伝統文化




以下、「以下、以下の投稿の続きです。」と言う文までは、前回の投稿と重複します。



参考に、以下、「」内。私の前の投稿文より。。。

「私は、女性に、結構合わせているようでいて、その一方において、実は、女性に結構、自分の趣味に付き合って貰って来てもいます。今の彼女も含み、相手の女性は、それはそれで、私色に染まって、私の影響を受けて、私と共に、楽しんで来てくれました(楽しんでくれてます)。ちなみに、私の今の彼女は、元々、好奇心が強い性格です。」

「私は休日を外で過ごす事は好きで、美味しい物を食べる事、自然の中を散歩する事、温泉に入浴する・温泉旅館等の温泉宿泊施設に宿泊する事、芸術や花を愛でる(鑑賞する)事等は、好きなのですが、本格的な登山やキャンプ等のアウトドアは好みません。

私は、交際する女性との趣味が合うか合わないかと言う事は、若い頃は気にしなかったのですが、成熟した大人になってからは、私と趣味が合う女性を好きになるプラス交際相手の女性が、私色に染まってw、私と趣味が合って来ると言う事を合わせて、私と趣味が合う女性と交際するようになりました。」

「前述の通り、実は、私の気が多い性格から、私の今までの、恋愛の結末のほとんどが、交際相手の女性にとっては、GO BANG‘Sの曲の、「BYE-BYE-BYE」の歌詞のような結末で終わらせてしまったのですが(本当に、ごめんなさい)、私が当時、交際していた女性(私の元カノ)と別れた原因も、私が当時、交際していた女性(私の元カノ)には、本当に、申し訳なかったのですが、私が、私の今の彼女の事を、とても好きになってしまった事です(ちなみに、その時、私の今の彼女は、とても若かったのですが、その時、私は、別に、私の今の彼女の、その点に、惚れた訳では全くありませんw)。

私は、私の元カノと、親しい友人として、現在まで、ずっと交流が続いています。ちなみに、私の元カノは、私と別れた後、今、夫となっている男性(結婚した男性)とは違う男性達との交際やデートの経験を経て(ちなみに、私は、その事に関して、よく、その元カノの相談に乗る等していました)、比較的、最近の話なのですが、優しく頼りがいのある素敵な男性(彼女の事を、十分に幸せにしてくれるであろう男性。ちなみに、その男性は、長身でイケメンですw)を見つけて結婚をし、今は、主婦として幸せに暮らしています。

また、私の今の彼女と、私の元カノは、元々、面識はあり、知り合い同士であったのですが、今は、親しい友人同士となっていて、私の今の彼女と、私が当時、交際していた女性(私の元カノ)は、二人きりで遊びに出掛けたりもしています。二人とも、趣味や価値観があって、とても仲が良いようです。それは、もしかしたら、前述の通り、私は、交際する女性との趣味が合うか合わないかと言う事は、若い頃は気にしなかったのですが、成熟した大人になってからは、私と趣味が合う女性を好きになるプラス交際相手の女性が、私色に染まってw、私と趣味が合って来ると言う事を合わせて、私と趣味が合う女性と交際するようになったのですが、その事も、関係しているのかもしれませんw」

「ちなみに、私の今の彼女(以下、彼女と書きます)とは、私が今までに交際して来た女性の中で、交際期間最長記録を更新中ですが、私が彼女に振られない限り、私は、彼女の事を、これからも、ずっと大切にして行きたいと思っています。」



以下、基本的に、2011年の10月の上旬に行った投稿の再掲で(投稿文は、2011年の10月の上旬の投稿を前提としています)、2011年の7月の下旬に、個人的に休みであった日に、当時、交際していた、私の元カノ(以下、彼女と書きます)と、上野(ueno)を散歩して来た時(以下、この日と書きます)の物です。

なお、投稿の写真は、この日の、大雑把な流れには沿っていますが、投稿の便宜上、必ずしも、撮影した順番に並んでいる訳ではありません。


上野(ueno)は、東京都心部の東部に位置し、浅草(asakusa)と並ぶ、東京の下町(東京都心部東部。旧市街)最大級の繁華街となっています。上野(ueno)には、上野(ueno)公園があります。上野(ueno)公園は、東京中心部にある公園の中では、最大級の公園の内の一つであり、また、美術館・博物館等の文化施設が集まっています。
 
この時の、上野(ueno)散歩の主目的は、上野公園内にある国立科学博物館で、この時開催されていた、恐竜の展覧会(exhibition)を見る事でした。国立科学博物館(1877年設立)は、日本の、国立の(厳密には微妙に違いますが、ここでは説明は、省略します)、科学博物館です。科学に関する、非常に多くの資料を収蔵する博物館で、規模が大きく、見応えのある博物館です。
 
私は、子供の頃、博物館が好きで、この国立科学博物館や、交通博物館、科学技術館に、よく行きました(幼い時は、親に連れて行ってもらいましたが、小学校4年生頃からは、同じ興味を持つ友達(達)と、小学生だけで、行く様になりました。中学生になってからは、ほとんど行かなくなりましたが。。。)。私は、幼い頃、恐竜に、とても興味があったので(私は、幼稚園当時、恐竜に、とても興味があり、幼稚園児基準で、恐竜に、とても詳しかったので、男子達からは恐竜博士とも呼ばれていましたw)、取り分け、国立科学博物館の、恐竜に関する展示は、印象に残っています(ちなみに、かつては、本館(honkan)(現在の日本館)の1階が、恐竜に関する展示室となっていました)。


国立科学博物館は、近年、大きな改装がなされました。私は、今回、国立科学博物館を訪れたのは、とても久しぶりで(15年ぶり位)、改装後の、国立科学博物館は、今回、初めて訪れました。
 
国立科学博物館の現在の建物は、1931年に建てられた、重厚な近代建築の本館(honkan)(日本館)の建物と、近年の改装に合わせて建てられた(建て替えられた)、(本館(honkan)(日本館)に隣接する)現代建築の地球館の建物から成ります(現在の地球館の建物が建てられる前にも、国立科学博物館には、展示の為の建物として、本館(honkan)(現在の日本館)に加えて、本館(honkan)(現在の日本館)に隣接した現代建築の建物がありましたが、改装に合わせて、建て替えてしまった方が、効率的と考えられたのか、近年の改装に合わせて、現在の地球館の建物に、建て替えられました)。

以下、以下の投稿の続きです。1931年に建てられた、近代建築の本館(honkan)(日本館)の建物に関しては、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)を参照して下さい。

歴史のある恐竜展示博物館他1→

https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3870763?&sfl=membername&stx=nnemon2



写真以下31枚。国立科学博物館の本館(honkan)(日本館)の、常設展示物の例の続きです(本館(honkan)(日本館)の展示物の例に関しては、すぐ上でリンクを付けた前回の投稿も、参照して下さい)。なお、今は、どうか分かりませんが、この時は、国立科学博物館の本館(honkan)(日本館)の常設展示室の一部は、節電(下の補足説明参照)の為、一時閉鎖(公開が休止)されていました。
節電:東京areaは、東日本大震災(下の補足説明を参照)の原子力発電所の問題により、電気の供給力が、通常よりも弱まっている為、節電(電気の節約)の雰囲気にあります。ちなみに、現在は、節電の雰囲気は、一時期程ではありません。。。
東日本大震災:今年(2011年)の3月11日に、東日本(日本の東部)を襲った、巨大地震。多くの人々が亡くなったが、亡くなった人々の、ほとんどが、日本の、東北地方の海沿いに暮らしていた人々で、地震による津波(tsunami)からの、避難に、遅れた事により、亡くなった。








写真以下2枚。発掘された頭蓋骨(の複製)から、復元された、縄文(jomon)人と弥生(yayoi)人の顔。写真右側が、縄文(jomon)人。写真左側が、弥生(yayoi)人です。











以下、「」内の説明は、国立科学博物館の説明を、ほぼ引用した物です。
 
「現代へと続く、日本列島の人々の礎(基礎)となったのは、縄文(jomon)人の血を引く在来集団と、大陸からやってきた渡来集団(弥生(yayoi)人)と言う、姿形(外貌)や文化の異なる、二つの集団です。古墳(kofun)時代(3世紀半ばから6世紀)以降、(日本列島に暮らす人々の)集団の構成を変化させる様な、(他民族の)、大規模な、日本列島への渡来はなかった様です。縄文(jomon)人と弥生(yayoi)人と言う二つの集団の混血の度合いと、時代による生活様式の変化や環境要因の違い等によって、日本列島に暮らす人々は、大きく、三つの地域集団(本土日本人、琉球(ryukyu)人(沖縄(okinawa)人)、アイヌ(ainu)人)に分かれて行きました」。
 
「14,000年前、あるいは、それ以前から、日本列島には、縄文(jomon)人が暮らしていました。そして、3,000年から2,000年前、既にアジア大陸の北方(北)で、寒冷地に適応していた人々が、主に、朝鮮半島を経由し、西日本に渡来し、縄文(jomon)人と適応しながら、日本列島に拡散して行きました。これが、渡来系の弥生(yayoi)人で、その子孫は、古墳(kofun)時代(3世紀半ばから6世紀)以降も、縄文(jomon)人と混血しつつ、分布地域を広げ、ほぼ、日本列島の全土を占める様になります。これが、本土日本人です。渡来系の弥生(yayoi)人は、南西諸島にも広がり、縄文(jomon)人の子孫と混血し、琉球(ryukyu)人(沖縄(okinawa)人)となりました。一方、北海道(hokkaido)では、縄文(jomon)人が、そのままアイヌ(ainu)人となりました」。




写真以下2枚。縄文(jomon)人の生活を再現した展示。 以下、「」内は、国立科学博物館の解説を、ほぼ、抜粋した物です。

「日本人の祖先の暮らしは、旧石器時代人(原始的なアジア人)の質素な放浪性の狩猟採集生活から始まりましたが、縄文(jomon)時代には、狩猟採集生活と初歩的な栽培に基づく豊かな生活が、日本列島の多くの地域に定着しました」。

「縄文(jomon)時代(約16,000年前から2,300年前)、森と海の幸(食物資源)に恵まれた日本列島では、各地で多様な食物資源を利用する、定住性の生活が栄えていました。土器による煮炊きの技術は、食べ物の種類を増やし、栄養バランスの向上に役立ちました。縄文(jomon)犬は、小型の犬でしたが、イノシシ(wild boar)猟等、狩猟には欠かせない、パートナー(partner)でした。数千年前の縄文(jomon)人の顔は、旧石器時代人(原始的なアジア人)とも似ていて、立体的で頑丈ですが、歯が小さくなっています。30,000年から40,000年前のアジア人の特徴を保ちつつ、技術的な発達によって、歯が退化したのでしょう。また、狩猟や漁労(魚を捕獲する事)、原始的農耕、土木や建築等の作業が、大柄ではないが、筋骨たくましい(筋肉や骨が頑丈な)体を作り上げたのでしょう」。












縄文(jomon)人の使っていた土器(縄文(jomon)式土器)。縄文(jomon)人は、世界で最も早く土器を使い始めた人々の一つです(新たな発見があれば、話は別だが、少なくとも、現在(現時点)において、日本の縄文(jomon)人の使っていた土器(縄文(jomon)式土器)は、土器として世界最古の物の一つとなっている)。
 
 
 
写真以下2枚。弥生(yayoi)人の生活を再現した展示。 以下、「」内は、国立科学博物館の解説を、ほぼ、抜粋した物です。


「弥生(yayoi)時代にもたらされた、水田による、稲作農業の技術は、日本人の暮らしを、一変させ(大きく変化させ)、農業を基盤とした組織社会(集団社会)を発展させて行きました」。

「弥生(yayoi)時代(約2,300年前から3世紀半ば)に定着した、水田による、稲作農業による米(rice)は、日本人の食生活の基本となり、それ以来、この復元の光景は、日本の家庭の原風景となりました。弥生(yayoi)時代には、家族単位ではなく、男女が分かれて暮らしていたとの考えもありますが、ここでは、家族として、復元しています。弥生(yayoi)犬は、縄文(jomon)犬よりも、大柄で(体が大きく)、警護用に(番犬として)飼われ、時には、食料ともなった様です。2,800年程前から日本列島に渡来してきた、弥生(yayoi)人は、平坦で、のっぺりとした(さっぱりとした)顔をして、歯が大きかったです。また、体は、大柄でしたが(背が高かったが)、縄文(jomon)人と比べると、体の大きさに対する、腕と足の長さは、短目で(短く)、また、縄文(jomon)人程、筋骨は、たくましくありませんでした(筋肉や骨は、頑丈ではありませんでした)。弥生(yayoi)人の顔や体の特徴は、元々、シベリア(Siberia)の、極寒の(寒さが非常に厳しい)気候に適応した結果と解釈されています」。












弥生(yayoi)人の使っていた土器(弥生(yayoi)式土器)。弥生(yayoi)人の使っていた、弥生(yayoi)式土器は、縄文(jomon)人の使っていた、野焼きの縄文(jomon)式土器に対して、薄くて固い、良好な焼き上がりの(wikiを参考にしました)、より実用性の優れた土器でした。弥生(yayoi)人は、狩猟採集を中心とした縄文(jomon)人の生活と違って、農業が中心の生活であった事から、(食料が、より安定的に供給される生活であるものの)労働時間が相対的に長く、縄文(jomon)人と比べて、時間的な、ゆとりは少なかった事等?からか、弥生(yayoi)式土器は、装飾やデザイン(design)は、縄文(jomon)式土器と比べて、全般的に、質素な物となっています。


日本列島の人々の礎(基礎)となった、二つの主な集団(縄文(jomon)人・弥生(yayoi)人)の内の一つ、弥生(yayoi)人は、3,000年から2,000年前に、主に、朝鮮半島を経由して、日本に渡って来た事から、日本人と韓国人は、特に、弥生(yayoi)人を通じて、先祖の重要な一部を、共有していると言えるでしょう。また、古墳(kofun)時代(3世紀半ばから6世紀)以降は、(日本列島に暮らす人々の)集団の構成を変化させる様な、(他民族の)、大規模な、日本列島への渡来はなかった様ですが、古墳(kofun)時代(3世紀半ばから6世紀)、飛鳥(asuka)時代(592年から710年)、奈良(nara)時代(710年から794年)に、中国大陸及び朝鮮半島、特に、朝鮮半島南部(現在の韓国に当たる地域、その中でも、特に、百済)から、日本に移住した、上流階級の人々、学識者(高い知識と教養を持つ者)、職人(技術者)、僧侶等は、日本に、(主に、当時の東アジアの)先進技術・文化を伝えました。日本人は、古墳(kofun)時代(3世紀半ばから6世紀)、飛鳥(asuka)時代(592年から710年)、奈良(nara)時代(710年から794年)に、日本に伝わった、(主に、当時の東アジアの)先進文化を基に、(東アジアの先進文化と日本古来(縄文(jomon))時代以来)の価値観や文化を融合させ、日本の風土(気候や風景)に合わせながら)、特に、平安時代(794年から1185年)以降、東アジア文化の一つとしての、独自の、洗練された日本文化を発展させて行きました。

 ちなみに、前述の通り、日本人と韓国人は、特に、弥生(yayoi)人を通じて、先祖の重要な一部を、共有し(弥生(yayoi)人は、日本に先進技術を伝えました)、また、古墳(kofun)時代(3世紀半ばから6世紀)、飛鳥(asuka)時代(592年から710年)、奈良(nara)時代(710年から794年)に、中国大陸及び朝鮮半島、特に、朝鮮半島南部(現在の韓国に当たる地域、その中でも、特に、百済)から、日本に移住した、上流階級の人々、学識者(高い知識と教養を持つ者)、職人(技術者)、僧侶等は、日本に、(主に、当時の東アジアの)先進技術・文化を伝えましたが、少し現実的な話になってしまいますが、一般的に、日本人は、日本人と韓国人が、先祖の重要な一部を、共有していると言う意味において、韓国人に親しみを感じていると言う事はありません(日本人が、韓国人に出会った時に、社交辞令(lip service)的に、その様に言う事は、割とあるかもしれませんが。。。先祖の重要な一部を、共有していると言う意味において、ドイツ人に親しみを感じているイギリス人は、おそらく少ない事と同様です。もちろん、韓国が好きだったり、韓国に関心がある日本人が、韓国料理が好きだ、韓国文化が好きだ、韓国人が好きだとか言う事は、これとは、また別の話です)。





尾長鶏の剥製。尾長鶏は、日本の、鶏の品種の一つで、日本の天然記念物に指定されています。17世紀半ば頃、突然変異で生まれたと伝えられています。雄の、尾の羽が、極端に長くなるのが特徴です。鶏は、通常一年に一度羽が生え換わりますが、雄の尾長鶏は、尾の羽が生え換わらないため、尾が非常に長くなります。現存する鳥類の中で、最も長い尾を持ち、12mと言う記録もあります。完全に観賞用の鶏です。説明は、wiki及び、国立科学博物館の説明文を参考にしました。


 
 
写真以下3枚。ハチ公(hachiko)(下の補足説明参照)の剥製。
ハチ公(hachiko):ハチ公(hachiko)(1923年生まれ、1935年に亡くなる)は、飼い主である、大学の教授が、急死した後も、飼い主の事を、東京の渋谷(shibuya)駅の駅前で、待ち続けた、秋田(akita)犬(日本犬の犬種の一つ)です。ハチ公(hachiko)の話は、人々に感動を与え、ハチ公(hachiko)の生前の、1934年に、渋谷(shibuya)駅前にハチ公(hachiko)の銅像が建てられました(除幕式(完成式典)には、ハチ公(hachiko)自身も出席した。wikiより。)。この初代の渋谷(shibuya)駅前のハチ公(hachiko)の銅像は、第2次世界大戦中、(兵器等を作る為の資源不足を補う為の)金属供出により、失われてしまい、現在の渋谷(shibuya)駅前のハチ公(hachiko)の銅像は、1948年に再建された2代目です。ハチ公(hachiko)の話は、日本国内でも、1987年に映画化されていますが、2009年に、アメリカでも、話の舞台設定を現代のアメリカに移して、Richard Gere主演の映画として映画化されています。
















ジロ(jiro)(下の補足説明参照)の剥製。


ジロ(jiro):説明は、ほぼwikiより抜粋。。。。タロ(Taro。1955年生まれ。1970年に亡くなる)とジロ(Jiro。1955年生まれ。1960年に亡くなる)は、日本による初期の南極地域観測隊に同行した樺太犬(樺太及び千島列島で作り出された犬種で、アイヌ(ainu)人等が、犬ゾリ(sled dog)・猟犬に使っていた犬種)の兄弟。南極に取り残されながら共に生存し、1年後に救出されたことで有名になる。1956年11月、総勢53名の、第1次南極観測隊隊員が、タロ(Taro)、ジロ(jiro)を含む22頭の樺太犬と共に、東京湾より、南極観測船「宗谷(soya)」で南極へ出発。宗谷(soya)には、暑さに弱い樺太犬達の為に、赤道越えのための冷房室が特別に用意された。隊員のうち11名が第1次越冬隊として選抜された。

昭和(syowa)基地(南極の、日本の観測基地)に到着すると、病気等で、そのまま帰国する3頭を除いた19頭の犬たちは、1957年の第1次越冬隊において、橇を引く犬(sled dog)として活躍した。越冬中に2頭が病死、1頭が行方不明となった。また雌のシロ子(shiroko)は、ジロ(jiro)等との間に、8頭の子供を産んだ。

1958年2月、宗谷(soya)が南極付近に到着した。昭和(syowa)基地にいる第1次隊員と入れ替わって越冬するため、宗谷(soya)は、第2次越冬隊を乗せていた。しかし、天候の悪化から、宗谷(soya)は、昭和(syowa)基地には到着できなかった。昭和(syowa)基地から帰還する第1次隊員の人間達でさえ、小型の雪上飛行機で、かろうじて宗谷(soya)に帰還する有様であり、15頭の犬は、犬橇に、首輪で昭和(syowa)基地付近に繋がれたまま、1か月分の食料を与えられ、置き去りにされた。その後も、ぎりぎりまで天候の回復を待ったものの、「宗谷(soya)」自体が遭難する危険性も出てくるに至り、第2次越冬隊の派遣は断念された。それと共に、15頭の犬の救出も見送られ、残された犬達の生存は絶望視された。この犬を置き去りにしたことにより、観測隊は激しい非難を浴びることとなった。なお、南極生まれの子犬と、その母犬のシロ子(shiroko)は、母と子犬の分だけ燃料を抜いて重量を減らすという、雪上飛行機の乗員の機転によって救出され、日本へ帰還することができた。同年7月には、大阪府、堺(sakai)市に、南極に残された、15頭の犬を供養する銅像が建立された。

ところが、1959年1月14日、第3次越冬隊のヘリコプターにより、上空から昭和(syowa)基地に2頭の犬が生存していることが確認される。1年後、第三次越冬隊が昭和(syowa)基地へ戻ってきたとき、残された15頭の内、タロ(Taro)とジロ(jiro)の2頭が生き延びていたのである。基地に置いてきた犬の食料や死んだ犬を食べた形跡はなく、タロ(Taro)とジロ(jiro)は、アザラシの糞やペンギンを食べて生きていたのだろうと推測されている。タロ(Taro)とジロ(jiro)の生還は、日本中に衝撃と感動をもたらした。当時開業して間もない、東京towerに、15頭の樺太犬記念像(製作者は、ハチ公(hachiko)の銅像を製作した彫刻家)が設置された。

1960年7月、 第4次越冬中に、ジロ(jiro)は、昭和(syowa)基地で病死。5歳。タロ(Taro)は、第4次越冬隊と共に、1961年5月に、4年半振りに日本に帰国。1961年から1970年まで、札幌(sapporo)市の北海道(hokkaido)大学植物園で飼育され、1970年8月に、老衰のため14歳7か月で死亡。人間で言えば約80歳から90歳という天寿を全うしての大往生であった。タロ(Taro)の剥製は、北海道(hokkaido)の札幌(sapporo)市の、北海道(hokkaido)大学の博物館に、ジロ(jiro)剥製は、東京の国立科学博物館に展示されている(上の写真)。

1983年には、タロ(Taro)とジロ(jiro)の生存劇を描いた日本の映画、「南極物語」が公開さた。また、アメリカでも、この生存劇は、登場人物をアメリカ人に変える等して、2006年に、「Eight Below」と言う題名で、映画化された。













写真左、内藤(naito)家(概ね、現在の宮崎(miyazaki)県の北部に当たる地域を統治していた地方領主。近代以降は、貴族(子爵)となる)が代々所有していた、銅製の天球儀(1673年。日本製)、写真右の上、日本で製作された地球儀の中で現存する最古の物(1695年製)(重要文化財)の複製。




遠眼鏡。以下、遠眼鏡の説明は、国立科学博物館の説明文を、ほぼ、要約した物です。望遠鏡は、1608年に発明され、早くから、日本に渡来しましたが、日本で、本格的に、天文観測に用いられ始めたのは、18世紀末の事からです。日本で、最初に、望遠鏡を多量に製作し、広めたのは、大阪の、岩橋 善兵衛(iwahashi zenbei。1756年生まれ。1811年に亡くなる)で、遠眼鏡(屈折望遠鏡)を広く市販しました。岩橋 善兵衛(iwahashi zenbei)の望遠鏡は、当時の江戸(東京)の天文台にも納められました。伊能 忠敬(inou tadataka)が、測量に使った望遠鏡も、その一つです。



 

安定した、江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)には、庶民にも教育が普及し、明治(meiji)時代以降(19世紀後期以降)の、日本の近代化の礎(基礎)となりました(国立科学博物館の解説文より。。。)。


 
写真以下3枚は、日本の、江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)の顕微鏡に関する展示です。
 
以下、「」内は、国立科学博物館の解説文を、ほぼ引用した物です。
 
「平和な江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)においては、多くの情報や知識が社会で共有されていました。殿様(地方領主)であろうが、町の人々であろうが、ほぼ時間の差がなく、多少の精粗(詳しい事と、大雑把な事)の差はあっても、基本的に、同じ様な情報を知っていました。しかし、人々の好奇心や見方によって、受け取り方は、多様でした。海外から、顕微鏡が伝えられ、拡大された世界が紹介された時も、一方では、西洋に迫る研究へと進み、他方では、おもちゃ(toy)となりました。受容の形は、異なっても、刺激された、多様な好奇心の眼差しは、知識の、さらなる共有を促しました」。

「顕微鏡は、江戸(edo)時代の中期頃に、日本に伝わりました。虫眼鏡等より、構造も複雑で高価でしたが、はるかに倍率が高く、小さな物が、より大きく観察出来ました。購入した、大名(地方領主)達等は、西洋人と同じ様に、虫や植物等の、自然の観察を行いました。その驚きは、あっと言う間に(すぐに)、日本中に広まりました」

「西洋から伝わった顕微鏡は、しばらくして、その原理や構造を独学で学んだ、日本人の手で作られる様になりました。また、西洋で行われた、顕微鏡の諸研究に学び、雪の結晶を観察した、土井 利位(doi toshitsura)の様な、優れた自然観察の成果を残す人も現れました」。












雪の結晶のデザイン(design)の、刀の鍔(刀の柄と刀身との境に挟んで、柄を握る手を防護する部位)。「顕微鏡によって明らかにされた、微小な世界。初めて目にする、美しく、不思議な物や形は、科学的興味を満たすと共に、文化や芸術にも、大きな影響を与える物でした。土井 利位(doi toshitsura)が、「雪華図説」で明らかにした、雪の結晶の形状は、雪華文様となって、着物の柄(模様)や、陶磁器、刀の装飾等に、素早く取り入れられ、広く流行しました」。





電子顕微鏡。1942年。東芝(toshiba)社製。以下、「」内は、国立科学博物館の解説文を、ほぼ、引用した物です。「より、極小の世界を見たいと言う思いは、顕微鏡の倍率を飛躍的に高め、光学的な顕微鏡の限界に達しました。その限界を超える為の技術の開発が、20世紀に入ってから、多くの国々や研究者によって行われました。日本は、その先駆けの(先駆的な)国の一つでした。1939年、長岡 半太郎(nagaoka hantaro)博士らの要請により、大阪大学や、名古屋(nagoya)大学、東芝(toshiba)、日立(hitachi)製作所等、産学協同で、電子顕微鏡の研究・開発が、開始されました。1940年には、磁界型、次いで、静電型電子顕微鏡の試作が行われ、1942年には、製品化まで進みました。以後、日本は、電子顕微鏡の分野において、より微小の世界への要求に応え、世界的に、大きな役割を果たし続けています」。



 
写真以下8枚。和時計(17世紀から1880年代頃まで、日本で制作、使用された、不定時法を用いる為の機構を持つ機械式時計。西洋の定時法の機械式時計に比べて、複雑な構造を持っていた)。





















和時計の小型化。以下、「」内は、国立科学博物館の解説文を、ほぼ、引用した物です。「江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)の末期になると、和時計の動力は、重錘の代わりに、ぜんまいが採用され、調速機も、棒てんぷから、円てんぷや、振り子に変わりました。これは、ぜんまいや、円てんぷの発明等、16世紀から17世紀にかけて、西洋で起こった、時計の技術革新が、遅れて日本に伝わった物です。それは、和時計に、形態的な変化をもたらし、掛時計や櫓時計等を設置して使用する、大型の和時計と違って、部屋から部屋へ移動可能な、小型の和時計を生みました」。
 
 
写真以下3枚。多様な和時計。以下、「」内は、国立科学博物館の解説文を、ほぼ、引用した物です。「時計の機能は、時間を計り、時刻を知らせる事ですが、時計が室内用、あるいは、携帯の装飾品として、多様化するのは、西洋でも、日本でも、同じです。小型の枕時計、各種の置き時計だけでなく、行灯(日本伝統式のlamp)の前で使用する、「灯前時計」、鐘の中に時計機構を組み込んだ、「釣鐘時計」、小型の屏風(byobu)に組み込んだ、「硯屏時計」、卦算(文鎮)に組み込んだ、「卦算時計」、印籠(薬等を携帯するための小さな容器)に組み込んだ、「印籠時計」等が、制作されました」。















 以下、「」内は、国立科学博物館の解説文を、ほぼ、引用した物です。

「明治(meiji)時代(1868年から1912年)において、日本でも、定時法が採用される様になると、和時計は、使えなくなり、1889年に製作された、掛時計を最後に、和時計製作の歴史は、終わりました。19世紀末期頃には掛時計と置き時計の国産化が、少し遅れて懐中時計の国産化が始まりました。その後、日本の時計産業は、大きく発展し、1964年には、スイスの、ニューシャテル天文台のクロノメーターコンクールで、日本の機械式時計が好成績を収め、日本の時計技術の優秀さを、世界に示しました。日本は、1969年には、世界に先駆けて、クォーツ(quartz)式の腕時計を、世に送り出し、そして、1980年には、スイスを抜いて、腕時計生産量世界一位となりました」。





大森(omori)式地震計。以下、「」内は、国立科学博物館の説明文を、要約した物。「大森 房吉(omori fusakichi)が、1898年頃に完成させた地震計。それまでの地震計が、地震動を感知してから動き出す物であったのに対し、その欠点を改めて、常に動いて、連続記録が出来る地震計として登場しました。日本の代表的な地震計で、日本国内外(日本国内及び日本国外)で、数多く使われました」。






おまけ。この日、上野(ueno)のアメ横(ameyoko。上野(ueno)にある、在来市場。第二次世界大戦直後の混乱期の、闇市(何らかの物価を統制する体制下で、物資が不足している状況において、違法取引の品物を売る店が集まっている場所)に起源を持つ。ソウルの南大門市場や東大門市場と比べると、規模は、ずっと小さいと思いますが、東京の観光場所の一つとなっています)を、ちょっと、ぶらぶら散歩した際に、買った、鯛焼き(taiyaki)。鯛焼き(taiyaki)は、日本の、庶民的な、お菓子の一つで、鯛(魚)の形の、小麦粉等を原料とした生地の中に、甘い餡が入った物が基本型となっています。この、鯛焼き(taiyaki)店は、本店は、東京都心部の小川町(ogawamachi)にあります。この、鯛焼き(taiyaki)店は、友人から、美味しいと言われ、ちょっと気になっていた店ですが、この時、初めて利用しました。確か、この時、この店で、4つか、5つ位、鯛焼き(taiyaki)を買って、その内、2個は、現地で、一個ずつ食べて、残りは、持ち帰って、家で食べたと思います。この店の、鯛焼き(taiyaki)の味は、まあ、普通に美味しいと言う感じだったと思います(ちなみに、出来立てでない物(家に持ち帰って食べた物)は、正直に言って、あまり美味しくありませんでした。。。)。


以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)に続く。。。

歴史のある恐竜展示博物館他3→

https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3870761?&sfl=membername&stx=nnemon2


역사가 있는 공룡 전시 박물관외 2




이하, 「이하, 이하의 투고의 계속입니다.」라고 하는 문장까지는, 전회의 투고와 중복 합니다.



참고에, 이하, 「」 안.나의 앞의 투고문보다...

「 나는, 여성에게, 상당히 맞추고 있는 것 같고 있고, 그 한편에 있고, 실은, 여성에게 상당히, 자신의 취미에 교제해 받아 와도 있습니다.지금의 그녀도 포함해, 상대의 여성은, 그것은 그래서, 나색에 물들고, 나의 영향을 받고, 나와 함께, 즐겨 와 주었습니다(즐겨 주고 있습니다).덧붙여서, 나의 지금의 그녀는, 원래, 호기심이 강한 성격입니다.」

「 나는 휴일을 밖에서 보내는 일은 좋아하고, 맛있는 것을 먹는 일, 자연속을 산책하는 일, 온천에 입욕하는·온천 여관등의 온천 숙박시설에 숙박하는 일, 예술이나 꽃을 사랑 나오는(감상한다) 일등은, 좋아합니다만, 본격적인 등산이나 캠프등의 아웃도어는 좋아하지 않습니다.

나는, 교제하는 여성과의 취미가 맞는지 맞지 않을까 말하는 일은, 젊은 무렵은 신경쓰지 않았습니다만, 성숙한 어른이 되고 나서는, 나와 취미가 맞는 여성을 좋아하게 되는 플러스 교제 상대의 여성이, 나색에 물들어 w, 나와 취미가 맞아 온다고 하는 일을 맞추고, 나와 취미가 맞는 여성과 교제하게 되었습니다.」

「상술한 대로, 실은, 나의 변덕스러운 성격으로부터, 나의 지금까지의, 연애의 결말의 대부분이, 교제 상대의 여성에게 있어서는, GO BANG‘ S의 곡의, 「BYE-BYE-BYE」의 가사와 같은 결말로 끝내 버렸습니다만(정말로, 미안해요), 내가 당시 , 교제하고 있던 여성( 나 원카노)과 헤어진 원인도, 내가 당시 , 교제하고 있던 여성( 나 원카노)에게는, 정말로, 미안했습니다만, 내가, 나의 지금의 그녀를, 매우 좋아하게 되어 버린 일입니다(덧붙여서, 그 때, 나의 지금의 그녀는, 매우 젊었습니다만, 그 때, 나는, 별로, 나의 지금의 그녀의, 그 점에, 반한 것은 전혀 없습니다 w).

나는, 나 원카노와 친한 친구로서 현재까지, 쭉 교류가 계속 되고 있습니다.덧붙여서, 나 원카노는, 나와 헤어진 후, 지금, 남편이 되고 있는 남성(결혼한 남성)과는 다른 남성들과의 교제나 데이트의 경험을 거치고(덧붙여서, 나는, 그 일에 관해서, 자주(잘), 그 원카노가 상담에 응하는 등 하고 있었습니다), 비교적, 최근의 이야기입니다만, 상냥하게 의지가 있어가 있는 멋진 남성(그녀를, 충분히 행복하게 해 줄 남성.덧붙여서, 그 남성은, 장신으로 이케멘입니다 w)를 찾아내고 결혼을 해, 지금은, 주부로서 행복하게 살고 있습니다.

또, 나의 지금의 그녀와 나 원카노는, 원래, 안면은 있어, 아는 사람끼리 에서 만났습니다만, 지금은, 친한 친구끼리가 되고 있고, 나의 지금의 그녀와 내가 당시 , 교제하고 있던 여성( 나 원카노)은, 둘이서로 놀러 나와 걸기도 하고 있습니다.두 사람 모두, 취미나 가치관이 있고, 매우 사이가 좋은 것 같습니다.그것은, 혹시, 상술한 대로, 나는, 교제하는 여성과의 취미가 맞는지 맞지 않을까 말하는 일은, 젊은 무렵은 신경쓰지 않았습니다만, 성숙한 어른이 되고 나서는, 나와 취미가 맞는 여성을 좋아하게 되는 플러스 교제 상대의 여성이, 나색에 물들어 w, 나와 취미가 맞아 온다고 하는 일을 맞추고, 나와 취미가 맞는 여성과 교제하게 되었습니다만, 그 일도, 관계하고 있는지도 모릅니다 w」

「덧붙여서, 나의 지금의 그녀(이하, 그녀와 씁니다)와는, 내가 지금까지 교제해 온 여성중에서, 교제 기간 최장 기록을 갱신중입니다만, 내가 그녀에게 차이지 않는 이상 나는, 그녀를, 앞으로도, 쭉 소중히 하고 가고 싶습니다.」



이하, 기본적으로, 2011년의 10월의 초순에 간 투고의 재게로(투고문은, 2011년의 10월의 초순의 투고를 전제로 하고 있습니다), 2011년의 7월의 하순에, 개인적으로 휴일인 날에, 당시 , 교제하고 있던 , 나 원카노(이하, 그녀와 씁니다)와 우에노(ueno)를 산책해 왔을 때(이하, 이 날이라고 씁니다)의 물건입니다.

덧붙여 투고의 사진은, 이 날의, 대략적인 흐름에는 따르고 있습니다만, 투고의 편의상, 반드시, 촬영한 차례로 줄지어 있는 것이 아닙니다.


우에노(ueno)는, 도쿄도심부의 동부에 위치해, 아사쿠사(asakusa)와 대등한, 도쿄의 변두리(도쿄도심부 동부.구시가) 최대급의 번화가가 되고 있습니다.우에노(ueno)에게는, 우에노(ueno) 공원이 있어요.우에노(ueno) 공원은, 도쿄 중심부에 있는 공원안에서는, 최대급의 공원 중의 하나이며, 또, 미술관·박물관등의 문화 시설이 모여 있습니다.

이 때의, 우에노(ueno) 산책의 주목적은, 우에노코우엔내에 있는 국립 과학박물관으로, 이 때 개최되고 있던, 공룡의 전람회(exhibition)를 보는 일이었습니다.국립 과학박물관(1877년 설립)은, 일본의, 국립의(엄밀하게는 미묘하게 다릅니다만, 여기에서는 설명은, 생략 합니다), 과학박물관입니다.과학에 관한, 매우 많은 자료를 수장 하는 박물관에서, 규모가 크고, 볼 만한 가치가 있는 박물관입니다.

나는, 어릴 적, 박물관을 좋아하고, 이 국립 과학박물관이나, 교통 박물관, 과학기술관?`노, 자주 갔던(어릴 때는, 부모에게 데려서 가 주었습니다만, 초등학교 4 학년무렵부터는, 같은 흥미를 가지는 친구(들)와 초등 학생만으로, 가는 것처럼 되었습니다.중학생이 되고 나서는, 거의 가지 않게 되었습니다만...).나는, 어릴 적, 공룡에, 매우 흥미가 있었으므로( 나는, 유치원 당시 , 공룡에, 매우 흥미가 있어, 유치원아 기준으로, 공룡에, 매우 자세했기 때문에, 남자들에게서는 공룡 박사라고도 불리고 있었던 w), 몫, 국립 과학박물관의, 공룡에 관한 전시는, 인상에 남아 있습니다(덧붙여서, 이전에는, 본관(honkan)(현재의 일본관)의 1층이, 공룡에 관한 전시실이 되고 있었습니다).


국립 과학박물관은, 근년, 큰 개장이 이루어졌습니다.나는, 이번, 국립 과학박물관을 방문한 것은, 매우 오래간만으로(15년만의 정도), 개장 후의, 국립 과학박물관은, 이번, 처음으로 방문했습니다.

국립 과학박물관의 현재의 건물은, 1931년에 지어진, 중후한 근대 건축의 모토다테(honkan)(일본관)의 건물과 근년의 개장에 맞추어 지어진(다시 세워진), (모토다테(honkan)(일본관)에 인접한다) 현대 건축의 지구관의 건물로부터 완성됩니다(현재의 지구관의 건물이 건?`트전에도, 국립 과학박물관에는, 전시를 위한 건물로서 본관(honkan)(현재의 일본관)에 가세하고, 본관(honkan)(현재의 일본관)에 인접한 현대 건축의 건물이 있었습니다만, 개장에 맞추고, 개축해 버리는 것이, 효율적이라고 생각할 수 있었는지, 근년의 개장에 맞추고, 현재의 지구관의 건물에, 다시 세워졌습니다).

이하, 이하의 투고의 계속입니다.1931년에 지어진, 근대 건축의 모토다테(honkan)(일본관)의 건물에 관해서는, 이하의 투고(바로 아래에서 링크를 붙인 투고)를 참조해 주세요.

역사가 있는 공룡 전시 박물관외 1→

https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3870763?&sfl=membername&stx=nnemon2



사진 이하 31매.국립 과학박물관의 모토다테(honkan)(일본관)의, 상설 전시물의 예의 계속입니다(모토다테(honkan)(일본관)의 전시물의 예에 관해서는, 바로 위에서 링크를 붙인 전회의 투고도, 참조해 주세요).덧붙여 지금은 아무쪼록 모릅니다만, 이 때는, 국립 과학박물관의 모토다테(honkan)(일본관)의 상설 전시실의 일부는, 절전(아래의 보충 설명 참조) (위해)때문에, 일시 폐쇄(공개가 휴지)되고 있었습니다.
절전:도쿄 area는, 동일본 대지진(아래의 보충 설명을 참조)의 원자력 발전소의 문제에 의해, 전기의 공급력이, 통상보다 약해지고 있기 때문에(위해), 절전(전기의 절약)의 분위기에 있습니다.덧붙여서, 현재는, 절전의 분위기는, 한시기정도가 아닙니다...
동일본 대지진:금년(2011년)의 3월 11일에, 동일본(일본의 동부)을 덮친, 거대 지진.많은 사람들이 죽었지만, 죽은 사람들의, 대부분이, 일본의, 동북지방의 해안에 살고 있던 사람들로, 지진에 의한 해일(tsunami)로부터의, 피난에, 늦은 일에 의해, 죽었다.








사진 이하 2매.발굴된 두개골(의 복제)로부터, 복원된, 죠몽(jomon) 인과 3월(yayoi) 인의 얼굴.사진 우측이, 죠몽(jomon) 인.사진 좌측이, 3월(yayoi) 인입니다.











이하, 「」 안의 설명은, 국립 과학박물관의 설명을, 거의 인용한 것입니다.

「현대로 계속 되는, 일본 열도의 사람들의 주춧돌(기초)이 된 것은, 죠몽(jomon) 인의 혈통을 받는 재래 집단과 대륙으로부터 온 도래 집단(3월(yayoi) 인)이라고 말하는, 자형(외모)이나 문화가 다른, 두 개의 집단입니다.고분(kofun) 시대(3 세기 중반부터 6 세기) 이후, (일본 열도에 사는 사람들의) 집단의 구성을 변화시키는 님, (타민족의), 대규모, 일본 열도에의 도래는 없었다 님입니다.죠몽(jomon) 인과 3월(yayoi) 인이라고 하는 두 개의 집단의 혼혈의 정도와 시대에 의한 생활 양식의 변화나 환경요인의 차이등에 의해서, 일본 열도에 사는 사람들은, 크고, 세 개의 지역 집단(본토 일본인, 류큐(ryukyu) 인(오키나와(okinawa) 인), 아이누(ainu) 인)로 나누어져서 갔습니다」.

「14,000년전, 있다 있어는, 그 이전부터, 일본 열도에는, 죠몽(jomon) 인이 살고 있었습니다.그리고, 3,000년부터 2000년전, 이미 아시아대륙의 북방(북쪽)에서, 한랭지에 적응하고 있던 사람들이, 주로, 한반도를 경유해, 서일본에 도래해, 죠몽(jomon) 인과 적응하면서, 일본 열도에 확산해 갔습니다.이것이, 도래계의 3월(yayoi) 인으로, 그 자손은, 고분(kofun) 시대(3 세기 중반부터 6 세기) 이후도, 죠몽(jomon) 인과 혼혈 하면서, 분포 지역을 펼쳐 거의, 일본 열도의 전 국토를 차지하는 것처럼 됩니다.이것이, 본토 일본인입니다.도래계의 3월(yayoi) 인은, 난세이제도에도 퍼져, 죠몽(jomon) 인의 자손과 혼혈 해, 류큐(ryukyu) 인(오키나와(okinawa) 인)가 되었습니다.한편, 홋카이도(hokkaido)에서는, 죠몽(jomon) 인이, 그대로 아이누(ainu) 인이 되었습니다」.




사진 이하 2매.죠몽(jomon) 인의 생활을 재현한 전시. 이하, 「」 안은, 국립 과학박물관의 해설을, 거의, 발췌한 것입니다.

「일본인의 조상의 생활은, 구석기시대인(원시적인 아시아인)의 검소한 방랑성의 수렵 채집 생활로부터 시작되었습니다만, 죠몽(jomon) 시대에는, 수렵 채집 생활과 초보적인 재배에 근거하는 풍족한 생활이, 일본 열도가 많은 지역에 정착했습니다」.

「죠몽(jomon) 시대( 약 16,000년 전부터 2300년전), 숲과 해산물(음식 자원)을 타고 난 일본 열도에서는, 각지에서 다양한 음식 자원을 이용하는, 정주성의 생활이 돋보이고 있었습니다.토기에 의한 취사의 기술은, 음식의 종류를 늘려, 영양 밸런스의 향상에 도움이 되었습니다.죠몽(jomon) 개는, 소형의 개였지만, 멧돼지(wild boar) 렵등 , 수렵에는 빠뜨릴 수 없는, 파트너(partner)였습니다.수천 년전의 죠몽(jomon) 인의 얼굴은, 구석기시대인(원시적인 아시아인)과도 비슷하고, 입체적으로 튼튼합니다만, 이빨이 작아지고 있습니다.30,000년부터 40,000년전의 아시아인의 특징을 유지하면서, 기술적인 발달에 의해서, 이빨이 퇴화 했겠지요.또, 수렵이나 어로(물고기를 포획 하는 일), 원시적 농경, 토목이나 건축등의 작업이, 몸집이 크지 않지만, 근골 씩씩한(근육이나 뼈가 튼튼한) 몸을 만들어냈겠지요 」.












죠몽(jomon) 인이 사용하고 있던 토기(죠몽(jomon) 식 토기).죠몽(jomon) 인은, 세계에서 가장 빨리 토기를 사용하기 시작한 사람들의 한 살입니다(새로운 발견이 있으면, 이야기는 별도이지만, 적어도, 현재(현시점)에 있고, 일본의 죠몽(jomon) 인이 사용하고 있던 토기(죠몽(jomon) 식 토기)은, 토기로서 세계 최고의 물건의 하나가 되고 있다).



사진 이하 2매.3월(yayoi) 인의 생활을 재현한 전시. 이하, 「」 안은, 국립 과학박물관의 해설을, 거의, 발췌한 것입니다.


「3월(yayoi) 시대에 가져와진, 논에 의한, 벼농사 농업의 기술은, 일본인의 생활을, 일변시켜(크게 변화시켜), 농업을 기반으로 한 조직 사회(집단 사회)를 발전시켜서 갔습니다」.

「3월(yayoi) 시대( 약 2300년 전부터 3 세기 중반)에 정착한, 논에 의한, 벼농사 농업에 의한 미(rice)는, 일본인의 식생활의 기본이 되어, 그 이후로, 이 복원의 광경은, 일본의 가정의 원풍경이 되었습니다.3월(yayoi) 시대에는, 가족 단위가 아니고, 남녀가 나뉘며 살고 있었다는 생각해도 있습니다만, 여기에서는, 가족으로서 복원하고 있습니다.3월(yayoi) 개는, 죠몽(jomon) 개보다, 몸집이 크고(몸이 크고), 경호용으로(집 지키는 개로서) 길러져 때에는, 식료나 된 님입니다.2,800년 정도 전부터 일본 열도에 도래해 온, 3월(yayoi) 인은, 평탄하고, 로 한(시원시원한) 얼굴을 하고, 이빨이 컸습니다.또, 몸은, 몸집이 컸습니다만(키가 컸지만), 죠몽(jomon) 인과 비교하면, 몸의 크기에 대한, 팔과 다리의 길이는, 단목으로(짧고), 또, 죠몽(jomon) 인 정, 근골은, 씩씩하지 않았습니다(근육이나 뼈는, 튼튼하지는 않았습니다).3월(yayoi) 인의 얼굴이나 몸의 특징은, 원래, 시베리아(Siberia)의, 극한의(추위가 매우 험난하다) 기후에 적응한 결과라고 해석되고 있습니다」.












3월(yayoi) 인이 사용하고 있던 토기(3월(yayoi) 식 토기).3월(yayoi) 인이 사용하고 있던, 3월(yayoi) 식 토기는, 죠몽(jomon) 인이 사용하고 있던, 들구이의 죠몽(jomon) 식 토기에 대해서, 얇고 단단한, 양호한 구이 오름의(wiki를 참고로 했습니다), 보다 실용성이 뛰어난 토기였습니다.3월(yayoi) 인은, 수렵 채집을 중심으로 한 죠몽(jomon) 인의 생활과 달리, 농업이 중심의 생활인 일로부터, (식료가, 보다 안정적으로 공급되는 생활인 것의) 노동 시간이 상대적으로 길고, 죠몽(jomon) 인과 비교해서, 시간적인, 여유는 적었던 것등?때문인지, 3월(yayoi) 식 토기는, 장식이나 디자인(design)은, 죠몽(jomon) 식 토기와 비교해서, 전반적으로, 검소한 것이 되고 있습니다.


일본 열도의 사람들의 주춧돌(기초)이 된, 둘의 주된 집단(죠몽(jomon) 인·3월(yayoi) 인) 중의 하나, 3월(yayoi) 인은, 3,000년부터 2000년전에, 주로, 한반도를 경유하고, 일본에 건너 온 일로부터, 일본인과 한국인은, 특히, 3월(yayoi) 인을 통해서, 선조의 중요한 일부를, 공유하고 있다고 말할 수 있겠지요.또, 고분(kofun) 시대(3 세기 중반부터 6 세기) 이후는, (일본 열도에 사는 사람들의) 집단의 구성을 변화시키는 님, (타민족의), 대규모, 일본 열도에의 도래는 없었다 님입니다만, 고분(kofun) 시대(3 세기 중반부터 6 세기), 아스카(asuka) 시대(592년부터 710년), 나라(nara) 시대(710년부터 794년)에, 중국 대륙 및 한반도, 특히, 한반도 남부(현재의 한국에 해당되는 지역, 그 중에서도, 특히, (쿠다라)백제)로부터, 일본에 이주한, 상류계급의 사람들, 학식자(높은 지식과 교양을 가지는 사람), 직공(기술자), 승려등은, 일본에, (주로, 당시의 동아시아의) 선진 기술·문화를 전했습니다.일본인은, 고분(kofun) 시대(3 세기 중반부터 6 세기), 아스카(asuka) 시대(592년부터 710년), 나라(nara) 시대(710년부터 794년)에, 일본에 전해진, (주로, 당시의 동아시아의) 선진 문화를 기본으로, (동아시아의 선진 문화와 일본 고래(죠몽(jomon)) 시대 이래)의 가치관이나 문화를 융합시켜, 일본의 풍토(기후나 풍경)에 맞추는거야 무늬), 특히, 헤이안 시대(794년부터 1185년) 이후, 동아시아 문화의 하나로서의, 독자적인, 세련된 일본 문화를 발전시켜서 갔습니다.

덧붙여서, 상술한 대로, 일본인과 한국인은, 특히, 3월(yayoi) 인을 통해서, 선조의 중요한 일부를, 공유해(3월(yayoi) 인은, 일본에 선진 기술을 전했습니다), 또, 고분(kofun) 시대(3 세기 중반부터 6 세기), 아스카(asuka) 시대(592년부터 710년), 나라(nara) 시대(710년부터 794년)에, 중국 대륙 및 한반도, 특히, 한반도 남부(현재의 한국에 해당되는 지역, 그 중에서도, 특히, (쿠다라)백제)로부터, 일본에 이주한, 상류계급의 사람들, 학식자(높은 지식과 교양을 가지는 사람), 직공(기술자), 승려등은, 일본에, (주로, 당시의 동아시아의) 선진 기술·문화를 전했습니다만, 조금 현실적인 이야기가 되어 버립니다만, 일반적으로, 일본인은, 일본인과 한국인이, 선조의 중요한 일부를, 공유하고 있다고 하는 의미에 대하고, 한국인에 친밀감을 느끼고 있다고 하는 일은 없습니다(일본인이, 한국인을 만났을 때에, 인사 치레(lip service)적으로, 그 님에 말하는 일은, 생각보다는 있다일지도 모릅니다만...선조의 중요한 일부를, 공유하고 있다고 하는 의미에 대하고, 독일인에 친밀감을 느끼고 있는 영국인은, 아마 적은 것과 같습니다.물론, 한국을 좋아하기도 하고, 한국에 관심이 있다 일본인이, 한국요리를 좋아한다, 한국 문화를 좋아한다, 한국인을 좋아한다던가 말하는 일은, 이것이란, 또 다른 이야기입니다).





물까치계의 박제.물까치계는, 일본의, 닭의 품종의 하나로, 일본의 천연기념물로 지정되어 있습니다.17 세기 중반무렵, 돌연변이로 태어났다고 전하고 있습니다.수컷의, 꼬리의 날개가, 극단적으로 길어지는 것이 특징입니다.닭은, 통상 일년에 한 번 날개가 나 교체됩니다만, 수컷의 물까치계는, 꼬리의 날개가 나 교체되지 않기 때문에, 꼬리가 매우 길어집니다.현존 하는 조류 중(안)에서, 가장 긴 꼬리를 가져, 12 m라고 하는 기록도 있습니다.완전하게 관상용의 닭입니다.설명은, wiki 및, 국립 과학박물관의 설명문을 참고로 했습니다.




사진 이하 3매.하치공(hachiko)(아래의 보충 설명 참조)의 박제.
하치공(hachiko):하치공(hachiko)(1923 년생, 1935년에 죽는다)는, 주인인, 대학의 교수가, 급사한 후도, 주인의 일을, 도쿄의 시부야(shibuya) 역의 역전에서, 계속 기다린 , 아키타(akita) 개(일본개의 견종의 하나)입니다.하치공(hachiko)의 이야기는, 사람들에게 감동을 주어 하치공(hachiko)의 생전의, 1934년에, 시부야(shibuya) 역전에 하치공(hachiko)의 동상이 지어졌던(제막식(완성 식전)에는, 하치공(hachiko) 자신도 출석했다.wiki보다.).이 초대의 시부야(shibuya) 역전의 하치공(hachiko)의 동상은, 제2차 세계대전중, (병기등을 만들기 때문에(위해)의 자원 부족을 보충하기 때문에(위해)의) 금속 공출에 의해, 없어져 버려, 현재의 시부야(shibuya) 역전의 하치공(hachiko)의 동상은, 1948년에 재건된 2대째입니다.하치공(hachiko)의 이야기는, 일본내에서도, 1987년에 영화화되고 있습니다만, 2009년에, 미국에서도, 이야기의 무대 설정을 현대의 미국으로 옮기고, Richard Gere 주연의 영화로서 영화화되고 있습니다.
















지로(jiro)(아래의 보충 설명 참조)의 박제.


지로(jiro):설명은, 거의 wiki보다 발췌....타로(Taro.1955 년생.1970년에 죽는다)와 지로(Jiro.1955 년생.1960년에 죽는다)는, 일본에 의한 초기의 남극 지역 관측대에게 동행한 사할린 개(가라후토 및 쿠릴 열도에서 만들어 내진 견종으로, 아이누(ainu) 인 등이, 개조리(sled dog)·사냥개에게 사용하고 있던 견종)의 형제.남극으로 남겨지면서 모두 생존해, 1년 후에 구출된 것으로 유명하게 된다.1956년 11월, 총원 53명의, 제1차 남극 관측대 대원이, 타로(Taro), 지로(jiro)를 포함한 22 마리의 사할린 개와 함께, 도쿄만보다, 남극 관측선 「소우야(soya)」로 남극에 출발.소우야(soya)에게는, 더위에 약한 사할린 개들을 위해, 적도 너머 유익의 냉방실이 특별히 준비되었다.대원중 11명이 제1차 월동대로서 선발되었다.

쇼와(syowa) 기지(남극의, 일본의 관측 기지)에 도착하면, 병등으로, 그대로 귀국하는 3마리를 제외한 19 마리의 개들은, 1957년의 제1차 월동대에 있고, 취를 당기는 개(sled dog)로서 활약했다.월동중에 2마리가 병사, 1마리가 행방불명이 되었다.또 암컷의 흰색자(shiroko)는, 지로(jiro) 등과의 사이에, 8마리의 자식을 낳았다.

1958년 2월, 소우야(soya)가 남극 부근에 도착했다.쇼와(syowa) 기지에 있는 제1차 대원과 바뀌어 월동하기 위해(때문에), 소우야(soya)는, 제2차 월동대를 태우고 있었다.그러나, 기후의 악화로부터, 소우야(soya)는, 쇼와(syowa) 기지에는 도착할 수 없었다.쇼와(syowa) 기지로부터 귀환하는 제1차 대원의 인간들조차, 소형의 설상 비행기로, 간신히 소우야(soya)에 귀환하는 모양이며, 15 마리의 개는, 견취에, 목걸이로 쇼와(syowa) 기지 부근에 연결될 수 있던 채로, 1개월 분의 식료가 주어져서 방치되었다.그 후도, 직전까지 기후의 회복을 기다렸지만, 「소우야(soya)」자체가 조난하는 위험성도 나오기에 이르러, 제2차 월동대의 파견은 단념되었다.그것과 함께, 15 마리의 개의 구출도 보류되어 남겨진 견들의 생존은 절망시 되었다.이 개를 방치로 한 것에 의해, 관측대는 격렬한 비난을 받게 되었다.덧붙여 남극 태생의 강아지와 그 어미개의 흰색자(shiroko)는, 어머니와 강아지의 분만큼 연료를 뽑고 중량을 줄인다고 하는, 설상 비행기?`후 승무원의 재치에 의해서 구출되어 일본에 귀환할 수 있었다.동년 7월에는, 오사카부, 사카이(sakai) 시에, 남극으로 남겨진, 15 마리의 개를 공양하는 동상이 건립되었다.

그런데 , 1959년 1월 14일, 제3차 월동대의 헬리콥터에 의해, 상공으로부터 쇼와(syowa) 기지에 2마리의 개가 생존하고 있는 것이 확인된다.1년 후, 제3차 월동대가 쇼와(syowa) 기지에 돌아왔을 때, 남겨진 15 마리중, 타로(Taro)와 지로(jiro)의 2마리가 살아남고 있었던 것이다.기지에 두고 온 개의 식료나 죽은 개를 먹은 형적은 없고, 타로(Taro)와 지로(jiro)는, 바다표범의 대변이나 펭귄을 먹어 살아 있었을 것이다라고 추측되고 있다.타로(Taro)와 지로(jiro)의 생환은, 일본안에 충격과 감동을 가져왔다.당시 개업해 얼마 되지 않은, 도쿄 tower에, 15 마리의 사할린 개 기념상(제작자는, 하치공(hachiko)의 동상을 제작한 조각가)이 설치되었다.

1960년 7월, 제4차 월동중에, 지로(jiro)는, 쇼와(syowa) 기지에서 병사.5세.타로(Taro)는, 제4차 월동대와 함께, 1961년 5월에, 4년반만에 일본에 귀국.1961년부터 1970년까지, 삿포로(sapporo) 시의 홋카이도(hokkaido) 대학 식물원에서 사육되어 1970년 8월에, 노쇠를 위해 14세 7개월에 사망.인간으로 말하면 약 80세부터 90세라고 하는 천수를 완수한 훌륭한 죽음이었다.타로(Taro)의 박제는, 홋카이도(hokkaido)의 삿포로(sapporo) 시의, 홋카이도(hokkaido) 대학의 박물관에, 지로(jiro) 박제는, 도쿄의 국립 과학박물관에 전시되고 있다(위의 사진).

1983년에는, 타로(Taro)와 지로(jiro)의 생존극을 그린 일본의 영화, 「남극 이야기」가 공개 통지.또, 미국에서도, 이 생존극은, 등장 인물을 미국인으로 바꾸는 등 하고, 2006년에, 「Eight Below」라고 하는 제목으로, 영화화되었다.













사진왼쪽, 나이토(naito) 가(대체로, 현재의 미야자키(miyazaki) 현의 북부에 해당되는 지역을 통치하고 있던 지방 영주.근대 이후는, 귀족(자작)이 된다)이 대대 소유하고 있던, 동제의 천구의(1673년.일본제), 사진 오른쪽 위, 일본에서 제작된 지구의 중(안)에서 현존 하는 최고의 물건(1695년제)(중요문화재)의 복제.




원시경.이하, 원시경의 설명은, 국립 과학박물관의 설명문을, 거의, 요약한 것입니다.망원경은, 1608년에 발명되어 일찍부터, 일본에 도래했습니다만, 일본에서, 본격적으로, 천문 관측에 이용되기 시작한 것은, 18 세기말의 일로부터입니다.일본에서, 최초로, 망원경을 다량으로 제작해, 넓힌 것은, 오사카의, 이와하시선무관(iwahashi zenbei.1756 년생.1811년에 죽는다)로, 원시경(굴절 망원경)을 넓게 시판했습니다.이와하시선무관(iwahashi zenbei)의 망원경은, 당시의 에도(도쿄)의 천문대에도 납입할 수 있었습니다.이노우 타다요시(inou tadataka)가, 측량에 사용한 망원경도, 그 하나입니다.




안정된, 에도(edo) 시대(17 세기부터 19 세기 중반)에는, 서민에게도 교육이 보급해, 메이지(meiji) 시대 이후(19 세기 후기 이후)의, 일본의 근대화의 주춧돌(기초)이 되었습니다(국립 과학박물관의 해설문보다...).



사진 이하 3매는, 일본의, 에도(edo) 시대(17 세기부터 19 세기 중반)의 현미경에 관한 전시입니다.

이하, 「」 안은, 국립 과학박물관의 해설문을, 거의 인용한 것입니다.

「평화로운 에도(edo) 시대(17 세기부터 19 세기 중반)에 있어서는, 많은 정보나 지식이 사회에서 공유되고 있었습니다.영주(지방 영주)이든지, 마을의 사람들이든지, 거의 시간의 차이가 없고, 다소의 정밀함과 거침(자세한 일과 대략적인 일)의 차이는 있어도, 기본적으로, 같은 정보를 알고 있었습니다.그러나, 사람들의 호기심이나 견해에 의해서, 해석 방법은, 다양했습니다.해외로부터, 현미경이 전해져 확대된 세계가 소개되었을 때도, 한편에서는, 서양에 강요하는 연구로 진행되어, 한편에서는, 장난감(toy)이 되었습니다.수용의 형태는, 달라도, 자극된, 다양한 호기심의 시선은, 지식의, 새로운 공유를 재촉했습니다」.

「현미경은, 에도(edo) 시대의 중기무렵에, 일본에 전해졌습니다.확대경등부터, 구조도 복잡하고 고가였습니다만, 아득하게 배율이 높고, 작은 것이, 보다 크게 관찰 할 수 있었습니다.구입한, 오나(지방 영주) 들 등은, 서양인과 같게, 벌레나 식물등의, 자연의 관찰을 실시했습니다.그 놀라움은, 순식간에(곧바로), 일본안에 퍼졌습니다」

「서양에서 전해진 현미경은, 잠시 후, ?`후 원리나 구조를 독학으로 배운, 일본인의 손으로 만들어지는 것처럼 되었습니다.또, 서양에서 행해진, 현미경의 제연구에 배워, 눈의 결정을 관찰한, 도이 리 위(doi toshitsura)와 같은, 뛰어난 자연관찰의 성과를 남기는 사람도 나타났습니다」.












눈의 결정의 디자인(design)의, 칼의 날밑(칼의 모양과 칼의 몸체와의 경계에 끼우고, 모양을 잡는 손을 방호하는 부위).「현미경에 의해서 밝혀진, 미소한 세계.처음으로 보는, 아름답고, 신기한 물건이나 형태는, 과학적 흥미를 채움과 동시에, 문화나 예술에도, 큰 영향을 주는 것이었습니다.도이 리 위(doi toshitsura)가, 「설화그림 해설」로 분명히 한, 눈의 결정의 형상은, 설화문양이 되고, 옷(기모노)의 모양(모양)이나, 도자기, 칼의 장식등에, 재빠르게 받아들여져 넓게 유행했습니다」.





전자현미경.1942년.토시바(toshiba) 사제.이하, 「」 안은, 국립 과학박물관의 해설문을, 거의, 인용한 것입니다.「보다 , 극소의 세계를 보고 싶다고 하는 생각은, 현미경의 배율을 비약적으로 높여 광학적인 현미경의 한계에 이르렀습니다.그 한계를 넘기 때문에(위해)의 기술의 개발이, 20 세기에 들어가고 나서, 많은 나라들이나 연구자에 의해서 행해졌습니다.일본은, 그 선구의(선구적인) 나라의 하나였습니다.1939년, 나가오카 반타로(nagaoka hantaro) 박사등의 요청에 의해, 오사카 대학이나, 나고야(nagoya) 대학, 토시바(toshiba), 히타치(hitachi) 제작소등 , 산학협동으로, 전자현미경의 연구·개발이, 개시되었습니다.1940년에는, 자계형, 그 다음에, 정전형 전자현미경의 시작을 해 1942년에는, 제품화까지 진행되었습니다.이후, 일본은, 전자현미경의 분야에 있고, 보다 미소의 세계에의 요구에 응해 세계적으로, 큰 역할을 계속 완수하고 있습니다」.




사진 이하 8매.일본시계(17 세기부터 1880년대무렵까지, 일본에서 제작, 사용된, 부정시 법을 이용하기 때문에(위해)의 기구를 가지는 기계식 시계.서양의 정시법의 기계식 시계에 비해, 복잡한 구조를 가지고 있었다).





















일본시계의 소형화.이하, 「」 안은, 국립 과학박물관의 해설문을, 거의, 인용한 것입니다.「에도(edo) 시대(17 세기부터 19 세기 중반)의 말기가 되면, 일본시계의 동력은, 중추 대신에, 태엽이 채용되어 조속기도, 봉첨부로부터, 엔이라고 나, 진자로 바뀌었습니다.이것은, 태엽이나, 엔첨부의 발명등 , 16 세기부터 17 세기에 걸치고, 서양에서 일어난, 시계의 기술 혁신이, 늦고 일본에 전해진 것입니다.그것은, 일본시계에, 형태적인 변화를 가져와, 괘종시계나 노시계등을 설치해 사용하는, 대형의 일본시계와 달리, 방에서 방에 이동 가능한, 소형의 일본시계를 낳았습니다」.


사진 이하 3매.다양한 일본시계.이하, 「」 안은, 국립 과학박물관의 해설문을, 거의, 인용한 것입니다.「시계의 기능은, 시간을 재어, 시각을 알리는 일입니다만, 시계가 실내용, 있다 있어는, 휴대폰의 장식품으로서 다양화하는 것은, 서양에서도, 일본에서도, 같습니다.소형의 베개 시계, 각종의 탁상시계 뿐만이 아니라, 행등(일본 전통식의 lamp)의 앞에서 사용하는, 「등 전시계」, 종안에 시계 기구를 짜넣은, 「조종 시계」, 소형의 병풍(byobu)에 짜넣은, 「연병시계」, 괘산(문진)에 조입응(이)다, 「괘산시계」, 인롱(약등을 휴대하기 위한 작은 용기)에 짜넣은, 「인롱시계」등이, 제작되었습니다」.















이하, 「」 안은, 국립 과학박물관의 해설문을, 거의, 인용한 것입니다.

「메이지(meiji) 시대(1868년부터 1912년)에 있고, 일본에서도, 정시법이 채용되는 것처럼 되면, 일본시계는, 사용할 수 없게 되어, 1889년에 제작된, 괘종시계를 마지막으로, 일본시계 제작의 역사는, 끝났습니다.19 세기말기경에는 괘종시계와 탁상시계의 국산화가, 조금 늦어 회중 시계의 국산화가 시작되었습니다.그 후, 일본의 시계 산업은, 크게 발전해, 1964년에는, 스위스의, 뉴샤텔 천문대의 크로노미터 콩쿨에서, 일본의 기계식 시계가 좋은 성적을 거두어 일본의 시계 기술의 우수함을, 세계에 나타냈습니다.일본은, 1969년에는, 세계에 앞서, 쿼츠(quartz) 식의 손목시계를, 세상에 내보내, 그리고, 1980년에는, 스위스를 제치고, 손목시계 생산량 세계 제일위가 되었습니다」.





오모리(omori) 시키지진계.이하, 「」 안은, 국립 과학박물관의 설명문을, 요약한 것.「오모리 방길(omori fusakichi)가, 1898년경에 완성시킨 지진계.지금까지의 지진계가, 지진동을 감지하고 나서 움직이기 시작하는 것인 것에 대해, 그 결점을 재차, 항상 움직이고, 연속 기록을 할 수 있는 지진계로서 등장했습니다.일본의 대표적인 지진계로, 일본 내외(일본내 및 일본외)에서, 많이 사용되었습니다」.






덤.이 날, 우에노(ueno)의 사탕옆(ameyoko.우에노(ueno)에게 있는, 재래 시장.제이차 세계대전 직후의 혼란기의, 암시장(어떠한 물가를 통제하는 체제하에서, 물자가 부족한 상황에 있고, 위법 거래의 물건을 파는 가게가 모여 있는 장소)에 기원을 가진다.서울의 남대문 시장이나 동대문 시장과 비교하면, 규모는, 훨씬 작다고 생각합니다만, 도쿄의 관광 장소의 하나가 되고 있습니다)를, 조금, 어슬렁어슬렁 산책했을 때에, 산, 타이야키(붕어빵)(taiyaki).타이야키(붕어빵)(taiyaki)은, 일본의, 서민적인, 과자의 하나로, 도미(물고기)의 형태의, 소맥분등을 원료로 한 천안에, 단 팥소가 들어간 것이 기본형이 되고 있습니다.이, 타이야키(붕어빵)(taiyaki) 점은, 본점은, 도쿄도심부의 오가와마치(ogawamachi)에 있습니다.이, 타이야키(붕어빵)(taiyaki) 점은, 친구로부터, 맛있다고 말해져 조금 신경이 쓰이고 있던 가게입니다만, 이 때, 처음으로 이용했습니다.확실히, 이 때, 이 가게에서, 4인가, 5정도, 타이야키(붕어빵)(taiyaki)을 사고, 그 안, 2개는, 현지에서, 한 개씩 먹고, 나머지는, 가지고 돌아가고, 집에서 먹었다고 생각합니다.이 가게의, 타이야키(붕어빵)(taiyaki)의 맛은, 뭐, 보통으로 맛있다고 하는 느낌이었다고 생각합니다(연관되어?`노, 갓 만들어낸이 아닌 것(집에 가지고 돌아가 먹은 것)은, 정직하게 말하고, 너무 맛있지 않았습니다...).


이하의 투고(바로 아래에서 링크를 붙인 투고)에 계속 된다...

역사가 있는 공룡 전시 박물관외 3→

https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3870761?&sfl=membername&stx=nnemon2



TOTAL: 9062

番号 タイトル ライター 参照 推薦
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きりたんぽ鍋(秋田県の伝統料理)....... nnemon2 11-14 1017 0
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