うちの町内

 

 

写真以下3枚は、おまけ。投稿の本文(上野(ueno))とは、関係ありません。

 

 

我が家の、新聞の折込みチラシ広告(定期購読している新聞に挟まれて来る広告)から、渋谷(shibuya)の、東急(tokyu)デパート東横(toyoko)店の、バレンタイン(Valentine"s day)の、チョコレート(chocolate)の広告(写真は、2月(今月)の初旬に撮影)。渋谷(shibuya)(電車の渋谷(shibuya)駅周辺。私が暮らす、渋谷(shibuya)区(東京都心部の西部に位置する区)で、最大の繁華街であると共に、東京最大級の繁華街の一つ)には、東急(tokyu)デパート本店と、東急(tokyu)デパート東横(toyoko)店と、東急(tokyu)デパート(日本のデパートの、チェーン(chain)の一つ)の店舗が、二つ有りますが、渋谷(shibuya)駅前の(渋谷(shibuya)駅(多くの、通勤電車・地下鉄(韓国式に言えば地下鉄)路線が通ります)に直結している)、東急(tokyu)デパート東横(toyoko)店は、比較的、庶民的な雰囲気で、渋谷(shibuya)駅から少し離れた場所に有る、東急(tokyu)デパート本店は、比較的、落ち着いた高級な雰囲気となっています(東急(tokyu)デパート東横(toyoko)店と東急(tokyu)デパート本店の間には、無料のバス(bus)が走っています。まあ歩いても、大した事無いのですが。。。)。

 

 

東急(tokyu)デパート東横(toyoko)店は、東館(1934年完成)、西館(1954年完成)、南館(1970年完成)の、三つの建物から成りますが、この内、1934年完成の、東館が、渋谷(shibuya)駅の再開発に伴う、取り壊しの準備の為に、間もなく(今年の3月末を以て)、閉館(閉店)する予定です。したがって、現在、東急(tokyu)デパート東横(toyoko)店は、東館の、閉館(閉店)の前のセール(sale)を行っています。

 

 

写真以下2枚。借り物写真(写真の作者:Rs1421)ですが、東急(tokyu)デパート東横(toyoko)店の、西館と、東館の建物。この他、東急(tokyu)デパート東横(toyoko)店は、南館の建物(1970年完成)があります。

 

 

西館(1954年完成)。

 

 

 

 

 

 

東館(1934年完成)。建てられてから、80年近く経つ、デパートの建物で、現存する、東急(tokyu)デパートの建物の中では、最古の物ですが、渋谷(shibuya)駅の再開発に伴って、近い内に、取り壊される予定で、取り壊しの準備の為に、間もなく(今年の3月末を以て)、閉館(閉店)する予定です。

 

 

以下、投稿の本文に入ります。

 

去年の12月の下旬に、上野(ueno)を散歩して来た時の物です(以下、この、上野(ueno)を散歩して来た日の事を、この日と書きます)。この日の、流れは、以下の通りでした(投稿文は、便宜上、必ずしも、この日の流れに沿っている訳ではありません)。東京都美術館で、展覧会(exhibition)を見る(午前中)→国立科学博物館を訪れる(昼食は、国立科学博物館のレストランで食べました)→アメ横(ameyoko)を散歩→上野(ueno)駅に入っている店舗で、少し買い物→上野(ueno)駅に入っている、「Afternoon Tea」で、おやつを食べる→上野(ueno)駅に入っている、「Brasserie L’ecrin」で夕食を食べる→我が家に帰る。

 

上野(ueno)は、東京都心部の北東部に位置する、浅草(asakusa)と並ぶ、東京の下町(東京都心部東部。旧市街)最大級の繁華街です。

 

写真以下2枚は、借り物写真ですが、アメ横(ameyoko)。上野(ueno)にある、在来市場です。東京で最大の在来市場であると共に、東京で、唯一の、在来市場らしい、在来市場で、東京の観光場所の一つとなっています。 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この日、アメ横(ameyoko)を、ぶらぶら散歩した際に、アメ横(ameyoko)の、沖縄(okinawa)県(日本最南端の県)の商品の専門店で、購入した飲み物。写真左は、ミキ(miki)。奄美(amami)諸島(鹿児島(kagoshima)県の南端部の島々。沖縄(okinawa)県の北に接する)と、沖縄(okinawa)県の、伝統的な飲み物の一つで、米、砂糖、サツマイモ(sweet potato)を発酵させて、作られる、アルコール(alcohol)の入っていない、甘い飲み物です。観光客は、あまり買って飲みませんが、現地では、体力を消耗し易い、夏の栄養補給の飲み物として、昔から、よく飲まれている飲み物の様です。これは、沖縄(okinawa)県産の、缶入りのミキ(miki)です。私は、ミキ(miki)を飲んだのは、これで2回目でした。最初に、ミキ(miki)飲んだのは、もう、かなり昔の事でw、大学生の頃、奄美(amami)大(oo)島(奄美(amami)諸島で、最大且つ、奄美(amami)諸島の中心となっている島)に滞在中、現地のマートで、花田(hanada)ミキ(miki)と言う、奄美(amami)大(oo)島の、ミキ(miki)の製造会社(ミキ(miki)の製造会社としては、規模が大きい会社ではないでしょうか。。)の、紙パック(carton)入りの、ミキ(miki)を買って、飲みました。(沖縄(okinawa)県産のミキ(miki)も、色々あると思いますが)、今回飲んだ、沖縄(okinawa)県産の、缶入りのミキ(miki)は、奄美(amami)大(oo)島の、花田(hanada)ミキ(miki)の、ミキ(miki)の様な、酸味がなく(まあ、花田(hanada)ミキ(miki)の、ミキ(miki)の味は、飲んだのが、大分前の事なので、あまり、憶えていませんが)、飲み易い感じでした(私が、嫌いな味ではありません)。写真右は、沖縄(okinawa)県産の、紅芋drink(写真左の、ミキ(miki)と似た系統の味でした)。ちなみに、紅芋(紫色や赤色の、サツマイモ(sweet potato)(紫芋とも呼ばれる)又は山芋科の芋)は、沖縄(okinawa)県で、よく食べられています。

 

 

上野(ueno)には、上野(ueno)公園が有ります。上野(ueno)公園は、東京中心部にある公園の中では、最大級の公園の内の一つであり、また、美術館・博物館等の文化施設が集まっています。

 

 

この日の、午前中は、東京都美術館で、この時、行われていた、メリトロポリタン美術館(The Metropolitan Museum of Art)の、収蔵作品の、展覧会(exhibition)を見ました。東京都美術館は、東京都(日本の47の都道府県(prefecture)の内の一つ。主に、東京中心部(東京23区)と東京の西部郊外・近郊から成る)が運営する美術館の内の一つで、上野(ueno)公園にある文化施設の一つです。東京都美術館は、1926年に開館した美術館ですが、現在の建物は、2代目で、1975年に完成した物です。東京都美術館は、収蔵品(collection)をほとんど持たない、展覧会(exhibition)専門の規模の大きな美術館で、複数の展覧会(exhibition)を同時に開催出来る規模を持ち、実際に、通常、複数の展覧会(exhibition)を同時に開催しています。

 

 

これは、借り物写真ですが、1926年に建てられた、東京都美術館の初代の建物。1970年代前半まで使われていました(2代目の建物の開館に伴い、取り壊されました)。

 

 

 

 

 

向こうに見えるのは、東京都美術館の二代目の建物(現在の建物)。写真に写っているのは、一部で、規模の大きな建物です。

 

 

 

東京都美術館で、展覧会(exhibition)を見た後は、国立科学博物館を訪れ、午後は、国立科学博物館で過ごしました(なお、この投稿の、国立科学博物館に関する写真は、前に、kjで、アップ(upload)した写真の、再利用も、含みます)。

 

国立科学博物館(1877年設立)は、日本の、国立の(厳密には微妙に違いますが、ここでは説明は、省略します)、科学博物館です。科学に関する、非常に多くの資料を収蔵する博物館で、規模が大きく、見応えのある博物館です。

 

私は、子供の頃、博物館が好きで、この国立科学博物館や、交通博物館、科学技術館に、よく行きました(幼い時は、親に連れて行ってもらいましたが、小学校4年生頃からは、同じ興味を持つ友達(達)と、小学生だけで、行く様になりました。中学生になってからは、ほとんど行かなくなりましたが。。。)。私は、幼い頃、恐竜に、とても興味があったので、取り分け、国立科学博物館の、恐竜に関する展示は、印象に残っています(ちなみに、かつては、本館(現在の日本館)の1階の、かつての玄関を入って右側が、恐竜に関する展示室となっていました)。

 

今回、国立科学博物館を訪れたのは、一昨年、とても久しぶりに(15年ぶり位)に訪れて以来で、国立科学博物館が、大規模な改装がなされてからは(現在の地球館の建物が建てられてからは)、2回目でした。

 

 

国立科学博物館のパンフレット(leaflet)。

 

 

 

国立科学博物館の現在の建物は、1931年に建てられた、重厚な近代建築の日本館の建物と、(日本館に接する)現代建築の地球館の建物から成ります(現在の地球館の建物が建てられる前にも、国立科学博物館には、展示の為の建物として、本館(現在の日本館)に加えて、本館(現在の日本館)に隣接した現代建築の建物が有りましたが、現在の地球館の建物が建てられる際に、取り壊されました)。

 

 

 

国立科学博物館の館内地図。ゆっくり見ようとすると、一日では、見切れません(一日では、足りません)。

 

 

 

写真以下17枚。国立科学博物館の日本館(かつての本館)の建物。1931年に建てられた、重厚な近代建築の建物です。

 

写真以下5枚。国立科学博物館の日本館の建物の外観。上から見ると、(当時、最新技術の塊の乗り物と考えられていた)飛行機の形になっています。

 

これは、借り物写真ですが、おそらく、1931年に建てられた当時の写真。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

国立科学博物館の屋外展示物の一つ。D51形蒸気機関車(下の補足説明参照)。これは、1939年に製造された物です。
D51形蒸気機関車:説明は、wikiを参考にしました。日本の代表的な、貨物用、蒸気機関車。1936年にデビュー(debut)し、1945年まで製造された。1,155両製造され(第二次世界大戦中に大量生産された)、ディーゼル(diesel)機関車や電気機関車等を含めた、日本の機関車1形式の製造量数では最大を記録した(この記録は現在も更新されていない)。

 

 

写真以下11枚。国立科学博物館の日本館の建物の内装例。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

国立科学博物館の日本館(かつての本館)の、かつての、玄関ホール(hall)。この場所には、かつて、大型肉食恐竜の、骨(骨格標本)が展示されており、国立科学博物館に入館する者に(特に、子供時代の私等、子供に)、強い印象を与えていました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

フーコーの振り子(Foucault pendulum)。子供の頃から、印象に残っている展示物です。

 

 

 

国立科学博物館の日本館の展示は、日本の自然に関する展示が中心になっています。

 

写真以下7枚。国立科学博物館の日本館の展示例。

 

 

写真以下3枚。日本国内で発掘された、アンモナイト(ammonite)の化石。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下3枚。日本に生息していた恐竜に関する展示の例。

 

写真以下2枚。フタバスズキリュウ(Futabasaurus)(日本近海に生息していた恐竜(首長竜))の復元骨格です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ちなみに、国立科学博物館は、(現在の、日本人の原型となった)、とても古い時代の、日本人、縄文(jomon)時代(約16,000年前から2,300年前)の、縄文(jomon)人と、弥生(yayoi)時代(約2,300年前から3世紀半ば)の、弥生(yayoi)人に関する展示(縄文(jomon)時代と、弥生(yayoi)時代の土器等を含む)等も充実しています。ちなみに、新たな発見があれば、話は別ですが、少なくとも、現在(現時点)において、日本の縄文(jomon)人の使っていた土器(縄文(jomon)式土器)は、土器として世界最古の物の一つとなっています。

 

日本は、先進工業国であり、且つ、それ程、大きな国土を持たない国であるのにも関わらず、世界でも有数の、多様な生物と、多様な固有種の生物が生息する地域となっています(先進国の地域で、他に、世界でも有数の、多様な生物と、多様な固有種の生物が生息する地域は、アメリカ、オーストラリア、ニュージーランド、南ヨーロッパ(地中海沿岸))。特に、日本近海は、オーストラリア近海と並び、海洋生物における、世界最大の生物多様性を持つ(多様な生物と、多様な固有種の生物が生息する)海となっています。

 

また、日本の国土の約70%が森林(森)に覆われており、日本の国土に占める森林(森)の割合は、フィンランド(Finland)、スウェーデン(Sweden)と並び、先進工業国の中だけでなく、世界でも、最高水準に有ります。

 

写真以下28枚は、おまけで、前にenjoyとkjでアップ(upload)した写真の再利用ですが、東京都心部の我が家から、自動車で2時間半程の、長野(nagano)県の、高原地帯にある、私の別荘(別荘とは言っても、比較的裕福な人々が保有する様な典型的な別荘ではなく、庶民的な中古の一戸建て住宅です)周辺の、森の風景。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下3枚。ニホンカモシカ(日本カモシカ・Japanese serow)。山羊系の牛科に属する野生動物で、世界で、日本にのみ生息する野生動物(日本固有種)です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下3枚。ニホンカモシカ(日本カモシカ・Japanese serow)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真以下24枚。再び、国立科学博物館の日本館の展示例。

 

九州(kyusyu。日本の南部)の、鹿児島(kagoshima)県の、屋久(yaku)島から、1914年に切り出された、樹齢約1600年と推定される杉の木です。屋久(yaku)島の杉は、寿命(樹齢)の長い物だと、樹齢2000年から4000年にもなります(通常、杉の寿命は、世界的に、500年程度。ちなみに、屋久(yaku)島の杉は、杉に限らず、世界の木の中で、非常に、寿命が長いです)。

 

 

 

 

 

写真奥。秋田(akita)蕗。日本原産の、大きな蕗で、主として、日本の北部に分布しています。食用として、日本の東北地方の、秋田(akita)県を中心に、栽培もされています。

 

 

 

 

 

写真中央。毬藻(marimo)。美しい球体を作る、淡水性の藻です。日本、ヨーロッパ、北アメリカ等に分布していますが、毬藻(marimo)が、大きな、球体に発達し、なおかつ群生しているのは、日本の北部の、北海道(hokkaido)の阿寒(akan)湖と、アイスランド(Iceland)の、ミーヴァトン(Myvatn)湖だけに限られています(阿寒(akan)湖の毬藻(marimo)の公式siteを参考にしました)。

 

 

 

写真左、ニホンカモシカ(日本カモシカ・Japanese serow)の剥製。写真右、日本猿の剥製。日本猿は、日本にのみ生息する、世界的には珍しい(個性的な)猿ですが、日本(日本の山林)においては、野生の日本猿が、たくさん生息しています(北海道(hokkaido)、沖縄(okinawa)を除く、日本各地の山林に生息しています)。日本猿は、世界で、最も北に住む猿で、英語で、snow monkeyとも呼ばれています(猿が、雪の中で生息する光景は、世界的には、非常に珍しい事から)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

高足蟹(Japanese spider crab)。日本近海の深海(deep sea)に住む、世界最大の蟹です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

日本に生息する、雉子(Green Pheasant)の剥製。雉子(Green Pheasant)は、日本の国鳥(national bird)となっています。

 

以下、「」内、国立科学博物館の解説文から。。。

 

「日本には、鳥類でも、固有種や、準固有種が、30種近くいる。それらは、多くの場合、大陸の東端に隔離される事で、数百万年と言う長い年月の間に固有化した。それらの現在の分布域は、一つの島に限定される狭いものから、日本列島の、ほぼ全域、さらには、それを越えるものまで、様々である」。

 

 

 

 

 

 

 

日本の、様々な、鶏の品種の剥製。

 

 

 

 

尾長鶏の剥製。尾長鶏は、日本の、鶏の品種の一つで、日本の天然記念物に指定されています。17世紀半ば頃、突然変異で生まれたと伝えられています。雄の、尾の羽が、極端に長くなるのが特徴です。鶏は、通常一年に一度羽が生え換わりますが、雄の尾長鶏は、尾の羽が生え換わらないため、尾が非常に長くなります。現存する鳥類の中で、最も長い尾を持ち、12mと言う記録もあります。完全に観賞用の鶏です。説明は、wiki及び、国立科学博物館の説明文を参考にしました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

写真左、内藤(naito)家(概ね、現在の、宮崎(miyazaki)県の北部に当たる地域を統治していた地方領主の家。近代以降は、貴族(子爵)となる)が代々所有していた、銅製の天球儀(1673年。日本製)、写真右の上、日本で製作された地球儀の中で現存する最古の物(1695年製)(重要文化財)の複製。

 

 

 

 

 

遠眼鏡。以下、遠眼鏡の説明は、国立科学博物館の説明文を、ほぼ、要約した物です。望遠鏡は、1608年に発明され、早くから、日本に渡来しましたが、日本で、本格的に、天文観測に用いられ始めたのは、18世紀末の事からです。日本で、最初に、望遠鏡を多量に製作し、広めたのは、大阪の、岩橋 善兵衛(iwahashi zenbei。1756年生まれ。1811年に亡くなる)で、遠眼鏡(屈折望遠鏡)を広く市販しました。岩橋 善兵衛(iwahashi zenbei)の望遠鏡は、当時の江戸(東京)の天文台にも納められました。伊能 忠敬(inou tadataka)が、測量に使った望遠鏡も、その一つです。

 

 

安定した、江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)には、庶民にも教育が普及し、明治(meiji)時代以降(19世紀後期以降)の、日本の近代化の礎(基礎)となりました(国立科学博物館の解説文より。。。)。

 

 

写真以下3枚は、日本の、江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)の顕微鏡に関する展示です。

 

以下、「」内は、国立科学博物館の解説文を、ほぼ引用した物です。

 

「平和な江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)においては、多くの情報や知識が社会で共有されていました。殿様(地方領主)であろうが、町の人々であろうが、ほぼ時間の差がなく、多少の精粗(詳しい事と、大雑把な事)の差はあっても、基本的に、同じ様な情報を知っていました。しかし、人々の好奇心や見方によって、受け取り方は、多様でした。海外から、顕微鏡が伝えられ、拡大された世界が紹介された時も、一方では、西洋に迫る研究へと進み、他方では、おもちゃ(玩具)となりました。受容の形は、異なっても、刺激された、多様な好奇心の眼差しは、知識の、さらなる共有を促しました」。

 

 

「顕微鏡は、江戸(edo)時代の中期頃に、日本に伝わりました。虫眼鏡等より、構造も複雑で高価でしたが、はるかに倍率が高く、小さな物が、より大きく観察出来ました。購入した、大名(地方領主)達等は、西洋人と同じ様に、虫や植物等の、自然の観察を行いました。その驚きは、あっと言う間に(すぐに)、日本中に広まりました」。

 

 

 

 

「西洋から伝わった顕微鏡は、しばらくして、その原理や構造を独学で学んだ、日本人の手で作られる様になりました。また、西洋で行われた、顕微鏡の諸研究に学び、雪の結晶を観察した、土井 利位(doi toshitsura)の様な、優れた自然観察の成果を残す人も現れました」。

 

 

 

 

雪の結晶のデザイン(design)の、刀の鍔(刀の柄と刀身との境に挟んで、柄を握る手を防護する部位)。「顕微鏡によって明らかにされた、微小な世界。初めて目にする、美しく、不思議な物や形は、科学的興味を満たすと共に、文化や芸術にも、大きな影響を与える物でした。土井 利位(doi toshitsura)が、「雪華図説」で明らかにした、雪の結晶の形状は、雪華文様となって、着物(日本の伝統衣装)の柄(模様)や、陶磁器、刀の装飾等に、素早く取り入れられ、広く流行しました」。

 

 

 

 

電子顕微鏡。1942年。日本の東芝(toshiba)社製。以下、「」内は、国立科学博物館の解説文を、ほぼ、引用した物です。「より、極小の世界を見たいと言う思いは、顕微鏡の倍率を飛躍的に高め、光学的な顕微鏡の限界に達しました。その限界を超える為の技術の開発が、20世紀に入ってから、多くの国々や研究者によって行われました。日本は、その先駆け(先端を行く)の国の一つでした。1939年、長岡 半太郎(nagaoka hantaro)博士らの要請により、大阪大学や、名古屋(nagoya)大学、東芝(toshiba)、日立(hitachi)製作所等、産学協同で、電子顕微鏡の研究・開発が、開始されました。1940年には、磁界型、次いで、静電型電子顕微鏡の試作が行われ、1942年には、製品化まで進みました。以後、日本は、電子顕微鏡の分野において、より微小の世界への要求に応え、世界的に、大きな役割を果たし続けています」。

 

 

 

写真以下5枚。和時計(17世紀から1880年代頃まで、日本で制作、使用された、不定時法を用いる為の機構を持つ機械式時計。西洋の定時法の機械式時計に比べて、複雑な構造を持っていた)。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

和時計の小型化。以下、「」内は、国立科学博物館の解説文を、ほぼ、引用した物です。「江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)の末期になると、和時計の動力は、重錘の代わりに、ぜんまいが採用され、調速機も、棒てんぷから、円てんぷや、振り子に変わりました。これは、ぜんまいや、円てんぷの発明等、16世紀から17世紀にかけて、西洋で起こった、時計の技術革新が、遅れて日本に伝わった物です。それは、和時計に、形態的な変化をもたらし、掛時計や櫓時計等を設置して使用する、大型の和時計と違って、部屋から部屋へ移動可能な、小型の和時計を生みました」。

 

 

 

多様な和時計。以下、「」内は、国立科学博物館の解説文を、ほぼ、引用した物です。「時計の機能は、時間を計り、時刻を知らせる事ですが、時計が室内用、あるいは、携帯の装飾品として、多様化するのは、西洋でも、日本でも、同じです。小型の枕時計、各種の置き時計だけでなく、行灯(日本伝統式のlamp)の前で使用する、「灯前時計」、鐘の中に時計機構を組み込んだ、「釣鐘時計」、小型の屏風(byobu)に組み込んだ、「硯屏時計」、卦算(文鎮)に組み込んだ、「卦算時計」、印籠(薬等を携帯するための小さな容器)に組み込んだ、「印籠時計」等が、制作されました」。

 

 

以下、「」内は、国立科学博物館の解説文を、ほぼ、引用した物です。
「明治(meiji)時代(1868年から1912年)において、日本でも、定時法が採用される様になると、和時計は、使えなくなり、1889年に製作された、掛時計を最後に、和時計製作の歴史は、終わりました。19世紀末期頃には掛時計と置き時計の国産化が、少し遅れて懐中時計の国産化が始まりました。その後、日本の時計産業は、大きく発展し、1964年には、スイスの、ニューシャテル天文台のクロノメーターコンクールで、日本の機械式時計が好成績を収め、日本の時計技術の優秀さを、世界に示しました。日本は、1969年には、世界に先駆けて、クォーツ(quartz)式の腕時計を、世に送り出し、そして、1980年には、スイスを抜いて、腕時計生産量世界一位となりました」。

 

 

 

大森(omori)式地震計。以下、「」内は、国立科学博物館の説明文を、要約した物。「大森 房吉(omori fusakichi)が、1898年頃に完成させた地震計。それまでの地震計が、地震動を感知してから動き出す物であったのに対し、その欠点を改めて、常に動いて、連続記録が出来る地震計として登場しました。日本の代表的な地震計で、日本国内外で、数多く使われました」。

 

 

 

上野(ueno)散歩後編へ続く。。。

 

 

 


우에노(ueno) 산책 전편.

 

 

사진 이하 3매는, 덤.투고의 본문(우에노(ueno))란, 관계 없습니다.

 

 

우리 집의, 신문의 끼워넣어 광고지 광고(정기 구독하고 있는 신문에 끼워져 오는 광고)로부터, 시부야(shibuya)의, 토큐(tokyu) 백화점동횡(toyoko) 점의, 발렌타인(Valentine"sday)의, 초콜릿(chocolate)의 광고(사진은, 2월(이번 달)의 초순에 촬영).시부야(shibuya)(전철의 시부야(shibuya) 역 주변.내가 사는, 시부야(shibuya) 구(도쿄도심부의 서부에 위치하는 구)로, 최대의 번화가임과 동시에, 도쿄 최대급의 번화가의 하나)에는, 토큐(tokyu) 백화점 본점과 토큐(tokyu) 백화점동횡(toyoko) 점과 토큐(tokyu) 백화점(일본의 백화점의, 체인(chain)의 하나)의 점포가, 둘 있습니다만, 시부야(shibuya) 역전의(시부야(shibuya) 역(많은, 통근 전철·지하철(한국식에 말하면 지하철) 노선이 대로)에 직결하고 있다), 토큐(tokyu) 백화점동횡(toyoko) 점은, 비교적, 서민적인 분위기로, 시부야(shibuya) 역으로부터 조금 멀어진 장소에 있는, 토큐(tokyu) 백화점 본점은, 비교적, 침착한 고급 분위기가 되고 있습니다(토큐(tokyu) 백화점동횡(toyoko) 점과 토큐(tokyu) 백화점 본점의 사이에는, 무료의 버스(bus)가 달리고 있습니다.뭐 걸어도, 대단한 일 없습니다만...).

 

 

토큐(tokyu) 백화점동횡(toyoko) 점은, 동쪽 관(1934년 완성), 니시다테(1954년 완성), 미나미다테(1970년 완성)의, 세 개의 건물로부터 완성됩니다만, 이 안, 1934년 완성의, 동쪽 관이, 시부야(shibuya) 역의 재개발에 수반하는, 해체의 준비를 위해, 머지 않아(금년의 3월말로), 폐관(폐점)할 예정입니다.따라서, 현재, 토큐(tokyu) 백화점동횡(toyoko) 점은, 동쪽 관의, 폐관(폐점) 전의 세일(sale)을 실시하고 있습니다.

 

 

사진 이하 2매.차용물 사진(사진의 작자:Rs1421)입니다만, 토큐(tokyu) 백화점동횡(toyoko) 점의, 니시다테와 동쪽 관의 건물.이 외, 토큐(tokyu) 백화점동횡(toyoko) 점은, 미나미다테의 건물(1970년 완성)이 있습니다.

 

 

니시다테(1954년 완성).

 

 

 

 

 

 

동쪽 관(1934년 완성).지어지고 나서, 80년 가깝게 지나는, 백화점의 건물에서, 현존 하는, 토큐(tokyu) 백화점의 건물 중(안)에서는, 최고의 물건입니다만, 시부야(shibuya) 역의 재개발에 수반하고, 가까운 동안에, 해체될 예정으로, 해체의 준비를 위해, 머지 않아(금년의 3월말로), 폐관(폐점)할 예정입니다.

 

 

이하, 투고의 본문에 들어갑니다.

 

작년의 12월의 하순에, 우에노(ueno)를 산책해 왔을 때의 물건입니다(이하, 이, 우에노(ueno)를 산책해 온 날의 일을, 이 날이라고 씁니다).이 날의, 흐름은, 이하와 같았습니다(투고문은, 편의상, 반드시, 이 날의 흐름에 따라서 있는 것이 아닙니다).도쿄도 미술관에서, 전람회(exhibition)를 보는(오전중)→국립 과학박물관을 방문하는(점심 식사는, 국립 과학박물관의 레스토랑에서 먹었습니다)→사탕옆(ameyoko)을 산책→우에노(ueno) 역에 들어가 있는 점포에서, 조금 쇼핑→우에노(ueno) 역에 들어가 있는, 「Afternoon Tea」로, 간식을 먹는→우에노(ueno) 역에 들어가 있는, 「Brasserie L’ ecrin」로 저녁 식사를 먹는→우리 집에 돌아간다.

 

우에노(ueno)는, 도쿄도심부의 북동부에 위치하는, 아사쿠사(asakusa)와 대등한, 도쿄의 변두리(도쿄도심부 동부.구시가) 최대급의 번화가입니다.

 

사진 이하 2매는, 차용물 사진입니다만, 사탕옆(ameyoko).우에노(ueno)에게 있는, 재래 시장입니다.도쿄에서 최대의 재래 시장임과 동시에, 도쿄에서, 유일한, 재래 시장인것 같은, 재래 시장에서, 도쿄의 관광 장소의 하나가 되고 있습니다. 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

이 날, 사탕옆(ameyoko)을, 어슬렁어슬렁 산책했을 때에, 사탕옆(ameyoko)의, 오키나와(okinawa) 현(일본최남단의 현)의 상품의 전문점에서, 구입한 음료.사진왼쪽은, 미키(miki).아마미(amami) 제도(카고시마(kagoshima) 현의 남단부의 섬들.오키나와(okinawa) 현의 북쪽으로 접한다)와 오키나와(okinawa) 현의, 전통적인 음료의 하나로, 미, 설탕, 고구마(sweetpotato)를 발효 시키고, 만들어지는, 알코올(alcohol)이 들어 있지 않은, 단 음료입니다.관광객은, 별로 사 마시지 않습니다만, 현지에서는, 체력을 소모하기 쉬운, 여름의 영양 보급의 음료로서 옛부터, 잘 마셔지고 있는 음료의 같습니다.이것은, 오키나와(okinawa) 현산의, 캔들이의 미키(miki)입니다.나는, 미키(miki)를 마신 것은, 이것으로 2번째였습니다.최초로, 미키(miki) 마신 것은, 이제(벌써), 꽤 옛날 일로 w, 대학생의 무렵, 아마미(amami) 대(oo) 섬(아마미(amami) 제도에서, 최대 한편, 아마미(amami) 제도의 중심이 되고 있는 섬)에 체제중, 현지의 마트에서, 하나다(hanada) 미키(miki)라고 말하는, 아마미(amami) 대(oo) 섬의, 미키(miki)의 제조 회사(미키(miki)의 제조 회사로서는, 규모가 큰 회사는 아닐까요..)의, 종이 팩(carton)들이의, 미키(miki)를 사고, 마셨습니다.(오키나와(okinawa) 현산의 미키(miki)도, 여러가지 있다고 생각합니다만), 이번 마신, 오키나와(okinawa) 현산의, 캔들이의 미키(miki)는, 아마미(amami) 대(oo) 섬의, 하나다(hanada) 미키(miki)의, 미키(miki)의 같은, 산미가 없게(뭐, 하나다(hanada) 미키(miki)의, 미키(miki)의 맛은 , 마셨던 것이, 상당히 전의일이므로, 너무, 기억하고 있지 않습니다만), 마시기 쉬운 느낌이었습니다(내가, 싫은 맛이 아닙니다).사진 오른쪽은, 오키나와(okinawa) 현산의, 홍우drink(사진왼쪽의, 미키(miki)와 닮은 계통의 맛이었습니다).덧붙여서, 홍우(보라색이나 적색의, 고구마(sweet potato)(자우라고도 불린다) 또는 참마과의 감자)는, 오키나와(okinawa) 현에서, 잘 먹을 수 있고 있습니다.

 

 

우에노(ueno)에게는, 우에노(ueno) 공원이 있습니다.우에노(ueno) 공원은, 도쿄 중심부에 있는 공원안에서는, 최대급의 공원 중의 하나이며, 또, 미술관·박물관등의 문화 시설이 모여 있습니다.

 

 

이 날의, 오전중은, 도쿄도 미술관에서, 이 때, 행해지고 있던, 메리트로포리탄 미술관(The Metropolitan Museum of Art)의, 수장 작품의, 전람회(exhibition)를 보았습니다.도쿄도 미술관은, 도쿄도(일본의 47의 도도부현(prefecture) 중의 하나.주로, 도쿄 중심부(도쿄 23구)와 도쿄의 서부 교외·근교로부터 완성된다)가 운영하는 미술관 중의 하나로, 우에노(ueno) 공원에 있는 문화 시설의 하나입니다.도쿄도 미술관은, 1926년에 개관한 미술관입니다만, 현재의 건물은, 2대째로, 1975년에 완성한 것입니다.도쿄도 미술관은, 수장품(collection)을 거의 가지지 않는, 전람회(exhibition) 전문의 규모의 큰 미술관에서, 복수의 전람회(exhibition)를 동시에 개최 할 수 있는 규모를 가져, 실제로, 통상, 복수의 전람회(exhibition)를 동시에 개최하고 있습니다.

 

 

이것은, 차용물 사진입니다만, 1926년에 지어진, 도쿄도 미술관의 초대의 건물.1970년대 전반까지 사용되고 있었습니다(2대째의 건물의 개관에 수반해, 해체되었습니다).

 

 

 

 

 

저 편으로 보이는 것은, 도쿄도 미술관의 2대째의 건물(현재의 건물).사진에 찍히고 있는 것은, 일부로, 규모의 큰 건물입니다.

 

 

 

도쿄도 미술관에서, 전람회(exhibition)를 본 후는, 국립 과학박물관을 방문해 오후는, 국립 과학박물관으로 보냈던(덧붙여 이 투고의, 국립 과학박물관에 관한 사진은, 전에, kj로, 업(upload) 한 사진의, 재이용도, 포함합니다).

 

국립 과학박물관(1877년 설립)은, 일본의, 국립의(엄밀하게는 미묘하게 다릅니다만, 여기에서는 설명은, 생략 합니다), 과학박물관입니다.과학에 관한, 매우 많은 자료를 수장 하는 박물관에서, 규모가 크고, 볼 만한 가치가 있는 박물관입니다.

 

나는, 어릴 적, 박물관을 좋아하고, 이 국립 과학박물관이나, 교통 박물관, 과학기술관에, 자주 갔던(어릴 때는, 부모에게 데려 가 주었습니다만, 초등학교 4 학년무렵부터는, 같은 흥미를 가지는 친구(들)와 초등 학생만으로, 가는 것처럼 되었습니다.중학생이 되고 나서는, 거의 가지 않게 되었습니다만...).나는, 어릴 적, 공룡에, 매우 흥미가 있었으므로, 몫, 국립 과학박물관의, 공룡에 관한 전시는, 인상에 남아 있습니다(덧붙여서, 이전에는, 본관(현재의 일본관)의 1층의, 한 때의 현관을 들어가 우측이, 공룡에 관한 전시실이 되고 있었습니다).

 

이번, 국립 과학박물관을 방문한 것은, 재작년, 매우 오랫만에(15년만의 정도)에 방문한 이래로, 국립 과학박물관이, 대규모 개장이 이루어지고 나서는(현재의 지구관의 건물이 지어지고 나서는), 2번째였습니다.

 

 

국립 과학박물관의 팜플렛(leaflet).

 

 

 

국립 과학박물관의 현재의 건물은, 1931년에 지어진, 중후한 근대 건축의 일본관의 건물과(일본관에 접한다) 현대 건축의 지구관의 건물로부터 완성됩니다(현재의 지구관의 건물이 지어지기 전에도, 국립 과학박물관에는, 전시를 위한 건물로서 본관(현재의 일본관)에 가세하고, 본관(현재의 일본관)에 인접한 현대 건축의 건물이 있었습니다만, 현재의 지구관의 건물이 지어질 때에, 해체되었습니다).

 

 

 

국립 과학박물관의 관내 지도.느긋하게 보려고 하면, 하루로는, 단념할 수 없습니다(하루로는, 충분하지 않습니다).

 

 

 

사진 이하 17매.국립 과학박물관의 일본관(한 때의 본관)의 건물.1931년에 지어진, 중후한 근대 건축의 건물입니다.

 

사진 이하 5매.국립 과학박물관의 일본관의 건물의 외관.위로부터 보면, (당시 , 최신 기술의 덩어리의 탈 것이라고 생각되고 있던) 비행기의 형태가 되어 있습니다.

 

이것은, 차용물 사진입니다만, 아마, 1931년에 지어진 당시의 사진.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

국립 과학박물관의 옥외 전시물의 하나.D51형 증기기관차(아래의 보충 설명 참조).이것은, 1939년에 제조된 것입니다.
D51형 증기기관차:설명은, wiki를 참고로 했습니다.일본의 대표적인, 화물용, 증기기관차.1936년에 데뷔(debut)해, 1945년까지 제조되었다.1,155 양제조되어(제이차 세계대전중에 대량생산 된), 디젤(diesel) 기관차나 전기 기관차등을 포함한, 일본의 기관차 1 형식의 제조량수에서는 최대를 기록했다(이 기록은 현재도 갱신되어 있지 않다).

 

 

사진 이하 11매.국립 과학박물관의 일본관의 건물의 내장예.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

국립 과학박물관의 일본관(한 때의 본관)의, 한 때의, 현관 홀(hall).이 장소에는, 일찌기, 대형 육식 공룡의, 뼈(골격 표본)가 전시되고 있어 국립 과학박물관에 입관하는 사람에게(특히, 아이 시대의 나등 , 아이에게), 강한 인상을 주고 있었습니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

후코의 진자(Foucault pendulum).어릴 적부터, 인상에 남아 있는 전시물입니다.

 

 

 

국립 과학박물관의 일본관의 전시는, 일본의 자연에 관한 전시가 중심이 되고 있습니다.

 

사진 이하 7매.국립 과학박물관의 일본관의 전시예.

 

 

사진 이하 3매.일본내에서 발굴된, 안모나이트(ammonite)의 화석.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 3매.일본에 생식 하고 있던 공룡에 관한 전시의 예.

 

사진 이하 2매.후타바스즈키류우(Futabasaurus)(일본 근해에 생식 하고 있던 공룡(수장용))의 복원 골격입니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

덧붙여서, 국립 과학박물관은, (현재의, 일본인의 원형이 된), 매우 낡은 시대의, 일본인, 죠몽(jomon) 시대( 약 16,000년 전부터 2,300년전)의, 죠몽(jomon) 인과 3월(yayoi) 시대( 약 2,300년 전부터 3 세기 중반)의, 3월(yayoi) 인에 관한 전시(죠몽(jomon) 시대와 3월(yayoi) 시대의 토기등을 포함한다) 등도 충실합니다.덧붙여서, 새로운 발견이 있으면, 이야기는 별도입니다만, 적어도, 현재(현시점)에 있고, 일본의 죠몽(jomon) 인이 사용하고 있던 토기(죠몽(jomon) 식 토기)은, 토기로서 세계 최고의 물건의 하나가 되고 있습니다.

 

일본은, 선진 공업국이며, 한편, 그렇게, 큰 국토를 가지지 않는 나라인데도 관련되지 않고, 세계에서도 유수한, 다양한 생물과 다양한 고유종의 생물이 생식 하는 지역이 되고 있습니다(선진국의 지역에서, 그 밖에, 세계에서도 유수한, 다양한 생물과 다양한 고유종의 생물이 생식 하는 지역은, 미국, 오스트레일리아, 뉴질랜드, 남유럽(지중해 연안)).특히, 일본 근해는, 오스트레일리아 근해와 대등해, 해양생물에 있어서의, 세계 최대의 생물 다양성을 가지는(다양한 생물과 다양한 고유종의 생물이 생식 한다) 바다가 되고 있습니다.

 

또, 일본의 국토의 약 70%이 삼림(숲)에 덮여 있어 일본의 국토에 차지하는 삼림(숲)의 비율은, 핀란드(Finland), 스웨덴(Sweden)과 대등해, 선진 공업국안 뿐만이 아니라, 세계에서도, 최고 수준에 있습니다.

 

사진 이하 28매는, 덤으로, 전에 enjoy와 kj로 업(upload) 한 사진의 재이용입니다만, 도쿄도심부의 우리 집으로부터, 자동차로 2 시간 반정도의, 나가노(nagano) 현의, 타카하라 지대에 있는, 나의 별장(별장이라고는 해도, 비교적 유복한 사람들이 보유하는 것 같은 전형적인 별장이 아니고, 서민적인 중고의 독립주택입니다) 주변의, 숲의 풍경.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 3매.니혼카모시카(일본 영양·Japanese serow).염소계의 우과에 속하는 야생 동물로, 세계에서, 일본에게만 생식 하는 야생 동물(일본 고유종)입니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 3매.니혼카모시카(일본 영양·Japanese serow).

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진 이하 24매.다시, 국립 과학박물관의 일본관의 전시예.

 

큐슈(kyusyu.일본의 남부)의, 카고시마(kagoshima) 현의, 야쿠(yaku) 섬으로부터, 1914년에 잘라진, 수령 약 1600년으로 추정되는 삼의 나무입니다.야쿠(yaku) 섬의 삼은, 수명(수령)의 긴 것이라고, 수령 2000년부터 4000년이나 됩니다(통상, 삼의 수명은, 세계적으로, 500년 정도.덧붙여서, 야쿠(yaku) 섬의 삼은, 삼에 한정하지 않고, 세계의 나무 중(안)에서, 매우, 수명이 깁니다).

 

 

 

 

 

사진안쪽.아키타(akita) 후키.니혼바라산의, 큰 후키에서, 주로, 일본의 북부에 분포하고 있습니다.식용으로서 일본의 동북지방의, 아키타(akita) 현을 중심으로, 재배도 되고 있습니다.

 

 

 

 

 

사진 중앙.녹조류의 일종(marimo).아름다운 구체를 만드는, 담수성의 조입니다.일본, 유럽, 북아메리카등에 분포하고 있습니다만, 녹조류의 일종(marimo)이, 큰, 구체에 발달해, 게다가 군생하고 있는 것은, 일본의 북부의, 홋카이도(hokkaido)의 아칸(akan) 호수와 아이슬랜드(Iceland)의, 미바톤(Myvatn) 호수에만 한정되어 있습니다(아칸(akan) 호수의 녹조류의 일종(marimo)의 공식 site를 참고로 했습니다).

 

 

 

사진왼쪽, 니혼카모시카(일본 영양·Japanese serow)의 박제.사진 오른쪽, 일본 원숭이의 박제.일본 원숭이는, 일본에게만 생식 한다, 세계적으로는 드문(개성적인) 원숭이입니다만, 일본(일본의 산림)에 있어서는, 야생의 일본 원숭이가, 많이 생식 하고 있습니다(홋카이도(hokkaido), 오키나와(okinawa)를 제외하는, 일본 각지의 산림에 생식 하고 있습니다).일본 원숭이는, 세계에서, 가장 북쪽으로 사는 원숭이로, 영어로, snow monkey라고도 불리고 있습니다(원숭이가, 눈속에서 생식 하는 광경은, 세계적으로는, 매우 드문 일로부터).

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

거미게(Japanese spider crab).일본 근해의 심해(deep sea)에 사는, 세계 최대의 게입니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

일본에 생식 하는, 치자(Green Pheasant)의 박제.치자(Green Pheasant)는, 일본의 국조(national bird)가 되고 있습니다.

 

이하, 「」 안, 국립 과학박물관의 해설문으로부터...

 

「일본에는, 조류로도, 고유종이나, 준고유종이, 30종 가까운 시일내에 있다.그것들은, 많은 경우, 대륙의 동단에 격리되는 일로, 수백만년이라고 말하는 긴 세월의 사이에 고유화했다.그러한 현재의 분포역은, 하나의 섬으로 한정되는 좁은 것으로부터, 일본 열도의, 거의 전역, 또, 그것을 넘는 것까지, 여러가지이다」.

 

 

 

 

 

 

 

일본의, 여러가지, 닭의 품종의 박제.

 

 

 

 

물까치계의 박제.물까치계는, 일본의, 닭의 품종의 하나로, 일본의 천연기념물로 지정되어 있습니다.17 세기 중반무렵, 돌연변이로 태어났다고 전하고 있습니다.수컷의, 꼬리의 날개가, 극단적으로 길어지는 것이 특징입니다.닭은, 통상 일년에 한 번 날개가 나 교체됩니다만, 수컷의 물까치계는, 꼬리의 날개가 나 교체되지 않기 때문에, 꼬리가 매우 길어집니다.현존 하는 조류 중(안)에서, 가장 긴 꼬리를 가져, 12 m라고 하는 기록도 있습니다.완전하게 관상용의 닭입니다.설명은, wiki 및, 국립 과학박물관의 설명문을 참고로 했습니다.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

사진왼쪽, 나이토(naito) 가(대체로, 현재의, 미야자키(miyazaki) 현의 북부에 해당되는 지역을 통치하고 있던 지방 영주의 집.근대 이후는, 귀족(자작)이 된다)이 대대 소유하고 있던, 동제의 천구의(1673년.일본제), 사진 오른쪽 위, 일본에서 제작된 지구의 중(안)에서 현존 하는 최고의 물건(1695년제)(중요문화재)의 복제.

 

 

 

 

 

원시경.이하, 원시경의 설명은, 국립 과학박물관의 설명문을, 거의, 요약한 것입니다.망원경은, 1608년에 발명되어 일찍부터, 일본에 도래했습니다만, 일본에서, 본격적으로, 천문 관측에 이용되기 시작한 것은, 18 세기말의 일로부터입니다.일본에서, 최초로, 망원경을 다량으로 제작해, 넓힌 것은, 오사카의, 이와하시선무관(iwahashi zenbei.1756 년생.1811년에 죽는다)로, 원시경(굴절 망원경)을 넓게 시판했습니다.이와하시선무관(iwahashi zenbei)의 망원경은, 당시의 에도(도쿄)의 천문대에도 납입할 수 있었습니다.이노우 타다요시(inou tadataka)가, 측량에 사용한 망원경도, 그 하나입니다.

 

 

안정된, 에도(edo) 시대(17 세기부터 19 세기 중반)에는, 서민에게도 교육이 보급해, 메이지(meiji) 시대 이후(19 세기 후기 이후)의, 일본의 근대화의 주춧돌(기초)이 되었습니다(국립 과학박물관의 해설문보다...).

 

 

사진 이하 3매는, 일본의, 에도(edo) 시대(17 세기부터 19 세기 중반)의 현미경에 관한 전시입니다.

 

이하, 「」 안은, 국립 과학박물관의 해설문을, 거의 인용한 것입니다.

 

「평화로운 에도(edo) 시대(17 세기부터 19 세기 중반)에 있어서는, 많은 정보나 지식이 사회에서 공유되고 있었습니다.영주(지방 영주)이든지, 마을의 사람들이든지, 거의 시간의 차이가 없고, 다소의 정밀함과 거침(자세한 일과 대략적인 일)의 차이는 있어도, 기본적으로, 같은 정보를 알고 있었습니다.그러나, 사람들의 호기심이나 견해에 의해서, 해석 방법은, 다양했습니다.해외로부터, 현미경이 전해져 확대된 세계가 소개되었을 때도, 한편에서는, 서양에 강요하는 연구로 진행되어, 한편에서는, 장난감(완구)이 되었습니다.수용의 형태는, 달라도, 자극된, 다양한 호기심의 시선은, 지식의, 새로운 공유를 재촉했습니다」.

 

 

「현미경은, 에도(edo) 시대의 중기무렵에, 일본에 전해졌습니다.확대경등부터, 구조도 복잡하고 고가였습니다만, 아득하게 배율이 높고, 작은 것이, 보다 크게 관찰 할 수 있었습니다.구입한, 영주(지방 영주) 들 등은, 서양인과 같게, 벌레나 식물등의, 자연의 관찰을 실시했습니다.그 놀라움은, 순식간에(곧바로), 일본안에 퍼졌습니다」.

 

 

 

 

「서양에서 전해진 현미경은, 잠시 후, 그 원리나 구조를 독학으로 배운, 일본인의 손으로 만들어지는 것처럼 되었습니다.또, 서양에서 행해진, 현미경의 제연구에 배워, 눈의 결정을 관찰한, 도이리위(doi toshitsura)의 같은, 뛰어난 자연관찰의 성과를 남기는 사람도 나타났습니다」.

 

 

 

 

눈의 결정의 디자인(design)의, 칼의 날밑(칼의 모양과 칼의 몸체와의 경계에 끼우고, 모양을 잡는 손을 방호하는 부위).「현미경에 의해서 밝혀진, 미소한 세계.처음으로 보는, 아름답고, 이상한 것이나 형태는, 과학적 흥미를 채움과 동시에, 문화나 예술에도, 큰 영향을 주는 것이었습니다.도이리위(doi toshitsura)가, 「설화그림 해설」로 분명히 한, 눈의 결정의 형상은, 설화문양이 되고, 옷(기모노)(일본의 전통 의상)의 모양(모양)이나, 도자기, 칼의 장식등에, 재빠르게 받아들여져 넓게 유행했습니다」.

 

 

 

 

전자현미경.1942년.일본의 토시바(toshiba) 사제.이하, 「」 안은, 국립 과학박물관의 해설문을, 거의, 인용한 것입니다.「보다 , 극소의 세계를 보고 싶다고 하는 생각은, 현미경의 배율을 비약적으로 높여 광학적인 현미경의 한계에 이르렀습니다.그 한계를 넘기 때문에(위해)의 기술의 개발이, 20 세기에 들어가고 나서, 많은 나라들이나 연구자에 의해서 행해졌습니다.일본은, 그 앞장 서(끝을 간다)의 나라의 하나였습니다.1939년, 나가오카 한타로(nagaoka hantaro) 박사외의 요청에 의해, 오사카 대학이나, 나고야(nagoya) 대학, 토시바(toshiba), 히타치(hitachi) 제작소등 , 산학협동으로, 전자현미경의 연구·개발이, 개시되었습니다.1940년에는, 자계형, 그 다음에, 정전형 전자현미경의 시작을 해 1942년에는, 제품화까지 진행되었습니다.이후, 일본은, 전자현미경의 분야에 있고, 보다 미소의 세계에의 요구에 응해 세계적으로, 큰 역할을 계속 완수하고 있습니다」.

 

 

 

사진 이하 5매.일본시계(17 세기부터 1880년대무렵까지, 일본에서 제작, 사용된, 부정시 법을 이용하기 때문에(위해)의 기구를 가지는 기계식 시계.서양의 정시법의 기계식 시계에 비해, 복잡한 구조를 가지고 있었다).

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

일본시계의 소형화.이하, 「」 안은, 국립 과학박물관의 해설문을, 거의, 인용한 것입니다.「에도(edo) 시대(17 세기부터 19 세기 중반)의 말기가 되면, 일본시계의 동력은, 중추 대신에, 태엽이 채용되어 조속기도, 봉첨부로부터, 엔이라고 나, 진자로 바뀌었습니다.이것은, 태엽이나, 엔첨부의 발명등 , 16 세기부터 17 세기에 걸치고, 서양에서 일어난, 시계의 기술 혁신이, 늦고 일본에 전해진 것입니다.그것은, 일본시계에, 형태적인 변화를 가져와, 괘종시계나 노시계등을 설치해 사용하는, 대형의 일본시계와 달리, 방에서 방에 이동 가능한, 소형의 일본시계를 낳았습니다」.

 

 

 

다양한 일본시계.이하, 「」 안은, 국립 과학박물관의 해설문을, 거의, 인용한 것입니다.「시계의 기능은, 시간을 재어, 시각을 알리는 일입니다만, 시계가 실내용, 혹은, 휴대폰의 장식품으로서 다양화하는 것은, 서양에서도, 일본에서도, 같습니다.소형의 베개 시계, 각종의 탁상시계 뿐만이 아니라, 사방등(일본 전통식의 lamp)의 앞에서 사용하는, 「등 전시계」, 종안에 시계 기구를 짜넣은, 「조종 시계」, 소형의 병풍(byobu)에 짜넣은, 「연병시계」, 괘산(문진)에 짜넣은, 「괘산시계」, 인롱(약등을 휴대하기 위한 작은 용기)에 짜넣은, 「인롱시계」등이, 제작되었습니다」.

 

 

이하, 「」 안은, 국립 과학박물관의 해설문을, 거의, 인용한 것입니다.
「메이지(meiji) 시대(1868년부터 1912년)에 있고, 일본에서도, 정시법이 채용되는 것처럼 되면, 일본시계는, 사용할 수 없게 되어, 1889년에 제작된, 괘종시계를 마지막으로, 일본시계 제작의 역사는, 끝났습니다.19 세기말기경에는 괘종시계와 탁상시계의 국산화가, 조금 늦어 회중 시계의 국산화가 시작되었습니다.그 후, 일본의 시계 산업은, 크게 발전해, 1964년에는, 스위스의, 뉴샤텔 천문대의 크로노미터 콩쿨에서, 일본의 기계식 시계가 좋은 성적을 거두어 일본의 시계 기술의 우수함을, 세계에 나타냈습니다.일본은, 1969년에는, 세계에 앞서, 쿼츠(quartz) 식의 손목시계를, 세상에 내보내, 그리고, 1980년에는, 스위스를 제치고, 손목시계 생산량 세계 제일위가 되었습니다」.

 

 

 

오모리(omori) 시키지진계.이하, 「」 안은, 국립 과학박물관의 설명문을, 요약한 것.「오오모리 후사키치(omori fusakichi)가, 1898년경에 완성시킨 지진계.지금까지의 지진계가, 지진동을 감지하고 나서 움직이기 시작하는 것인 것에 대해, 그 결점을 재차, 항상 움직이고, 연속 기록을 할 수 있는 지진계로서 등장했습니다.일본의 대표적인 지진계로, 일본 내외에서, 많이 사용되었습니다」.

 

 

 

우에노(ueno) 산책 후편에 계속 된다...

 

 

 

 



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正面から見た東京駅 carbon 2013-02-26 1611 0
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裏側から見た東京駅 carbon 2013-02-24 2999 0