伝統文化



以下、基本的に前に行った投稿から抜粋して来た物です。


横浜を散歩して来た時の物です。横浜は、東京areaの海の玄関口(gateway)となっている、大きな港町です。この日は、横浜の、関内(kannai)areaにある日本郵船(Nippon Yusen)歴史博物館で、日本の客船の、インテリア(内装)の歴史に関する、展覧会(exhibition)を見て来ました。


この展覧会(exhibition)は、主として、第二次世界大戦前の、日本の客船の、インテリア(内装)における、日本の建築家の活躍に焦点を当てた展覧会(exhibition)でした。

 
以下、以下の投稿の続きです。

 現代日本伝統様式(戦前日本の客船の内装)他1→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3758724?&sfl=membername&stx=nnemon2



以下、この展覧会(exhibition)に関する説明の続きです。

 


以下、この展覧会(exhibition)の説明は、主として、この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)の文を、要約又は抜粋・引用した物です。




1930年代から1940年代初めの、日本の豪華客船のインテリア(内装)の設計には、中村 順平(nakamura jyunpei)や村野 藤吾(murano togo)を始め、松田 軍平(matsuda gunpei)、久米 権九郎(kume gonkuro)と言った、多くの、日本の著名な建築家達が関わっていました。その中には、日本の伝統住宅建築を近代化した事で知られる、吉田 五十六(yoshida isoya)や、若手時代の、丹下 健三(tange kenzo)等も含まれています。この展覧会は、客船のインテリア(内装)の歴史における、こうした建築家達の活躍に注目した展覧会です。

 

現在の豪華客船は、クルーズ(客船での旅行自体を楽しむ事)が目的の客船です。交通手段としてではなく、洋上(海の上)での優雅なクルーズ(客船の旅)を楽しむ事が、主な目的となっています。しかし、豪華客船時代と呼ばれた、1900から1940年代にかけての豪華客船は、そうではありませんでした。かつて、客船は、外国への唯一とも言える渡航手段であり、各工業国が、最先端の科学技術と芸術を凝縮させた、長距離国際航路向けの豪華客船を建造しました。各工業国が保有する、長距離国際航路向けの豪華客船の、巨大さや速さ、そして豪華さは、自ずと、その国の国力を示す指標となっていました。また、客船は、陸上建築と異なり、陸に留まる事なく、港から港へと移動します。そのため、国際航路向けの客船は、自国の技術力や文化の成熟度を、諸外国の目に、曝してしまう乗り物でもありました。その様な背景から、当時の国際航路向けの客船は、「動く国土」と呼ばれ、国土の延長として捉えられていました。各工業国が、少しでも総トン(GT)数が大きく、速度が早く、豪華な船内装飾を持つ、長距離国際航路向けの豪華客船を競い合って建造したのも、この様な理由からでした。要するに、かつての、工業国の、国際航路向けの客船は、国家の威信をかけて建造された物で、完成後には、国威発揚の役割を果たす事を課せられた、非常に特殊な乗り物であったのです。

 

豪華客船時代において、圧倒的な、豪華客船大国であったのは、イギリスであり、それに次ぐのが、ドイツ、フランスと言う感じであったと思います。

 

日本は、これ等の豪華客船大国には、はるかに見劣りするものの(第二次世界大戦前の日本は、資本主義工業国又は資本主義的な工業国の中で、最も、貧しく、農業国的なグループ(group)に属していた事と、ヨーロッパと北米を結ぶ航路に比べて、日本とヨーロッパを結ぶ航路及び日本と北米を結ぶ航路は、比べ物にならない位、需要が小さかった事から。。)、資本主義工業国且つ大国として、やはり、豪華客船時代において、長距離国際航路向けの豪華客船を有していました。


以下、「」内は、補足説明ですが、興味のある方だけ、ご覧下さい。


「日本は、19世紀後半から、西洋の技術及び一部の文化を取り入れ、近代化を図る様になりました。日本は、それ以来、着実に近代化・工業化を進め、日清戦争(1894年から1895年の間に行われた、日本と中国(清)の間の戦争。兵力的には、圧倒的に優位であった中国(清)に対し、日本は、近代化された軍隊により勝利した)、日露戦争(1904年から1905年の間に行われた、日本とロシア(Russia)の間の戦争。日本の実質的な勝利に終る)等を経て、第一次世界大戦(1914年から1918年。下の補足説明参照)が終る頃には、日本は、名実共に、工業国且つ世界の大国(列強)の一つとなりました。
第一次世界大戦:1914年から1918年。日本は、第一次世界大戦においては、連合国側で、戦勝国で有った。日本は、主戦場で有ったヨーロッパ(Europe)から離れていたので、損害が少なく(国土は、戦火に見舞われなかった)、むしろ、連合国側の他の参戦国からの軍需品の注文を受け、好景気に湧き、高度経済成長を果たした(wikiを参考にしました)。戦後は、日本は、戦勝国且つ資本主義工業国且つ大国として、イギリス、フランス、イタリアと共に、国際連盟(League of nations)(下の補足説明参照)の発足時の常任理事国となりました。
国際連盟(League of nations):1919年から1946年。国際連合(United Nations)の前身。発足時の常任理事国は、イギリス、フランス、日本、イタリア。発足時の加盟国は、42ヶ国。加盟国は、最高で60ヶ国近くに達した(1930年代半ば)。1946年に解散して国際連合(United Nations)に移項(wikiより)。

とは言え、日本と、(日本よりも遥かに前から、強力に工業化やインフラ(infrastructure)整備を推し進めていた)イギリス、ドイツ、アメリカ等との差は、ずっと大きく、また、日本は、途中、第二次世界大戦において、各産業が壊滅的な損害を被った事等もあって、(日本は)、1960年代初め頃まで(特に1950年代頃まで)は、南欧諸国(イタリア、スペイン、ポルトガル(Portugal)、ギリシャ(Greece))等と共に、資本主義工業国(若しくは、資本主義的な工業国。第二次世界大戦後は、西側先進工業国)の中では、農業を中心とした第一次産業の比率が比較的高い農業国的な国であり、最も貧しく後進的なグループ(group)に属していました。」



1929年の、「浅間丸(asamamaru)国辱論争」(前回の投稿参照)を境に、高く評価される様になった、客船のインテリア(内装)様式が、「現代日本様式」です。これは、第二次世界大戦以前において、日本の建築家の中で、日本の大型客船のインテリア(内装)の設計を、最も多く手がけた、中村 順平(nakamura jyunpei)と、大阪商船(Osaka Shosen.。現在の商船三井(Shosen Mitsui)。日本の三大海運(shipping・marine transportation)会社の内の一つ)の、工務部門の技師、和辻 春樹(watsuji haruki)(日本の船舶工学者)の協力のもと、日本の豪華客船の為だけに生み出された、特殊な装飾様式です。「現代日本様式」は、具体的には、どの様な物だったのでしょうか。1925年の、4月から11月にかけて、パリ(Paris)で開催された「現代装飾美術・産業美術国際博覧会」(通称アール・デコ(Art Deco)博覧会)を、きっかけに、1920年代から1930年代にかけて、世界的に、アール・デコ(Art Deco)様式が流行しますが、「現代日本様式」は、実は、この、アール・デコ(Art Deco)が、基本となっています。従来よりも、装飾を減らした、すっきりとした形態、単純な幾何学模様の反復、そして機械化時代の到来を告げる、ガラス(glass)の様な、新素材の多用。こう言った、最先端のアール・デコ(Art Deco)を軸に据えながら、日本の伝統工芸や意匠(design・装飾)を、ふんだんに付け加えているのが、「現代日本様式」の特徴です。東洋の先進国である日本として、ヨーロッパの歴史や文化に対峙する為には、もはや、西洋の先進工業国の物真似ではならないと、中村 順平(nakamura jyunpei)を始めとする、日本の建築家達は、思ったのかもしれません。そして、日本(及び東洋の)、伝統的な文化や芸術で挑む事こそが、欧米に対峙出来る、唯一の手段であると考えた結果、行き着いたのが、「現代日本様式」だったのでしょう。



写真以下3枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)から。。。




新田丸(nittamaru。1940年完成。17,150総トン(GT))。「優秀船舶助成施設」(1937年)により、補助金を得て建造された、日本の豪華客船。船体に、大きくペイントされた(描かれた)、日の丸(日本国旗)が見える。新田丸(nittamaru)建造に際して、盛大な披露会が開催された。招待客には、民間の関係者、新聞社、役人等に混じって、海軍監督官の名前がある。当時、日本では、国策として、優秀な船舶の建造が促されていた。






新田丸(nittamaru。1940年完成)の、1等(first class)の社交室(中村 順平(nakamura jyunpei)設計)。日本を代表する客船の一つとして、船内は、とても豪華であった。






写真左。新田丸(nittamaru)・八幡丸(yawatamaru)・春日丸(kasugamaru)(八幡丸(yawatamaru)・春日丸(kasugamaru)は、新田丸(nittamaru)の姉妹豪華客船)の、新造船パンフレット(booklet)(1940年)。全てのページが、カラー。表紙には、銀地が用いられる等、華やかなパンフレット(booklet)が作成された。新田丸(nittamaru)・八幡丸(yawatamaru)、春日丸(kasugamaru)は、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社が、(1936年にドイツのBerlinで開催された夏季オリンピックに引き続き)1940年に開催されるはずだった、東京オリンピック(Olympics)(夏季Olympics)(第2次世界大戦により中止)の前後に合わせる様に、日本とヨーロッパを結ぶ航路に、新たに投入する計画であった豪華客船です。何れも、内装のデザイン(design)・装飾は、「現代日本様式」で纏められ、当時、世界最先端の技術と設備が投入された豪華客船として建造されました(春日丸(kasugamaru)については、建造される予定でした)。新田丸(nittamaru。17,150総トン(GT))と八幡丸(yawatamaru)。17,150総トン(GT))は、1940年に完成しました。新田丸(nittamaru)と、その姉妹船(同型船)の八幡丸(yawatamaru)の、優れた設備の例として、新田丸(nittamaru)と八幡丸(yawatamaru)には、開閉式の天井を備えた、温水のプール(swimming pool)が設けられ、船内には、暖房設備の他、一等(first class)の、全ての客室、一等(first class)と二等(second class)の公室(食堂(dining room・レストラン)、社交室等、乗客の共用場所)、理容室(barber shop)、美容室等には、冷暖房装置(air conditioner)が装備されました(新田丸(nittamaru)と八幡丸(yawatamaru)は、世界で初めて、冷暖房設備(air conditioner)を備えた、長距離、国際航路の客船でした)。新田丸(nittamaru)、八幡丸(yawatamaru)共に、完成した時には、既に、ヨーロッパにおいて、第二次世界大戦が勃発していた事から、新田丸(nittamaru)、八幡丸(yawatamaru)共に、日本と北米を結ぶ航路の、豪華客船として就航しました。新田丸(nittamaru)は、1941年8月まで、約1年半、日本と北米を結ぶ航路の客船として就役しましたが、その後、時局の悪化により(ちなみに、日本は、1941年12月に、第二次世界大戦に参戦しました(アメリア・イギリス等との戦争に突入しました))、日本海軍に徴用され、1942年に空母に改造され、日本海軍に買収されました。八幡丸(yawatamaru)は、約1年間、日本と北米を結ぶ航路の客船として就役した後、時局の悪化により、1941年6月に、空母への改造工事に入り、1942年に、空母へと改装されると共に、日本海軍に買収されました。一方、春日丸(kasugamaru)(新田丸(nittamaru)と八幡丸(yawatamaru)の姉妹船(同型船)として、日本とヨーロッパを結ぶ航路の豪華客船として就航する予定であった船)は、時局の悪化により、完成前に、空母へと改造され、1941年に空母として完成しました。

 


写真以下3枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。




写真上。新田丸(nittamaru。1940年完成。日本の豪華客船。17,150総トン(GT))の1等(first class)の階段。三菱(mitsubishi)重工業、長崎(nagasaki)造船所設計。正面、松の絵柄とともに、天井照明のデザイン(design)も、日本的である。
写真下。秩父丸(chichibumaru。1930年完成。17,526トン(GT)。日本の豪華客船。浅間丸(asamamaru)と共に、「太平洋の女王」と称された)で使用されていたと推測される、丸型、煙草盆(1930年頃)。蝶々が螺鈿で表現されている。秩父丸(chichibumaru)は、アール・デコ(Art Deco)で設計された船内に、一部、この様な、日本的(東洋的)な意匠(design)の、調度品が用いられていた。





りおでじゃねろ丸(Rio de Janeiro maru。1930年完成。日本の客船)の1等(first class)喫煙室(smoking room)。中村 順平(nakamura jyunpei)設計。正面に、日本の古い鎧が見える。右手に見える漆の扉は、日本の大阪の漆工芸の工芸家、島野 三秋(shimano sansyu)による物。鎧を挟んだ、左奥の扉も、島野 三秋(shimano sansyu)の作品。いち早く、日本の伝統工芸を、インテリア(内装)に取り入れている事が分かる。





写真右、八幡丸(yawatamaru。1940年完成。日本の豪華客船。17,150総トン(GT))の1等(first class)階段。三菱(mitsubishi)重工業、長崎(nagasaki)造船所設計。

 



1937年頃になると、いよいよ日本の建築家達が活躍し始めます。日本の豪華客船の1等(first class)公室(乗客の共用場所)(1等(first class)公室は、客船の顔とも言える場所)の設計は、日本国内の著名な建築家に依頼する事こそが、ふさわしいと考えられ、日本の著名な建築家に、設計が、依頼される様になるのです。そして、日本の大型客船のインテリア(内装)については、ヨーロッパの、古典的な様式でもなく、また、西洋の先進工業国の、現代の(当時の)流行を、そのまま取り入れるのでもなく、日本独自の、且つ、現代に合った様式と言う事で、「現代日本様式」なるものが採用されました。これは、日本における、客船の船内装飾の第一人者である、建築家の、中村 順平(nakamura jyunpei)と、造船家の立場から、日本の客船のインテリア(内装)の発展を支えた、大阪商船(Osaka Shosen.。現在の商船三井(Shosen Mitsui)。日本の三大海運(shipping・marine transportation)会社の内の一つ)の、工務部門の技師、和辻 春樹(watsuji haruki)(船舶工学者)が協力して誕生させた物で、日本の客船のインテリア(内装)の、西洋依存を脱却する、日本独自の客船のインテリア(内装)様式でした。現代風のインテリア(内装)でありながら、日本の伝統工芸が、随所に散りばめられた、日本独自の、また、客船独自の装飾様式である、「現代日本様式」は、日本のデザイン(design)の、近代・現代の歴史を語る上において、重要な装飾様式の一つであると言えるでしょう。


 




写真上、新田丸(nittamaru。1940年完成。17,150総トン(GT)。日本の豪華客船。三菱(mitsubishi)重工業、長崎(nagasaki)造船所製)の1等(first class)社交室。中村 順平(nakamura jyunpei)設計。正面右の、ガラス(glass)戸棚に、六歌仙(rokkasen。10世紀初めに編纂された、日本の和歌(waka。日本の詩の形態の一つ)集、古今和歌集(kokin wakashu)に、有名な歌人(poet)として名が挙げられた、9世紀の、日本の、6人の歌人(poet))をエッチング(etching)で描く等、随所に、日本的な意匠(design・装飾)が溢れています。
写真下、八幡丸(yawatamaru。日本の豪華客船。1940年完成。17,150総トン(GT))の、1等(first class)読書室。中村 順平(nakamura jyunpei)設計。

 


国威発揚として捉えられていた(日本だけでなく、かつての、工業国の、国際航路向けの客船は、国家の威信をかけて建造された物で、完成後には、国威発揚の役割を果たす事を課せられた、非常に特殊な乗り物でした)、日本の長距離国際航路向けの客船のインテリア(内装)設計には、名だたる、日本の建築家が集結させられました。客船設計で、とりわけ興味深いのは、陸上建築とは違い、一つの客船でありながら、部屋ごとに、設計を担当する建築家が異なる点です。かつての、客船は、1等(first class)から3等(third class)に階級が分けられていました。そして階級毎に、客室に加えて、食堂(dining room・レストラン)、社交室(乗客が、くつろいだり、交流したりする部屋)、喫煙室(smoking room)、読書室と言った公室(乗客の共用場所)が備えられていました。乗客は、長い船旅では、狭くて暗い、客室に、こもるのではなく、広くて快適な、公室(乗客の共用場所)で、ほとんどの時間を過ごす為、客船の1等(first class)の公室(乗客の共用場所)部分は、船内で、最も重要な空間と考えられていました。その為、集結させられた、日本の有名な建築家達は、主に、これ等、1等(first class)の公室(乗客の共用場所)の設計を担当しました。例えば、橿原丸(kashiharamaru。1939年建造開始、1942年完成予定。27,000トン(GT)の、幻の日本の豪華客船。完成する事なく、日本軍に買い上げられ、空母、隼鷹(jyunyou)へと改造された)等は、前川 國男(maekawa kunio)、丹下 健三(tange kenzo)が、1等(first class)プール(swimming pool)を設計し、中村 順平(nakamura jyunpei)が、1等(first class)社交室、久米 権九郎(kume gonkuro)が、1等(first class)読書室を担当しています。他にも、村野 藤吾(murano togo)、松田 軍平(matsuda gunpei)等が設計者として加わる等、多様な、日本の著名な建築家達が居並びます。なぜ、この様に、客船において、部屋・空間毎に、設計者が違ったのでしょうか。これは、客船の規模が、あまりに大きくなり過ぎた事に起因しています。当初、比較的規模の小さな客船の場合は、一人の建築家、若しくは、一つの建築設計事務所で、設計を行う事は可能でした。しかし、客船の規模が大きくなり、その隻数も増えて来るにつれて、それでは追いつかなくなったのです。また、こうした事情には、当時の時代背景も、大きく影響しています。日本が、日中戦争(1937年に勃発した日本と中国の間の戦争)以降、第二次世界大戦へ向かうにつれて、日本の建築家達は、陸での仕事を失って行きました。しかし、一方において、日本の国策として、1937年には、「優秀船舶建造助成施設」が実施され、日本の客船の建造数が増えて行きました。そのため、日本の建築家達は、自ずと、客船に注目せざるを得なかったと考えられます。これは、第二次世界大戦によって、一時は、分断されたと思われがちな、日本の建築家達の仕事が、客船のインテリア(内装)の設計と言う仕事を通じて、第二次世界大戦後へと繋がっていた事をも意味します。

 

写真以下3枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。





安芸丸(akimaru)の、ABC各室の時計拡声器(吉田 五十六(yoshida isoya)設計。1941年)。安芸丸(akimaru)は、「優秀船舶建造助成施設」により、日本とシアトル(Seattle)を結ぶ航路の、日本の客船として建造されましたが、日本(とアメリカ)が、第二次世界大戦に参戦した事により、旅客設備は、縮小され、その構造も、著しく簡略化された形で完成しました。おそらく、吉田 五十六(yoshida isoya)が、設計した図面は、実現しなかった可能性が高いです。






写真右上。八幡丸(yawatamaru。1940年完成。日本の豪華客船)の1等(first class)喫煙室(smoking room)。中村 順平(nakamura jyunpei)設計。





八幡丸(yawatamaru。1940年完成。日本の豪華客船)の1等(first class)カフェ(cafe)ダンシングスペース(danceをする場所)。松田 軍平(matsuda gunpei)設計。正面の壁と、床の中央に、真っ赤な椿がデザイン(design)され、艶やかな空間が生まれています。「優秀船舶建造助成施設」に基づいて、日本の豪華客船、新田丸(nittamaru)、八幡丸(yawatamaru)、春日丸(kasugamaru)が、次々と建造されました(ただし、春日丸(kasugamaru)に関しては、時局の悪化に伴い、完成前に、空母へと改造されました)。


 

以下、しばらく、(主として、第二次世界大戦以前における)、日本の、著名な建築家達の、日本の客船のインテリア(内装)の設計における活躍を、具体的に見て行きたいと思います。

 

中村 順平(nakamura jyunpei。日本の建築家。1887年生まれ。1977年に亡くなる)は、日本の客船のインテリア(内装)の設計の第一人者で、日本の建築家達の中で、第二次世界大戦以前において、日本の大型客船のインテリア(内装)の設計を、最も多く手がけました。また、「現代日本様式」の生みの親でもあります。大阪に生まれ、現在の名古屋(nagoya)工業大学の前身の高等教育機関を卒業した中村 順平(nakamura jyunpei)は、1910年、卒業と同時に、曾禰中條(sone・cyujo)建築事務所(第二次世界大戦前における、日本の有名な建築設計事務所の一つ。第二次世界大戦前において、日本国内において、多くの、近代建築のビル・建物の設計を手掛ける)に就職します。その後、1920年に、岩崎 小弥太(iwasaki koyata。近代の日本で最大級の財閥(近代日本の、三大財閥又は四大財閥)の一つで有った、三菱(mitsubishi)財閥の、当時の当主)の援助で、フランスに渡り、翌年から、フランスのエコール・デ・ボザール(Ecole des Beaux-Arts)で、学びました。1924年、関東大震災(1923年に東京areaを襲った巨大地震。東京等が、非常に大きな被害を受けた)を機に、日本に呼び戻された、中村 順平(nakamura jyunpei)が、客船のインテリア(内装)設計に携わるようになったきっかけは、岩崎 小弥太(iwasaki koyata)の紹介によるものだと推測されます。その理由は、岩崎 小弥太(iwasaki koyata)が、フランス帰りの、中村 順平(nakamura jyunpei)に、浅間丸(asamamaru。1929年完成。日本(日本郵船(Nippon Yusen)株式会社)の豪華客船)のインテリア(内装)について、「君なら、どんな設計をするか」と質問した際に(ちなみに、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社は、三菱(mitsubishi)系の会社です)、中村 順平(nakamura jyunpei)は、「あえて、日本式でやる」と返答し、実際に、岩崎 小弥太(iwasaki koyata)を、とても感動させたと言う逸話が残っている為です。しばらくして、三菱(mitsubishi)、長崎(nagasaki)造船所から、中村 順平(nakamura jyunpei)の下に、客船のインテリア(内装)の設計依頼が舞い込みますが、これには、おそらく、岩崎 小弥太(iwasaki koyata)が、中村 順平(nakamura jyunpei)を、設計者として、強く推薦した背景があったのだろうと思われます。その後、初めて手がけた、日本と、中国の天津(Tianjin)を結ぶ航路の、日本の客船、長城丸(1927年完成。2,594トン(GT))のインテリア(内装)設計で高い評価を得た中村 順平(nakamura jyunpei)は、約15年の間に、26隻にものぼる、日本の客船のインテリア(内装)の設計を手がけました。当初は、「現代日本様式」の完成には、まだ遠く、床が傾斜している、天井が低い、頑丈さが求められると言った、船ならではの制約に、ずいぶんと苦労しました。しかし、手がける客船が増えるに連れて、制約を、見事に克服して行きました。そして、アール・デコ(Art Deco)と、日本の伝統的な意匠(design・装飾)を融合させ、「現代日本様式」を確立させました。あるぜんちな丸(Argentina maru。日本の客船。1939年完成。12,755トン(GT))や、ぶらじる丸(BRASIL maru。日本の客船。1939年完成。12,752トン(GT))のインテリア(内装)をともに設計した、ライバル(rival)とも言える、村野 藤吾(murano togo)は、後に、中村 順平(nakamura jyunpei)を、「船のデザイン(design)は、名人だった」と振り返っています。

 


写真以下2枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。





写真右上。うすりい丸(Ussuri maru 。1932年完成。6,386トン(GT)。日本の客船。日本と大連(Dalian)を結ぶ航路で活躍)の1等(first class)喫煙室(smoking room)。中村 順平(nakamura jyunpei)設計。障子風に見せかけたガラス(glass)窓が、より日本的な雰囲気を演出している。天井の鳥が描かれた間接照明は、手間も、金もかかると言う事で、造船所からは反対されたが、中村 順平(nakamura jyunpei)は、諦めず、自ら、ガラス(glass)会社に発注し、完成させた。
写真左下。照国丸(terukunimaru)・靖国丸(yasukunimaru)の1等(first class)ベランダ(veranda)。中村 順平(nakamura jyunpei)設計。右手に見える、漆扉は、松田 権六(matsuda gonroku。日本の蒔絵(makie。日本の漆工芸の一つ)の、工芸家)との共同制作。日本とヨーロッパを結ぶ航路等、花形航路を多く運航する日本郵船(Nippon Yusen)株式会社は、客船のインテリア(内装)において、大阪商船(Osaka Shosen)に比べて保守的で、ヨーロッパの古典様式を採用する事が、常でした。その様な中、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社が、「現代日本様式」を採用した最初の客船が、照国丸(terukunimaru。日本の客船。1930年完成。11,931トン(GT))と靖国丸(yasukunimaru。日本の客船。1930年完成。11,933トン(GT)。照国丸(terukunimaru)の姉妹船)です。
写真右下。長城丸(日本の客船。1927年完成。2,594トン(GT)。日本と、中国の天津(Tianjin)を結ぶ航路で活躍)の1等(first class)階段。中村 順平(nakamura jyunpei)設計。中村 順平(nakamura jyunpei)が最初に手がけた、客船のインテリア(内装)。

 




橿原丸(kashiharamaru。1939年建造開始、1942年完成予定。27,000トン(GT))の1等(first class)社交室(中村 順平(nakamura jyunpei)設計)のカラースキーム(1940年制作)。橿原丸(kashiharamaru)は、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社が、(1936年にドイツのBerlinで開催された夏季オリンピックに引き続き)1940年に開催されるはずだった、東京オリンピック(Olympics)(夏季Olympics)(第2次世界大戦により中止)の前後に合わせる様に、次々と投入する予定であった、新しい豪華客船の一つで、日本の客船史上、最高の豪華客船となるはずが(橿原丸(kashiharamaru)の2等(second class)が、新田丸(nittamaru。日本の客船史上、最も豪華な客船の一つ)の1等(first class)と同じ水準になるように設定された)、就航する事なく、空母、隼鷹(jyunyou)へと改造されました。正面舞台は、古代の雅楽(gagaku。中国や韓国から伝わった音楽を基にした日本の伝統的音楽)が表現されており、電灯の、すぐ下には、舞楽の面、竪琴の右には、装束を着た楽人が見えます。その下、中央は、翁、千歳三番叟の一組で、中世の能楽(noh・kyogen。日本の伝統的な演劇の一つ)を表現しています。正面の扉部分には、桜と馬を引く、男の図。また、部屋の四隅には、日本の城(castle)を描いたレリーフ(relief)が見えます。これは、漆工芸の工芸家の、松田 権六(matsuda gonroku)とともに、乾漆に金箔、銀箔、そして岩絵具を用いて彩色する予定であったと言います。完成していれば、「現代日本様式」を代表する意匠(装飾)であったに違いありません。

 


久米 権九郎(kume gonkuro。日本の建築家。1895年生まれ。1965年に亡くなる)は、日光(nikko。東京近郊を代表する観光地・保養地の一つ)の、金谷(kanaya)ホテル(日光(nikko)を代表する、高級リゾート(resort)ホテル。1873年開業)や、軽井沢(karuizawa。東京圏周辺を代表する、避暑別荘地・避暑保養地)の万平(manpei)ホテル(軽井沢(karuizawa)を代表する高級リゾート(resort)ホテルの一つ。1894年開業)等、数々の、建築設計に加え、多くの住宅団地の設計を手がける等、事業にも、才能を発揮しました。また、来日した、ブルーノ・タウト(Bruno Taut。ドイツの、有名な建築家・都市計画家。ナチス(Nazi Party)政権下のドイツにおいて、親ソ連(Soviet Union)派の烙印を押され、職と地位を失い、1933年から1936年にかけて、日本に亡命。1936年に、近代化を目指していたトルコの、イスタンブール(Istanbul)芸術アカデミー(Academy)からの招請により、教授としてイスタンブール(Istanbul)に移住。1938年に、長年患っていた気管支喘息の為に、同地で死去)とも、親交があった事でも知られています。久米(kume)建築事務所(久米 権九郎(kume gonkuro)の建築設計事務所)が、客船のインテリア(内装)の設計を手がける様になった、最初のきっかけは、中村 順平(nakamura jyunpei)からの紹介でした。1937年を過ぎた頃、すでに、中村 順平(nakamura jyunpei)の客船のインテリア(内装)設計は、評判を呼び、中村 順平(nakamura jyunpei)の下には、たくさんの客船のインテリア(内装)の設計の仕事が舞い込んでいました。そして、インテリア(内装)の設計を依頼される客船の規模も、徐々に、大きくなっていました。その為、全ての設計依頼を、中村 順平(nakamura jyunpei)が請け負う事が困難になって来たのです。そして、日本郵船(Nippon Yusen)株式会社のヨーロッパ航路の就航を予定した新田丸(nittamaru)・八幡丸(yawatamaru)・春日丸(kasugamaru)の三隻の豪華客船のインテリア(内装)設計を依頼された際には、それぞれの客船の、主要な、公室(乗客の共用場所)の一部のみ、中村 順平(nakamura jyunpei)が設計し、それ以外については、久米(kume)建築事務所等、縁のある、他の、建築設計事務所に、その仕事を割り振る事にしたのです。ちなみに、久米 権九郎(kume gonkuro)は、橿原丸(kashiharamaru)の1等(first class)の読書室のインテリア(内装)設計も請け負っています。いずれにせよ、この様な経緯から、一つの客船に多くの建築家が関わる事になり、陸上建築ではありえない、競演が、一つの船内で、繰り広げられた事は、非常に興味深いと言えるでしょう。

 

写真以下3枚は、参考に、前に、enjoyでアップ(upload)した写真の再利用ですが、現在の、万平(manpei)ホテルの建物の一つ(1936年完成)。久米 権九郎(kume gonkuro)が設計。基本的に、西洋式の建物ですが、デザイン(design)は、ホテルの地元(長野(nagano)県の東部の中部地域)の、伝統的な農家(農民の家)をイメージした物となっています。万平(manpei)ホテル(1894年開業)は、軽井沢(karuizawa。長野(nagano)県の東端部(東部の中部)に位置する。東京圏周辺を代表する、避暑別荘地・避暑保養地)を代表する高級リゾート(resort)ホテルの一つです。ちなみに、万平(manpei)ホテルがある軽井沢(karuizawa)は、ジョン・レノン(John Lennon)の妻である、日本人、小野 洋子(Ono Yoko・Yoko Ono。1933年生まれ)の親が、軽井沢(karuizawa)に別荘を所有していた関係で、ジョン・レノン(John Lennon)が、ビートルズ(The Beatles)解散後、1970年代半ばから、亡くなる1980年まで、夏に家族を連れて、毎年のように長期滞在していた、ジョン・レノン(John Lennon)の、お気に入りの、日本の別荘地でした。万平(manpei)ホテルは、ジョン・レノン(John Lennon)が、軽井沢(karuizawa)に長期滞在中、よく家族と宿泊していたホテルです。私は、万平(manpei)ホテルは、宿泊したことがありませんが、古い建物が好きなので、いつかは、宿泊したいと思っています。ちなみに、私の親は、軽井沢(karuizawa)で、ゴルフ(golf)をするついでに、万平(manpei)ホテルに、何度か、宿泊した事があります(ちょっと、羨ましいw)。









万平(manpei)ホテルのカフェ(cafe)。ジョン・レノン(John Lennon)は、万平(manpei)ホテルに長期滞在中、当然、このcafeを、たくさん利用していました。万平(manpei)ホテルには、カフェ(cafe)の他に、フランス料理を中心とした主食堂(ホテルの中心的なレストラン。main dining room)、中国料理レストラン、日本料理レストラン、barが、あります。









 

写真以下2枚。この展覧会(exhibition)のパンフレット(booklet)より。。。


 



新田丸(nittamaru。1940年完成。日本の豪華客船)の1等(first class)プール(swimming pool)。久米 権九郎(kume gonkuro)設計。






橿原丸(kashiharamaru)の1等読書室(久米 権九郎(kume gonkuro)設計)のカラースキーム(1940年制作)。床の立ち上がり部分には、黒地茶模様の大理石を、柱には、ゼブラウッド(zebrawood)を採用する予定であった。床の絨毯や、正面奥の出入り口扉には、壁面漆パネルと合わせた、栗の実と葉の模様が描かれている。久米 権九郎(kume gonkuro)は、佐藤 武造(sato takezo。日本の画家・漆工芸の工芸家)と、工場にサンプル(sample)を見学に行く等、一年がかりで、色々と設計準備を行いました。久米 権九郎(kume gonkuro)にとって、橿原丸(kashiharamaru)が完成せずに、空母へと改造されてしまった事は、とても残念であったに違いありません。



現代日本伝統様式(戦前日本の客船の内装)他3(すぐ下でリンクを付けた投稿)へ続く。。。

現代日本伝統様式(戦前日本の客船の内装)他3→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3758722?&sfl=membername&stx=nnemon2

 


현대 일본 전통 님 식(전쟁 전 일본의 여객선의 내장) 외 2



이하, 기본적으로 앞에 간 투고로부터 발췌해 온 것입니다.


요코하마를 산책해 왔을 때의 물건입니다.요코하마는, 도쿄 area의 바다의 현관문(gateway)이 되고 있는, 큰 항구도시입니다.이 날은, 요코하마의, 칸나이(kannai) area에 있는 일본우선(Nippon Yusen) 역사 박물관에서, 일본의 여객선의, 인테리어(내장)의 역사에 관한, 전람회(exhibition)를 보고 왔습니다.


이 전람회(exhibition)는, 주로, 제이차 세계대전전의, 일본의 여객선의, 인테리어(내장)에 있어서의, 일본의 건축가의 활약에 초점을 맞힌 전람회(exhibition)였습니다.


이하, 이하의 투고의 계속입니다.

현대 일본 전통 님 식(전쟁 전 일본의 여객선의 내장) 외 1→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3758724?&sfl=membername&stx=nnemon2



이하, 이 전람회(exhibition)에 관한 설명의 계속입니다.




이하, 이 전람회(exhibition)의 설명은, 주로, 이 전람회(exhibition)의 팜플렛(booklet)의 문장을, 요약 또는 발췌·인용한 것입니다.




1930년대부터 1940년대 초의, 일본의 호화 여객선의 인테리어(내장)의 설계에는, 나카무라순평(nakamura jyunpei)이나 무라노 도고(murano togo)를 시작해 마츠다 군페이(matsuda gunpei), 쿠메권 쿠로우(kume gonkuro)라고 말한, 많은, 일본의 저명한 건축가들이 관련되고 있었습니다.그 중에는, 일본의 전통 주택 건축을 근대화 한 일로 알려진, 요시다56(yoshida isoya)이나, 젊은이 시대의, 단게 겐조(tangekenzo) 등도 포함되어 있습니다.이 전람회는, 여객선의 인테리어(내장)의 역사에 있어서의, 이러한 건축가들의 활약에 주목한 전람회입니다.



현재의 호화 여객선은, 크루즈(여객선으로의 여행 자체를 즐기는 일)가 목적의 여객선입니다.교통 수단으로서가 아니고, 해상(바다 위)으로의 우아한 크루즈(여객선의 여행)를 즐기는 것이, 주된 목적이 되고 있습니다.그러나, 호화 여객선 시대로 불린, 1900에서 1940년대에 걸친 호화 여객선은, 그렇지는 않았습니다.일찌기, 여객선은, 외국에의 유일이라고도 말할 수 있는 도항 수단이며, 각 공업국이, 최첨단의 과학기술과 예술을 응축시킨, 장거리 국제 항로 전용의 호화 여객선을 건조했습니다.각 공업국이 보유하는, 장거리 국제 항로 전용의 호화 여객선의, 거대함이나 속도, 그리고 호화로움은, 스스로, 그 나라의 국력을 나타내는 지표가 되고 있었습니다.또, 여객선은, 육상 건축과 달리, 육지에 머무는 무사히, 항구에서 항구로 이동합니다.그 때문에, 국제 항로 전용의 여객선은, 자국의 기술력이나 문화의 성숙도를, 여러 나라의 눈에, 노출해 버리는 탈 것이기도 했습니다.그 님배경으로부터, 당시의 국제 항로 전용의 여객선은, 「움직이는 국토」라고 불려 국토의 연장으로서 파악되고 있었습니다.각 공업국이/`A 조금이라도 총 톤수(GT) 수가 크고, 속도가 빨리, 호화로운 선내 장식을 가지는, 장거리 국제 항로 전용의 호화 여객선을 서로 경쟁해 건조했던 것도, 이와 같은 이유로부터였습니다.요컨데, 한 때의, 공업국의, 국제 항로 전용의 여객선은, 국가의 위신을 걸쳐 건조된 것으로, 완성 후에는, 국위 발양의 역할을 완수하는 일을 부과된, 매우 특수한 탈 것이었습니다.



호화 여객선 시대에 있고, 압도적인, 호화 여객선 대국인 것은, 영국이며, 거기에 뒤잇는 것이, 독일, 프랑스라고 하는 느낌이었다고 생각합니다.



일본은, 이것등의 호화 여객선 대국에는, 아득하게 열등하지만(제이차 세계대전 전날책은, 자본주의 공업국 또는 자본주의적인 공업국안에서, 가장, 궁핍하고, 농업국적인 그룹(group)에 속하고 있던 일과 유럽과 북미를 연결하는 항로에 비해, 일본과 유럽을 연결하는 항로 및 일본과 북미를 연결하는 항로는, 비교도 되지 않는 위, 수요가 작았던 일로부터..), 자본주의 공업국 한편 대국으로서 역시, 호화 여객선 시대에 있고, 장거리 국제 항로 전용의 호화 여객선을 가지고 있었습니다.


이하, 「」 안은, 보충 설명입니다만, 흥미가 있는 분만, 봐 주세요.


「일본은, 19 세기 후반부터, 서양의 기술 및 일부의 문화를 받아 들이고 근대화를 도모하는 것처럼 되었습니다.일본은, 그 이후로, 착실하게 근대화·공업화를 진행시켜 청일 전쟁(1894년부터 1895년간에 행해진, 일본과 중국(청)의 사이의 전쟁.병력적으로는, 압도적으로 우위에서 만난 중국(청)에 대해, 일본은, 근대화 된 군대에 의해 승리한), 러일 전쟁(1904년부터 1905년간에 행해진, 일본과 러시아(Russia)의 사이의 전쟁.일본의 실질적인 승리에 끝난다) 등을 거치고, 제1차 세계 대전(1914년부터 1918년.아래의 보충 설명 참조)가 끝나는 무렵에는, 일본은, 명실공히, 공업국 한편 세계의 대국(열강)의 하나가 되었습니다.
제1차 세계 대전:1914년부터 1918년.일본은, 제1차 세계 대전에 대해서는, 연합국측에서, 전승국으로 있었다.일본은, 주전장에서 있던 유럽(Europe)에서 떨어져 있었으므로, 손해가 적고(국토는, 전화에 휩쓸리지 않았다), 오히려, 연합국측의 다른 참전국으로부터의 군수품의 주문을 받고 호경기에 솟아, 고도 경제성장을 완수했다(wiki를 참고로 했습니다).전후는, 일본은, 전승국 한편 자본주의 공업국 한편 대국으로서 영국, 프랑스, 이탈리아와 함께, 나라 때연맹(League of nations)(아래의 보충 설명 참조)의 발족시의 상임이사국이 되었습니다.
국제연맹(League of nations):1919년부터 1946년.국제연합(United Nations)의 전신.발족시의 상임이사국은, 영국, 프랑스, 일본, 이탈리아.발족시의 가맹국은, 42개국.가맹국은, 최고로 60개국 가깝게에 이르렀다(1930년대 중반).1946년에 해산해 국제연합(UnitedNations)에 이항(wiki보다).

그렇지만, 일본과(일본보다 훨씬 더 전부터, 강력하게 공업화나 인프라(infrastructure) 정비를 추진하고 있던) 영국, 독일, 미국등과의 차이는, 훨씬 크고, 또, 일본은, 도중 , 제이차 세계대전에 대하고, 각 산업이 괴멸적인 손해를 입은 일등도 있고, (일본은), 1960년대 초 무렵까지(특히 1950년대무렵까지)는, 남 유럽 제국(이탈리아, 스페인, 포르투갈(Portugal), 그리스(Greece)) 등과 함께, 자본주의 공업국(혹은, 자본주의적인 공업국.제이차 세계대전 후는, 서쪽 선진 공업국) 중(안)에서는, 농업을 중심으로 한 제1차 산업의 비율이 비교적 높은 농업국적인 나라이며, 가장 궁핍하게 후진적인 그룹(group)에 속하고 있었습니다.」



1929년의, 「아사마환(asamamaru) 국욕 논쟁」(전회의 투고 참조)을 경계로, 높게 평가되는 것처럼 된, 여객선의 인테리어(내장) 님 식이, 「현대 일본 님 식」입니다.이것은, 제이차 세계대전 이전에 있고, 일본의 건축가중에서, 일본의 대형 여객선의 인테리어(내장)의 설계를, 가장 많이 다룬, 나카무라순평(nakamura jyunpei)과 오사카 상선(Osaka Shosen..현재의 상선 미츠이(Shosen Mitsui).일본의 3 대해운(shipping·marine transportation) 회사 중의 하나)의, 공무 부문의 기사, 화 츠지 하루키(watsuji haruki)(일본의 선박 공학자)의 협력 아래, 일본의 호화 여객선이기 때문에인 만큼 만들어진, 특수한 장식 님 식입니다.「현대 일본 님 식」은, 구체적으로는, 어떤 물건이었을까.1925년의, 4월부터 11월에 걸쳐, 파리(Paris)에서 개최된 「현대 장식미술·산업 미술 국제 박람회」(통칭 아르·데코(Art Deco) 박람회)를, 계기로, 1920년대부터 1930년대에 걸치고, 세계적으로, 아르·데코(Art Deco) 님 식이 유행합니다만, 「현대 일본 님 식」은, 실은, 이, 아르·데코(Art Deco)가, 기본이 되고 있습니다.종래보다, 장식을 줄인, 상쾌한 형태, 단순한 기하학모양의 반복, 그리고 기계화 시대의 도래를 고하는, 유리(glass)와 같은, 신소재의 다용.이렇게 말한, 최첨단의 아르·데코(ArtDeco)를 축으로 자리잡으면서, 일본의 전통 공예나 생각(design·장식)을, 충분하게 덧붙이고 있는 것이, 「현대 일본 님 식」의 특징입니다.동양의 선진국인 일본으로서 유럽의 역사나 문화에 대치하기 위해는, 이미, 서양의 선진 공업국의 흉내에서는 안 되면 나카무라순평(nakamura jyunpei)을 시작으로 하는, 일본의 건축가들은, 생각했을지도 모릅니다.그리고, 일본(및 동양의), 전통적인 문화나 예술로 도전하는 일이, 구미에 대치 할 수 있는, 유일한 수단이다고 생각한 결과, 도착한 것이, 「현대 일본 님 식」이었을까.



사진 이하 3매.이 전람회(exhibition)의 팜플렛(booklet)으로부터...




닛타환(nittamaru.1940년 완성.17,150 총 톤수(GT)).「우수 선박 조성 시설」(1937년)에 의해, 보조금을 얻어 건조된, 일본의 호화 여객선.선체에, 크고 페인트 된(그려진), 일장기(일본기)가 보인다.닛타환(nittamaru) 건조에 임하여, 성대한 피로회가 개최되었다.초대객에는, 민간의 관계자, 신문사, 공무원등에 섞이고, 해군 감독관의 이름이 있다.당시 , 일본에서는, 국책으로서 우수한 선박의 건조가 촉구받고 있었다.






닛타환(nittamaru.1940년 완성)의, 1등 (first class)의 사교실(나카무라순평(nakamura jyunpei) 설계).일본을 대표하는 여객선의 하나로서, 선내는, 매우 호화로웠다.






사진왼쪽.닛타환(nittamaru)·야와타환(yawatamaru)·봄날환(kasugamaru)(야와타환(yawatamaru)·봄날환(kasugamaru)은, 닛타환(nittamaru)의 자매 호화 여객선)의, 신조선 팜플렛(booklet)(1940년).모든 페이지가, 칼라.표지에는, 은지가 이용되는 등 , 화려한 팜플렛(booklet)이 작성되었다.닛타환(nittamaru)·야와타환(yawatamaru), 봄날환(kasugamaru)은, 일본우선(Nippon Yusen) 주식회사가, (1936년에 독일의 Berlin로 개최된 하계 올림픽에 계속해) 1940년에 개최될 것이었다, 도쿄 올림픽(Olympics)(하계 Olympics)( 제2차 세계대전에 의해 중지)의 전후에 맞추는 것처럼, 일본과 유럽을 연결하는 항로로, 새롭게 투입할 계획인 호화 여객선입니다.어느 쪽도, 내장의 디자인(design)·장식은, 「현대 일본 님 식」에서 모을 수 있어 당시 , 세계 최첨단의 기술과 설비가 투입된 호화 여객선으로서 건조되었던(봄날환(kasugamaru)에 대해서는, 건조될 예정이었습니다).닛타환(nittamaru.17,150 총 톤수(GT))와 야와타환(yawatamaru).17150총 톤수(GT))는, 1940년에 완성했습니다.닛타환(nittamaru)과 그 자매선(동형선)의 야와타환(yawatamaru)의, 뛰어난 설비의 예로서 닛타환(nittamaru)과 야와타환(yawatamaru)에는, 개폐식의 천정을 갖춘, 온수의 풀(swimming pool)이 설치되어 선내에는, 난방 설비의 외, 일등(first class)의, 모든 객실, 일등(first class)과 2등 (second class)의 공실(식당(dining room·레스토랑), 사교실등 , 승객의 공용 장소), 이용실(barber shop), 미용실등에는, 냉난방 장치(air conditioner)가 장비되었던(닛타환(nittamaru)과 야와타환(yawatamaru)은, 세계에서 처음으로, 냉난방 설비(airconditioner)를 갖춘, 장거리, 국제 항로의 여객선이었습니다).닛타환(nittamaru), 야와타환(yawatamaru) 모두, 완성했을 때에는, 이미, 유럽에 있고, 제이차 세계대전이 발발하고 있던 일로부터, 닛타환(nittamaru), 야와타환(yawatamaru) 모두, 일본과 북미를 연결하는 항로의, 호화 여객선으로서 취항했습니다.닛타환(nittamaru)은, 1941년 8월까지, 약 1년반, 일본과 북미를 연결하는 항로의 여객선으로서 취역했습니다만, 그 후, 시국의 악화에 의해(덧붙여서, 일본은, 1941년 12월에, 제이차 세계대전에 참전했습니다(사탕 리어·영국등과의 전쟁에 돌입했습니다)), 일본해군에 징용 되어 1942년에 항공 모함에 개조되어 일본해군에 매수되었습니다.야와타환(yawatamaru)은, 약 1년간, 일본과 북미를 연결하는 항로의 여객선으로서 취역한 후, 시국의 악화에 의해, 1941년 6월에, 항공 모함에의 개조 공사에 들어가, 1942년에, 항공 모함으로 개장됨과 동시에, 일본해군에 매수되었습니다.한편, 봄날환(kasugamaru)(닛타환(nittamaru)과 야와타환(yawatamaru)의 자매선(동형선)으로서 일본과 유럽을 연결하는 항로의 호화 여객선으로서 취항할 예정인 배)은, 시국의 악화에 의해, 완성전에, 항공 모함에?`니 개조되어 1941년에 항공 모함으로서 완성했습니다.




사진 이하 3매.이 전람회(exhibition)의 팜플렛(booklet)보다...




사진상.닛타환(nittamaru.1940년 완성.일본의 호화 여객선.17,150 총 톤수(GT))의 1등 (first class)의 계단.미츠비시(mitsubishi) 중공업, 나가사키(nagasaki) 조선소 설계.정면, 송의 도안과 함께, 천정 조명의 디자인(design)도, 일본적이다.
사진하.치치부환(chichibumaru.1930년 완성.17,526톤(GT).일본의 호화 여객선.아사마환(asamamaru)과 함께, 「태평양의 여왕」이라고 칭해졌다)으로 사용되고 있었다고 추측되는, 환형, 담배갑(1930년경).나비들이 나전으로 표현되고 있다.치치부환(chichibumaru)은, 아르·데코(Art Deco)로 설계된 선내에, 일부, 이와 같은, 일본식(동양적)인 생각(design)의, 일상 생활 용품이 이용되고 있었다.





로는 자라 환(Rio de Janeiro maru.1930년 완성.일본의 여객선)의 1등 (first class) 흡연실(smoking room).나카무라순평(nakamura jyunpei) 설계.정면으로, 일본의 낡은 요로이가 보인다.오른손으로 보이는 옻나무의 문은, 일본의 오사카의 옻나무 공예의 공예가, 시마노 삼추(shimano sansyu)에 의한 것.요로이를 끼운, 좌옥의 문도, 시마노 삼추(shimano sansyu)의 작품.재빨리, 일본의 전통 공예를, 인테리어(내장)에 도입하고 있는 것이 안다.





사진 오른쪽, 야와타환(yawatamaru.1940년 완성.일본의 호화 여객선.17,150 총 톤수(GT))의 1등 (first class) 계단.미츠비시(mitsubishi) 중공업, 나가사키(nagasaki) 조선소 설계.





1937년경이 되면, 드디어 일본의 건축가들이 활약하기 시작합니다.일본의 호화 여객선의 1등 (first class) 공실(승객의 공용 장소)(1등 (first class) 공실은, 여객선의 얼굴이라고도 말할 수 있는 장소)의 설계는, 일본내의 저명한 건축가에 의뢰하는 일이, 적격이다고 생각할 수 있어 일본의 저명한 건축가에, 설계가, 의뢰받는 것처럼 됩니다.그리고, 일본의 대형 여객선의 인테리어(내장)에 대해서는, 유럽의, 고전적인 님 식도 아니고, 또, 서양의 선진 공업국의, 현대의(당시의) 유행을, 그대로 도입하므로도 없고, 일본 독자적인, 한편, 현대에 맞은 님 식이라고 하는 것으로, 「현대 일본 님 식」되는 것이 채용되었습니다.이것은, 일본에 있어서의, 여객선의 선내 장식의 제일인자인, 건축가의, 나카무라순평(nakamura jyunpei)과 조선가의 입장으로부터, 일본의 여객선의 인테리어(내장)의 발전을 지지한, 오사카 상선(Osaka Shosen..현재의 상선 미츠이(Shosen Mitsui).일본의 3 대해운(shipping·marine transportation) 회사 중의 하나)의, 공무 부문의 기사, 화 츠지 하루키(watsuji haruki)(선박 공학자)가 협력해 탄생시킨 것으로, 일본의 여객선의 인테리어(내장)의, 서양 의존을 탈각하는, 일본 독자적인 여객선의 인테리어(내장) 님 식이었습니다.현대풍의 인테리어(내장)면서, 일본의 전통 공예가, 여기저기에 아로새겨진, 일본 독자적인, 또, 여객선 독자적인 장식 님 식인, 「현대 일본 님 식」은, 일본의 디자인(design)의, 근대·현대의 역사를 말할 뿐만 아니라 두고, 중요한 장식 님 식의 하나이다고 말할 수 있겠지요.





사진상, 닛타환(nittamaru.1940년 완성.17,150 총 톤수(GT).일본의 호화 여객선.미츠비시(mitsubishi) 중공업, 나가사키(nagasaki) 조선소제)의 1등 (first class) 사교실.나카무라순평(nakamura jyunpei) 설계.정면 오른쪽의, 유리(glass) 찬장에, 육가선(rokkasen.10 세기 처음에 편찬 된, 일본의 단가(waka.일본의 시의 형태의 하나) 집, 고금 단가집(kokin wakashu)에, 유명한 와까(和歌) 작가(poet)로서 이름을 들 수 있던, 9 세기의, 일본의, 6명의 와까(和歌) 작가(poet))를 에칭(etching)으로 그리는 등 , 여기저기에, 일본적인 생각(design·장식)이 흘러넘치고 있습니다.
사진하, 야와타환(yawatamaru.일본의 호화 여객선.1940년 완성.17,150 총 톤수(GT))의, 1등 (first class) 독서실.나카무라순평(nakamurajyunpei) 설계.




국위 발양으로서 파악되고 있던(일본 뿐만이 아니라, 한 때의, 공업국의, 국제 항로 전용의 여객선은, 국가의 위신을 걸쳐 건조된 것으로, 완성 후에는, 국위 발양의 역할을 완수하는 일을 부과된, 매우 특수한 탈 것이었습니다), 일본의 장거리 국제 항로 전용의 여객선의 인테리어(내장) 설계에는, 유명한, 일본의 건축가가 집결 당했습니다.여객선 설계로, 특히 흥미로운 것은, 육상 건축과는 달라, 하나의 여객선이면서, 방 마다, 설계를 담당하는 건축가가 다른 점입니다.한 때의, 여객선은, 1등 (first class)에서 3등 (third class)에 계급을 나눌 수 있고 있었습니다.그리고 계급마다, 객실에 가세하고, 식당(dining room·레스토랑), 사교실(승객이, 느긋하게 쉬거나 교류하거나 하는 방), 흡연실(smoking room), 독서실이라고 한 공실(승객의 공용 장소)이 갖춰져 있었습니다.승객은, 긴 뱃여행에서는, 좁고 어두운, 객실에, 가득차는 것이 아니라, 넓고 쾌적한, 공실(승객의 공용 장소)에서, 대부분의 시간을 보내기 때문에(위해), 여객선의 1등 (firstclass)의 공실(승객의 공용 장소) 부분은, 선내에서, 가장 중요한 공간이라고 생각되고 있었습니다.그 때문에, 집결 당한, 일본의 유명한 건축가들은, 주로, 이것등 , 1등 (first class)의 공실(승객의 공용 장소)의 설계를 담당했습니다.예를 들면, 카시하라환(kashiharamaru.1939년 건조 개시, 1942년 완성 예정.27,000톤(GT)의, 환상의 일본의 호화 여객선.완성하는 무사히, 일본군에 매입할 수 있어 항공 모함, 하야부사매(jyunyou)로 개조된) 등은, 마에카와국남(maekawa kunio), 단게 겐조(tange kenzo)가, 1등 (first class) 풀(swimming pool)을 설계해, 나카무라순평(nakamura jyunpei)이, 1등 (first class) 사교무로, 쿠메권 쿠로우(kume gonkuro)가, 1등 (first class) 독서실을 담당하고 있습니다.그 밖에도, 무라노 도고(murano togo), 마츠다 군페이(matsudagunpei) 등이 설계자로서 더해지는 등 , 다양한, 일본의 저명한 건축가들이 늘어섭니다.왜, 이와 같게, 여객선에 대하고, 방·공간마다, 설계자가 달랐는지요.이것은, 여객선의 규모가, 너무 너무나 커진 일에 기인하고 있습니다.당초, 비교적 규모의 작은 여객선의 경우는, 한 명의 건축가, 혹은, 하나의 건축설계사무소로, 설계를 실시하는 일은 가능했습니다.그러나, 여객선의 규모가 커져, 그 척수도 증가해 오는 것에 따라, 그러면 따라 잡지 못하게 되었습니다.또, 이러한 사정에는, 당시의 시대 배경도, 크게 영향을 주고 있습니다.일본이, 중일 전쟁(1937년에 발발한 일본과 중국의 사이의 전쟁) 이후, 제이차 세계대전으로 향하는 것에 따라, 일본의 건축가들은, 육지에서의 일을 잃어서 갔습니다.그러나, 한편에 있고, 일본의 국책으로서 1937년에는, 「우수 선박 건조 조성 시설」이 실시되어 일본의 여객선의 건조수가 증가해서 갔습니다.그 때문에, 일본의 건축가들은, 스스로, 여객선에 주목 하지 않을 수 없었다고 생각할 수 있습니다.이것은, 제이차 세계대전에 의해서, 한때는, 분단 되었다고 생각되기 십상인, 일본의 건축가들의 일이, 여객선의 인테리어(내장)의 설계라고 하는 일을 통해서, 제이차 세계대전 후 (으)로 연결되고 있던 일도 의미합니다.



사진 이하 3매.이 전람회(exhibition)의 팜플렛(booklet)보다...





아키환(akimaru)의, ABC 각 실의 시계 확성기(요시다56(yoshida isoya) 설계.1941년).아키환(akimaru)은, 「우수 선박 건조 조성 시설」에 의해, 일본과 시애틀(Seattle)을 연결하는 항로의, 일본의 여객선으로서 건조되었습니다만, 일본(와 미국)이, 제이차 세계대전에 참전한 일에 의해, 여객 설비는, 축소되어 그 구조도, 현저하게 간략화된 형태로 완성했습니다.아마, 요시다56(yoshida isoya)이, 설계한 도면은, 실현되지 않았던 가능성이 높습니다.






사진 우상.야와타환(yawatamaru.1940년 완성.일본의 호화 여객선)의 1등 (first class) 흡연실(smoking room).나카무라순평(nakamura jyunpei) 설계.





야와타환(yawatamaru.1940년 완성.일본의 호화 여객선)의 1등 (first class) 카페(cafe) 댄싱 스페이스(dance를 하는 장소).마츠다 군페이(matsuda gunpei) 설계.정면의 벽과 마루의 중앙에, 새빨간 츠바키가 디자인(design)되어 요염한 공간이 태어나고 있습니다.「우수 선박 건조 조성 시설」에 근거하고, 일본의 호화 여객선, 닛타환(nittamaru), 야와타환(yawatamaru), 봄날환(kasugamaru)이, 차례차례로 건조되었던(다만, 봄날환(kasugamaru)에 관해서는, 시국의 악화에 수반해, 완성전에, 항공 모함으로 개조되었습니다).




이하, 당분간, (주로, 제이차 세계대전 이전에 있어서의), 일본의, 저명한 건축가들의, 일본의 여객선의 인테리어(내장)의 설계에 있어서의 활약을, 구체적으로 보고 가고 싶습니다.



나카무라순평(nakamurajyunpei.일본의 건축가.1887 년생.1977년에 죽는다)는, 일본의 여객선의 인테리어(내장)의 설계의 제일인자로, 일본의 건축가들중에서, 제이차 세계대전 이전에 있고, 일본의 대형 여객선의 인테리어(내장)의 설계를, 가장 많이 다루었습니다.또, 「현대 일본 님 식」의 친부모이기도 합니다.오사카에서 태어나 현재의 나고야(nagoya) 공업 대학의 전신의 고등교육 기관을 졸업한 나카무라순평(nakamura jyunpei)은, 1910년, 졸업과 동시에, 증녜나카죠(sone·cyujo) 건축 사무소(제이차 세계대전전에 있어서의, 일본의 유명한 건축설계사무소의 하나.제이차 세계대전전에 있고, 일본내에 있고, 많은, 근대 건축의 빌딩·건물의 설계를 다룬다)에 취직합니다.그 후, 1920년에, 이와사키소미태(iwasaki koyata.근대의 일본에서 최대급의 재벌(근대 일본의, 3 대재벌 또는 4 대재벌)의 하나로 있던, 미츠비시(mitsubishi) 재벌의, 당시의 당주)의 원조로, 프랑스에 건너, 다음 해부터, 프랑스의 에코르·데·보자르(Ecole desBeaux-Arts)로, 배웠습니다.1924년, 관동 대지진(1923년에 도쿄 area를 덮친 거대 지진.도쿄등이, 매우 큰 피해를 받았다)를 기회로, 일본에 귀환시켜진, 나카무라순평(nakamura jyunpei)이, 여객선의 인테리어(내장) 설계에 종사하게 된 계기는, 이와사키소미태(iwasaki koyata)의 소개에 의하는 것이라고 추측됩니다.그 이유는, 이와사키소미태(iwasaki koyata)가, 프랑스 돌아오는 길의, 나카무라순평(nakamura jyunpei)에, 아사마환(asamamaru.1929년 완성.일본(일본우선(Nippon Yusen) 주식회사)의 호화 여객선)의 인테리어(내장)에 대해서, 「너라면, 어떤 설계를 할까」라고 질문했을 때에(덧붙여서, 일본우선(Nippon Yusen) 주식회사는, 미츠비시(mitsubishi) 계열의 회사입니다), 나카무라순평(nakamura jyunpei)은, 「굳이, 일본식에서 한다」라고 대답해, 실제로, 이와사키소미태(iwasaki koyata)를, 매우 감동시켰다고 하는 일화가 남아 있기 때문에(위해)입니다.잠시 후, 미츠비시(mitsubishi), 나가사키(nagasaki) 조선소로부터, 나카무라순평(nakamura jyunpei)아래에, 여객선의 인테리어(내장)의 설계 의뢰가 춤춥니다만 , 이것에는, 아마, 이와사키소미태(iwasakikoyata)가, 나카무라순평(nakamura jyunpei)을, 설계자로서 강하게 추천한 배경이 있었을 것이다라고 생각됩니다.그 후, 처음으로 다룬, 일본과 중국의 청진(Tianjin)을 연결하는 항로의, 일본의 여객선, 장 시로마루(1927년 완성.2,594톤(GT))의 인테리어(내장) 설계로 높은 평가를 얻은 나카무라순평(nakamura jyunpei)은, 약 15년간에, 26척에도 달하는, 일본의 여객선의 인테리어(내장)의 설계를 다루었습니다.당초는, 「현대 일본 님 식」의 완성에는, 아직 멀고, 마루가 경사하고 있는, 천정이 낮은, 튼튼함이 요구된다고 한, 배만이 가능한 제약에, 대단히 고생했습니다.그러나, 다루는 여객선이 증가하는에 따르고, 제약을, 보기 좋게 극복해 갔습니다.그리고, 아르·데코(Art Deco)와 일본의 전통적인 생각(design·장식)을 융합시켜, 「현대 일본 님 식」을 확립시켰습니다.있다 완치인 환(Argentina maru.일본의 여객선.1939년 완성.12,755톤(GT))이나, 환(BRASIL maru.일본의 여객선.1939년 완성.12,752톤(GT))의 인테리어(내장)를 함께 설계한, 라이벌(rival) 이라고도 말할 수 있는, 무라노 도고(murano togo)는, 후에, 나카무라순평(nakamurajyunpei)를, 「배의 디자인(design)은, 명인이었다」라고 되돌아 보고 있습니다.




사진 이하 2매.이 전람회(exhibition)의 팜플렛(booklet)보다...





사진 우상.소매치기 있어 환(Ussuri maru .1932년 완성.6,386톤(GT).일본의 여객선.일본과 대련(Dalian)을 연결하는 항로에서 활약)의 1등 (first class) 흡연실(smoking room).나카무라순평(nakamura jyunpei) 설계.미닫이풍 으로 가장한 유리(glass) 창이, 보다 일본적인 분위기를 연출하고 있다.천정의 새가 그려진 간접조명은, 수고도, 금도 든다고 하는 일로, 조선소에서는 반대되었지만, 나카무라순평(nakamura jyunpei)은, 단념하지 않고, 스스로, 유리(glass) 회사에 발주해, 완성시켰다.
사진 좌하.테루쿠니환(terukunimaru)·야스쿠니환(yasukunimaru)의 1등 (first class) 베란다(veranda).나카무라순평(nakamura jyunpei) 설계.오른손으로 보이는, 옻나무문은, 마쓰다 곤로쿠(matsuda gonroku.일본의 금칠한 그림(makie.일본의 옻나무 공예의 하나)의, 공예가)와의 공동 제작.일본과 유럽을 연결하는 항로등 , 인기 항로를 많이 운항하는 일본우선(Nippon Yusen) 주식회사는, 여객선의 인테리어(내장)에 대하고, 오사카 상선(Osaka Shosen)에 비해 보수적이고, 유럽의 고전 님 식을 채용하는 것이, 상이었습니다.그 님안, 일본우선(NipponYusen) 주식회사가, 「현대 일본 님 식」을 채용한 최초의 여객선이, 테루쿠니환(terukunimaru.일본의 여객선.1930년 완성.11,931톤(GT))과 야스쿠니환(yasukunimaru.일본의 여객선.1930년 완성.11,933톤(GT).테루쿠니환(terukunimaru)의 자매선)입니다.
사진 우하.장 시로마루(일본의 여객선.1927년 완성.2,594톤(GT).일본과 중국의 청진(Tianjin)을 연결하는 항로에서 활약)의 1등 (first class) 계단.나카무라순평(nakamura jyunpei) 설계.나카무라순평(nakamura jyunpei)이 최초로 다룬, 여객선의 인테리어(내장).




카시하라환(kashiharamaru.1939년 건조 개시, 1942년 완성 예정.27,000톤(GT))의 1등 (first class) 사교실(나카무라순평(nakamura jyunpei) 설계)의 칼라 스킴(1940년제작).카시하라환(kashiharamaru)은, 일본우선(Nippon Yusen) 주식회사가, (1936년에 독일의 Berlin로 개최된 하계 올림픽에 계속해) 1940년에 개최될 것이었다, 도쿄 올림픽(Olympics)(하계 Olympics)( 제2차 세계대전에 의해 중지)의 전후에 맞추는 것처럼, 차례차례로 투입할 예정인, 새로운 호화 여객선의 하나로, 일본의 여객선 사상, 최고의 호화 여객선이 될 리가(카시하라환(kashiharamaru)의 2등 (second class)이, 닛타환(nittamaru.일본의 여객선 사상, 가장 호화로운 여객선의 한 개)의 1등 (firstclass)와 같은 수준이 되도록(듯이) 설정된), 취항하는 무사히, 항공 모함, 하야부사매(jyunyou)로 개조되었습니다.정면 무대는, 고대의 아악(gagaku.중국이나 한국에서 전해진 음악을 기본으로 한 일본의 전통적 음악)이 표현되고 있어 전등의, 바로 아래에는, 무악의 면, 하프의 오른쪽에는, 의복을 입은 악사가 보입니다.그 아래, 중앙은, 오키나, 치토세 3번수의 1조로, 중세의 노가쿠(noh·kyogen.일본의 전통적인 연극의 하나)를 표현하고 있습니다.정면의 문부분에는, 벚꽃과 말을 끄는, 남자의 그림.또, 방의 네 귀퉁이에는, 일본의 성(castle)을 그린 릴리프(relief)가 보입니다.이것은, 옻나무 공예의 공예가의, 마쓰다 곤로쿠(matsuda gonroku)와 함께, 서북옻나무에 금박, 은박, 그리고 바위그림도구를 이용해 채색 할 예정이었다고 합니다.완성하고 있으면, 「현대 일본 님 식」을 대표하는 생각(장식)인 것이 틀림없습니다.




쿠메권 쿠로우(kumegonkuro.일본의 건축가.1895 년생.1965년에 죽는다)는, 닛코(nikko.도쿄 근교를 대표하는 관광지·보양지의 하나)의, 카나야(kanaya) 호텔(닛코(nikko)를 대표하는, 고급 리조트(resort) 호텔.1873년 개업)이나, 카루이자와(karuizawa.동경권 주변을 대표하는, 피서 별장지·피서 보양지)의 만평(manpei) 호텔(카루이자와(karuizawa)를 대표하는 고급 리조트(resort) 호텔의 하나.1894년 개업) 등 , 수많은, 건축 설계에 가세해 많은 주택 단지의 설계를 다루는 등 , 사업에도, 재능을 발휘했습니다.또, 일본 방문한, 블르노·타우트(Bruno Taut.독일의, 유명한 건축가·도시계획가.나치스(Nazi Party) 정권하의 독일에 있고, 친소련(Soviet Union) 파의 낙인이 찍혀 일자리와 지위를 잃어, 1933년부터 1936년에 걸치고, 일본에 망명.1936년에, 근대화를 목표로 하고 있던 터키의, 이스탄불(Istanbul) 예술 아카데미(Academy)로부터의 초청에 의해, 교수로서 이스탄불(Istanbul)에 이주.1938년에, 오랜 세월 병을 앓고 있던 기관지 천식을 위해, 동지로 사망)과도, 친교가 있던 일로도 알려져 있습니다.쿠메(kume) 건축 사무소(쿠메 권 쿠로우(kume gonkuro)의 건축설계사무소)가, 여객선의 인테리어(내장)의 설계를 다루는 것처럼 된, 최초의 계기는, 나카무라순평(nakamura jyunpei)으로부터의 소개였습니다.1937년을 지났을 무렵, 벌써, 나카무라순평(nakamura jyunpei)의 여객선의 인테리어(내장) 설계는, 평판을 불러, 나카무라순평(nakamura jyunpei)아래에는, 많은 여객선의 인테리어(내장)의 설계의 일이 춤추고.그리고, 인테리어(내장)의 설계를 의뢰받는 여객선의 규모도, 서서히, 커지고 있었습니다.그 때문에, 모든 설계 의뢰를, 나카무라순평(nakamura jyunpei)이 하청받는 것이 곤란하게 되어 왔습니다.그리고, 일본우선(Nippon Yusen) 주식회사의 유럽 항로의 취항을 예정한 닛타환(nittamaru)·야와타환(yawatamaru)·봄날환(kasugamaru)의 3척의 호화 여객선의 인테리어(내장) 설계를 의뢰받았을 때에는, 각각의 여객선의, 주요한, 공실(승객의 공용 장소)의 일부만, 나카무라순평(nakamura jyunpei)이 설계해, 그 이외에 대해서는, 쿠메(kume) 건축 사무소등 , 인연이 있는, 다른, 건축설계사무소에, 그 일을 할당하는 일로 했습니다.덧붙여서, 쿠메권 쿠로우(kumegonkuro)는, 카시하라환(kashiharamaru)의 1등 (first class)의 독서실의 인테리어(내장) 설계도 하청받고 있습니다.어쨌든, 이와 같은 경위로부터, 하나의 여객선에 많은 건축가가 관련되는 일이 되어, 육상 건축에서는 있을 수 없는, 경연이, 하나의 선내에서, 전개된 일은, 매우 흥미롭다고 말할 수 있겠지요.



사진 이하 3매는, 참고에, 전에, enjoy로 업(upload) 한 사진의 재이용입니다만, 현재의, 만평(manpei) 호텔의 건물의 하나(1936년 완성).쿠메권 쿠로우(kume gonkuro)가 설계.기본적으로, 서양식의 건물입니다만, 디자인(design)은, 호텔의 현지(나가노(nagano) 현의 동부의 중부 지역)의, 전통적인 농가(농민의 집)를 이미지 한 것이 되고 있습니다.만평(manpei) 호텔(1894년 개업)은, 카루이자와(karuizawa.나가노(nagano) 현의 동쪽 단부(동부의 중부)에 위치한다.동경권 주변을 대표하는, 피서 별장지·피서 보양지)를 대표하는 고급 리조트(resort) 호텔의 하나입니다.덧붙여서, 만평(manpei) 호텔이 있다 카루이자와(karuizawa)는, 존·레넌(John Lennon)의 아내인, 일본인, 오노 요코(Ono Yoko·YokoOno.1933 년생)의 부모가, 카루이자와(karuizawa)에 별장을 소유하고 있던 관계로, 존·레넌(John Lennon)이, 비틀즈(The Beatles) 해산 후, 1970년대 중반부터, 죽는 1980년까지, 여름에 가족을 동반하고, 매년과 같이 장기 체재하고 있던, 존·레넌(John Lennon)의, 마음에 드는, 일본의 별장지였습니다.만평(manpei) 호텔은, 존·레넌(John Lennon)이, 카루이자와(karuizawa)에 장기 체제중, 자주(잘) 가족과 숙박하고 있던 호텔입니다.나는, 만평(manpei) 호텔은, 숙박했던 적이 없습니다만, 낡은 건물을 좋아해서, 언젠가는, 숙박하고 싶습니다.덧붙여서, 나의 부모는, 카루이자와(karuizawa)에서, 골프(golf)를 하는 김에, 만평(manpei) 호텔에, 몇 번인가, 숙박한 일이 있어요(조금, 부러운 w).









만평(manpei) 호텔의 카페(cafe).존·레넌(John Lennon)은, 만평(manpei) 호텔에 장기 체제중, 당연, 이 cafe를, 많이 이용하고 있었습니다.만평(manpei) 호텔에는, 카페(cafe) 외에, 프랑스 요리를 중심으로 한 주식당(호텔의 중심적인 레스토랑.main dining room), 중국 요리 레스토랑, 일본 요리 레스토랑, bar가, 있어요.









사진 이하 2매.이 전람회(exhibition)의 팜플렛(booklet)보다...




닛타환(nittamaru.1940년 완성.일본의 호화 여객선)의 1등 (first class) 풀(swimming pool).쿠메권 쿠로우(kume gonkuro) 설계.






카시하라환(kashiharamaru)의 1등 독서실(쿠메권 쿠로우(kume gonkuro) 설계)의 칼라 스킴(1940년제작).마루의 첫 시작 부분에는, 검은 천차모양의 대리석을, 기둥에는, zebra 우드(zebrawood)를 채용할 예정이었다.마루의 융단이나, 정면안쪽의 출입구문에는, 벽면옻나무 패널과 합한, 알밤과 잎의 모양이 그려져 있다.쿠메권 쿠로우(kume gonkuro)는, 사토 타케시조(sato takezo.일본의 화가·옻나무 공예의 공예가)와 공장에 샘플(sample)을 견학하러 가는 등 , 일년에 걸려, 다양하게 설계 준비를 실시했습니다.쿠메권 쿠로우(kume gonkuro)에 있어서, 카시하라환(kashiharamaru) 이 완성되지 않고 , 항공 모함으로 개조되어 버린 일은, 매우 유감임 것이 틀림없습니다.



현대 일본 전통 님 식(전쟁 전 일본의 여객선의 내장) 외 3(바로 아래에서 링크를 붙인 투고)에 계속 된다...

현대 일본 전통 님 식(전쟁 전 일본의 여객선의 내장) 외 3→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_14/view/id/3758722?&sfl=membername&stx=nnemon2



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