanami)をする人々の為に、臨時に設けられた、ごみ箱。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真中央は、花見(hanami)をする人々の為に、臨時に設けられた、ごみ箱。

 

 

 

私達が、代々木(yoyogi)公園にいる間は、結構、長い時間、雨が降らなかったのですが、代々木(yoyogi)公園で、桜の花を見ながら(まあ、この日は、桜よりも、酒と言った感じだったのですがw 新宿でも、たくさん飲んだのですが、前述の通り、この日は、代々木(yoyogi)公園では、かなり、たくさん飲みました)、お酒(アルコール(alcoholic)飲料)を飲んでいる(花見(hanami)と言わないのは、友人(男)と、二人だった為、花見(hanami)と呼びたくない為w)、途中に、小雨が降って来た為、新宿(東京最大級の繁華街の一つ。東京都心部の西部に位置する)に移動して、居酒屋で飲みました。代々木(yoyogi)公園(原宿(harajyuku)駅利用)から、新宿までは、通勤電車(韓国式に言えば地下鉄)で、乗り換え無しの1本で、5分弱程です。

 

写真以下3枚。新宿に着いて、まず、新宿の、思い出横丁(思い出yokocho)にある、鳥園(torien)と言う、居酒屋で、おつまみを食べながら、(お酒(アルコール(alcoholic)飲料)を)飲みました。思い出横丁(思い出yokocho)は、南北80mから100m位、東西30mから50m位の地区に、多くの、超(非常に)庶民的な居酒屋・食堂等の飲食店(主に、居酒屋若しくは居酒屋的な店)を中心にした店舗が、ひしめいている(密集している)、在来市場的な雰囲気を持つ地区です。思い出横丁(思い出yokocho)は、第二次世界大戦直後の混乱期の闇市(何らかの物価を統制する体制下で、物資が不足している状況において、違法取引の品物を売る店が集まっている場所)に起源を持つ地区で、しょんべん横丁(小便yokocho)とも呼ばれています(私は、以前は、むしろ、しょんべん横丁(小便yokocho)と言う呼び名に、馴染みがありました))。思い出横丁(思い出yokocho)は、第二次世界大戦直後の混乱期から1950年代初め頃(第二次世界大戦直後の混乱は、一段落したけど、まだ、経済復興が始まって間もなくで、第二次世界大戦直後の荒廃と貧しさの名残が、まだ、色濃く、まだまだ貧しかった時代)の、日本の、労働者向けの、怪しい、歓楽街・繁華街の雰囲気を、よく残す地区となっています。

 

鳥園(torien)は、思い出横丁(思い出yokocho)で、約60年営業を続けている、焼き鳥(鶏肉串)を中心としたメニュー(menu)(焼き鳥(鶏肉串)を中心としたと言っても、非常に多くの種類の、おつまみを置いています)の、とても庶民的な居酒屋です。私は、大学生の頃、鳥園(torien)は、友達達と、よく利用していました。鳥園(torien)は、大学の友達同士の間では、チープだが(とても安いが)、質の悪い、居酒屋・焼き鳥(鶏肉串)屋と言うイメージがあり(まあ、質が悪いと思い込んでいただけなのかもしれません)、鳥園(torien)で飲むと悪酔いすると言うイメージがありました(悪酔いと言うか、ただ単に、たくさん飲み過ぎていただけかもしれませんw)。鳥園(torien)で飲むと、悪酔いをすると言うイメージから、若しくは、鳥園(torien)のビールは、冗談で、本物のビールではなく、アルコール(alcohol)の変わりに、トルエン(toluene)が入っているかもしれないと言う事から(文系の学生同士の、愚かな発言なので、理系の人が聞いたら、何を、訳の解らない事を言っているのかと思うと思いますがw)、友達同士では、鳥園(torien)の事を、トルエン(toluene)と呼んだりもしていましたw。そんな鳥園(torien)も、今は、質が上がり?、普通の、とても庶民的な居酒屋と言った印象になっています。

 

 

 

この時、私が、鳥園(torien)で飲んだ、お酒(アルコール(alcoholic)飲料)の一つ。ホッピー(hoppy)&焼酎。ホッピー(hoppy)(写真左側)は、ビールに味の似た飲み物で、ホッピー(hoppy)自体には、アルコール(alcohol)は、入っていないので、通常は、焼酎を、ホッピー(hoppy)で割って飲みます(写真右側のジョッキ(beer mug)に入っているのが、焼酎)。どれ位の比率で、焼酎をホッピー(hoppy)で割るのかは、個人の好みによりますが、ホッピー(hoppy)で、焼酎を5倍位に薄めると、だいたい、味も、アルコール(alcohol)度数も、ビールに近い、アルコール(alcohol)飲料となります(もっとも、ビールよりも、苦味が少なく、さっぱりとした味わいです)。鳥園(torien)は、ホッピー(hoppy)用の焼酎が、通常の居酒屋よりも、多目に注がれて来ます。写真右側の、ホッピー(hoppy)用の焼酎は、(写真左側の、ホッピー(hoppy)の減り具合を見ても分かると思いますが)ホッピー(hoppy)を、ほんの少しだけ、注いで、撮影した物ですが、焼酎が、多目なのが分かると思います。この後、このホッピー(hoppy)用の焼酎は、もう少し、ホッピー(hoppy)を注ぎ足して飲んだのですが、この割具合だったら、我ながら、焼酎を、そのまま、ストレート(straight)か、ロック(on the rocks)で飲めよと言った感じですw(まあ、この時は、焼酎を、かなり濃く、ホッピー(hoppy)を焼酎で割ると言った感じで、飲みたい気分だったのでw)。ホッピー(hoppy)用の焼酎は、(何杯か忘れましたが)、当然、お代わりして、ホッピー(hoppy)を飲みました。

 

ホッピー(hoppy)は、第2次世界大戦後間も無く、日本が貧しかった時期(1940年代後半)に販売が開始され、当時、庶民にとっては、ビールが高級品で有った事から、焼酎を、ホッピー(hoppy)で割った飲み物は、ビールの代用品として、爆発的な人気を得ました。1950年代以降、急速な経済成長&経済復興と供に、ビールは、庶民にとっても、高級品で無くなって行きましたが、現在においても、東京の東京の下町(旧市街)的な繁華街では、多くの、庶民的な居酒屋や、庶民的な飲食店の、飲み物のメニュー(menu)に、ホッピー(hoppy)が載っており、根強い支持者達により、好んで飲まれています(現在は、飲食店での、ホッピー(hoppy)(焼酎のホッピー(hoppy)割り)と、ビールの値段は、余り違いません。これは、ホッピー(hoppy)(焼酎のホッピー(hoppy)割り)の、日本の平均所得に比べた値段が上がった訳ではなく、逆に、第二次世界大戦後の経済成長により、日本の平均所得に比べたビールの値段が下がり、日本において、ビールが、従来の焼酎並の、大衆酒となった為です)。また、日本が貧しかった時期は、焼酎のホッピー(hoppy)割りは、ビールの代用品と言うイメージが、強かったが、焼酎のホッピー(hoppy)割りは、(ビールには含まれている)健康に悪いプリン体が含まれていない、割り具合によって、好きなアルコール(alcohol)度数に調節して飲める等、ビールとは違った良さが有り、近年、こうした、ホッピー(hoppy)ならでは特徴が注目され、ホッピー(hoppy)は、再び存在感を増しつつあります。

 

 

写真以下2枚。この時、私達が、鳥園(torien)で食べた、おつまみの、極一部。色々と、たくさん、おつまみを食べた内の、極一部です(友人の前で、食べ物の写真を撮るのは、気恥ずかしいので、ほんの少しだけ、撮影しました)。

 

 

鯨の刺身。

 

 

 

 

 

焼き鳥(鶏肉串)の、盛り合わせ。

 

 

 

鳥園(torien)を出た時点で、私も友人も、かなり、酔っ払っていた(酒に酔っていた)のですが、鳥園(torien)を出た後、新宿で、個人的に、お気に入りの店の一つ(ちなみに、その店は、思い出横丁(思い出yokocho)にある店ではありません)に移動し、軽い、おつまみと共に、さらに少し、飲んでから、我が家に帰りました(その店では、私は、ウイスキー(whisky.)を、ロック(on the rocks)で、何杯か飲みました)。2軒目の店を出た時は、非常に、酔っ払っていて(酒に酔っていて)、珍しく、千鳥足になる程だったのですが(私は、酒に、かなり酔っ払っても(酔っても)、性格が、大きく変わることも、ありませんし(ちょっと陽気になる位w)、足が、ふらつく事も、あまりありません)、頑張ってw、節約して、タクシー(taxi)ではなく、通勤電車(韓国式に言えば地下鉄)で、新宿から、我が家に帰りました(新宿から、我が家の最寄りの通勤電車(韓国式に言えば地下鉄)駅までは、電車(韓国式に言えば地下鉄)で、5分程で、新宿から、我が家までは、タクシー(taxi)でも、あまり金がかかりませんが、もちろん、電車を利用する方が、タクシー(taxi)を利用するよりも、比べ物にならない位、安いです)。まあ、そうして、チマチマと(細々と)、お金を節約しても、そうして節約した分も、酒(アルコール(alcoholic)飲料)代や食事代(特に、外食費)に、あっと言う間に消えて行ってしまうのですがw

 

 

この日は、我が家に帰って来てから、しっかり寝たのですが(夜11時半前には、家に着いた。たくさん飲んだが、そもそも、一軒目(鳥園(torien))で飲み始めたのが、6時半過ぎ位と、早かった)、この翌日は、(仕事であったのにも関わらず)、珍しく、二日酔い気味で(もう、年だなぁ。。。)、午前中は、ちょっと気分が悪かったです(ちょっと、気分が優れませんでした)。友人も、この翌日は、仕事でしたが、おそらく、あの飲み具合だったら、二日酔い気味だったのでは、ないでしょうか。。。

 

写真以下。この翌日(先週の火曜日。以下、この日と書きます)は、仕事を早目に切り上げて、彼女と夕方5時頃、地下鉄の浅草(asakusa)駅で待ち合わせて、隅田(sumida)川沿いの、桜の花を見ながら、散歩しました。東京都心部の東部(北東部)に位置する、浅草(asakusa)は、現在は、東京の主要な繁華街の一つに過ぎませんが(それでも、東京の下町(旧市街)(東京都心部の東部)の中心的な繁華街となっている)、第二次世界大戦前は、銀座(ginza。東京都心部の中でも、中心的な地域に位置する)と供に、東京の二大繁華街でした(第二次世界大戦前は、銀座(ginza)が、中流層及び上流層の為の中心的繁華街、浅草(asakusa)が、庶民の為の中心的繁華街と言った感じでした。ちなみに、銀座(ginza)は、今でも、東京を代表する繁華街の座を維持しています)。浅草(asakusa)は、第二次世界大戦末期の空襲で、壊滅的な被害を受けました。また、第二次世界大戦後、浅草(asakusa)が、衰退して行く一方で、東京都心部西部(1920年代から1930年代に、本格的な開発が始まった)の、新宿(shinjyuku)や渋谷(shibuya)が、東京の新たな主要繁華街として、成長し、台頭して来ました。これにより、浅草(asakusa)は、東京最大級の繁華街の座は、新宿(shinjyuku)や渋谷(shibuya)等、他の繁華街に譲りました(ちなみに銀座(ginza)は、第二次世界大戦前と後を通じて、現在に至るまで、東京を代表する繁華街で有ると供に、隣りの有楽町(yurakucho)と合わせて(銀座(ginza)・有楽町(yurakucho))、東京最大級の繁華街の座を維持)。それでも、浅草(asakusa)は、今でも、東京の下町(旧市街)(東京都心部の東部)最大級の繁華街であると共に、東京の下町(旧市街)を代表する繁華街となっています。浅草(asakusa)は、昔の東京の雰囲気が、食文化、食堂、工芸品、土産物屋等、文化として、たくさん残っている為に、東京を代表する観光地の一つとして、栄えています。

 

隅田(sumida)川は、東京中心部(東京23区)の北端において、荒(ara)川と言う川から分岐し、東京中心部(東京23区)の東側を流れながら、東京湾に注ぐ、全長、23.5kmの川です。隅田(sumida)川の、浅草(asakusa)付近の川沿いの、約1kmに渡る桜並木(桜の木の並木)は、東京都心部の桜の花の名所の一つとなっています(この桜並木(桜の木の並木)は、18世紀前半からの歴史を有し(この桜並木(桜の木の並木)の、現在の桜の木は、18世紀から続く物ではありませんが。。。)、古くから(18世紀から)、東京の桜の花の名所の一つとなっています)。

 

 

写真右側の、変なデザイン(design)の高層ビルは、アサヒ(asahi)ビール(日本の大手(大規模)ビール会社の一つ。大阪発祥の会社。1889年創業)のビルで、ビールをイメージしたデザイン(design)のビル(おそらく。。。)なのですが、個人的に、このビルのデザイン(design)は、嫌いです。ただ、まあ、浅草(asakusa)に似合わない訳ではないと思います。写真中央の、高い搭は、東京sky tree。写真の下は、桜の木々。景観上、高速道路(motorway)の高架は、邪魔ですw。

 

 

写真以下3枚。東京sky tree。東京sky treeは、東京の下町(旧市街。東京中心部(東京23区)の東部)にあるTV電波塔です(展望台を有すると共に、商業施設等を併設し、観光施設の側面も有しています)。去年(2012年)の、2月末に完成し、5月に、全面開業しました。東京tower(高さ約333m。1958年の完成当時は、世界一高い、(観光用の展望台の付いた)塔だった)は、来るべきTVの大衆化時代(日本では、TV放送は、1953年に始まり、当初は、TVは、庶民にとっては、中々手が届かない贅沢品で有ったが、1950年代末には、テレビ(TV)が、庶民の家庭にも普及する様になった)に備えて、東京areaにTV電波を大量に送信する為に建てられたTV電波塔ですが、東京ski treeは、東京towerに代わる、東京areaにTV電波を送信する為の、(東京圏の)主力TV電波塔となる、TV電波塔で、東京tower同様、展望台を有し、観光施設の側面も有しています。東京ski treeは、高さは、634mあり、日本で最も高い、また、世界でも、Burj Khalifa(Burj Dubai)に次いで、二番目に高い建造物であり、世界一高い塔です。浅草(asakusa)は、東京sky treeに近く、今回、東京sky treeと、浅草(asakusa)areaの桜の花の組み合わせの風景の写真を、色々と撮って見ました。ちなみに、個人的に、東京sky treeのデザイン(design)は、少しは、目に馴染んで来ましたが、やはり、依然として嫌いです。現代に建てられる建物のデザイン(design)としては、あまりに保守的で、保守的でも、美しければ良いのですが、美しくもなく、ただ、とても退屈なだけ。。。まあ、何れは、目に馴染んで来て、嫌いなデザイン(design)でなくなるのでしょうか。。。(東京towerも、仮に、建てられた当時、私が、既に生まれていて、且つ、既に、大人であったならば、おそらく、あんな、Eiffel towerの物真似の様なデザイン(design)なんて有り得ないと言って、とても嫌っていたと思いますw)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この時は、(雨は、降らなかったけど)天気が、良くなかったのですが(まあ、何れにしても、既に、夕方であったのですが)、青空の、良い天気ならば、間近で見る東京sky treeと、桜の花の組み合わせの風景は、とても良いと思います(東京sky treeが、完成してから、桜の花の時期に、浅草(asakusa)areaを訪れたのは、この時が、初めて。。。)。

 

 

 

 

写真中央の奥に、一部が見えるビルは、松屋(matsuya)デパート、浅草(asakusa)店の建物で、1931年の開店時からの物です。

 

 

 

写真以下2枚。向こうに、橋の上を走る、電車が、見えます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下2枚。勝 海舟(katsu kaisyu。1823年生まれ。日本人。19世紀後半に活躍した人物ですが、説明は、省略します)の像。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

浅草(asakusa)周辺の、隅田(sumida)川沿いに位置する、写真以下16枚の場所は、元々、水戸(mito)徳川(tokugawa)家(江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ばに、現在の茨城(ibaraki)県(東京圏の北東端に位置する県)の中部及び北部を統治していた地方領主の家。非常に有力な地方領主の家であった)の、東京(当時は、江戸(edo)と呼ばれていた)の別荘の一つの敷地の一部(半分弱位かな。。。)であった物で、現在は、小さな公園として整備されています。水戸(mito)徳川(tokugawa)家は、近代日本において、貴族(侯爵)となりました(封建制時代の地方領主達は、近代に入ると、地方領主としての地位を失うと供に、封建制時代の城(castle)等を失ったものの、多くの地方領主達は、貴族階級に組み入れられ、近代社会(19世紀末から第2次世界大戦後、間も無くまで)においても、日本の上流階級としての地位と富は、維持しました)。この、水戸(mito)徳川(tokugawa)家の、東京の別荘の一つ(敷地面積は、約66,000平方m(約2万坪)あった)は、近代に入り、水戸(mito)徳川(tokugawa)家の本邸(メイン(main)の家)となりましたが、関東大震災(1923年に東京areaを襲った巨大地震。東京等が、非常に大きな被害を受けた)及び、それに伴う火災により、壊滅的は被害を受けました。それにより、水戸(mito)徳川(tokugawa)家は、この土地を手放し、その一部(半分弱位かな。。。)が、1931年に公園として整備され、現在に至っています。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

東京sky tree。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下3枚。水戸(mito)徳川(tokugawa)家の、東京の別荘の一つであった頃の名残が感じられます。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下11枚。上の、公園(元、水戸(mito)徳川(tokugawa)家の、東京の別荘の一つの敷地の一部を利用した公園)に隣接する、牛嶋(ushijma)神社(shrine)。860年創建の、かなり歴史が古い、神道の、神社(shrine)です。元々、この付近の別の場所にありましたが、関東大震災(1923年に東京areaを襲った巨大地震。東京等が、非常に大きな被害を受けた)で壊滅的な被害を受けた後、1932年に、現在地(元、水戸(mito)徳川(tokugawa)家の、東京の別荘の一つの敷地の一部)に移転して来ました。現在の、この神社(shrine)の建物は、現在地に移転して来た、1932年に建てられた物です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

撫牛(nadeushi。自分の体の悪い部分を撫で、牛の像の同じ部分を撫でると病気が治ると言う風習)の為の、牛の像。牛嶋(ushijma)神社の、現在の、撫牛(nadeushi)の為の牛の像(上の写真)は、1825年頃に奉納されたと言われています(それ以前は、牛嶋(ushijma)神社では、牛型の、自然石を、撫牛(nadeushi)の為に置いていた様です)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下2枚。散歩途中に、桜の花の時期の出店(道端に、臨時に出る店)で、買って食べた、おやつ。二人で分けて食べました。

 

 

味噌おでん(味噌、こんにゃく(konnyaku)、おでん)。

 

 

 

 

 

水餃子(dumpling)。

 

 

 

 

写真以下14枚。夕暮れから夜の、東京sky treeと桜等。東京sky treeは、夜に見る方が、いいかも。。。東京sky treeの、ライトアップ(照明)の色は、桜の花の時期限定の、桜をイメージした色になっています。

 

写真以下3枚。隅田(sumida)川沿いの桜並木と東京sky tree。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下3枚。隅田(sumida)川沿いの桜並木と東京sky tree。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下。浅草(asakusa)周辺の、隅田(sumida)川沿いで、桜の花を見ながらの散歩を楽しんだ後は、タクシー(taxi)で、両国(ryougoku)・蔵前(kuramae)areaの、ちゃんこ(cyanko)鍋レストランに移動し、夕食を食べてから、帰りました(浅草(asakusa)と両国(ryougoku)・蔵前(kuramae)areaの間は、割と近いので(1km強から2km強位しか離れていないかな。。。)、タクシー(taxi)でも、あまり料金は、かかりません。しかも、この日、夕食を食べた、ちゃんこ(cyanko)鍋レストランは、両国(ryougoku)・蔵前(kuramae)areaの中でも、浅草(asakusa)方面から見て、かなり手前に位置しています)。両国(ryougoku)(東京中心部(東京23区)の東部に位置する)には、両国(ryougoku)国技館(規模の大きな、相撲(sumo)競技場で、東京における、相撲(sumo)興行の中心となっている施設)がある事から、両国(ryougoku)area及び、その周辺は、東京における、相撲(sumo)(下の補足説明参照)の中心地となっており、多くの、相撲(sumo)部屋(プロの相撲(professional sumo)の力士(選手)を養成する機関)や、元、相撲(sumo)力士(選手)等が経営する、ちゃんこ(cyanko)鍋レストランがあります。
相撲(sumo):古代からの歴史を有する、神道に基づく、日本の儀式・格闘競技。ちなみに、現代に繋がる、組織化された、プロの相撲(professional sumo)の歴史は、17世紀まで、遡ります。

 

写真以下4枚。この日、夕食を食べた、ちゃんこ(cyanko)鍋レストラン。この、ちゃんこ(cyanko)鍋レストランは、この時まで、何度か利用した事がありました(大衆的な、値段のレストランです)。この、ちゃんこ(cyanko)鍋レストランは、1954年に建てられた、相撲(sumo)部屋(下の補足説明参照)の建物を、改装したレストランになっています。
相撲(sumo)部屋:プロの相撲(professional sumo)の力士(選手)を養成する機関。全ての、プロの相撲(professional sumo)の力士(選手)は、何れかの、相撲(sumo)部屋に所属していなければなりません。現在、日本には、44の、相撲(sumo)部屋がある様です。

 

 

 

このレストランの外観。

 

 

写真以下3枚。このレストランの内部。

 

写真以下2枚は、このレストランのパンフレット(leaflet)より。。。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下6枚。このレストランで食べた、この日の夕食。このレストランは、ちゃんこ(cyanko)鍋の他、寿司等、豊富な種類の料理を出します。ちなみに、私は、この日の、午前中までは、お酒(アルコール(alcoholic)飲料)は、見るのも嫌だと言った感じでしたが(ちなみに、体調自体は、午後には、完全に回復しました)、夕食時には、また、酒(アルコール(alcoholic)飲料)を飲める気分になっていましたw。ただし、さすがに、この日は、酒(アルコール(alcoholic)飲料)は、控え目にし、この夕食時は、私は、飲み物は、お酒(アルコール(alcoholic)飲料)は、日本酒を少しと、ビールの中瓶1本だけ飲み、家に帰ってからは、お酒(アルコール(alcoholic)飲料)は、一切飲みませんでした。

 

 

突き出し(居酒屋・食堂等で最初に出される、ちょっとした料理)。一人一皿ずつ。

 

 

 

 

写真以下は、全て、二人で分けて食べました。

 

 

刺身盛り合わせ。

 

 

 

写真以下3枚。ちゃんこ(cyanko)鍋。この時は、17種類の具を盛り込んだ、ちゃんこ(cyanko)鍋を食べました。ちゃんこ(cyanko)鍋は、相撲(sumo)部屋が、相撲(sumo)の力士(選手)に提供する、鍋料理で、相撲(sumo)の力士(選手)の食事の中心となる料理です。色々な種類の物があり、また、相撲(sumo)部屋によって、味付け、具材、調理法も、異なる様です。東京における、相撲(sumo)の中心地となっている、両国(ryougoku)area及び、その周辺は、多くの、元、相撲(sumo)力士(選手)等が経営する、ちゃんこ(cyanko)鍋レストランがあります。

 

 

 

 

 

 

これは、ちゃんこ(cyanko)鍋の、追加の具として頼んだ、メカジキの、つみれ(魚団子)と餅。

 

 

 

 

 

これは、食べている途中に撮影した物。

 

 

 

 

 

鮪(中とろ(中toro))の、寿司。

 

 

このレストランで夕食を食べた後は、(ちゃんこ(cyanko)鍋を食べて力が付いたしw)、ちょっと運動がてら、両国(ryougoku)駅まで、歩いて行き(両国(ryougoku)駅は、一応、このレストランの、最寄り駅となっているが、歩くには、ちょっとした距離がある)、両国(ryougoku)駅から、通勤電車(韓国式に言えば地下鉄)で、我が家に帰りました。

 

 

 


적당하게, 벚꽃.

 

 

 

사진 이하 23매.지난 주의 월요일(이하, 이 날이라고 씁니다)에 대해입니다.지난 주의 월요일은, 개인적으로 휴일로, 대학시절부터의 친한(라고는 말해도, 현재는, 별로 빈번히는 만나지 않았다) 친구(남자)와 휴일이 맞았으므로(뭐, 휴일이 맞았다고 하는지, 내가, 친구의 휴일에 맞추고, 휴가를 냈습니다만...), 그 친구와 둘이서, 벚꽃을 보는 등 하면서, 지루하게 술을 마시면서 휴일을 보냈습니다.뭐, 이 날은, 벚꽃보다 술이라고 하는 느낌이었습니다만 w

 

벚꽃은, 아마 일본인에 가장 사랑받고 있는 꽃으로 있어, 국화(황실(천황가)의 문장(coat of arms)이 되고 있는 꽃)과 보조자에, 일본의 실질적인 국가가 되고 있는 꽃입니다.봄에는, 일본 각지에서, 곳곳에, 많은 벚꽃이 핍니다.무엇보다, 일본은, 국토가, 남북으로 홀쪽하게 성장한 나라에서 있기 때문에(위해), 벚꽃의 볼 만한 시기의 시기는, 일본의 각지역에서 다릅니다.

 

이 날은, 늦잠을 자, 늦은 아침 식사겸 점심 식사를 먹고 나서 우리 집을 나왔습니다.덧붙여서, 이 날은, 날씨가 나빴습니다.

 

사진 이하 12매.이 날은, 우선, 통근 전철·지하철(한국식에 말하면 지하철)의 나카메구로(nakameguro) 역에서 만나고, 빗속, 벚꽃을 보면서&술(알코올(alcoholic) 음료)을 마시면서, 메구로(meguro) 강을 산책했습니다.메구로(meguro) 강은, 도쿄도심부의 남서부에서 남부를 흐르고, 도쿄만에 도달하는, 전체 길이 8 km 정도의, 폭의 가는 강입니다.메구로(meguro) 강의 약 반, 도쿄도심부의 남서부(거의, 메구로(meguro) 구(도쿄 중심부(도쿄 23구)의 남서부에 위치하는 구)의 북동부)를 흐르는, 약 4 km부분의 강가가, 벚꽃길(벚꽃나무의 가로수)이 되고 있어 메구로(meguro) 강은, 도쿄도심부의 벚꽃의 명소의 하나가 되고 있습니다.이 날은, 날씨가 나빴습니다만(금년은, 도쿄는, 벚꽃의 볼만한 시기는, 날씨가 나쁜 날이, 많았던 인상), 벚꽃은, 세간 볼만했습니다.

 

 

우선, 나카메구로(nakameguro) 역의 가까이의 마트에 가서, 술(알코올(alcoholic) 음료)을 사, 그것을 마시면서, 메구로(meguro) 강을 산책했습니다.나는, 우선, 마트에서, 맥주를 2병 사 마셨습니다만, 이것은, 그 안의 하나로, RODENBACH라고 하는 벨기에(Belgium)의 맥주입니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 2매.최초로 마트에서 산 맥주를, 마셔 버렸으므로, 편의점에서, 추가로 맥주를 사고, 마시면서, 게다가 메구로(meguro) 강가를, 벚꽃을 보면서&이야기면서, 산책했습니다.나는, Kirin 맥주(일본의 대기업(대규모) 맥주 회사의 하나.그 기원은, 1869년에 거슬러 올라간다)의, 「Lager beer」(Kirin 맥주의 주력 상품의 하나로, 일본에서, 많이 팔리고 있는 맥주의 하나.1888년부터 현재까지, 125년간이나, 판매계속 되고 있는 맥주.라벨(label)의 디자인(design)은, 1889년부터, 너무 변함없다)의, 벚꽃 패키지(포장)의, 캔맥주를, 일관, 추가에서 사 마셨습니다.학생의 무렵이라면, 이 상황이라면, 마트에서, 캔맥주를, 모아 사 마시면서 걷고 있었을지도 모릅니다만, 나도, 친구도, 이제(벌써) 나이이므로, 우선, 이 날의 시작은, 얌전하고, 치마치마와 사고, 마시며 돌아 다녔던 w

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 5매는, 덤으로, 전에, kj로 업(upload) 한, 벚꽃의 시기의 메구로(meguro) 강의 사진.이것은, 그녀와 벚꽃의 시기의 메구로(meguro) 강을 산책했을 때에 촬영한 것입니다.날씨가 좋은 날의, 벚꽃의 시기의 메구로(meguro) 강은, 이런 느낌이에요와 업(upload) 하려고 했습니다만, (잘 기억하고 있지 않습니다만), 이 사진을 찍은 날도, (비는 내리지 않았지만) 구름이 많아서, 날씨는, 너무 좋아진 같네요.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

이것은, 벚꽃의 시기의 출점(길가에 임시에 나오는 가게)에서 팔리고 있는, 발포성 포도주(sparkling wine).

 

 

 

사진 이하 3매.메구로(meguro) 강을 산책하면서, 이대로, 비가 그치지 않으면, 메구로(meguro) 강가의 카페(cafe)인가, 선술집에라도 들어가, 술(알코올(alcoholic) 음료)을 마시려고 생각했습니다만, 비가 그쳤으므로, 다시, 나카메구로(nakameguro) 역의 가까이의 마트에 가서, 술(알코올(alcoholic) 음료)과 안주를 산 후, 통근 전철·지하철(한국식에 말하면 지하철)로, 요요기(yoyogi) 공원에 이동해, 요요기(yoyogi) 공원에서, (안주를 먹으면서), 술(알코올(alcoholic) 음료)을 마셨습니다( 꽤, 많이 마셨습니다).덧붙여서, 깔개는, 우리 집으로부터 가지고 와있었습니다.

 

나카메구로(nakameguro) 역으로부터, 요요기(yoyogi) 공원(메이지 신궁전(meijijingunmae) 역 이용)까지는, 통근 전철·지하철(한국식에 말하면 지하철)로, 환승 없음의 한 개로, 5분 강으로부터 10분 약정입니다.요요기(yoyogi) 공원은, 도쿄도심부의 서부에 위치하는 시부야(shibuya) 구의 중앙부에 있는 공원에서, 도쿄 중심부(도쿄 23구)에 있는 공원안에서는, 최대급의 물건 중의 하나로, 매우 넓은 공원입니다.하라쥬쿠(harajyuku)(도쿄의 주요한 번화가의 하나임과 동시에, 젊은이 문화의 발신지의 하나)에 인접하고 있는 일등으로부터, 젊은이에게 인기가 높은 공원이 되고 있습니다.덧붙여서, 우리 집으로부터, 요요기(yoyogi) 공원은, 가깝다고 하면, 가깝다고 말할 수 있어 우리 집으로부터, 요요기(yoyogi) 공원까지는, 걸어 20분 정도입니다(뭐, 이 날은, 친구를, 우리 집에는, 초대하지 않고 w, 요요기(yoyogi) 공원에서, (술(알코올(alcoholic) 음료)을) 마신 후, 신쥬쿠로 이동하고, (술(알코올(alcoholic) 음료)을) 마셨습니다만...w).

 

사진 이하 3매.요요기(yoyogi) 공원에서, (비가 내리거나 그치거나의) 이 날의 날씨속에서도, 꽃놀이(hanami.야외에서, 벚꽃을 보면서, 술을 마시거나 식사를 하거나 하는 일.꽃놀이(hanami)는, 전통적으로, 벚꽃의 시기의 일본인의 오락이 되고 있습니다)를 즐기는 사람들의 풍경예.일본에서는, 벚꽃의 시기에는, 많은 사람들이, 꽃놀이(hanami)를 즐깁니다.

 

 

사진 우하는, 꽃놀이(hanami)를 하는 사람들을 위해, 임시에 설치된, 쓰레기통.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 중앙은, 꽃놀이(hanami)를 하는 사람들을 위해, 임시에 설치된, 쓰레기통.

 

 

 

저희들이, 요요기(yoyogi) 공원에 있는 동안은, 상당히, 긴 시간, 비가 내리지 않았습니다만, 요요기(yoyogi) 공원에서, 벚꽃을 보면서(뭐, 이 날은, 벚꽃보다, 술이라고 한 느낌이었습니다만 w 신쥬쿠에서도, 많이 마셨습니다만, 상술한 대로, 이 날은, 요요기(yoyogi) 공원에서는, 꽤, 많이 마셨습니다), 술(알코올(alcoholic) 음료)을 마시고 있는(꽃놀이(hanami)라고 말하지 않는 것은, 친구(남자)와 두 명이었던 때문, 꽃놀이(hanami)라고 부르고 싶지 않기 때문에 w), 도중에, 이슬비가 내려 온 때문, 신쥬쿠(도쿄 최대급의 번화가의 하나.도쿄도심부의 서부에 위치한다)로 이동하고, 선술집에서 마셨습니다.요요기(yoyogi) 공원(하라쥬쿠(harajyuku) 역 이용)로부터, 신쥬쿠까지는, 통근 전철(한국식에 말하면 지하철)로, 환승 없음의 1개로, 5분 약정입니다.

 

사진 이하 3매.신쥬쿠에 도착하고, 우선, 신쥬쿠의, 추억 골목(추억 yokocho)에 있는, 조원(torien)이라고 말하는, 선술집에서, 안주를 먹으면서, (술(알코올(alcoholic) 음료)을) 마셨습니다.추억 골목(추억 yokocho)은, 남북 80 m에서 100 m위, 동서 30 m에서 50 m위의 지구에, 많은, 초(매우) 서민적인 선술집·식당등의 음식점(주로, 선술집 혹은 선술집적인 가게)을 중심으로 한 점포가, 북적거리고 있는(밀집하고 있다), 재래 시장적인 분위기를 가지는 지구입니다.추억 골목(추억 yokocho)은, 제이차 세계대전 직후의 혼란기의 암시장(어떠한 물가를 통제하는 체제하에서, 물자가 부족한 상황에 있고, 위법 거래의 물건을 파는 가게가 모여 있는 장소)에 기원을 가지는 지구에서, 응골목(소변 yokocho)이라고도 불리고 있습니다( 나는, 이전에는, 오히려, 응골목(소변 yokocho)이라고 하는 통칭에, 익숙한 것이 있었습니다)).추억 골목(추억 yokocho)은, 제이차 세계대전 직후의 혼란기부터 1950년대 초 무렵(제이차 세계대전 직후의 혼란은, 일단락했지만, 아직, 경제 부흥이 시작되어 머지 않아로, 제이차 세계대전 직후의 황폐와 궁핍함의 자취가, 아직, 현저하고, 아직도 표`n 꾸짖었던 시대)의, 일본의, 노동자 전용의, 이상한, 환락가·번화가의 분위기를, 잘 남기는 지구가 되고 있습니다.

 

조원(torien)은, 추억 골목(추억 yokocho)에서, 약 60년 영업을 계속하고 있는, 닭꼬치(닭고기꼬치)를 중심으로 한 메뉴(menu)(닭꼬치(닭고기꼬치)를 중심으로 했다고 해도, 매우 많은 종류의, 안주를 두고 있습니다)의, 매우 서민적인 선술집입니다.나는, 대학생의 무렵, 조원(torien)은, 친구들과 자주(잘) 이용하고 있었습니다.조원(torien)은, 대학의 친구끼리의 사이에서는, 저렴하지만(매우 싸지만), 질이 나쁜, 선술집·닭꼬치(닭고기곶) 가게라고 하는 이미지가 있어(뭐, 질이 나쁘면 믿어 버려 받을 수 있어인지도 모릅니다), 조원(torien)으로 마시면 악취한다고 하는 이미지가 있었습니다(악취라고 말하는지, 단지 단지, 많이 과음해 받을 수 있어일지도 모릅니다 w).조원(torien)으로 마시면, 악취를 한다고 하는 이미지로부터, 혹은, 조원(torien)의 맥주는, 농담으로, 진짜 맥주가 아니고, 알코올(alcohol)의 대신에, 톨루엔(toluene)이 들어가 있을지도 모른다고 하는 일로부터(문과의 학생끼리의, 어리석은 발언이므로, 이과의 사람이 (들)물으면, 무엇을, (뜻)이유의 모르는 것을 말하는지 생각한다고 생각합니다만 w), 친구끼리에서는, 조원(torien)의 일을, 톨루엔 (toluene)(이)라고 부르기도 하고 있었던 w.그런 조원(torien)도, 지금은, 질이 올라?, 보통, 매우 서민적인 선술집이라고 한 인상이 되어 있습니다.

 

 

 

이 때, 내가, 조원(torien)으로 마신, 술(알코올(alcoholic) 음료)의 하나.홉피(hoppy)&소주.홉피(hoppy)(사진 좌측)는, 맥주에 맛이 닮은 음료로, 홉피(hoppy) 자체에는, 알코올(alcohol)은, 들어가 있지 않기 때문에, 통상은, 소주를, 홉피(hoppy)로 나누어 마십니다(사진 우측의 조끼(beermug)에 들어가 있는 것이, 소주).어떤 것위의 비율로, 소주를 홉피(hoppy)로 나누는지는, 개인의 취향에 의합니다만, 홉피(hoppy)로, 소주를 5배 정도에 엷게 하면, 대체로, 맛도, 알코올(alcohol) 도수도, 맥주에 가까운, 알코올(alcohol) 음료가 됩니다(가장, 맥주보다, 쓴 맛이 적고, 시원시원한 맛으로).조원(torien)은, 홉피(hoppy) 용의 소주가, 통상의 선술집보다, 다목에 따라져 옵니다.사진 우측의, 홉피(hoppy) 용의 소주는, (사진 좌측의, 홉피(hoppy)의 줄어 든 상태를 봐도 안다고 생각합니다만) 홉피(hoppy)를, 아주 조금만, 따르고, 촬영한 것입니다만, 소주가, 다목인 것이 안다고 생각합니다.이 후, 이 홉피(hoppy) 용의 소주는, 좀 더, 홉피(hoppy)를 따라 더해 마셨습니다만, 이 비율 상태라면, 나면서, 소주를, 그대로, 스트레이트(straight)인가, 락(on therocks)로 마셔라고 한 느낌입니다 w(뭐, 이 때는, 소주를, 꽤 진하고, 홉피(hoppy)를 소주로 나눈다고 한 느낌으로, 마시고 싶은 기분이었으므로 w).홉피(hoppy) 용의 소주는, (무슨배인가 잊었습니다만), 당연, 한 그릇 더 하고, 홉피(hoppy)를 마셨습니다.

 

홉피(hoppy)는, 제2차 세계대전 후 이윽고, 일본이 궁핍했던 시기(1940년대 후반)에 판매가 개시되어 당시 , 서민에게 있어서는, 맥주가 고급품으로 있던 일로부터, 소주를, 홉피(hoppy)로 나눈 음료는, 맥주의 대용품으로서 폭발적인 인기를 얻었습니다.1950년대 이후, 급속한 경제성장&경제 부흥과 보조자에, 맥주는, 서민에 있어서도, 고급품으로 없어져 갔습니다만, 현재에 있어도, 도쿄의 도쿄의 변두리(구시가)적인 번화가에서는, 많은, 서민적인 선술집이나, 서민적인 음식점의, 음료의 메뉴(menu)에, 홉피(hoppy)가 실리고 있어 뿌리 깊은 지지자들에 의해, 기꺼이 마셔지고 있습니다(현재는, 음식점에서의, 홉피(hoppy)(소주의 홉피(hoppy) 나누기)와 맥주의 가격은, 남아 다르지 않습니다.이것은, 홉피(hoppy)(소주의 홉피(hoppy) 나누기)의, 일본의 평균소득에 비한 가격이 오른 것은 아니고, 반대로, 제이차 세계대전 후의 경제성장에 의해, 일본의 평균소득에 비한 맥주의 가격이 내려, 일본에 있고, 맥주가, 종래의 소주수준의, 대중주가 된 때문입니다).또, 일본이 궁핍했던 시기는, 소주의 홉피(hoppy) 나누기는, 맥주의 대용품과 말하는 이미지가, 강했지만, 소주의 홉피(hoppy) 나누기는, (맥주에는 포함되어 있다) 건강에 나쁜 푸딩체가 포함되지 않은, 나누기 상태에 의해서, 좋아하는 알코올(alcohol) 도수에 조절해 마실 수 있는 등 , 맥주와는 다른 좋은 점이 있어, 근년, 이러한, 홉피(hoppy)가 아니라면 특징이 주목받아 홉피(hoppy)는, 다시 존재감을 늘리고 있습니다.

 

 

사진 이하 2매.이 때, 저희들이, 조원(torien)으로 먹은, 안주의, 극히 일부.다양하게, 많이, 안주를 먹은 동안의, 극히 일부입니다(친구의 앞에서, 음식의 사진을 찍는 것은, 부끄럽기 때문에, 아주 조금만, 촬영했습니다).

 

 

고래의 생선회.

 

 

 

 

 

닭꼬치(닭고기꼬치)의, 진열.

 

 

 

조원(torien)을 나온 시점에서, 나나 친구도, 꽤, 몹시 취하고 있었다(술에 취하고 있었다) 것입니다만, 조원(torien)을 나온 후, 신쥬쿠에서, 개인적으로, 마음에 드는 가게의 하나(덧붙여서, 그 가게는, 추억 골목(추억 yokocho)에 있는 가게가 아닙니다)으로 이동해, 가벼운, 안주와 함께, 한층 더 조금, 마시고 나서, 우리 집에 돌아갔습니다(그 가게에서는, 나는, 위스키(whisky.)(을)를, 락(on the rocks)으로, 무슨배인가 마셨습니다).2채째의 가게를 나왔을 때는, 매우, 몹시 취하고 있고(술에 취하고 있고), 드물고, 갈짓자 걸음이 되는만큼이었습니다만( 나는, 술에, 꽤 몹시 취해도(취해도), 성격이, 크게 바뀌는 일도, 않고(조금 쾌활하게 되는 정도 w), 다리가, 휘청거리는 일도, 별로 없습니다), 노력해 w, 절약하고, 택시(taxi)가 아니고, 통근 전철(한국식에 말하면 지하철)로, 신쥬쿠로부터, 우리 집에 돌아갔던(신쥬쿠로부터, 우리 집의 근처의 통근 전철(한국식에 말하면 지하철) 역까지는, 전철(한국식에 말하면 지하철)로, 5분 정도로, 신쥬쿠로부터, 우리 집까지는, 택시(taxi)로도, 별로 돈이 들지 않습니다만, 물론, 전철을 이용하는 분이, 택시(taxi)를 이용하는 것보다도, 비교도 되지 않는 위, 쌉니다).뭐, 그렇게 해서, 치마치마와(세들과), 돈을 절약해도, 그렇게 해서 절약한 만큼도, 술(알코올(alcoholic) 음료) 대나 식사비(특히, 외식비)에, 순식간에 사라져 가 버립니다만 w

 

 

이 날은, 우리 집에 돌아오고 나서, 확실히 잤습니다만(밤 11시 반전에는, 집에 도착했다.많이 마셨지만, 원래, 한 채눈(조원(torien))으로 마시기 시작했던 것이, 6시 반 넘어 정도와 빨랐다), 이 다음날은, (일이었는데도 관련되지 않고), 드물고, 숙취 기색으로( 이제(벌써), 해구나...), 오전중은, 조금 속이 메스꺼웠습니다(조금, 기분이 뛰어나지 않았습니다).친구도, 이 다음날은, 일이었지만, 아마, 그 마시는 것 상태라면, 숙취 기색(이)었던 것은, 없을까요...

 

사진 이하.이 다음날(지난 주의 화요일.이하, 이 날이라고 씁니다)는, 일을 빨리 끝맺고, 그녀와 저녁 5 시경, 지하철의 아사쿠사(asakusa) 역에서 만나고, 스미다(sumida) 강가의, 벚꽃을 보면서, 산책했습니다.도쿄도심부의 동부(북동부)에 위치하는, 아사쿠사(asakusa)는, 현재는, 도쿄의 주요한 번화가의 하나에 지나지 않습니다만(그런데도, 도쿄의 게노마치(구시가)(도쿄도심부의 동부)의 중심적인 번화가가 되고 있다), 제이차 세계대전전은, 긴자(ginza.도쿄도심부안에서도, 중심적인 지역에 위치한다)와 보조자에, 도쿄의 2대번화가였습니다(제이차 세계대전전은, 긴자(ginza)가, 중류층 및 상류층을 위한 중심적 번화가, 아사쿠사(asakusa)가, 서민을 위한 중심적 번화가라고 한 느낌이었습니다.덧붙여서, 긴자(ginza)는, 지금도, 도쿄를 대표하는 번화가의 자리를 유지하고 있습니다).아사쿠사(asakusa)는, 제이차 세계대전 말기의 공습으로, 괴멸적인 피해를 받았습니다.또, 제이차 세계대전 후, 아사쿠사(asakusa)가, 쇠퇴해 가는 한편으로, 도쿄도심부 서부(1920년대부터 1930년대에, 본격적인 개발이 시작되었다)의, 신쥬쿠(shinjyuku)나 시부야(shibuya)가, 도쿄의 새로운 주요 번화가로서 성장해/`A대두해 왔습니다.이것에 의해, 아사쿠사(asakusa)는, 도쿄 최대급의 번화가의 자리는, 신쥬쿠(shinjyuku)나 시부야(shibuya) 등 , 다른 번화가에 양보했던(덧붙여서 긴자(ginza)는, 제이차 세계대전전과 후를 통해서, 현재에 이를 때까지, 도쿄를 대표하는 번화가에서 있으면 보조자에, 이웃의 유라쿠쵸(yurakucho)와 합해(긴자(ginza)·유라쿠쵸(yurakucho)), 도쿄 최대급의 번화가의 자리를 유지).그런데도, 아사쿠사(asakusa)는, 지금도, 도쿄의 게노마치(구시가)(도쿄도심부의 동부) 최대급의 번화가임과 동시에, 도쿄의 변두리(구시가)를 대표하는 번화가가 되고 있습니다.아사쿠사(asakusa)는, 옛 도쿄의 분위기가, 식생활 문화, 식당, 공예품, 선물물 가게등 , 문화로서 많이 남아 있기 위해, 도쿄를 대표하는 관광지의 하나로서, 돋보이고 있습니다.

 

스미다(sumida) 강은, 도쿄 중심부(도쿄 23구)의 북단에 있고, 황(ara) 천이라고 하는 강에서 분기 해, 도쿄 중심부(도쿄 23구)의 동쪽을 흐르면서, 도쿄만에 흘러 들어가는, 전체 길이, 23.5 km의 강입니다.스미다(sumida) 강의, 아사쿠사(asakusa) 부근의 강가의, 약 1 km에 건너는 벚꽃길(벚꽃나무의 가로수)은, 도쿄도심부의 벚꽃의 명소의 하나가 되고 있습니다(이 벚꽃길(벚꽃나무의 가로수)은, 18 세기 전반부터의 역사를 가져(이 벚꽃길(벚꽃나무의 가로수)의, 현재의 벚꽃나무는, 18 세기부터 계속 되는 것이 아닙니다만...), 옛부터(18 세기부터), 도쿄의 벚꽃의 명소의 하나가 되고 있습니다).

 

 

사진 우측의, 이상한 디자인(design)의 고층빌딩은, 아사히(asahi) 맥주(일본의 대기업(대규모) 맥주 회사의 하나.오사카 발상의 회사.1889년 창업)의 빌딩에서, 맥주를 이미지 한 디자인(design)의 빌딩(아마...)입니다만, 개인적으로, 이 빌딩의 디자인(design)은, 싫습니다.단지, 뭐, 아사쿠사(asakusa)에 어울리지 않는 것은 아니라고 생각합니다.사진 중앙의, 높은 탑은, 도쿄 sky tree.사진아래는, 벚꽃나무들.경관상, 고속도로(motorway)의 고가는, 방해입니다 w.

 

 

사진 이하 3매.도쿄 sky tree.도쿄 sky tree는, 도쿄의 변두리(구시가.도쿄 중심부(도쿄 23구)의 동부)에 있는 TV전파탑입니다(전망대를 가짐과 동시에, 상업 시설등을 병설해, 관광 시설의 측면도 가지고 있습니다).작년(2012년)의, 2월말에 완성해, 5월에, 전면 개업했습니다.도쿄 tower(높이 약 333 m.1958년의 완성 당시는, 세계 제일 높은, (관광용의 전망대가 붙은) 탑이었다)는, 와야 할 TV의 대중화 시대(일본에서는, TV방송은, 1953년에 시작해, 당초는, TV는, 서민에게 있어서는, 꽤 손이 닿지 않는 사치품으로 있었지만, 1950년대말에는, 텔레비젼(TV)이, 서민의 가정에도 보급하는 것처럼 되는 것)에 대비하고, 도쿄 area에 TV전파를 대량으로 송신하기 위해 지어진 TV전파탑입니다만, 도쿄 ski tree는, 도쿄 tower에 대신하는, 도쿄 area에 TV전파를 송신하기 때문에(위해)의, (동경권의) 주력 TV전파탑이 되는, TV전파탑에서, 도쿄 tower 같이, 전망대를 가져, 관광 시설의 측면도 가지고 있습니다.도쿄 ski tree는, 높이는, 634 m 있어, 일본에서 가장 높은, 또, 세계에서도, Burj Khalifa(Burj Dubai)에 이어, 두번째에 높은 건조물이며, 세계 제일 높은 탑입니다.아사쿠사(asakusa)는, 도쿄 skytree에 가까워, 이번, 도쿄 sky tree와 아사쿠사(asakusa) area의 벚꽃의 편성의 풍경의 사진을, 다양하게 찍어 보았습니다.덧붙여서, 개인적으로, 도쿄 sky tree의 디자인(design)은, 조금은, 눈에 친숙해 져 왔습니다만, 역시, 여전히 싫습니다.현대에 지어지는 건물의 디자인(design)으로서는, 너무나 보수적이고, 보수적이어도, 아름다우면 좋겠습니다만, 아름답지도 않고, 단지, 매우 지루할 뿐(만큼)...뭐, 어느 쪽은, 눈에 친숙해 져 오고, 싫은 디자인(design)이 아니게 되는 것입니까...(도쿄 tower도, 만일, 지어진 당시 , 내가, 이미 태어나고 있고, 한편, 이미, 어른이었다면, 아마, 저런, Eiffel tower의 흉내의 같은 디자인(design)은 있을 수 없다고 하고, 매우 싫어 하고 있었다고 생각하는 w).

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

이 때는, (비는, 내리지 않았지만) 날씨가, 좋지 않았습니다만(뭐, 어느 쪽으로 해도, 이미, 저녁이었습니다만), 푸른 하늘의, 좋은 날씨라면, 가까이서 보는 도쿄 sky tree와 벚꽃의 편성의 풍경은, 매우 좋다고 생각하는(도쿄 sky tree가, 완성하고 나서, 벚꽃의 시기에, 아사쿠사(asakusa) area를 방문한 것은, 이 때가, 처음...).

 

 

 

 

사진 중앙의 안쪽에, 일부가 보이는 빌딩은, 마츠야(matsuya) 백화점, 아사쿠사(asakusa) 점의 건물에서, 1931년의 개점시부터의 물건입니다.

 

 

 

사진 이하 2매.저 편으로, 다리 위를 달리는, 전철이, 보입니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 2매.카츠 가이슈(katsu kaisyu.1823 년생.일본인.19 세기 후반에 활약한 인물입니다만, 설명은, 생략 합니다)의 상.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

아사쿠사(asakusa) 주변의, 스미다(sumida) 강가에 위치하는, 사진 이하 16매의 장소는, 원래, 미토(mito) 토쿠가와(tokugawa) 가(에도(edo) 시대(17 세기부터 19 세기 중반에, 현재의 이바라키(ibaraki) 현(동경권의 북동단에 위치하는 현)의 중부 및 북부를 통치하고 있던 지방 영주의 집.매우 유력한 지방 영주의 집에서 만났다)의, 도쿄(당시는, 에도(edo)로 불리고 있었다)의 별장의 하나의 부지의 일부(반약위일까...)에서 만난 것으로, 현재는, 작은 공원으로서 정비되고 있습니다.미토(mito) 토쿠가와(tokugawa) 가는, 근대 일본에 있고, 귀족(후작)이 되었던(봉건제 시대의 지방 영주들은, 근대에 들어가면, 지방 영주로서의 지위를 잃으면 보조자에, 봉건제 시대의 성(castle) 등을 잃었지만, 많은 지방 영주들은, 귀족계급에 집어 넣을 수 있어 근대사회(19 세기말로부터 제2차 세계대전 후, 이윽고까지)에 대해도, 일본의 상류계급으로서의 지위와 부는, 유지했습니다).이, 미토(mito) 토쿠가와(tokugawa) 가의, 도쿄의 별장의 하나(부지면적은, 약 66000평방 m( 약 2만평) 있었다)는, 근대에 들어가, 미토(mito) 토쿠가와(tokugawa) 가의 본댁(메인(main)의 집)이 되었습니다만, 간동대지진(1923년에 도쿄 area를 덮친 거대 지진.도쿄등이, 매우 큰 피해를 받은) 및, 거기에 따르는 화재에 의해, 괴멸적은 피해를 받았습니다.그것에 의해, 미토(mito) 토쿠가와(tokugawa) 가는, 이 토지를 손놓아, 그 일부(반약위일까...)(이)가, 1931년에 공원으로서 정비되고 현재에 이르고 있습니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

도쿄 sky tree.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 3매.미토(mito) 토쿠가와(tokugawa) 가의, 도쿄의 별장의 하나였을 무렵의 자취가 느껴집니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 11매.위의, 공원(겐, 미토(mito) 토쿠가와(tokugawa) 가의, 도쿄의 별장의 하나의 부지의 일부를 이용한 공원)에 인접하는, 우 시마(ushijma) 신사(shrine).860년 창건의, 꽤 역사가 낡은, 신도의, 신사(shrine)입니다.원래, 이 부근의 다른 장소에 있었습니다만, 간동대지진(1923년에 도쿄 area를 덮친 거대 지진.도쿄등이, 매우 큰 피해를 받았다)로 괴멸적인 피해를 받은 후, 1932년에, 현재지(겐, 미토(mito) 토쿠가와(tokugawa) 가의, 도쿄의 별장의 하나의 부지의 일부)에 이전해 왔습니다.현재의, 이 신사(shrine)의 건물은, 현재지에 이전해 온, 1932년에 지어진 것입니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

무우(nadeushi.자신의 몸이 나쁜 부분을 어루만져 소의 상의 같은 부분을 어루만지면 병이 낫는다고 하는 풍습)을 위한, 소의 상.우 시마(ushijma) 신사의, 현재의, 무우(nadeushi)를 위한 소의 상(위의 사진)은, 1825년경에 봉납되었다고 말해지고 있습니다(그 이전은, 우 시마(ushijma) 신사에서는, 우형의, 자연석을, 무우(nadeushi)를 위해 두고 있던 같습니다).

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 2매.산책 도중에, 벚꽃의 시기의 출점(길가에, 임시에 나오는 가게)에서, 사 먹은, 간식.둘이서 나누어 먹었습니다.

 

 

된장 오뎅(된장, 곤약(konnyaku), 오뎅).

 

 

 

 

 

물교자(dumpling).

 

 

 

 

사진 이하 14매.황혼으로부터 밤의, 도쿄 sky tree와 벚꽃등.도쿄 sky tree는, 밤에 보는 분이, 좋을지도...도쿄 sky tree의, 라이트 업(조명)의 색은, 벚꽃의 시기 한정의, 벚꽃을 이미지 한 색이 되어 있습니다.

 

사진 이하 3매.스미다(sumida) 강가의 벚꽃길과 도쿄 sky tree.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 3매.스미다(sumida) 강가의 벚꽃길과 도쿄 sky tree.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하.아사쿠사(asakusa) 주변의, 스미다(sumida) 강가에서, 벚꽃을 보면서의 산책을 즐긴 후는, 택시(taxi)로, 료고쿠(ryougoku)·구라마에(kuramae) area의, 개(cyanko) 냄비 레스토랑으로 이동해, 저녁 식사를 먹고 나서, 돌아갔던(아사쿠사(asakusa)와 료고쿠(ryougoku)·구라마에(kuramae) area의 사이는, 생각보다는 가깝기 때문에(1 km강으로부터 2 km강위 밖에 떨어지지 않을까...), 택시(taxi)로도, 너무 요금은, 걸리지 않습니다.게다가, 이 날, 저녁 식사를 먹은, 개(cyanko) 냄비 레스토랑은, 료고쿠(ryougoku)·구라마에(kuramae) area 중(안)에서도, 아사쿠사(asakusa) 방면에서 보고, 꽤 앞에 위치하고 있습니다).료고쿠(ryougoku)(도쿄 중심부(도쿄 23구)의 동부에 위치한다)에는, 양국(ryougoku) 국기관(규모의 큰, 스모(sumo) 경기장에서, 도쿄에 있어서의, 스모(sumo) 흥행의 중심이 되고 있는 시설)가 있는 일로부터, 양국(ryougoku) area 및, 그 주변은, 도쿄에 있어서의, 스모(sumo)(아래의 보충 설명 참조)의 중심지가 되고 있어 많은, 스모(sumo) 방(프로의 스모(professionalsumo)의 스모 선수(선수)를 양성하는 기관)나, 원, 스모(sumo) 스모 선수(선수) 등이 경영하는, 개(cyanko) 냄비 레스토랑이 있습니다.
스모(sumo):고대부터의 역사를 가지는, 신도에 근거하는, 일본의 의식·격투 경기.덧붙여서, 현대에 연결되는, 조직화된, 프로의 스모(professional sumo)의 역사는, 17 세기까지, 거슬러 올라갑니다.

 

사진 이하 4매.이 날, 저녁 식사를 먹은, 개(cyanko) 냄비 레스토랑.이, 개(cyanko) 냄비 레스토랑은, 이 때까지, 몇 번이나 이용한 일이 있었습니다(대중적인, 가격의 레스토랑입니다).이, 개(cyanko) 냄비 레스토랑은, 1954년에 지어진, 스모(sumo) 방(아래의 보충 설명 참조)의 건물을, 개장한 레스토랑이 되어 있습니다.
스모(sumo) 방:프로의 스모(professional sumo)의 스모 선수(선수)를 양성하는 기관.모든, 프로의 스모(professional sumo)의 스모 선수(선수)는, 어느 쪽인가의, 스모(sumo) 방에 소속하지 않으면 안됩니다.현재, 일본에는, 44의, 스모(sumo) 방이 있는 것 같습니다.

 

 

 

이 레스토랑의 외관.

 

 

사진 이하 3매.이 레스토랑의 내부.

 

사진 이하 2매는, 이 레스토랑의 팜플렛(leaflet)보다...

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 6매.이 레스토랑에서 먹은, 이 날의 저녁 식사.이 레스토랑은, 개(cyanko) 냄비의 외, 스시등 , 풍부한 종류의 요리를 냅니다.덧붙여서, 나는, 이 날의, 오전중까지는, 술(알코올(alcoholic) 음료)은, 보는 것도 싫다고 말한 느낌이었지만(덧붙여서, 컨디션 자체는, 오후에는, 완전하게 회복했습니다), 저녁 식사시에는, 또, 술(알코올(alcoholic) 음료)을 마실 수 있는 기분이 되어 있었던 w.다만, 과연, 이 날은, 술(알코올(alcoholic) 음료)은, 조심스럽게 해, 이 저녁 식사시는, 나는, 음료는, 술(알코올(alcoholic) 음료)은, 일본술을 조금과 맥주중병 1개만 마셔, 집에 돌아가고 나서는, 술(알코올(alcoholic) 음료)은, 일절 마시지 않았습니다.

 

 

밀어내기(선술집·식당등에서 최초로 나오는, 약간의 요리).일인일명씩.

 

 

 

 

사진 이하는, 모두, 둘이서 나누어 먹었습니다.

 

 

생선회 진열.

 

 

 

사진 이하 3매.개(cyanko) 냄비.이 때는, 17 종류의 도구를 포함시킨, 개(cyanko) 냄비를 먹었습니다.개(cyanko) 냄비는, 스모(sumo) 방이, 스모(sumo)의 스모 선수(선수)에 제공하는, 냄비 요리로, 스모(sumo)의 스모 선수(선수)의 식사의 중심이 되는 요리입니다.다양한 종류의 물건이 있어, 또, 스모(sumo) 방에 의해서, 맛내기, 속재료, 조리법도, 다른 것 같습니다.도쿄에 있어서의, 스모(sumo)의 중심지가 되고 있는, 양국(ryougoku) area 및, 그 주변은, 많은, 원, 스모(sumo) 스모 선수(선수) 등이 경영하는, 개(cyanko) 냄비 레스토랑이 있습니다.

 

 

 

 

 

 

이것은, 개(cyanko) 냄비의, 추가의 도구로서 부탁한, 메카지키의, 개(물고기 경단)와 떡.

 

 

 

 

 

이것은, 먹고 있는 도중에 촬영한 것.

 

 

 

 

 

큰 다랑어(참치의 지방살(안toro))의, 스시.

 

 

이 레스토랑에서 저녁 식사를 먹은 후는, (개(cyanko) 냄비를 먹고 힘이 뒤따랐고 w), 조금 운동겸, 료고쿠(ryougoku) 역까지, 걸어 가(료고쿠(ryougoku) 역은, 일단, 이 레스토랑의, 근처역이 되고 있지만, 걸으려면 , 약간의 거리가 있다), 료고쿠(ryougoku) 역으로부터, 통근 전철(한국식에 말하면 지하철)로, 우리 집에 돌아갔습니다.

 

 

 

 



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