伝統文化

 

我が民族の歴史が始まった以来幾多の外的の侵犯があったがその時ごとにうちの先祖たちは熱い救国(救国)の意志とすごい闘志で国難(国難)を乗り越えて来た. 国難にあう度に卓越なリーダーシップを発揮して民族的気象を高くふるった救国の英雄はいちいち数え切れないだけ多いが, 李舜臣こそその多い英雄, 豪傑, 忠臣, 烈士の中にもきっての偉人という事実にはその誰も異意を申し立てることができないだろう.

李舜臣(李舜臣)は韓国歴史上最高の戦争英雄で壬辰の乱(壬辰倭乱), 丁酉災乱(丁酉再乱)という未曽有の災いにあって国と同胞の滅亡が目の前に至った時朝鮮水軍を総指揮していろいろの不利な与件の中でも必勝の信念とすごい戦略で勝ちっ放し(連戦連勝)をあげた不世出の名将だった. 彼は貧しい士の息子に生まれて 54年の長くない一生を送る間あらゆる苦難の中でもひたすら忠孝(忠孝), 仁義(仁義)と愛国愛族精神(愛国愛族精神)に一貫した民族の大きい師匠だった.

イギリス海軍兵学校校長を勤めたビルラド(G.A.Billard) 所長(少将)は ¥”朝鮮の李舜臣という海軍提督がネルソン(Horatio Nelson)に劣らないすぐれた指揮官という事実をイギリス人たちは認めにくいが李舜臣が東洋最高の海軍提督という点は否定することができない事実だ.¥”と李舜臣を評価した. 中国係アメリカ人歴史学者でアメリカワシントン州立大学校教授であるレイ硫黄(Ray Hwang) 博士は東洋史 3台戦争英雄で朝鮮の李舜臣(李舜臣), ベトナム多異美瑛王朝のチェンフンダオ[千訓道], 中国明のワンスングファン(袁崇煥)を持ちながらその中でも李舜臣が一番偉い手柄を残した英雄だとほめたたえた.

今日国内外の情勢, 特に再び抜けた政治的, 経済的危機に照らして見る時李舜臣は今まで知られて来た節税の名将, 救国の英雄という面貌に加えてすごいリーダーシップを取り揃えた最高経営者だったという事実を今更節減するようになる. 21世紀という新しい激変の時代, 激動の時代を迎えて強大国たちとの無限競争で生き残るためにしても私たちは東西古今(東西古今)のどんな偉人よりも偉かった聖雄(聖雄) 李舜臣のリーダーシップを通じて国難克服の知恵を捜さなければならないでしょう.

◆ 民のための民の長寿

幸州大捷(幸州大捷)があったその年 2月に李舜臣はウングポの日本水軍を討伐していた. 五番目出征だった.

李舜臣はたとえ釜山浦海戦(釜山浦海戦)で賊船 100余隻を撃破したが釜山と対馬島を引き継ぐ海上路を完全に遮断, 侵略して来た敵軍をつけたしたやつもいかして返さないという最初の目的を果たすことができなくて心が非常に便することができなかった. しかし彼は旅愁で軍糧を用意して武器を製作して伝えることを修理, 乾燥して軍事を調練するなどいつどこで起るかも知れないけんかにちっとも準備を怠らなかった.

李舜臣は戦闘がないと言って一日も油断しなかった. 彼はいろいろに与件が難しいにもかかわらず自分の軍隊を最上の状態で維持するために心を労し気を碎いた. 李舜臣はなによりも軍事たちの士気を高めてくれて, 不足な兵力と軍糧の補充のために努力した.

彼は調整から下った表彰者名簿をいちいち察して抜け落ちされた有功者があれば彼らの表装を建議した. また軍事たちの補充のためにも人並みはずれて労力した. 当時は国家の安危が危なげな戦争の中だったのにも長い間持続した兵務行政の紊乱によって軍事たちを集めるのがよほど大変な事ではなかった.

李舜臣が 12月 10日調整にあげた長計にもそういう事情がよく現われている.

¥”.....ところでこのように危険と難しい台にあって戍卒(戍卒) 1人は平時の 100人にあたるのに, 一度大まかに徴兵するなと言う命令を聞いてからは皆兔れようとする塊だけ抱くから先月には 10名も乳房君(留防軍)を出した地方が今月にはやっと 3,4人に過ぎないから数ヶ月行かなくて戍卒がますます空いて珍蔵(鎭将)がなすすべがないだろう. だから船に乗って少ない討滅するに何を負って阻んで殺すはずであり, 城を守って抗戦するに誰をウィジハ来ましょうか.¥”

これは調整で ¥”親族期里の連帯責任と言う(のは)民たちに大きい弊端になるので本人が逃げても他の親戚を大臣徴兵しないようにしなさい¥”と連座制(縁坐制)を廃止したので軍卒補充がとても難しくなったからだった.

李舜臣はこの命令を取り消してくれと言う内容の長計を壬辰年 12月 10日, 翌年 4月 10日, そして戦争 3年目である 1594年 1月 5日など三回もあげた. 李舜臣は調整の指示が原則的には移るが緊急な展示に照らして現実的に当たらないという事実を指摘したのだった.

も水軍を陸軍ででたらめにポブアがは仕打ちに対してこんなに建議したりした.

¥”.....都内の王命を受けた長寿たちが水軍の多くの将兵を六典に移動させると言って, または王命を聞いたと言いながら伝令を出して忙しくつかみ出すところ水軍と陸軍を分別する意がないので東西で慌ただしくてどこに付いて行くかも知れないです.

命令がこんなに多くの所から出たら号令が施行されることができずに, 外敵(倭敵)は除去されなかったが大将の指揮だけ行き違ったらまことに不憫で心配になります. これから水軍に属した首領と変装たちを他の所に移さずに全部水軍にあるように本島の感謝, 兵士, 防禦使及び粗放場に言い付けてください.¥”


しかしその偉い調整は李舜臣のこのように切迫した建議をつけた一つも聞き入れなかった.

李舜臣はまた慶尚道の敵軍が機会さえあれば全羅道で侵犯しようとするのに大韓部屋秘策も用意した. 彼は各村に公文書を回して僧侶たちと病的(兵籍)で抜けた者 400人余りを別に集めて求礼と光陽等地の全羅道に入って来る町角を守るようにした.

李舜臣はこれらの中で結構用力がすぐれた僧侶三慧(三恵)は諡号別途場, ウィヌング(義能)は遊撃別途場, ソングフィ(性輝)はウドルギョックザング, 辛亥(信海)は左突撃将, 支援(智元)は佯病用隔墻称号を酒庫, 義兵大将部屋先である(房処仁), 姜喜悦(姜姫悦), ソングウングジ(成応趾) 等にもそれぞれジキル所を指定してくれた. 特に三慧, ウィヌング, ソングウングジには軍船を分けてやって敵軍の動態を察して報告するようにした.

そして李舜臣は旅愁で避難全 200ヨホの慶尚道民にトルサン島に居所を用意してくれて寒い冬を無事に出ることができるようにダドッするように面倒を見てくれた. 仮に彼らに定着地だけ用意してくれたのではなく畑も耕して言葉も飼って生業を引き続くようにした.

このように避難民たちを面倒を見る事は後で閑山島で陣営を移した後にも続いて彼らの定着地をスンチョンとフングヤング等地で拡大したから李舜臣の愛国愛民(愛国愛民)する心がこのように至極だった. 彼はまことに単純な武将(武将)ではなく民のための牧民官(牧民官), 民の救世与えたのだ.

◆ 水陸挟攻(水陸挟攻)のタイミング(Timing)がまともに当たらなかったウングポヘゾン(熊浦海戦).

そのように壬辰の乱(壬辰倭乱) 初年度が暮れて新年 1593年になった.

1月 25日, 調整で李舜臣(李舜臣)に次のような指示を下した.

¥“1月 8日イヨソング(李如松)が平壌を収復してずっと進軍したら君は水軍を整備して海戦で (倭敵を) 全部おかゆよ無くして国の恥辱を大きく洗うようにしなさい¥”

李舜臣は全裸左水営(全羅左水営) 官下すべての陣営に 1月 30日まで麗水沖合に集結しなさいという召集令を下げた. そしてツルゾンイルを 2月 2日に決めたが, 悪天候が続くせいで 2月 6日まで待たなければならなかった. 2月 6日その日も天気は悪かったがもっと手間を取ることができなかったので出動を敢行, その日夕方にはシャラン島まで航進して停泊した. そしてその明くる日ギョンネリャングで元均と合流した.

2月 8日にはイオックギが全裸右水営(全羅右水営) 艦隊を導いて七川量で力を合わせた. その日の前艦隊が出発して七川島に到着したし, 翌日までその所で泊まった. 2月 10日, 前ハム対価出発して日本水軍の巣窟であるウングポで進んだ. ウングポは今昌原市熊川面南門里だった. 李舜臣が釜山浦海戦(釜山浦海戦) 以後伝えることを修理して軍事を補って軍糧を確保するなど全力を強化する間に日本軍が再集結して新しい水軍基地で構築した所だった.

したがって釜山をまた攻撃するためにはその背後であるウングポの敵軍から打ち破らなければならなかった. 潟には日本水軍の軍船たちが列をなして竝んでいたし, 潟の両方住んだ岸には新たに積んだ日本軍の城砦が湧いていた.

李舜臣は先鋒船にとって潟の中に入って行って賊船を誘引するように指示した. ところで初めには先鋒船に沿って潟外に出た賊船たちが急にお腹を回したらそのまま潟の中に逃げてしまうのだった. そのように二度も誘引作戦を使ったが賊船は引っかからアンアッダ. 誘引策がどんな效力もなくて, そうだとして無鉄砲に敵陣の中に突撃することもできないことなので我軍はどんな所得もなしに回軍するしかなかった. 敵軍を見てからもどんな成果なし回軍することは今度が初めてだった. 艦隊はその晩を永登浦後ソジンポで停泊した.

李舜臣はその日の状況を搖るのにこんなに使った.

¥”二回も誘引しようと思ったが私たち水軍を恐れて出そうながらも度に入って行ってしまったら結局全部取って無くすことができなかったことが痛憤する.¥”

11日は天気が悪くてそのまま休息して, 12日にまたウングポで進撃して誘引策を使ったが敵兵たちは遠くから乱れているように弔銃だけソアデルだけ海上戦闘に応じる気配を見せなかった. この日も別に前となしに七川島で撤収した.

七川島で作戦を構想して李舜臣は軽傷牛島巡察使(慶尚右道巡察使) キム・ソンイル(金誠一)に ¥”陸軍長寿たちに言い付けて病魔(兵馬)を従えて早く熊川を攻撃するようにしなさい.¥” する公文書を送った. ウングポの敵軍を殲滅するためには水陸両面挟攻作戦の外には他の道がないという結論を下したからだった. しかし期待と違い陸上ではめったにここに応じる気配がなかった.

18日また艦隊を従えてウングポに行って今度はちょっと風変りな誘引作戦を使って見た.

使徒晨辞ギムワン(金浣)を伏兵場で任命して女道万戸, ノックドがザング, 左右別途場, 左右突撃将などを従えて松都に伏兵吐露した後, 多くの尺の軍船にとって潟の中に深く入って行って賊船を誘引するようにした. すると今度は何の気がしたのか賊船 10余隻が応戦してからはのだった. 待った伏兵船たちが従って出た賊船たちをかこんで各種火砲をソアデであり猛攻を浴びせた. すると賊船たちは今度にもゼブサゼ船首を回して潟の中に逃げて入って行き始めた.

そうして賊船 3尺を撃沈させて敵兵 100人余りを殺傷させたが残り賊船たちは潟の中に深く入って行って二度と出るつもりもしなかった.

士禍量で軍事をずらした李舜臣は今度作戦でもウングポの敵軍をきれいに殲滅することができないことを痛嘆してもう一度キム・ソンイルに陸軍のユングチォン攻撃を要請する公文書を送った. しかしキム・ソンイルは ¥”クァクゼウにとって先に昌原を討伐するようにして, だんだん熊川で進撃するようにする¥”は温い返事だけ送った.

22日, 二日の前にもウングポを攻撃したがどんな前科がなしに消尽虜退いてからもう一度攻撃を敢行した.

今度は三慧(三恵)とウィヌング(義能) 二人の勝将(僧将)とソングウングジ(成応趾)が導く義兵部隊をウングポ西の方第虜上陸させて, 軽快船 15尺を抜いて先鋒にしてウングポで突撃させたのだった. しかし規模の小さなことがきずだった. 敵軍を混乱させて 130人余りを惨殺して賊船 7, 8尺をこなごなに壊す戦果をおさめたが陸上の日本軍負けてからあまりにも堅固で抵抗も頑強だった. だけでなく潟が窮屈で敵陣をすり抜けて来る途中朝鮮水軍の板屋船(板屋船) ドチォックが日本軍の砲撃を避けようとしたがお互いにぶつかって転覆する事故が起ったし, 協では(挟船) 1尺も日本軍の攻撃に沈沒される損失を被った.
李舜臣の艦隊は壬辰の乱(壬辰倭乱) 勃発以後玉浦海戦(玉浦海戦)から釜山浦海戦(釜山浦海戦)に至るまで十六つ順番の海戦を行いながらただ一尺の郡では損失島着なかったがウングポヘゾン(熊浦海戦)で初めに軍船三尺が破損される被害を被ったのだった.

2月 6日から2ヶ月間もウングポ攻撃を試みたが地形的条件の不利さと陸軍のサポート不在で満足するに値する成果をおさめることができなかった李舜臣は仕方なく 4月 3日に朝鮮三道数だね連合船団(朝鮮三道水軍連合船団)を解散して旅愁の左水営に帰って来てしまった. 農繁期になったがいつまでもウングポの敵軍にだけ縛られていることはできないからだった. 弱り目に崇り目で伝染病まで広がって死亡者が続出していた.

旅愁の本営に帰って来た李舜臣は調整にこんな内容の長計をあげた.

¥”.....この時にあってたとえ調整の命令が精霊なさらないとしても臣下された者として適切に敵軍が逃げることを察してその帰る道を切って誓って賊船一尺度帰ることができないようにしなければならないのに, 今度海に下ってからもう2ヶ月や経つように明軍事の消息はめどがはっきりしなくて分かるあてがなくて, 各地にチンにしてある敵軍は相変らず堪えているし, 今すぐ農事の季節になって雨が充分に降ったにも沿海岸多くのチンがすべて海に下ったし, 左右も水軍 4万名余が皆農民だから農業を全廃すれば秋秋収の所望は望むことができなくなります.

我が国の腕度中でただ湖南だけが少し安全で軍糧が皆この度から出るのに, 都内の壮丁たちが皆水陸の戦争に出て, 老けて弱い人々は軍糧を運ぶために境内には残った動き手がなくて春一物心が経つように野原が寂しいです. ただ民たちが生業を忘れてしまうだけでなく必要な多くの物資さえ依頼することができないのできまり悪くて心配します.

士夫とギョックグンドルがたとえ交代に帰って農業をしようとするが他に代わりをする人がいなくて永久に住む道が切れるだけでなく, 流行病さえ広がって死亡者が続出しているので明軍事たちが南に下る日でも飢えた軍事を従えてからは逃げる敵方を阻んで殲滅しにくい都合です.

だからまず交代に入って行って農業をするようにして, 同時に病んだ軍事を看病して, 軍糧を準備して軍船を修理しながら明軍事たちが下ることを察して幾許を見てまた出場しようと去る 4月 3日イオックギと約束して本島に帰って来ました.¥”


ところでいざ敵軍と戦うには窓一袋, 矢一台も加えてくれることができなかったまま座って口だけでああしろこうしろと言うのが好きな調整ではこんな事情を全然考慮しないで 5月 2日李舜臣将軍に再び出て倭軍を打ちなさいという命令を下した.

参照書籍; ファングワンガブ(黄源甲) 著述 ¥”復活する李舜臣¥” エコービーズニス(EcoBusiness) 2004, キム・ジョンデ(金宗代) 著述 ¥”神さま(臣)にはまだヨルドチォックの軍船があります.¥” ブックポス(BookFors) 2001, ツェドソック(崔頭錫) 著述 ¥”壬辰の乱(壬辰倭乱)と李舜臣(李舜臣)¥” 一刻 1999, 金蛍光(金炯光) 著述 ¥”人物に見る朝鮮社(朝鮮史)¥” シアツルパンサ 2003.

{引き続き}


「불패의 명장 이순신(李舜臣)」9.삼도수군통제사(三道水軍統制使) (1)

 

우리 민족의 역사가 시작된 이래 수많은 외적의 침범이 있었으나 그때마다 우리 선조들은 뜨거운 구국(救國)의 의지와 비상한 투지로 국난(國難)을 극복해왔다. 국난을 당할 때마다 탁월한 리더십을 발휘하여 민족적 기상을 높이 떨친 구국의 영웅은 일일이 헤아릴 수 없을 만큼 많지만, 이순신이야말로 그 숱한 영웅, 호걸, 충신, 열사 가운데서도 으뜸가는 위인이라는 사실에는 그 누구도 이의를 제기할 수 없을 것이다.

이순신(李舜臣)은 한국 역사상 최고의 전쟁 영웅으로 임진왜란(壬辰倭亂), 정유재란(丁酉再亂)이라는 미증유의 재앙을 당해 나라와 겨레의 멸망이 눈앞에 이르렀을 때 조선 수군을 총지휘하여 갖가지 불리한 여건 속에서도 필승의 신념과 비상한 전략으로 연전연승(連戰連勝)을 올린 불세출의 명장이었다. 그는 가난한 선비의 아들로 태어나 54년의 길지 않은 일생을 보내는 동안 온갖 고난 속에서도 오로지 충효(忠孝), 인의(仁義)와 애국애족정신(愛國愛族精神)으로 일관한 민족의 큰 스승이었다.

영국 해군사관학교 교장을 지냈던 빌라드(G.A.Billard) 소장(少將)은 "조선의 이순신이라는 해군 제독이 넬슨(Horatio Nelson)에 버금가는 뛰어난 지휘관이라는 사실을 영국인들은 인정하기 힘들겠지만 이순신이 동양 최고의 해군 제독이라는 점은 부정할 수 없는 사실이다."라고 이순신을 평가하였다. 중국계 미국인 역사학자로 미국 워싱턴 주립대학교 교수인 레이 황(Ray Hwang) 박사는 동양사 3대 전쟁 영웅으로 조선의 이순신(李舜臣), 베트남 다이비에이 왕조의 첸 훈다오[千訓道], 중국 명나라의 원숭환(袁崇煥)을 들면서 그 중에서도 이순신이 가장 위대한 공훈을 남긴 영웅이라고 칭송하였다.

오늘날 나라 안팎의 정세, 특히 또다시 빠진 정치적, 경제적 위기에 비추어볼 때 이순신은 지금까지 알려져 왔던 절세의 명장, 구국의 영웅이라는 면모에 더해 비상한 리더십을 갖춘 최고 경영자였다는 사실을 새삼 절감하게 된다. 21세기라는 새로운 격변의 시대, 격동의 시대를 맞이하여 강대국들과의 무한경쟁에서 살아남기 위해서도 우리는 동서고금(東西古今)의 그 어떤 위인보다도 위대했던 성웅(聖雄) 이순신의 리더십을 통해 국난극복의 지혜를 찾아야 할 것이다.

◆ 백성을 위한 백성의 장수

행주대첩(幸州大捷)이 있던 그해 2월에 이순신은 웅포의 일본 수군을 토벌하고 있었다. 다섯번째 출정이었다.

이순신은 비록 부산포해전(釜山浦海戰)에서 적선 100여척을 격파했으나 부산과 대마도를 잇는 해상로를 완전히 차단, 침략해온 적군을 단 한 놈도 살려서 돌려보내지 않겠다는 당초의 목적을 달성하지 못해 마음이 매우 편치 못했다. 그러나 그는 여수에서 군량을 마련하고 무기를 제작하고 전함을 수리, 건조하고 군사를 조련하는 등 언제 어디서 벌어질지 모를 싸움에 잠시도 준비를 게을리 하지 않았다.

이순신은 전투가 없다고 해서 하루도 방심하지 않았다. 그는 여러 가지로 여건이 어려움에도 불구하고 자신의 군대를 최상의 상태로 유지하기 위해 노심초사했다. 이순신은 무엇보다도 군사들의 사기를 높여주고, 부족한 병력과 군량의 보충을 위해 노력했다.

그는 조정에서 내려온 표창자 명단을 일일이 살펴서 누락된 유공자가 있으면 그들의 표장을 건의했다. 또 군사들의 보충을 위해서도 남달리 애를 썼다. 당시는 국가의 안위가 위태로운 전쟁 중이었음에도 오랫동안 지속된 병무행정의 문란으로 인해 군사들을 모으는 것이 여간 힘든 일이 아니었다.

이순신이 12월 10일 조정에 올린 장계에도 그러한 사정이 잘 나타나 있다.

".....그런데 이와 같이 위험하고 어려운 대를 당해 수졸(戍卒) 1명은 평시의 100명에 해당하는데, 한번 대충 징병하지 말라는 명령을 듣고서는 모두 모면하려는 괴만 품기 때문에 지난달에는 10명이나 유방군(留防軍)을 내보내던 지방이 이달에는 겨우 3,4명에 불과하니 몇달 안 가서 수졸이 날로 비어 진장(鎭將)이 속수무책일 것입니다. 그러니 배를 타고 적을 토멸함에 무엇을 힘입어 막아 죽일 것이며, 성을 지켜 항전함에 누구를 의지하오리까."

이는 조정에서 "친족기리의 연대책임이란 백성들에게 큰 폐단이 되므로 본인이 도망치더라도 다른 친척을 대신 징병하지 않도록 하라"고 연좌제(緣坐制)를 폐지했으므로 군졸 보충이 매우 어려워졌기 때문이었다.

이순신은 이 명령을 취소해달라는 내용의 장계를 임진년 12월 10일, 이듬해 4월 10일, 그리고 전쟁 3년째인 1594년 1월 5일 등 세 차례나 올렸다. 이순신은 조정의 지시가 원칙적으로는 옮지만 다급한 전시에 비춰 현실적으로 맞지 않는다는 사실을 지적한 것이었다.

또한 수군을 육군으로 마구 뽑아가는 처사에 대해 이렇게 건의하기도 했다.

".....도내의 왕명을 받은 장수들이 수군의 여러 장병을 육전으로 이동시킨다 하고, 또는 왕명을 들었다 하면서 전령을 내어 분주히 잡아내는바 수군과 육군을 분별할 뜻이 없으므로 동서로 분주하여 어디로 따라갈지 모릅니다.

명령이 이렇게 여러 곳에서 나오니 호령이 시행되지 못하고, 왜적(倭敵)은 제거되지 않았는데 대장의 지휘만 어긋나니 참으로 민망스럽고 걱정이 됩니다. 앞으로 수군에 소속된 수령과 변장들을 다른 곳으로 옮기지 말고 전부 수군에 있도록 본도의 감사, 병사, 방어사 및 조방장에게 명령하여 주시기 바랍니다."


하지만 그 잘난 조정은 이순신의 이와 같이 절박한 건의를 단 한 가지도 들어주지 않았다.

이순신은 또 경상도의 적군이 기회만 있으면 전라도로 침범하려는 데 대한 방비책도 마련했다. 그는 각 고을에 공문을 돌려서 승려들과 병적(兵籍)에서 빠진 자 400여명을 별도로 모아 구례와 광양 등지의 전라도로 들어오는 길목을 지키도록 했다.

이순신은 이들 가운데서 제법 용력이 뛰어난 승려 삼혜(三惠)는 시호별도장, 의능(義能)은 유격별도장, 성휘(性輝)는 우돌격장, 신해(信海)는 좌돌격장, 지원(智元)은 양병용격장 칭호를 주고, 의병대장 방처인(房處仁), 강희열(姜姬悅), 성응지(成應趾) 등에게도 각각 지킬 곳을 지정해 주었다. 특히 삼혜, 의능, 성응지에게는 군선을 나누어주어 적군의 동태를 살펴서 보고하도록 했다.

그리고 이순신은 여수로 피난 온 200여호의 경상도 백성에게 돌산도에 거처를 마련해주고 추운 겨울을 무사히 날 수 있도록 다듯하게 보살펴주었다. 비단 그들에게 정착지만 마련해 준 것이 아니라 밭도 갈고 말도 길러 생업을 이어가게 했다.

이처럼 피난민들을 보살피는 일은 나중에 한산도로 진영을 옮긴 뒤에도 계속되어 그들의 정착지를 순천과 흥양 등지로 확대했으니 이순신의 애국애민(愛國愛民)하는 마음이 이와 같이 지극했다. 그는 참으로 단순한 무장(武將)이 아니라 백성을 위한 목민관(牧民官), 백성의 구세주였던 것이다.

◆ 수륙협공(水陸挾攻)의 타이밍(Timing)이 제대로 맞지 않았던 웅포해전(熊浦海戰).

그렇게 임진왜란(壬辰倭亂) 첫해가 저물고 새해 1593년이 되었다.

1월 25일, 조정에서 이순신(李舜臣)에게 다음과 같은 지시를 내렸다.

"1월 8일 이여송(李如松)이 평양을 수복하고 계속 진군하니 그대는 수군을 정비하여 해전으로 (倭敵을) 모조리 죽여 없애 나라의 치욕을 크게 씻도록 하라"

이순신은 전라좌수영(全羅左水營) 관하 모든 진영에 1월 30일까지 여수 앞바다에 집결하라는 소집령을 내렸다. 그리고 출전일을 2월 2일로 정했는데, 악천후가 계속되는 바람에 2월 6일까지 기다려야만 했다. 2월 6일 그날도 날씨는 나빴지만 더 지체할 수가 없었으므로 출동을 감행, 그날 저녁에는 사량도까지 항진해 정박했다. 그리고 그 이튿날 견내량에서 원균과 합류했다.

2월 8일에는 이억기가 전라우수영(全羅右水營) 함대를 이끌고 칠천량에서 합세했다. 그날 전 함대가 출발하여 칠천도에 도착했고, 다음날까지 그곳에서 머물렀다. 2월 10일, 전 함대가 출발하여 일본 수군의 소굴인 웅포로 전진했다. 웅포는 지금 창원시 웅천면 남문리였다. 이순신이 부산포해전(釜山浦海戰) 이후 전함을 수리하고 군사를 보충하고 군량을 확보하는 등 전력을 강화하는 사이에 일본군이 재집결하여 새로운 수군기지로 구축한 곳이었다.

따라서 부산을 다시 공격하기 위해서는 그 배후인 웅포의 적군부터 쳐부수어야만 했다. 포구에는 일본 수군의 군선들이 줄지어 늘어서 있었고, 포구의 양쪽 산 기슭에는 새로 쌓은 일본군의 성채가 솟아 있었다.

이순신은 선봉선으로 하여금 포구 안으로 들어가 적선을 유인하도록 지시했다. 그런데 처음에는 선봉선을 따라 포구 밖으로 나오던 적선들이 갑자기 배를 돌리더니 그대로 포구 안으로 달아나고 마는 것이었다. 그렇게 두 차례나 유인작전을 썼지만 적선은 걸려들지 않앗다. 유인책이 아무 효력도 없고, 그렇다고 해서 무턱대고 적진 속으로 돌격할 수도 없는 노릇이어서 아군은 아무 소득도 없이 회군할 수밖에 없었다. 적군을 보고도 아무 성과 없이 회군하는 것은 이번이 처음이었다. 함대는 그날 밤을 영등포 뒤 소진포에서 정박했다.

이순신은 그날의 상황을 일기에 이렇게 썼다.

"두 번이나 유인하려고 했으나 우리 수군을 겁내어 나올 듯하면서도 도로 들어가 버리니 끝내 모조리 잡아 없애지 못한 것이 통분하다."

11일은 날씨가 나빠 그대로 휴식하고, 12일에 다시 웅포로 진격하여 유인책을 썼지만 적병들은 멀리서 어지럽게 조총만 쏘아댈 뿐 해상전투에 응할 기색을 보이지 않았다. 이날도 별 전과 없이 칠천도로 철수했다.

칠천도에서 작전을 구상하며 이순신은 경상우도순찰사(慶尙右道巡察使) 김성일(金誠一)에게 "육군 장수들에게 명령하여 병마(兵馬)를 거느리고 빨리 웅천을 공격하도록 하시오." 하는 공문을 보냈다. 웅포의 적군을 섬멸하기 위해서는 수륙 양면 협공작전 밖에는 다른 길이 없다는 결론을 내렸기 때문이었다. 그러나 기대와 달리 육상에서는 좀처럼 이에 응하는 기색이 없었다.

18일 다시 함대를 거느리고 웅포로 가서 이번에는 약간 색다른 유인작전을 써 보았다.

사도첨사 김완(金浣)을 복병장으로 임명하여 여도만호, 녹도가장, 좌우별도장, 좌우돌격장 등을 거느리고 송도에 복병토로 한 뒤, 여러 척의 군선으로 하여금 포구 안으로 깊이 들어가 적선을 유인하도록 했다. 그러자 이번에는 무슨 생각이 들었는지 적선 10여척이 응전하고 나서는 것이었다. 기다렸던 복병선들이 따라 나온 적선들을 포위하여 각종 화포를 쏘아대며 맹공을 퍼부었다. 그러자 적선들은 이번에도 잽사제 뱃머리를 돌려 포구 안으로 도망쳐 들어가기 시작했다.

그렇게 해서 적선 3척을 격침시키고 적병 100여명을 살상시켰으나 나머지 적선들은 포구 안으로 깊이 들어가 다시는 나올 생각도 하지 않았다.

사화량으로 군사를 물린 이순신은 이번 작전에서도 웅포의 적군을 깨끗이 섬멸하지 못한 것을 통탄하며 다시 한 번 김성일에게 육군의 융천 공격을 요청하는 공문을 보냈다. 그러나 김성일은 "곽재우로 하여금 먼저 창원을 토벌하게 하고, 차차 웅천으로 진격토록 하겠다"는 미지근한 답장만 보내왔다.

22일, 이틀 전에도 웅포를 공격했으나 아무 전과가 없이 소진포로 물러났다가 다시 한번 공격을 감행했다.

이번에는 삼혜(三惠)와 의능(義能) 두 승장(僧將)과 성응지(成應趾)가 이끄는 의병부대를 웅포 서쪽 제포로 상륙시키고, 경쾌선 15척을 뽑아 선봉으로 삼아 웅포로 돌격시킨 것이었다. 하지만 규모가 작은 것이 흠이었다. 적군을 혼란시켜 130여명을 참살하고 적선 7, 8척을 박살내는 전과를 거두었지만 육상의 일본군 진지가 너무나 견고하고 저항 또한 완강했다. 뿐만 아니라 포구가 비좁아서 적진을 빠져나오는 도중 조선 수군의 판옥선(板屋船) 두척이 일본군의 포격을 피하려다가 서로 부딪쳐 전복되는 사고가 벌어졌고, 협선(挾船) 1척도 일본군의 공격으로 침몰되는 손실을 입었다.
이순신의 함대는 임진왜란(壬辰倭亂) 발발 이후 옥포해전(玉浦海戰)에서부터 부산포해전(釜山浦海戰)에 이르기까지 열 여섯차례의 해전을 치르면서 단 한 척의 군선 손실도 입지 않았으나 웅포해전(熊浦海戰)에서 처음으로 군선 세 척이 파손당하는 피해를 입은 것이었다.

2월 6일부터 두 달 동안이나 웅포 공격을 시도했지만 지형적 조건의 불리함과 육군의 지원 부재로 만족할 만한 성과를 거두지 못한 이순신은 할 수 없이 4월 3일에 조선 삼도수군 연합선단(朝鮮三道水軍聯合船團)을 해산하고 여수의 좌수영으로 돌아오고 말았다. 농번기가 되었는데 언제까지나 웅포의 적군에만 묶여 있을 수는 없기 때문이었다. 설상가상으로 전염병까지 번져 사망자가 속출하고 있었다.

여수의 본영으로 돌아온 이순신은 조정에 이런 내용의 장계를 올렸다.

".....이 때를 당하여 비록 조정의 명령이 정령하시지 않더라도 신하된 자로서 마땅히 적군이 도망치는 것을 살펴 그 돌아가는 길을 끊고서 맹세코 적선 한 척도 돌아가지 못하게 해야겠는데, 이번에 바다로 내려온 지 벌써 두 달이나 지나도록 명나라 군사의 소식은 막연하여 알 길이 없고, 각지에 진치고 있는 적군은 여전히 버티고 있으며, 당장 농사철이 되어 비가 흡족히 내렸음에도 연해안 여러 진이 모두 다 바다로 내려왔으며, 좌우도 수군 4만여명이 모두 농민이라 농사를 전폐하면 가을 추수의 소망은 바랄 수 없게 됩니다.

우리나라 팔도 중에서 오직 호남만이 조금 안전하여 군량이 모두 이 도에서 나오는데, 도내의 장정들이 모두 수륙의 전쟁에 나가고, 늙고 약한 사람들은 군량을 운반하느라 경내에는 남은 일꾼이 없어 봄 한 철이 지나도록 들판이 쓸쓸합니다. 다만 백성들이 생업을 잃어버릴 뿐만 아니라 필요한 여러 물자마저 의뢰할 수 없으므로 민망하고 염려스럽습니다.

사부와 격군들이 비록 교대로 돌아가 농사를 짓고자 하나 달리 대신할 사람이 없어서 영영 살 길이 끊어질 뿐 아니라, 유행병조차 번져 사망자가 속출하고 있으므로 명나라 군사들이 남쪽으로 내려오는 날일지라도 굶주린 군사를 거느리고서는 도망치는 적들을 막고 섬멸하기 어려운 형편입니다.

그러므로 우선 교대로 들어가 농사를 짓게 하고, 아울러 병든 군사를 간호하며, 군량을 준비하고 군선을 수리하면서 명나라 군사들이 내려오는 것을 살펴서 기허ㅚ를 보아 다시 출전하고자 지난 4월 3일 이억기와 약속하고 본도로 돌아왔습니다."


그런데 정작 적군과 싸우는 데는 창 한 자루, 화살 한 대도 보태주지 못한 채 앉아서 입으로만 이래라 저래라 하기 좋아하는 조정에서는 이런 사정을 전혀 고려하지 않고 5월 2일 이순신 장군에게 재차 나가서 왜군을 치라는 명령을 내렸다.

참고서적; 황원갑(黃源甲) 저술 "부활하는 이순신" 에코비즈니스(EcoBusiness) 2004, 김종대(金宗代) 저술 "신(臣)에게는 아직도 열두척의 군선이 있습니다." 북포스(BookFors) 2001, 최두석(崔頭錫) 저술 "임진왜란(壬辰倭亂)과 이순신(李舜臣)" 일각 1999, 김형광(金炯光) 저술 "인물로 보는 조선사(朝鮮史)" 시아출판사 2003.

{계속}



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