伝統文化

 

 

我が民族の歴史が始まった以来幾多の外的の侵犯があったがその時ごとにうちの先祖たちは熱い救国(救国)の意志とすごい闘志で国難(国難)を乗り越えて来た. 国難にあう度に卓越なリーダーシップを発揮して民族的気象を高くふるった救国の英雄はいちいち数え切れないだけ多いが, 李舜臣こそその多い英雄, 豪傑, 忠臣, 烈士の中にもきっての偉人という事実にはその誰も異意を申し立てることができないだろう.

李舜臣(李舜臣)は韓国歴史上最高の戦争英雄で壬辰の乱(壬辰倭乱), 丁酉災乱(丁酉再乱)という未曽有の災いにあって国と同胞の滅亡が目の前に至った時朝鮮水軍を総指揮していろいろの不利な与件の中でも必勝の信念とすごい戦略で勝ちっ放し(連戦連勝)をあげた不世出の名将だった. 彼は貧しい士の息子に生まれて 54年の長くない一生を送る間あらゆる苦難の中でもひたすら忠孝(忠孝), 仁義(仁義)と愛国愛族精神(愛国愛族精神)に一貫した民族の大きい師匠だった.

イギリス海軍兵学校校長を勤めたビルラド(G.A.Billard) 所長(少将)は ¥”朝鮮の李舜臣という海軍提督がネルソン(Horatio Nelson)に劣らないすぐれた指揮官という事実をイギリス人たちは認めにくいが李舜臣が東洋最高の海軍提督という点は否定することができない事実だ.¥”と李舜臣を評価した. 中国係アメリカ人歴史学者でアメリカワシントン州立大学校教授であるレイ硫黄(Ray Hwang) 博士は東洋史 3台戦争英雄で朝鮮の李舜臣(李舜臣), ベトナム多異美瑛王朝のチェンフンダオ[千訓道], 中国明のワンスングファン(袁崇煥)を持ちながらその中でも李舜臣が一番偉い手柄を残した英雄だとほめたたえた.

今日国内外の情勢, 特に再び抜けた政治的, 経済的危機に照らして見る時李舜臣は今まで知られて来た節税の名将, 救国の英雄という面貌に加えてすごいリーダーシップを取り揃えた最高経営者だったという事実を今更節減するようになる. 21世紀という新しい激変の時代, 激動の時代を迎えて強大国たちとの無限競争で生き残るためにしても私たちは東西古今(東西古今)のどんな偉人よりも偉かった聖雄(聖雄) 李舜臣のリーダーシップを通じて国難克服の知恵を捜さなければならないでしょう.

◆ ¥”お前みたいなことも賃金なのか!¥”

李舜臣の全裸左図数だね(全羅左道水軍)が一番目出征を開始して慶尚道海岸で航海をしている頃... 国王先祖(宣祖)が無防備状態のソウルを捨てておいて北に避難の道を去った後に何の事が起っただろうか?

慌ててソウルを捨てて避難の道に上がった先祖は都城が陷落された 5月 3日には個性を発ってクムチョンを通って, 4日にピョングサン, 5日には峰山, 6日には黄株を経って  7日には中華を経って大同江を渡ってその日遅く平壌に到着した.

5月 2日朝, 避難の道に個性で先祖は国をこの地境で作った責任を問って領議政(領議政) 離れ離れして(李山海)を罷職した. 実はムビユファン(無備有患)で壬辰の乱(壬辰倭乱)を呼んで来た最高責任者は国王である先祖自分だった. 李山海が罷職されるせいで左議政(左議政) 柳成竜(柳成竜)が領議政に右議政(右議政) 催弘願(崔弘元)が左議政に, その前日御営大将(御営大将)で抜擢した尹斗寿(尹斗寿)が右議政に一夜漬けに昇進した.

しかし乱中にあいさつとして正常に成り立つあごがはずがなかった. 柳成竜も国史を誤った責任があると言ってその日夕方には罷職させて催弘願を領議政に, 尹斗寿を左議政に, 気成府院君(杞城府院君) ユホング(兪泓)を右議政にそれぞれ任命した.

個性では幾多の民が殺到し始まりファングマングヒ逃げる国王仲間を眺めたが, その中では ¥”後宮たちお腹もふやかす才しかないあれも賃金なのか!¥”とヨックジルして石を投げる人枝あった. 賃金体面がものではなかったがその間民のために韓仕事とは専務したようにしたから自業自得であるわけだ.

それさえも黄株から平安監使(平安監司) 宋言愼(宋言信)が騎兵 3千名余を従えて現われて護衛して道を案内したから初めて賃金の体統を捜すことができた.

一方漢江で防御線を形成した桃源数(都元帥) 金人院(金明元)が日本軍の強大な勢いを見て臆病をつまみ食いをして軍事を解散させた後逃走すると, 部員数(副元帥) 新閣(申〓)は柔道大将(留都大将) 李陽元(李陽元)といっしょに洋酒に移動, 南兵使(南兵使) 離婚(李渾)の軍隊と会った. これらは戦列を整備して 5月 16日に解由領(蟹踰嶺)で日本軍先発隊を襲って敵兵 60人余りを射殺する戦果をあげた. これは壬辰の乱(壬辰倭乱) 勃発以後朝鮮官軍が六典でおさめた一番目勝利だった.

しかしまことにあっけなくも新閣は李陽元と一緒に連川近所で臨津江を守っている途中 5月 18日に不意に調整で下ろした宣伝官(宣伝官)によって首が切られてしまった. これは先立って逃げた卑怯者金人院が自分の直属副官である新閣の専攻(戦功)を嫉んで彼が上官である自分の命令も聞かないで自分勝手に軍事を動かしたという謀陷をする長計をあげて国王である先祖が新閣を処刑しなさいという指示を下したからだった. 一歩遅れて新閣の勝利の消息(勝戦報)を受けた調整で他の宣伝官を送ったがもう新閣はこの世の中人ではなかった. まことに出たらめな事だった.

調整では桃源数金人院に京畿道と黄海道の軍事で臨津江に防御線を引いて敵軍を阻みなさいという命令を下して, 新閣代わりにギョングサングズァビョングサを執り行なったイビン(李濱)を部員数で, ユグックリャング(劉克良)を粗放場で, 神さまする(沈鐸)を防禦使で任命した. また明に使臣で行って来た韓応寅(韓応寅)を制度巡察使(諸道巡察使)で任命して平安道軍事 3千名を与えて臨津江防御線に投入した.

こういうわけで臨津江北長短に配置された, 京畿道, 黄海道, 平安道の朝鮮官軍は総 1万 5千名余に至った.

一方 5月 10日ソウルを出発して咸境道に向けた加藤紀要マーサの日本軍第2群は坡州を通って 13日に臨津江南側ムンサンに到着した. しかしそのように三日を代置した後の 5月 17日に日本軍の誘引策に巻きこまれたあげく朝鮮官軍はおおよそ 1万名余の戦死者を出す惨敗に喫してしまった.

これは桃源数金人院の命令を聞かなくても良いという先祖のオングドングした指示を受けて気高万丈した部員数韓応寅が指揮体系を乱れるようにして自中之乱(自中之乱)を起こした結果だった.


もっと開いた口が塞がらないことはそうして敗戦(敗戦)と逃走した金人院と韓応寅が 27日に平壌に帰還したにも調整は彼らの責任を問って何らの処罰をしなかったという事実だ.

◆ 玉浦海戦(玉浦海戦) 勝利.

全裸左水使(全羅左水使) 李舜臣(李舜臣)は 5月 4日に中部場である御影談(魚泳潭)を水路の案内状で三考, 金インヨン(金仁英)とギムワン(金浣)が従えた探望船を遠く出して敵軍の動態を捜索, 偵察するようにした.

南海美爪港沖合に至った時李舜臣は初療飢(招搖旗)をあげて私は艦隊を集結させた. そして女道権官(呂島権管) 金インヨン(金仁英), ポソン軍需(宝城郡守) ギムドックグァン(金得光), 光陽県監(光陽県監) 御影談(魚泳潭), ノックドマンホ(鹿島万戸) ゾングウン(鄭運) などは右側からゲイ島を経由して捜索するようにして残り板屋船は皆ピョングサンポ, ゴックポ, 美爪港を捜索するように言い付けた.

こんなに艦隊を 2個の前どおり分けて捜索, 偵察しながら航進を続いたが日が暮れるまで賊船を一尺度見つけることができなかった. そしてその日は小ビフォア沖合で夜を明かした.

明くる日の 5月 5日夜明けに艦隊を導いて唐布に至ったがこの日会うことに約束した軽傷右水使(慶尚右水使) 元均(元均)はダウムナング朝 8時頃閑山島近海で捜すことができた. ところで元均が従えた軍勢(軍勢)がやっと板屋船 4尺と協では 2チォックプンだった.

李舜臣は元均から日本水軍の規模と彼らがとどまっている所などを聞いてこれからの作戦計画を用意することができた. また元均が尋ねて来た時を前後して南海県令(南海県令) ギヒョグン(奇孝謹), 美爪港晨辞(彌助港僉使) ギムスングリョング(金勝竜), 小ビフォア権官(所比浦巻官) 李英男(李英男), 永登浦万戸(永登浦万戸) 愚癡的(禹致績), 玉浦万戸(玉浦万戸) イウンリョング(李雲竜) など軽傷牛島数だね(慶尚右道水軍) 所属多くの長寿が板屋船 3尺と協では 2尺に分けて乗って到着した.

こういうわけで我軍の全体全力はポザックソンを除いて板屋船 28尺, 協では 17隻等 45尺で増えた.

ザンラズァスヤング(全羅左水営)と軽傷右水営(慶尚右水営) 嬢水軍の長寿たちは作戦会議を繰り返えしてこの日 5月 6日夜は宋尾浦沖合で過ごした.

明くる日の 5月 7日夜明けにまた出発して賊船があるという情報がある天性, カトク島族で向けている途中正午頃南側玉浦沖合に至った時あの遠くからウチォックフしゅうとギムワンが神機箭(神機箭)を打ち上げて賊船を見つけたという信号を送った.

日本水軍の軍船 30余隻が潟に停泊していたし, 日本軍兵士らは陸地に上がって掠奪に余念がなかった. これらはドドダカー島だと[藤堂高虎]が率いる日本水軍の前衛艦隊だった.

¥”軽く動かずに山のようにムギョブゴ静かに行動しなさい!¥”

李舜臣は一番目戦闘の大切さが分かったから軍事たちの心理的な緊張感を調節するために急がずに落ち着いて行動することを注文した.

陸に上がって盗みをした敵兵たちは朝鮮水軍を見ると臆病もなしにお腹に上がって応戦し始めた. 先に賊船 6尺が朝鮮水軍を向けて突進して来た. 朝鮮水軍は日付け陣(一字陳)を広げて敵陣を向けて仏画肉と砲弾を飛ばした. 日本水軍は弔銃を乱射してここに対立したが莫強した火力を取り揃えた李舜臣の艦隊に対敵することができなかった.

結局 6時間の間展開されたこの戦闘で李舜臣の艦隊は日本水軍の軍船 26尺を撃沈させて 4千 5百余名医敵兵を殺傷する勝利をおさめた. これが壬辰の乱(壬辰倭乱) 時に朝鮮側の初勝利だった玉浦海戦(玉浦海戦)だった.

玉浦海戦で初勝利をおさめると初めて朝鮮水軍は勇気を取り戻して引き立つようになった. 初戦(初戦)の勝利と言う(のは)それで重要なものだ.

李舜臣はずっと艦隊を指揮して巨済島北永登浦路移動して停泊しようと思った. ところでその日午後 4時頃賊船 5尺がこちらで遠くない海を通り過ぎているという斥候船の急報が入って来た. ここに直ちに追い討ちを始めて現在の鎭海市である熊川合浦で賊船を捕捉した. 荒てた敵兵たちはお腹を捨ててファングマングヒ陸に入って逃げた. 朝鮮の軍事たちは火砲攻撃で賊船 5尺を全部撃沈させた.

明くる日の 5月 8日夜明けに熊川掛けがね量に賊船たちがあるという諜報を受けて直ちに出発して周辺を捜索しながら私もを経って今日の統営市光道面ゾックジンポに至った. ここで日本郡では 13尺が停泊していることを見つけた. 李舜臣の艦隊はこれらを都合なしに攻撃して一瞬のうちに全部撃破してしまった. 以後朝食をしてしばらく休むのに全裸道士チェ・チォル犬(崔鉄堅)から賃金が平安道で避難したという消息が伝わった.

李舜臣の艦隊は船首を回して明くる日の 5月 9日正午頃旅愁の本営で一応帰還した.

こんなに李舜臣の全裸左図数だね(全羅左道水軍)銀製1次出征で総 3回の戦闘をチルオ賊船 42尺を撃沈させて敵兵 6千 9百名余を殺傷する専攻(戦功)を立てた. 我軍の損失は負傷者 2人だけだったし戦死者は一人もいなかった. 李舜臣の抜群なリーダーシップによって百戦百勝(百戦百勝)する卓越な指揮能力が輝き始めたのだ.

李舜臣はこの玉浦海戦(玉浦海戦)の勝利で鐘2身幅架線貸し付け(嘉善大夫)に昇進した. しかし彼は承前(勝戦)を報告する長計に部下たちの名前をいちいち記録して彼らに勝利の功労を回した. そして長計末尾にはこんな言葉も付け加えた.

¥”愚かな信義考えでは少ない阻む方策において水軍の活動よりはひたすら六典だけで城を守る防備に力をつくしたから国の数百年企業が一瞬に時の巣窟に変わったことが分かって, 考えがここに及んだらのどが詰まってものを言えないです. 少なくもし海で本島(全羅道)を侵犯して来たら神さまが海戦として死ぬのを覚悟して担当するが, 陸地でチムボムヘオンダなら本島の長寿たちが電嫂(戦馬) 一ピールなしには対敵する道理がないから信義考えではトルサン島の白夜岬とフングヤングの渡洋場木馬(牧馬) 中で戦争に書くに値する言葉をよく手懐けて戦争に使ったら優に勝利することができるでしょう.¥”

◆ 朝鮮陸軍の一番深刻な敗北, 容認戦闘(竜仁戦闘).

朝鮮朝廷が恐ろしい勢いに北上して来る日本軍の進路を阻むことができずに平壌で避難を行った時, 全羅道観さつ使(全羅道観察使) 李光(李洸)は 5月 20日に忠清道巡察使(忠清道巡察使) 輪船閣(尹先覚), 慶尚道巡察使(慶尚道巡察使) 金数(金粹)といっしょにソウルを奪い返しなさいという王命を受けて温陽で軍事 5万名を集結させた. 6月 4日に忠清道の軍事たちは水原を経ってソウルで進撃する事にして, 全羅道の軍事たちは容認を経ってソウルに行くことに決めた後に温陽を出発した.  

この時ソウルにある途中朝鮮の下三道(下三道) 連合軍が北進しているという報告を受けたワキサカヤスハで[脇坂安治]は急に旗下軍事を従えて容認に駆け付けた.

6月 5日, 李カンウン日本軍の数鼠がやっと 5百名余だけという斥候兵の報告を聞いて慢心に包まれて全軍を駆って敵陣に攻めこんだ. この時, 日本軍前衛騎兵隊は弔銃数たちが盾陣(防牌陳)を設置した地点で朝鮮官軍を誘引した. 朝鮮官軍が弓を射って窓を投げながら攻撃したが盾に身を隠して弔銃をうつ日本軍を適うことはできなかった. 朝鮮官軍が日本軍の弔銃射撃に死傷者が続出して隊列が散らばったすきに乗じて賊将ワキサカヤスハで[脇坂安治]が別動隊を導いて後方で奇襲して朝鮮軍事たちを無数に惨殺こんにちはだった.

5万大軍だった下三道連合軍が 1千 6百余名医日本軍にこのように一瞬のうちに虚しくも敗退した容認戦闘(竜仁戦闘)は朝鮮側の一番恥辱的な敗北だったし日本側としては驚異的な勝利だった. 下三道連合軍の敗北消息は国王先祖を含めた朝鮮朝廷に絶望感を抱かれてくれるに十分だった.

しかし一つ変なことは日本が歴史上外国との戦争で一番(回)もチン仕事がないと課長歪曲をする日本の右翼歴史学界で容認戦闘(竜仁戦闘)を詳らかに分からないという点だ. 容認戦闘(竜仁戦闘)は日本の戦争社を過大包装するぴったり良い素材だが日本の歴史書籍には全然このけんかが言及されていないから, この前日本の歴史歪曲態度を推し量った時まことに珍しい事だ.

臨津江防御線が崩れて 1万軍事が全滅して容認戦闘(竜仁戦闘)で 5万大軍がムノゾ捨てると朝鮮朝廷は大きく荒てた. ここに臨時数も平壌が敵軍の攻撃を受けることは時間問題だと思った.

先祖は光海君を隋伴にする班(分朝)を設置するようにする一方相次いで明に使臣を送って救援病を要請した.

6月 6日には軍事を送って調べたら日本軍がやっと一日二日距離(通り)である黄株まで上って来たという急報が伝わった. 先祖は王妃を咸境道咸興で避難させてまさかの時自分も後に従う事にした. 8日には敵軍が大同江の向こう側にまで現われた. 6月 10日先祖は平壌をあきらめてまた北行を決心した.

仲間が城の門を出ようと思うと民たちが斧と棒を持って賃金の将来を塞いだ. 仕方なく城中にまた入って行ってからその明くる日やっと脱出して北に向かった. そして 12日にはおつまみを経って 13日に寧辺に入って行った.


参照書籍; ファングワンガブ(黄源甲) 著述 ¥”復活する李舜臣¥” エコービーズニス(EcoBusiness) 2004, キム・ジョンデ(金宗代) 著述 ¥”神さま(臣)にはまだヨルドチォックの軍船があります.¥” ブックポス(BookFors) 2001, ツェドソック(崔頭錫) 著述 ¥”壬辰の乱(壬辰倭乱)と李舜臣(李舜臣)¥” 一刻 1999, 金蛍光(金炯光) 著述 ¥”人物に見る朝鮮社(朝鮮史)¥” シアツルパンサ 2003.

{引き続き}


「불패의 명장 이순신(李舜臣)」5.조선 수군의 연전연승(連戰連勝) (1)

 

 

우리 민족의 역사가 시작된 이래 수많은 외적의 침범이 있었으나 그때마다 우리 선조들은 뜨거운 구국(救國)의 의지와 비상한 투지로 국난(國難)을 극복해왔다. 국난을 당할 때마다 탁월한 리더십을 발휘하여 민족적 기상을 높이 떨친 구국의 영웅은 일일이 헤아릴 수 없을 만큼 많지만, 이순신이야말로 그 숱한 영웅, 호걸, 충신, 열사 가운데서도 으뜸가는 위인이라는 사실에는 그 누구도 이의를 제기할 수 없을 것이다.

이순신(李舜臣)은 한국 역사상 최고의 전쟁 영웅으로 임진왜란(壬辰倭亂), 정유재란(丁酉再亂)이라는 미증유의 재앙을 당해 나라와 겨레의 멸망이 눈앞에 이르렀을 때 조선 수군을 총지휘하여 갖가지 불리한 여건 속에서도 필승의 신념과 비상한 전략으로 연전연승(連戰連勝)을 올린 불세출의 명장이었다. 그는 가난한 선비의 아들로 태어나 54년의 길지 않은 일생을 보내는 동안 온갖 고난 속에서도 오로지 충효(忠孝), 인의(仁義)와 애국애족정신(愛國愛族精神)으로 일관한 민족의 큰 스승이었다.

영국 해군사관학교 교장을 지냈던 빌라드(G.A.Billard) 소장(少將)은 "조선의 이순신이라는 해군 제독이 넬슨(Horatio Nelson)에 버금가는 뛰어난 지휘관이라는 사실을 영국인들은 인정하기 힘들겠지만 이순신이 동양 최고의 해군 제독이라는 점은 부정할 수 없는 사실이다."라고 이순신을 평가하였다. 중국계 미국인 역사학자로 미국 워싱턴 주립대학교 교수인 레이 황(Ray Hwang) 박사는 동양사 3대 전쟁 영웅으로 조선의 이순신(李舜臣), 베트남 다이비에이 왕조의 첸 훈다오[千訓道], 중국 명나라의 원숭환(袁崇煥)을 들면서 그 중에서도 이순신이 가장 위대한 공훈을 남긴 영웅이라고 칭송하였다.

오늘날 나라 안팎의 정세, 특히 또다시 빠진 정치적, 경제적 위기에 비추어볼 때 이순신은 지금까지 알려져 왔던 절세의 명장, 구국의 영웅이라는 면모에 더해 비상한 리더십을 갖춘 최고 경영자였다는 사실을 새삼 절감하게 된다. 21세기라는 새로운 격변의 시대, 격동의 시대를 맞이하여 강대국들과의 무한경쟁에서 살아남기 위해서도 우리는 동서고금(東西古今)의 그 어떤 위인보다도 위대했던 성웅(聖雄) 이순신의 리더십을 통해 국난극복의 지혜를 찾아야 할 것이다.

◆ "너 같은 것도 임금이냐!"

이순신의 전라좌도수군(全羅左道水軍)이 첫번째 출정을 개시하여 경상도 해안으로 항해를 하고 있을 무렵... 국왕 선조(宣祖)가 무방비상태의 서울을 버려두고 북쪽으로 피난길을 떠난 뒤에 무슨 일이 벌어졌을까?

황급히 서울을 버리고 피난길에 오른 선조는 도성이 함락된 5월 3일에는 개성을 떠나 금천을 지나고, 4일에 평산, 5일에는 봉산, 6일에는 황주를 거쳐  7일에는 중화를 지나고 대동강을 건너 그날 늦게 평양에 도착했다.

5월 2일 아침, 피난길에 개성에서 선조는 나라를 이 지경으로 만든 책임을 물어 영의정(領議政) 이산해(李山海)를 파직했다. 사실 무비유환(無備有患)으로 임진왜란(壬辰倭亂)을 불러온 최고 책임자는 국왕인 선조 자신이었다. 이산해가 파직당하는 바람에 좌의정(左議政) 유성룡(柳成龍)이 영의정에 우의정(右議政) 최홍원(崔弘元)이 좌의정에, 그 전날 어영대장(御營大將)으로 발탁되었던 윤두수(尹斗壽)가 우의정에 벼락치기로 승진했다.

그러나 난중에 인사라고 해서 정상적으로 이루어질 턱이 만무했다. 유성룡 또한 국사를 그르친 책임이 있다고 하여 그날 저녁에는 파직시키고 최홍원을 영의정에, 윤두수를 좌의정에, 기성부원군(杞城府院君) 유홍(兪泓)을 우의정에 각각 임명했다.

개성에서는 수많은 백성이 몰려나와 황망히 도망치는 국왕 일행을 바라보았는데, 그 가운데는 "후궁들 배나 불리는 재주밖에 없는 저것도 임금이냐!"고 욕질하며 돌을 던지는 사람가지 있었다. 임금 체면이 말이 아니었지만 그 동안 백성을 위해 한 일이라고는 전무하다시피 했으니 자업자득인 셈이다.

그나마 황주에서부터 평안감사(平安監司) 송언신(宋言信)이 기병 3천여명을 거느리고 나타나 호위하고 길을 안내했기에 비로소 임금의 체통을 찾을 수 있었다.

한편 한강에서 방어선을 형성했던 도원수(都元帥) 김명원(金明元)이 일본군의 강대한 기세를 보고 겁을 집어먹고 군사를 해산시킨 뒤 도주하자, 부원수(副元帥) 신각(申珏)은 유도대장(留都大將) 이양원(李陽元)과 더불어 양주로 이동, 남병사(南兵使) 이혼(李渾)의 군대와 만났다. 이들은 전열을 정비하여 5월 16일에 해유령(蟹踰嶺)에서 일본군 선발대를 습격하여 적병 60여명을 사살하는 전과를 올렸다. 이것은 임진왜란(壬辰倭亂) 발발 이후 조선 관군이 육전에서 거둔 첫번째 승리였다.

그러나 참으로 어이없게도 신각은 이양원과 함께 연천 부근에서 임진강을 지키고 있다가 5월 18일에 느닷없이 조정에서 내려보낸 선전관(宣傳官)에 의해 목이 잘리고 말았다. 이는 앞서 도망쳤던 비겁자 김명원이 자신의 직속 부관인 신각의 전공(戰功)을 시기하여 그가 상관인 자신의 명령도 듣지 않고 제멋대로 군사를 움직였다는 모함을 하는 장계를 올려 국왕인 선조가 신각을 처형하라는 지시를 내렸기 때문이었다. 뒤늦게 신각의 승전보(勝戰報)를 받은 조정에서 다른 선전관을 보냈으나 이미 신각은 이 세상 사람이 아니었다. 참으로 어처구니없는 일이었다.

조정에서는 도원수 김명원에게 경기도와 황해도의 군사로 임진강에 방어선을 치고 적군을 막으라는 명령을 내리고, 신각 대신 경상좌병사를 지낸 이빈(李濱)을 부원수로, 유극량(劉克良)을 조방장으로, 신할(沈鐸)을 방어사로 임명했다. 또 명나라에 사신으로 다녀온 한응인(韓應寅)을 제도순찰사(諸道巡察使)로 임명하고 평안도 군사 3천명을 주어 임진강 방어선에 투입했다.

이로써 임진강 북쪽 장단에 배치된, 경기도, 황해도, 평안도의 조선 관군은 총 1만 5천여명에 이르렀다.

한편 5월 10일 서울을 출발하여 함경도로 향하던 가토 기요마사의 일본군 제2군은 파주를 지나 13일에 임진강 남쪽 문산에 도착했다. 하지만 그렇게 사흘을 대치한 뒤인 5월 17일에 일본군의 유인책에 말려든 나머지 조선 관군은 무려 1만여명의 전사자를 내는 참패를 당하고 말았다.

이는 도원수 김명원의 명령을 듣지 않아도 된다는 선조의 엉둥한 지시를 받고 기고만장한 부원수 한응인이 지휘체계를 문란케 하고 자중지란(自中之亂)을 일으킨 결과였다.


더욱 기가 막힌 것은 그렇게 하여 패전(敗戰)하고 도주한 김명원과 한응인이 27일에 평양으로 귀환했음에도 조정은 그들의 책임을 물어 아무런 처벌을 하지 않았다는 사실이다.

◆ 옥포해전(玉浦海戰) 승리.

전라좌수사(全羅左水使) 이순신(李舜臣)은 5월 4일에 중부장인 어영담(魚泳潭)을 물길의 안내장으로 삼고, 김인영(金仁英)과 김완(金浣)이 거느린 탐망선을 멀리 내보내 적군의 동태를 수색, 정찰하도록 했다.

남해 미조항 앞바다에 이르렀을 때 이순신은 초요기(招搖旗)를 올려 전 함대를 집결시켰다. 그리고 여도권관(呂島權管) 김인영(金仁英), 보성군수(寶城郡守) 김득광(金得光), 광양현감(光陽縣監) 어영담(魚泳潭), 녹도만호(鹿島萬戶) 정운(鄭運) 등은 오른쪽에서 게이도를 경유하여 수색토록 하고 나머지 판옥선은 모두 평산포, 곡포, 미조항을 수색토록 명령했다.

이렇게 함대를 2개 전대로 나누어 수색, 정찰하면서 항진을 계속했지만 날이 저물 때까지 적선을 한 척도 발견하지 못했다. 그리하여 그날은 소비포 앞바다에서 밤을 새웠다.

이튿날인 5월 5일 새벽에 함대를 이끌고 당포에 이르렀으나 이날 만나기로 약속한 경상우수사(慶尙右水使) 원균(元均)은 다음낭 아침 8시쯤 한산도 근해에서 찾을 수 있었다. 그런데 원균이 거느린 군세(軍勢)가 겨우 판옥선 4척과 협선 2척뿐이었다.

이순신은 원균으로부터 일본 수군의 규모와 그들이 머물고 있는 곳 등을 듣고 앞으로의 작전계획을 마련할 수 있었다. 또한 원균이 찾아온 때를 전후하여 남해현령(南海縣令) 기효근(奇孝謹), 미조항첨사(彌助港僉使) 김승룡(金勝龍), 소비포권관(所比浦卷官) 이영남(李英男), 영등포만호(永登浦萬戶) 우치적(禹致績), 옥포만호(玉浦萬戶) 이운룡(李雲龍) 등 경상우도수군(慶尙右道水軍) 소속 여러 장수가 판옥선 3척과 협선 2척에 나누어 타고 도착했다.

이로써 아군의 전체 전력은 포작선을 제외하고 판옥선 28척, 협선 17척 등 45척으로 늘어났다.

잔라좌수영(全羅左水營)과 경상우수영(慶尙右水營) 양 수군의 장수들은 작전회의를 거듭하고 이날 5월 6일 밤은 송미포 앞바다에서 보냈다.

이튿날인 5월 7일 새벽에 다시 출발하여 적선이 있다는 정보가 있는 천성, 가덕도 족으로 향하다가 정오쯤 남쪽 옥포 앞바다에 이르렀을 때 저 멀리서 우척후 장인 김완이 신기전(神機箭)을 쏘아 올려 적선을 발견했다는 신호를 보냈다.

일본 수군의 군선 30여척이 포구에 정박해 있었고, 일본군 병사들은 육지에 올라 약탈에 여념이 없었다. 이들은 도도 다카도라[藤堂高虎]가 인솔하는 일본 수군의 전위함대였다.

"가볍게 움직이지 말고 산처럼 무겹고 조용하게 행동하라!"

이순신은 첫번째 전투의 중요성을 알았기에 군사들의 심리적인 긴장감을 조절하기 위해 서두르지 말고 침착하게 행동할 것을 주문했다.

뭍에 올라 노략질을 하던 적병들은 조선 수군을 보자 겁도 없이 배에 올라 응전하기 시작했다. 먼저 적선 6척이 조선 수군을 향해 돌진해왔다. 조선 수군은 일자진(一字陳)을 펼쳐 적진을 향해 불화살과 포탄을 날렸다. 일본 수군은 조총을 난사하며 이에 맞섰지만 막강한 화력을 갖춘 이순신의 함대에 대적할 수가 없었다.

결국 6시간 동안 전개된 이 전투에서 이순신의 함대는 일본 수군의 군선 26척을 격침시키고 4천 5백여명의 적병을 살상하는 승리를 거두었다. 이것이 임진왜란(壬辰倭亂) 때에 조선 측의 첫 승리였던 옥포해전(玉浦海戰)이었다.

옥포해전에서 첫 승리를 거두자 비로소 조선 수군은 용기를 되찾고 활기를 띠게 되었다. 초전(初戰)의 승리란 그래서 중요한 법이다.

이순신은 계속 함대를 지휘하여 거제도 북쪽 영등포로 이동하여 정박하려고 했다. 그런데 그날 오후 4시쯤 적선 5척이 이곳에서 멀지 않은 바다를 지나가고 있다는 척후선의 급보가 들어왔다. 이에 곧바로 추격을 시작하여 현재의 진해시인 웅천 합포에서 적선을 포착했다. 당황한 적병들은 배를 버리고 황망히 뭍으로 올라 도망쳤다. 조선의 군사들은 화포 공격으로 적선 5척을 모조리 격침시켰다.

이튿날인 5월 8일 새벽에 웅천 고리량에 적선들이 있다는 첩보를 받고 즉시 출발하여 주변을 수색하면서 저도를 지나 오늘의 통영시 광도면 적진포에 이르렀다. 여기에서 일본 군선 13척이 정박해 있는 것을 발견했다. 이순신의 함대는 이들을 사정없이 공격해 삽시간에 모조리 격파해 버렸다. 이후 아침식사를 하고 잠시 쉬는데 전라도사 최철견(崔鐵堅)으로부터 임금이 평안도로 피난했다는 소식이 전해졌다.

이순신의 함대는 뱃머리를 돌려 이튿날인 5월 9일 정오쯤 여수의 본영으로 일단 귀환했다.

이렇게 이순신의 전라좌도수군(全羅左道水軍)은 제1차 출정에서 총 3회의 전투를 치르어 적선 42척을 격침시키고 적병 6천 9백여명을 살상하는 전공(戰功)을 세웠다. 아군의 손실은 부상자 2명뿐이었고 전사자는 한 명도 없었다. 이순신의 출중한 리더십에 따라 백전백승(百戰百勝)하는 탁월한 지휘능력이 빛나기 시작했던 것이다.

이순신은 이 옥포해전(玉浦海戰)의 승리로 종2품 가선대부(嘉善大夫)로 승진했다. 하지만 그는 승전(勝戰)을 보고하는 장계에 부하들의 이름을 일일이 기록하여 그들에게 승리의 공로를 돌렸다. 그리고 장계 말미에는 이런 말도 덧붙였다.

"어리석은 신의 생각으로는 적을 막는 방책에 있어서 수군의 활동보다는 오로지 육전으로만 성을 지키는 방비에 힘썼기 때문에 나라의 수백년 기업이 하루 아침에 적의 소굴로 변한 것을 알며, 생각이 이에 미치니 목이 메어 말을 할 수가 없습니다. 적이 만일 바다로 본도(전라도)를 침범해 온다면 신이 해전으로서 죽기를 각오하고 담당하려니와, 육지로 침범해온다면 본도의 장수들이 전마(戰馬) 한 필 없이는 대적할 도리가 없으니 신의 생각으로는 돌산도의 백야곶과 흥양의 도양장 목마(牧馬) 중에서 전쟁에 쓸만한 말을 잘 길들여 전쟁에 사용한다면 가히 승리할 수 있을 것입니다."

◆ 조선 육군의 가장 심각한 패배, 용인전투(龍仁戰鬪).

조선 조정이 무서운 기세로 북상해오는 일본군의 진로를 막지 못하고 평양으로 피난을 갔을 때, 전라도관찰사(全羅道觀察使) 이광(李洸)은 5월 20일에 충청도순찰사(忠淸道巡察使) 윤선각(尹先覺), 경상도순찰사(慶尙道巡察使) 김수(金粹)와 더불어 서울을 탈환하라는 왕명을 받고 온양에서 군사 5만명을 집결시켰다. 6월 4일에 충청도의 군사들은 수원을 거쳐 서울로 진격하기로 하고, 전라도의 군사들은 용인을 거쳐 서울로 가기로 결정한 뒤에 온양을 출발하였다.  

이때 서울에 있다가 조선의 하삼도(下三道) 연합군이 북진하고 있다는 보고를 받은 와키사카 야스하루[脇坂安治]는 급히 휘하 군사를 거느리고 용인으로 달려갔다.

6월 5일, 이광은 일본군의 수효가 겨우 5백여명 뿐이라는 척후병의 보고를 듣고 자만심에 휩싸여 전군을 몰아 적진으로 쳐들어갔다. 이때, 일본군 전위기병대는 조총수들이 방패진(防牌陳)을 설치한 지점으로 조선 관군을 유인했다. 조선 관군이 활을 쏘고 창을 던지며 공격했지만 방패에 몸을 숨기고 조총을 쏘는 일본군을 당해 낼 수는 없었다. 조선 관군이 일본군의 조총 사격에 사상자가 속출하고 대열이 흩어진 틈을 타서 적장 와키사카 야스하루[脇坂安治]가 별동대를 이끌고 후방에서 기습하여 조선 군사들을 무수히 참살하였다.

5만 대군이었던 하삼도 연합군이 1천 6백여명의 일본군에게 이처럼 삽시간에 허무하게도 패퇴한 용인전투(龍仁戰鬪)는 조선 측의 가장 치욕적인 패배였으며 일본 측으로서는 경이로운 승리였다. 하삼도 연합군의 패배 소식은 국왕 선조를 비롯한 조선 조정에 절망감을 안겨주기에 충분했다.

그러나 한가지 이상한 것은 일본이 역사상 외국과의 전쟁에서 한 번도 진 일이 없다고 과장 왜곡을 하는 일본의 우익 역사학계에서 용인전투(龍仁戰鬪)를 자세히 알지 못하고 있다는 점이다. 용인전투(龍仁戰鬪)는 일본의 전쟁사를 과대포장하기 딱 좋은 소재이지만 일본의 역사서적에는 전혀 이 싸움이 언급돼 있지 않으니, 예전 일본의 역사왜곡 태도를 미루어 봤을 때 참으로 희한한 일이다.

임진강 방어선이 무너지며 1만 군사가 전멸하고 용인전투(龍仁戰鬪)에서 5만 대군이 무너저 버리자 조선 조정은 크게 당황했다. 이에 임시수도 평양이 적군의 공격을 받는 것은 시간문제라고 생각했다.

선조는 광해군을 수반으로 하는 분조(分朝)를 설치토록 하는 한편 잇달아 명나라에 사신을 보내 구원병을 요청했다.

6월 6일에는 군사를 보내 알아보니 일본군이 겨우 하루 이틀 거리인 황주까지 올라왔다는 급보가 전해졌다. 선조는 왕비를 함경도 함흥으로 피난시키고 여차하면 자신도 뒤따르기로 했다. 8일에는 적군이 대동강 건너편에까지 나타났다. 6월 10일 선조는 평양을 포기하고 다시 북행을 결심했다.

일행이 성문을 나서려 하자 백성들이 도끼와 몽둥이를 들고 임금의 앞길을 가로막았다. 할 수 없이 성안으로 다시 들어갔다가 그 이튿날 가까스로 탈출하여 북쪽으로 향했다. 그리하여 12일에는 안주를 지나고 13일에 영변에 들어갔다.


참고서적; 황원갑(黃源甲) 저술 "부활하는 이순신" 에코비즈니스(EcoBusiness) 2004, 김종대(金宗代) 저술 "신(臣)에게는 아직도 열두척의 군선이 있습니다." 북포스(BookFors) 2001, 최두석(崔頭錫) 저술 "임진왜란(壬辰倭亂)과 이순신(李舜臣)" 일각 1999, 김형광(金炯光) 저술 "인물로 보는 조선사(朝鮮史)" 시아출판사 2003.

{계속}



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