伝統文化

 

我が民族の歴史が始まった以来幾多の外的の侵犯があったがその時ごとにうちの先祖たちは熱い救国(救国)の意志とすごい闘志で国難(国難)を乗り越えて来た. 国難にあう度に卓越なリーダーシップを発揮して民族的気象を高くふるった救国の英雄はいちいち数え切れないだけ多いが, 李舜臣こそその多い英雄, 豪傑, 忠臣, 烈士の中にもきっての偉人という事実にはその誰も異意を申し立てることができないだろう.

李舜臣(李舜臣)は韓国歴史上最高の戦争英雄で壬辰の乱(壬辰倭乱), 丁酉災乱(丁酉再乱)という未曽有の災いにあって国と同胞の滅亡が目の前に至った時朝鮮水軍を総指揮していろいろの不利な与件の中でも必勝の信念とすごい戦略で勝ちっ放し(連戦連勝)をあげた不世出の名将だった. 彼は貧しい士の息子に生まれて 54年の長くない一生を送る間あらゆる苦難の中でもひたすら忠孝(忠孝), 仁義(仁義)と愛国愛族精神(愛国愛族精神)に一貫した民族の大きい師匠だった.

イギリス海軍兵学校校長を勤めたビルラド(G.A.Billard) 所長(少将)は ¥”朝鮮の李舜臣という海軍提督がネルソン(Horatio Nelson)に劣らないすぐれた指揮官という事実をイギリス人たちは認めにくいが李舜臣が東洋最高の海軍提督という点は否定することができない事実だ.¥”と李舜臣を評価した. 中国係アメリカ人歴史学者でアメリカワシントン州立大学校教授であるレイ硫黄(Ray Hwang) 博士は東洋史 3台戦争英雄で朝鮮の李舜臣(李舜臣), ベトナム多異美瑛王朝のチェンフンダオ[千訓道], 中国明のワンスングファン(袁崇煥)を持ちながらその中でも李舜臣が一番偉い手柄を残した英雄だとほめたたえた.

今日国内外の情勢, 特に再び抜けた政治的, 経済的危機に照らして見る時李舜臣は今まで知られて来た節税の名将, 救国の英雄という面貌に加えてすごいリーダーシップを取り揃えた最高経営者だったという事実を今更節減するようになる. 21世紀という新しい激変の時代, 激動の時代を迎えて強大国たちとの無限競争で生き残るためにしても私たちは東西古今(東西古今)のどんな偉人よりも偉かった聖雄(聖雄) 李舜臣のリーダーシップを通じて国難克服の知恵を捜さなければならないでしょう.

◆ 李氏朝鮮(李氏朝鮮)が消えない限り朝日戦争(朝日戦争)は途方もない.

現在壬辰の乱(壬辰倭乱)と丁酉災乱(丁酉再乱)を背景で李舜臣将軍の専攻(戦功)を主題で扱っている映像物 KBS 1-TV 歴史ドラマ ¥”不滅の李舜臣¥”では日本の朝鮮侵略である壬辰の乱(壬辰倭乱)を朝日戦争(朝日戦争)という用語で取り替えて使っている. 壬辰の乱(壬辰倭乱)は当時朝鮮王朝が日本を藩国(蕃国) 位に思ってこの戦争を国家と国家の間の国際前(国際戦)ではない藩国(藩国)の無力(武力) 逆乱(逆乱)で認識したから付けられた名称だったということだ. 言い換えれば朝鮮王朝は日本を馬鹿にしたから戦争に対する防備を怠ったし結局日本の大大的な侵攻で国土が染躪されて幾多の民たちが死ぬ惨禍(惨禍)を経験したからこの戦争を明白な国際前(国際戦)で認識して 16世紀ショクホシデ[織豊時代]の日本を正式国家で認める歴史観を新しく持とうという意味で朝日戦争(朝日戦争)という名称を使おうという論理なのに...

しかし怨辞料(原史料)に充実で史実(史実)の個性を客観的に記述する歴史敍述を強調したランケ(Leopold von Ranke)の理論どおり私たちは当時人々の認識に合わせて歴史観を定立しようとする努力を競走する必要がある. 16世紀当時だけではなくその以前の古代社会にも東アジアの国際的認識は王政(王政)体制が確固に成り立った国だけが正常な国家で認められることができた. すなわち帝王が実権を持って自分の意志によって国政(国政)を運営しながら帝王の命令に従って地方官が任命, 派遣される政治形態が正常な国家の姿だったことだ.

しかし日本は 1185年鎌倉幕府[鎌倉幕府] 以後江戸幕府[江戸幕府]が崩壊される 1867年までおおよそ 682年の間無価政治(武家政治)で歴史が進行されたし, ショクホシデ[織豊時代]の日本国王だったやせがまんまるで王[正親町王]と静寂J王[後陽成王]は存在感さえなかった置物帝王だった. したがって当時東アジア社会で正常な国家で判断される基準でずいぶん落ちた国家がすぐ日本だったのだ.

もちろん 20万大軍という物物しい軍事力で朝鮮を侵略した日本の国力を無視することができないからショクホシデ[織豊時代]の日本を正常な国家で見なければならないじゃないのかという意見も正しいと話せる. ところで果して私たちはこのように日本に対する歴史観を中立的な立場で相手を気配りする次元で眺める理由があるか?

現在日本の歴史学界では朝鮮王朝を李氏朝鮮(李氏朝鮮)と言う(のは)名称と呼んでいる. 李氏朝鮮(李氏朝鮮)は朝鮮を株券国家で認識しないという意図が敷かれている名称だ. 朝鮮は人(明)のような中原王朝の属国だったし中国の統治の下あった韓半島に李成桂が自分ばかりの政権を立てて明皇帝の許しを得て開国した国が朝鮮だから正式国家で見られないということが日本人たちの認識だ. 属国(属国)は領土の広い宗主国が自国の領土をもうちょっと易しく分割統治するために地方の概念を軍(郡) 県(県)ではなく小菊(小国)の形態で立てておいたことを意味する. すなわち当時韓半島は中国の領域だったが, 中国の天子(天子)が自国の領土の中で日附印韓半島に朝鮮という小国(小国)が樹立されることを許容してその小菊の王に李成桂を任命したということとしてこのような認識は私たちが分かっている軍国(君国)と諸侯国(諸侯国)の関係とは違う概念だ.

日本人たちがこんなに朝鮮王朝を株券国家で認めないところにはもちろん過去日本ミリタリズム勢力の韓半島植民地支配を正当化するための植民史観から始まった概念だ. 日本人たちが韓国中世の歴史をこんな式に捐下して歪曲しているのに私たちが果して日本ショクホシデ[織豊時代]を当時東アジア国際社会に符合する正常な国家体制で認めて壬辰の乱(壬辰倭乱)と言う(のは)既存の用語を朝日戦争(朝日戦争)と直して呼ぶ必要があるか?

日本人たちが自国の国王を天皇(天皇)と言う(のは)呼称と呼んで周辺国々もそれほど呼んでくれるのを願っているところには天皇(天皇)と言う(のは)名称で彼らの傲慢な認識が盛られているからだ. 天皇(天皇)は空の意味さえわがまま統制する神格(神格)の存在だから世界すべての国の民族と国民に成徳(聖徳)を施す君主でしたがって世界帝国(諸国)を治める皇帝という意味が込められている. そういう天皇(天皇)という存在がある国家である日本がアジアだけでなく世界の宗主国と認められることは当たり前で世界すべての国の民族と国民は自称天皇(天皇)と言う日本国王の臣民(臣民)という生意気な認識がはびこるから日本人たちは自国日本が隣国である韓国より上国(上国)の位置にあると思っている.

韓国大統領が日本受賞との首脳会談のために日本を訪問した時に日本の明仁王[明仁王]が韓国大統領と面談する席でまるで帝王が臣下に下待(下待)をする用語を書いて韓国大統領が腰を下げて礼儀を取り揃えてあいさつをするにも日本国王は向い合って礼儀を取り揃えないで腰を伸ばしたまま首だけうなずいて大統領のあいさつを受ける無礼な態度はすぐ自称天皇帝国である日本が大統領制デモクラシー共和国である韓国より上国(上国)の位置にあると思うことから来る国際的欠礼だったことだ. このような日本人たちの傲慢な認識を忘却して韓国外交通商部が日本国王に対する呼称を天皇(天皇)と呼ぶと公式的に発表したことはまことに残念な事に違いない.


彼らが韓国歴史を捐下して侮辱する士官(史観)をおさめない以上, 私たちは日本を気配りする士官(史観)を持つ理由はない.

◆ 日本軍 13万名, 大韓海峡(大韓海峡)を渡ってくる.

先祖(宣祖) 在位 25年の 1592年, 壬辰年(壬辰年) 4月 14日に日本はテハブ(泰合)と言う(のは)位置に上がった最高権力者豊臣秀吉[豊臣秀吉]の命令に従って遂に朝鮮侵攻を開始した. 李舜臣が憂慮した壬辰の乱(壬辰倭乱)がいよいよ裂けたのだ.

全裸左水営(全羅左水営)の李舜臣が戦争に備えて不撤昼夜で心血を傾けているうちに九州[九州] 名古屋[名古屋]に大本営を用意して戦争準備を指揮して来た豊臣秀吉はその年 4月 13日を開戦一路決めて全国の領主たちに総出動命令を下した.

侵略軍は第1群から第16軍まで分けたが, 総兵力は 28万 6千名だった. このなかに第1群から第9軍までが 15万 8千 7百人として侵略軍総司令官ウキだヒデイに[宇喜多秀家]が従えた第8だね 1万名は対馬[対馬島]に, ハシバヒデカス[羽柴秀勝]が従えた第9だね 1万 1千 5百人はイキシマ[壱岐島]に待機している途中ドイダルなのした.

朝鮮侵攻に先に投入される兵力は第1群から第7軍まで 13万 7千 2百人だったし, 先鋒は第1群で第3軍まで 5万 2千 5百人だった. この外に第10郡から第16軍まで 11万 8千 3百人は予備兵力で名古屋に待機するようにした.

一方, 日本の水軍兵力は 9千名だった. このように陸軍に比べて水軍兵力が多かった理由は当時日本軍は陸軍と水軍の仕分けが曖昧で陸で戦えば陸軍であり船に乗れば水軍になったし, それよりは水軍の一番重要な役目というのが戦闘兵力や軍糧米輸送だからだった.

このように前になしに物物しい大規模の侵略軍だったので日本軍は前のような倭寇集団とは次元が違った. あくまでも国力を傾けた正規軍だったことだ.

第9軍まで日本侵略軍の編成と指揮官及び旗下兵力をよく見れば第1群は小西ユキナが[小西行長]が 1万 8千 7百人, 第2群は加藤紀要マーサ[加藤清正]が 2万 2千 8百人, 第3郡は九老だナがマサ[黒田長政]が 1万 1千名, 第4軍はシマズYoshihiro[島津義弘]が 1万 4千名, 第5軍はHukushimaMasanori[福島正則]が 2万 5千名, 第6軍はゴバヤカとダカー店[小早川隆景]が 1万 5千 7百人, 第8軍はウキだヒデイに[宇喜多秀家]が 1万名, 第9軍はハシバヒデカス[羽柴秀勝]が 1万 1千 5百人をそれぞれ指揮したしFukutaシゲカスが通訳官を引き受けた.

が侵略軍の総指揮官は当時 21歳約款の私だったウキだヒデイエロ秀吉の寵愛を受けた長寿だったし, 急先ぽうである加藤紀要マーサも 30歳, 黒田ナがマサも 24歳の青年長寿だった.

その年 1592年 3月 13日名古屋を出発した小西ユキナがの第1群がイキシマを経って中間寄着地である対馬に到着したし, 引き継いで加藤紀要マーサの第2群, 区だなナがマサの第3だねなどが続々と到着して戦列を整えた.

一ヶ月間最後の攻撃準備を取り揃えた日本軍は 4月 13日朝 9時頃釜山を向けて出港, その日夕方 6時頃に釜山絶影も沖合に至った. そして釜山津一帯朝鮮水軍の境界状態を探りながらその晩を海の上で送った.

そして明くる日朝に日本軍が大大的な上陸作戦をすることで終えてすこと 7年戦争の本格的な幕が上がった.

◆ 開戦超に自滅された慶尚道水軍.

日本軍が大韓海峡を渡って来る間釜山津晨辞(釜山鎭僉使) ゾングバル(鄭撥)は絶影島で狩りをしている途中海を真っ黒に覆い被せて群がって来る日本軍の大船団を見つけた. 彼は直ちに釜山真性に帰って来て戦闘準備を書き始め塁は一方, 東莱の軽傷左水使(慶尚左水使) 朴泓(朴泓)にこの事実を報告したし朴泓は宋象賢に通告をした.

朝鮮はあの時までも寒天が分かった蛙そのままだった. 日本の大船団が一日中海を渡って来ることも真黒く分からなかったし, 釜山沖合をいっぱい埋めたままひと晩を過ごすことも分からなかった. しかも日本で何回も警告をしたし, はなはだしくは最後通牒枝したにもかかわらずこれを無視したまま貴重な時間をむだ使いしていたからまことに ¥”天下太平¥”が別になかった. それで自業自得(自業自得)と言う言葉もあって, 歴史は有備無患(有備無患), ムビユファン(無備有患)の教訓を与えると強調するのだ.

朴泓は戦争が起るとこの事実を調整に報告して周辺多くの長寿たちにも知らせたがその自分が本当に3身幅堂上官の高位職だったにもかかわらず国のために先に立って争わないで逃げてしまった. 日本軍の規模があまりにも大きくてまたその勢いがあまりにも荒しかったからだった.

柳成竜(柳成竜)は懲泌録(懲〓録)から使うのを, ¥”軽傷左水使朴泓は時の勢力が大きいことを見て敢えて出兵することができなかったまま性を捨てて逃げたし... 左兵士二刻(李〓)は消息を聞いて兵営から東莱性に入って行った. 釜山性陷落消息を聞くと二刻は怖気ついてどうすることが分からなくて性外で救援すると繰り合わせて所信役で退いた.¥”と言った.

朴泓は性を捨てて逃走を繰り返えしている途中ソウルカデ−逃げたし, また賃金先祖が戦乱を避けて住まいを移した行在所(行在所)を尋ねる中桃源数金人院(金命元)に会って臨津江防衛戦に参加した. しかしその後にも何の功を立てて罪を洗うことができなかったままその翌年に病んでたまらなかった.

軽傷左水営(慶尚左水営) 所属の水軍僉節制使(水軍僉節制使)だった釜山津晨辞(釜山鎭僉使) ゾングバル(鄭撥)と多大布陣晨辞(多大浦鎭僉使) ユンフングシン(尹興信)は自分の陣営を守りながら死に物狂いで争ってから壮烈に戦死したが朴泓の他の旗下長寿たちは皆逃走したのだ.

4月 14日朝 6時頃, 小西ユキナがが指揮する日本侵略軍第1陣がゲミテのように釜山真性で群がって来た. 日本軍は弔銃数が射撃をしてまた火薬をはかる間に弓手が弓を射る式でのべつ幕無しに攻撃を浴びせた.

1千名余の朝鮮官軍は初耳な騷騷しい弔銃音に初めには荒てたがゾングバルの沈着な指揮に忽ち冷情を取り戻して勇ましく応戦した. しかし衆寡不敵(衆寡不敵), 兵力も劣勢だったし火力もおくれた状況で日本軍の猛攻を受け止めることができなかった. そのように 4時間にわたって悪戦苦闘(悪戦苦闘)をしながら防御したが誠意北一角が崩れると日本軍が一度にどっと城中に攻め寄せた.

ゾングバルは乱戦の中に日本軍の銃弾を当たって戦死したからあの時彼の年 40数えた. 当時彼は黒い典鋪を着て戦闘をして日本軍兵士らから ¥”フックウィザンググン(黒衣将軍)¥”と呼ばれた. 最後まで抗戦する朝鮮軍事たちを全滅させた日本軍は全城中を歩き回って次から次へ民たちを殺して家屋に火をつけながら及んで暴れ狂った. この時日本軍の鉄砲と刀に屠戮された人々が 3千名にのぼると記録は伝える.

釜山真性を踏み躪った日本軍は西生け捕りと多大浦を荒して, その明くる日の 4月 15日朝 10時頃には東莱性をかこんだ. そして牌木に ¥”争おうとすれば争って, そうではなければ道を借りなさい¥”と書いて城中に見えた. すると東莱副詞(東莱府使) 宋象賢(宋象賢)は ¥”争ってたまらなくは易しいが道を貸してくれることはオリョブドだ¥”と立って日本軍に送った.

これによって日本軍の総攻撃が開始されたし, 宋象賢を含めた東莱性の軍民(軍民)は死力をつくして抵抗したが結局 2時間ぶりに成文が抜けてしまった. 最後の瞬間が近付くと宋象賢は粗服身なりで賃金がある北を向けて二度お辞儀をしてから白い伝彩するかを鐘に与えて性を抜けて自分のお父さんに伝えなさいと早かった. その団扇には時一数が書かれていたが内容は次のようだった.

¥”孤城月囲 大鎭不救 君臣義重 父子恩軽[孤立した聖恩つきかさのように包囲されたしチンを求めるあてがないね. 君主と臣下の間の義理は重いが親と子の間の恩恵は軽いこれをところないね.]¥”

前に顔面があった日本人一人が宋象賢を見て自分が道を見ておいたからはやく避けなさいと言ったが彼はむしろこんなに叱った.

¥”我が国が君逹に間違ったのがないのに君逹がこのようにすることがどうして道義に行き違わアンウリャ!¥”

しかし鉄が鉄を食べて血が血を呼ぶ戦地で道義論が何のソヨングイリャ. 結局宋象賢は日本軍の刃を受けて壮烈な最後を終えた. 当時彼の年 42数えた. 東莱性を支援しに来た梁山軍需ゾヤングギュ(趙英珪)もこの日戦死した.

平Yoshimoto[平義智]という日本長寿は宋象賢のもとのままな死に感動して彼の死体をおさめて性外ブックゾック山すそに問って ¥”朝鮮忠臣(朝鮮忠臣) 宋孔廟(宋公墓)¥”という木碑を立ててくれた.

この日東莱性で日本軍に惨殺された朝鮮人は 3千名余, 虜につかまった人は 5百名余に達した.

ところでこの渦中に出たらめな事もあった. 蔚山軍需二言する(李彦喊)と言う(のは)者が東莱性を助けに来て行って日本軍に敗れて虜になったが, 賊将小西ユキナがが彼に当時朝鮮朝廷の共助版で(工曹判書) 李徳馨(李徳馨)に会おうという内容の手紙を書いてくれて伝えると言いながら解いてくれた. こんなに釈放された二言することは自分が捕らわれたという事実が現われるか恐ろしくてユキナがの手紙を裂いてしまった. しかしこんな事実は後にユキナががまた手紙を送るせいでぼろを出してしまった.

一方三千浦に本営があった軽傷右水使(慶尚右水使) 元均(元均)の開戦超動向に対して柳成竜(柳成竜)の著書懲泌録(懲〓録)はこんなに伝える.

¥”倭軍船団が海を真黒く覆い被せて航進して来ると軽傷右水使元均はその形勢が非常に大きいところ驚いて敢えて出場することができずに軍船 100余隻と火砲, 装備などを海に捨てた. そして荷受の悲壮(裨将) 李英男(李英男), イウンリョング(李雲竜) などのみを従えたまま 4尺の船に乗ってゴンヤング海上り口に上陸して少ない避けようと思った. そして彼が従えた水軍 1万名余が皆崩れてしまった.¥”

元均は 1540年京畿道平沢で生まれたから李舜臣より 5歳年上だったし, 武科にも李舜臣より先立って合格したので官職でも先輩だった. 彼は宣伝官(宣伝官)を経って早産補万戸(造山堡万戸)と部令副詞(富寧府使)を執り行なったし, 壬辰の乱(壬辰倭乱)が起きた 1592年初に軽傷右水使(慶尚右水使)に任命された.

史料が伝える壬辰の乱開戦超元均の酔った措置は軽傷左水使(慶尚左水使) 朴泓(朴泓)と大きく車も出ないこととして長寿らしい長寿の措置だと思いにくいのだった.

近来一部では元均が戦争 3ヶ月の前に赴任したので備える時間的余裕が不足だったと弁護するのに, これは不合理説(語不成説)だ. 捜査の任期が 2年なのに赴任後 3ヶ月の間任務把握と非常対処訓練もならなくてあったということは言葉もならないからだ.

当時軽傷右水営(慶尚右水営)には 8管 16胞衣チンが倍速されていたし, 板屋船 44尺, 協では 29尺など皆 73尺の伝えることと 1万 2千名の水軍を従えていた.

ところで戦争が起こると元均は敵軍のギュミョと勢いが剛性するという理由一つだけで戦闘を支払う前に軍船 67尺を自ら破壊してしまって大砲と軍糧米など莫大な軍需物資は皆海に捨てた後, 自分は板屋船 4尺, 協では 2尺など軍船 6尺だけぽつんと導いて逃げてしまったというのだ. もちろん彼の旗下軍事たち大部分も散散と散らばってしまってしまったのだ.

これに対しては柳成竜もこんなに言って歎息した事がある.

¥”右水使元均はたとえ水路(水路)が遠いとはするが従えている軍船が多かったし倭軍の軍船がただ一日の間に総集結をしなかったのでただ一番(回)でも朝鮮水軍の威勢を見せながら応戦したら倭軍は後を心配して陸上攻撃を引き延ばさせたはずや一番(回)も交戦をしなかった.¥”

したがって開戦初期に朴泓の軽傷右水営よりは地理的に時間的に比較的対処する余裕があった軽傷右水営の元均がより落ち着いて軍事力を合わせて左水営の散らばった兵力枝閨閤して日本軍と対立して戦ったら戦争の様相は大きく変わったはずだ.

しかし歴史で家庭はどんな所用もないことだからこれもどうしようか.

参照書籍; ファングワンガブ(黄源甲) 著述 ¥”復活する李舜臣¥” エコービーズニス(EcoBusiness) 2004, キム・ジョンデ(金宗代) 著述 ¥”神さま(臣)にはまだヨルドチォックの軍船があります.¥” ブックポス(BookFors) 2001, ツェドソック(崔頭錫) 著述 ¥”壬辰の乱(壬辰倭乱)と李舜臣(李舜臣)¥” 一刻 1999, 金蛍光(金炯光) 著述 ¥”人物に見る朝鮮社(朝鮮史)¥” シアツルパンサ 2003.

{引き続き}


「불패의 명장 이순신(李舜臣)」4.임진왜란(壬辰倭亂) 발발 (1)

 

우리 민족의 역사가 시작된 이래 수많은 외적의 침범이 있었으나 그때마다 우리 선조들은 뜨거운 구국(救國)의 의지와 비상한 투지로 국난(國難)을 극복해왔다. 국난을 당할 때마다 탁월한 리더십을 발휘하여 민족적 기상을 높이 떨친 구국의 영웅은 일일이 헤아릴 수 없을 만큼 많지만, 이순신이야말로 그 숱한 영웅, 호걸, 충신, 열사 가운데서도 으뜸가는 위인이라는 사실에는 그 누구도 이의를 제기할 수 없을 것이다.

이순신(李舜臣)은 한국 역사상 최고의 전쟁 영웅으로 임진왜란(壬辰倭亂), 정유재란(丁酉再亂)이라는 미증유의 재앙을 당해 나라와 겨레의 멸망이 눈앞에 이르렀을 때 조선 수군을 총지휘하여 갖가지 불리한 여건 속에서도 필승의 신념과 비상한 전략으로 연전연승(連戰連勝)을 올린 불세출의 명장이었다. 그는 가난한 선비의 아들로 태어나 54년의 길지 않은 일생을 보내는 동안 온갖 고난 속에서도 오로지 충효(忠孝), 인의(仁義)와 애국애족정신(愛國愛族精神)으로 일관한 민족의 큰 스승이었다.

영국 해군사관학교 교장을 지냈던 빌라드(G.A.Billard) 소장(少將)은 "조선의 이순신이라는 해군 제독이 넬슨(Horatio Nelson)에 버금가는 뛰어난 지휘관이라는 사실을 영국인들은 인정하기 힘들겠지만 이순신이 동양 최고의 해군 제독이라는 점은 부정할 수 없는 사실이다."라고 이순신을 평가하였다. 중국계 미국인 역사학자로 미국 워싱턴 주립대학교 교수인 레이 황(Ray Hwang) 박사는 동양사 3대 전쟁 영웅으로 조선의 이순신(李舜臣), 베트남 다이비에이 왕조의 첸 훈다오[千訓道], 중국 명나라의 원숭환(袁崇煥)을 들면서 그 중에서도 이순신이 가장 위대한 공훈을 남긴 영웅이라고 칭송하였다.

오늘날 나라 안팎의 정세, 특히 또다시 빠진 정치적, 경제적 위기에 비추어볼 때 이순신은 지금까지 알려져 왔던 절세의 명장, 구국의 영웅이라는 면모에 더해 비상한 리더십을 갖춘 최고 경영자였다는 사실을 새삼 절감하게 된다. 21세기라는 새로운 격변의 시대, 격동의 시대를 맞이하여 강대국들과의 무한경쟁에서 살아남기 위해서도 우리는 동서고금(東西古今)의 그 어떤 위인보다도 위대했던 성웅(聖雄) 이순신의 리더십을 통해 국난극복의 지혜를 찾아야 할 것이다.

◆ 이씨조선(李氏朝鮮)이 사라지지 않는 한 조일전쟁(朝日戰爭)은 터무니 없다.

현재 임진왜란(壬辰倭亂)과 정유재란(丁酉再亂)을 배경으로 이순신 장군의 전공(戰功)을 주제로 다루고 있는 영상물 KBS 1-TV 역사드라마 "불멸의 이순신"에서는 일본의 조선 침략인 임진왜란(壬辰倭亂)을 조일전쟁(朝日戰爭)이라는 용어로 대체하여 사용하고 있다. 임진왜란(壬辰倭亂)은 당시 조선왕조가 일본을 번국(蕃國) 정도로 여기고 이 전쟁을 국가와 국가 간의 국제전(國際戰)이 아닌 번국(藩國)의 무력(武力) 역란(逆亂)으로 인식했기 때문에 붙여진 명칭이었다는 것이다. 다시 말해 조선왕조는 일본을 업신여겼기 때문에 전쟁에 대한 방비를 게을리했고 결국 일본의 대대적인 침공으로 국토가 유린되고 수많은 백성들이 죽는 참화(慘禍)를 겪었기 때문에 이 전쟁을 명백한 국제전(國際戰)으로 인식하고 16세기 쇼쿠호시대[織豊時代]의 일본을 정식 국가로 인정하는 역사관을 새롭게 갖자는 뜻에서 조일전쟁(朝日戰爭)이라는 명칭을 쓰자는 논리인데...

그러나 원사료(原史料)에 충실하면서 사실(史實)의 개성을 객관적으로 기술하는 역사서술을 강조했던 랑케(Leopold von Ranke)의 이론대로 우리는 당시 사람들의 인식에 맞추어 역사관을 정립하려는 노력을 경주할 필요가 있다. 16세기 당시뿐 아니라 그 이전의 고대 사회에도 동아시아의 국제적 인식은 왕정(王政)체제가 확고히 이루어진 나라만이 정상적인 국가로 인정받을 수 있었다. 즉 제왕이 실권을 갖고 자신의 의지에 따라 국정(國政)을 운영하면서 제왕의 명령에 따라 지방관이 임명, 파견되는 정치형태가 정상적인 국가의 모습이었던 것이다.

그러나 일본은 1185년 가마쿠라 막부[鎌倉幕府] 이후 에도 막부[江戶幕府]가 붕괴되는 1867년까지 무려 682년 동안 무가정치(武家政治)로 역사가 진행되었으며, 쇼쿠호시대[織豊時代]의 일본 국왕이었던 오기마치왕[正親町王]과 고요제이왕[後陽成王]은 존재감조차 없던 허수아비 제왕이었다. 따라서 당시 동아시아 사회에서 정상적인 국가로 판단되는 기준에서 한참 떨어진 국가가 바로 일본이었던 것이다.

물론 20만 대군이라는 어마어마한 군사력으로 조선을 침략한 일본의 국력을 무시할 수 없기 때문에 쇼쿠호시대[織豊時代]의 일본을 정상적인 국가로 봐야 하지 않겠느냐는 의견도 옳다고 말할 수 있다. 그런데 과연 우리는 이처럼 일본에 대한 역사관을 중립적인 입장에서 상대방을 배려하는 차원으로 바라볼 이유가 있을까?

현재 일본의 역사학계에서는 조선왕조를 이씨조선(李氏朝鮮)이란 명칭으로 부르고 있다. 이씨조선(李氏朝鮮)은 조선을 주권 국가로 인식하지 않겠다는 의도가 깔려 있는 명칭이다. 조선은 명(明)과 같은 중원 왕조의 속국이었고 중국의 통치 아래 있던 한반도에 이성계가 자신만의 정권을 세우고 명나라 황제의 허락을 받아 개국한 나라가 조선이기 때문에 정식 국가로 볼 수가 없다는 것이 일본인들의 인식이다. 속국(屬國)은 영토가 넓은 종주국이 자국의 영토를 좀 더 쉽게 분할 통치하기 위해 지방의 개념을 군(郡) 현(縣)이 아니라 소국(小國)의 형태로 세워 둔 것을 의미한다. 즉 당시 한반도는 중국의 영역이었는데, 중국의 천자(天子)가 자국의 영토 중 일부인 한반도에 조선이라는 소국(小國)이 수립되는 것을 허용하고 그 소국의 왕에 이성계를 임명했다는 것으로써 이러한 인식은 우리가 알고 있는 군국(君國)과 제후국(諸侯國)의 관계와는 다른 개념이다.

일본인들이 이렇게 조선왕조를 주권 국가로 인정하지 않는 데에는 물론 과거 일본 군국주의 세력의 한반도 식민지 지배를 정당화하기 위한 식민사관에서 비롯된 개념이다. 일본인들이 한국 중세의 역사를 이런 식으로 폄하하고 왜곡하고 있는데 우리가 과연 일본 쇼쿠호시대[織豊時代]를 당시 동아시아 국제사회에 부합하는 정상적인 국가체제로 인정하여 임진왜란(壬辰倭亂)이란 기존의 용어를 조일전쟁(朝日戰爭)이라고 고쳐 부를 필요가 있을까?

일본인들이 자국의 국왕을 천황(天皇)이란 호칭으로 부르고 주변 국가들 역시 그렇게 불러주기를 원하고 있는 데에는 천황(天皇)이란 명칭에서 그들의 오만한 인식이 담겨 있기 때문이다. 천황(天皇)은 하늘의 뜻마저 자기 마음대로 통제하는 신격(神格)의 존재이기 때문에 세계 모든 나라의 민족과 국민들에게 성덕(聖德)을 베푸는 군주이고 따라서 세계 제국(諸國)을 다스리는 황제라는 의미가 담겨 있다. 그러한 천황(天皇)이라는 존재가 있는 국가인 일본이 아시아 뿐만 아니라 세계의 종주국으로 인정받는 것은 당연하고 세계 모든 나라의 민족과 국민은 자칭 천황(天皇)이라고 하는 일본 국왕의 신민(臣民)이라는 건방진 인식이 만연하기 때문에 일본인들은 자국 일본이 이웃나라인 한국보다 상국(上國)의 위치에 있다고 생각하고 있다.

한국 대통령이 일본 수상과의 정상회담을 위해 일본을 방문했을 때에 일본의 아키히토왕[明仁王]이 한국 대통령과 면담하는 자리에서 마치 제왕이 신하에게 하대(下待)를 하는 용어를 쓰고 한국 대통령이 허리를 숙여 예의를 갖추고 인사를 하는데도 일본 국왕은 마주 예의를 갖추지 않고 허리를 편 채 고개만 끄덕이며 대통령의 인사를 받는 무례한 태도는 바로 자칭 천황제국인 일본이 대통령제 민주주의 공화국인 한국보다 상국(上國)의 위치에 있다고 생각하는 데서 오는 국제적 결례였던 것이다. 이러한 일본인들의 오만한 인식을 망각하고 한국 외교통상부가 일본 국왕에 대한 호칭을 천황(天皇)으로 부르겠다고 공식적으로 발표한 것은 참으로 유감스러운 일이 아닐 수 없다.


저들이 한국 역사를 폄하하고 모욕하는 사관(史觀)을 거두지 않는 이상, 우리는 일본을 배려하는 사관(史觀)을 가질 이유는 없다.

◆ 일본군 13만명, 대한해협(大韓海峽)을 건너오다.

선조(宣祖) 재위 25년인 1592년, 임진년(壬辰年) 4월 14일에 일본은 태합(泰合)이란 위치에 오른 최고 권력자 도요토미 히데요시[豊臣秀吉]의 명령에 따라 마침내 조선 침공을 개시했다. 이순신이 우려하던 임진왜란(壬辰倭亂)이 드디어 터졌던 것이다.

전라좌수영(全羅左水營)의 이순신이 전쟁에 대비하여 불철주야로 심혈을 기울이고 있는 동안 큐슈[九州] 나고야[名古屋]에 대본영을 마련하고 전쟁 준비를 지휘해온 도요토미 히데요시는 그해 4월 13일을 개전일로 결정하고 전국의 영주들에게 총출동 명령을 내렸다.

침략군은 제1군부터 제16군까지 나누었는데, 총병력은 28만 6천명이었다. 이 가운데 제1군부터 제9군까지가 15만 8천 7백명으로서 침략군 총사령관 우키다 히데이에[宇喜多秀家]가 거느린 제8군 1만명은 쓰시마[對馬島]에, 하시바 히데까스[羽柴秀勝]가 거느린 제9군 1만 1천 5백명은 이키시마[壹岐島]에 대기하고 있다가 뒤다르게 했다.

조선 침공에 먼저 투입되는 병력은 제1군부터 제7군까지 13만 7천 2백명이었고, 선봉은 제1군에서 제3군까지 5만 2천 5백명이었다. 이 밖에 제10군부터 제16군까지 11만 8천 3백명은 예비 병력으로 나고야에 대기토록 했다.

한편, 일본의 수군 병력은 9천명이었다. 이처럼 육군에 비해 수군 병력이 많았던 이유는 당시 일본군은 육군과 수군의 구분이 애매하여 뭍에서 싸우면 육군이요 배에 타면 수군이 되었으며, 그보다는 수군의 가장 중요한 역할이라는 것이 전투병력이나 군량미 수송이기 때문이었다.

이처럼 전에 없이 어마어마한 대규모의 침략군이었으므로 일본군은 전과 같은 일본인 집단과는 차원이 달랐다. 어디까지나 국력을 기울인 정규군이었던 것이다.

제9군까지 일본 침략군의 편성과 지휘관 및 휘하 병력을 살펴보면 제1군은 고니시 유키나가[小西行長]가 1만 8천 7백명, 제2군은 가토 기요마사[加藤淸正]가 2만 2천 8백명, 제3군은 구로다 나가마사[黑田長政]가 1만 1천명, 제4군은 시마즈 요시히로[島津義弘]가 1만 4천명, 제5군은 후쿠시마 마사노리[福島正則]가 2만 5천명, 제6군은 고바야카와 다카가게[小早川隆景]가 1만 5천 7백명, 제8군은 우키다 히데이에[宇喜多秀家]가 1만명, 제9군은 하시바 히데까스[羽柴秀勝]가 1만 1천 5백명을 각각 지휘했으며 후쿠타 시게까스가 통역관을 맡았다.

이 침략군의 총지휘관은 당시 21세 약관의 나이였던 우키다 히데이에로 히데요시의 총애를 받았던 장수였으며, 선봉장인 가토 기요마사도 30세, 구로다 나가마사도 24세의 청년 장수였다.

그해 1592년 3월 13일 나고야를 출발한 고니시 유키나가의 제1군이 이키시마를 거쳐 중간 기착지인 쓰시마에 도착했고, 뒤이어 가토 기요마사의 제2군, 구로다 나가마사의 제3군 등이 속속 도착하여 전열을 가다듬었다.

한달 동안 최후의 공격 준비를 갖춘 일본군은 4월 13일 아침 9시쯤 부산을 향해 출항, 그날 저녁 6시 무렵에 부산 절영도 앞바다에 이르렀다. 그리고 부산진 일대 조선 수군의 경계 상태를 정탐하면서 그날 밤을 바다 위에서 보냈다.

그리하여 이튿날 아침에 일본군이 대대적인 상륙작전을 벌임으로써 마침내 임진왜란 7년 전쟁의 본격적인 막이 올랐다.

◆ 개전 초에 자멸된 경상도 수군.

일본군이 대한해협을 건너오는 동안 부산진첨사(釜山鎭僉使) 정발(鄭撥)은 절영도에서 사냥을 하다가 바다를 새까맣게 뒤덮고 몰려오는 일본군의 대선단을 발견했다. 그는 즉시 부산진성으로 돌아와 전투준비를 서두루는 한편, 동래의 경상좌수사(慶尙左水使) 박홍(朴泓)에게 이 사실을 보고했고 박홍은 송상현에게 통고를 했다.

조선은 그때까지도 우물 안 개구리 그대로였다. 일본의 대선단이 하루종일 바다를 건너오는 것도 까맣게 모르고 있었고, 부산 앞바다를 가득 메운 채 하룻밤을 보내는 것도 모르고 있었다. 더군다나 일본에서 여러 차례 경고를 했고, 심지어는 최후통첩가지 했음에도 불구하고 이를 무시한 채 귀중한 시간을 허비하고 있었으니 참으로 "태평세월"이 따로 없었다. 그래서 자업자득(自業自得)이란 말도 있고, 역사는 유비무환(有備無患), 무비유환(無備有患)의 교훈을 준다고 강조하는 것이다.

박홍은 전쟁이 벌어지자 이 사실을 조정에 보고하고 주변 여러 장수들에게도 통보했으나 그 자신이 정3품 당상관의 고위직이었음에도 불구하고 나라를 위해 앞장서 싸우지 않고 도망쳐 버렸다. 일본군의 규모가 너무나 크고 또 그 기세가 너무나 사나웠기 때문이었다.

유성룡(柳成龍)은 징비록(懲毖錄)에서 쓰기를, "경상좌수사 박홍은 적의 세력이 큰 것을 보고 감히 출병하지 못한 채 성을 버리고 달아났고... 좌병사 이각(李珏)은 소식을 듣고 병영에서 동래성으로 들어갔다. 부산성 함락 소식을 듣자 이각은 겁에 질려 어찌할 바를 모르고 성 밖에서 구원하겠다고 둘러대고 소신역으로 물러났다."고 했다.

박홍은 성을 버리고 도주를 거듭하다가 서울까디 달아났고, 다시 임금 선조가 피난 간 행재소(行在所)를 찾아가던 중 도원수 김명원(金命元)을 만나 임진강 방어전에 참가했다. 그러나 그 뒤에도 별다른 공을 세워 죄를 씻지 못한 채 그 이듬해에 병들어 죽었다.

경상좌수영(慶尙左水營) 소속의 수군첨절제사(水軍僉節制使)였던 부산진첨사(釜山鎭僉使) 정발(鄭撥)과 다대포진첨사(多大浦鎭僉使) 윤흥신(尹興信)은 자신의 진영을 지키면서 필사적으로 싸우다가 장렬히 전사했지만 박홍의 다른 휘하 장수들은 모두 도주했던 것이다.

4월 14일 아침 6시쯤, 고니시 유키나가가 지휘하는 일본 침략군 제1진이 개미떼처럼 부산진성으로 몰려왔다. 일본군은 조총수가 사격을 하고 다시 화약을 재는 사이에 궁수가 활을 쏘는 식으로 쉴 새 없이 공격을 퍼부었다.

1천여명의 조선 관군은 처음 듣는 요란한 조총 소리에 처음에는 당황했지만 정발의 침착한 지휘에 금세 냉정을 되찾고 용감하게 응전했다. 그러나 중과부적(衆寡不敵), 병력도 열세였고 화력도 뒤쳐진 상황에서 일본군의 맹공을 막아낼 수 없었다. 그렇게 4시간에 걸쳐 악전고투(惡戰苦鬪)를 하며 방어했지만 성의 북쪽 한 모퉁이가 무너지자 일본군이 물밀듯이 성안으로 쳐들어왔다.

정발은 난전 중에 일본군의 총탄을 맞고 전사했으니 그때 그의 나이 40세였다. 당시 그는 검은 전포를 입고 전투를 벌여 일본군 병사들로부터 "흑의장군(黑衣將軍)"이라고 불렸다. 끝까지 항전하는 조선 군사들을 전멸시킨 일본군은 온 성안을 돌아다니며 닥치는 대로 백성들을 죽이고 가옥에 불을 지르며 미쳐 날뛰었다. 이때 일본군의 총과 칼에 도륙당한 사람들이 3천명에 이른다고 기록은 전한다.

부산진성을 유린한 일본군은 서생포와 다대포를 휩쓸고, 그 이튿날인 4월 15일 아침 10시쯤에는 동래성을 포위했다. 그리고 패목에 "싸우려면 싸우고, 그렇지 않으면 길을 빌려라"라고 써서 성안에 보였다. 그러자 동래부사(東萊府使) 송상현(宋象賢)은 "싸워서 죽기는 쉽지만 길을 빌려주기는 어렵도다"라고 서서 일본군에게 보냈다.

이에 따라 일본군의 총공격이 개시되었고, 송상현을 비롯한 동래성의 군민(軍民)은 사력을 다해 저항했으나 결국 2시간 만에 성문이 뚫리고 말았다. 최후의 순간이 다가오자 송상현은 조복 차림으로 임금이 있는 북쪽을 향해 두 번 절하고 나서 흰 부채 하나를 종에게 주며 성을 빠져나가 자신의 아버지에게 전해주라고 일렀다. 그 부채에는 시 한 수가 적혀 있었는데 내용은 다음과 같았다.

"孤城月圍 大鎭不救 君臣義重 父子恩輕[고립된 성은 달무리처럼 포위되었고 진을 구할 길이 없네. 군주와 신하 간의 의리는 중하지만 부모와 자식 간의 은혜는 가볍기 이를 데 없구나.]"

전에 안면이 있던 일본인 하나가 송상현을 보고 자신이 길을 봐 두었으니 어서 피하라고 했으나 그는 오히려 이렇게 꾸짖었다.

"우리나라가 너희에게 잘못한 것이 없는데 너희가 이같이 하는 것이 어찌 도의에 어긋나지 않으랴!"

하지만 쇠가 쇠를 먹고 피가 피를 부르는 전쟁터에서 도의론이 무슨 소용이랴. 결국 송상현은 일본군의 칼날을 받고 장렬한 최후를 마쳤다. 당시 그의 나이 42세였다. 동래성을 지원하러 왔던 양산군수 조영규(趙英珪)도 이날 전사했다.

다이라 요시모토[平義智]라는 일본 장수는 송상현의 의연한 죽음에 감동하여 그의 시신을 거두어 성 밖 북족 산기슭에 묻고 "조선충신(朝鮮忠臣) 송공묘(宋公墓)"라는 목비를 세워주었다.

이날 동래성에서 일본군에게 참살당한 한국인은 3천여명, 포로로 잡힌 사람은 5백여명에 달했다.

그런데 이 와중에 어처구니없는 일도 있었다. 울산군수 이언함(李彦喊)이란 자가 동래성을 도우러 왔다가 일본군에게 패배하고 포로가 되었는데, 적장 고니시 유키나가가 그에게 당시 조선 조정의 공조판서(工曹判書) 이덕형(李德馨)을 만나자는 내용의 편지를 써주고 전하라면서 풀어주었다. 이렇게 풀려난 이언함은 자신이 사로잡혔었다는 사실이 드러날까 두려워 유키나가의 편지를 찢어버렸다. 그러나 이런 사실은 뒤에 유키나가가 다시 편지를 보내는 바람에 들통이 나고 말았다.

한편 삼천포에 본영이 있던 경상우수사(慶尙右水使) 원균(元均)의 개전 초 동향에 대하여 유성룡(柳成龍)의 저서 징비록(懲毖錄)은 이렇게 전한다.

"왜군 선단이 바다를 까맣게 뒤덮으며 항진해오자 경상우수사 원균은 그 형세가 매우 큰 데 놀라서 감히 출전하지 못하고 군선 100여척과 화포, 장비 등을 바다에 버렸다. 그리고 수하의 비장(裨將) 이영남(李英男), 이운룡(李雲龍) 등만을 거느린 채 4척의 배에 타고 곤양 바다 어귀에 상륙하여 적을 피하려고 하였다. 그리하여 그가 거느린 수군 1만여명이 모두 무너지고 말았다."

원균은 1540년 경기도 평택에서 태어났으니 이순신보다 5세 연상이었고, 무과에도 이순신보다 앞서 급제했으므로 관직에서도 선배였다. 그는 선전관(宣傳官)을 거쳐 조산보만호(造山堡萬戶)와 부령부사(富寧府使)를 지냈으며, 임진왜란(壬辰倭亂)이 일어나던 1592년 초에 경상우수사(慶尙右水使)로 임명되었다.

사료가 전하는 임진왜란 개전 초 원균이 취한 조치는 경상좌수사(慶尙左水使) 박홍(朴泓)과 크게 차이나 나지 않는 것으로서 장수다운 장수의 조치라고 보기 어려운 것이었다.

근래 일부에서는 원균이 전쟁 3개월 전에 부임하였으므로 대비할 시간적 여유가 부족했다고 변호하는데, 이는 어불성설(語不成說)이다. 수사의 임기가 2년인데 부임 후 3개월 동안 임무파악과 비상대처훈련도 안 되어 있었다는 것은 말도 되지 않기 때문이다.

당시 경상우수영(慶尙右水營)에는 8관 16포의 진이 배속되어 있었고, 판옥선 44척, 협선 29척 등 모두 73척의 전함과 1만 2천명의 수군을 거느리고 있었다.

그런데 전쟁이 일어나자 원균은 적군의 규묘와 기세가 강성하다는 이유 하나만으로 전투를 치르기도 전에 군선 67척을 스스로 파괴해 버리고 대포와 군량미 등 막대한 군수물자는 모두 바다에 버린 뒤, 자신은 판옥선 4척, 협선 2척 등 군선 6척만 달랑 이끌고 달아나 버렸다는 것이다. 물론 그의 휘하 군사들 대부분도 산산이 흩어져 버리고 말았던 것이다.

이에 대해서는 유성룡도 이렇게 말하며 탄식한 바 있다.

"우수사 원균은 비록 수로(水路)가 멀다고는 하지만 거느리고 있는 군선이 많았고 왜군의 군선이 단 하루 동안에 총집결을 하지 않았으므로 단 한 번이라도 조선 수군의 위세를 보이면서 응전했더라면 왜군은 뒤를 걱정하여 육상 공격을 지연시켰을 것이나 한 번도 교전을 하지 않았다."

따라서 개전 초기에 박홍의 경상우수영보다는 지리적으로 시간적으로 비교적 대처할 여유가 있었던 경상우수영의 원균이 보다 침착하게 군사력을 모으고 좌수영의 흩어진 병력가지 규합하여 일본군과 맞서 싸웠더라면 전쟁의 양상은 크게 달라졌을 것이다.

하지만 역사에서 가정은 아무 소용도 없는 노릇이니 이 또한 어찌하랴.

참고서적; 황원갑(黃源甲) 저술 "부활하는 이순신" 에코비즈니스(EcoBusiness) 2004, 김종대(金宗代) 저술 "신(臣)에게는 아직도 열두척의 군선이 있습니다." 북포스(BookFors) 2001, 최두석(崔頭錫) 저술 "임진왜란(壬辰倭亂)과 이순신(李舜臣)" 일각 1999, 김형광(金炯光) 저술 "인물로 보는 조선사(朝鮮史)" 시아출판사 2003.

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