伝統文化

 

 

我が民族の歴史が始まった以来幾多の外的の侵犯があったがその時ごとにうちの先祖たちは熱い救国(救国)の意志とすごい闘志で国難(国難)を乗り越えて来た. 国難にあう度に卓越なリーダーシップを発揮して民族的気象を高くふるった救国の英雄はいちいち数え切れないだけ多いが, 李舜臣こそその多い英雄, 豪傑, 忠臣, 烈士の中にもきっての偉人という事実にはその誰も異意を申し立てることができないだろう.

李舜臣(李舜臣)は韓国歴史上最高の戦争英雄で壬辰の乱(壬辰倭乱), 丁酉災乱(丁酉再乱)という未曽有の災いにあって国と同胞の滅亡が目の前に至った時朝鮮水軍を総指揮していろいろの不利な与件の中でも必勝の信念とすごい戦略で勝ちっ放し(連戦連勝)をあげた不世出の名将だった. 彼は貧しい士の息子に生まれて 54年の長くない一生を送る間あらゆる苦難の中でもひたすら忠孝(忠孝), 仁義(仁義)と愛国愛族精神(愛国愛族精神)に一貫した民族の大きい師匠だった.

イギリス海軍兵学校校長を勤めたビルラド(G.A.Billard) 所長(少将)は ¥”朝鮮の李舜臣という海軍提督がネルソン(Horatio Nelson)に劣らないすぐれた指揮官という事実をイギリス人たちは認めにくいが李舜臣が東洋最高の海軍提督という点は否定することができない事実だ.¥”と李舜臣を評価した. 中国係アメリカ人歴史学者でアメリカワシントン州立大学校教授であるレイ硫黄(Ray Hwang) 博士は東洋史 3台戦争英雄で朝鮮の李舜臣(李舜臣), ベトナム多異美瑛王朝のチェンフンダオ[千訓道], 中国明のワンスングファン(袁崇煥)を持ちながらその中でも李舜臣が一番偉い手柄を残した英雄だとほめたたえた.

今日国内外の情勢, 特に再び抜けた政治的, 経済的危機に照らして見る時李舜臣は今まで知られて来た節税の名将, 救国の英雄という面貌に加えてすごいリーダーシップを取り揃えた最高経営者だったという事実を今更節減するようになる. 21世紀という新しい激変の時代, 激動の時代を迎えて強大国たちとの無限競争で生き残るためにしても私たちは東西古今(東西古今)のどんな偉人よりも偉かった聖雄(聖雄) 李舜臣のリーダーシップを通じて国難克服の知恵を捜さなければならないでしょう.

◆ 2ヶ月ぶりに平壌まで占領されて

4月 28日に忠州性を占領した日本軍第1群はその明くる日條令を越えて来た第2群と合流した. 小西行長[小西行長]と加藤紀要マーサ[加藤清正]はこちらでダウン進撃作戦を協議した.

30日に忠州を発ったユキナがの第1群は 5月 1日に驪州で南漢江を渡って, 2日には良書で北漢江を渡った. 紀要マーサの第2群は音声, 竹山, 容認を経って 2日に漢江南側岸に到着した.

一方黒田ナがマサ[黒田長政]が率いる第3軍は秋風嶺を越して清州と鎭川を経って竹山で第2群と力を合わせて容認に北上した.

続いた敗戦(敗戦) 報告に日本軍が破竹の勢いで群がって来るという消息を聞いた朝鮮朝廷は都城防御と一緒に避難問題を論議した. どんな実利もない名分論で国政を誤った偉人たちだから表では射手論が優勢だった. 先祖(宣祖)は万が一の事態に備えてその間延ばして来た漏れると冊封問題を急いで始末をつけて一番利口な次男光海君(光海君)を王世子に冊封した. 長男臨海だね(臨海君)は愚かなうえ性質が荒しくて民心を失ったからだった. 先祖はこれと共に臨海君を咸境道で, セッチェアドル順化だね(順和君)を江原道に行かせて募兵活動をするようにした.

また一方金人院(金命元)を桃源数(都元帥), 新閣(申恪)を部員数(副元帥)で任命して, 右議政(右議政) 李陽元(李陽元)を柔道大将(留都大将)でそれぞれ任命した. いずれにしても都城射手論はあくまでも名分に過ぎなかったんだろう, 実現性がなかった. ソウルの城郭は首都の威厳を見せようと積んだことであって防御用ではないからだった. 最小限都城を防御するために必要な兵力は軍事 1万 5千名余位, そして進撃して来る日本軍は先鋒部隊だけでも 5万名が越える大軍だった.

結局調整は名分論よりは現実論を選ぶしかなかった. 先祖は相変らず首都射手を主張する一部大臣たちの反対にもかかわらず 4月 30日真夜中に都城を密かにバジョナが避難の道に上がった.

先祖があほうな賃金であることは否認することができない事実だが, 当時都城を捨てて開城, 平壌, 義州に戦乱を避けて住まいを移したことを置いてやたらに責めることはできないことだ. 無謀な名分論にかまけて大闕を守って座っている途中敵軍につかまるとかしたらその瞬間朝鮮王朝は完全に亡びたはずだからだ.

国王と大臣たちはそのようにソウルを捨てて臨津江を渡って個性と平壌を経って国境である義州まで避難の道を続いた.

日本軍がソウルを陷落させたことは 6月 2日, また半月が経ったその月 13日には平壌まで占領したからやっと 2ヶ月ぶりにほとんど全国土が敵軍の足に無惨に踏み躪られたのだった.

◆ 李舜臣が元均のサポート要請を受けてからも直ちに出動しない理由

それなら開戦初期李舜臣の動きで話を回して見る.

全裸左水使(全羅左水使) 李舜臣(李舜臣)が日本軍の侵略消息を聞いたことは 4月 15日日暮れだった.

その日は国の祭祀, すなわち成宗(成宗)の王妃ハン氏の祭日だから一日中公務を見なかったり日の暮れる頃に軽傷右水使(慶尚右水使) 元均(元均)が送った諜報を受けたのだ. ¥”倭船 90余隻が現われて絶影島に停泊した¥”と言う内容で, 引き継いで軽傷左水使(慶尚左水使) 朴泓(朴泓)からも ¥”倭船 350尺が釜山浦へ来て停泊したという内容の公文書を受けた.

李舜臣はその日午後 8時に賃金に急変を知らせる長計をあげて全羅道巡察使(全羅道巡察使) 李光(李洸)と全裸兵士(全羅兵使) 催院(崔遠), 全裸右水使(全羅右水使) イオックギ(李億祺)に公文書を送ってこれを知らせた. 後に従って慶尚道観さつ使(慶尚道観察使) 金数(金粹)からも同じ内容の公文書を受けた.

明くる日の 4月 16日元均から釜山津陷落通報を受けたし, 17日には軽傷優兵士(慶尚右兵使) キム・ソンイル(金誠一)から ¥”倭軍が釜山を陷落させた後退かない¥”は通報を受けたし, 18日にも元均から ¥”東莱性が崩れた¥”は消息を受けた.

20日には金数から救援病を要請する公文書を受けると李舜臣は管内各チンに非常警戒令を下げる一方, 金数と元均などに適正がどうか急に会報してくれと言う通文を送った.

李舜臣が残した乱中日記(乱中日記)を見ればこの時期の壬辰年 4月 23日から 30日まではおこるのがないから当時の事情がいくら切迫に帰ったのかを見当をつけることができる.

26日と 27日には相次いで先祖から出場して敵と争いなさいという内容の命令書を受けたし, その日賃金に ¥”慶尚道で救援出る長計¥”をあげて旗下長寿たちを急に召集した. この二番目長計で李舜臣はこんなに使った.

¥”はいた慶尚道巡辺使二日と観さつ使金数, 右水使元均などに慶尚道の水路都合と二つの道(慶尚道と全羅道)の軍事たちが集まることに約束する地点, また現在賊船の数鼠と停泊している所がどこそこなのか, その他にさまざまな戦略に関するすべてのことに対して急に返事してくれと言って知らせたし, 各村と潟にすべての戦闘器具をもう一度整備しておいて命令を待ちなさいと指示しました.¥”

また同じな長計にはこんな書き入れ時もある.

¥”賊船の数鼠が 500余隻もなるので私たちも威勢と武将を厳に取り揃えて少なく恐れて震えるようにしなければならなだろうのに, 神さまに属したバングダブ, 使徒, 女道, 発砲さびもなど五つ潟の電線だけでは甚だしくさびしくて弱いのでスンチョン, 光陽, 落雁, フングヤング, ポソンなど五つ村の水軍たちも一緒に従えて行きます. そして旗下長寿たちに本営沖合で集まるように通文をドルリョッアオンデ, その中でポソン, さびも同じな所は水路で三日もかかる距離(通り)にあるのでもしか期日に到着することができないとしても他の所長寿たちは皆 4月 29日に本営沖合に集まって約束を確かに決めてすぐ出場する計画です.¥”

そして李舜臣はこんなに自分の決意を申し上げた.

¥”ワンコンデ一度死として約束して直ちに犯意巣窟ですぐ叩いて機運を掃いてしまって国の恥ずかしさを万分の仕事でも洗おうと思うが成功と失敗, 手早くて鈍いことに対しては神さまがあらかじめ推し量るところではないかと言います.¥”

李舜臣の買って来て行動はこのように緻密で沈着だった. 彼は戦乱を迎えたと言って決して荒てるとか急がなかった. もちろん怖がらなかっただけでなく, そうだとして無謀に先後選り分けないで跳びこまなかった.

まさしく戦争が起こることを見越して不撤昼夜で備えて来た李舜臣だった. それだけ彼は出場に先立ってにも徹底的な情報収集と事前準備に最善をつくしたのだ.

これは初出場, 初戦闘がそれほど重要なせいもあったが, その後 7年の間命をかけて争いながら初志一貫守って来た李舜臣の原則でもあった.

それこそ歴史上どんな帝王よりも卓越だったし, どんな名将よりも抜群だった偉い最高経営者李舜臣将軍の真面目だった.

ところで当時李舜臣が敵侵消息を聞いてからも直ちに出動することができないことを置いて扱き下ろすうるさかった. これは今日にも一部極少数ではあるが元均勇将では(元均勇将論)という虚構を合理化するために李舜臣を批判する者等が楽しんで利用する素材でもある.

彼らがその根拠で活用する史料がまさに柳成竜(柳成竜)が使った懲泌録(懲〓録)と先祖実録(宣祖実録) などだ. 先に懲泌録の書き入れ時はこのようだ.

¥”初めに敵兵が上陸することを見た元均がその形勢が非常に大きいのに驚いて敢えて出て争うつもりはできなくて軍船 100余隻と大砲軍旗などを全部海に捨てた. 彼は荷受悲壮である李英男(李英男)とイウンリョング(李雲竜)を連れてお腹ネチォックに分けて乗ってゴンヤング上り口で逃げて陸地に上がろうと思った. そして彼が従えた水軍 1万名余が皆消えるようになった.

これを見た李英男が元均に言った.

¥”ボールは水軍節度使という高い席にいらっしゃりながらこんなに軍事を捨てて陸地で避ければ又の日調整で罪を問う時に何の言葉で兔れよう? 私の考えでは全羅道に救援を請じて一度争って見た後に, それでも勝つことができなければ退軍しても遅れないだろいなさい¥”

が言葉を聞くと元均はこれを従った. 直ちに李英男を李舜臣に送って清兵した. しかし李舜臣は ¥”私たちが各各責任を引き受けた分界(分界)が別にあるのにどうして調整の命令もなしにわがまま地境を移ることができるか?¥” して断った.

元均は 5,6次や李英男を送って切に請じたし, 李英男が李舜臣に行って来る度に船首に座って眺めて泣きわめいた.¥”


一方先祖実録には又の日調整で西人である左議政(左議政) 金応南(金応南)が賃金と問答する席で ¥”李舜臣が早く清兵してくれなくて元均が泣きわめいた.¥”と言ったし, 左承旨(左承旨) イドックヨル(李徳悦)は ¥”元均が十五回や清兵しても李舜臣が聞き入れなかった.¥”とおとし入れた書き入れ時が出る.

しかし当時李舜臣がすぐ出場することができなかった理由は調整の命令なしには自分の作戦区域をわがまま脱して争うことができない制度上の問題があったからだった.

李舜臣の全裸左図数だね(全羅左道水軍)は独立部隊ではなくあくまでも全羅道に属した部隊だった. 命令体系も全羅道観さつ使旗下だった.

だけでなく元均が 15次や支援軍を請じたということは私利に当たらない何をすることだった. 元均の部下がその思い焦がれる乱中に慶尚道と全羅道の間の波路を 5,6次ではなくおおよそ 15回も往復しながら救援を請じたということは話にならないからだ.

それで李舜臣が ¥”各各責任を負った境界が別にあるのに調整の命令もなしにわがまま移ることができない¥”と言ったのだ.

そしてなによりも一番重要な理由は軍勢が弱かったからだった. 倭軍艦隊は数百尺もなるのに当時李舜臣の従えた戦艦は 24尺に過ぎなかった. そんなわけにイオックギの全裸牛島数だね(全羅右道水軍) 艦隊と連合して出動しようと思ったのだ.

旅愁の全裸左水営は息忙しく回った.

5月 1日, 李舜臣旗下のすべての将兵が旅愁の左水営に集合した.

が席で李舜臣は今までの戦況を説明して慶尚道を求めに行く問題に関して各自の意見を言うようにした. 自分が最高指揮官だと言って一方的に言い付けたのではなく部下たちの意見も聞いて, また彼ら自分の決意を聞きたかったからだった.

落雁軍需信号(申浩)を含めた多くの長寿が本島(全羅道)を守るのが正しいでしょう, 管轄区域ではない慶尚道を求めに出動するということは私たちの責任ではないと愼重論を申し立てた. すると軍官ソングフィリブ(宋希立)が出てこんなに主張した.

¥”盗賊たちが侵犯してその形勢がでたらめにポッヒョッヌンデ座ってさびしい城を守るからといってその性が保存することができないから出場するべきです. 出場して幸いに勝てば時の勢いをくじくはずで, もし不幸に戦死すると言っても臣下された道理として恥ずかしさがないだろう.:

なのでノックドマンホゾングウン(鄭運)もこんなに言った.

¥”普段国の恩恵をこうむって国禄を食べた臣下としてどうしてこういう時に死なないで敢えて座って見ることだけできますか? 敵軍を打つのに全羅道慶尚道がどこにありますか? 嶺南は湖南が垣根なのに垣根が崩れればここも保全しにくいだろいなさい. これから軍兵を導いて出て少ない打って一方では嶺南を助けて, 一方では湖南を保護して堅固に南海岸を守り出すとハウェだ.¥”

多くの長寿の論難を聞いていた李舜臣が遂に口を割った.

¥”私が君たちの考えを試して見たのです. これから出兵を決めた以上敢えて他のものを言う者がいたら容赦なしに軍律に処するはずです!¥”

5月 2日軽傷優も南海に行かせた李舜臣の軍官ソングハンリョン(宋漢連)が帰って来て報告するのを南海県令と美爪港晨辞, サングズポ, ゴックポ, ピョングサンポ万戸などがもう逃げてしまったし, 武器なども皆散らばって残ったことがないと言った.

この日夕方に郡号(軍号)を竜虎(竜虎)だと言って, 伏兵(伏兵)は ¥”算数(山水)¥”と決めた.

しかし日本軍の艦隊が 5百余隻もなるのに全裸左水営の軍船は 100余隻にも及ぶことができなかったし, 特に戦艦らしい戦艦である板屋船は 20余隻しかならなかった. それでイオックギが従えた全裸右水営の艦隊と力を合わせようと思ったことだが, イオックギの合流が遅くなっていたのだ.

ゾングウンが李舜臣に出場を督促した.

¥”右水使は来ないで外敵(倭敵)はますます都城身近に近付いたら痛憤することを堪えることができません! もっと延ばしている途中もし機会を逃したら又の日後悔したところで何の所用ですか?¥”

減らす出動を延ばすことができなかった. 李舜臣は出動を決心した.

5月 3日夜に軍律の至厳であることを見えるために脱営した軍卒黄オクチョン(黄玉千)と言う(のは)者を取って梟首(梟首)した.

5月 4日. まだ夜明けも来る前の午前 2時に旅愁を出発した. すべての人が眠った真夜中に作戦を開始したのだ. あの時李舜臣が従えた全裸左水営の軍船は板屋船(板屋船)が 24尺, 協では(挟船)が 15尺, ポザックでは(鮑作船)が 46尺, しめて 85尺だった. しかしヒョブソンやポザックソンは戦艦だと言うには兵力と装備が貧弱な滲まれたので軍船らしい軍船は板屋船 24尺しかになかったと見なければならなかった.

ヒョブソンは小型軍船として適正を察するとか賊船を追撃して捕える任務を遂行する快速船であり, ポザックソンも漁船を動員して輸送及び連絡, または敵軍を捕らえる任務を遂行するのに使われたのだ. 李舜臣は戦闘に先立って捜索作戦の大切さを深く理解していた.

李舜臣(李舜臣)は自分の管内は手の平見るように明るかったが嶺南の方海に対しては事情をよく分からなかったのでそちら海に対してよく分かる光陽県監御影談を道案内にした.

当時全裸左水営の第1次出動に参戦した指揮官たち面々をよく見れば中尉場にバングダブチォムサ(防踏僉使) 李舜臣(李純信), 左部長に落雁軍需(楽安郡守) 信号(申浩), 前部長にフングヤングヒョンガム(興陽県監) ベホングリブ(〓興立), 中部場に光陽県監(光陽県監) 御影談(魚泳潭), 遊軍場に発砲仮装(家長)(鉢浦仮将) ナデョン(羅大用), 愚夫場にポソン軍需(宝城郡守) ギムドックグァン(金得光), 後部場にノックドマンホ(鹿島万戸) ゾングウン(鄭運), 左斥候章に女道権官(呂島権管) 金インヨン(金仁英), ウチォックフ章に  使徒晨辞(社島僉使) ギムワン(金浣), した後章に軍官最大性(崔大成), 真実退場に軍官ベウングロック(〓応禄), 突撃将に軍官二言量(李彦良) などだった.

しかし急先ぽうは慶尚道水軍将令の中で選抜することに元均と約束したので決めなかったし, またスンチョン副詞(順天府使) グォンズン(権俊)はあの時観さつ使の伝令で前週に行ってなかったので補職が未定だった.

一方, 後方を守る将令ではうつらな状態区(李夢亀)を留陣場(留鎭将)にして旅愁を引き受けるようにして, バングダブ, 使徒, 女もさびもなど責任者が出場したジンポには李舜臣の軍官の中度胸と知略がある者を仮装(家長)(仮将), すなわち臨時長水路任命して派遣した.

参照書籍; ファングワンガブ(黄源甲) 著述 ¥”復活する李舜臣¥” エコービーズニス(EcoBusiness) 2004, キム・ジョンデ(金宗代) 著述 ¥”神さま(臣)にはまだヨルドチォックの軍船があります.¥” ブックポス(BookFors) 2001, ツェドソック(崔頭錫) 著述 ¥”壬辰の乱(壬辰倭乱)と李舜臣(李舜臣)¥” 一刻 1999, 金蛍光(金炯光) 著述 ¥”人物に見る朝鮮社(朝鮮史)¥” シアツルパンサ 2003.

{引き続き}

「불패의 명장 이순신(李舜臣)」4.임진왜란(壬辰倭亂) 발발 (3)

 

 

우리 민족의 역사가 시작된 이래 수많은 외적의 침범이 있었으나 그때마다 우리 선조들은 뜨거운 구국(救國)의 의지와 비상한 투지로 국난(國難)을 극복해왔다. 국난을 당할 때마다 탁월한 리더십을 발휘하여 민족적 기상을 높이 떨친 구국의 영웅은 일일이 헤아릴 수 없을 만큼 많지만, 이순신이야말로 그 숱한 영웅, 호걸, 충신, 열사 가운데서도 으뜸가는 위인이라는 사실에는 그 누구도 이의를 제기할 수 없을 것이다.

이순신(李舜臣)은 한국 역사상 최고의 전쟁 영웅으로 임진왜란(壬辰倭亂), 정유재란(丁酉再亂)이라는 미증유의 재앙을 당해 나라와 겨레의 멸망이 눈앞에 이르렀을 때 조선 수군을 총지휘하여 갖가지 불리한 여건 속에서도 필승의 신념과 비상한 전략으로 연전연승(連戰連勝)을 올린 불세출의 명장이었다. 그는 가난한 선비의 아들로 태어나 54년의 길지 않은 일생을 보내는 동안 온갖 고난 속에서도 오로지 충효(忠孝), 인의(仁義)와 애국애족정신(愛國愛族精神)으로 일관한 민족의 큰 스승이었다.

영국 해군사관학교 교장을 지냈던 빌라드(G.A.Billard) 소장(少將)은 "조선의 이순신이라는 해군 제독이 넬슨(Horatio Nelson)에 버금가는 뛰어난 지휘관이라는 사실을 영국인들은 인정하기 힘들겠지만 이순신이 동양 최고의 해군 제독이라는 점은 부정할 수 없는 사실이다."라고 이순신을 평가하였다. 중국계 미국인 역사학자로 미국 워싱턴 주립대학교 교수인 레이 황(Ray Hwang) 박사는 동양사 3대 전쟁 영웅으로 조선의 이순신(李舜臣), 베트남 다이비에이 왕조의 첸 훈다오[千訓道], 중국 명나라의 원숭환(袁崇煥)을 들면서 그 중에서도 이순신이 가장 위대한 공훈을 남긴 영웅이라고 칭송하였다.

오늘날 나라 안팎의 정세, 특히 또다시 빠진 정치적, 경제적 위기에 비추어볼 때 이순신은 지금까지 알려져 왔던 절세의 명장, 구국의 영웅이라는 면모에 더해 비상한 리더십을 갖춘 최고 경영자였다는 사실을 새삼 절감하게 된다. 21세기라는 새로운 격변의 시대, 격동의 시대를 맞이하여 강대국들과의 무한경쟁에서 살아남기 위해서도 우리는 동서고금(東西古今)의 그 어떤 위인보다도 위대했던 성웅(聖雄) 이순신의 리더십을 통해 국난극복의 지혜를 찾아야 할 것이다.

◆ 2개월 만에 평양까지 점령당해

4월 28일에 충주성을 점령한 일본군 제1군은 그 이튿날 조령을 넘어온 제2군과 합류했다. 고니시 유키나가[小西行長]와 가토 기요마사[加藤淸正]는 이곳에서 다은 진격작전을 협의했다.

30일에 충주를 떠난 유키나가의 제1군은 5월 1일에 여주에서 남한강을 건너고, 2일에는 양서에서 북한강을 건넜다. 기요마사의 제2군은 음성, 죽산, 용인을 거쳐 2일에 한강 남쪽 기슭에 도착했다.

한편 구로다 나가마사[黑田長政]가 인솔하는 제3군은 추풍령을 넘고 청주와 진천을 거쳐 죽산에서 제2군과 합세하여 용인으로 북상했다.

잇따른 패전(敗戰) 보고에다 일본군이 파죽지세로 몰려온다는 소식을 들은 조선 조정은 도성 방어와 함께 피난 문제를 논의했다. 아무 실리도 없는 명분론으로 국정을 그르친 위인들인지라 겉으로는 사수론이 우세했다. 선조(宣祖)는 만일의 사태에 대비하여 그 동안 미뤄왔던 새자 책봉 문제를 서둘러 매듭지어 가장 똑똑한 둘째아들 광해군(光海君)을 세자로 책봉했다. 맏아들 임해군(臨海君)은 어리석은데다가 성질이 사나워 민심을 잃었기 때문이었다. 선조는 이와 함께 임해군을 함경도로, 셋째아들 순화군(順和君)을 강원도로 보내 모병활동을 벌이도록 했다.

또 한편 김명원(金命元)을 도원수(都元帥), 신각(申恪)을 부원수(副元帥)로 임명하고, 우의정(右議政) 이양원(李陽元)을 유도대장(留都大將)으로 각각 임명했다. 그러나 저러나 도성 사수론은 어디까지나 명분에 불과했지, 실현성이 없었다. 서울의 성곽은 수도의 위엄을 보이려고 쌓은 것이지 방어용이 아니기 때문이었다. 최소한 도성을 방어하기 위해 필요한 병력은 군사 1만 5천여명 정도, 그리고 진격해오는 일본군은 선봉부대만 해도 5만명이 넘는 대군이었다.

결국 조정은 명분론보다는 현실론을 택할 수밖에 없었다. 선조는 여전히 수도 사수를 주장하는 일부 대신들의 반대에도 불구하고 4월 30일 한밤중에 도성을 몰래 바져나가 피난길에 올랐다.

선조가 멍청한 임금인 것은 부인할 수 없는 사실이지만, 당시 도성을 버리고 개성, 평양, 의주로 피난 간 것을 두고 무작정 비난할 수는 없는 노릇이다. 무모한 명분론에 얽매여 대궐을 지키고 앉아 있다가 적군에게 잡히기라도 했다면 그 순간 조선왕조는 완전히 망했을 것이기 때문이다.

국왕과 대신들은 그렇게 서울을 버리고 임진강을 건너 개성과 평양을 거쳐 국경인 의주까지 피난길을 계속했다.

일본군이 서울을 함락시킨 것은 6월 2일, 다시 보름이 지난 그 달 13일에는 평양까지 점령했으니 겨우 2개월 만에 거의 전 국토가 적군의 발길에 무참하게 유린당한 것이었다.

◆ 이순신이 원균의 지원 요청을 받고도 즉시 출동하지 않은 이유

그렇다면 개전 초기 이순신의 움직임으로 이야기를 돌려본다.

전라좌수사(全羅左水使) 이순신(李舜臣)이 일본군의 침략 소식을 들은 것은 4월 15일 저녁때였다.

그날은 나라의 제사, 곧 성종(成宗)의 왕비 한씨의 제삿날이라 종일 공무를 보지 않다가 해질 무렵에 경상우수사(慶尙右水使) 원균(元均)이 보낸 첩보를 받았던 것이다. "왜선 90여척이 나타나 절영도에 정박했다"는 내용이고, 이어서 경상좌수사(慶尙左水使) 박홍(朴泓)으로부터도 "왜선 350척이 부산포에 와서 정박했다는 내용의 공문을 받았다.

이순신은 그날 오후 8시에 임금에게 급변을 알리는 장계를 올리고 전라도 순찰사(全羅道巡察使) 이광(李洸)과 전라병사(全羅兵使) 최원(崔遠), 전라우수사(全羅右水使) 이억기(李億祺)에게 공문을 보내 이를 통보했다. 뒤따라 경상도 관찰사(慶尙道觀察使) 김수(金粹)로부터도 같은 내용의 공문을 받았다.

이튿날인 4월 16일 원균으로부터 부산진 함락 통보를 받았고, 17일에는 경상우병사(慶尙右兵使) 김성일(金誠一)로부터 "왜군이 부산을 함락시킨 뒤 물러가지 않는다"는 통보를 받았으며, 18일에도 원균으로부터 "동래성이 무너졌다"는 소식을 받았다.

20일에는 김수로부터 구원병을 요청하는 공문을 받자 이순신은 관내 각 진에 비상경계령을 내리는 한편, 김수와 원균 등에게 적정이 어떠한가 급히 회보해달라는 통문을 보냈다.

이순신이 남긴 난중일기(亂中日記)를 보면 이 시기인 임진년 4월 23일부터 30일까지는 일기가 없으니 당시의 사정이 얼마나 급박하게 돌아갔는가를 짐작할 수 있다.

26일과 27일에는 잇달아 선조로부터 출전하여 적과 싸우라는 내용의 명령서를 받았고, 그날 임금에게 "경상도로 구원 나가는 장계"를 올리고 휘하 장수들을 급히 소집했다. 이 두번째 장계에서 이순신은 이렇게 썼다.

"신은 경상도 순변사 이일과 관찰사 김수, 우수사 원균 등에게 경상도의 물길 형편과 두 도(경상도와 전라도)의 군사들이 모이기로 약속하는 지점, 또 현재 적선의 수효와 정박해 있는 곳이 어디어디인지, 그 밖에 여러 가지 전략에 관한 모든 일들에 대해 급히 회신해달라고 통보했으며, 각 고을과 포구에 모든 전투 기구를 다시 한 번 정비해놓고 명령을 기다리라고 지시했습니다."

또 같은 장계에는 이런 대목도 있다.

"적선의 수효가 500여척이나 되므로 우리도 위세와 무장을 엄중히 갖추어 적이 겁내고 떨도록 하지 않으면 안 될 것인데, 신에게 소속된 방답, 사도, 여도, 발포 녹도 등 다섯 포구의 전선만으로는 심히 외롭고 약하므로 순천, 광양, 낙안, 흥양, 보성 등 다섯 고을의 수군들도 함께 거느리고 가겠습니다. 그리고 휘하 장수들에게 본영 앞바다로 모이도록 통문을 돌렸아온데, 그 중에서 보성, 녹도 같은 곳은 물길로 사흘이나 걸리는 거리에 있으므로 혹 기일에 도착하지 못하더라도 다른 곳 장수들은 모두 4월 29일에 본영 앞바다에 모여 약속을 확실히 정하고 곧 출전할 계획입니다."

그리고 이순신은 이렇게 자신의 결의를 아뢰었다.

"원컨대 한번 죽음으로써 기약하고 즉시 범의 소굴로 바로 두들겨 기운을 쓸어버리고 나라의 부끄러움을 만분의 일이나마 씻으려 하거니와 성공과 실패, 날래고 둔한 것에 대해서는 신이 미리 헤아릴 바가 아닌가 합니다."

이순신의 사고와 행동은 이처럼 치밀하고 침착했다. 그는 전란을 맞았다고 해서 결코 당황하거나 서두르지 않았다. 물론 겁을 먹지도 않았을 뿐만 아니라, 그렇다고 해서 무모하게 앞뒤 가리지 않고 뛰어들지도 않았다.

틀림없이 전쟁이 일어날 것을 예견하고 불철주야로 대비해온 이순신이었다. 그런 만큼 그는 출전에 앞서서도 철저한 정보 수집과 사전 준비에 최선을 다했던 것이다.

이는 첫 출전, 첫 전투가 그만큼 중요한 탓도 있었지만, 그 뒤 7년 동안 목숨을 바쳐 싸우면서 초지일관 지켜온 이순신의 원칙이기도 했다.

그것이야말로 역사상 어떤 제왕보다도 탁월했고, 어떤 명장보다도 출중했던 위대한 최고 경영자 이순신 장군의 진면목이었다.

그런데 당시 이순신이 적침 소식을 듣고도 즉시 출동하지 못한 것을 두고 헐뜯는 말이 많았다. 이는 오늘날에도 일부 극소수이기는 하지만 원균용장론(元均勇將論)이라는 허구를 합리화하기 위해 이순신을 비판하는 자들이 즐겨 이용하는 소재이기도 하다.

그들이 그 근거로 활용하는 사료가 바로 유성룡(柳成龍)이 쓴 징비록(懲毖錄)과 선조실록(宣祖實錄) 등이다. 먼저 징비록의 대목은 이렇다.

"처음에 적병이 상륙하는 것을 본 원균이 그 형세가 매우 큰데 놀라서 감히 나가서 싸울 생각은 못하고 군선 100여척과 대포 군기 등을 모조리 바다에 버렸다. 그는 수하 비장인 이영남(李英男)과 이운룡(李雲龍)을 데리고 배 네척에 나누어 타고 곤양 어귀로 도망쳐 육지로 올라가려고 했다. 그리하여 그가 거느린 수군 1만여명이 모두 없어지게 되었다.

이를 본 이영남이 원균에게 말했다.

"공은 수군절도사라는 높은 자리에 계시면서 이렇게 군사를 버리고 육지로 피하시면 뒷날 조정에서 죄를 물을 적에 무슨 말로 모면하리오? 제 생각으로는 전라도에 구원을 청해서 한 번 싸워본 다음에, 그래도 이기지 못하면 퇴군해도 늦지는 않을 것이오"

이 말을 듣자 원균은 이를 좇았다. 즉시 이영남을 이순신에게 보내 청병했다. 그러나 이순신은 "우리가 각자 책임을 맡은 분계(分界)가 따로 있는데 어찌 조정의 명령도 없이 마음대로 지경을 넘어갈 수 있겠는가?" 하고 거절했다.

원균은 5,6차나 이영남을 보내 간절히 청했고, 이영남이 이순신에게 다녀올 때마다 뱃머리에 앉아 바라보고 통곡했다."


한편 선조실록에는 뒷날 조정에서 서인인 좌의정(左議政) 김응남(金應南)이 임금과 문답하는 자리에서 "이순신이 일찍 청병해주지 않아 원균이 통곡했다."고 했으며, 좌승지(左承旨) 이덕열(李德悅)은 "원균이 열다섯번이나 청병했어도 이순신이 들어주지 않았다."고 모함한 대목이 나온다.

그러나 당시 이순신이 바로 출전하지 못했던 이유는 조정의 명령 없이는 자신의 작전구역을 마음대로 벗어나 싸울 수 없는 제도상의 문제가 있었기 때문이었다.

이순신의 전라좌도수군(全羅左道水軍)은 독립부대가 아니라 어디까지나 전라도에 속한 부대였다. 명령체계도 전라도 관찰사 휘하였다.

뿐만 아니라 원균이 15차나 지원군을 청했다는 것은 사리에 맞지도 않는 모함이었다. 원균의 부하가 그 피 말리는 난중에 경상도와 전라도 사이의 뱃길을 5,6차가 아니라 무려 15차례나 왕복하면서 구원을 청했다는 것은 말이 되지 않기 때문이다.

그래서 이순신이 "각자 책임진 경계가 따로 있는데 조정의 명령도 없이 마음대로 넘어갈 수 없다"고 했던 것이다.

그리고 무엇보다도 가장 중요한 이유는 군세가 약했기 때문이었다. 왜군 함대는 수백 척이나 되는데 당시 이순신이 거느린 전함은 24척에 불과했다. 그런 까닭에 이억기의 전라우도수군(全羅右道水軍) 함대와 연합하여 출동하려 했던 것이다.

여수의 전라좌수영은 숨 가쁘게 돌아갔다.

5월 1일, 이순신 휘하의 모든 장병이 여수의 좌수영에 집합했다.

이 자리에서 이순신은 지금까지의 전황을 설명하고 경상도를 구하러 가는 문제에 관해 각자의 의견을 말하도록 했다. 자신이 최고 지휘관이라고 하여 일방적으로 명령한 것이 아니라 부하들의 의견도 듣고, 또 그들 자신의 결의를 듣고 싶었기 때문이었다.

낙안군수 신호(申浩)를 비롯한 많은 장수가 본도(전라도)를 지키는 것이 옳지, 관할 구역이 아닌 경상도를 구하러 출동한다는 것은 우리의 책임이 아니라면서 신중론을 제기했다. 그러자 군관 송희립(宋希立)이 나서서 이렇게 주장했다.

"도적들이 침범하여 그 형세가 마구 뻗혔는데 앉아서 외로운 성을 지킨다고 해서 그 성이 보존될 수가 없으니 출전해야 마땅합니다. 출전하여 다행히 이기면 적의 기세를 꺾을 것이고, 혹시 불행히 전사한다 하더라도 신하된 도리로서 부끄러움이 없을 것입니다.:

이어서 녹도만호 정운(鄭運)도 이렇게 말했다.

"평소에 나라의 은혜를 입고 국록을 먹던 신하로서 어찌 이럴 때에 죽지 않고 감히 앉아서 볼 수만 있겠습니까? 적군을 치는데 전라도 경상도가 어디 있겠습니까? 영남은 호남이 울타리인데 울타리가 무너지면 여기도 보전하기 어려울 것이오. 이제 군병을 이끌고 나가 적을 쳐서 한편으로는 영남을 돕고, 한편으로는 호남을 보호하여 굳건히 남해안을 지켜내야 하외다."

여러 장수의 논란을 듣고 있던 이순신이 마침내 입을 열었다.

"내가 그대들의 생각을 시험해본 것이오. 이제 출병을 결정한 이상 감히 다른 말을 하는 자가 있다면 용서 없이 군율에 처할 것이오!"

5월 2일 경상우도 남해에 보냈던 이순신의 군관 송한련(宋漢連)이 돌아와 보고하기를 남해현령과 미조항첨사, 상주포, 곡포, 평산포 만호 등이 이미 도망쳐버렸고, 무기 등도 모두 흩어져서 남은 것이 없다고 했다.

이날 저녁에 군호(軍號)를 용호(龍虎)라 하고, 복병(伏兵)은 "산수(山水)"라고 정했다.

그러나 일본군의 함대가 5백여척이나 되는데 전라좌수영의 군선은 100여척에도 미치지 못했고, 특히 전함다운 전함인 판옥선은 20여척밖에 되지 않았다. 그래서 이억기가 거느린 전라우수영의 함대와 합세하려고 했던 것인데, 이억기의 합류가 늦어지고 있었던 것이다.

정운이 이순신에게 출전을 독촉했다.

"우수사는 오지 않고 왜적(倭敵)은 점점 도성 가까이 다가가니 통분함을 참을 수가 없습니다! 더 늦추다가 만약 기회를 놓친다면 뒷날 후회한들 무슨 소용이겠습니까?"

더는 출동을 늦출 수가 없었다. 이순신은 출동을 결심했다.

5월 3일 밤에 군율의 지엄함을 보이기 위해 탈영한 군졸 황옥천(黃玉千)이란 자를 잡아 효수(梟首)했다.

5월 4일. 채 새벽도 오기 전인 오전 2시에 여수를 출발했다. 모든 사람이 잠든 한밤중에 작전을 개시했던 것이다. 그때 이순신이 거느린 전라좌수영의 군선은 판옥선(板屋船)이 24척, 협선(挾船)이 15척, 포작선(鮑作船)이 46척, 도합 85척이었다. 하지만 협선이나 포작선은 전함이라고 하기에는 병력과 장비가 빈약한 배였으므로 군선다운 군선은 판옥선 24척밖에는 없었다고 보아야 했다.

협선은 소형 군선으로서 적정을 살피거나 적선을 추격하여 나포하는 임무를 수행하는 쾌속선이며, 포작선도 어선을 동원하여 수송 및 연락, 또는 적군을 사로잡는 임무를 수행하는 데 쓰였던 것이다. 이순신은 전투에 앞서 수색 작전의 중요성을 깊이 이해하고 있었다.

이순신(李舜臣)은 자신의 관내는 손바닥 보듯이 훤했지만 영남 쪽 바다에 대해서는 사정을 잘 몰랐으므로 그쪽 바다에 대해 잘 아는 광양현감 어영담을 향도로 삼았다.

당시 전라좌수영의 제1차 출동에 참전했던 지휘관들 면면을 살펴보면 중위장에 방답첨사(防踏僉使) 이순신(李純信), 좌부장에 낙안군수(樂安郡守) 신호(申浩), 전부장에 흥양현감(興陽縣監) 배홍립(裵興立), 중부장에 광양현감(光陽縣監) 어영담(魚泳潭), 유군장에 발포가장(鉢浦假將) 나대용(羅大用), 우부장에 보성군수(寶城郡守) 김득광(金得光), 후부장에 녹도만호(鹿島萬戶) 정운(鄭運), 좌척후 장에 여도권관(呂島權管) 김인영(金仁英), 우척후 장에  사도첨사(社島僉使) 김완(金浣), 한후 장에 군관 최대성(崔大成), 참퇴장에 군관 배응록(裵應祿), 돌격장에 군관 이언량(李彦良) 등이었다.

그러나 선봉장은 경상도 수군 장령 가운데서 선발하기로 원균과 약속했으므로 정하지 않았고, 또 순천부사(順天府使) 권준(權俊)은 그때 관찰사의 전령으로 전주로 가서 없었으므로 보직이 미정이었다.

한편, 후방을 지킬 장령으로는 이몽구(李夢龜)를 유진장(留鎭將)으로 삼아 여수를 맡도록 하고, 방답, 사도, 여도 녹도 등 책임자가 출전한 진포에는 이순신의 군관 가운데 담력과 지략이 있는 자를 가장(假將), 곧 임시 장수로 임명하여 파견했다.

참고서적; 황원갑(黃源甲) 저술 "부활하는 이순신" 에코비즈니스(EcoBusiness) 2004, 김종대(金宗代) 저술 "신(臣)에게는 아직도 열두척의 군선이 있습니다." 북포스(BookFors) 2001, 최두석(崔頭錫) 저술 "임진왜란(壬辰倭亂)과 이순신(李舜臣)" 일각 1999, 김형광(金炯光) 저술 "인물로 보는 조선사(朝鮮史)" 시아출판사 2003.

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