伝統文化

皆さん今日は。

フォト伝統板を絨毯爆撃していた某IDが出現しなくなったようなので、久しぶりに投稿してみます。

と言っても、いつもの通りEnjoyで投稿したものの焼き直しですのでご了承下さい。

甲冑の専門用語は翻訳が難しく、また本文中で出てくる昔の人名も同様です。ですので、人名に関しては着色しておきます。

◆弥生時代(〜AD3中頃):木製甲
有史以前、弥生時代の人々が身につけていた甲とはどのようものであったのか?静岡県の伊場遺跡や、福岡県の雀居遺跡、岡山県の南方遺跡などからは、弥生時代の木製甲が発掘されている。
これらは主として上半身を防御するもので、木片を何枚か韋紐で綴じて構¥成されていたらしい。甲には朱と黒の漆が用いられていたことが判明している。木板のほかにも、籐で編んだ甲も使用されていたと思われるが、材質が腐食しやすいことから現在のところ発掘例はない。
これらの甲は古墳時代に受け継がれていき、やがて短甲へと発展していく。

 

 

◆古墳時代(AD3中頃〜AD7末):短甲と衝角付冑
四世紀に入り大和朝廷という強力な政権が興隆してくると、戦闘の規模も拡大し、武装具の発展が促された。
甲の材料にも鉄が用いられるようになり、長方形や三角形の板を韋紐で綴じて漆を塗って製作されるようになる。さらに五世紀には鋲留技法が取り入れられ、重装備の「短甲」が完成されていくのである。

 

●江田舟山古墳発掘の短甲
長方形の鉄板を鋲留して構¥成されている。右側部分に蝶番が付いており、胴を開閉して着脱する。

 

 

●短甲復元模型
短甲は黒姫山古墳、楯は和泉黄金塚古墳から出土したものを参考に原寸復元したものである。衝角付冑・頸甲・肩甲・短甲・草摺り・籠手・臑当てを用いた完全装備である。肩甲や草摺りを綴じている紐は鹿韋である。弓は黒漆塗り。楯は木製で、黒漆と朱漆で塗り分けられている。

 

 

●鉄楯
この時代の楯は木製が基本であるが、ごく特殊な例として鉄製の楯も見られる。
古代大和政権の武器庫であり神宝庫でもあった石上神宮には、2枚の鉄楯が伝世している。多くの小さな鉄板を継ぎ合わせ、鋲で止めたものである。神宮では信仰上の日の御盾(ひのみたて)とされているが、同時に古代の武器資料としても貴重な存在である。

この後、日本では両手で操作する武器が主流となり、陣に用いられる置楯はともかくとして、手持ち楯は完全に廃れていく。

 

 

◆古墳時代:挂甲と眉庇付冑
五世紀中葉になると、日本列島と朝鮮半島や大陸との交流が活発になる。この時期には多くの渡来人が日本に移住して来ており、また日本も朝鮮半島にしばしば出兵している。そのような(軍事的にも)交流を重ねる内、大陸式の挂甲が日本に伝来することとなる。
挂甲は、奈良時代まで用いられた甲の形式で、小札と呼ばれる小さな板を綴じ合わせて作られている。小札は鉄や革で作られており、胴体全体を覆うコートのような胴丸式挂甲と、エプロンのように身体の前後を防御する裲襠式(うちかけしき)挂甲がある。裲襠式挂甲では、後の大鎧のように左右の隙間は脇楯状の部品を連結して防御していたようである。
これまでの短甲と異なり、甲自体にある程度の屈倒性があることから身体に馴染み、比較的動作が制約されないことから、以後の鎧は挂甲を基本に発展していくことになる。胴丸式挂甲は後の胴丸へ、裲襠式挂甲は後の大鎧へと発展していったと考えられる。
こちらは、胴丸式挂甲の復元模型である。

 

 

また、関西大学博物館には、胴丸式挂甲・裲襠式挂甲双方の復元品が展示されている。

 

 

さて、挂甲は小札を韋紐で綴じて製作しているため、古墳などの副葬品では韋紐が腐食し、小札がバラバラになってしまって、甲の形を保ったままの出土例はない。しかしその詳細は「武装埴輪」により確認できる。
衝角付冑を被り、肩甲・頸甲・草摺り・佩楯・臑当まで全て挂甲で覆った、胴丸式挂甲を着用した武人の姿が描写されている。

 

失礼・・・間違えました。
こちらが武装埴輪です。

 

 

 

●眉庇付冑
実用重視の衝角付冑と比べて、装飾重視の冑である。眉庇付冑はほとんどが鉄製だが本品は金銅製である。上下57枚の長方形の小札を矧ぎ合わせて鋲留めし、胴巻板には魚や鳥、動物の文様が毛彫されている。豪族用らしい装飾が施された遺物である。

 

 

◆奈良時代(710〜794):綿襖甲
挂甲は奈良時代まで実用に供されてきたが、小札を一枚一枚綴り合わせて製作するため大変手間がかかり、大量生産には難があった。このため、一般の兵士には綿襖甲と呼ばれる唐風の甲冑が用いられていた。これはコート状の布に革や鉄の小さな板を綴じ付けたもので防寒にも優れていた。ただし、家地の布は耐久性が低く、その後の度重なる戦乱で失われたため遺物は現存していない。また、大和朝廷のあった奈良盆地はそれほど寒気の厳しい土地柄でもなく、日本は一般に温潤な気候であることから、綿襖甲は廃れていった。
続日本紀の天平宝字6年丁未の記事によると、「東海、南海、西海道の節渡使の料として綿襖甲各2万2百50具を造り、全て唐の新様式と同様の5行の色に象る。皆甲板の形を碧(みどり)地には朱。赤地には黄。黄地には朱。白地には黒。黒地には朱で描いて4千50具ごとに一つの色とした」と書かれている。即ち綿襖甲は布製で、中に麻や楮(こうぞ)等を入れ、外側は甲板の画が描いてあるだけのものもあったようだ。
良くここで目にする李氏朝鮮の鎧も、この綿襖甲の系統である。

 

 

◆平安時代(794〜1185):大鎧と厳星兜
平安時代になると源氏と平氏に代表¥される「武士団」が誕生する。いきおい戦闘方法にも変化が生じ、それに順応した純日本的な甲冑が誕生していく。
平安時代の合戦では、騎馬で弓を射る騎射戦が主流であった。武将がお互いに名乗りを挙げて騎馬で馳せ違いざまに弓を射るのである。このような戦闘様式から実践的に生み出されていったのが大鎧厳星兜である。
大鎧には、脇楯・栴檀板・鳩尾板・大袖が付属しており、馬上で弓を引く際に弦が小札に引っかからないように、胴の前面に弦走韋が張られている。厳星兜は衝角付冑から発展してきたもので、いかつい大きな星(鋲)を打った兜である。大鎧一式を「式正の鎧」とも称する。以下に、平安時代の大鎧をいつくか紹介しておく。
かつてEnjoy青組で、400年ほど昔の鎧の保存状態の良さを見て、「プラスチック捏造」とか泣き叫んでいた愚者が居りましたが、以下に紹介する鎧は800年ほど昔の鎧ですので火病はご遠慮願います。


●赤韋威鎧兜・大袖付(岡山県立博物館蔵・国宝)
備中の丸山城主であった赤木家に伝来した大鎧である。同家は元々信濃国に住したが、嘉元2年(1304)に鎌倉幕府の下知により備中に移住したという。この鎧は、鎌倉時代に一部補修と改装が行われているが、小札が縦取威であることや大袖が六段になっている点、僅かに残っている弦走韋の文様などに大鎧の初期の様式が見て取れる。

 

 

●小桜韋威鎧兜・大袖付:楯無(山梨 菅田天神社蔵・国宝)
世に言う「源氏八領」に数えられる一領である。「源氏八領」とは、源氏に伝わる源太産衣・八龍・薄金・膝丸・月数・日数・楯無・沢瀉と呼ばれる八領の大鎧である。この鎧は、楯が不要なほど強固な鎧とのことから「楯無」と号されたもので、現存唯一の「源氏八領」とされている。

甲斐源氏の始祖“新羅三郎”こと源義光以来、武田家の重宝として伝えられて来た鎧で、信玄のとき甲府の鬼門鎮守のため菅田天神社に納められた。武田家滅亡の折に、家臣が向嶽寺の大杉の根元に埋めたものを家康が掘り出して再び菅田天神社に納めている。その後盗難にあい、大破したのを寛政4年(1792)江戸において復旧補修、さらに文政10年(1826)にも補修されている事が威毛の裏に墨書されている。数度の補修で当初の趣が失われているところも多いが、袖の花咲形冠板などは『伴大納言絵巻』に描かれているほかは類例がなく、兜鉢の様相などと合わせて、概ね所伝の時代の特徴を示していると言えよう。

 

 

●樫鳥糸威鎧 脇楯・大袖付:薄金(愛知 猿投神社蔵・重要文化財)
猿投神社の古文書によると『後三年役合戦絵巻』の詞書に伴次郎助兼という者あり、際なき兵なり。常に軍の先頭に立つ。将軍(源義家)これを感じて薄金という鎧を着せたり。』と書かれている「薄金」であると伝えているが、伝来が定かではないため確証はない。真に「薄金」であれば、「楯無」のほかにもう一領「源氏八領」が伝存していたことになる。
助兼は後三年役で兜を打ち落とされて紛失してしまうが、この鎧も伝承にあるとおり兜が失われている。また三つ目平札を揺ぎに組み、幅の狭い厚手の六つ組糸で威した手法や、金具廻りの花先の形状などから見ても時代は合致している。幾星霜を経て、威の韋紐は燻べたようにくすんでいるが、かつてはもっと鮮やかで「薄金」と呼ぶに相応しい色合いだったのかもしれない。脇楯と大袖はそれぞれ仕立てを異にするが、さほど年代の隔たりはないものと思われる。
付属の唐櫃の蓋裏に「神の物也、人の物入不可、長禄¥二年二月吉日」の墨書があり、室町時代の中期には奉納されていたことが分かる。

 

 

●小桜韋威黄返鎧兜・大袖付(広島 厳島神社蔵・国宝)
保元の乱(1156)で常人離れした武勇を誇った“鎮西八郎”こと源為朝所用の鎧である。脇楯と鳩尾板に加え栴檀板の一部が欠失しているが、当初の趣を良く伝える優品である。小札は黒漆塗りで大振りのものであり、全体に豪壮の風がある。古記にいう「大荒目の鎧(幅の広い札を用い、太い糸で糸目を荒く綴った鎧)」の名に相応しく、絵韋の文様や金具廻りの形状、あるいは文金物(かざりかなもの)の手法に古様の特徴が良く顕れている。

 

 

●赤糸威鎧兜・大袖付(東京 御嶽神社・国宝)
鎌倉幕府創業の功臣で“坂東武士の鑑”と評された畠山重忠が奉納したと伝えられる鎧である。この時代に見られる裾広がりの形姿は厳星兜と併せ雄大豪壮の趣を呈している。茜染の威毛は現存鎧中最も幅広くかつ肉厚の十¥二手組糸をもって威してあり、先の「小桜韋威黄返鎧兜」とともに「大荒目の鎧」の典型を成すものである。

 

 

◆平安時代:胴丸
騎馬武者専用の大鎧に対して、徒で戦う一般兵士用に生み出されたのが胴丸である。胴丸式挂甲から発展したものと考えられ、前面で引き合わせていた胴丸式挂甲と異なり、右脇で引き合わせる構¥造が特徴である。鎧の合わせ目を側面に持ってくる事で、より正面への防御が考慮された構¥造になっている。草摺りは当初は大鎧と同じく前後左右の四間に分かれていたが、徒戦での足捌きを追求していった結果、八間草摺りが定着していった。この時代、胴丸はもっぱら徒の士卒が着用したことから、兜や大袖を付けることはない。
初期には下級武士の鎧であったことから神社への奉納の対象とは見なされず、ために現存する遺物は極めて少ない。事実、このあとの鎌倉時代に至っては一領も現存していないのである。


 ●紫韋威胴丸・大袖付(愛媛 大山祇神社蔵・重要文化財)
信濃源氏の頭領・木曾¥義仲が平氏追討を計った折に奉納したと伝えられるもので、胴丸としては日本最古の貴重な遺品である。小札は黒漆塗の平札で鉄と革の1枚交ぜとし、幅広の紫韋と熏韋をもって縄目に威してあるが、いずれが当初の威毛か区別しがたい。後代に補修の手が加えられており、大袖も当初から付属していたかは疑問が残るところである。機能¥的な八間草摺りが用いられており、既に胴丸としての完成形が見られる。

 

 

●赤糸威胴丸鎧・大袖付:八艘飛びの鎧(愛媛 大山祇神社蔵・国宝)
九郎判官・源義経奉納の社伝があり、平家を討滅した壇ノ浦海戦(1185)の時に着用していたとの伝承から「八艘飛びの鎧」とも言われる。この鎧は兜を欠いているものの、栴檀板・鳩尾板・大袖を具足し、障子板・逆板及び弦走韋があって「式正の鎧」の制を具備しつつ、胴は一続きで右脇で引き合わせ、草摺りは七間に分かれている点は完全に胴丸の仕立てである。「式正の鎧」と胴丸との折衷様式ともいうべき特異な鎧であり、遺物としては他に類例がない。「平治物語絵巻」「後三年合戦絵詞」等には、類似の鎧を着用している徒歩の武者が描かれているが、本品は総体の意匠が優美に構¥成されており、絵巻などに見る下級武者用の胴丸鎧とは明らかに異なる極上の品である。
逆板に打ってある総角付鐶座が室町時代に属することから、製作年代と義経奉納の伝承を疑問視する向きもあるが、裾広がりになっている胴の形姿や絵画的文様の弦走韋、各部の金物の優美な意匠は藤原時代の様相が顕著に顕れており、義経所用と見ても無理はないように思える。むしろ個人的には、徒にも騎射にも対応したこの鎧こそ、当時の戦の常識を覆した天才武将の召料に相応しいように思える。

 

 

◆鎌倉時代(1185頃〜1333):大鎧の変化
鎌倉時代になると戦闘の規模が拡大し、武将の一騎打ちの様相にも変化が見られるようになった。これまでの騎射に加え、馬ごと相手に体当たりして落馬させたり、馬上で組討をするような接近格闘戦の様相が現出してきた。また鎌倉時代末期には、元寇で歩兵の集団戦にさらされた経験により、戦闘の形態自体が変化していき、武将達もより軽快な身のこなしを意識するようになっていく。
これまでの大鎧は完全に馬上での動きを意識したもので、大鎧の重量も馬の鞍で支えていたが、鎌倉時代の大鎧では胴が裾窄まりの形状になり、上帯を締めて「腰で着る」ように変化していく。こうすることで肩にかかる重量を軽減し、徒での動作にも対応できるようになっていったのである。なお、この時期の兜の星は小さくなり、数が増している。着用方法に若干の変化は見られるものの、大鎧の基本的な構¥成に変化は無い。
また、鎌倉時代は日本の歴史上初めて武士が政権を執った時代であり、そのような時代の気風を反映してか、武家の表¥道具たる大鎧の装飾も熾盛を極めるようになっていく。
なお既に述べたように、この時代の胴丸(これに準じる腹当や腹巻も)は一領も現存しておらず、これらの説明は次の「南北朝時代」に譲ることとして、装飾性を極めた三領の大鎧と籠手を紹介しておく。いずれも現存鎧中最高峰にある傑作であるが、そのためか伝説的人物と関連付けて語られている点が興味深い。

 

●赤糸威鎧兜・大袖付:竹虎雀飾(奈良 春日大社蔵・国宝)
こちらも源義経奉納とも伝えられる一領であるが、全体に実用から遠ざかって威儀化した鎌倉時代末期の特色が著しく、いわゆる「義経伝説」の一端として広まった俗説である。春日大社には、他に義経に縁のある遺物が納められている事もその一因であろう。製作年代と大鎧が盛んに奉納された時代背景等を考慮すると、実際は足利義満あたりの奉納と見るのが無難なようである。
この時期の装飾的な大鎧の内で最も豪華な代表¥作であり、威毛と金物の色彩、全体の形姿のバランスが秀逸で、日本一美しい鎧と評する人も多い。深紅の威毛に竹と雀の金銅高彫金物が映え、特に吹き返しの藤桐菊をあしらった竹の高彫に据えられた雀の大金物と、大袖の虎の大金物が目を引く。鍬形も非常に長大で、眉庇にも雀の大金物が置かれる。装飾のみならず鎧本体の作域も精巧極まるものであり、単なる飾り鎧の域を超えた名品である。

 

 

●赤糸威鎧兜・大袖付:菊一文字(青森 櫛引八幡宮蔵・国宝)
南朝第三代・長慶天皇の御料と伝えられるが、長慶天皇は北朝の勢力に圧されて流寓し、崩御の場所もいまだに不明という伝奇的生涯を送った帝で、この鎧の由緒も各地に残る「長慶天皇潜幸伝説」の一つと見なすべきであろう。
茜染めの組糸で黒漆塗の小札を威した赤糸威であり、打出しの金具には鍍金で八重菊弁である奈良菊文を施している。また、鍬形台、吹返、大袖の八重菊枝文に力強い「一」の字の文金物が置かれていることから「菊一文字の鎧」として有名である。兜は、黒漆塗の鉄板を星と呼ばれる鋲で矧ぎ合わせた星鉢で、星は24行あり、眉庇には八重菊枝文の鍬形台が打たれ重厚な大鍬形が付く。胴は裾窄まりで、草摺裾板の両端には撓が入れられており、鎌倉時代末期の「徒に対応した大鎧」の典型を示す。装飾金物の豪華さにおいて、先の春日大社の「赤糸威鎧」と東西の双璧と謳われる大鎧の傑作である。

 

 

●赤糸威鎧兜・大袖付:梅樹鶯蝶金物(奈良 春日大社蔵・国宝)
“八幡太郎”こと源義家所用とも言われる大鎧である。義家は平安時代後期の人物で、鎌倉幕府を開いた源頼朝と室町幕府を開いた足利尊氏の祖先にあたることから、歴代の武家政権から英雄視され、伝説的な逸話も多い人物である。この鎧も、その作域と彫金金物の意匠から鎌倉時代後期の作と見られ、世に喧伝された八幡太郎伝説により「名将には名器を」との民衆感情から義家に結び付けられたものであろう。
各所の八双鋲・裾金物・座金物などには全て梅樹に蝶の高肉彫を基調として、これに蜘蛛の巣・鶯・虻・蓑虫等を配した文金物を据えている。兜にある獅噛の鍬形台には玉眼が入り、鍬形には羽毛の毛彫が施されている。左右の吹き返しには風神・雷神が描かれており、仏教美術の影響が見て取れる。幾星霜を経て弦走韋は欠失しており、元は深紅だった威毛も現在は黄褐色に色褪せているが、精巧緻密を極めた作域であり、技法の峻勁さにおいて現存甲冑でも最高の域にあるものである。
 

 

 

●双籠手:義経籠手(奈良 春日大社蔵・国宝)
この籠手はもと興福寺勧修坊に、のち春日御蔵唐院に伝来したものである。源義経は兄・頼朝の怒りを受け逃避行を余儀なくされるが、その師である興福寺の周防得業聖仏のもとに潜伏し、さらに吉野に逃れるに際して師のもとに残していった籠手であると伝えられている。

手甲の意匠や透高彫の技法から見て、鎌倉前期の作と見て間違いない。この時代、弓を持つ鎧武者は概ね片籠手を着用しており双籠手は珍しい。稀代の名将といわれる義経であるが、実は弓が苦手であったらしく、馬上で太刀を振るう姿が連想される遺物である。

 

 

◆南北朝・室町時代(1336〜1573):集団接近戦への対応と大鎧の象徴化
南北朝時代とは、室町時代の初期に皇位継承を巡って朝廷が南朝と北朝に分裂し、合一までのおよそ60年間に及んだ争乱の時代である。戦闘の様相も、源平合戦のころから行われてきた一騎打ちは鳴りを潜め、もっぱら集団での激しい接近戦や、山城攻防などの大規模戦闘に発展して行った。武装も槍や薙刀が用いられ、長柄武器の発達が著しい。騎馬武者同士の戦いでは従来の組討に加え、南北朝時代特有の大太刀を使った一撃戦や、相手を馬上から投げ落とす「投げ討ち」という戦いかたが行われるようになった。また、これまで弓は馬上の武者が射る「騎射」が主流であったが、弓の射程が延びたことから、より正確に照準できる歩兵が扱うようになり、戦闘の主役は歩兵となっていくのである。

 

大鎧は、初期の南北朝争乱期では依然として名のある武将達が着用していたようであるが、騎馬戦に適した大鎧は次第に実戦から遠ざかり、室町時代後期には権威の象徴的存在になっていく。
この時代の大鎧は、集団戦に順応して「腰で着る」工夫が一層顕著になり、小札のサイズも小さくなって鎧の丈は10cm程短くなっている。太股が草摺りに隠れる馬上戦から露出する徒戦の機会が増えた事により、大腿部を守る佩盾が生まれ、また鎌倉時代から使用されていた脛当には膝頭を守るための大立挙がつき、さらに脹脛(ふくらはぎ)を守る膕金(よぼろかね)がつけられるようになった。

 

●白絲威褄取鎧兜・大袖付:卯花威(青森 櫛引八幡宮蔵・国宝)
南部家文書「八戸家伝記」によると、正平22年(1367)に南部信光が南朝第二代・後村上天皇から賜ったものである。その後、応永18年(1411)に、南部家から櫛引八幡宮に奉納されたとの社伝がある。この例に見られるように、使われなくなった大鎧は、武将達が日頃から崇敬する氏神へ盛んに奉納されるようになっていった。
小札は平札ながら厚めに漆塗りが施されており、要所は鉄と革の一枚交ぜとされている。同じく櫛引八幡宮蔵の「赤糸威鎧」と同様に草摺裾板の両端には撓が入れられており、徒戦に対応した仕立てである。草摺りや大袖を見ると、南北朝時代に盛行した白絲地の褄取威が用いられており、端から紅・萌黄・薄紫・紫と華やかに彩られている。白を基調とした絵韋の唐獅子牡丹文に金具類を鍍銀しているところから、「卯花威」とも呼ばれている。兜は三十¥八間四方白で、一行に14点の星が打たれており、鍬形はないが鉢の正面の鎬垂が堂々たる風格を醸し出している。南北朝時代を代表¥する、端正で上品な大鎧である。

 

 

◆南北朝・室町時代:上級武士の召料となった胴丸
南北朝時代に入ると徒戦の機会が多くなった事から、それまで大鎧を着用していた上級武士達も胴丸を使用する事が多くなった。鎌倉時代までは、胴丸は概ね下級武士の用いるものだったが、上級武士が使用する様になって兜や袖の併用と供に「三物」と称されるようになっていき、脇板が装着されるなどの改良が見られる。また威糸も華やかに彩られ、上級武士に相応しい威厳と装飾性が備わってくる。
胴の形状もさらに腰が窄まった形状となり、前面部が緩い曲線を描くようになっている。この変形に対応するために、前胴部分の小札には漆で各一段づつを塗り固めない「揺ぎ札」が用いられている。また草摺りも、大腿部を包み込むように内側に大きく撓めて作られるようになり、より草摺りの間の隙間を減らして身体に密着させるようになっていった。またこの頃から、札の重ねを浅くした「伊予¥札」や、威糸の間隔を荒くして所々に縦に二筋ずつ並べる「素懸威」が用いられるようになるなど、製作工程の簡略化と低コスト化が図られるようになっている。
これまで「式正の鎧」では星兜が具足されてきたが、この頃には矧板を留めている鋲頭を叩き潰して平らにした軽量な「筋兜」が用いられるようになっている。筋兜は、星兜と異なり相手の斬撃を滑らせる利点もあった。

 

●紫韋威胴丸・壷袖付(愛媛 大山祇神社蔵・重要文化財)
総体に鉄黒漆塗の伊予¥札を用いているが、草摺りの裾二段と壷袖の下二段には黒漆塗で撓入りの本小札が用いられ、紫韋で毛引に威した簡素な仕立てである。草摺りは七間で、裾広がりの胴の形姿はすこぶる古風な様相を呈している。装飾がなく、脇板と杏葉も付いていないところを見ると、下級武士から上級武士の召料となっていく過渡期にあたるものであろうか。製作時期は南北朝初期の建武前後と見られる。

 

 

 

●黒韋威矢筈札胴丸・兜 大袖付(奈良 春日大社蔵・国宝)
元弘の変(1331)で天皇方に付き、鎌倉幕府打倒を目指して挙兵して以来「皇室の忠臣」とされ、今も皇居前広場に大銅像が建てられている“大楠公”こと楠木正成奉納の社伝がある。
胴は黒漆塗盛上本小札と鉄黒漆塗矢筈頭切付札の一枚交ぜとし、黒韋をもって威してある。矢筈札とは、弓の弦をうける矢の上端の形をした札のことである。草摺りは八間の五段下がりであり、両肩には大型の杏葉が結び付けられている。兜は黒漆塗鉄二十¥四間の筋兜で、鍬形を備える。裾広がりの形姿や兜の様式から見ると、南北朝でも比較的初期のものと推察される。
 

 

 

 ●白絲威肩赤胴丸(青森 櫛引八幡宮蔵・重要文化財)
南部政長奉納と伝えられる胴丸である。左の鍬形と鍬形台は戦時中に盗難に遭い、後に補修されていることから色合いが異なる。
胴は黒漆塗盛上本小札で、要所は鉄と革の一枚交ぜとし、前胸と大袖の二間目までを赤、それ以下を白糸で威している。鎧の胸板と大袖の冠板、兜の吹返などの染韋は、五弁の撫子の花をあしらった唐草文で飾り、吹返には同じく撫子の花五輪を配した唐草文の金物を据えている。兜は、星鋲を打たずに板の矧ぎの筋を見せる筋兜で、50枚張の四十¥八間であり、全ての筋を鍍金で縁取った総覆輪となっている。 絵韋の文様や梅花文笠鋲など極めて華麗な仕立てであり、室町時代上級武士の典型的な胴丸である。彫金物などの精巧さから、京都か奈良の甲冑師の手になるものと思われる。

 

 

●色々威胴丸 兜・頬当・大袖・籠手付(山形 致道博物館蔵・重要文化財)
出羽・酒井家の始祖・酒井忠次所用の胴丸具足である。
黒漆塗盛上革小札を紫、紅、白など種々の糸や革で段違いに威した色々威といわれるものである。兜は鉢三十¥二間・阿古陀形(あこだなり)総覆輪筋兜で、漆塗りの頬当、色々威の大袖に鎖籠手など具足一式が付属している貴重なものである。草摺りは十¥一間五段下がりとなっており、実戦用と言うよりは儀式用の具足と見られる。室町時代も末期になると、かつての大鎧と同じように、胴丸が権威の象徴となっていったことを示している。

 

 

◆南北朝・室町時代:腹当と腹巻
胴丸に代わって下級武士・兵卒に用いられるようになった鎧が腹当である。前胴だけを防御する簡素な鎧で、現在の剣道の防具と類似したものである。主に下級武士の用いる鎧だったこともあり、遺物は極めて少ないが、「源平盛衰記」などの記述から鎌倉時代には使用されていたことが分かる。


●緋絲素懸威腹当(長崎 松浦史料博物館蔵)
現存する腹当としては最古のもので、室町時代後期のものと見られる。松浦家の祖が室町幕府六代将軍・足利義教から拝領したもので、碁石頭伊予¥札を韋包みにした素懸威である。草摺りは中央のみ二段で左右は一段である。将軍家からの下賜品であるだけに、胸板と脇板は紅地に草花の金襴で包んだ華麗な装いである。実戦用の鎧ではなく、高位の武士が不意の危険から身を守るために、衣服の下に着用した護身用防具と考えられる。

 

 

●黒漆矢筈札浅葱糸素懸威腹当 (山口 岩国歴史美術館蔵)
こちらは、下級武士が実戦で着用したものと考えられる。黒漆塗の韋で矢筈札を包み、素懸に威してある。製作年代は、室町時代末期と見られる。こちらも草摺りは中央のみ二段で左右は一段である。

 

 

腹当から発展し、重武装化されて生まれたものが腹巻である。着用者の胴体を覆い、背中で引合わせる構¥造が胴丸と異なる。胴丸同様、動きやすい鎧で徒戦に適しており、上級武士用として胴丸と共にこの時代の鎧の主流を成した。室町時代になると、大袖を連結するために総角付鐶を取り付ける必要性から、背中の引き合わせ部を覆う「背板」が用いられるようになる。背板は、防御の面からも合理的な装備であるが、別名「臆病板」とも呼ばれており、豪勇の士にはあまり好まれていなかった装備のようである。また、引き合わせの位置の違いから、腹巻では七間草摺りが定着していった。
腹巻には、胴や草摺りの各間を綾や熏韋をもって包んだものが散見される。これは、損傷して使えなくなった腹巻の小札を集めて再生したものであり、補強と不揃いの小札を隠すために用いられた手法である。

 

●藍韋包腹巻(大阪 金剛寺蔵・重要文化財)
小札は生漆塗の平札で、胴の全面及び草摺りの二段目までは鉄札、草摺り下三段は革札をもって仮綴したうえで、藍韋をもって全面を包んだ古式の腹巻である。草摺りは五間。製作年代は、南北朝時代を下らないものと見られる。

 

 

●熏韋威肩赤腹巻(兵庫 八幡神社蔵・重要文化財)
河内源氏の一門で、太平記の世を駆け抜けた風雲児・新田義貞奉納の社伝がある。
総覆輪の筋兜に、垂七段の大袖、籠手に曲輪と背板を皆具した室町時代を代表¥する腹巻である。古風な趣であり、製作年代は応仁・文明の乱の頃を下らぬと見てよい。
 

 

 

●色々威腹巻 兜・大袖付(島根 佐太神社蔵・重要文化財)
戦国を下克上でのし上がり“謀聖”と称された尼子経久奉納の社伝がある。
細かな奈良小札の黒漆塗盛上革本小札を紫・白・紅で色々威しに仕立てている。胴は胴尻が著しく引き締まって、七間五段の撓め草摺りが付き、随所に室町時代中期の特色が顕れている。兜は黒漆塗鉄三十¥二枚張鍍金総覆輪二十¥八間筋兜で阿古陀形を呈しているが、なんと言っても鍬形の代わりに立てられている抱き梶葉形の立物が圧倒的な存在感を醸し出している。
欠失部分が無く、山陰の雄として知られた尼子氏の威勢を偲ばせる一領である。
 

 

 

●色々威腹巻 兜・大袖・喉輪付(山口 周防毛利報公会蔵・重要文化財)
尼子経久宇喜多直家とともに“中国の三大謀将”に挙げられる毛利元就所用の具足である。
大振りの鍬形に剣の前立を配した筋兜に大袖と喉輪を皆具し、引き締まった胴と大きく撓められた七間五段の草摺がこの時代の特徴を良く顕している。紅・白・紫の毛引で華やかに威され、仕立の手法は細密丁寧で総体の形姿もよく整い、室町時代末期における典型的な腹巻きである。

 

 

さて、古代から室町時代の後期までの日本の甲冑の変遷を、駆け足で振り返ってみましたがいかがでしたでしょうか?

この後、「当世具足編」「江戸時代編」と続いて行く予¥定です。


일본의 투구와 갑옷의 변천·그 1(고대-무로마치)

여러분 안녕하세요.

포토 전통판을 융단 폭격하고 있던 모ID가 출현하지 않게 된 것 같아서, 오랫만에 투고해 보겠습니다.

이렇게 말해도, 평소의 대로 Enjoy로 투고했지만 재탕이므로 양해해 주십시오.

투구와 갑옷의 전문 용어는 번역이 어렵고, 또 본문중에서 나오는 옛날 사람명도 같습니다.그러므로, 인명에 관해서는 착색해 둡니다.

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◆야요이 시대(~AD3 중순):목제갑
유사 이전, 야요이 시대의 사람들이 몸에 익히고 있던 갑과는 어느 같은 것에서 만났는가?시즈오카현의 이장 유적이나, 후쿠오카현의 사사이 유적, 오카야마현의 남방 유적등에서는, 야요이 시대의목제갑이 발굴되고 있다.
이것들은 주로 상반신을 방어하는 것으로, 목편을 몇매나 위뉴로 철해 구이루어지고 있던 것 같다.갑에는 주홍과 흑의 옻나무가 이용되고 있었던 것이 판명되어 있다.목판 외에도, 등으로 짠 갑도 사용되고 있었다고 생각되지만, 재질이 부식하기 쉬운 것으로부터 현재로서는 발굴예는 없다.
이러한 갑은 고분 시대에 계승해져서 가 이윽고단갑으로 발전해 나간다.

 

 

◆고분 시대(AD3 중순~AD7말):단갑과 충각부주
4 세기에 들어간 야마토 조정이라고 하는 강력한 정권이 융성해 오면, 전투의 규모도 확대해, 무장도구의 발전이 촉구받았다.
갑의 재료에도 철이 이용되게 되어, 장방형이나 삼각형의 판을 위뉴로 철하고 옻나무를 발라 제작되게 된다.게다가 5 세기에는 압정류기법이 받아들여져 겹장비의「단갑」이 완성되어 가는 것이다.

 

●에다 슈잔 고분 발굴의 단갑
장방형의 철판을 압정류 해 구이루어지고 있다.우측 부분에 경첩이 붙어 있어 몸통을 개폐해 착탈한다.

 

 

●단갑복원 모형
단갑은 구로히메산 고분, 방패는 이즈미 황금총고분으로부터 출토한 것을 참고에 원치수 복원한 것이다.충각부주·경갑·견갑·단갑·초접·호구·경갑이라고를 이용한 완전 장비이다.견갑이나 초접를 철하고 있는 끈은 록위이다.활은 흑 옻나무 칠.방패는 목제로, 흑 옻나무와 주홍옻나무로 발라 나눌 수 있고 있다.

 

 

●철순
이 시대의 방패는 목제가 기본이지만, 극히 특수한 예로서 철제의 방패도 볼 수 있다.
고대 야마토 정권의 무기고이며 신포우고이기도 한이소노카미 신궁에는, 2매의 철순이 전세 하고 있다.많은 작은 철판을 맞붙이고 압정으로 멈춘 것이다.신궁에서는 신앙상일의 방패(히만 세워)로 되어 있지만, 동시에 고대의 무기 자료라고 해도 귀중한 존재이다.

이 후, 일본에서는 양손으로 조작하는 무기가 주류가 되어, 진에게 이용되는 치순은 차치하고, 소지방패는 완전하게 쓸모없게 되어 간다.

 

 

◆고분 시대:괘갑과 미비부주
5 세기 중엽이 되면, 일본 열도와 한반도나 대륙과의 교류가 활발하게 된다.이 시기에는 많은 도래인이 일본에 이주해 오고 있어 또 일본도 한반도에 자주 출병하고 있다.그러한(군사적으로도) 교류를 거듭하는 동안,대륙식의 괘갑이 일본에 전래하게 된다.
괘갑은, 나라시대까지 이용된 갑의 형식에서, 소지폐로 불리는 작은 판을 함께 철해 만들어지고 있다.소지폐는 철이나 가죽으로 만들어져 있어, 동체 전체를 가리는 코트와 같은통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷식괘갑과 에이프런과 같이 신체의 전후를 방어하는焉呂식(가볍게 걸쳐 사계) 괘갑이 있다.焉呂식 괘갑에서는, 후의 대요로이와 같이 좌우의 틈새는 협순장의 부품을 연결해 방어하고 있던 것 같다.
지금까지의 단갑과 달리, 갑자체에 있는 정도의 굴도성이 있는 것으로부터 신체에 친숙해 져, 비교적 동작이 제약되지 않는 것으로부터, 이후의 요로이는 괘갑 을 기본으로 발전해 나가게 된다.통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷식괘갑은 후의 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷에, 양당식괘갑은 후의 대요로이로 발전하며 갔다고 생각된다.
이쪽은, 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷식괘갑의 복원 모형이다.

 

 

또, 칸사이 대학 박물관에는, 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷식괘갑·양당식괘갑쌍방의 복원품이 전시되고 있다.

 

 

그런데, 괘갑은 소지폐를 위뉴로 철해 제작하고 있기 위해, 고분등의 부장품에서는 위뉴가 부식해, 소지폐가 뿔뿔이 흩어지게 되어 버리고, 갑의 형태를 유지한 채로의 출토예는 없다.그러나 그 자세한 것은「무장 토용」에 의해 확인할 수 있다.
충각부주를 입어, 견갑·경갑·초접·패순·경갑까지 모두괘갑으로 가린, 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷식괘갑을 착용한 무인의 모습이 묘사되고 있다.

 

실례···잘못했습니다.
이쪽이 무장 토용입니다.

 

 

 

●미비부주
실용 중시의 충각부주와 비교해서, 장식 중시의 주이다.미비부주는 대부분이 철제이지만 본품은 금동제이다.상하 57매의 장방형의 소지폐를 신맞추어 압정 두어 해, 전대판에는 물고기나 새, 동물의 문양이 모조 되고 있다.호족용인것 같은 장식이 실시해진 유물이다.

 

 

◆나라시대(710~794):면오갑
괘갑은 나라시대까지 실용에 제공되어 왔지만, 소지폐를 한 장 한 장 써 맞추어 제작하기 위해(때문에) 몹시 시간이 들어, 대량생산에는 난이 있었다.이 때문에, 일반의 병사에게는 면오갑으로 불리는당풍의 투구와 갑옷이 이용되고 있었다.이것은 코트장의 옷감에 가죽이나 철의 작은 판을 철해 붙인 것으로 방한에도 우수했다.다만, 가지의 옷감은 내구성이 낮고, 그 후가 거듭되는 전란으로 없어졌기 때문에 유물은 현존 하고 있지 않다.또, 야마토 조정이 있던 나라 분지는 그만큼 한기의 어려운 지방 풍습도 아니고, 일본은 일반적으로 온윤인 기후인 것으로부터, 면오갑은 쓸모없게 되어 갔다.
속일본기의 나라시대의 연호 6년 테이미의 기사에 의하면, 「토카이, 낭가이, 서해도의 절도사의 료로 해서 면오갑 각 2만 2백 50 도구를 만들어, 모두당의 신양식과 같은 5행의 색에 코끼리.모두 갑판의 형태를 벽(미도리) 지에는 주홍.붉은 바탕에는 노랑.황지에는 주홍.흰 바탕에는 흑.검은 천에는 주홍으로 그려 4천 50 도구 마다 하나의 색으로 했다」라고 쓰여져 있다.즉 면오갑은 포제로, 안에 삼이나 저(닥나무) 등을 넣어 외측은 갑판의 획이 그려 있을 만한 것도 있던 것 같다.
자주(잘) 여기서 보는 이씨 조선의 요로이도, 이 면오갑의 계통이다.

 

 

◆헤이안 시대(794~1185):대요로이와 엄성두
헤이안 시대가 되면 겐지와 다이라성을 가진 씨족의 총칭으로 대표되는「무사단」이 탄생한다.자연히 전투 방법에도 변화가 생겨 거기에 순응한 순 일본적인 투구와 갑옷이 탄생해 나간다.
헤이안 시대의 전투에서는, 기마로 활을 쏘아 맞히는 기사전이 주류였다.무장이 서로 경합에 나서 기마로 달려 차이 모습에 활을 쏘아 맞히는 것이다.이러한 전투 양식으로부터 실천적으로 만들어져 갔던 것이대요로이엄성두이다.
대요로이에는, 협순·멀구슬나무판·명치판·대소매가 부속되어 있어 말등으로 활을 당길 때에 현이 소지폐에 걸리지 않게, 몸통의 전면에 현주위가 쳐지고 있다.엄성두는 충각부주로부터 발전해 온 것으로, 딱딱한 큰 별(압정)을 친 두이다.대요로이 일식을「식 정의 요로이」라고도 칭한다.이하에, 헤이안 시대의 대요로이를 언제 구카 소개해 둔다.
일찌기 Enjoy청조로, 400년 정도 옛 요로이의 보존 상태의 좋은 점을 보고, 「플라스틱 날조」라고울부짖고 있던 바보가 있었습니다만, 이하에 소개하는 요로이는 800년 정도 옛 요로이이므로 화병은 삼가해 주시기 바랍니다.


●적위위 요로이두·대진동(오카야마현립 박물관창고·국보)
빗츄의 마루야마 성주인 아카기가에 전래한 대요로이이다.같은 집안은 원래 시나노노쿠니에 주 했지만, 가겐 2년(1304)에 가마쿠라막부의 지휘에 의해 빗츄에 이주했다고 한다.이 요로이는, 가마쿠라 시대에 일부 보수와 개장을 하고 있지만, 소지폐가 세로취위인 것이나 대소매가 육단이 되어 있는 점, 불과에 남아 있는 현주위의 문양 등에 대요로이의 초기의 양식을 간파할 수 있다.

 

 

●코자쿠라위위 요로이두·대진동:방패무(야마나시 스가타 천신사장·국보)
세상에 말하는「겐지8령」으로 꼽히는 한 벌이다.「겐지8령」이란, 겐지에 전해지는겐타산의·8용·박금·슬환·월수·날짜·방패무·벗풀로 불리는 8령의 대요로이이다.이 요로이는, 방패가 불필요할 만큼(정도) 강고한 요로이라는 것으로부터「방패무」와 호 된 것으로, 현존 유일한 「겐지8령」이라고 여겨지고 있다.

보람 겐지의 시조“신라 사부로”일미나모토노 요시미쓰이래, 타케다가의 귀중한 보물로서 전해져 온 요로이에서,신겐때 코후의 귀문고장을 지키는 신을 위해 스가타 천신사에 납입할 수 있었다.타케다가 멸망의 때에, 가신이 향악사의 오오스기의 근원에 묻은 것을이에야스가 파내 다시 스가타 천신사에 납입하고 있다.그 후 도난에 맞아, 대파한 것을 너그러운 정치 4년(1792) 에도에 대해 복구 보수, 한층 더 분세 10년(1826)에도 보수되고 있는 것이 위모의 뒤에 묵서 되고 있다.몇차례의 보수로 당초의정취가 없어지고 있는 곳(중)도 많지만, 소매의 하나사키형관판 등은 「반오노말그림 두루마기」에 그려져 있는 것 외는 유례가 없고, 투구의 머리를 덮는 부분의 양상등과 합하고, 대체로 구전설화의 시대의 특징을 나타내고 있다고 말할 수 있자.

 

 

●견조실위 요로이협순·대진동:박금(아이치원투신사창고·중요문화재)
원투신사의 고문서에 의하면 「고산넨역 전투 그림 두루마기」의 캡션에반지로조겸이라고 하는 사람 있어, 때없는 군사든지.항상 군의 선두에 선다.장군(미나모토노 요시이에) 이것을 느껴 박금이라고 하는 요로이를 덮어 씌우거나.」(이)라고 쓰여져 있는「박금」이다고 전하고 있지만, 전래가 확실하지 않기 때문에 확증은 없다.실로 「박금」이면, 「방패무」외에 이제(벌써) 한 벌 「겐지8령」이 전존하고 있던 것이 된다.
조겸
은 고산넨역으로 두를 떨어 뜨려져 분실해 버리지만, 이 요로이도 전승에 있는 대로 두가 없어지고 있다.또 셋째평찰을 요에 짜, 폭의 좁은 두꺼운 여섯조실로 위협한 수법이나, 쇠장식 회전의 화처의 형상등에서 봐도 시대는 합치하고 있다.얼마 성상을 거치고, 권세의 위뉴는 그을린 것처럼 생기잃고 있지만, 이전에는 더 선명하고 「박금」이라고 부르는에 적당한 색조였는지도 모른다.협순과 대소매는 각각 완성을 달리하지만, 그다지 연대의 격차는 없는 것이라고 생각된다.
부속의 장롱의 개리에「신의 물야, 사람의 물입불가, 장녹2년 2월 길일」의 묵서가 있어, 무로마치 시대의 중기에는 봉납되고 있던 것을 안다.

 

 

●코자쿠라위위황반 요로이두·대진동(히로시마 이쓰쿠시마 신사창고·국보)
호겐의 난(1156)으로 보통 사람 떨어져 한 무용을 자랑한“친제이 하치로”일미나모토노 다메토모소용의 요로이이다.협순과 명치판에 가세해 멀구슬나무판의 일부가 결여되어 없어짐 하고 있지만, 당초의정취를 잘 전하는 우수품이다.소지폐는 흑 옻나무 칠로 대모습의 것이며, 전체에 호장의 바람이 있다.고기에 말하는「오아라눈의 요로이(폭의 넓은 지폐를 이용해 굵은 실로 실눈을 난폭하게 쓴 요로이)」의 이름에 적당하고, 회위의 문양이나 쇠장식 회전의 형상, 혹은 문장 철물(꾸밈일까 물건)의 수법으로 고 모양의 특징이 잘 나타나고 있다.

 

 

●적실위 요로이두·대진동(도쿄 온타케 신사·국보)
가마쿠라막부 창업의 공신으로“반도우 타케시의 귀감”이라고 평 된하타케야마시게타다가 봉납했다고 전해지는 요로이이다.이 시대로 보여지는 옷자락 확대의 형 자는 엄성두와 합쳐 웅대호장의 정취를 나타내고 있다.천염의 위모는 현존요로이안 가장 폭넓게 한편 두께의 10두 패조실을 가지고 위협해 있어, 앞의 「코자쿠라위위황반 요로이두」와(과) 함께 「오아라눈의 요로이」의 전형을 이루는 것이다.

 

 

◆헤이안 시대:통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷
기마 무사 전용의 대요로이에 대해서, 도로 싸우는 일반 병사용으로 만들어졌던 것이통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷이다.통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷식괘갑으로부터 발전한 것이라고 생각되고 전면에서 대조하고 있던 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷식괘갑과 달리, 우협으로 대조하는 구조가 특징이다.요로이의 조인트를 측면으로 가져오는 일로, 보다 정면에의 방어가 고려된 구조가 되어 있다.초접는 당초는 대요로이와 같이 전후좌우의 4간으로 나누어져 있었지만, 도전에서의 발놀림을 추구하며 간 결과, 8간초접가 정착하며 갔다.이 시대, 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷은 오로지 도의 사졸이 착용한 것으로부터, 두나 대소매를 붙일 것은 없다.
초기에는 하급 무사의 요로이에서 만난 것으로부터 신사에의 봉납의 대상이라고는 보여지지 못하고, 위해(때문에) 현존 하는 유물은 지극히 적다.사실, 이후에의 가마쿠라 시대에 이르러 한 벌도 현존 하고 있지 않는 것이다.


 ●자위위통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷·대진동(에히메 오오야마기신사창고·중요문화재)
시나노 겐지의 두령·목증의중이 다이라성을 가진 씨족의 총칭추토를 잰 때에 봉납했다고 전해지는 것으로, 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷으로서는 일본 최고의 귀중한 유품이다.소지폐는 흑 옻나무도의 평찰로 철과 가죽의 1매 섞어로 해, 폭이 넓은 자위와 훈위를 가지고 새끼줄에 위협해 있지만, 머지않아가 당초의위모나 구별하기 어렵다.후대에 보수의 손이 더해지고 있어 대소매도 당초부터 부속되어 있었는가는 의문이 남는 (곳)중에 있다.기능적인 8간초접가 이용되고 있어 이미 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷으로서의 완성형을 볼 수 있다.

 

 

●적실위통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷요로이·대진동:8소나는 일의 요로이(에히메 오오야마기신사창고·국보)
쿠로우 판관·미나모토노 요시쓰네봉납의 사 전이 있어, 헤이케를 토멸한 단노우라 해전(1185)때에 착용하고 있었다는 전승으로부터「8소나는 일의 요로이」라고도 말한다.이 요로이는 두가 부족하고 있지만, 멀구슬나무판·명치판·대소매를 도구 해, 미닫이판·역판 및 현주위가 있어 「식 정의 요로이」의 제를 구비하면서, 몸통은 일련으로 우협으로 대조해 초접는 7간으로 나누어져 있는 점은 완전하게 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷의 완성이다.「식 정의 요로이」라고 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷과의 절충 양식이라고도 해야 한다 특이한 요로이이며, 유물로서는 그 밖에 유례가 없다.「헤이지 이야기 그림 두루마기」 「고산넨 전투 설명문이 있는 그림 두루마리 」등에는, 유사한 요로이를 착용하고 있는 도보의 무사가 그려져 있지만, 본품은 총체의 생각이 우아하게 구이루어지고 있어 그림 두루마기 등에 보는 하급 무사용의 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷요로이와는 분명하게 다른 극상의 물건이다.
역판에 쳐 있는 총각부환좌가 무로마치 시대에 속하는 것으로부터, 제작 연대와의경
봉납의 전승을 의문시하는 방향도 있지만, 옷자락 확대가 되어 있는 몸통의 형 자나 회화적 문양의 현주위, 각부의 철물의 우아한 생각은 후지와라 시대의 양상이 현저하게 나타나고 있어의경소용이라고 봐도 무리는 없다고 생각된다.오히려 개인적으로는, 도에게도 기사에도 대응한 이 요로이야말로, 당시의 싸움의 상식을 뒤집은 천재 무장의 소료에 적당하다고 생각된다.

 

 

◆가마쿠라 시대(1185경~1333):대요로이의 변화
가마쿠라 시대가 되면 전투의 규모가 확대해, 무장의 일대일 대결의 양상에도 변화를 볼 수 있게 되었다.지금까지의 기사에 가세해 말 마다 상대에게 전력투구 해 낙마시키거나 말등으로 조토를 하는 접근 격투전의 양상이 출현해 왔다.또 가마쿠라 시대 말기에는, 원구로 보병의 집단전에 노출된 경험에 의해, 전투의 형태 자체가 변화해 나가, 무장들도 보다 경쾌한 몸놀림을 의식하게 되어 간다.
지금까지의 대요로이는 완전하게 말등으로의 움직임을 의식한 것으로, 대요로이의 중량도 말의 말안장으로 지지하고 있었지만, 가마쿠라 시대의 대요로이에서는 몸통이 옷자락착의 형상이 되어, 상대를 잡아「허리로 입는다」같게 변화해 나간다.이렇게 하는 것으로 어깨에 걸리는 중량을 경감해, 도로의 동작에도 대응할 수 있게 되어 갔던 것이다.덧붙여 이 시기의 두의 별은 작아져, 수가 늘어나고 있다.착용 방법으로 약간의 변화는 볼 수 있지만, 대요로이의 기본적인 구성에 변화는 없다.
또, 가마쿠라 시대는 일본의 역사상 처음으로 무사가 정권을 잡았던 시대여, 그러한 시대의 기풍을 반영해인가, 무가의 겉(표)도구인 대요로이의 장식도 숯불성을 다하도록(듯이) 되어 간다.
이미 말한 것처럼, 이 시대의 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷(이것에 준하는 복당이나 복대도)은 한 벌도 현존 하고 있지 않고, 이러한 설명은 다음의 「남북조 시대」로 미루는 것으로 하고, 장식성을 다한 산료의 대요로이와 호구를 소개해 둔다.모두 현존요로이안최고봉에 있는 걸작이지만, 그 때문일까 전설적 인물과 관련지어 말해지고 있는 점이 흥미롭다.

 

●적실위 요로이두·대진동:죽호작식(나라 가스가 다이샤창고·국보)
이쪽도미나모토노 요시쓰네봉납과도 전해지는 한 벌이지만, 전체에 실용으로부터 멀어져 위의화한 가마쿠라 시대 말기의 특색이 현저하고, 이른바 「의경 전설」의 일단으로서 퍼진 속설이다.가스가 다이샤에는, 그 밖에의경에 인연이 있는 유물을 납입할 수 있고 있는 일도 그 한 요인일 것이다.제작 연대와 대요로이가 활발히 봉납되었던 시대 배경등을 고려하면, 실제는아시카가의만
근처의 봉납이라고 보는 것이 무난한 것 같다.
이 시기의 장식적인 대요로이중에서 가장 호화로운 대표작이며, 위모와 철물의 색채, 전체의 형 자의 밸런스가 뛰어나고,일본 제일 아름다운 요로이라고 평가하는 사람도 많다.진한 주홍의 위모에 대나무와 참새의 금동고조금물이 빛나 특히 역송풍의 등동 국화를 곁들인 대나무의 고조에 자리잡을 수 있었던 참새의 대금물과 대소매의 범의 대금물이 눈을 끈다.쿠와가타도 매우 장대하고, 미비에도 참새의 대금물이 놓여진다.장식 뿐만 아니라 요로이 본체의 작 역도 정교극히 만의 것이어, 단순한 장식요로이의 역을 넘은 명품이다.

 

 

●적실위 요로이두·대진동:국일문자(아오모리 쿠시비키 하치만신을 모신 신사창고·국보)
남조 제3대·쵸우케이천황의 귀인들이 쓰는 의료, 식료, 그릇과 전해지지만,쵸우케이천황은 북조의 세력에 압 되어 류우 해, 붕어의 장소도 아직껏 불명이라고 하는 전기적 생애를 보낸 제로, 이 요로이의 유서도 각지에 남는 「쵸우케이천황잠행전설」의 하나라고 봐야 하는 것일 것이다.
천 물들여의 조실로 흑 옻나무도의 소지폐를 위협한 적실위이며, 우치데 해의 쇠장식에는 도금으로 야에기쿠변인 나라국문을 베풀고 있다.또, 쿠와가타대, 취반, 대소매의 야에기쿠지문에 강력한 「1」의 글자의 문장 철물이 놓여져 있는 것으로부터「국일문자의 요로이」로서 유명하다.두는, 흑 옻나무도의 철판을 별로 불리는 압정으로 신맞춘 별 하치에서, 별은 24행 있어, 미비에는 야에기쿠지문의 쿠와가타대가 맞아 중후한 대쿠와가타가 붙는다.몸통은 옷자락착로, 초접 옷자락판의 양단에는 요를 넣을 수 있고 있어 가마쿠라 시대 말기의 「도에게 대응한 대요로이」의 전형을 나타낸다.장식 철물의 호화로움에 두고, 앞의 가스가 다이샤의 「적실위 요로이」라고 동서의 쌍벽과 구가해지는 대요로이의 걸작이다.

 

 

●적실위 요로이두·대진동:매수앵접철물(나라 가스가 다이샤창고·국보)
“야와타 타로”일미나모토노 요시이에소용이라고도 말하는 대요로이이다.요시이에는 헤이안 시대 후기의 인물로, 가마쿠라막부를 연미나모토노요리토모와 무로마치 막부를 연아시카가 다카우지의 조상에 해당하는 것으로부터, 역대의 무가 정권으로부터 영웅시 되어 전설적인 일화도 많은 인물이다.이 요로이도, 그 작 역과 조금 철물의 생각으로부터 가마쿠라 시대 후기의 작이라고 볼 수 있어 세상에 훤전된 야와타 타로 전설에 의해 「명장에게는 명기를」이라는 민중 감정으로부터요시이에
가 연결시킬 수 있던 것일 것이다.
각처의 검, 언월도 따위를 쥐는 자세의 압정·옷자락 철물·좌금물등에는 모두매수에 나비의 고육 조를 기조로서 이것에 거미집·앵·홍·도롱이 벌레등을 배치한 문장 철물을 자리잡고 있다.두에 있는 사か의 쿠와가타대에는 옥눈이 들어와, 쿠와가타에는 깃털의 모조가 베풀어지고 있다.좌우의 역송풍에는 풍신·뇌신이 그려지고 있어 불교미술의 영향을 간파할 수 있다.얼마 성상을 거쳐 현주위는 결여되어 없어짐 하고 있어, 원래는 진한 주홍이었던 위모도 현재는 황갈색에 퇴색해 있지만, 정교 치밀을 다한 작 역이며, 기법의 슌경에 대해 현존 투구와 갑옷으로도 최고의 역에 있는 것이다. 

 

 

●쌍호구:의경 호구(나라 가스가 다이샤창고·국보)
이 호구는 아래 코후쿠사권수방에, 후봄날 미쿠라 토우인에 전래한 것이다.미나모토노 요시쓰네는 형·뢰조의 분노를 접수 도피행을 피할수 없게 되지만, 그 스승인 코후쿠절의스오우 득업성불앞으로 잠복 해, 한층 더 요시노에 피하는에 즈음하여 스승의 아래에서 남겨 간 호구이다고 전하고 있다.

토시의 생각이나 투고조의 기법으로부터 보고, 카마쿠라 전기의 작이라고 봐 틀림없다.이 시대, 활을 가지는 요로이 무사는 대체로 편호구를 착용하고 있어 쌍호구는 드물다.희대의 명장이라고 하는의경이지만, 실은 활에 약함 것 같고, 말등으로 칼을 터는 모습이 연상되는 유물이다.

 

 

◆남북조·무로마치 시대(1336~1573):집단 접근전에의 대응과 대요로이의 상징화
남북조 시대와는, 무로마치 시대의 초기에 황위계승을 둘러싸 조정이 남조와 북조에 분열해, 합일까지의 대략 60년간에 이른 쟁란의 시대이다.전투의 양상도, 백과 홍 전투의 무렵부터 행해져 온 일대일 대결은 움직임을 멈추어 오로지 집단으로의 격렬한 접근전이나, 산성 공방등의 대규모 전투로 발전해 갔다.무장도 창이나 체도가 이용되어 나가라 무기의 발달이 현저하다.기마 무사끼리의 싸움에서는 종래의 조토에 가세해 남북조 시대 특유의 대칼을 사용한 일격전이나, 상대를 말등으로부터 던져 떨어뜨리는 「던져 토벌해」라고 하는 싸움 분을 하게 되었다.또, 지금까지 활은 말등의 무사가 쏘아 맞히는 「기사」가 주류였지만, 활의 사정이 늘어난 것으로부터, 보다 정확하게 조준 할 수 있는 보병이 취급하게 되어, 전투의 주역은 보병이 되어 가는 것이다.

 

대요로이는, 초기의 남북조 쟁란기로는 여전히 이름이 있는 무장들이 착용하고 있던 것 같지만, 기마전에 적절한 대요로이는 점차 실전으로부터 멀어져, 무로마치 시대 후기에는권위의 상징적 존재가 되어 간다.
이 시대의 대요로이는, 집단전에 순응해 「허리로 입는다」궁리가 한층 현저하게 되어, 소지폐의 사이즈도 작아져 요로이의 키는 10 cm 정도 짧아지고 있다.넓적다리가 초접에 숨는 말등전으로부터 노출하는 도전의 기회가 증가한 일에 의해, 대퇴부를 지키는 패순이 태어나 또 가마쿠라 시대부터 사용되고 있던 정강이당연히는 무릎을 지키기 위한 오타치거가 다해 한층 더 창 정강이(장딴지)를 지키는 괵금(겸해)이 붙여지게 되었다.

 

●백사위처취 요로이두·대진동:묘화위(아오모리 쿠시비키 하치만신을 모신 신사창고·국보)
남부가 문서 「하치노헤 가전기」에 의하면, 쇼헤이 22년(1367)에남부신광이 남조 제2대·고무라카미 천황
으로부터 받은 것이다.그 후, 오에이 18년(1411)에, 남부가로부터 쿠시비키 하치만신을 모신 신사에 봉납되었다는 사 전이 있다.이 예로 보여지도록(듯이), 사용되지 않게 된 대요로이는, 무장들이 평소부터 숭경하는 씨족신에게 활발히 봉납되게 되어 갔다.
소지폐는 평찰이면서 두꺼운에 옻나무 칠이 베풀어지고 있어 요소는 철과 가죽의 한 장 섞어로 되어 있다.같은 쿠시비키 하치만신을 모신 신사창고의 「적실위 요로이」라고와 같이 초접 옷자락판의 양단에는 요를 넣을 수 있고 있어 도전에 대응한 완성이다.초접나 대소매를 보면, 남북조 시대에 성행한 백사지의 처취위가 이용되고 있어 구석으로부터 다홍색·연두빛·연보라·보라색과 화려하게 물들여지고 있다.흰색을 기조로 한 회위의 사자 모란문에 쇠장식류를 도은 하고 있는 곳(중)으로부터,「묘화위」라고도 불리고 있다.두는 308간 사방흰색으로, 일행에 14점의 별이 맞고 있어 쿠와가타는 없지만 하치의 정면의 호수가 당당한 풍격을 자아내고 있다.남북조 시대를 대표하는, 단정하고 품위있는 대요로이이다.

 

 

◆남북조·무로마치 시대:상급 무사의 소료가 된 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷
남북조 시대에 들어가면 도전의 기회가 많아진 일로부터, 그것까지 대요로이를 착용하고 있던 상급 무사들도통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷을 사용하는 것이 많아졌다.가마쿠라 시대까지는, 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷은 대체로 하급 무사가 이용하는 것이었지만, 상급 무사가 사용하는 것처럼 되어 두나 소매의 병용과 보조자에「3물」이라고 칭해지도록(듯이) 되어 가, 협판이 장착되는 등의 개량을 볼 수 있다.또 위실도 화려하게 물들여져 상급 무사에 적당한 위엄과 장식성이 갖춰져 온다.
몸통의 형상도 한층 더 허리가 쇠퇴해진 형상이 되어, 전면부가 느슨한 곡선을 그리게 되어 있다.이 변형에 대응하기 위해서, 전동부분의 소지폐에는 옻나무로 각 일단씩을 발라 굳히지 않는 「요지폐」가 이용되고 있다.또 초접도, 대퇴부를 감싸도록(듯이) 안쪽에 크게 휠 수 있어 만들어지게 되어, 보다 초접의 사이의 틈새를 줄여 신체에 밀착시키게 되어 갔다.또 요즘부터, 지폐의 겹침을 얕게 한 「이요지폐」나, 위실의 간격을 난폭하게 해 곳곳에세로에 두 줄기씩 늘어놓는 「소현위」가 이용되게 되는 등, 제작 공정의 간략화와 저비용화가 도모해지게 되어 있다.
지금까지 「식 정의 요로이」에서는 성두가 도구 되어 왔지만, 요즘에는 신판을 두고 있는 압정두를 두드려 잡아 평평하게 한 경량인「근두」가 이용되게 되어 있다.근두는, 성두와 달리 상대의 참격을 헛디딜 수 있는 이점도 있었다.

 

●자위위통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷·단지 진동(에히메 오오야마기신사창고·중요문화재)
총체에 철흑 옻나무도의 이요지폐를 이용하고 있지만, 초접의 옷자락2단과 단지 뇌물2단에는 흑 옻나무도로 요들이의 본소지폐가 이용되어 자위로 모인에 위협한 간소한 완성이다.초접는 7간으로, 옷자락 확대의 몸통의 형 자는 대단히 고풍스러운 양상을 나타내고 있다.장식이 없고, 협판과 행엽도 붙지 않은 곳을 보면, 하급 무사로부터 상급 무사의 소료가 되어 가는 과도기에 해당하는 것일까.제작 시기는 남북조 초기의 겐무 전후라고 볼 수 있다.

 

 

 

●흑위위화살의 오늬지폐 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷·두대진동(나라 가스가 다이샤창고·국보)
겐코의 변(1331)으로 천황분을 뒤따라, 가마쿠라막부 타도를 목표로 해 군사를 일으킴 한 이래 「황실의 충신」이라고 여겨져 지금도 궁성앞 광장에 대동상이 지어지고 있는“오오쿠스공”일구스노키 마사시게봉납의 사 전이 있다.
몸통은 흑 옻나무도성우에모토소지폐와 철흑 옻나무도화살의 오늬두절부찰의 한 장 섞어로 해, 흑위를 가지고 위협해 있다.화살의 오늬지폐란, 활의 현을 받는 화살의 상단의 형태를 한 지폐이다.초접는 8간의 5 단시타 꾸중이며, 양어깨에는 대형의 행엽을 연결시킬 수 있고 있다.두는 흑 옻나무도철 204간의 근두로, 쿠와가타를 갖춘다.옷자락 확대의 형 자나 두의 양식으로부터 보면, 남북조에서도 비교적 초기의 것이라고 추측된다.
 

 

 

 ●백사위견적통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷(아오모리 쿠시비키 하치만신을 모신 신사창고·중요문화재)
남부정장봉납과 전해지는 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷이다.왼쪽의 쿠와가타와 쿠와가타대는 전시중에 도난을 당해, 후에 보수되고 있는 것으로부터 색조가 다르다.
몸통은 흑 옻나무도성우에모토소지폐로, 요소는 철과 가죽의 한 장 섞어로 해, 전흉과 대소매의 2간째까지를 빨강, 그것 이하를 백사로 위협하고 있다.요로이의 흉판과 대소매의 관판, 두의 취반등의 염위는, 5변의 패랭이꽃의 꽃을 곁들인 당초문으로 장식해, 취반에는 같이 패랭이꽃의 꽃올림픽을 배치한 당초문의 철물을 자리잡고 있다.두는, 별 압정을 치지 않고 판의 신의 줄기를 보이는 근두로, 50매장의 408간이며, 모든 줄기를 도금으로 인연 잡은 총복륜이 되고 있다. 회위의 문양이나 매화꽃문립 압정등 지극히 화려한 완성이며, 무로마치 시대 상급 무사의 전형적인 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷이다.조금물등이 정교함으로부터, 쿄토나 나라의 갑주사의 손이 될 것이라고 생각된다.

 

 

●여러가지권세 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷두·협당·대소매·호구부착(야마가타 치도 박물관창고·중요문화재)
데와·사카이가의 시조·사카이타다츠구소용의 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷 도구이다.
흑 옻나무도성상혁소지폐를 자, 다홍색, 흰색 등 여러 가지의 실이나 가죽으로 월등히 위협한여러가지권세라고 하는 것이다.두는 하치 302간·아코타형(아개다 되어) 총복륜근두로, 옻나무 칠의 협당, 여러가지권세의 대소매에 쇠사슬 호구 등 도구 일식이 부속되어 있는 귀중한 것이다.초접는 10일실5 단시타 꾸중이 되고 있어 실전용이라고 말하는 것보다는 의식용의 도구라고 볼 수 있다.무로마치 시대도 말기가 되면, 한 때의 대요로이와 같이, 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷이 권위의 상징이 되어 간 것을 가리키고 있다.

 

 

◆남북조·무로마치 시대:복당과 복대
통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷에 대신해 하급 무사·병졸에 이용되게 된 요로이가복당이다.전동만을 방어하는 간소한 요로이에서, 현재의 검도의 방어용 기구 와 유사한 것이다.주로 하급 무사가 이용하는 요로이였던 일도 있어, 유물은 지극히 적지만, 「백과 홍 성쇠기」등의 기술로부터 가마쿠라 시대에는 사용되고 있던 것을 안다.


●비사소현위복당(나가사키 마츠우라 사료 박물관창고)
현존 하는 복당으로서는 최고의 것으로, 무로마치 시대 후기의 것이라고 볼 수 있다.마츠우라가의 선조가 무로마치 막부 로쿠다이 장군·아시카가의교로부터 배령 한 것으로, 바둑돌두 이요지폐를 위소포로 한 소현위이다.초접는 중앙만 2단으로 좌우는 일단이다.막부로부터의 하사품인 만큼, 흉판과 협판은 홍지에 풀꽃의 금란으로 싼 화려한 치장이다.실전용의 요로이가 아니고, 고위의 무사가 불의의 위험으로부터 몸을 지키기 위해서, 의복아래에 착용한 호신용 방어용 기구라고 생각된다.

 

 

●흑 옻나무 화살의 오늬지폐 연두색실소현위복당 (야마구치 이와쿠니 역사 미술관창고)
이쪽은, 하급 무사가 실전에서 착용한 것이라고 생각된다.흑 옻나무도의 위로 화살의 오늬지폐를 싸, 소현에 위협해 있다.제작 연대는, 무로마치 시대 말기라고 볼 수 있다.이쪽도 초접는 중앙만 2단으로 좌우는 일단이다.

 

 

복당으로부터 발전해, 시게타케장화 되어 태어난 것이복대이다.착용자의 동체를 가려, 등으로 거래원 다투는 구조가 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷과 다르다.통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷 같이, 움직이기 쉬운 요로이에서 도전에 적절하고 있어 상급 무사용으로서 통처럼 둥글게 만든 간편한 갑옷과 함께 이 시대의 요로이의 주류를 이루었다.무로마치 시대가 되면, 대소매를 연결하기 위해서총각부환을 다는 필요성으로부터, 등의 소계부를 가리는「등받이」가 이용되게 된다.등받이는, 방어의 면으로부터도 합리적인 장비이지만, 별명 「겁장이판」이라고도 불리고 있어 호용의 사에게는 별로 선호되지 않았던 장비같다.또, 소계의 위치의 차이로부터, 복대에서는 7간초접가 정착하며 갔다.
복대에는, 몸통이나 초접의 각 간을 능이나 훈위를 가지고 싼 것이 산견된다.이것은, 손상해서 사용할 수 없게 된 복대의 소지폐를 모아 재생한 것이어, 보강과 고르지 않음의 소지폐를 숨기기 위해서 이용된 수법이다.

 

●람위포복대(오사카 콩고우지창고·중요문화재)
소지폐는 생 옻칠도의 평찰로, 몸통의 전면 및 초접의 둘째 단까지는 철찰, 초접하 삼단은 혁찰을 가지고 가철 한 데다가, 람위를 가지고 전면을 싼 옛 식의 복대이다.초접는 5간.제작 연대는, 남북조 시대를 시시한 것이라고 볼 수 있다.

 

 

●띹窩㎞揷湛복窪幟奐告(효고 하치만신사장·중요문화재)
카와치 겐지의 한 집안으로, 태평기의 세상을 앞질러간 풍운아·닛타 요시사다봉납의 사 전이 있다.
총복륜의 근두에, 수7단의 대소매, 호구에 곡륜과 등받이를 모두 갖춘 무로마치 시대를 대표하는 복대이다.고풍스러운 정취이며, 제작 연대는 오닌·문명의 란의 무렵을 내리지 않는이라고 봐도 좋다.
 

 

 

●여러가지권세 복대두·대진동(시마네좌오가사장·중요문화재)
전국을 하극상으로의 해 오름“모성”이라고 칭해진아마코 쓰네히사봉납의 사 전이 있다.
섬세한 나라소지폐의 흑 옻나무도성상혁본소지폐를 자·백·홍으로 여러가지 위협으로 짓고 있다.몸통은 동고가 현저하게 긴장되고, 7간5단이 휠 수 있는 초접가 붙어, 여기저기에 무로마치 시대 중기의 특색이 나타나고 있다.두는 흑 옻나무도철 302매장도금총복륜 208간근두로 아코타형을 나타내고 있지만, 뭐라 해도 쿠와가타 대신에 세울 수 있고 있는 안아 미엽형의 립물이 압도적인 존재감을 자아내고 있다.
결여되어 없어짐 부분이 없고, 산그늘의 수컷으로서 알려진 아마고씨의 위세를 그리워하게 하는 한 벌이다.
 

 

 

●여러가지권세 복대두·대소매·갑옷의 부속품 첨부(야마구치 스오우 모우리보공회장·중요문화재)
아마코 쓰네히사우키타직가와 함께“중국의 3대모장”으로 거론되는모리 모토나리소용의 도구이다.
대모습의 쿠와가타에 검의 전립을 배치한 근두에 대소매와 갑옷의 부속품을 모두 갖추어, 긴장된 몸통과 대 (듣)묻는 요7간5단의 초접이 이 시대의 특징을 잘 나타내고 있다.홍·백·자의 모인으로 화려하게 위협해져 만든 일의 수법은 세밀 정중하고 총체의 형 자도 잘 갖추어져, 무로마치 시대 말기에 있어서의 전형적인 배두렁이이다.

 

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그런데, 고대부터 무로마치 시대의 후기까지의 일본의 투구와 갑옷의 변천을, 구보로 되돌아 보았습니다만 어땠습니까?

이 후, 「무로마치시대 말기부터 사용된 편」 「에도시대편」이라고 계속 되어 가는 예정입니다.



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