伝統文化

 

 

 

我が民族の歴史が始まった以来幾多の外的の侵犯があったがその時ごとにうちの先祖たちは熱い救国(救国)の意志とすごい闘志で国難(国難)を乗り越えて来た. 国難にあう度に卓越なリーダーシップを発揮して民族的気象を高くふるった救国の英雄はいちいち数え切れないだけ多いが, 李舜臣こそその多い英雄, 豪傑, 忠臣, 烈士の中にもきっての偉人という事実にはその誰も異意を申し立てることができないだろう.

李舜臣(李舜臣)は韓国歴史上最高の戦争英雄で壬辰の乱(壬辰倭乱), 丁酉災乱(丁酉再乱)という未曽有の災いにあって国と同胞の滅亡が目の前に至った時朝鮮水軍を総指揮していろいろの不利な与件の中でも必勝の信念とすごい戦略で勝ちっ放し(連戦連勝)をあげた不世出の名将だった. 彼は貧しい士の息子に生まれて 54年の長くない一生を送る間あらゆる苦難の中でもひたすら忠孝(忠孝), 仁義(仁義)と愛国愛族精神(愛国愛族精神)に一貫した民族の大きい師匠だった.

イギリス海軍兵学校校長を勤めたビルラド(G.A.Billard) 所長(少将)は ¥”朝鮮の李舜臣という海軍提督がネルソン(Horatio Nelson)に劣らないすぐれた指揮官という事実をイギリス人たちは認めにくいが李舜臣が東洋最高の海軍提督という点は否定することができない事実だ.¥”と李舜臣を評価した. 中国係アメリカ人歴史学者でアメリカワシントン州立大学校教授であるレイ硫黄(Ray Hwang) 博士は東洋史 3台戦争英雄で朝鮮の李舜臣(李舜臣), ベトナム多異美瑛王朝のチェンフンダオ[千訓道], 中国明のワンスングファン(袁崇煥)を持ちながらその中でも李舜臣が一番偉い手柄を残した英雄だとほめたたえた.

今日国内外の情勢, 特に再び抜けた政治的, 経済的危機に照らして見る時李舜臣は今まで知られて来た節税の名将, 救国の英雄という面貌に加えてすごいリーダーシップを取り揃えた最高経営者だったという事実を今更節減するようになる. 21世紀という新しい激変の時代, 激動の時代を迎えて強大国たちとの無限競争で生き残るためにしても私たちは東西古今(東西古今)のどんな偉人よりも偉かった聖雄(聖雄) 李舜臣のリーダーシップを通じて国難克服の知恵を捜さなければならないでしょう.

◆ 残ったことは 12尺の軍船と 120人の兵士だけ...

このようにして官職はたとえこの前どおり帰って来たが血の汗流して育成した強兵と艦隊は間所なかった. ひたすら李舜臣に右に出る者は 9人の将校と 6人の兵士がいるだけだったのでまさに大根(無)から油(有)を創造して, 不可能ができるようにしなければならない状況だった. 李舜臣の命をかけた強行軍は続いていた.

調整の命令を受けた 8月 3日に纎津江下流河東歩みで光陽二するのを経ってまた河東双鶏と石柱官を経って求礼に至った. 翌日には今日纎塵川辺の景色良い遊園地で有名なコックソン郡竹谷面鴨緑里を通って哭声に至った. 求礼や哭声や倭軍が攻め寄せるという消息に官民するまでもなく皆避難を行ってからから空いていた.

李舜臣がパスしたその明くる日に日本軍が求礼に進撃したから当時彼の行軍がいくら危なかったのかよく分かる. その日 8月 5日にオックグァに到着したが, 李舜臣将軍が来たといううわさを聞いた避難民たちがあちこちで殺到し始まり手に負えない境遇を訴えた. 李舜臣は彼らをいちいち慰めた.

オックグァでは前に亀船突撃将だったイギナム(李奇男) 金持ちに会ったし, また軍糧普及に功労が多かった情事与えた(鄭思峻), ゾングサリブ(鄭思立) 兄弟と感激の巡り合いをしたりした. オックグァでは二日をとどまったが多くの民が李舜臣をついて行ったりした. 彼らはその道だけがすぐ住む道だと思ったのだ. 一方県監という字は病気を言い訳で出て見ないようにした. 大老した李舜臣が処刑しようとするとあの時で尋ねて来て謝罪する事も起った.

8月 7日に玉とを出発して 8日にスンチョンに至った. オックグァとスンチョンで召集した軍事が 60人余りになった. スンチョンでは尋ねて来た僧侶ヒェフィ(恵煕)にウィザングチォブ(義将帖)を与えてウィスンググン(義僧軍)を募集するようにした. そして兵士イボックナム(李福男)がまだ処理することができなかった火薬と総統みたいな武器を他の所に移して問うようにした後軽い長編前などは軍官たちにとって分けているようにした. そしてその日はスンチョンに泊った.

8月 9日にスンチョンを発って落雁と悟性ゾヤングチァングに至ったが李舜臣は多くの日の路毒とあちこちで受けた衝撃が重なって 13日まで寝こまなければならなかった. 14日にやっと再び道を発ってポソンで二日間とどまった. そしてその明くる日強震軍営欧米に至った.

なので 18日には軽傷右水使排泄が 12尺の軍船を従えている長興フェリョングポに到着した. ところでこちらで軽傷右水使排泄が船酔いや出たという言い訳に出ないのだった. 閑山島時代同じ見当島ない仕業だったし, 今すぐ首を打ってもすぐれない締めた.

19日には統制使就任式を行ったがこの時も排泄は賃金の教書に晨拜しなかった. 乱中日記の表現によれば ¥”生意気な態度が非常に驚愕する事¥” であったがそれさえも彼が従えている軍事たちの士気が落ちることを気づかって彼の異邦と営利を取って来て棍杖を打つことで止まなければならなかった. その明くる日の 20日に李舜臣はフェリョングポで軍船と軍事を従えて御真虜行ってから 24日には魚卵虜移動した.

このように彼は約 15日間の危ない強行軍あげくやっと 12尺のこわれ終わることは軍船と 120人余りの軍事を集めることができた.

8月 28日には朝鮮水軍が七川量海戦(漆川梁海戦) 敗北以後最初で, そして李舜臣が三道水軍統制使で復帰した後初めて日本水軍と遭遇した日だった.

その日の状況を乱中日記(乱中日記)はこんなに伝える.

¥”意図しなかったのに賊船 8尺が入った. 多くの配意軍事たちが恐ろしくて怖がって軽傷右水使は避けて退こうと思った. 私は身動きしないで呼子を不顧旗を振り回しながら追い付くように言い付けたら賊船が退いた. ドイゾッよ海南ガルドまで行ってから帰って来た.¥”

7月の七川量敗戦(漆川梁敗戦)によって朝鮮水軍が全滅するように惨敗したデュラ伝えることは不足で軍事も少ないから将卒たちが怖がるに値した. またこの時は前と一緒に探望船を出して適正を察する景況もなかった. だから賊船たちが ¥”思いのほか¥” 現われたと言ったのだ. もし李舜臣将軍がすごい勇気とリーダーシップを発揮して軍事たちを督励しなかったらもしかしたらこの日交戦で再び全滅されたかも知れない事だった.

敵軍がこちら状況を偵察して帰ったから陣営を移さなければならなかった. 日本水軍が大量の軍船で群がって来たら 12尺のしがない軍勢で対立して戦うことができないからだった. 李舜臣は敵軍の先発隊を追い出したその日夕方軍事たちを従えてオランポを去って雄途に移動した. そしてその翌日の 8月 29日にはまた進度劈破陣でチンを移した.

劈破陣は進度と海南の間で南海と西海を受け継ぐ狭い水路ウルドルモック海峡の中間位に位した. 前に閑山島統制営で南海を守ったことのように今度はウルドルモック海峡で西海を守らなければならなかったし, 朝鮮水軍にはもっと退く所がなかった.

◆ ¥”死のうとすれば暮して暮そうとすれば死ぬ.¥”

一方, 先祖は李舜臣を三道水軍統制使でまた任命することはしたが誰里も全滅したようにした水軍がいつまでも心細かった. そのため ¥”水軍があまりにも微弱だから陸軍に従軍しなさい.¥”は無茶な命令を送り届けた. 水軍を解体するという意味だった.

これに対して李舜臣はこんな長計をあげた.

¥”敵軍が壬辰年から 5, 6年間敢えて全羅道と忠清道を侵犯することができなかったことはひたすら水軍が町角を守ったからです. まだ神さま(臣)には 12尺の軍船があります. 死に物狂いで争えばむしろ勝つことができる事です. もし水軍を全廃(全廃)したら敵軍が万番(回)幸いで思うだけでなく忠清道を経って漢江まで行くでしょう. それが神さまが心配するところです. そしてたとえ軍船と兵力が少ないけれど神さまが死なないで生きている一敵軍は敢えて私たちを軽んずることができないだろう.¥”

当時陸地の戦況は日本軍の左軍が 8月 16日南原性を陷落させて, 友軍は黄石酸性を占領したし, 25日には左, 友軍が力を合わせてジョン・ズソンを陷落させた後だった. そして李舜臣が劈破陣に移動した 8月 29日に左軍は全羅道全域を席巻しようと南下の中だったし, 友軍はソウルを向けて北上の中だった.

12尺の板屋船に 1尺の軍船をもっと手に入れてやっと水軍の模様を取り揃えた李舜臣は劈破陣でウルドルモック海峡を最後の防御線にして作戦を構想した. ところで前から臆病だった軽傷右水使排泄が逃げてしまう事件が起こった. 9月 2日の仕事だった. 戦闘を控えて長寿が逃亡を張ったから, 本人の卑怯な行動はそうだ打っても今すぐ軍事たちの士気が言えなく落ちた. こんなに卑怯な長水路, 背信者で烙印を押された排泄は戦争が終わった後の 1599ニョンエ高山地である慶尚道先山でつかまって首が切られた.

李舜臣はこのように敵軍と戦う前に我軍と先に争わなければならなかった. 戦術に行き違う命令を下してこれを強要する国王と対立して彼を説得して, 逃げる長寿のため動搖する軍事たちも鎮めなければならなかった. また日増しに李舜臣の健康が非常に悪くなって身を支えにくい位に病状が悪くなった. こんなに状況が劣悪な中 9月 7日に探望船に乗って適正を察しに出た軍官林重刑(林仲亨)が帰って来て ¥”倭船 55尺の中 13尺がオランポ沖合に至ったが, たぶん私たち水軍を攻撃しようとするようです.¥” して報告した.

報告を受けると李舜臣はすぐ戦闘準備を言い付けた. その日午後 4時頃なると果して賊船 12尺が劈破陣に近付いている姿が目に入って来た.

李舜臣はすべての軍船に性真(成陳)することを言い付けて自分が先頭に立って賊船たちを向けて突撃した. 朝鮮水軍が恐ろしい勢いで飛びかかる姿を見ると日本の軍船たちは交戦する思いをしなくて前を争って逃げ始めた. 最後まで追撃したかったが風が向かい風のうえ水路も逆流していた. また微弱な全力(戦力)で無鉄砲に追撃しては時の伏兵地界(伏兵之計)に巻きこまれることもできるのでまた劈破陣に帰って来た.

李舜臣は劈破陣に帰って来るやいなや長寿たちにこんなに厳命を下げた.

¥”今夜に必ず時の夜襲があるでしょう. 多くの長寿はあらかじめ分かって備えるはずであり, 少しでも軍令を破る事があったら軍法どおり施行しよう!¥”

果して彼の予測どおり敵軍はその晩 10時頃夜襲を加えて来た. 賊船たちが遠くからから火砲をソアデであり劈破陣に近付いていた. 軍事たちが怖がってすくめて敢えて応戦する思いができないと今度にも李舜臣の板屋船が先頭に立って知者総統(地字銃筒)を発射しながら日本水軍と交戦をした. すると他の軍船たちも勇気を出して賊船を向けて砲弾を発射したし, 前後の番にかけた攻防戦あげく戦艦 8尺が破損される被害を被った日本水軍は夜明け 1時頃に遠い海で逃げてしまった.

前には賊船を捜し回って撃滅した朝鮮水軍だったがこれからは敵軍が来ることを待ってから争わなければならない都合だった. 軍事たちも前のような強兵ではなく死を恐ろしがる弱卒が多かった. あれこれと最悪の状況だった.

明くる日の 9月 8日に李舜臣は長寿たちを呼んで対策を論議したが息苦しい点が一つ二つではなかった.

特に七川量海戦(漆川梁海戦)で戦死したイオックギの後なので赴任した全裸右水使ギムオックツ(金億秋)は兵法の基本もまともに分からない低劣な人物だった. どんなにせっぱつまれば李舜臣がその日日記でこんなに嘆いたのか.

¥”たかが万戸位でも相応しい人物だろう, 大将の職なのを与えるということは不可能なのに左議政金応南(金応南)と親戚の間だとして無理やりに除数して送ったから調整に人がいると言えるか. ただ時が会う事ができなかったことがハンスロウルだけだ!¥”

またこの日賊船 2尺がオランポから出て我軍の軍勢を探るので永登浦万戸曹渓宗が追撃したら荒てた敵兵たちは船に積んだ品物まで海に捨てながら慌てて逃げた.

9月 14日, 賊船が現われたという急報が来た. 伝令船にとって避難民たちを皆陸に入るようにして, 翌日本陣を海南全裸右水営に移動した後李舜臣は部下将令たちを集めてこんなに流れ矢した.

¥”兵法に至るのを必ず死ぬのを覚悟して争えば暮して, 暮そうとすれば死ぬと言った.また, 一人が町角をよく守れば千人もあうことができるという話がある. 今私たちの形勢がこれと同じだ. 祭場が少しでも軍令を破れば軍律どおり施行するはずだから小さな過ちも許さないだろう!¥”

まさに必死的で悲壮な決意だった.

李舜臣がウルドルモック海峡の中である劈破陣で北末の全裸右水営で陣営を移したことは軍事力の劣勢のためだった. 弱気の全力で荒くて狭い水を汲む背いて争うことはできなかったのだ.

言い替えれば壬辰の乱(壬辰倭乱) 開戦初年度のように日本水軍を広い海で誘引してかこんで殲滅した時とは事情が違ったのだ. そうだから今度は敵軍が狭くて荒い海峡をすり抜けて来る時を待ってから彼らがその荒しい水を汲む背くようにして争おうと思ったのだった.

◆ 地形地税を利用して不利な借り家を打開する計策.

その年旧暦 9月 16日ウルドルモック海峡では東西古今(東西古今)を通じて空前絶後(前無後無)一海上台血戦(海上大血戦)が起ったから, 世界戦争思想その類例を捜してみることができない不思議(不可思議)一戦闘である鳴梁海戦(鳴梁海戦)が始まったのだった.

乱中日記(乱中日記)によれば早い朝にビョルジングン(別進軍)が李舜臣に報告するのを数を知らぬ程多いこと(不知其数)の日本軍船が進度と海南の間を経ってまさに朝鮮の軍船たちがチンにしてある所を向けて入って来ると言った. 李舜臣は直ちに軍事たちに戦闘準備を言い付けて軍船たちを指揮して日本水軍の進路を塞いで日付け陣(一字陳)を形成するようにした.

それならここで 1597年 9月鳴梁海戦(鳴梁海戦)が起った戦闘場所であるウルドルモック海峡の地形的特徴をよく見る事にしよう.

今年石目海峡は潮流が早くて水勢がとても強くてかなりの滲む過ぎ去ることができない. 劈破陣沖合の広い海域で水がマロヘを通じて狭い水路にしたがってウルドルモックでパスするようになっている. この狭い水路を通じる多い水がウルドルモックでは自ずから睡眠の高さが今年ラーガで圧力の生ずるのに, この水勢が今の進度大橋の外を抜けて全裸右水営南側の広い海域にくぐる時はまるで堰の水が広がって行くようにとても強い流速を形成するようになるのだ. この時最強流速が 11Nt, 1秒に 5‾7mtに至るようになる.

満ち潮の時広い南海の海水が狭い  ウルドルモックでいっぺんに押し寄せて西海にくぐるようになれば海岸の両方海辺と急傾斜を成して水が零れ落ちるように早いにわか造り類が流れるのだ. ウルドルモックの水勢の特徴はまたある. 韓国国立海洋研究員調査チームが地形を分析して描き出した海底地形図を見ればウルドルモックに数十の多様な障害物が湧いている. にわか造り類で流れた水勢が障害物にぶつかって方向を取ることができずに渦巻くようになるのだ.

日本水軍の育成地域である四国[四局]のミミャクボ地域にもウルドルモックと非常に似ている水路(水路)がある. 広い海で狭い海に入って行く所にはおびただしい潮流が流れているのに最高流速が 10Ntで水勢の速度がウルドルモック海峡と似ている. したがって日本水軍にウルドルモック海峡の荒い所用石と早い水勢は危険的要素になることができなかったという結論が出る.

それならもうこんな早い水勢に慣れた日本水軍を迎え 13尺の敗残では(敗残船)で難しい戦闘をしなければならない李舜臣としては他の秘策が必要だったろう. それは果して何だったろうか?

この時日本水軍はグキヨシダカ[九鬼嘉隆], ドドダカー島だと[藤堂高虎], ワキサカヤスハで[脇坂安治], 旧塁シマミチフサ[来島道総], シマズYoshihiro[島津義弘] などが従えた 333尺の軍船が劈破陣一帯に駐屯して朝鮮水軍を打つ準備をしていた. 軍船がただ 13尺の外に残らない朝鮮水軍の全力を完全に粉碎するために日本水軍のすべての全力を動員したのだった.

これらの中ワキサカヤスハルと旧塁シマミチフサが先鋒艦隊 133尺を導いて朝鮮水軍を撃破して水を汲む開きながら西海に北上するためにウルドルモック海峡で進入した. 旧塁シマミチフサは 1592年 6月初の唐布海戦(唐浦海戦)から敗死(敗死)した旧塁シマミチユキ[来島満行]の弟だった. たぶん彼は今度機会に朝鮮水軍の残った名残を完全につぶしてしまって李舜臣の首を枕にして死んだ兄さん(型)の栄転に捧げて仇を討つという意欲があふれたはずだ.

しかしだれが見ても日本水軍の一方的な勝利がそらぞらしかったこの戦闘は驚くべきことに全然違った結果で終わるようになった.

◆ 12尺の軍船で 133尺の敵軍艦隊を撃退させる.

ワキサカヤスハで[脇坂安治]と旧塁シマミチフサ[来島道総]が導く日本水軍の先鋒艦隊は手迹な優勢だけ信じてウルドルモック海峡に立ち入った. 李舜臣はこれらをもうちょっと狭いにわか造り類で誘引するために 13尺の軍船たちを日付け陣(一字陳)で竝ぶようにして落ち着いて待った.

ところで急に先頭に立って進撃した安宅では(安宅船) 数十尺が急に立ち止まった. 何やら安宅船の尖ったような船底を塞いでこれから出ることができないようにしたのだ. それは李舜臣が今年石目海峡の地形と日本水軍の主力戦艦である安宅船の特徴を利用した  悲壮のカード, 手元鉄鎖(鉄鎖)だった. 今の進度大橋があった席にマックゲを設置して鉄鎖は海水に掛かるように隠しておいて日本水軍を待ったのだ.

先頭の日本軍船たちが手元鉄鎖にかかってこれから出ることができずに狭いにわか造り類と早い水勢に巻き込まれて隊列が崩れると後に従った他の賊船たちも方向を取ることができずに連続追突(連続追突)を起こしてきちんきちんと積もるようになった. 午後 1時頃に水路が停止したが日本水軍は五度街道できなかったまま混乱に陷っていた. この時を逃さないで統制使李舜臣の大長線が先に賊船で近付いた.

¥”恐ろしくてないでね! 倭船 1バックチォックでも我軍を歯が立たない. うちなさい! 賊船を焚滅しなさい!¥”

しかし朝鮮水軍の他の軍船たちは相変らず数鼠があまりにも多い敵軍艦隊を恐れてこれから出るのを憚った. 李舜臣が我軍の軍船を向けて火砲を狙うようにして旗下長寿たちを大きい音で叱った.

¥”中県令, 君のこいつ! 戦闘の中に軍令を破るなんて, 貴様がそしても生き返えるようなのか? 逃げればどの所で住むことができるのか?¥”

巨済県令安危(安衛)が李舜臣の大どなりを聞いて急に敵陣の中に突撃すると今度は中軍場ギムウングする(金応喊)に叫んだ.

¥”ギムウングする, こいつよ! お前は中軍場として自分の命だけ尊く思って賊船に包囲された大長線を求める考えをしないから君の罪をどうして兔れるはずなのか? 普段なら今すぐ処刑することだとはいえ賊勢が急だからまず功を立てるようにしよう!¥”

ギムウングハムも軍船を走って応戦し始めた.

朝鮮水軍は知者総統(地字銃筒), 賢者総統(玄字銃筒)を発射して雨脚のように火田(火箭)をうって飛ばしながら鉄鎖にかかって隊列が乱れていられた日本水軍を猛烈に攻撃した. 李舜臣は霊気(令旗)を振りながら軍事たちを督励している途中安危の板屋船が危機に落ち込んだ姿を見つけた. 賊船二つの尺で案内爪を投げて安危の軍船を引っぱるようにして敵兵たちが導線(渡船)を試みながら朝鮮軍事たちに矛と刀を振り回していた. 安危と彼の兵士らは矛と刀で打ちながらゲミテのように軍船に這い上がる敵兵たちを受け止めようと死に物狂いで争っている途中ついくたびれてしまった.

李舜臣は安危の郡では横で伝えることを駆って行って砲弾と仏画肉を激しくうつようにしてあっという間に賊船 3尺をこなごなに壊した. あの時ノックドマンホ宋汝鐘(宋汝〓)とピョングサンポマンホゾングウングも(丁応斗)の軍船が追い掛けて来て協力して賊船たちを撃沈させた. この時また引潮になると停止した水路が逆に変わって日本水軍の方で流れた. 有利だった潮流さえ不利になると日本水軍は右往左往(右往左往)している途中精神なしに朝鮮水軍の砲撃に打たれた.

李舜臣が柄ある彩色ビダンオッを口は賊将を眺めて弓矢(弓矢)を繰り上げてうった. 李舜臣の矢を額に当たって賊将旧塁シマミチフサ[来島道総]が即死して海の上に落ちると兵卒ギムドルソン(金〓孫)が彼の死骸を案内爪で引き上げて首を枕にしてその需給(首級)を帆柱にぶら下げた. 敵軍の先鋒大将が死ぬ姿を見て朝鮮水軍の買うことは空を突くように高くなったし, 一方日本水軍は完全に勢いがくじけてしまった.

日本水軍に比べて 10分の 1に過ぎない 13尺の軍船だったが乗勢に乗って一遍に追い掛けて火砲を乱射したら立ちこめるような砲煙の中でその音は海を鳴らした. 朝鮮水軍の兵士らはのべつ幕無しに喊声をあげて矢を激しく浴びせた.

このような悪戦苦闘(悪戦苦闘) あげく朝鮮水軍は賊船 133尺の中 31尺を撃沈させて 8千名余に至る日本水軍の兵力を皆殺しさせる大勝をおさめた. 驚くべきなことはこの戦闘で朝鮮水軍の被害がわずか戦死者 2人, 負傷者 3人に過ぎなかったし 13尺の軍船の中にただ一尺も損失を被らなかったという事実だ. 先鋒艦隊が李舜臣の用兵術によって余地もなく折れて崩れると残り日本軍船たちも減らす飛びかかることができずに退却してしまった.

李舜臣は戦闘が終わった後賊船たちの再侵入を心配してその位置にそのまま停泊しようと思ったが風浪が荒くて向かい風まで激しく急きまくって仕方なく当社島で退いてその晩を明かした.

世界歴史上こんなに兵力の不足と天気悪化, 軍事たちの詐欺低下などの悪條件の中ですべての状況を有利するように変化させてすごい統率力で不可能ができるようにした指揮官のすぐれた能力で勝利をおさめた例はほとんどなかった. 鳴梁海戦(鳴梁海戦)は科学的知識を利用した用兵術, 李舜臣のリーダーシップと死を恐ろしがらない勇気, どんな不利な状況でもあきらめない執念が遂げた奇蹟の勝捷(勝捷)だった.

 

鳴梁海戦(鳴梁海戦)の勝利で丁酉災乱(丁酉再乱)は再び転機を用意するようになる. すなわちこの勝利で日本軍が西海に北上して漢江を通じてソウルに真空しようとする祈祷を完全に挫折させたし, この勝利をきっかけで朝鮮水軍の再建に加速度がかかるようになったからだ.

参照書籍; ファングワンガブ(黄源甲) 著述 ¥”復活する李舜臣¥” エコービーズニス(EcoBusiness) 2004, キム・ジョンデ(金宗代) 著述 ¥”神さま(臣)にはまだヨルドチォックの軍船があります.¥” ブックポス(BookFors) 2001, ツェドソック(崔頭錫) 著述 ¥”壬辰の乱(壬辰倭乱)と李舜臣(李舜臣)¥” 一刻 1999, 金蛍光(金炯光) 著述 ¥”人物に見る朝鮮社(朝鮮史)¥” シアツルパンサ 2003.

{引き続き}


「불패의 명장 이순신(李舜臣)」11.기적의 승첩 명량해전(鳴梁海戰) (2)

 

 

 

우리 민족의 역사가 시작된 이래 수많은 외적의 침범이 있었으나 그때마다 우리 선조들은 뜨거운 구국(救國)의 의지와 비상한 투지로 국난(國難)을 극복해왔다. 국난을 당할 때마다 탁월한 리더십을 발휘하여 민족적 기상을 높이 떨친 구국의 영웅은 일일이 헤아릴 수 없을 만큼 많지만, 이순신이야말로 그 숱한 영웅, 호걸, 충신, 열사 가운데서도 으뜸가는 위인이라는 사실에는 그 누구도 이의를 제기할 수 없을 것이다.

이순신(李舜臣)은 한국 역사상 최고의 전쟁 영웅으로 임진왜란(壬辰倭亂), 정유재란(丁酉再亂)이라는 미증유의 재앙을 당해 나라와 겨레의 멸망이 눈앞에 이르렀을 때 조선 수군을 총지휘하여 갖가지 불리한 여건 속에서도 필승의 신념과 비상한 전략으로 연전연승(連戰連勝)을 올린 불세출의 명장이었다. 그는 가난한 선비의 아들로 태어나 54년의 길지 않은 일생을 보내는 동안 온갖 고난 속에서도 오로지 충효(忠孝), 인의(仁義)와 애국애족정신(愛國愛族精神)으로 일관한 민족의 큰 스승이었다.

영국 해군사관학교 교장을 지냈던 빌라드(G.A.Billard) 소장(少將)은 "조선의 이순신이라는 해군 제독이 넬슨(Horatio Nelson)에 버금가는 뛰어난 지휘관이라는 사실을 영국인들은 인정하기 힘들겠지만 이순신이 동양 최고의 해군 제독이라는 점은 부정할 수 없는 사실이다."라고 이순신을 평가하였다. 중국계 미국인 역사학자로 미국 워싱턴 주립대학교 교수인 레이 황(Ray Hwang) 박사는 동양사 3대 전쟁 영웅으로 조선의 이순신(李舜臣), 베트남 다이비에이 왕조의 첸 훈다오[千訓道], 중국 명나라의 원숭환(袁崇煥)을 들면서 그 중에서도 이순신이 가장 위대한 공훈을 남긴 영웅이라고 칭송하였다.

오늘날 나라 안팎의 정세, 특히 또다시 빠진 정치적, 경제적 위기에 비추어볼 때 이순신은 지금까지 알려져 왔던 절세의 명장, 구국의 영웅이라는 면모에 더해 비상한 리더십을 갖춘 최고 경영자였다는 사실을 새삼 절감하게 된다. 21세기라는 새로운 격변의 시대, 격동의 시대를 맞이하여 강대국들과의 무한경쟁에서 살아남기 위해서도 우리는 동서고금(東西古今)의 그 어떤 위인보다도 위대했던 성웅(聖雄) 이순신의 리더십을 통해 국난극복의 지혜를 찾아야 할 것이다.

◆ 남은 것은 12척의 군선과 120명의 병사뿐...

이렇게 하여 벼슬은 비록 예전대로 돌아왔으나 피땀 흘려 육성한 강병과 함대는 간 곳 없었다. 오로지 이순신을 따르는 자는 9명의 장교와 6명의 병사가 있을 뿐이었으니 그야말로 무(無)에서 유(有)를 창조하고, 불가능을 가능하게 만들어야 하는 상황이었다. 이순신의 목숨을 건 강행군은 계속되고 있었다.

조정의 명령을 받은 8월 3일에 섬진강 하류 하동 행보에서 광양 두치를 거쳐 다시 하동 쌍계와 석주관을 지나 구례에 이르렀다. 다음날에는 오늘날 섬진강변의 경치 좋은 유원지로 이름난 곡성군 죽곡면 압록리를 지나 곡성에 이르렀다. 구례나 곡성이나 왜군이 쳐들어온다는 소식에 관민 할 것 없이 모두 피난을 가고 텅텅 비어 있었다.

이순신이 통과한 그 이튿날에 일본군이 구례에 진격했으니 당시 그의 행군이 얼마나 위험했는지 잘 알 수 있다. 그날 8월 5일에 옥과에 도착했는데, 이순신 장군이 왔다는 소문을 들은 피난민들이 곳곳에서 몰려나와 힘겨운 처지를 하소연했다. 이순신은 그들을 일일이 위로했다.

옥과에서는 전에 거북선 돌격장이었던 이기남(李奇男) 부자를 만났고, 또 군량 보급에 공로가 많았던 정사준(鄭思峻), 정사립(鄭思立) 형제와 감격의 해후를 하기도 했다. 옥과에서는 이틀을 머물렀는데 많은 백성이 이순신을 따라나서기도 했다. 그들은 그 길만이 곧 살 길이라고 생각했던 것이다. 반면 현감이라는 자는 병을 핑계로 나와서 보지도 않으려고 했다. 대노한 이순신이 처형하려고 하자 그때서야 찾아와 사죄하는 일도 벌어졌다.

8월 7일에 옥과를 출발하여 8일에 순천에 이르렀다. 옥과와 순천에서 소집한 군사가 60여명이 되었다. 순천에서는 찾아온 승려 혜희(惠熙)에게 의장첩(義將帖)을 주고 의승군(義僧軍)을 모집하도록 했다. 그리고 병사 이복남(李福男)이 미처 처리하지 못한 화약과 총통 같은 무기를 다른 곳으로 옮겨 묻게 한 뒤 가벼운 장편전 등은 군관들로 하여금 나누어 갖게 했다. 그리고 그날은 순천에서 묵었다.

8월 9일에 순천을 떠나 낙안과 오성 조양창에 이르렀는데 이순신은 여러 날의 노독과 곳곳에서 받은 충격이 겹쳐 13일까지 앓아 누워야 했다. 14일에 겨우 다시 길을 떠나 보성에서 이틀 동안 머물렀다. 그리고 그 이튿날 강진 군영구미에 이르렀다.

이어서 18일에는 경상우수사 배설이 12척의 군선을 거느리고 있는 장흥 회령포에 도착했다. 그런데 이곳에서 경상우수사 배설이 배멀미나 났다는 핑계로 나가지도 않는 것이었다. 한산도 시절 같았다면 어림도 없는 짓이었고, 당장 목을 쳐도 시원치 않을 죄였다.

19일에는 통제사 취임식을 가졌는데 이때도 배설은 임금의 교서에 숙배하지 않았다. 난중일기의 표현에 따르면 "건방진 태도가 매우 경악할 일" 이었지만 그나마 그가 거느리고 있는 군사들의 사기가 떨어질 것을 염려하여 그의 이방과 영리를 잡아다가 곤장을 치는 것으로 그쳐야만 했다. 그 이튿날인 20일에 이순신은 회령포에서 군선과 군사를 거느리고 어진포로 갔다가 24일에는 어란포로 이동했다.

이처럼 그는 약 15일간의 위험한 강행군 끝에 겨우 12척의 부서지고 남은 군선과 120여명의 군사를 모을 수 있었다.

8월 28일에는 조선 수군이 칠천량해전(漆川梁海戰) 패배 이후 최초로, 그리고 이순신이 삼도수군통제사로 복귀한 뒤 처음으로 일본 수군과 조우한 날이었다.

그날의 상황을 난중일기(亂中日記)는 이렇게 전한다.

"뜻하지 않았는데도 적선 8척이 들어왔다. 여러 배의 군사들이 두려워 겁을 먹고 경상우수사는 피하여 물러나려고 했다. 나는 꼼짝하지 않고 호각을 불고 깃발을 휘두르며 따라잡도록 명령하니 적선이 물러갔다. 뒤좇아 해남 갈두까지 갔다가 돌아왔다."

7월의 칠천량패전(漆川梁敗戰)으로 인해 조선 수군이 전멸하다시피 참패한 뒤라 전함은 부족하고 군사도 적으니 장졸들이 겁을 먹을 만도 했다. 또 이때는 전과 같이 탐망선을 내어 적정을 살필 경황도 없었다. 그러니까 적선들이 "뜻밖에" 나타났다고 한 것이다. 만일 이순신 장군이 비상한 용기와 리더십을 발휘하여 군사들을 독려하지 않았다면 어쩌면 이날 교전에서 또 다시 전멸되었을지도 모르는 일이었다.

적군이 이쪽 상황을 염탐하고 돌아갔으니 진영을 옮겨야 했다. 일본 수군이 대량의 군선으로 몰려온다면 12척의 보잘것없는 군세로 맞서 싸울 수가 없기 때문이었다. 이순신은 적군의 선발대를 쫓아낸 그날 저녁 군사들을 거느리고 어란포를 떠나 장도로 이동했다. 그리고 그 다음날인 8월 29일에는 다시 진도 벽파진으로 진을 옮겼다.

벽파진은 진도와 해남 사이에서 남해와 서해를 이어주는 좁은 물길 울돌목 해협의 중간쯤에 위치했다. 전에 한산도 통제영에서 남해를 지켰던 것처럼 이번에는 울돌목 해협에서 서해를 지켜야만 했고, 조선 수군에게는 더 물러날 곳이 없었다.

◆ "죽고자 하면 살고 살고자 하면 죽는다."

한편, 선조는 이순신을 삼도수군통제사로 다시 임명하기는 했지만 아무리도 전멸하다시피 한 수군이 못내 불안했다. 그래서 "수군이 너무나 미약하니 육군으로 종군하라."는 엉뚱한 명령을 내려 보냈다. 수군을 해체하겠다는 뜻이었다.

이에 대해 이순신은 이런 장계를 올렸다.

"적군이 임진년부터 5, 6년간 감히 전라도와 충청도를 침범하지 못한 것은 오로지 수군이 길목을 지키고 있었기 때문입니다. 아직도 신(臣)에게는 12척의 군선이 있습니다. 죽을 힘을 다해 싸우면 오히려 이길 수 있는 일입니다. 만일 수군을 전폐(全廢)한다면 적군이 만 번 다행으로 여길 뿐만 아니라 충청도를 거쳐 한강까지 갈 것입니다. 그것이 신이 걱정하는 바입니다. 그리고 비록 군선과 병력이 적지만 신이 죽지 않고 살아 있는 한 적군은 감히 우리를 얕보지 못할 것입니다."

당시 육지의 전황은 일본군의 좌군이 8월 16일 남원성을 함락시키고, 우군은 황석산성을 점령했으며, 25일에는 좌, 우군이 합세하여 전주성을 함락시킨 뒤였다. 그리고 이순신이 벽파진으로 이동한 8월 29일에 좌군은 전라도 전역을 석권하고자 남하 중이었고, 우군은 서울을 향해 북상 중이었다.

12척의 판옥선에 1척의 군선을 더 구해 가까스로 수군의 모양을 갖춘 이순신은 벽파진에서 울돌목 해협을 최후의 방어선으로 삼고 작전을 구상했다. 그런데 전부터 겁이 많던 경상우수사 배설이 도망쳐버리는 사건이 일어났다. 9월 2일의 일이었다. 전투를 앞두고 장수가 도망을 쳤으니, 본인의 비겁한 행동은 그렇다 치더라도 당장 군사들의 사기가 말할 수 없이 떨어졌다. 이렇게 비겁한 장수로, 배신자로 낙인찍힌 배설은 전쟁이 끝난 뒤인 1599년애 고산 땅인 경상도 선산에서 붙잡혀 목이 잘렸다.

이순신은 이처럼 적군과 싸우기 전에 아군과 먼저 싸워야만 했다. 전술에 어긋나는 명령을 내리고 이를 강요하는 국왕과 맞서 그를 설득하고, 도망치는 장수 때문에 동요하는 군사들도 진정시켜야 했다. 또한 날이 갈수록 이순신의 건강이 매우 나빠져 몸을 지탱하기 힘들 정도로 병세가 악화되었다. 이렇게 상황이 열악한 가운데 9월 7일에 탐망선을 타고 적정을 살피러 나갔던 군관 임중형(林仲亨)이 돌아와서 "왜선 55척 가운데 13척이 어란포 앞바다에 이르렀는데, 아마도 우리 수군을 공격하려는 듯합니다." 하고 보고했다.

보고를 받자 이순신은 곧 전투준비를 명령했다. 그날 오후 4시쯤 되자 과연 적선 12척이 벽파진으로 접근하고 있는 모습이 눈에 들어왔다.

이순신은 모든 군선에 성진(成陳)할 것을 명령하고 자신이 선두에 서서 적선들을 향해 돌격했다. 조선 수군이 무서운 기세로 달려드는 모습을 보자 일본의 군선들은 교전할 생각을 안 하고 앞을 다투어 달아나기 시작했다. 끝까지 추격하고 싶었지만 바람이 역풍인데다가 물길도 역류하고 있었다. 또 미약한 전력(戰力)으로 무턱대고 추격하다가는 적의 복병지계(伏兵之計)에 말려들 수도 있으므로 다시 벽파진으로 돌아왔다.

이순신은 벽파진으로 돌아오자마자 장수들에게 이렇게 엄명을 내렸다.

"오늘 밤에 반드시 적의 야습이 있을 것이다. 여러 장수는 미리 알아서 대비할 것이며, 조금이라도 군령을 어기는 일이 있다면 군법대로 시행하리라!"

과연 그의 예측대로 적군은 그날 밤 10시쯤 야습을 가해왔다. 적선들이 멀리서부터 화포를 쏘아대며 벽파진으로 접근하고 있었다. 군사들이 겁을 먹고 움츠리며 감히 응전할 생각을 못하자 이번에도 이순신의 판옥선이 선두에 서서 지자총통(地字銃筒)을 발사하며 일본 수군과 교전을 벌였다. 그러자 다른 군선들도 용기를 내서 적선을 향해 포탄을 발사했고, 전후 네 차례에 걸친 공방전 끝에 전함 8척이 파손되는 피해를 입은 일본 수군은 새벽 1시쯤에 먼 바다로 달아나고 말았다.

전에는 적선을 찾아다니며 격멸하던 조선 수군이었으나 이제는 적군이 오기를 기다렸다가 싸워야 하는 형편이었다. 군사들도 전과 같은 강병이 아니라 죽음을 두려워하는 약졸이 많았다. 이래저래 최악의 상황이었다.

이튿날인 9월 8일에 이순신은 장수들을 불러 대책을 논의했는데 답답한 점이 한두 가지가 아니었다.

특히 칠천량해전(漆川梁海戰)에서 전사한 이억기의 후임으로 부임한 전라우수사 김억추(金億秋)는 병법의 기본도 제대로 모르는 용렬한 인물이었다. 오죽하면 이순신이 그날 일기에서 이렇게 한탄했겠는가.

"기껏해야 만호 정도로나 적합한 인물일까, 대장의 직임을 준다는 것은 불가한데 좌의정 김응남(金應南)과 친인척 사이라고 해서 억지로 제수해 보냈으니 조정에 사람이 있다고 할 수 있겠는가. 다만 때를 못 만난 것이 한스러울 따름이다!"

또 이날 적선 2척이 어란포에서 나와 아군의 군세를 정탐하므로 영등포만호 조계종이 추격했더니 당황한 적병들은 배에 실었던 물건들까지 바다에 버리면서 황급히 도망쳤다.

9월 14일, 적선이 나타났다는 급보가 왔다. 전령선으로 하여금 피난민들을 모두 뭍으로 오르게 하고, 다음날 본진을 해남 전라우수영으로 이동한 뒤 이순신은 부하 장령들을 모아 이렇게 유시했다.

"병법에 이르기를 반드시 죽기를 각오하고 싸우면 살고, 살고자 하면 죽는다고 하였다.또, 한 사람이 길목을 잘 지키면 천 명도 당할 수 있다는 말이 있다. 지금 우리의 형세가 이와 같다. 제장이 조금이라도 군령을 어기면 군율대로 시행할 것이니 작은 잘못도 용서치 않을 것이다!"

그야말로 필사적이며 비장한 결의였다.

이순신이 울돌목 해협 가운데인 벽파진에서 북쪽 끝의 전라우수영으로 진영을 옮긴 것은 군사력의 열세 때문이었다. 약세의 전력으로 거칠고 좁은 물길을 등지고 싸울 수는 없었던 것이다.

다시 말해서 임진왜란(壬辰倭亂) 개전 첫해처럼 일본 수군을 넓은 바다로 유인하여 포위하고 섬멸하던 때와는 사정이 달랐던 것이다. 그렇기 때문에 이번에는 적군이 좁고 거친 해협을 빠져나올 때를 기다렸다가 그들이 그 사나운 물길을 등지게 하고 싸우려 한 것이었다.

◆ 지형지세를 이용해 불리한 전세를 타개하는 계책.

그해 음력 9월 16일 울돌목 해협에서는 동서고금(東西古今)을 통해 전무후무(前無後無)한 해상대혈전(海上大血戰)이 벌어졌으니, 세계 전쟁사상 그 유례를 찾아볼 수 없는 불가사의(不可思議)한 전투인 명량해전(鳴梁海戰)이 시작된 것이었다.

난중일기(亂中日記)에 따르면 이른 아침에 별진군(別進軍)이 이순신에게 보고하기를 부지기수(不知其數)의 일본 군선이 진도와 해남 사이를 거쳐 바로 조선의 군선들이 진치고 있는 곳을 향해 들어온다고 했다. 이순신은 즉각 군사들에게 전투준비를 명령하고 군선들을 지휘하여 일본 수군의 진로를 가로막고 일자진(一字陳)을 형성하도록 했다.

그렇다면 여기서 1597년 9월 명량해전(鳴梁海戰)이 벌어졌던 전투 장소인 울돌목 해협의 지형적 특징을 살펴보기로 하자.

올돌목 해협은 조류가 빠르고 물살이 너무 세어 웬만한 배는 지나가지 못한다. 벽파진 앞바다의 넓은 해역에서 물이 마로해를 통해서 좁은 수로를 따라서 울돌목으로 통과하게 되어 있다. 이 좁은 수로를 통하는 많은 물이 울돌목에서는 자연히 수면의 높이가 올라가고 압력이 생기는데, 이 물살이 지금의 진도대교 밖을 빠져 나가서 전라우수영 남쪽의 넓은 해역으로 빠져 나갈때는 마치 봇물이 퍼져 나가 듯 굉장히 강한 유속을 형성하게 되는 것이다. 이때 최강 유속이 11Nt, 1초에 5~7mt에 이르게 된다.

밀물 때 넓은 남해의 바닷물이 좁은  울돌목으로 한꺼번에 밀려와서 서해로 빠져 나가게 되면 해안의 양쪽 바닷가와 급경사를 이뤄 물이 쏟아지듯 빠른 급조류가 흐르는 것이다. 울돌목의 물살의 특징은 또 있다. 한국 국립 해양 연구원 조사팀이 지형을 분석해 그려낸 해저 지형도를 보면 울돌목에 수십개의 크고 작은 암초가 솟아 있다. 급조류로 흐르던 물살이 암초에 부딪쳐 방향을 잡지 못하고 소용돌이 치게 되는 것이다.

일본 수군의 육성 지역인 시코쿠[四局]의 미먀쿠보 지역에도 울돌목과 매우 비슷한 수로(水路)가 있다. 넓은 바다에서 좁은 바다로 들어가는 곳에는 엄청난 조류가 흐르고 있는데 최고 유속이 10Nt로 물살의 속도가 울돌목 해협과 비슷하다. 따라서 일본 수군에게 울돌목 해협의 거친 소용돌이와 빠른 물살은 위험적 요소가 되지 못했다는 결론이 나온다.

그렇다면 이미 이런 빠른 물살에 익숙한 일본 수군을 맞아 13척의 패잔선(敗殘船)으로 어려운 전투를 벌여야 하는 이순신으로서는 다른 비책이 필요했을 것이다. 그것은 과연 무엇이었을까?

이때 일본 수군은 구키 요시다카[九鬼嘉隆], 도도 다카도라[藤堂高虎], 와키사카 야쓰하루[脇坂安治], 구루시마 미치후사[來島道總], 시마즈 요시히로[島津義弘] 등이 거느린 333척의 군선이 벽파진 일대에 주둔하며 조선 수군을 칠 준비를 하고 있었다. 군선이 단 13척 밖에 남지 않은 조선 수군의 전력을 완전히 분쇄하기 위해 일본 수군의 모든 전력을 동원한 것이었다.

이들 가운데 와키사카 야쓰하루와 구루시마 미치후사가 선봉 함대 133척을 이끌고 조선 수군을 격파하여 물길을 열면서 서해로 북상하기 위해 울돌목 해협으로 진입했다. 구루시마 미치후사는 1592년 6월 초의 당포해전(唐浦海戰)에서 패사(敗死)했던 구루시마 미치유키[來島滿行]의 아우였다. 아마도 그는 이번 기회에 조선 수군의 남은 자취를 완전히 없애버리고 이순신의 목을 베어 죽은 형의 영전에 바쳐 복수하겠다는 의욕이 넘쳤을 것이다.

그러나 누가 봐도 일본 수군의 일방적인 승리가 뻔했던 이 전투는 놀랍게도 전혀 다른 결과로 끝나게 되었다.

◆ 12척의 군선으로 133척의 적군 함대를 격퇴시키다.

와키사카 야쓰하루[脇坂安治]와 구루시마 미치후사[來島道總]가 이끄는 일본 수군의 선봉 함대는 수적인 우세만 믿고 울돌목 해협으로 들어섰다. 이순신은 이들을 좀 더 좁은 급조류로 유인하기 위해 13척의 군선들을 일자진(一字陳)으로 늘어서게 하고 침착하게 기다렸다.

그런데 갑자기 선두에 서서 진격하던 안택선(安宅船) 수십 척이 갑자기 멈춰섰다. 무엇인가 안택선의 뾰족한 뱃바닥을 가로막고 앞으로 나가지 못하게 한 것이다. 그것은 이순신이 올돌목 해협의 지형과 일본 수군의 주력 전함인 안택선의 특징을 이용한  비장의 카드, 수중 철쇄(鐵鎖)였다. 지금의 진도대교가 있던 자리에 막게를 설치하고 철쇄는 바닷물에 잠기게 숨겨놓고 일본 수군을 기다렸던 것이다.

선두의 일본 군선들이 수중 철쇄에 걸려 앞으로 나가지 못하고 좁은 급조류와 빠른 물살에 휘말려 대열이 흐트러지자 뒤따르던 다른 적선들도 방향을 잡지 못하고 연속추돌(連續追突)을 일으키며 차곡차곡 쌓이게 되었다. 오후 1시경에 물길이 정지했지만 일본 수군은 오도 가도 못한 채 혼란에 빠져 있었다. 이때를 놓치지 않고 통제사 이순신의 대장선이 먼저 적선으로 다가갔다.

"두려워 말라! 왜선 1백척이라도 아군을 당할 수 없다. 쏴라! 적선을 분멸하라!"

그러나 조선 수군의 다른 군선들은 여전히 수효가 너무 많은 적군 함대를 겁내어 앞으로 나서기를 꺼려했다. 이순신이 아군의 군선을 향해 화포를 겨누게 하고 휘하 장수들을 큰 소리로 꾸짖었다.

"안 현령, 네 이놈! 전투 중에 군령을 어기다니, 네놈이 그러고도 살아날 성 싶으냐? 도망치면 어느 곳에서 살 줄 아느냐?"

거제현령 안위(安衛)가 이순신의 호통을 듣고 급히 적진 속으로 돌격하자 이번에는 중군장 김응함(金應喊)에게 소리쳤다.

"김응함, 이 놈아! 너는 중군장으로서 자신의 목숨만 귀히 여겨 적선에 포위된 대장선을 구할 생각을 하지 않으니 네 죄를 어찌 면할 것이냐? 평상시라면 당장 처형할 것이로되 적세가 급하니 우선 공을 세우게 하리라!"

김응함도 군선을 몰아 응전하기 시작했다.

조선 수군은 지자총통(地字銃筒), 현자총통(玄字銃筒)을 발사하고 빗발처럼 화전(火箭)을 쏘아 날리면서 철쇄에 걸려 대열이 어지러워진 일본 수군을 맹렬하게 공격했다. 이순신은 영기(令旗)를 흔들면서 군사들을 독려하다가 안위의 판옥선이 위기에 빠진 모습을 발견했다. 적선 두 척에서 갈고리를 던져 안위의 군선을 잡아당기게 하고 적병들이 도선(渡船)을 시도하면서 조선 군사들에게 창과 칼을 휘두르고 있었다. 안위와 그의 병사들은 창과 칼로 치면서 개미떼처럼 군선에 기어오르는 적병들을 막아내려고 필사적으로 싸우다가 그만 지쳐버렸다.

이순신은 안위의 군선 옆으로 전함을 몰고 가서 포탄과 불화살을 빗발치듯 쏘게 하여 순식간에 적선 3척을 박살내었다. 그때 녹도만호 송여종(宋汝悰)과 평산포만호 정응두(丁應斗)의 군선이 뒤쫓아와 협력해서 적선들을 격침시켰다. 이때 다시 썰물이 되자 정지했던 물길이 거꾸로 바뀌어 일본 수군 쪽으로 흘렀다. 유리하던 조류마저 불리해지자 일본 수군은 우왕좌왕(右往左往)하다가 정신없이 조선 수군의 포격에 두들겨 맞았다.

이순신이 무늬 있는 채색 비단옷을 입은 적장을 바라보고 궁시(弓矢)를 당겨 쏘았다. 이순신의 화살을 이마에 맞고 적장 구루시마 미치후사[來島道總]가 즉사하여 바다 위로 떨어지자 병졸 김돌손(金乭孫)이 그의 시체를 갈고리로 끌어올려 목을 베고 그 수급(首級)을 돛대에 매달았다. 적군의 선봉대장이 죽는 모습을 보고 조선 수군의 사기는 하늘을 찌를 듯 높아졌으며, 반면 일본 수군은 완전히 기세가 꺾이고 말았다.

일본 수군에 비해 10분의 1에 불과한 13척의 군선이었지만 승세를 타고 일시에 쫓아가며 화포를 난사하니 자욱한 포연 속에서 그 소리는 바다를 울렸다. 조선 수군의 병사들은 쉴 새 없이 함성을 올리며 화살을 빗발치듯 퍼부었다.

이러한 악전고투(惡戰苦鬪) 끝에 조선 수군은 적선 133척 가운데 31척을 격침시키고 8천여명에 이르는 일본 수군의 병력을 몰살시키는 대승을 거두었다. 놀라운 것은 이 전투에서 조선 수군의 피해가 고작 전사자 2명, 부상자 3명에 불과했으며 13척의 군선 중에 단 한 척도 손실을 입지 않았다는 사실이다. 선봉 함대가 이순신의 용병술에 의해 여지없이 꺾여 무너지자 나머지 일본 군선들도 더는 덤벼들지 못하고 퇴각해 버렸다.

이순신은 전투가 끝난 뒤 적선들의 재침을 걱정해 그 위치에 그대로 정박하려 했으나 풍랑이 거칠고 맞바람까지 세차게 몰아쳐 할 수 없이 당사도로 물러나 그날 밤을 새웠다.

세계 역사상 이렇게 병력의 부족과 날씨 악화, 군사들의 사기 저하 등의 악조건 속에서 모든 상황을 유리하게 변화시키고 비상한 통솔력으로 불가능을 가능하게 한 지휘관의 뛰어난 능력으로 승리를 거둔 예는 거의 없었다. 명량해전(鳴梁海戰)은 과학적 지식을 이용한 용병술, 이순신의 리더십과 죽음을 두려워하지 않는 용기, 어떤 불리한 상황에서도 포기하지 않는 집념이 일구어낸 기적의 승첩(勝捷)이었다.

 

명량해전(鳴梁海戰)의 승리로 정유재란(丁酉再亂)은 또 다시 전기를 마련하게 된다. 즉 이 승리로 일본군이 서해로 북상하여 한강을 통해 서울로 진공하려는 기도를 완전히 좌절시켰고, 이 승리를 계기로 조선 수군의 재건에 가속도가 붙게 되었기 때문이다.

참고서적; 황원갑(黃源甲) 저술 "부활하는 이순신" 에코비즈니스(EcoBusiness) 2004, 김종대(金宗代) 저술 "신(臣)에게는 아직도 열두척의 군선이 있습니다." 북포스(BookFors) 2001, 최두석(崔頭錫) 저술 "임진왜란(壬辰倭亂)과 이순신(李舜臣)" 일각 1999, 김형광(金炯光) 저술 "인물로 보는 조선사(朝鮮史)" 시아출판사 2003.

{계속}



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