伝統文化

 

 

我が民族の歴史が始まった以来幾多の外的の侵犯があったがその時ごとにうちの先祖たちは熱い救国(救国)の意志とすごい闘志で国難(国難)を乗り越えて来た. 国難にあう度に卓越なリーダーシップを発揮して民族的気象を高くふるった救国の英雄はいちいち数え切れないだけ多いが, 李舜臣こそその多い英雄, 豪傑, 忠臣, 烈士の中にもきっての偉人という事実にはその誰も異意を申し立てることができないだろう.

李舜臣(李舜臣)は韓国歴史上最高の戦争英雄で壬辰の乱(壬辰倭乱), 丁酉災乱(丁酉再乱)という未曽有の災いにあって国と同胞の滅亡が目の前に至った時朝鮮水軍を総指揮していろいろの不利な与件の中でも必勝の信念とすごい戦略で勝ちっ放し(連戦連勝)をあげた不世出の名将だった. 彼は貧しい士の息子に生まれて 54年の長くない一生を送る間あらゆる苦難の中でもひたすら忠孝(忠孝), 仁義(仁義)と愛国愛族精神(愛国愛族精神)に一貫した民族の大きい師匠だった.

イギリス海軍兵学校校長を勤めたビルラド(G.A.Billard) 所長(少将)は ¥”朝鮮の李舜臣という海軍提督がネルソン(Horatio Nelson)に劣らないすぐれた指揮官という事実をイギリス人たちは認めにくいが李舜臣が東洋最高の海軍提督という点は否定することができない事実だ.¥”と李舜臣を評価した. 中国係アメリカ人歴史学者でアメリカワシントン州立大学校教授であるレイ硫黄(Ray Hwang) 博士は東洋史 3台戦争英雄で朝鮮の李舜臣(李舜臣), ベトナム多異美瑛王朝のチェンフンダオ[千訓道], 中国明のワンスングファン(袁崇煥)を持ちながらその中でも李舜臣が一番偉い手柄を残した英雄だとほめたたえた.

今日国内外の情勢, 特に再び抜けた政治的, 経済的危機に照らして見る時李舜臣は今まで知られて来た節税の名将, 救国の英雄という面貌に加えてすごいリーダーシップを取り揃えた最高経営者だったという事実を今更節減するようになる. 21世紀という新しい激変の時代, 激動の時代を迎えて強大国たちとの無限競争で生き残るためにしても私たちは東西古今(東西古今)のどんな偉人よりも偉かった聖雄(聖雄) 李舜臣のリーダーシップを通じて国難克服の知恵を捜さなければならないでしょう.

◆ 敵侵(敵侵)を退けて国を守って専攻(戦功)を立てたけれども...

李舜臣が投獄された後その間に西人たちは彼の首を枕にしなければならないと先祖をせがんだし, 一方彼を殺してはいけないと嘆願する人も多かった.

パンズングツブサ鄭琢(鄭琢)は嘆願書を通じて顧問を加えずに彼の命をいかしてまた専攻(戦功)を立てる機会を与えるように訴えた. またこれに先たちドチェチァルサイワンイック(李元翼)も文を書いて ¥”倭軍が一番恐れることは私たち水軍で李舜臣を変えてはいけないし, 元均を送ってもだめだ¥” と上訴した. また李徳馨(李徳馨)も救命を訴えたし李舜臣の腹心であるゾングギョングダル(丁景逹)は ¥”李舜臣将軍をおかゆなら国が亡びる¥” と言う愛他は内容の上書をあげた.

あらゆる曲折あげくやっと死を兔れた李舜臣は投獄されてから 28日万人 4月 1日に釈放された. しかし無罪に方面されたのではなかった. 二番目で白衣従軍(白衣従軍)しなさいという命令が下がった.

義禁府玉で釈放された後使ったその飛び魚乱中日記(乱中日記)を見よう.

¥”¥”清い. 獄門を出るようになって南大門外輪姦(尹侃)の宗義家に行った. 棒(蓬), 分(芬), ウール(蔚)と蛇行(士行), 遠景(遠卿)と漢方に一緒に座って長い間話した. 支社ユンザシン(尹自新)が来て慰めた. ビビョンラング耳順誌(李純智)が尋ねて来た.

悲しみが加わることを勝つことができなかった. ユン支社が帰ってから食事後にお酒を持ってまた来た. ギホン(耆献)も来た. 情で勧めながら慰めることだから遠慮することができなかった. 無理やりに飲んだら大変酔った. これ(李) 領空(永公) スンシン(純信)が酒ビンを蹴ってまた来たので一緒に酔って話した.

領議政(領議政; 柳成竜)が鐘を送ったし, 板富社鄭琢(鄭琢), 板書沈喜寿(沈禧寿), 賛成金人院(金命元), 参判里程型(李廷馨), 大司憲老職(盧稷), 同志催院(崔遠), 同志グァックヤング(郭〓) などが人を送ってお見舞いした. 酒に酔って取ることが身を濡らした.

それから二日が経って李舜臣はソウルを発って南に下がった.

白衣の身, すなわち無等病に降等されて権慄がいる元帥府(元帥府)がある陜川郡哨戒に向けたのだった. その日は水原に泊って, 4日に平沢を通って 5日には牙山に至った. ションヨンに参拜してまた道を発ったが, 13日にスンチョンに戦乱を避けて住まいを移した 83歳の老母ビョン氏が息子がザブヒョガッダは消息を聞いて牙山本家で船に乗って上って来てから死んだという秘宝が来た.

まことに無情な空だった. 悲痛な心情で死体を家で仕えたが禁府都事の催促にまともに葬礼も行うことができなかったままどしゃ降が零れ落ちる中に往川に発った.

あの時の事情を乱中日記(乱中日記)はこんなに伝えている.

¥“11日, 夜明けに夢がとても煩わしくて成す言えない. 徳(徳)を呼んでだいたい言って, また息子ウール(蔚)に話した. 心が非常に良くなくて酔ったように及んだように落ち着くことができないからこの何の徴兆だろう. 病患の中にいらっしゃるお母さんを思ったら涙が流れることを悟ることができなかった. 鐘を送って消息が分かって来るようにした.¥”

¥“12日, 鐘苔紋(太文)がアンフングリャングから来て手紙を伝えたが, お母さんは気力が衰弱するが超9日にはお母さんを含めて上下が無事にアンフングリャングに至ったと言う. 行っている途中ボブソングポで寝る時錨綱がひかれてどんどんトネリョがでお腹にとどまってから六日ぶりにお互いに落ちていてから無事に会ったと言う. 息子ウールを先に海辺に行かせた.¥”

¥“13日, 早く食事を終えた後お母さんを出迎えようと海辺に行く途中に紅察訪の家に立ち寄った. ちょっと話す間にウールが哀愁(愛寿)を送ってまだお腹が到着するという消息がないと伝えた. また黄泉上(黄天詳)が酒ビンを持って紅白の家へ来たという話を聞いてからは紅察訪とお別れを告げて紅白の家に行った. やがて鐘順化(順花)が船から来てお母さんがお亡くなりになったという事実を告げた. 飛び出して胸を打って暴れ狂ったが空がまっ暗だった. すぐゲバウィに駆け付けたらお腹がもう来ていた. 道で眺めて悲しみで胸が痞えることをすべて少ないことができない. (又の日だいたい少なかった.)¥”

¥“17日, 金烏と霜リ・スヨンが公州から来て行こうと急き立てた.¥”

¥“19日, 早く旅に出てお母さん栄転に下直を告げて号哭した. どうしよう, どうしよう! 天地間に私のような事情がどこにあろう! はやく死ぬことだけ同じではない.¥”


そのように涙を振り撤きながら道を急き立てて哨戒に到着した李舜臣は 6月 8日桃源数権慄に届けた. そしてその日から 7月 17日まで白衣に従軍した. たとえ階級は無等病だったが李舜臣は誰も無視することができない武将(武将)だったので桃源数権慄以下多い管理が尋ねて来て健康を心配しながら慰めてくれた.

 

◆ 元均の敗戦(敗戦)で朝鮮水軍が全滅される.

一方, そのように望んだ三道水軍統制使(三道水軍統制使) 席を占めるようになった元均(元均)は李舜臣が大事にした逆転の長寿たちを大部分取り替えて自分の意に盲従する者等を朝鮮三道数だね(朝船三道水軍)の要職に座らすうえ, 軍費は不始末にする代わりに雲洲当たりに納まって酒色にだけ抜けた.

柳成竜の懲泌録(懲〓録)にこんなに出る.

¥”元均が閑山島に赴任しては李舜臣が施行したすべての群衆約束を変更して, 部下長寿と軍事たちとして李舜臣エッセ信任受けた人は皆追い仏ったし, その中でも李英男(李英南)は前日自分が敗戦した実情を詳らかに分かっている人だからもっと憎むので軍事たちが悔しく思ってやまなかった.

また李舜臣が日夜ですべての長寿たちとともに戦略を討論した雲洲当たりで元均は愛妾を連れて一緒に寄居して垣根を張っているから長寿たちが彼の顔を見られなかった.

またお酒が好きで常に酔っていたし, それで酔中に部下たちにむやみに刑罰を甚だしく加えたら軍事たちはお互いに言うのを, ¥”もし敵兵が来たら逃げるしかない.¥”と言ったし, 長寿たちも彼をあざ笑って軍事に関する事は全然言わないので彼の号令が施行されなかった.¥”


一方元均は統制使で赴任する前に妻族であるドングアムゴング(東巌公)という人を尋ねて会ったがこんな対話を交わしたという話が安邦俊(安邦俊)の著書隠鋒前で(殷峰全書)という本に載せられている.

元均(元均) ¥”私は統制使という職することを栄え栄えしく思うよりも李舜臣から当ぎり数値を洗うことをもっと通快に思うんだ.¥”

ドングアムゴング(東巌公) ¥”使道が力をつくして敵軍を打ち破って専攻(戦功)が李舜臣よりもっと高くてすぐれるとそれがまことに数値を洗うことであって, 単純に李舜臣の代わりをするということだけ持ってどうして数値を洗うことだとしなさい?¥”

元均 ¥”私がもし敵と会って争うようになる時なら遠ければ片箭(片箭)で, 近ければ装填(長箭)で, そうするうちにマッブダックチなら刀にすることであり, 刀が折れれば棒を持つとしても勝つことがくぎしなさい?¥”

ドングアムゴング ¥”オホ, 大将として刀と棒まで使わなければならない言葉です?¥”


元均が帰った後銅岩公恩安邦俊を呼んで ¥”元均の良い人になることを見たら国事はすべて違った!¥” と歎息したというのだ. こんな情けない人間を置いて ¥”元均は李舜臣劣らない長寿らしい気迫があったし, たとえ知略は李舜臣より劣ったのか分からないが勇猛は非常にすぐれた盲膓(猛将)だった.¥” と美化をする者等が現在国内に存在しているということは本当にゲタンスロウン仕事に違いない.

李舜臣が罷職されてソウルに押送されて無能な長寿元均が統制使に上がると日本軍長寿たちも ¥”私たちの最大の障害物はただ李舜臣一人だけだったが, もう李舜臣が消えたから湖南を席巻して朝鮮を征腹することは時間問題だ!¥” して好きで酒宴までしたと言う.

元均は李舜臣が釜山沖合で艦隊を連れて行って威力デモを起こさないと絶えずおとし入れて来たがいざその自分は統制使になった以後春がたって夏が来ても全然出動する考えをしなかった.

6月下旬, それでも朝鮮水軍に対する恐ろしさが残っていた日本軍首脳部は再びこの中スパイヨシラをギムウングソに送って後続部隊がすぐ海を渡るから朝鮮水軍が守っていてから攻撃すれば成功するはずだという密書を伝えた.

諜報を受けたドチェチァルサイワンイックは桃源数権慄と相談して水軍の出動を言い付けた. スパイヨシラを利用した日本軍長寿たちのまったく同じな奸計に三回も移ったわけだった. 命令を受けた元均は先に陸軍 30万名を動員してアンゴ−ルポとカトク島の倭軍を打ち破った後水陸合同作戦を開いて釜山を打たなければならないと言いながらめったに艦隊を出動させなかった.

何回も急がされてからやむを得ず艦隊をクルゴナガン元均は 6月 18日にアンゴ−ルポとカトク島を攻撃した. しかし加藤Yoshiaki[加藤嘉明]が導く日本水軍とシマズYoshihiro[島津義弘]が率いる日本陸軍が狭い海路に陣を張っている途中不時に反撃したら, 板屋船二つの尺と協では三尺が破損される損失とともにポソン軍需安弘国(安弘国)が戦死する打撃を受けた. その翌日の 6月 19日付け乱中日記(乱中日記)を見よう.

¥”チンに至ったら桃源数と硫黄従事官が出てから私が入って来ることを見たが桃源数は元功(元公)の仕事を私に言うのを, ¥”統制使の仕事は成す言えなくて, 調整にアンゴ−ルポとカトク島の倭軍を締めて殲滅した後に水軍を出して討伐する.¥” と要請したというのだ.

これはまことに何の言葉か. 引き延ばしながら推し進めないという意図に過ぎないので四天に行って三つの捜査を督促して, 統制使は指揮をしなくても良いと言った. 私がまた押すのを見たがアンゴ−ルポの敵方は軽く入って行って討伐することがならないと言った.¥”

¥”陸軍 30万の兵力を動員してアンゴ−ルポとカトク島の倭軍を討伐すればあの時水軍を導いて釜山浦の倭軍陣営を掃いてしまう.¥” という元均の主張は非常識的なの発言だ. 当時朝鮮が 30万大軍を動員することができたら壬辰の乱(壬辰倭乱)はもうずっと前に終わったはずだ. あの時朝鮮は明救援病 1万名の軍糧と馬草を調逹することだけ持ってからも途方に暮れていたが何の才で 30万大軍を動員したという話か.

敗戦補(敗戦報)を受けた権慄は怒って 6月 21日に元均を四天枝呼び出して棍杖を打って ¥”今すぐ艦隊をひいて出て敵軍を討伐して釜山を収復することができなければ首を枕にする.¥” とどやしつけて再出動を命じた. 閑山島に帰って来た元均は仕方なく戦艦 200余隻を導いて出動した.

7月 4日閑山島を出発した朝鮮水軍は 5日に七川量を経って, 6日は玉浦に泊って, 7日には多大浦を経って釜山浦に向けた. ところで絶影島に至ったらドドダカー島だと[藤堂高虎], ワキサカヤスハで[脇坂安治], 加藤Yoshiaki[加藤嘉明] などが指揮する日本軍船 1チォンヨチォックが隠れていた. しかし朝鮮水軍より圧倒的な病歴だったにもかかわらずと, 日本水軍は元均の艦隊を見ると後退を繰り返えした.

元均は敵軍が後退すると勝機(勝気)を取ったという考えで突撃命令を下げた. ところで風浪が荒れると閑山島で 4日間やギョックグンドルがまともに休むこともできなくてまともに食べることもできなくて黄色いゾオワッヌンジだとけんかになるあごがなかった.

朝鮮水軍を私もまで誘引した日本水軍は急に船首を回して反撃を開始した. ちょうど海岸で陣を張って朝鮮水軍を砲撃する準備をしていた日本陸軍も朝鮮水軍の隊列を向けて乱れているように砲弾をうって飛ばし始めた. ちょうど波が急に激しくなって朝鮮水軍の一部軍船が蔚山西生け捕りまで押しのけて敵軍に撃破されて, 元均は残った軍船を収まってカトク島で後退したがもう敵兵たちが背後を守っている途中事情なしに攻撃を浴びせて朝鮮軍事 400人余りが戦死して板屋船 20余隻が破損される打撃を受けた.

◆ 朝鮮水軍の全滅は自業自得(自業自得)の結果

七川量に退却した元均は再び元帥府に引かれて行って権慄に棍杖を当たって敗戦(敗戦) 責任を追及されたのに不満を抱いて新しい対策を立てるどころかお酒だけ飲みまくった.

すると軽傷右水使(慶尚右水使) 排泄(〓設)は次の戦闘でも敗戦(敗戦)がはっきりすると思って元均に何回も安全地域で後退することを勧めたが元均は聞かなかった. 7月 15日, 排泄は ¥”七川量は心配が浅くて品種が狭くて軍船をわがまま動くことができないので早く他の所に移動しなければならない.¥”と主張したが元均は ¥”このまま敗れて退くことはできない.¥”とばかりしただけだった.

その晩月が明るいことを利用してドドダカー島だと[藤堂高虎], ワキサカヤスハで[脇坂安治] などが導く日本水軍は砲声 3発を信号で七川量を奇襲した. 前に一番(回)もなかった日本軍の不意打ちを受けた我軍はある力をつくして対抗したがますます借り家は不利になった. それに主張である元均が最後まで戦闘を指揮しないで電線(戦線)を離脱して逃走した. それから朝鮮水軍は潰滅し始めた.

イオックギ(李億祺), 最好(崔湖) などが最後まで毒箭している途中自分の軍船と共に悲壮な最後に迎えたし, ただ排泄だけが旗下軍船 12尺を従えて脱出に成功, 閑山島に至ると部下たちを皆逃げるようにした後軍糧と武器を皆燃やして全羅道で逃げた.

一方元均はスンチョン副詞愚癡的(禹致積) などとともに軍船を捨てて陸に入ったが後に従って追撃して来た敵兵たちの刀を当たって死んでしまったと言う.

当時先祖の特命によって電線(戦線)に派遣されて元均の伝えるに同乗した宣伝官金式(金軾)の長計はこのようだ.

¥“7月 15日夜 10時に倭船 5,6尺が急に騷動を起こして火をつけてわが軍では 4尺が燃えてしまったので私たち長寿たちがどうすることができなくてチンをすることができない間にニワトリが鳴く頃数え切れなく多くの倭船が群がって来て畿重にも囲んで兄さん(型)も近くにいっぱい敷かれたまま争ったり退いたりして到底対敵することができなかったです.

そして私たち軍事たちが高声地春園虜退いて陣を張ったが賊勢が空を突いて我がお腹たちが皆燃えて割れて将卒たちが皆仏陀死ぬとか水におぼれて死ぬ時, はいた統制使元均とスンチョン副詞愚癡的とともに身を抜いて陸地に上って来たが, 元均は老けて逃げることができずに一人で刀をついてさびしく松下に座っていました.

神さまが逃げる振り返ったら倭兵 6,7人がもう刀を振り回しながら元均がいる所までのぼったが, 元均が死んだのか生きたかは詳らかに分からないです. 軽傷右水使排泄と玉浦万戸, アンゴ−ルポマンホなどがやっと命を保全したし, すべてのお腹の燃える延期が空を突くのに外敵たちが無数に閑山島に向けるのでした.¥”


またゾギョングナム(趙慶男)の乱中雑録(乱中雑録)にはこんな記録も出る.

¥”元均は顔付からその体が肥大で一食事に飯をたいた馬と魚五つ縛ることとニワトリやきじ三四匹を食べるからいつもお腹が重くて歩みをよく集めることができなかった.¥”

が記録だけ見ても今日一部で ¥”歴史再照明¥”だから, ¥”元均また表示¥”だのするどんな益体もない掛け声の下主張している点, すなわち元均が勇将だったが時が会う事ができなく不幸な最後に迎えた非運の長寿という言葉がいくら根拠ない荒唐無稽したうわごとなのか如実に反証している.

彼にはまともに海戦を指揮する能力もなかっただけでなく壮烈に戦死する勇気もなかったのだ. それに勇将と呼ばれるほどに武技が絶倫した長寿でもなかった. そうでなければどうして最高司令官が艦隊が全滅される前にお腹を捨てて逃げることができるし, またやっと 6, 7人の敵兵たちに惨殺されることができるという話か. 元均が果して勇将ならそのように莫強した朝鮮水軍が一番(回)海戦に潰滅されなかったはずだ.

元均の七川量海戦(漆川梁海戦) 惨敗で朝鮮水軍は軍船 180余隻と 9千名余の軍事を一瞬に忘れてしまったから完全に亡びたことに違いなかった. 李舜臣が壬辰の乱(壬辰倭乱) 勃発 14ヶ月の前から血の汗で育成して来た莫強した水軍の全力が名残もなしに全滅されてしまったのだ.

柳成竜は懲泌録(懲〓録)から七川量海戦(漆川梁海戦)に対してこんなに評した.

¥”敵軍はただ私たち水軍にだけ敗れたので秀吉がこれを扮するように思ってユキナがに責任を消して必ず私たち水軍を破りなさいと言い付けた. ユキナがが偽りで李舜臣にとって罪を着るようにして, また元均を誘引して海真ん中に出るようにしたし, 私たち軍隊の虚実を皆分かってから攻撃した.

その計略は極めて奸巧した. そして朝鮮では彼らの計略に皆移ってしまったから悲しい事だ.¥”


七川量海戦(漆川梁海戦) 敗北による朝鮮水軍の全滅はどう思えば自業自得(自業自得)となるわけだ. 猟奇的な国王先祖と兵法に通じることができなかった最高司令官桃源数権慄が外敵(倭敵)の奸計をまともに把握することができずにやたらに出場だけ言い付けたからだった. ここに結局差し支え(智将)も徳将(徳将)も勇将(勇将)もなる事ができない低劣な長寿元均が助演役をしたことに過ぎなかったから自ら招いた災いだったことだ.

実は七川量敗戦(漆川梁敗戦)を海戦だから戦闘だからして呼ぶこともできなかった. けんからしいけんかではなく一方的な自滅だったからだ. 良く面倒を見てやっても半分は自滅, 半分は敗戦だったから敢えて名付けようとすると ¥”ツンワンポ惨敗¥”と言うことがもっと正確だろう. 歴史で家庭はなんにも要らないことだがもし元均が急に後退してギョンネリャングだけよく守ってもそれ程悽惨な全滅は兔れたはずだ.

一方, この敗戦(敗戦)で元均が死んだということも確認された事実ではない. 元均がお腹を捨てて上陸して敵兵につかまってたまらなかったという金式の言葉も彼の目撃した事ではないからだ. 調整ではどんな証拠がないから戦争の終わるまで元均が生きていることで思った. このように行方不明状態の元均を戦死で公式確認したことは 1601年 1月 7日先祖が死亡と認めたのによるのだ.

参照書籍; ファングワンガブ(黄源甲) 著述 ¥”復活する李舜臣¥” エコービーズニス(EcoBusiness) 2004, キム・ジョンデ(金宗代) 著述 ¥”神さま(臣)にはまだヨルドチォックの軍船があります.¥” ブックポス(BookFors) 2001, ツェドソック(崔頭錫) 著述 ¥”壬辰の乱(壬辰倭乱)と李舜臣(李舜臣)¥” 一刻 1999, 金蛍光(金炯光) 著述 ¥”人物に見る朝鮮社(朝鮮史)¥” シアツルパンサ 2003.

{引き続き}


「불패의 명장 이순신(李舜臣)」10.백의종군(白衣從軍) (5)

 

 

우리 민족의 역사가 시작된 이래 수많은 외적의 침범이 있었으나 그때마다 우리 선조들은 뜨거운 구국(救國)의 의지와 비상한 투지로 국난(國難)을 극복해왔다. 국난을 당할 때마다 탁월한 리더십을 발휘하여 민족적 기상을 높이 떨친 구국의 영웅은 일일이 헤아릴 수 없을 만큼 많지만, 이순신이야말로 그 숱한 영웅, 호걸, 충신, 열사 가운데서도 으뜸가는 위인이라는 사실에는 그 누구도 이의를 제기할 수 없을 것이다.

이순신(李舜臣)은 한국 역사상 최고의 전쟁 영웅으로 임진왜란(壬辰倭亂), 정유재란(丁酉再亂)이라는 미증유의 재앙을 당해 나라와 겨레의 멸망이 눈앞에 이르렀을 때 조선 수군을 총지휘하여 갖가지 불리한 여건 속에서도 필승의 신념과 비상한 전략으로 연전연승(連戰連勝)을 올린 불세출의 명장이었다. 그는 가난한 선비의 아들로 태어나 54년의 길지 않은 일생을 보내는 동안 온갖 고난 속에서도 오로지 충효(忠孝), 인의(仁義)와 애국애족정신(愛國愛族精神)으로 일관한 민족의 큰 스승이었다.

영국 해군사관학교 교장을 지냈던 빌라드(G.A.Billard) 소장(少將)은 "조선의 이순신이라는 해군 제독이 넬슨(Horatio Nelson)에 버금가는 뛰어난 지휘관이라는 사실을 영국인들은 인정하기 힘들겠지만 이순신이 동양 최고의 해군 제독이라는 점은 부정할 수 없는 사실이다."라고 이순신을 평가하였다. 중국계 미국인 역사학자로 미국 워싱턴 주립대학교 교수인 레이 황(Ray Hwang) 박사는 동양사 3대 전쟁 영웅으로 조선의 이순신(李舜臣), 베트남 다이비에이 왕조의 첸 훈다오[千訓道], 중국 명나라의 원숭환(袁崇煥)을 들면서 그 중에서도 이순신이 가장 위대한 공훈을 남긴 영웅이라고 칭송하였다.

오늘날 나라 안팎의 정세, 특히 또다시 빠진 정치적, 경제적 위기에 비추어볼 때 이순신은 지금까지 알려져 왔던 절세의 명장, 구국의 영웅이라는 면모에 더해 비상한 리더십을 갖춘 최고 경영자였다는 사실을 새삼 절감하게 된다. 21세기라는 새로운 격변의 시대, 격동의 시대를 맞이하여 강대국들과의 무한경쟁에서 살아남기 위해서도 우리는 동서고금(東西古今)의 그 어떤 위인보다도 위대했던 성웅(聖雄) 이순신의 리더십을 통해 국난극복의 지혜를 찾아야 할 것이다.

◆ 적침(敵侵)을 물리치고 나라를 지켜 전공(戰功)을 세웠건만...

이순신이 투옥된 뒤 그 사이에 서인들은 그의 목을 베어야 한다고 선조를 졸랐고, 반면 그를 죽이면 안 된다고 탄원하는 사람도 많았다.

판중추부사 정탁(鄭琢)은 탄원서를 통해 고문을 더 하지 말고 그의 목숨을 살려 다시 전공(戰功)을 세울 기회를 주도록 호소했다. 또 이에 앞서 도체찰사 이원익(李元翼)도 글을 올려 "왜군이 가장 두려워하는 것은 우리 수군이며 이순신을 바꿔서는 안 되며, 원균을 보내서도 안 된다" 라고 상소했다. 또한 이덕형(李德馨)도 구명을 호소했고 이순신의 심복인 정경달(丁景達)은 "이순신 장군을 죽이면 나라가 망한다" 는 애타는 내용의 상소문을 올렸다.

이런 저런 곡절 끝에 가까스로 죽음을 면한 이순신은 투옥된 지 28일 만인 4월 1일에 풀려났다. 그러나 무죄로 방면된 것은 아니었다. 두 번째로 백의종군(白衣從軍)하라는 명령이 떨어졌다.

의금부 옥에서 풀려난 뒤 썼던 그 날치 난중일기(亂中日記)를 보자.

""맑음. 옥문을 나오게 되어 남대문 밖 윤간(尹侃)의 종의 집으로 갔다. 봉(蓬), 분(芬), 울(蔚)과 사행(士行), 원경(遠卿)과 한방에 같이 앉아서 오랫동안 이야기했다. 지사 윤자신(尹自新)이 와서 위로했다. 비변랑 이순지(李純智)가 찾아왔다.

슬픔이 더해짐을 이길 수 없었다. 윤 지사가 돌아갔다가 식사 후에 술을 가지고 다시 왔다. 기헌(耆獻)도 왔다. 정으로 권하며 위로하는 것이기 때문에 사양할 수가 없었다. 억지로 마셨더니 몹시 취했다. 이(李) 영공(永公) 순신(純信)이 술병을 차고 또 왔으므로 함께 취해 이야기했다.

영의정(領議政; 柳成龍)이 종을 보냈고, 판부사 정탁(鄭琢), 판서 심희수(沈禧壽), 찬성 김명원(金命元), 참판 이정형(李廷馨), 대사헌 노직(盧稷), 동지 최원(崔遠), 동지 곽영(郭嶸) 등이 사람을 보내 문안했다. 술에 취하여 땀이 몸을 적셨다.

그로부터 이틀이 지나 이순신은 서울을 떠나 남쪽으로 내려갔다.

백의의 몸, 즉 무등병으로 강등당해 권율이 있는 원수부(元帥府)가 있는 합천군 초계로 향한 것이었다. 그날은 수원에서 묵고, 4일에 평택을 지나 5일에는 아산에 이르렀다. 선영에 참배하고 다시 길을 떠났는데, 13일에 순천에 피난 갔던 83세의 노모 변씨가 아들이 잡혀갔다는 소식을 듣고 아산 본가로 배를 타고 올라오다가 운명하셨다는 비보가 왔다.

참으로 무심한 하늘이었다. 비통한 심정으로 시신을 집으로 모셨으나 금부도사의 재촉에 제대로 장례도 치르지 못한 채 장대비가 쏟아지는 가운데 합천으로 떠났다.

그때의 사정을 난중일기(亂中日記)는 이렇게 전해주고 있다.

"11일, 새벽에 꿈이 너무 번거로워 이루 다 말할 수가 없다. 덕(德)을 불러서 대강 말하고, 또 아들 울(蔚)에게 이야기했다. 마음이 매우 좋지 못하여 취한 듯 미친 듯 진정할 수가 없으니 이 무슨 징조일까. 병환 중에 계신 어머님을 생각하니 눈물이 흘러내림을 깨닫지 못했다. 종을 보내 소식을 알아오게 했다."

"12일, 종 태문(太文)이 안흥량에서 와서 편지를 전했는데, 어머님께서는 기력이 쇠약하시나 초9일에는 어머님을 비롯해 상하가 무사히 안흥량에 이르렀다고 한다. 가다가 법성포에서 잘 때 닻줄이 끌려 둥둥 떠내려가서 배에 머문 지 엿새 만에 서로 떨어져 있다가 무사히 만나게 되었다고 한다. 아들 울을 먼저 바닷가로 보냈다."

"13일, 일찍 식사를 마친 뒤 어머님을 마중하려고 바닷가로 가는 도중에 홍 찰방의 집에 들렀다. 잠깐 이야기하는 사이에 울이 애수(愛壽)를 보내 아직 배가 도착한다는 소식이 없다고 전했다. 또 황천상(黃天詳)이 술병을 들고 홍백의 집에 왔다는 말을 듣고는 홍 찰방과 작별을 고하고 홍백의 집으로 갔다. 이윽고 종 순화(順花)가 배에서 와서 어머님이 돌아가셨다는 사실을 고했다. 뛰쳐나가 가슴을 치고 날뛰었으나 하늘이 캄캄했다. 곧 게바위로 달려가니 배가 이미 와 있었다. 길에서 바라보며 슬픔으로 가슴이 미어지는 것을 다 적을 수가 없다. (뒷날 대강 적었다.)"

"17일, 금오랑 서리 이수영이 공주로부터 와서 가자고 재촉했다."

"19일, 일찍 길을 떠나며 어머님 영전에 하직을 고하고 호곡했다. 어찌하리오, 어찌하리오! 천지간에 나 같은 사정이 어디에 있으리오! 어서 죽는 것만 같지 못하다."


그렇게 눈물을 뿌리며 길을 재촉해 초계에 도착한 이순신은 6월 8일 도원수 권율에게 신고했다. 그리고 그날부터 7월 17일까지 백의로 종군했다. 비록 계급은 무등병이었지만 이순신은 아무도 무시할 수 없는 무장(武將)이었으므로 도원수 권율 이하 많은 관리가 찾아와 건강을 걱정하며 위로해주었다.

 

◆ 원균의 패전(敗戰)으로 조선 수군이 전멸되다.

한편, 그토록 원하던 삼도수군통제사(三道水軍統制使) 자리를 차지하게 된 원균(元均)은 이순신이 아끼던 역전의 장수들을 대부분 갈아 치우고 자신의 뜻에 맹종하는 자들을 조선 삼도수군(朝船三道水軍)의 요직에 앉히는가 하면, 군비는 허술히 하는 대신 운주당에 들어앉아 주색에만 빠졌다.

유성룡의 징비록(懲毖錄)에 이렇게 나온다.

"원균이 한산도에 부임해서는 이순신이 시행하던 모든 군중 약속을 변경하고, 부하 장수와 군사들로서 이순신에세 신임 받던 사람은 모두 쫓아버렸으며, 그 중에서도 이영남(李英南)은 전날 자신이 패전한 실정을 자세히 알고 있는 사람이라 더욱 미워하므로 군사들이 통분히 여겨 마지않았다.

또 이순신이 밤낮으로 모든 장수들과 함께 전략을 토론하던 운주당에서 원균은 애첩을 데리고 같이 기거하며 울타리를 치고 있기 때문에 장수들이 그의 얼굴을 볼 수가 없었다.

또 술을 좋아해서 늘 취해 있었고, 그래서 취중에 부하들에게 함부로 형벌을 심히 가하니 군사들은 서로 말하기를, "만일 적병이 온다면 달아날 수밖에 없다."고 했으며, 장수들도 그를 비웃고 군사에 관한 일은 전혀 말하지 않으므로 그의 호령이 시행되지 않았다."


한편 원균은 통제사로 부임하기 전에 처족인 동암공(東巖公)이라는 사람을 찾아가 만났는데 이런 대화를 나누었다는 이야기가 안방준(安邦俊)의 저서 은봉전서(殷峰全書)라는 책에 실려 있다.

원균(元均) "나는 통제사라는 직함을 영예스럽게 생각하는 것보다도 이순신에게서 당한 수치를 씻는 것을 더 통쾌하게 여긴다오."

동암공(東巖公) "사또가 힘을 다해 적군을 무찔러서 전공(戰功)이 이순신보다 더 높고 뛰어나야 그것이 참으로 수치를 씻는 것이지, 단순히 이순신을 대신한다는 것만 가지고 어찌 수치를 씻는 것이라고 하겠소?"

원균 "내가 만일 적과 만나 싸우게 될 때면 멀면 편전(片箭)으로, 가까우면 장전(長箭)으로, 그러다가 맞부닥치면 칼로 할 것이요, 칼이 부러지면 몽둥이를 가지고라도 이기지 못 하겠소?"

동암공 "어허, 대장으로서 칼과 몽둥이까지 써야 될 말이오?"


원균이 돌아간 뒤 동암공은 안방준을 불러 "원균의 사람됨을 보니 나랏일은 다 틀렸다!" 고 탄식했다는 것이다. 이런 한심한 인간을 두고 "원균은 이순신 못지않은 장수다운 기백이 있었으며, 비록 지략은 이순신보다 떨어졌을지 모르지만 용맹은 매우 뛰어난 맹장(猛將)이었다." 라고 미화를 하는 자들이 현재 국내에 존재하고 있다는 것은 정말 개탄스러운 일이 아닐 수 없다.

이순신이 파직되어 서울로 압송되고 무능한 장수 원균이 통제사에 오르자 일본군 장수들도 "우리의 가장 큰 걸림돌은 오직 이순신 한 명뿐이었는데, 이제 이순신이 없어졌으니 호남을 석권하여 조선을 정복하는 것은 시간문제다!" 하고 좋아하면서 술판까지 벌였다고 한다.

원균은 이순신이 부산 앞바다로 함대를 끌고 가서 위력시위를 벌이지 않는다고 끊임없이 모함해왔으나 정작 그 자신은 통제사가 된 이후 봄이 가고 여름이 와도 전혀 출동할 생각을 하지 않았다.

6월 하순, 그래도 조선 수군에 대한 두려움이 남아 있던 일본군 수뇌부는 또 다시 이중간첩 요시라를 김응서에게 보내 후속부대가 곧 바다를 건너오니 조선 수군이 지키고 있다가 공격하면 성공할 것이라는 밀서를 전했다.

첩보를 받은 도체찰사 이원익은 도원수 권율과 상의하여 수군의 출동을 명령했다. 간첩 요시라를 이용한 일본군 장수들의 똑같은 간계에 세 차례나 넘어간 셈이었다. 명령을 받은 원균은 먼저 육군 30만명을 동원하여 안골포와 가덕도의 왜군을 무찌른 뒤 수륙합동작전을 펴서 부산을 쳐야 한다면서 좀처럼 함대를 출동시키지 않았다.

여러 차례 독촉을 받고서야 마지못해 함대를 끌고나간 원균은 6월 18일에 안골포와 가덕도를 공격했다. 그러나 가토 요시아키[加藤嘉明]가 이끄는 일본 수군과 시마즈 요시히로[島津義弘]가 인솔하는 일본 육군이 좁은 해로에 진을 치고 있다가 불시에 반격하니, 판옥선 두 척과 협선 세 척이 파손되는 손실과 함께 보성군수 안홍국(安弘國)이 전사하는 타격을 입었다. 그 다음날인 6월 19일자 난중일기(亂中日記)를 보자.

"진에 이르렀더니 도원수와 황 종사관이 나왔다가 내가 들어오는 것을 보았는데 도원수는 원공(元公)의 일을 나에게 말하기를, "통제사의 일은 이루 다 말할 수 없으며, 조정에다 안골포와 가덕도의 왜군을 죄다 섬멸한 뒤에 수군을 내보내어 토벌하겠다." 고 요청했다는 것이다.

이는 참으로 무슨 말인가. 지연하면서 밀고 나가지 않으려는 의도에 불과하므로 사천으로 가서 세 수사를 독촉하고, 통제사는 지휘를 하지 않아도 될 것이라고 했다. 내가 또 밀지를 보았는데 안골포의 적들은 가볍게 들어가 토벌할 것이 못 된다고 했다."

"육군 30만의 병력을 동원하여 안골포와 가덕도의 왜군을 토벌하면 그때 수군을 이끌고 부산포의 왜군 진영을 쓸어 버리겠다." 라는 원균의 주장은 비상식적인의 발언이다. 당시 조선이 30만 대군을 동원할 수 있었다면 임진왜란(壬辰倭亂)은 이미 훨씬 전에 끝났을 것이다. 그때 조선은 명나라 구원병 1만명의 군량과 마초를 조달하는 것만 가지고도 쩔쩔매고 있었는데 무슨 재주로 30만 대군을 동원한단 말인가.

패전보(敗戰報)를 받은 권율은 분노하여 6월 21일에 원균을 사천가지 호출하여 곤장을 치고 "당장 함대를 끌고 나가 적군을 토벌하고 부산을 수복하지 못하면 목을 베겠다." 고 윽박지르며 재출동을 명했다. 한산도로 돌아온 원균은 할 수 없이 전함 200여척을 이끌고 출동했다.

7월 4일 한산도를 출발한 조선 수군은 5일에 칠천량을 지나고, 6일은 옥포에서 묵고, 7일에는 다대포를 거쳐 부산포로 향했다. 그런데 절영도에 이르니 도도 다카도라[藤堂高虎], 와키사카 야쓰하루[脇坂安治], 가토 요시아키[加藤嘉明] 등이 지휘하는 일본 군선 1천여척이 숨어 있었다. 그러나 조선 수군보다 압도적인 병력이었음에도 불구하고, 일본 수군은 원균의 함대를 보자 후퇴를 거듭했다.

원균은 적군이 후퇴하자 승기(勝氣)를 잡았다는 생각에서 돌격명령을 내렸다. 그런데 풍랑이 거칠어지자 한산도에서 4일간이나 격군들이 제대로 쉬지도 못하고 제대로 먹지도 못하고 노를 저어왔는지라 싸움이 될 턱이 없었다.

조선 수군을 저도까지 유인한 일본 수군은 갑자기 뱃머리를 돌려 반격을 개시했다. 때마침 해안가에서 진을 치고 조선 수군을 포격할 준비를 하고 있던 일본 육군도 조선 수군의 대열을 향해 어지럽게 포탄을 쏘아 날리기 시작했다. 때마침 파도가 갑자기 거세져 조선 수군의 일부 군선이 울산 서생포까지 밀려가 적군에게 격파당하고, 원균은 남은 군선을 수습하여 가덕도로 후퇴했지만 벌써 적병들이 배후를 지키고 있다가 사정없이 공격을 퍼부어 조선 군사 400여명이 전사하고 판옥선 20여척이 파손당하는 타격을 입었다.

◆ 조선 수군의 전멸은 자업자득(自業自得)의 결과

칠천량으로 퇴각한 원균은 또다시 원수부로 끌려가서 권율에게 곤장을 맞고 패전(敗戰) 책임을 추궁당한데 불만을 품고 새로운 대책을 세우기는 커녕 술만 퍼마셨다.

그러자 경상우수사(慶尙右水使) 배설(裵設)은 다음 전투에서도 패전(敗戰)이 분명하다고 보고 원균에게 여러 차례 안전지역으로 후퇴할 것을 권했으나 원균은 듣지 않았다. 7월 15일, 배설은 "칠천량은 수심이 얕고 물목이 좁아서 군선을 마음대로 움직일 수 없으므로 빨리 다른 곳으로 이동해야 한다."고 주장했으나 원균은 "이대로 패해서 물러날 수는 없다."고만 했을 뿐이었다.

그날 밤 달이 밝은 것을 이용하여 도도 다카도라[藤堂高虎], 와키사카 야쓰하루[脇坂安治] 등이 이끄는 일본 수군은 포성 3발을 신호로 칠천량을 기습했다. 전에 한 번도 없던 일본군의 기습을 받은 아군은 있는 힘을 다해 대항했지만 갈수록 전세는 불리해졌다. 게다가 주장인 원균이 끝까지 전투를 지휘하지 않고 전선(戰線)을 이탈해 도주했다. 그로부터 조선 수군은 궤멸하기 시작했다.

이억기(李億祺), 최호(崔湖) 등이 끝까지 독전하다가 자신의 군선과 함께 비장한 최후를 맞았고, 다만 배설만이 휘하 군선 12척을 거느리고 탈출에 성공, 한산도에 이르자 부하들을 모두 달아나게 한 뒤 군량과 무기를 모두 불태우고 전라도로 도망쳤다.

한편 원균은 순천부사 우치적(禹致積) 등과 함께 군선을 버리고 뭍으로 올랐으나 뒤따라 추격해온 적병들의 칼을 맞고 죽어 버렸다고 한다.

당시 선조의 특명에 따라 전선(戰線)에 파견되어 원균의 전함에 동승했던 선전관 김식(金軾)의 장계는 이렇다.

"7월 15일 밤 10시에 왜선 5,6척이 갑자기 소동을 일으켜 불을 질러 우리 군선 4척이 불타버렸으므로 우리 장수들이 어쩔 줄을 모르며 진을 벌이지 못하는 사이에 닭이 울 무렵 헤아릴 수 없이 많은 왜선이 몰려와 겹겹이 에워싸고 형도 근처에 가득 깔린 채 싸우거니 물러나거니 하여 도저히 대적할 수 없었습니다.

그리하여 우리 군사들이 고성 땅 춘원포로 물러나 진을 쳤으나 적세가 하늘을 찔러 우리 배들이 모두 불타고 깨지고 장졸들이 모두 불타 죽거나 물에 빠져 죽을 때, 신은 통제사 원균과 순천부사 우치적과 함께 몸을 빼어 육지로 올라왔는데, 원균은 늙어서 달아나지 못하고 혼자서 칼을 짚고 외롭게 소나무 밑에 앉아 있었습니다.

신이 달아나다 돌아보았더니 왜병 6,7명이 이미 칼을 휘두르면서 원균이 있는 곳까지 이르렀는데, 원균이 죽었는지 살았는지는 자세히 알지 못합니다. 경상우수사 배설과 옥포만호, 안골포만호 등이 겨우 목숨을 보전하였고, 모든 배가 불타는 연기가 하늘을 찌르는데 왜적들이 무수히 한산도로 향하는 것이었습니다."


또 조경남(趙慶男)의 난중잡록(亂中雜錄)에는 이런 기록도 나온다.

"원균은 생김새부터 그 몸뚱이가 비대해서 한 끼니에 밥 한 말과 생선 다섯 묶음과 닭이나 꿩 서너 마리를 먹기 때문에 언제나 배가 무거워 걸음을 잘 걷지 못했다."

이 기록만 보더라도 오늘날 일부에서 "역사 재조명"이니, "원균 다시 보기"니 하는 아무 쓸모없는 구호 아래 주장하고 있는 점, 곧 원균이 용장이었으나 때를 못 만나 불행한 최후를 맞은 비운의 장수라는 말이 얼마나 근거 없는 황당무계한 헛소리인지 여실히 반증하고 있다.

그에게는 제대로 해전을 지휘할 능력도 없었을 뿐만 아니라 장렬히 전사할 용기도 없었던 것이다. 게다가 용장이라 불릴 정도로 무예가 절륜한 장수도 아니었다. 그렇지 않고서야 어찌 최고 사령관이 함대가 전멸당하기도 전에 배를 버리고 달아날 수 있으며, 또 겨우 6, 7명의 적병들에게 참살당할 수 있단 말인가. 원균이 과연 용장이라면 그토록 막강하던 조선 수군이 한 번 해전에 궤멸당하지도 않았을 것이다.

원균의 칠천량해전(漆川梁海戰) 참패로 조선 수군은 군선 180여척과 9천여명의 군사를 하루 아침에 잃어버렸으니 완전히 망한 것이나 다름없었다. 이순신이 임진왜란(壬辰倭亂) 발발 14개월 전부터 피땀으로 육성해온 막강한 수군의 전력이 자취도 없이 전멸되어 버린 것이다.

유성룡은 징비록(懲毖錄)에서 칠천량해전(漆川梁海戰)에 대해 이렇게 평했다.

"적군은 오직 우리 수군에게만 패했으므로 히데요시가 이를 분하게 여겨 유키나가에게 책임을 지워 반드시 우리 수군을 깨뜨리라고 명령했다. 유키나가가 거짓으로 이순신으로 하여금 죄를 입게 만들고, 또 원균을 유인하여 바다 한가운데로 나오게 했으며, 우리 군대의 허실을 모두 알고 나서 공격했다.

그 계략은 지극히 간교했다. 그리하여 조선에서는 그들의 계략에 모두 넘어가고 말았으니 슬픈 일이다."


칠천량해전(漆川梁海戰) 패배로 인한 조선 수군의 전멸은 어찌 보면 자업자득(自業自得)인 셈이다. 엽기적인 국왕 선조와 병법에 통달하지 못한 최고 사령관 도원수 권율이 왜적(倭敵)의 간계를 제대로 파악하지 못하고 무작정 출전만 명령했기 때문이었다. 여기에 결국 지장(智將)도 덕장(德將)도 용장(勇將)도 못 되는 용렬한 장수 원균이 조연 노릇을 한 것에 지나지 않았기에 자초한 재앙이었던 것이다.

사실 칠천량패전(漆川梁敗戰)을 해전이니 전투니 하고 부를 수도 없었다. 싸움다운 싸움이 아니라 일방적인 자멸이었기 때문이다. 좋게 보아주더라도 절반은 자멸, 절반은 패전이었으니 굳이 명명하자면 "춘원포 참패"라고 하는 것이 더 정확할 것이다. 역사에서 가정은 아무 소용 없는 노릇이지만 만일 원균이 급히 후퇴하여 견내량만 잘 지켰더라도 그처럼 처참한 전멸은 면했을 것이다.

한편, 이 패전(敗戰)에서 원균이 죽었다는 것도 확인된 사실이 아니다. 원균이 배를 버리고 상륙하여 적병에게 잡혀 죽었다는 김식의 말도 그가 목격한 일은 아니기 때문이다. 조정에서는 아무 증거가 없기 때문에 전쟁이 끝날 때까지 원균이 살아 있는 것으로 여겼다. 이처럼 행방불명 상태의 원균을 전사로 공식 확인한 것은 1601년 1월 7일 선조가 사망으로 인정한 데 따른 것이다.

참고서적; 황원갑(黃源甲) 저술 "부활하는 이순신" 에코비즈니스(EcoBusiness) 2004, 김종대(金宗代) 저술 "신(臣)에게는 아직도 열두척의 군선이 있습니다." 북포스(BookFors) 2001, 최두석(崔頭錫) 저술 "임진왜란(壬辰倭亂)과 이순신(李舜臣)" 일각 1999, 김형광(金炯光) 저술 "인물로 보는 조선사(朝鮮史)" 시아출판사 2003.

{계속}



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