伝統文化

 

我が民族の歴史が始まった以来幾多の外的の侵犯があったがその時ごとにうちの先祖たちは熱い救国(救国)の意志とすごい闘志で国難(国難)を乗り越えて来た. 国難にあう度に卓越なリーダーシップを発揮して民族的気象を高くふるった救国の英雄はいちいち数え切れないだけ多いが, 李舜臣こそその多い英雄, 豪傑, 忠臣, 烈士の中にもきっての偉人という事実にはその誰も異意を申し立てることができないだろう.

李舜臣(李舜臣)は韓国歴史上最高の戦争英雄で壬辰の乱(壬辰倭乱), 丁酉災乱(丁酉再乱)という未曽有の災いにあって国と同胞の滅亡が目の前に至った時朝鮮水軍を総指揮していろいろの不利な与件の中でも必勝の信念とすごい戦略で勝ちっ放し(連戦連勝)をあげた不世出の名将だった. 彼は貧しい士の息子に生まれて 54年の長くない一生を送る間あらゆる苦難の中でもひたすら忠孝(忠孝), 仁義(仁義)と愛国愛族精神(愛国愛族精神)に一貫した民族の大きい師匠だった.

イギリス海軍兵学校校長を勤めたビルラド(G.A.Billard) 所長(少将)は ¥”朝鮮の李舜臣という海軍提督がネルソン(Horatio Nelson)に劣らないすぐれた指揮官という事実をイギリス人たちは認めにくいが李舜臣が東洋最高の海軍提督という点は否定することができない事実だ.¥”と李舜臣を評価した. 中国係アメリカ人歴史学者でアメリカワシントン州立大学校教授であるレイ硫黄(Ray Hwang) 博士は東洋史 3台戦争英雄で朝鮮の李舜臣(李舜臣), ベトナム多異美瑛王朝のチェンフンダオ[千訓道], 中国明のワンスングファン(袁崇煥)を持ちながらその中でも李舜臣が一番偉い手柄を残した英雄だとほめたたえた.

今日国内外の情勢, 特に再び抜けた政治的, 経済的危機に照らして見る時李舜臣は今まで知られて来た節税の名将, 救国の英雄という面貌に加えてすごいリーダーシップを取り揃えた最高経営者だったという事実を今更節減するようになる. 21世紀という新しい激変の時代, 激動の時代を迎えて強大国たちとの無限競争で生き残るためにしても私たちは東西古今(東西古今)のどんな偉人よりも偉かった聖雄(聖雄) 李舜臣のリーダーシップを通じて国難克服の知恵を捜さなければならないでしょう.

◆ 先祖はどうして李舜臣を憎んだか?

2000年ノベル文学賞受賞者であるカオシングジには[高行建]は韓国歴史上最高の英雄である李舜臣に対して ¥”彼は戦闘を支払う度にいつも勝利したし, 死ぬ時にも勝利を忘れなかった.¥”と高く評価した事がある. そういう面で李舜臣が戦死した 1598年ノリャン海戦(露梁海戦)とネルソン(Horatio Nelson)が戦死した 1805年トラファルガー海戦(Trafalgar海戦)は非常に似たり寄ったりだ.

ところで一部では李舜臣将軍がノリャン海戦(露梁海戦)でわざわざよろいを脱いで毒箭している途中敵軍の銃弾に当たったので戦死と言うよりは自殺で見なければならないという李舜臣自殺説を申し立てているし, 李舜臣将軍が戦死を装って生き残ってその後 16年間や俗世間とのすべての縁を切ってどこかで隠れて暮したという李舜臣ウンドンソルを主張する者等もある.

ざっと思えば荒唐無稽する相棒がいないこんな異説たちは皆が李舜臣将軍の生死観, 人生観, 国家観などに対する理解が不足なところで出た夢をつかむ主張だ. 言い替えればこんな主張は我が民族の聖雄(聖雄)である李舜臣を評価切下げして過小評価したあげく商業的な目的によって興味主として無理な推理をしたことに過ぎない.

李舜臣将軍の 54年にわたった一生は死ぬ所と時を捜し回った血涙でごっちゃになった苦行と違いなかった. そんな李舜臣が現実逃避のために卑怯に自殺をしたとか, 貧しくもうちょっと住むために戦死を装って隠れて暮したとか言うことをその誰が信じることができるか. 気まぐれな君王先祖(宣祖)が敵侵(敵侵)を退けて国と同胞を滅亡の危機で旧恨李舜臣に心より感謝するどころか自分の実情と失策を見逃すためにもっと牽制して憎んだという点は誰も否認することができない事実だ. こんな根深くてしつこい憎悪がまさに李舜臣にとって自殺のような戦死に駆って行ったという論理だ.

実はその間李舜臣自殺説は状況証拠に提示されたいくつかのもっともらしい記録のためその間ウンドンソルに比べてはこれを共感して信じる人がもっと多かった. 信憑性がもうちょっと高いと思ったのだ. 先祖実録(宣祖実録)を見ればこんなお正月に納得できる書き入れ時が何箇所出る. 言わば鳴梁海戦(鳴梁海戦) 直後の 1597年 10月 20日に先祖が言うのを, ¥”李舜臣はちょっとした少ない取ったのに過ぎない. 彼は自分の職分を遂行したことであるだけ大きい専攻(戦功)を立てたことではない.¥” としたことが代表的だ.

1597年 7月七川量海戦(漆川梁海戦)で全滅するように潰滅された水軍で, わずか 13尺の敗残では(敗残船)で敵軍大艦台 133尺を撃退させて西海に北上しようとする外敵(倭敵)を沮止した鳴梁海戦(鳴梁海戦). 戦争の水を汲む回して自分の王位を含んで王室の安全はもちろん国家を滅亡の危機で旧恨偉い承前(勝戦)を置いて先祖は ¥”ちょっとした少ない取ったのに過ぎない.¥”と評価切下げをしたのだ.

こんな先祖をどんなに正常な国王だと評価することができるか.

それとともにまた先祖は翌年 4月には ¥”李舜臣に官職をあげてくれないのに賞を与える方法を講じて見なさい.¥”は変な音も並べ立てた.

一方備辺司で ¥”元均は水軍の主張(主将)として水軍を全滅されるようにしたのでその罪は皆元均にあります. その部下たちにも罪があれば着を酒庫, 球があれば賞を与えて軍旗を正しく立てなければなりません.¥”と建議すると言った言葉で元均をかばった.

¥”元均一人に責任を回さないでね. 李山海と尹斗寿がそれほどさせたのだ.¥”

言い替えれば元均が七川量海戦(漆川梁海戦)で惨敗に喫して水軍全力を皆失った責任は元均を薦挙した離れ離れして(李山海)と尹斗寿(尹斗寿)にあるので, おこってした自分にはどんな過ちがないから元均にすべての責任を回してもいけないという奇怪した川辺だった.

先祖(宣祖)がそれほどくるんで回りながら元均の敗戦(敗戦) 責任を問わないで巳初(史草)を担当する士官(史官)さえ ¥”頭が裂けるようで骨がとけてしまうようだ.¥”とこんなに先祖の出たらめな仕打ちを批判した.

¥”七川島で軍船を残すことなしに首長させて敗れた元均はその死骸を捜して市場で買うのを裂いて処刑するべきだ. また水軍が罪がないという話は何の言葉か. 元均は性質が暴悪ないち無至恨だ. 李舜臣をおとし入れて追い出して統制使になったし, 一気に少ない殲滅すると大きい声を吐いたが知恵が不足で敗れた. 描いてからはお腹を捨てて陸地に逃げだすせいで将兵たちを皆死ぬようにした. こんな元均の罪を誰が罰しなければならないか.....¥”

それでは先祖は何のわけに李舜臣を憎んで彼を殺すことができなくて苛苛するほどに憎悪したのだろう.

当時民たちは李舜臣将軍を千古になかった英雄でほめたたえてほめたたえる一方, 未曽有の災いである壬辰の乱(壬辰倭乱)と丁酉災乱(丁酉再乱)を阻むことができなかった君王先祖と調整大臣たち, むちゃくちゃな統率力で水軍を全滅するようにした元均に対しては怨声が空にしみた.

先祖も馬鹿ではない以上そんな事実をよく分かっていた. ところで先祖は非正常的な性格の主人公だった. 自分が嫡統ではないにもかかわらず王位を引き継いだという事実にコンプレックスもあった. 疑心と癬忌心が多くて独りよがりだった. 先祖ははなはだしくは息子である光海君によって王座で押し寄せるか心配で疑われなくなりズックイリョゴまでしたまことに猟奇的な賃金だった.

それで正規軍と義兵を問わず当時朝鮮の長寿の中で一番力強い軍隊を持った李舜臣, そこに民たちに人気まで高かった李舜臣を自分の王座を脅威する存在で思ったのだ. これは一種の被害妄想だと言えた. そんなわけに先祖は金悳領のように李舜臣もおかゆよ無くそうと思ったのだった. 先祖が李舜臣を ¥”必ず¥” 殺さなければならない対象で思ったという事実は先祖実録(宣祖実録)をよく見ればまさしく現われる

先祖が李舜臣を憎み始めたことは古い事だが李舜臣が失脚するようになった直接的な原因はヨシラの反奸計のためだった. 小西ユキナがの密命を受けたヨシラの工作にギムウングソと権慄が浮気をするようになって, 調整も騙された. これによって 1597年 1月 23日から調整で論議が始まったし, 2月 4日司憲府の奏請によって李舜臣の逮捕が決まったのだ. いや, 司憲府の奏請と言うよりは事実は先祖の意によるのだった.

こんなに李舜臣をとり除くために日本軍首脳部の陰謀に歩調をあわせて李舜臣を失脚させて朝鮮水軍の全滅に決定的に寄与した先祖は後日李舜臣の戦死消息を聞くと祭文(祭文)にこんな句節を書き入れた.

¥”私は君を捨てたけれども君は私を捨てなかった.¥”

まことに率直な表現だ. 李舜臣が戦闘では勝利するが死んでくれたらと思って内心願った彼だったがそのままになったからいくら中がさっぱりしただろうか. そんなわけに部分的でもそれ程率直な本音が調査(弔辞)に含まれたのではないのか.

とにかく, 先祖のこのような憎悪と癬忌心に対して李舜臣と分からないわけがなかった. 前に先祖が罪のない金悳領をおかゆである事実もよく分かっていたし, クァクゼウを冷遇した事実もよく分かっていた. したがって李舜臣は自分が戦争が終わった後まで生き残ると言っても結局は先祖の魔手で無事ではないということを節減したはずだ.

李舜臣が鳴梁海戦(鳴梁海戦)で奇蹟の勝利をおさめると先祖がミョンサチォブ(兔死帖)を下げてくれることはしたが気まぐれな先祖にそのなんかのは百枚があってもだめだったろう. 結局それで李舜臣の選んだ道が戦死を自ら招いた自殺だったことと言う(のは)推論だ. 先祖の慢性的な疑心病に対する李舜臣のたしなみは戦争始終調整に行かせた長計を見れば推し測ることができる. すなわち, 李舜臣が送った勝捷長計には我軍の前とはできるだけ簡単に縮小して, 被害や貧しい事情は比較的正確で詳しく報告したのだ.

これは何を意味するか. 賃金に臣下として強い姿を見せない代わりに泣く音をたくさんして自分が決して時期や境界の対象ではないという点を認識させようと思ったのだった. それで李舜臣の一生が死ぬ所と時を捜してヘメン苦行の道だったと言うのだ.

それにしても李舜臣の自殺説はあくまでも当時の情況と一部記録による推論に過ぎない. 李舜臣が戦死を装った自殺をしたと主張する無理は移民で(李敏敍)が使った金虫長空類似(金忠壮公遺事)の次の記録を根拠で立てる.

¥”金悳領将軍が死んでから多くの長寿が各々自ら疑ってまた自ら私の身を保全することができなかったから, あのクァクゼウは遂に軍事を解散して隠れて火を避けたし, 李舜臣は今こそ戦争の中によろいを脱いで自ら弾丸に叩かれて死んだし, 湖南と嶺南等地では金持ちと兄弟たちが義兵はならないでねとお互いに警戒したというのだ...¥”

が文を見ても当時専攻(戦功)を立てた多くの長寿が先祖の慢性的な疑心病の犠牲者になったし, 先祖に憎まれないように心を労し気を碎いたという事実をよく分かる. 移民書の文中で ¥”李舜臣が戦闘途中によろいを脱いだ¥”と言う言葉が何を根拠にした記録かはわからないが, この文によれば李舜臣将軍がノリャン海戦(露梁海戦)でわざわざよろいを着ないで敵弾を自ら要望するように当たったというのだ. しかし李舜臣がノリャン海戦の前に, または途中に敵弾を当たろうと意図的によろいを着なかったとかよろいを脱いだという記録はどこにもなくて, また常識的でも理解ができない言葉だ.

また, 李忠武公前で(李忠武公全書)にはイヤー(李黎)が鄭琢(鄭琢)の救命上書後に付け加えて書いた文があるのにその内容は次のようだ.

¥”...功労が大きいほど容納されにくさを自ら悟って遂にけんかに至って自分健康を損なったから, 李舜臣の殉国は前もって計画されたことだったと言うのに, あの時の場合と境遇で見ればその言葉にもし妥当な点もあると言おうか, あ, スルプドだ!¥”

が文も李舜臣の戦死が意図的だろうといううわさの根が深いという事実を伝えてからはあるが, 正確な状況証拠で認めることはできない.

一方李舜臣のウンドンソルを主張する人々が立てる理論を見よう. これらはこちら(李墳)が使ったイスンシンヘングロック(李舜臣行録)の記録に疑問があると言う.

第一, 大長線指揮所には数十人, または十数人の将卒がなければならないことにも記録には李舜臣と息子回と甥とは, そして小間使い金がなど四人しかいなかったということは李舜臣の戦死を装うための緻密な計画だったということだ. 特に専属副官と同じくいつも至近距離(通り)で補佐する軍官ソングフィリブも分からなかったということは話にならないという主張だ.

しかし大長線指揮所が数十人はどころか十数人の立ち入るほど空間が広くはなかった. またただひとりの戦闘要員も惜しい戦艦で十数人, または数十人が指揮所にあることもできなくて, そんな必要もないのだ.

第二, 李舜臣が普段 ¥”最後の戦闘で死ぬ¥”と言い放ったとおりノリャン海戦でわざわざ敵弾に当たって戦死したように構えたというのだ. しかしこの言葉は解釈が下手なのだ. 李舜臣将軍が言った ¥”最後のけんか¥”は自分が命をかけて争うという意味だ. 彼 ¥”最後のけんか¥”がノリャン海戦になるとは李舜臣がどうして分かったのか.

第三, 李舜臣の葬式と墓地弛張に釈然としない点があるというのだ. 戦死後露梁, 菰根も, 牙山に運柩した時日を考慮しても死後 80日も経っては葬式を済ましたし, また明らかな理由もなしに 15年後に弛張したという点が疑わしいというのだ.

李舜臣の運柩と鞍に死後 80日もかかったし, また 15年後に弛張したということが何か疑う理由になるか. その間にどこか隠れ処に移動したしその所で世の中の目を避けて幼い庶子を連れて隠れて暮したということは飛躍が度が外れた妄発だ. 李舜臣の人格がわずかそれ位しかならないと思ったという話か. また 16年も隠れて暮したと言ってもどんなに誰も分からない数があるという話か. 特に王権安保に非常に敏感で四方に諜者を敷いておいた先祖と李舜臣をきれいに見なかった光海君の監視の雪道を避けることはできなかったはずだ.

結局李舜臣将軍は戦死後 16年間ももっと隠れて暮したし, 現在の墓所に弛張する時本当に死亡したという主張だ. 李舜臣はそのように 70歳まで生きたというですね, 一口で言って途方もない音だ. この以外にもさまざまな情況証拠で立てるのがあるが筆者の判断は違う. 李舜臣将軍の死は戦死を自ら要望した自殺でもなくて戦死を装った生存でもないあくまでも純粋な戦死だった. 李舜臣が神さま(神)ではない場合にはどんなにノリャン海戦(露梁海戦)を自分の最後の戦闘で分かっていたのか. 戦争がいつ終わるかは誰もわからない事だ. ノリャン海戦で終わらなかったらまさしく次の戦闘がまた起ったはずだ. あの時は争わないで今度海戦に必ず戦死するべき.

そんなわけに自殺説やウンドンソルや皆が情けないこと言い尽くせないごりおし主張であり妥当性ない仮説に過ぎないのだ. これよりは李舜臣将軍の人間されることをもう一度よく見なければならない. 国王先祖がいくら猟奇的で悪魔のような人間だと言っても李舜臣が彼が恐ろしくて自殺をするとか戦死を自ら要望するほどの人と見るか. 貧しく隠れてもっと生きる人で見るか. どういたしましてだ! そうではない. 李舜臣はいつどこで死んでも天地神明と先祖の英霊に少しも恥ずかしくないように暮して来た人だった. 彼は抜群な人才だっただけでなくすごい人格者だった.

4百年の前あの時や今や自殺は美徳ではなく卑怯な行為, 卑怯者が選択する最後の道だ. 李舜臣は当代はもちろん前代と現世をひっくるめてどんな偉人にも立ち後れない人柄が高邁で高潔で堂々な人物だった. そんな李舜臣を見て戦死を装った自殺をしたとか, 戦死を装って隠れて暮したとか言うことを作り出すことこそ李舜臣を二度殺す事であり, 李舜臣の神神しい殉国精神を大変不名誉にしぶりという事実を誰もひしひし感じなければならないでしょう.


参照書籍; ファングワンガブ(黄源甲) 著述 ¥”復活する李舜臣¥” エコービーズニス(EcoBusiness) 2004, キム・ジョンデ(金宗代) 著述 ¥”神さま(臣)にはまだヨルドチォックの軍船があります.¥” ブックポス(BookFors) 2001, ツェドソック(崔頭錫) 著述 ¥”壬辰の乱(壬辰倭乱)と李舜臣(李舜臣)¥” 一刻 1999, 金蛍光(金炯光) 著述 ¥”人物に見る朝鮮社(朝鮮史)¥” シアツルパンサ 2003.

{引き続き}


「불패의 명장 이순신(李舜臣)」10.백의종군(白衣從軍) (4)

 

우리 민족의 역사가 시작된 이래 수많은 외적의 침범이 있었으나 그때마다 우리 선조들은 뜨거운 구국(救國)의 의지와 비상한 투지로 국난(國難)을 극복해왔다. 국난을 당할 때마다 탁월한 리더십을 발휘하여 민족적 기상을 높이 떨친 구국의 영웅은 일일이 헤아릴 수 없을 만큼 많지만, 이순신이야말로 그 숱한 영웅, 호걸, 충신, 열사 가운데서도 으뜸가는 위인이라는 사실에는 그 누구도 이의를 제기할 수 없을 것이다.

이순신(李舜臣)은 한국 역사상 최고의 전쟁 영웅으로 임진왜란(壬辰倭亂), 정유재란(丁酉再亂)이라는 미증유의 재앙을 당해 나라와 겨레의 멸망이 눈앞에 이르렀을 때 조선 수군을 총지휘하여 갖가지 불리한 여건 속에서도 필승의 신념과 비상한 전략으로 연전연승(連戰連勝)을 올린 불세출의 명장이었다. 그는 가난한 선비의 아들로 태어나 54년의 길지 않은 일생을 보내는 동안 온갖 고난 속에서도 오로지 충효(忠孝), 인의(仁義)와 애국애족정신(愛國愛族精神)으로 일관한 민족의 큰 스승이었다.

영국 해군사관학교 교장을 지냈던 빌라드(G.A.Billard) 소장(少將)은 "조선의 이순신이라는 해군 제독이 넬슨(Horatio Nelson)에 버금가는 뛰어난 지휘관이라는 사실을 영국인들은 인정하기 힘들겠지만 이순신이 동양 최고의 해군 제독이라는 점은 부정할 수 없는 사실이다."라고 이순신을 평가하였다. 중국계 미국인 역사학자로 미국 워싱턴 주립대학교 교수인 레이 황(Ray Hwang) 박사는 동양사 3대 전쟁 영웅으로 조선의 이순신(李舜臣), 베트남 다이비에이 왕조의 첸 훈다오[千訓道], 중국 명나라의 원숭환(袁崇煥)을 들면서 그 중에서도 이순신이 가장 위대한 공훈을 남긴 영웅이라고 칭송하였다.

오늘날 나라 안팎의 정세, 특히 또다시 빠진 정치적, 경제적 위기에 비추어볼 때 이순신은 지금까지 알려져 왔던 절세의 명장, 구국의 영웅이라는 면모에 더해 비상한 리더십을 갖춘 최고 경영자였다는 사실을 새삼 절감하게 된다. 21세기라는 새로운 격변의 시대, 격동의 시대를 맞이하여 강대국들과의 무한경쟁에서 살아남기 위해서도 우리는 동서고금(東西古今)의 그 어떤 위인보다도 위대했던 성웅(聖雄) 이순신의 리더십을 통해 국난극복의 지혜를 찾아야 할 것이다.

◆ 선조는 왜 이순신을 미워했나?

2000년 노벨 문학상 수상자인 카오싱지엔[高行建]은 한국 역사상 최고의 영웅인 이순신에 대해 "그는 전투를 치를 때마다 항상 승리했고, 죽을 때에도 승리를 잊지 않았다."라고 높이 평가한 바 있다. 그러한 면에서 이순신이 전사한 1598년 노량해전(露梁海戰)과 넬슨(Horatio Nelson)이 전사한 1805년 트라팔가해전(Trafalgar海戰)은 매우 유사하다.

그런데 일부에서는 이순신 장군이 노량해전(露梁海戰)에서 일부러 갑옷을 벗고 독전하다가 적군의 총탄에 맞았으므로 전사라기보다는 자살로 보아야 한다는 이순신 자살설을 제기하고 있으며, 이순신 장군이 전사를 가장하여 살아남아서 그 뒤 16년간이나 속세와의 모든 인연을 끊고 어딘가에서 숨어 살았다는 이순신 운둔설을 주장하는 자들도 있다.

얼핏 생각하면 황당무계하기 짝이 없는 이런 이설들은 모두가 이순신 장군의 생사관, 인생관, 국가관 등에 대한 이해가 부족한데서 나온 허황한 주장이다. 다시 말해서 이런 주장은 우리 민족의 성웅(聖雄)인 이순신을 평가절하하고 과소평가한 나머지 상업적인 목적에 따라 흥미 위주로 무리한 추리를 한 것에 불과하다.

이순신 장군의 54년에 걸친 일생은 죽을 곳과 때를 찾아다닌 피눈물로 얼룩진 고행과 다름없었다. 그런 이순신이 현실도피를 위해 비겁하게 자살을 했다느니, 구차하게 좀 더 살기 위해서 전사를 가장하고 숨어서 살았다느니 하는 말을 그 누가 믿을 수 있겠는가. 변덕스러운 군왕 선조(宣祖)가 적침(敵侵)을 물리치고 나라와 겨레를 멸망의 위기에서 구한 이순신에게 진심으로 감사하기는 커녕 자신의 실정과 실책을 덮기 위해 더욱 견제하고 미워했다는 점은 누구도 부인할 수 없는 사실이다. 이런 뿌리 깊고 끈질긴 증오가 바로 이순신으로 하여금 자살과 같은 전사로 몰고 갔다는 논리이다.

사실 그 동안 이순신 자살설은 정황증거로 제시된 몇몇 그럴듯한 기록 때문에 그동안 운둔설에 비해서는 이를 공감하고 믿는 사람이 더 많았다. 신빙성이 조금 더 높다고 본 것이다. 선조실록(宣祖實錄)을 보면 이런 설에 수긍이 가는 대목이 몇 군데 나온다. 이를테면 명량해전(鳴梁海戰) 직후인 1597년 10월 20일에 선조가 말하기를, "이순신은 사소한 적을 잡은데 불과하다. 그는 자신의 직분을 수행한 것일 뿐 큰 전공(戰功)을 세운 것은 아니다." 라고 한 것이 대표적이다.

1597년 7월 칠천량해전(漆川梁海戰)에서 전멸하다시피 궤멸된 수군으로, 고작 13척의 패잔선(敗殘船)으로 적군 대함대 133척을 격퇴시켜 서해로 북상하려는 왜적(倭敵)을 저지한 명량해전(鳴梁海戰). 전쟁의 물길을 돌려 자신의 왕위를 포함하여 왕실의 안전은 물론 국가를 멸망의 위기에서 구한 위대한 승전(勝戰)을 두고 선조는 "사소한 적을 잡은데 불과하다."고 평가절하를 했던 것이다.

이런 선조를 어떻게 정상적인 국왕이라고 평가할 수 있겠는가.

그러면서 또 선조는 이듬해 4월에는 "이순신에게 벼슬을 올려주지 않으면서 상을 주는 방법을 강구해보라."는 괴상한 소리도 늘어놓았다.

반면 비변사에서 "원균은 수군의 주장(主將)으로서 수군을 전멸당하게 했으므로 그 죄는 모두 원균에게 있습니다. 그 부하들에게도 죄가 있으면 벌을 주고, 공이 있으면 상을 주어 군기를 바로 세워야 합니다."라고 건의하자 이런 말로 원균을 두둔했다.

"원균 한 사람에게 책임을 돌리지 말라. 이산해와 윤두수가 그렇게 시킨 것이다."

다시 말해서 원균이 칠천량해전(漆川梁海戰)에서 참패를 당해 수군 전력을 모두 잃은 책임은 원균을 천거한 이산해(李山海)와 윤두수(尹斗壽)에게 있으므로, 임금인 자신에게는 아무 잘못이 없으니 원균에게 모든 책임을 돌려서도 안 된다는 해괴한 강변이었다.

선조(宣祖)가 그렇게 감싸고 돌면서 원균의 패전(敗戰) 책임을 묻지 않자 사초(史草)를 담당하는 사관(史官)조차 "머리가 터질 것 같고 뼈가 녹아버리는 것 같다."면서 이렇게 선조의 어처구니없는 처사를 비판했다.

"칠천도에서 군선을 남김없이 수장시키고 패배한 원균은 그 시체를 찾아 시장에서 사지를 찢어 처형해야 마땅하다. 또 수군이 죄가 없다는 말은 무슨 말인가. 원균은 성질이 포악한 일개 무지한이다. 이순신을 모함하여 몰아내고 통제사가 되었으며, 단번에 적을 섬멸하겠다고 큰소리를 쳤으나 지혜가 부족하여 패배했다. 그리고서는 배를 버리고 육지로 도망가는 바람에 장병들을 모두 죽게 했다. 이런 원균의 죄를 누가 벌주어야 하는가....."

그러면 선조는 무슨 까닭에 이순신을 미워하고 그를 없애지 못해 안달할 정도로 증오했던 것일까.

당시 백성들은 이순신 장군을 천고에 없던 영웅으로 칭송하고 찬양하는 반면, 미증유의 재앙인 임진왜란(壬辰倭亂)과 정유재란(丁酉再亂)을 막지 못한 군왕 선조와 조정 대신들, 형편없는 통솔력으로 수군을 전멸하게 한 원균에 대해서는 원성이 하늘에 사무쳤다.

선조도 바보가 아닌 이상 그런 사실을 잘 알고 있었다. 그런데 선조는 비정상적인 성격의 주인공이었다. 자신이 적통이 아님에도 불구하고 왕위를 이었다는 사실에 콤플렉스도 있었다. 의심과 시기심이 많고 독선적이었다. 선조는 심지어는 아들인 광해군에 의해 왕좌에서 밀려날까봐 의심하다 못해 죽이려고까지 했던 참으로 엽기적인 임금이었다.

그래서 정규군과 의병을 막론하고 당시 조선의 장수 가운데서 가장 강력한 군대를 가진 이순신, 거기에 백성들에게 인기까지 높았던 이순신을 자신의 왕좌를 위협하는 존재로 여겼던 것이다. 이는 일종의 피해망상이라고 할 수 있었다. 그런 까닭에 선조는 김덕령처럼 이순신도 죽여 없애려고 한 것이었다. 선조가 이순신을 "반드시" 죽여야 할 대상으로 여겼다는 사실은 선조실록(宣祖實錄)을 살펴보면 틀림없이 나타난다

선조가 이순신을 미워하기 시작한 것은 오래된 일이지만 이순신이 실각하게 된 직접적인 원인은 요시라의 반간계 때문이었다. 고니시 유키나가의 밀명을 받은 요시라의 공작에 김응서와 권율이 놀아나고, 조정도 넘어갔다. 이에 따라 1597년 1월 23일부터 조정에서 논의가 시작되었으며, 2월 4일 사헌부의 주청에 따라 이순신의 체포가 결정됐던 것이다. 아니, 사헌부의 주청이라기 보다는 사실은 선조의 뜻에 따른 것이었다.

이렇게 이순신을 제거하기 위해 일본군 수뇌부의 음모에 발맞추어 이순신을 실각시키고 조선 수군의 전멸에 결정적으로 기여한 선조는 훗날 이순신의 전사 소식을 듣자 제문(祭文)에 이런 구절을 써 넣었다.

"나는 그대를 버렸건만 그대는 나를 버리지 않았다."

참으로 솔직한 표현이다. 이순신이 전투에서는 승리하되 죽어주었으면 하고 내심 바라던 그였는데 그대로 되었으니 얼마나 속이 후련했을까. 그런 까닭에 부분적이나마 그처럼 솔직한 속마음이 조사(弔辭)에 포함된 것이 아니겠는가.

어쨌든, 선조의 이러한 증오와 시기심에 대해서 이순신이라고 모를 리가 없었다. 전에 선조가 무고한 김덕령을 죽인 사실도 잘 알고 있었고, 곽재우를 냉대한 사실도 잘 알고 있었다. 따라서 이순신은 자신이 전쟁이 끝난 뒤까지 살아남는다고 해도 결국은 선조의 마수에서 무사할 수 없다는 것을 절감했을 것이다.

이순신이 명량해전(鳴梁海戰)에서 기적의 승리를 거두자 선조가 면사첩(免死帖)을 내려주기는 했지만 변덕스러운 선조에게 그 따위 것은 백 장이 있어도 소용없었을 것이다. 결국 그래서 이순신이 택한 길이 전사를 자초한 자살이었을 것이란 추론이다. 선조의 고질적인 의심병에 대한 이순신의 조심성은 전쟁 내내 조정에 보낸 장계를 보면 미루어 짐작할 수 있다. 즉, 이순신이 보낸 승첩장계에는 아군의 전과는 될 수 있으면 간단히 축소하고, 피해나 어려운 사정은 비교적 정확하고 상세히 보고했던 것이다.

이것은 무엇을 뜻하는가. 임금에게 신하로서 강한 모습을 보이지 않는 대신 우는 소리를 많이 해서 자신이 결코 시기나 경계의 대상이 아니라는 점을 인식시키려고 한 것이었다. 그래서 이순신의 일생이 죽을 곳과 때를 찾아 해맨 고행길이었다고 하는 것이다.

그렇다고는 해도 이순신의 자살설은 어디까지나 당시의 정황과 일부 기록에 따른 추론에 불과하다. 이순신이 전사를 가장한 자살을 했다고 주장하는 무리는 이민서(李敏敍)가 쓴 김충장공유사(金忠壯公遺事)의 다음 기록을 근거로 내세운다.

"김덕령 장군이 죽고부터 여러 장수가 저마다 스스로 의심하고 또 스스로 제 몸을 보전하지 못했으니, 저 곽재우는 마침내 군사를 해산하고 숨어서 화를 피했고, 이순신은 바야흐로 전쟁 중에 갑옷을 벗고 스스로 탄환에 맞아 죽었으며, 호남과 영남 등지에서는 부자와 형제들이 의병은 되지 말라고 서로 경계했다는 것이다..."

이 글을 보더라도 당시 전공(戰功)을 세웠던 많은 장수가 선조의 고질적인 의심병의 희생자가 되었으며, 선조에게 미운털이 박히지 않으려고 노심초사했다는 사실을 잘 알 수 있다. 이민서의 글 가운데서 "이순신이 전투 도중에 갑옷을 벗었다"는 말이 무엇을 근거로 한 기록인지는 알 수 없지만, 이 글에 따르면 이순신 장군이 노량해전(露梁海戰)에서 일부러 갑옷을 입지 않고 적탄을 자청하다시피 맞았다는 것이다. 그러나 이순신이 노량해전 전에, 또는 도중에 적탄을 맞고자 의도적으로 갑옷을 입지 않았거나 갑옷을 벗었다는 기록은 어디에도 없고, 또 상식적으로도 이해가 가지 않는 말이다.

또, 이충무공전서(李忠武公全書)에는 이여(李黎)가 정탁(鄭琢)의 구명상소문 뒤에 덧붙여 쓴 글이 있는데 그 내용은 다음과 같다.

"...공로가 클수록 용납되기 어려움을 스스로 깨닫고 마침내 싸움에 이르러 자기 몸을 버렸으니, 이순신의 순국은 미리부터 계획된 것이었다고들 하는데, 그때의 경우와 처지로 보면 그 말에 혹시 타당한 점도 있다 할까, 아, 슬프도다!"

이 글도 이순신의 전사가 의도적일 것이라는 소문의 뿌리가 깊다는 사실을 전해주고는 있지만, 정확한 정황증거로 인정할 수는 없다.

한편 이순신의 운둔설을 주장하는 이들이 내세우는 이론을 보자. 이들은 이분(李墳)이 쓴 이순신행록(李舜臣行錄)의 기록에 의문이 있다고 말한다.

첫째, 대장선 지휘소에는 수십명, 또는 십수명의 장졸이 있어야 함에도 기록에는 이순신과 아들 회와 조카 완, 그리고 몸종 금이 등 네 명밖에 없었다는 것은 이순신의 전사를 가장하기 위한 치밀한 계획이었다는 것이다. 특히 전속부관이나 마찬가지로 항상 지근거리에서 보좌하는 군관 송희립도 몰랐다는 것은 말이 안 된다는 주장이다.

그러나 대장선 지휘소가 수십명은 커녕 십수명이 들어설 만큼 공간이 넓지는 않았다. 또한 단 한사람의 전투요원도 아쉬운 전함에서 십수명, 또는 수십명이 지휘소에 있을 수도 없고, 그럴 필요도 없는 것이다.

둘째, 이순신이 평소에 "마지막 전투에서 죽겠다"고 공언한 대로 노량해전에서 일부러 적탄에 맞아 전사한 것처럼 꾸몄다는 것이다. 그러나 이 말은 해석을 잘못한 것이다. 이순신 장군이 말한 "마지막 싸움"은 자신이 목숨을 바쳐 싸우겠다는 뜻이다. 그 "마지막 싸움"이 노량해전이 될 줄 이순신이 어찌 알았겠는가.

셋째, 이순신의 장례식과 묘지 이장에 석연치 않은 점이 있다는 것이다. 전사 후 노량, 고근도, 아산으로 운구한 시일을 고려해도 사후 80일이나 지나서야 장례를 치렀으며, 또한 뚜렷한 이유도 없이 15년 뒤에 이장했다는 점이 의심스럽다는 것이다.

이순신의 운구와 안장에 사후 80일이나 걸렸고, 또 15년 뒤에 이장했다는 것이 무슨 의심할 이유가 되는가. 그 사이에 어딘가 은신처로 이동했으며 그곳에서 세상의 눈을 피해 어린 서자를 데리고 숨어 살았다는 것은 비약이 지나친 망발이다. 이순신의 인격이 고작 그 정도밖에 안된다고 생각한단 말인가. 또 16년이나 숨어 살았다고 하더라도 어떻게 아무도 모를 수가 있단 말인가. 특히 왕권안보에 매우 민감하여 사방에 첩자를 깔아두었던 선조와 이순신을 곱게 보지 않았던 광해군의 감시의 눈길을 피할 수는 없었을 것이다.

결국 이순신 장군은 전사 후 16년간이나 더 숨어서 살았고, 현재의 묘소로 이장할 때 정말로 사망했다는 주장이다. 이순신은 그렇게 70세까지 살았다는 말인데, 한 마디로 말해서 터무니없는 소리다. 이 밖에도 여러 가지 정황 증거로 내세우는 것이 있지만 필자의 판단은 다르다. 이순신 장군의 죽음은 전사를 자청한 자살도 아니고 전사를 가장한 생존도 아닌 어디까지나 순수한 전사였다. 이순신이 신(神)이 아닌 다음에야 어떻게 노량해전(露梁海戰)을 자신의 마지막 전투로 알고 있었겠는가. 전쟁이 언제 끝날지는 아무도 알 수 없는 일이다. 노량해전에서 끝나지 않았으면 틀림없이 다음 전투가 또 벌어졌을 것이다. 그때는 싸우지 않고 이번 해전에 꼭 전사해야만 되었을까.

그런 까닭에 자살설이나 운둔설이나 모두가 한심하기 그지없는 억지주장이요 타당성 없는 가설에 불과한 것이다. 이보다는 이순신 장군의 인간됨을 다시 한 번 살펴보아야 한다. 국왕 선조가 아무리 엽기적이며 악마와 같은 인간이라고 해도 이순신이 그가 두려워서 자살을 하거나 전사를 자청할 정도의 사람이라고 보는가. 구차하게 숨어서 더 살 사람으로 보는가. 천만의 말씀이다! 그렇지 않다. 이순신은 언제 어디에서 죽더라도 천지신명과 조상의 영령에 조금도 부끄럽지 않게 살아온 사람이었다. 그는 출중한 인재였을 뿐만 아니라 비상한 인격자였다.

4백년 전 그때나 지금이나 자살은 미덕이 아니라 비겁한 행위, 비겁자가 선택하는 최후의 길이다. 이순신은 당대는 물론 전대와 현세를 통틀어 그 어떤 위인에게도 뒤지지 않는 인품이 고매하고 고결하며 당당한 인물이었다. 그런 이순신을 보고 전사를 가장한 자살을 했다느니, 전사를 가장하여 숨어 살았다느니 하는 말을 만들어내는 것이야말로 이순신을 두 번 죽이는 일이요, 이순신의 거룩한 순국정신을 더없이 욕되게 하는 짓이라는 사실을 누구나 뼈저리게 느껴야만 할 것이다.


참고서적; 황원갑(黃源甲) 저술 "부활하는 이순신" 에코비즈니스(EcoBusiness) 2004, 김종대(金宗代) 저술 "신(臣)에게는 아직도 열두척의 군선이 있습니다." 북포스(BookFors) 2001, 최두석(崔頭錫) 저술 "임진왜란(壬辰倭亂)과 이순신(李舜臣)" 일각 1999, 김형광(金炯光) 저술 "인물로 보는 조선사(朝鮮史)" 시아출판사 2003.

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