伝統文化
私のGWは実は今日が最終日です。別に生産調整で工場のラインがストップして長期休暇になったわけではありません。GWの前半に出勤し、後半をズラらして今日まで休んでいました。休暇の〆に、久しぶりに投稿させていただくことにしました。
実は2ヶ月前ほどに「日本の甲冑の変遷」という3本のスレを上げましたが、その派生スレを投稿するのを忘れていました。
もともとEnjoyで「日本の甲冑の変遷」を投稿した際に、「日韓翻訳掲示板的には河野通有(kouno michiari)奉納の萠黄綾威腰取鎧・大袖付を紹介して欲しいところだが、重文止まりなので河野通信(kouno michinobu)奉納の紺絲威鎧兜・大袖付(国宝)を紹介して欲しい」との要望があって纏めたスレです。これを若干改訂した物を投稿します。
なぜ河野通有が「日韓翻訳掲示板」に相応しい人物なのかは本文を読んでいただければお分かりになるでしょう。では、河野一族の歴史を絵巻物などを基に辿りながら、両方の鎧をご紹介していきます。




河野氏とは、平安時代末期から瀬戸内・伊予¥に勢力を張った豪族であり、室町時代からは代々湯築城(Yuduki- jyou)を本拠としていた。有名な村上水軍とは盟友関係にあったようである。越智氏の流れを汲むとも言われており、河野氏の記した『予¥章記』などでも多く言及されている。
伊予¥の水軍は大三島(Oomishima)の大山祗神社を代々崇敬し、今回紹介する鎧もここに奉納されたものである。



◆源平合戦−河野通信

平安末期「平氏にあらずんば人にあらず」とまで豪語したように、平氏の権勢と驕慢は頂点を極めた。しかし、総帥・平清盛(tairano kiyomori)の死と源頼朝(minamotono yoritomo)の挙兵からわずか5年余りで、一門ことごとく滅亡することになるのである。
平氏はもともと海賊討伐に功があった一族であり、瀬戸内に根強い影響力を持っていた。その「平氏の地盤」ともいえる瀬戸内にあって、河野氏は源氏に与することになった。当時としては大変危険な行為であったが、それは隣接する敵対勢力の新居氏が平氏方に付いたためとも、また長年に亘る平氏の圧迫がその一因であるとも言われている。ともあれ、源氏の本拠たる東国から遠く離れた瀬戸内にあって、急の来援も期待できない状況で源氏に与したことは、よくよくの事情があったと言える。




反平氏として挙兵した河野氏の当主は河野通清(kouno michikiyo)である。緒戦に勝って戦果を上げた河野氏であるが、平氏勢力の真っ只中のこと、早くも苦難に直面することになる。九州の源氏方の勢力を応援するため、息子の通信(michinobu)が九州に遠征した隙を突いて、阿波の田口成由と備後の奴可入道西寂が連合して大軍で河野氏を襲って来たのである。衆寡敵せず、通清は高縄山(takanawasan)で一族とともに討死してしまう。
通清の没後、通信は安芸国沼田郷の母の生家に難を避けていた。従弟の沼田次郎(numata jirou)ととともに平氏と戦うが、その沼田次郎も降人となり、通信の軍勢も500余騎が50騎となり、最後は数騎までになってしまう。それを追ってきた平氏武者・讃岐七郎(saniki shichirou)に、最後の一人になっていた家来がつかまり、殺されそうになっていた。通信は目指す小船までたどりついていたが、家来の危機を見てとるとすぐさま引きかえして讃岐七郎を討ち取り、危ういところで家来を助けると、「我こそは、伊予¥国の住人、河野四郎越智通信なり。生年二十¥一。とかく戦とはこうするものぞ。」と言い放ち、その家来と二人で小船に乗って逃げのびた。画面左上で敵方の武者を討ち取っているのが通信である。


その後、通信は密かに伊予¥に舞い戻り、伊予¥に下向してきた西寂を、奇計を巡らして捕えることに成功、父の墓前でその首を刎ねて伊予¥における勢力を回復する。しかし西寂もさる者、首をはねられる直前に墓に向かって放尿し、その剛胆ぶりを示したという。



一時、西国に落ちていた平氏は勢力を盛り返して屋島(Yashima)から福原(Fukuhara)に戻り、東は生田の森から西は須磨にかけて陣を張り、京を窺う態勢をとった。しかし、世に言う源義経(minamotono yoshitsune)「鵯越の奇襲」で平氏方は再び屋島に追い落とされる。




撤退の乗船を争う平氏の軍兵たち。
「な、ならぬぞ!船に上がるは、身分高き武者のみぞ。雑兵・下人どもはまかりならぬわ!」

憐れ、雑兵達は平氏の武者達に腕を斬り落とされ、あたり一面は血の海となった。




通信は「一の谷の合戦」の前から義経に兵糧を送って援助していたが、阿波の豪族・田口則良(成由の子)が大洲方面に侵入して来たので直ぐには動けず、これを地蔵岳城で迎え撃ち、5日間の激戦の後に撃退した。意図したものではなかったであろうが、これが義経の屋島奇襲を大いに助けたことになる。河野勢討伐に田口勢を動員し、しかも撃破された為、屋島は手薄になってしまったのである。田口勢を撃退した通信は、兵船130隻を率いて屋島合戦(1185)に駆けつける。「平家物語」では、軍船と水夫の不足で足止めをくらっていた義経は、通信の来援で屋島に進撃することが可能¥になったとされている。
合戦は源氏の勝利に終わり、平氏は四国における拠点を失って彦島(Hikoshima:現在の下関市の突端)に拠ることとなる・・・。
中央で弓を拾おうとしているのが義経。有名な「弓流し」の場面である。




源平最後の戦である壇ノ浦(Dannoura)の合戦(1185)に際しても、通信は兵船150隻を率いて参戦した。他にも熊野水軍や渡辺水軍が源氏に与力している。この合戦の後半で、河野氏の宿敵ともいえる田口氏が源氏に寝返り、平氏軍の壊滅を早めたと言われる。通信は、海戦に不慣れな板東武者達に潮の流れを教え、見事勝利に貢献した。
平家は滅びはしたものの、能¥登守・教経(noritsune)に立ち向かえる源氏武者は一人もいなかった。これは、教経に迫られた義経が「八艘飛び」で逃れる場面。



遂に平氏を討滅した源頼朝は、壇ノ浦の戦いの後、鎌倉の由比ヶ浜で戦勝祝いの宴席を設ける。その宴で、通信は第三席の上席に置かれたという。平氏討滅には、水軍の力が欠かせなかったことを高く評価してのことであろう。これを誉れとして、河野氏の家紋は傍折敷に三文字が用いられるようになったという。
なお左側の折敷に縮三文字は、河野氏の氏神である大山祗神社の神紋だが、河野氏の家紋として使われた可能¥性もあるらしい(諸説あり)。






鎌倉幕府成立後は有力御家人として仕え、奥州藤原氏の討伐にも出征し、戦後は守護職こそ与えられなかったものの、その指揮下に32人の御家人が組み込まれるなど強い権限を認められた。伊予¥の守護職には佐々木盛綱(sasaki moritsuna)が補任されていたが、その支配する範囲は通信が支配する中予¥を除いた領域と見られる。鎌倉期を通じて道後平野に守護の勢力が及んでいた形跡は殆ど認められず、この事実は伊予¥国中部では河野氏に実質上の守護権が委ねられていたことを示す。全国的に見て、各地の守護や地頭は東国武士が任じられているので、この時点における河野氏の処遇は破格と言えよう。しかしその絶頂期は短く、間もなく河野氏の運命は一挙に暗転することになるのである。





奥州藤原氏の廟所・中尊寺金色堂。かつての栄華を今に伝える。




奥州藤原氏の平定により新興政治勢力として力を蓄えた鎌倉幕府(東国支配)と、それを快く思わない後鳥羽上皇(gotoba jyoukou)を始めとした朝廷(西国支配)との軋轢は日増しに高まり、将軍継嗣問題を発端として遂に武力衝突に発展する。これが承久の乱(1221)である。
しかし総勢19万の大軍を動員した幕府方に、後鳥羽上皇方は大敗してしまう。この乱の結果、貴族が持っていた膨大な荘園は没収され、兵の動員力を奪われてしまう。以後、朝廷は幕府に服属することになり、江戸幕府の終焉まで続いた「武家政治」を確定することになった大事件となったのである。


後鳥羽上皇:第82代天皇。退位して上皇となる。歌人として一流の文化人である一方、自ら刀を打つなど武にも秀でた異色の貴人であったが、幕府軍が京に入った際には醜態を見せた。



この乱の中、河野氏は北条得宗家への反発に加え地理的な事情もあってか後鳥羽上皇方につく。しかし、翌年に鎌倉幕府方に居城・高縄山城を攻められ降伏。通信は陸奥国江刺に流罪となり、江刺郡の国見山極楽寺で1223年に死去した。戦後の粛清で河野一族はほぼ壊滅状態に陥ることになるが、鎌倉幕府の重鎮・北条時政の娘(政子の妹)を母とした通久(michihisa:通信の息子)の一族だけは幕府方についていたため、河野本家は辛うじて存続を許されることになった。しかし、以後伊予¥国内での影響力が低下することになり、しばらく雌伏の時期を迎えることになるのである。


なお、通信の孫が浄土宗の一派・時宗の開祖である一遍上人である。一遍上人が全国を遊行した様子を描いた絵巻物「一遍上人絵伝」に、弘安3年(1280)に祖父の墓で供養を行う様子が描かれていることが、通信の墓所を発見する手がかりになった。
田圃の真ん中に見える小山が、一遍上人の祖父・通信の墓である。墓標や垣もなにもないただの土の塚に過ぎないが、苦労して訪ねあてた一遍は喜びに溢れて祈りを捧げている。





さて、源平争乱期に一族の存亡をかけて挙兵しながら、最後は配所で客死するという波乱の生涯を送った河野通信が奉納した鎧が、今も大山祗神社に遺されている。それが「紺糸威鎧兜・大袖付(国宝)」である。
黒漆塗平札の鉄札と革札を一枚交ぜにして、八つ組の紺糸をもって縄目に威し、胴は裾広がりで厳星兜を具足した、いわゆる「大荒目の鎧」の典型を成すものである。
草摺や袖の両端の耳糸には啄木組糸が用いられているが、この時代は樫鳥・亀甲打組糸が用いられるのが通例であり、室町末期以降に補修されていることが伺われる。また、威毛と弦走韋には明治38年の補修が加えられているが、総体に原型を良く遺し、藤原期の「式正の鎧」としては第一級の優品である。
形制は通行の鎧と同様であるが、草摺は左右が五段、前後が四段とされ、さらにその裾板が二間に分けられている。





背面の逆板には鍍金猪目透酢漿文座切子頭台の総角付鐶が据えられており、蜻蛉十¥字に組まれた総角と、六段の大袖裏側に取り付けられた水呑緒の連結状況が良く分かる。





兜は鉄錆地十¥一間厳星の円鉢で、一行に七点、真っ向には三行五点づつ星が打たれている。錣(しころ)は杉立形の五段下がりで、四段が吹き返されている。




◆元寇-河野通有
承久の乱で没落した河野氏は、辛うじて伊予¥国石井郷(松山市)の地頭として存続を許されていたが、通久の孫・河野通有(kouno michiari)の代になって、回天の機会が巡ってくることになる。
その発端は、文永11年(1274)10月に蒙古(元)の大軍(軍船900,兵2万5千余)が対馬・壱岐を襲い、ついで北九州沿岸の平戸・能¥戸・鷹島などに襲来した「文永の役」である。この時は、九州の御家人たちが中心となって、大きな犠牲を払いながらも、元軍とその走狗の高麗軍を撃退した。
これは「蒙古襲来絵詞」を描かせた、竹崎季
長(takesaki suenaga)の奮戦の場面。日韓歴史伝統板有数の有名人ですが、うっかり者の馬鹿子はこれを見て「元軍に虐殺される倭軍」とか言って喜びます。






鎌倉幕府は再度元軍の襲来があるものと考え、事実、元の外交使節を斬首していることもあり、動員令を下して九州沿岸の防備を固めさせることとした。
これは、神奈川県藤沢市の常山寺にある「元使五人塚」。関東に護送されて斬首された元の使者・杜世忠らが供養されている。







この動員令で河野通有にも九州への出征が命じられ、通有は失地回復のチャンスと奮い立つ。通有は九州へ旅立つ前に、河野氏の氏神である越智郡大三島の大山祗神社に立ち寄り戦勝祈願をする。このとき、兜を掛けておいたという「兜掛けの楠(枯死)」が今も境内の一角に横たわっている。一族と村上水軍衆などを従えて、勇躍九州に乗り込むのである。






さて、博多湾では元軍の襲来に備え、石築地(いしついじ)と呼ばれる防塁が張り巡らされていた。この防塁は最も頑強な部分で高さ3メートル、幅2メートル程度と見られている。日本の軍勢は、当然の事として石築地の後ろに陣を張るが、通有のみは石築地の前面に陣を張り、決死の覚悟を示して味方を驚かせる。これが「河野の後築地」と呼ばれた故事である。
これは「蒙古襲来絵詞」より、石築地の防衛線の様子である。




こちらは復元整備された石築地。



弘安4年(1281)5月26日、元の東路軍は対馬沖に姿を現わし「弘安の役」が勃発する。
この時、通有は小船2艘に一族を分乗させ、元の大船に漕ぎ寄せるものの、敵の大船から放つ矢にたちまち郎党4〜5人が射伏せられ、伯父・通時(michitoki)も重症を負ってしまう(後に死去)。通有自身も左肩を石弓で強く打たれ、弓を引くことも出来なくなるが、ひるまずに片手に太刀を持ち、倒した帆柱を敵船に立てかけてよじ登り、船中に躍りこんだのである。そして、敵の大将を生け捕りにするという大手柄を立てている。しかし、村上水軍の頭領・村上頼久(murakami yorihisa)などは戦死してしまう。

元の兵船に斬り込む日本の武士達(蒙古襲来絵詞より)




負傷し、伊予¥に帰着した通有の元を、竹崎季長が見舞いに訪れる。季長の来訪と聞いた通有は、ともかくも季長を招じ入れた。右側の烏帽子に赤糸威大鎧を着用し、厳物造太刀を佩いているのが季長で、中央の赤い直垂を着用しているのが通有である。このとき通有は32歳。この直垂は、先祖の通信が元暦元年(1184)の義経の西国発向に従軍したときに着用した重代の宝であるという。ちなみに、通有は烏帽子を着用していないが、通有の家では、参戦して事の決着がつかないうちは烏帽子を被らないという習わしがあるのである。




元の江南軍は、1ヵ月半も遅れてようやく合流地点に到着した。この間、東路軍は日本軍の攻撃に悩まされ、水・食料不足などに陥り、疫病による死者も出たようである。江南軍がようやく到着し、14万余の大軍が博多湾を襲撃しようとした時に暴¥風雨が起こり、元軍は壊滅的な打撃を受け、日本侵略の野望は潰えるのである。



戦功著しい通有は、幕府から河野氏の旧領を復帰させられたばかりでなく、対馬守に任じられた上に肥前と肥後にも領地を与えられた。村上氏は旧領大島・伯方島などを、忽名(kutsuna)氏は興居島を与えられた。凱旋した通有は、大山祗神社に戦利品の兜や弓矢を奉納して戦勝を謝し、さらに東予¥市壬生川の北条郷に長福寺を創建して戦没者の追善供養を行なったのである。この時に建てた供養塔は今も残っている。

長福寺は、今は藤の名所として賑わう。




さて、河野氏中興の祖と言われた通有が奉納した鎧が「萌葱綾威腰取鎧・大袖付(重要文化財)」である。
綾威とは、組糸や韋でなく絹をもって威された鎧のことであり、軍記物語では上級武士の出で立ちとして記されているが、現存する物は少なく、しかもこの鎧のような形象綾威は非常に稀少な例である。組糸や韋に比べて耐久性に劣るものの風雅な出で立ちであり、中世武士の美意識が垣間見える。
小札は鉄・革の一枚交ぜで漆を厚く塗った小振りの平札である。威毛は萌葱綾威であるが、立挙一段と発手は紫韋威である。大袖の前肩に萌葱・茶・紫・紅・黄・白糸で腰取りが象られている。草摺は四間五段下がりである。






◆その後の河野一族
通有の子・通盛(michumori)の代になると、有名な道後温泉のすぐ隣の湯築城を本拠にしている。元弘の変の際には足利尊氏(ashikaga takauji)に裏切られているが、後醍醐天皇(godaigo tennou)と足利尊氏の対立が決定的になると、一貫して足利尊氏に与力し、貞和6年(1350年)2月には伊予¥国守護職に補せられた。以後、守護大名として伊予¥に勢力を張るが、分家の予¥州家との内紛や有力国人の反抗、伊予¥に進出してきた細川氏との抗争などで勢力をまとめきれず、典型的な形で戦国大名への脱皮に失敗する。
戦国時代になると、瀬戸内には毛利氏などの大勢力が台頭し、凋落著しい河野氏は四国の雄・長宗我部氏の軍門に下ることになるが、それも豊臣秀吉の四国平定で完全に所領を召し上げられてしまい、小早川隆景の配下に組み入れられて大名としての命脈を絶たれてしまった。
関ヶ原の合戦時には、河野氏再興を夢見て遺臣団が西軍に与力して決起するものの、肝心の西軍が関ヶ原で敗退した事により簡単に駆逐されてしまい、以降、河野氏は歴史の表¥舞台から完全に姿を消すことになるのである・・・・。

これが、現在の湯築城(道後公園)である。観光名所の道後温泉の目と鼻の先にあり、日本100名城にも選定されている。
瀬戸内に己の野望を賭けた、河野水軍の夢の跡である。





코노수군몽의 자취

나의 GW는 실은 오늘이 마지막 날입니다.별로 생산조정으로 공장의 라인이 스톱 해 장기 휴가가 된 것이 아닙니다.GW의 전반에 출근해, 후반을 즈라등 하고 오늘까지 쉬고 있었습니다.휴가의 것□에, 오랫만에 투고하기로 했습니다.
실은 2개월전정도로「일본의 투구와 갑옷의 변천」이라고 하는 3개의 스레를 올렸습니다만, 그 파생 스레를 투고하는 것을 잊고 있었습니다.
원래 Enjoy로 「일본의 투구와 갑옷의 변천」을 투고했을 때에,「일한번역 게시판적으로는 코노 통유(kouno michiari) 봉납의 맹황능위요취 요로이·대진동을 소개해 주었으면 한 곳이지만, 중요문화재 정지이므로 코노 통신(kouno michinobu) 봉납의 감사위 요로이두·대진동(국보)을 소개해 주었으면 한다」라는 요망이 있어 모은 스레입니다.이것을 약간 개정한 것을 투고합니다.
왜 코노 통유가 「일한번역 게시판」에 적당한 인물인가는 본문을 읽어 주시면 아시겠지요.그럼, 코노 일족의 역사를 그림 두루마리등을 기본으로 더듬으면서, 양쪽 모두의 요로이를 소개해 갑니다.




코노 씨완, 헤이안 시대 말기부터 세토우치·이요에 세력을 친 호족이며, 무로마치 시대부터는 대대탕 축성(Yuduki- jyou)을 본거지로 하고 있었다.유명한 무라카미수군과는 동지 관계에 있던 것 같다.오치씨가 유파를 이어받는다고도 말해지고 있어 코노씨가 적은 「예장기」등에서도 많이 언급되고 있다.
이요의 수군은 오미시마(Oomishima)의오오야마즈미노 가미사를 대대 숭경해, 이번 소개하는 요로이도 여기에 봉납된 것이다.



◆백과 홍 전투-코노 통신

평안 말기「다이라성을 가진 씨족의 총칭에게 아니고인에 있지 않고」와까지 호언 한 것처럼, 다이라성을 가진 씨족의 총칭의 권세와 오만은 정점을 다했다.그러나, 총수·다이라노키요모리(tairano kiyomori)의 죽음과미나모토노요리토모(minamotonoyoritomo)의 군사를 일으킴으로부터 불과 5년남짓으로, 한 집안 죄다 멸망 하게 되는 것이다.
다이라성을 가진 씨족의 총칭은 원래 해적 토벌에 공이 있던 일족이며, 세토우치에 뿌리 깊은 영향력을 가지고 있었다.그「다이라성을 가진 씨족의 총칭의 지반」이라고도 할 수 있는 세토우치에 있고, 코노씨는 겐지에 여 하게 되었다.당시로서는 몹시 위험한 행위였지만, 그것은 인접하는 적대 세력의 니이씨가 다이라성을 가진 씨족의 총칭분을 뒤따랐기 때문에와도, 또 오랜 세월에 긍다이라성을 가진 씨족의 총칭의 압박이 그 한 요인이다고도 말해지고 있다.여하튼, 겐지의 본거지인 동국에서 멀게 멀어진 세토우치에 있고, 급의 와 원도 기대할 수 없는 상황으로 겐지에 여 한 것은, 차근차근의 사정이 있었다고 말할 수 있다.



반다이라성을 가진 씨족의 총칭으로서 군사를 일으킴 한 코노씨의 당주는코노 토루청(kouno michikiyo)이다.서전에 이기고 전과를 올린 코노씨이지만, 다이라성을 가진 씨족의 총칭 세력의 한가운데, 이미 고난에 직면하게 된다.큐슈의 겐지분의 세력을 응원하기 위해(때문에), 아들의통신(michinobu)이 큐슈에 원정 한 틈을 찌르고, 아와의타구치 시게요시와 빈고의노가입도서적이 연합 해 대군에서 코노씨를 덮쳐 왔던 것이다.중과 대항하지 않고, 통청은 다카나와산(takanawasan)에서 일족과 함께 토사 해 버린다.
통청의 사후, 통신은 아키노쿠니 누마타 시골의 어머니의 생가에 난을 피하고 있었다.사촌동생누마타 지로(numata jirou)와와 함께 다이라성을 가진 씨족의 총칭과 싸우지만, 그 누마타 지로도 강인이 되어, 통신의 군세도 500여기가 50기가 되어, 최후는 수기까지 되어 버린다.그것을 쫓아 온 다이라성을 가진 씨족의 총칭 무사·사누키 시치로우(sanikishichirou)에, 마지막 한 명이 되어 있던 하인이 잡혀, 아웃당할 뻔하고 있었다.통신은 목표로 하는 작은 배까지 간신히 도착하고 있었지만, 하인의 위기를 간파하자마자님교환해 사누키 시치로우를 죽여, 위험한 곳으로 하인을 도우면,「나야말로는, 이요국의 거주자, 코노 시로 오치 통신이든지.생년 201.대체로 싸움과는 향 하는 것.」(이)라고 말해 발해, 그 하인과 둘이서 작은 배를 타 도망쳐 뻗었다.화면 좌상으로 적측의 무사를 죽이고 있는 것이 통신이다.

그 후, 통신은 은밀하게 이요에 되돌아와, 이요에 하향 해 온 서적을, 기계를 순등 해 잡는 것에 성공, 아버지의 묘전에서 그 목을 문이군요라고 이요에 있어서의 세력을 회복한다.그러나 서적도 여간내기, 목을 튕겨지기 직전에 무덤으로 향해 방뇨해, 그 강담함을 나타냈다고 한다.



한때, 서쪽 지방으로 떨어지고 있던 다이라성을 가진 씨족의 총칭은 세력을 만회해 야시마(Yashima)에서 후쿠하라(Fukuhara)로 돌아와, 동쪽은 이쿠타의 숲에서 서쪽은 스마에 걸치고 진을 쳐, 경을 엿보는 태세를 취했다.그러나,세상에 말하는 미나모토노 요시츠네(minamotono yoshitsune)「히요도리고에의 기습」으로 다이라성을 가진 씨족의 총칭분은 다시 야시마에 쫓아버려진다.



철퇴의 승선을 싸우는 다이라성을 가진 씨족의 총칭의 병사들.
「,!배에 오르고는, 신분 높은 쪽 무사만.잡병·하인빚인들 원!」

련, 잡병들은 다이라성을 가진 씨족의 총칭의 무사들에게 팔을 베어 떨어져 근처 일면은 피바다가 되었다.




통신은 「이치노타니의 전투」의 전부터 의경에 자금을 보내 원조하고 있었지만, 아와의 호족·타구치칙양(시게요시의 아이)이 오스 방면으로 침입해 왔으므로 곧바로는 움직이지 못하고, 이것을 지조다케성에서 맞아 싸워, 5일간의 격전의 뒤에 격퇴했다.의도한 것은 아니었다이든지, 이것이 의경의 야시마 기습을 많이 도운 것이 된다.코노세 토벌에 타구치세를 동원해, 게다가 격파된 때문,야시마는 허술하게 되어 버린 것인다.타구치세를 격퇴한 통신은, 병선 130척을 인솔해 야시마 전투(1185)에 달려 든다.「헤이케 이야기」에서는, 군선과 뱃사람의 부족하고 금족을 창고는 있던 의경은, 통신의 와 원으로 야시마에 진격하는 것이 가능이 되었다고 여겨지고 있다.
전투는 겐지의 승리에 끝나, 다이라성을 가진 씨족의 총칭은 시코쿠에 있어서의 거점을 잃어 히코도(Hikoshima:현재의 시모노세키시의 쑥 내민 끝)에 거일이 된다···.
중앙에서 활을 주우려 하고 있는 것이 의경.유명한「활흘려 보내기」의 장면이다.




백과 홍 마지막 싸움인단노우라(Dannoura)의 전투(1185)에 임하여도, 통신은 병선 150척을 인솔해 참전했다.그 밖에도 쿠마노수군이나 와타나베수군이 겐지에 가세 하고 있다.이 전투의 후반으로, 코노씨의 숙적이라고도 할 수 있는 타구치씨가 겐지에 뒤척임, 다이라성을 가진 씨족의 총칭군의 괴멸을 앞당겼다고 말해진다.통신은, 해전에 낯선 반도 무사들에게 조수의 흐름을 가르쳐 훌륭히 승리에 공헌했다.
헤이케는 멸망해 우수리의 것의,능노보루 마모루·교경(noritsune)으로 향할 수 있는 겐지 무사는 한 명도 없었다.이것은, 교경에 재촉당한 의경이「8소나는 일」로 피하는 장면.



결국 다이라성을 가진 씨족의 총칭을 토멸한 미나모토노요리토모는, 단노우라의 싸움의 뒤, 카마쿠라의 유이가하마에서 전승 축하의 연석을 마련한다.그 연회에서, 통신은 제3석의 상석에 놓여졌다고 한다.다이라성을 가진 씨족의 총칭 토멸에는, 수군의 힘을 빠뜨릴 수 없었던 것을 높게 평가한 것이자.이것을 명예로서 코노씨의 가문은옆오리시키에 서푼자가 이용되게 되었다고 한다.
또한 좌측의오리시키에 축서푼자는, 코노씨의 씨족신인 오오야마즈미노 가미사의 신문이지만, 코노씨의 가문으로서 사용된 가능성도 있는 것 같다(제설 있어).





가마쿠라막부 성립후는 유력 댁인으로서 시중들어오우슈 후지와라씨의 토벌에도 출정 해, 전후는 수호직이야말로 주어지지 않기는 했지만, 그 지휘하에 32명의 댁인이 짜넣어지는 등 강한 권한을 인정받았다.이요의 수호직에는사사키성강(sasaki moritsuna)이 보임 되고 있었지만, 그 지배하는 범위는 통신이 지배하는 중 예를 제외한 영역이라고 볼 수 있다.카마쿠라기를 통해서 길우시로다이치들에 수호의 세력이 미치고 있던 형적은 대부분 인정되지 않고, 이 사실은 이요국중부에서는 코노씨에게 실질상의 수호권을 맡길 수 있고 있던 것을 나타내 보인다.전국적으로 보고, 각지의 수호나 생머리는 동국 무사임라고 있으므로, 이 시점에 있어서의 코노씨의 처우는 파격이라고 말할 수 있자.그러나 그 절정기는 짧고, 머지 않아 코노씨의 운명은 한꺼번에 암전하게 되는 것이다.





오우슈 후지와라씨의 묘소·츄우손사 금색당.한 때의 영화를 곧 전한다.




오우슈 후지와라씨의 평정에 의해 신흥 정치 세력으로서 츠토무를 기른 가마쿠라막부(동국 지배)와 그것을 기분 좋다고 생각하지 않는후 토바 상황(gotoba jyoukou)을 시작으로 한 조정(서쪽 지방 지배)과의 알력은 나날이 높아져, 장군 후계자 문제를 발단으로서 결국 무력 충돌로 발전한다.이것이죠큐의 란(1221)이다.
그러나 총원 19만의 대군을 동원한 막부분에게, 후 토바 상황분은 대패해 버린다.이 란의 결과, 귀족이 가지고 있던 방대한 장원은 몰수되어 군사의 동원력을 빼앗겨 버린다.이후, 조정은 막부에 복속하게 되어, 에도 막부의 임종까지 계속 된「무가 정치」를 확정하게 된 대사건이 되었던 것이다.

후 토바 상황:제82대 천황.퇴위 해 상황이 된다.와까(和歌) 작가로서 일류의 문화인인 한편, 스스로 칼을 치는 등 무에도 뛰어난 이색의 귀인이었지만, 막부군이 경에 들어갔을 때에는 추태를 보였다.



이 란나카, 코노씨는키타죠이득 종가에게의 반발에 가세해 지리적인 사정도 있어인가 후 토바 상황분에게 사사한다.그러나, 다음 해에 가마쿠라막부분에게 거성·다카나와 산성을 공격받아 항복.통신은 무쓰노쿠니 에사시에 유죄가 되어, 에사시군의 구니미산 고쿠라쿠지에서 1223년에 사망했다.전후의 숙청으로 코노 일족은 거의 괴멸 상태에 빠지게 되지만, 가마쿠라막부의 중진·호조 도키마사의 딸(아가씨)(마사코의 여동생)를 어머니로 한통구(michihisa:통신의 아들)의 일족만은 막부분에게 붙어 있었기 때문에, 코노 본가는 가까스로 존속이 용서되게 되었다.그러나, 이후 이요국내에서의 영향력이 저하하게 되어, 당분간 자복의 시기를 맞이하게 되는 것이다.


덧붙여 통신의 손자가 정토종의 일파·토키무네의 개조이다한결같은 고승이다.한결같은 고승이 전국을 유행 한 모습을 그린 그림 두루마리「한결같은 고승회전」에, 홍안 3년(1280)에 조부의 무덤에서 공양을 실시하는 모습이 그려져 있는 것이, 통신의 묘소를 발견하는 단서가 되었다.
논의 한가운데로 보이는 코야마가, 한결같은 고승의 조부·통신의 무덤이다.묘비나 원도 아무것도 없는 단순한 흙의 총에 지나지 않지만, 고생해 방문해 댄 한결같은은 기쁨에 흘러넘치고 기원을 바치고 있다.

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그런데, 백과 홍 쟁란기에 일족의 존망을 걸쳐 군사를 일으킴 하면서, 최후는 배소에서 객사 한다고 하는 파란의 생애를 보낸 코노 통신이 봉납한 요로이가, 지금도 오오야마즈미노 가미사에 남겨지고 있다.그것이「감사위 요로이두·대진동(국보)」이다.
흑 옻나무도평찰의 철찰과 혁찰을 한 장 섞어로 하고, 여덟조의 감사를 가지고 새끼줄에 위협해, 몸통은 옷자락 확대로 엄성두를 도구 한, 이른바「오아라눈의 요로이」의 전형을 이루는 것이다.
초접이나 소매의 양단의 이사에는 타쿠보쿠조사가 이용되고 있지만, 이 시대는 견조·귀갑타조사가 이용되는 것이 통례이며, 무로마치 말기 이후에 보수되고 있는 것이 물어진다.또, 위모와 현주위에는 메이지 38년의 보수가 더해지고 있지만, 총체에 원형을 잘 남겨, 후지와라기의「식 정의 요로이」로서는 제일급의 우수품이다.
형제는 통행의 요로이와 같지만, 초접은 좌우가 5단, 전후가 4단으로 여겨져 한층 더 그 옷자락판이 2간으로 나눌 수 있고 있다.




배면의 역판에는 도금저목투초장문좌 세츠코두대의 총각부환을 자리잡을 수 있고 있어 잠자리10자에 짜여진 총각과 육단의 대소매 안감 측에 장착된 미즈노미끈의 연결 상황을 잘 안다.



두는 철장지10일실엄성의 엔 하치에서, 일행에 7점, 정면에는 3개 은행5점씩 별이 맞고 있다.드림(해 무렵)은 스기다테형의 5 단시타 꾸중으로, 4단이 되살려지고 있다.



◆원구-코노 통유
죠큐의 란으로 몰락한 코노씨는, 가까스로 이요국 이시이 시골(마츠야마시)의 생머리로서 존속이 용서되고 있었지만, 통구의 손자·코노 통유(kouno michiari)의 대가 되고, 회천의 기회가 찾아오게 된다.
그 발단은, 문영 11년(1274) 10월에 몽고(원)의 대군(군선 900, 군사 2만 5천여)이 대마도·이키를 덮쳐, 그 다음에 키타큐슈 연안의 히라도·능호·타카시마 등에 내습한「문장 긴 역 」이다.이 때는, 큐슈의 댁사람들이 중심이 되고, 큰 희생을 지불하면서도, 원군과 그 앞잡이 고려군을 격퇴했다.
이것은 「몽고내습 두루마리그림」을 그리게 한,타케자키계
장(takesakisuenaga)의 분전의 장면.일한 역사 전통판 유수한 유명인입니다만, 멍청이의 바보자는 이것을 보고 「원군에 학살되는 야마토군」이라고말해 기쁨.





가마쿠라막부는 재차원군의 내습이 있는 것이라고 생각해 사실, 원의 외교 사절을 참수 하고 있기도 해, 동원령을 내려 큐슈 연안의 방비를 굳히게 하는 것으로 했다.
이것은, 카나가와현 후지사와시의 츠네야마절에 있는「원사다섯 명총」.관동에 호송되어 참수 된 전의 사자·두세 타다시등이 공양되고 있다.





이 동원령으로 코노 통유에도 큐슈에의 출정이 명할 수 있어 통유는 실지회복의 찬스와 분발한다.통유는 큐슈에 여행을 떠나기 전에, 코노씨의 씨족신인 오치군 오미시마의오오야마즈미노 가미사에 들러 전승 기원을 한다.이 때, 두를 걸어 두었다고 하는「두하는 도중의 남(고사)」가 지금도 경내의 일각에 가로 놓여 있다.일족과 무라카미수군중등을 따르게 하고, 용약 큐슈에 탑승하는 것이다.






그런데, 하카타만에서는 원군의 내습에 대비해돌츠키지(있어 해 무심코 글자)로 불리는 방루가 둘러지고 있었다.이 방루는 가장 완강한 부분에서 높이 3미터, 폭 2미터 정도라고 보여지고 있다.일본의 군세는, 당연한일로서 돌츠키지의 뒤로 진을 치지만, 통유만은 돌츠키지의 전면에 진을 쳐, 결사의 각오를 나타내고 아군을 놀래킨다.이것이「코노의 뒤츠키지」로 불린 고사이다.
이것은 「몽고내습 두루마리그림」보다, 돌츠키지의 방위선의 모습이다.




이쪽은 복원 정비된 돌츠키지.



홍안 4년(1281) 5월 26일, 원의 동국군은 대마도바다에 모습을 나타내「홍안의 역 」이 발발한다.
이 때, 통유는 작은 배 2소에 일족을 분승시켜,원의 큰 배에 저어 대지만, 적의 큰 배로부터 발하는 화살에 금새 가신 4~5명이 쏘아 맞혀 덮을 수 있어 백부·통시(michitoki)도 중증을 져 버린다( 후에 사망).통유 자신도 왼쪽 어깨를 석궁으로 강하게 맞고 활을 당기는 것도 할 수 없게 되지만, 낮 하지 않고서 한 손에 칼을 가져, 넘어뜨린 돛대를 적선에 기대어 세워놓아 4시올라, 선중에 뛰어 들었던 것이다.그리고, 적의 대장을 생포로 한다고 하는 대기업무늬를 세우고 있다.그러나, 무라카미수군의 두령·무라카미 요리히사(murakami yorihisa)등은 전사해 버린다.

원래의 병선에 베는 일본의 무사들(몽고내습 두루마리그림보다)




부상해, 이요에 귀착한 통유의 원을, 다케자키스에나카가 문병에 방문한다.계장의 내방이라고 (들)물은 통유는, 여하튼 계장을 맞아 들였다.우측의 까마귀 모자에 적사위대요로이를 착용해, 엄물조칼을 패 있는 것이 계장으로, 중앙의 붉은 곧 수를 착용하고 있는 것이 통유이다.이 때 통유는 32세.이 곧 수는, 선조의 통신이 겐랴쿠 원년(1184)의 의경의 서쪽 지방 발향에 종군 했을 때에 착용한 선조 대대의 보물이다고 한다.덧붙여서, 통유는 까마귀 모자를 착용하고 있지 않지만, 통유의 집에서는, 참전해 일의 결착이 붙기 전에는 까마귀 모자를 쓰지 않는다고 하는 습관이 있는 것이다.




원래의 강남군은, 1개월반도 늦어 간신히 합류 지점에 도착했다.이전, 동국군은 일본군의 공격에 골치를 썩여 물·식료 부족 등에 빠져, 역병에 의한 사망자도 나온 것 같다.강남군이 간신히 도착해, 14 일만여의 대군이 하카타만을 습격하려고 했을 때에 폭풍우가 일어나, 원군은 괴멸적인 타격을 받아 일본 침략의 야망은 무너지는 것이다.



전공 현저한 통유는, 막부로부터 코노씨의 옛 영토를 복귀 당했던 바로 직후가 아니고,대마도수임 상에 히젠과 히고에도 영지가 주어졌다.무라카미씨는 옛 영토 오오시마·하카타시마등을, 홀명(kutsuna) 씨는 고고시마가 주어졌다.개선 한 통유는, 오오야마즈미노 가미사에 전리품의 두나 활과 화살을 봉납하고 전승을 사례해, 한층 더 토우요시 뉴우가와의 키타죠시골에 쵸후쿠지를 창건 해 전몰자의 추선공양을 행했던 것이다.이 때에 세운 공양탑은 지금도 남아 있다.

쵸후쿠지는, 지금은 등나무의 명소로서 활기찬다.
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그런데, 코노씨 중흥의 선조라고 해진 통유가 봉납한 요로이가「모에총능위요취 요로이·대진동(중요문화재)」이다.
능위란, 조사나 위가 아니고 비단을 가지고 위협해진 요로이여, 전쟁 소설에서는 상급 무사의 복장으로서 기록되고 있지만, 현존 하는 것은 적고, 게다가 이 요로이와 같은 형상능위는 매우 희소인 예이다.조사나 위에 비해 내구성에 뒤떨어지는 것의 풍아인 복장이며, 중세 무사의 미의식이 엿볼 수 있다.
소지폐는 철·혁의 한 장 섞어로 옻나무를 두껍게 바른 작은 흔들림의 평찰이다.위모는 모에총능위이지만, 립 거 한층 발수는 자위위이다.대소매의 전견에 모에총·다·자·홍·황·백사로 허리 잡기가 코끼리라고 있다.초접은 4간5 단시타 꾸중이다.






◆그 후의 코노 일족
통유의 자·통성(michumori)의 대가 되면, 유명한 도우고 온천의 바로 근처의 뜨거운 물 축성을 본거지로 하고 있다.겐코의 변 시에는아시카가 다카우지(ashikaga takauji)에 배신당하고 있지만,후 다이고 천황(godaigo tennou)과 아시카가 다카우지의 대립이 결정적으로 되면, 일관해서 아시카가 다카우지에 가세 해, 죠와 6년(1350년) 2월에는 이요국 수호직에 보 다투어졌다.이후, 슈고로서 봉건영주가 된 사람으로서 이요에 세력을 치지만, 분가의 예주가와의 내분이나 유력 국민의 반항, 이요에 진출해 온호소카와씨와의 항쟁등에서 세력을 정리하지 않고, 전형적인 형태로 전국 다이묘에게의 탈피에 실패한다.
전국시대가 되면, 세토우치에는모리씨등의 여럿력이 대두해, 조락 현저한 코노씨는 시코쿠의 유우·초소카베씨의 군문에 내리게 되지만, 그것도토요토미 히데요시의 시코쿠 평정으로 완전하게 영지를 몰수할 수 있어 버려,고바야카와 다카카게의 부하가 집어 넣을 수 있어 오나로서의 명맥을 끊겨 버렸다.
세키가하라의 전투시에는, 코노씨 재흥을 꿈꾸어 선대의 신하단이 서군에 가세 해 궐기하지만, 중요한 서군이 세키가하라에서 패퇴한 일에 의해 간단하게 구축되어 버려, 이후, 코노씨는 역사의 겉(표)무대로부터 완전하게 자취을 감추게 되는 것이다····.

이것이, 현재의 뜨거운 물 축성(도우고코우엔)이다.관광 명소의 도우고 온천의 엎드리면 코 닿을 데에 있어, 일본 100 유명한 성에도 선정되고 있다.
세토우치에 당신의 야망을 건, 코노수군의 꿈의 자취이다.






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