伝統文化

 

762年日本クシュのヒャングツミョ...

ひととき新羅を征伐したという伝説で知られた神功王后(神功王后)が仕えられたこちらに日本の長年の宿願を成す特別な意識が挙行されていた.

¥”必ず新羅を征伐して恨みを解けなさい.¥”

日本は新羅を侵攻する野心を燃やす計画を立てていた.

日本クシュの福岡市には 8世紀の重要な遺跡が残っている. 福岡と隣り都市であるマエバラシにかけている古い城跡. ソングムントに立てられた碑石にはこの性が 756年から積んだIto性だと伝える.

Ito性は多様な築城法で作られた性だ. 先に地形地物を利用することができる部分たちはそのまま山を削って地盤の弱い所は石を使った. そして平地や山勢の低い地帯は土を押し堅めて畿重にも積んで上げた.
7‾10mの高さで山全体を取り囲んでいるIto性, 玄海灘と接している福岡西部にこの城を積んだ特別な理由でもあることだろう?

郷土史学者である抜いてくださいヒデ愚迷さんは ¥“Ito性の北に取り持ち社という官庁があったが古代には郡することを作って管理する所だった. Ito性の隣にそんな官庁を設置したことは戦争遂行が主な目的だったと考えられる.¥”と言った.

福岡の小さな半島に立てられたIto性は新しい戦争を始めるための兵たん基地だったことだ.

モトオカKuwabara遺跡には 8世紀製鉄工場の跡が発掘されている. 現場で発見された不純物を調査して見た結果, Ito性の築城時期と等しいことで確認された. 福岡の時教育委のスキーしなさいMasato教授は ¥”こちらは奈良時代の製鉄所があった所で横にあるIto性の同じ時期の遺跡だ. たぶんこちらで作った鉄製武器をIto性に供給したことと判断される.¥”と言った.

発掘現場には矢先やチォルゴムの刃も発見されている. 当時日本は確かに戦争を準備していたのだ.

Nara 時代に日本は中国党(唐)国の首都である長安を倣って平成頃という計画都市を建設した. 世界文化遺産に指定された平成王宮の跡地には今も発掘作業が盛んでいる. ピョングソンググング遺跡は 1300余年前 Nara 時代の秘密を解いてくれる重要な報告であることだ.

日本の Nara 時代には律令政治を宣布して派手な貴族文化の花を咲かせた. その平和な時代に日本はどうして城を積んで武器を作っていたことだろう? 果して何のための戦争準備だったろうか?

奈良時代[奈良時代]の正統歴史書であるソックイルボンギ(続日本紀)には変な記録たちが発見される. 761年正月日本は急に政府次元でMinowaムサシ地域の少年 20人ずつをそれぞれ選抜して新羅の言語を教えるようにした.

これに先たち 759年には戦艦 5バックチォックを製造するように全国に命令を下逹する. 地域ごとに具体的な数鼠まで割り当てしているのに, その内容をよく見れば 7個の度の中ブックリュックドに 89尺, 山陰島に 145尺, 山羊島に 161尺, 南海島に 152尺ずつ日ごとに暇な月に作るように指示した.

ところでそのお腹たちの完成時期は 3年でないと釘を打っている. 759年から 3年後の 762年-, 日本はその年何の仕事を起こそうと思っただろうか?

坂料理Masashi茨城大学教授は ¥”軍艦 5バックチォックを作るということは古代日本では早くその類例がなかったおびただしい計画だ. 内戦のために軍艦 5バックチォックも万たち必要はなかった. 対外戦争のための強い意志だったことだ.¥”と言う.

756年から緻密に計画されて来た日本の戦争プロジェクト, それは新羅を侵略するための日本の野心を燃やす計画だった. そしてそのすべての侵攻準備は 762年を向けていた.

福岡のヒャングツムンは 3世紀伝説の英雄神功王后の面倒を見た祠堂だ. 古代日本は新羅との多様な紛争が生ずる度にこちらヒャングツミョに来ていちいち報告して新羅に対する処罰を祈った. 男装をして新羅を征伐したという神功王后の伝説を事実で信じて来たからだった. 神功王后が兵船を従えて新羅に入って来ると新羅国王が争わなくて降伏したという伝説. 長年の宿願の作った話ではないか? と思うがこのような話は歴史的事実のように日本書紀に記録されている.

長い間新羅征伐を夢見て来た日本人たちに神功王后は伝説路でも宿願を成した英雄だったことだ.

佐藤Makoto東京大学教授は ¥”神功王后の話を当時人々が伝説で思ったのか歴史的事実で思ったのか分かることはできないがただ当時日本人たちは日本書紀を国政歴史書で信頼していた.¥”と言う.

福岡から車で 30分距離にある多者以後の時, こちらには新羅に対する日本人たちの敵対感を言い表すまた一つの遺跡がある. 665年に立てられた日本最初の酸性である大野性.

大野性は山の稜線に沿って立てられた日本最初の酸性で石垣とToruを積んで侵入が容易い谷には石段を積む技術を書いた. この築城法は以前の日本性では見られなかった百済だけの技術だ.

665年バックチォンガング海戦で百済, 倭連合軍が党, 新羅連合軍に敗れた時に大野性が建てられたと言う. すなわち羅,党連合軍の侵攻を阻むために積んだ山城であることだ.

バックチォンガング海戦で百済復興軍とともに羅当連合軍と対立したが無惨に大敗した日本は新羅に対する恨みがもっと深くなった. バックチォンガング海戦の敗北直後, 日本は多者以後という役場を設立した. 多者以後は唐と新羅の使臣たちが入国する時外交手続きを経った所だ.

ソックイルボンギにはこちらへ来た新羅使臣たちをそのまま返したと記録している. ¥”新羅人たちは言葉に信頼がなくて礼儀がない.¥” これが新羅使臣たちを門前薄待した理由だった. 特に 8世紀には新羅と日本の間の外交摩擦問題がもっと極大化されていた. 新羅に行った日本の使臣たちも傲慢で無礼だという理由で国王に会うことができずに何回追い回されて帰って来た. 神功王后の伝説が伝われるほど新羅征伐に対する長年の宿願を持って来た日本, バックチォンガング海戦と外交摩擦を経験して 762年に遂に新羅を侵略する計画を立てるようになる.

新羅侵攻の首謀はFujiwara中間で[藤原仲麻呂]という人物だった.

当時日本の首都だった奈良市には歴代国王が所蔵していたゾングチァングワンという日本最大規模の王室遺物倉庫がある. ゾングチァングワンの図緑にはFujiwara中間への手決がスィになっている. 当時内相の席に座っていたFujiwara中間では日本朝廷の兵権を握って内外祭屏社を掌握するほど最高の権力を振り回していた.

平成王宮の跡地すぐ側に位した興福寺はひたすらFujiwara家門だけの繁栄のためにピョングソンググングとともに創建された漬けた. ピョングソンググングでまだ 1kmも離れない所には家の跡地が一つ発見されたが, 日本学者たちはこちらがFujiwara中間への家だと確信した. 宮廷や査察でばかり使われた巨大な礎を私宅に使うことができた人物はFujiwara中間でだけであることだ.

発掘現場で出土された遺物たちは中間への権勢がどの位なのか分かるようにしてくれる遺物がたくさん発掘されている. 派手な蓮華文が刻まれた瓦鬼瓦がそれだ. 奈良時代国王がとどまった宮廷にだけ使うことができた文様で個人の家では敢えて置くことができなかった鬼瓦だ.

中間では当時ジュンニング国王が自分のお父さんだと思うほど親密な関係を結んで国王を背に負って独裁的な権力を行使した人物だ. 中間への威勢が極まると当時日本では彼の前提独裁を責める世論が沸き立ち始める. 当時権力が集中されていた中間への勢力に反撥する無理が起き始めるとそういう反発を撫でさするために海外で目を向けるしかなかったのだ.

自分の権勢を脅威する世論を外部に向けるために新羅に対する戦争を宣布した中間で. 果して新羅ではこのような日本の侵攻計画が分からなかっただろうか?

新羅の首都だった競走から蔚山に走ってみると二つの都市の境界地域に慕華里という村が見える. こちらに山の稜線に沿って作った新羅の昔の酸性が一つある. 722年 10月に積もられたこの聖恩モボルグンソングと呼ばれる. 新党書によると新羅の労使たちがこの城を守っていると書かれている. 労使と言う(のは)どんな軍人たちだろう?
当時新羅には弓の一種である櫓という秘密兵器が大量生産されていた. 遊ぶ三国時代に中国で初めて持ちこんだが新羅人たちの技術が加わって新羅軍事力を代表する武器に発展した.


遊ぶ基本的な形態は弓の姿だがその使い方と威力は違う. 一応遊ぶいろいろな矢をいっぺんにうつことができる. そうするためには一般的な弓とは違い糸繰りのような機械の力を利用して力強い矢をうったりする. 矢先も普通の矢先より3倍以上重い.

弓より命中率が高くて誰も手軽く操作することができるシンラノ−は天歩を飛ぶという話の生ずるほど名声が高かった. モボルグンソングにはシンラノ−を扱った弓手たちがずいぶん前から日本の侵略に備えて来たのだ.

日本の新羅侵攻準備が盛んに進行された時に新羅は第35代賃金である景徳王(景徳王)が治めた時代だった. 高句麗と百済を滅ぼして韓半島を統一した新羅はいつよりも平和な時期を送っていた. しかし景徳王は 8世紀中盤, 大大的な軍事改編を実施する.

景徳王は中央君をユックギゾングという一つのシステムに再編してワングギョングバングオ体制をもっと強化した. そして地方には新しく 9酒精を設置して有事時に大規模兵力を動員することができるネットワークを構築して置いた.

それなら日本の新羅侵攻準備はどんなに進行されていただろうか?

761年 11月に日本は各地域に節度使と言う(のは)職責を置いて戦争に動員する船舶と武器軍事の数鼠を検閲していた. 最終的に報告された数はバックチォンガング海戦で動員された軍事力の二倍水準だった. 東海も南海島西海島で用意された軍艦の数は総 394尺, 動員された軍事の数は 4万名余だった.

それではもしその軍事力に新羅を侵攻したらどんな結果が出ただろうか? 日本古代軍事学の最高権威者である師事野馬はるお教授はその仮想シナリオをこんなに予測している.

¥”日本は島国だから大陸国家のように実戦経験を積むことができなかった. 古代には実戦を通じて軍事力が発展することができた. 日本の 4万軍事が海を渡ることはできた側だが実戦経験がなくて兵法に暗い日本軍が新羅を相手でまともに争うことはできなかったはずだ. 多分バックチォンガング戦闘の二番煎じになる可能性が高い.¥”

もし日本が各地域で動員された 4万名の軍事たちと 4百余隻の兵船を導いて新羅を侵攻したらもう大大的な改編を経った新羅の中央君と地方君の総反撃を受けて撃退された可能性が高い. 上陸に成功したと言っても労使部隊が駐屯しているモボルグンソングをパスすることはできなかったはずだ.

中間では日本単独の力に新羅を打つことは大変なことで見て渤海の助けを借りて新羅を侵攻することに決める.

フクだと港は 1300余年前渤海の使臣たちが日本に初足を踏み出した所だ. 渤海使臣が初めて日本へ来たことは 727年, 日本との友好を望む国書に渤海は自分たちが高句麗を受け継いだ付与族の子孫なのを強調している. 渤海から使臣が来れば見送る形式で使臣を派遣した日本が 758年前例を壊して異例的にオノ−タモリを先に立たせた使節団を渤海に派遣する. この時に渤海に渡ったオノ−タモリは新羅と緊張関係にあった渤海を引き入れて新羅を南北に挟攻することを申し入れたことに推定される.

渤海に渡ったオノ−タモリは特別なお客さんを連れて一緒に帰国した. すぐズァウングウィデザンググンヤングスングギョングを主軸にした渤海の使節団だった. 日本に招請された渤海せりふヤングスングギョングは平成頃に泊まりながら以前になかった特別な待遇を受けた. 特に中間では送別会という名目でヤングスングギョングを招待して日本国王の贈り物と言いながら宮廷の踊り子と 1マンドンの綿を彼に与えた. 当時日本で外国の使臣たちに与えた綿は 3柏屯だったがヤングスングギョングは規定のおおよそ 30倍もなるようにを贈り物受けたのだ.

たぶん中間ではヤングスングギョングを自分の家に招待した時, 新羅侵攻に対する日本の計画を打ち明けたはずだ. そしてその計画に渤海が必ず協調してくれるのを要請したはずだ. 日本の懇切な要請を抱いてヤングスングギョング仲間は 759年 2月, 渤海に帰る波路に上がる.

当時渤海は高句麗の昔の領土を回復するために首都を今のヤングアプローチの時の上京で移した直後だった. 建国してから 60年になって行った頃, 渤海は上京性という都市計画を建設して高句麗の継勝国なのを対外的に知らせていた.

当時渤海第3代皇帝である問題(文帝)が日本の新羅攻撃協助要請にどんな答を下げたかは史料にまともに現われていない. ところで新羅を侵攻しようと思った 762年, 日本朝廷は高麗大山という名前を持った人物をギョンバルヘサで任命して使節団をまた渤海に送る. 高麗という氏姓と彼が使臣に選択されたことに何の連関があることだろう?

古代ムサシは日本東京の近くだった. その所に高麗ジェントルマンという顔なじみの名前のジェントルマンがいる. 高句麗の使臣で日本にとどまる中祖国が滅亡するとそのまま日本に安住してしまったヤックグァンという人物を仕えた祠堂だった.

今日こちらは出世と合格を祈るジェントルマンに知られているが, 高麗という氏姓を得て日本で住んだ高句麗流民たちの魂が込められた所だ.

高麗ジェントルマンの祭壇にはヤックグァンの銅像がある. 716年当時日本朝廷でこちらに高麗軍を設置して関東地域の高句麗流民 1千 7百名余を集団移住させた. 762年渤海に発った高麗大山はすぐ渤海のような血統を持った高句麗の子孫だった. 日本は高麗大山を通じて渤海を最後に説得しようと思ったのだ.

それなら果して渤海は日本の新羅挟攻提議を受け入れただろうか, ではなければ断っただろうか?

Uedaダケシは渤海の使臣たちを集中的に研究している在野史学者だ. 主に渤海使臣たちが日本に残して行く跡たちを集めて時代によって少しずつ変わっている渤海使臣の性格を分析しているのに, 彼が特におもしろがることは渤海使臣たちが残して行く一時たちだ.

Uedaダケシは ¥”渤海が日本に送った使臣たちは皆無関たちだったが, 762年高麗大山とともに全ワングシンボックと言う(のは)使臣は文官だった. この時から渤海が日本に送る使臣たちは皆文官で取り替えられる.¥”と説明した.

無関で文官に交替された後期渤海使臣たちは日本大臣たちと一時対決を楽しんだと言う. 762年高麗大山が渤海から連れて来たワングシンボックと言う(のは)使臣は渤海で正当性ズァユンの職責を引き受けている文官だった. 渤海はその年どうして文官を使臣で派遣したことだろう?

¥”日本渤海関係詞研究¥”という論文を書いたIshiiMasatoshiジュオデハック教授は ¥”渤海はその間無関たちを使臣に送った慣例を壊して 762年に文官出身であるワングシンボックと言う(のは)人を使臣で日本に送る. これは渤海が日本と手を取り合うことができないという立場を明らかにするためだったと推測されている.¥”と説明した.

渤海の文官ワングシンボックが使臣で全以後ソックイルボンギには新羅侵攻を準備するという1行の記録も発見されない.

そして 764年Fujiwara中間では反乱を起こしたが, 失敗して処刑される. 彼の沒落とともに新羅侵攻計画は歴史で消えてしまう.

それならどうして渤海は日本の新羅侵攻の時援助要請を断ったことだろう?

北朝鮮では重要な渤海の遺跡があるのにすぐ北青土星に北朝鮮学者たちはこちらが渤海の南京南海部があった席という結論を出した. 南京南海部は五硬の中新羅と一番近くだった.

新党書によると渤海には外国に行く 5個の道があると言うのに, この中には南京南海部を経つ新羅島もあったと言う. 渤海と新羅の間に役たちが設置されていたというこの記録は両国の間に確かに新羅島という殺星交通路が存在していたことを証明するのだ.

松肌号ソウル大学教授は渤海と新羅がずっと対立的な関係にあったという既存の学説を壊して新羅島を注目しても国の間に活発な交流があったことを明かした.

松肌号教授 ¥”国境線に城を積んだという記録はあるが両国間に戦争があったという記録は三国史記にも捜してみることができない. これは渤海と新羅がお互いに対立的ではないという結論が出る.¥”

ソング教授は新羅が景徳王台に国境地域である天井君にタンハンググァンムンを積んだという記録に注目する.

ずいぶん前渤海を警戒して積んだ関門に初めてドアがあいたのだ. それは景徳王台に至って両国の関係が変わったことを意味する.

ソング教授 ¥”将星を積んだという所に関門を設置したということは相互通路を開設したという話になる. 結局は渤海と新羅の間に交流の通路が作られたという話になる.¥”

それなら新羅は倭景徳王台に至って渤海と交流を持ち始めたことだろう?

ジョイ屋教授 ¥“8世紀中葉に至って渤海と新羅がとても活発に交流をするようだ. そこにはさまざまな要因がいるが第一が日本を牽制するためには新羅の立場(入場)では渤海との協力が要したようで, それでその時新羅が渤海を認識するのがいわゆる三韓統一意識によって同一民族と言う(のは)認識を 8世紀中葉に新羅人たちが持つようになったようだ. それで渤海の高句麗継勝意識と言うのが天孫(天孫)族で現われるようになったし, それが新羅が高句麗を受け継いだ渤海との交流というのが私たちが言うタンハンググァンムンに帰着されたと言える.¥”

景徳王大義新羅と渤海は韓民族という意識を行われるようになってお互いに手を握り始めた. 結局日本の野心を燃やす新羅侵攻計画は両国のこのような変化の中で雄大な青写真だけ残すようになったのだ.

762年日本の新羅侵攻計画はこんなに渤海の挟攻拒絶に無産されてしまった. 日本の新羅侵攻計画が繁茂だった頃, 新羅は渤海を高句麗の継勝国と認め始めたしまた渤海は新羅を韓民族で受け入れていた. これにより新羅の国境地帯にある将星にはタンハンググァンムンという交流の道が開かれて新羅は渤海に使臣たちまで送るようになる. 762年東北アジアに迫った激動の旋風が渤海の挟攻拒絶で静かに過ぎ去ることができたのだ. もし渤海が新羅侵攻のための日本の援助要請を受け入れたら果して韓国歴史はどんなに展開されただろうか?


일본의 신라 침공 계획, 발해가 저지했다.

 

762년 일본 쿠슈의 향추묘...

한때 신라를 정벌했다는 전설로 알려진 신공왕후(神功王后)가 모셔진 이곳에 일본의 오랜 숙원을 이룰 특별한 의식이 거행되고 있었다.

"기필코 신라를 정벌하여 원한을 풀리라."

일본은 신라를 침공할 야심찬 계획을 세우고 있었다.

일본 쿠슈의 후쿠오카 시에는 8세기의 중요한 유적이 남아있다. 후쿠오카와 이웃도시인 마에바라시에 걸쳐있는 오래된 성터. 성문터에 세워진 비석에는 이 성이 756년부터 쌓았던 이토성이라고 전한다.

이토성은 다양한 축성법으로 만들어진 성이다. 먼저 지형지물을 이용할수 있는 부분들은 그대로 산을 깎고 지반이 약한 곳은 돌을 사용했다. 그리고 평지나 산세가 낮은 지대는 흙을 다져 겹겹이 쌓아올렸다.
7~10m의 높이로 산 전체를 둘러싸고 있는 이토성, 현해탄과 접해있는 후쿠오카 서부에 이 성을 쌓은 특별한 이유라도 있는 것일까?

향토사학자인 우리요 히데우미 씨는 "이토성의 북쪽에 주선사라는 관청이 있었는데 고대에는 군함을 만들고 관리하는 곳이었다. 이토성 옆에 그런 관청을 설치한 것은 전쟁 수행이 주 목적이었다고 생각된다."고 말했다.

후쿠오카의 작은 반도에 세워진 이토성은 새로운 전쟁을 시작하기 위한 병참기지였던 것이다.

모토오카 쿠와바라 유적에는 8세기 제철공장의 흔적이 발굴되고 있다. 현장에서 발견된 불순물을 조사해본 결과, 이토성의 축성시기와 동일한 것으로 확인됐다. 후쿠오카시 교육위원회의 스키하라 마사토 교수는 "이곳은 나라시대의 제철소가 있었던 곳으로 옆에 있는 이토성과 같은 시기의 유적이다. 아마도 이곳에서 만든 철제무기를 이토성에 공급했던 것으로 판단된다."고 말했다.

발굴현장에는 화살촉이나 철검의 칼날도 발견되고 있다. 당시 일본은 분명 전쟁을 준비하고 있었던 것이다.

Nara 시대에 일본은 중국 당(唐)나라의 수도인 장안을 본떠 평성경이라는 계획도시를 건설하였다. 세계문화유산으로 지정된 평성궁터에는 지금도 발굴작업이 한창이다. 평성궁 유적은 1300여년전 Nara 시대의 비밀을 풀어줄 중요한 보고인 것이다.

일본의 Nara 시대에는 율령정치를 선포하며 화려한 귀족문화를 꽃피웠다. 그 평화로운 시대에 일본은 어째서 성을 쌓고 무기를 만들고 있었던 것일까? 과연 무엇을 위한 전쟁 준비였을까?

나라시대[奈良時代]의 정통 역사서인 속일본기(續日本紀)에는 이상한 기록들이 발견된다. 761년 정월 일본은 갑자기 정부차원에서 미노와 무사시 지역의 소년 20명씩을 각각 선발하여 신라의 언어를 가르치게 했다.

이에 앞서 759년에는 전함 5백척을 제조하도록 전국에 명령을 하달한다. 지역마다 구체적인 수효까지 할당하고 있는데, 그 내용을 살펴보면 7개의 도 가운데 북륙도에 89척, 산음도에 145척, 산양도에 161척, 남해도에 152척씩 날마다 한가한 달에 만들도록 지시했다.

그런데 그 배들의 완성시기는 3년 안이라고 못박고 있다. 759년부터 3년 후인 762년-, 일본은 그해 무슨 일을 벌이려고 했을까?

사카요리 마사시 이바라키 대학 교수는 "군함 5백척을 만든다는 것은 고대 일본에서는 일찌기 그 유례가 없었던 엄청난 계획이다. 내전을 위해 군함 5백척이나 만들 필요는 없었다. 대외전쟁을 위한 강한 의지였던 것이다."고 말한다.

756년부터 치밀하게 계획되어온 일본의 전쟁 프로젝트, 그것은 신라를 침략하기 위한 일본의 야심찬 계획이었다. 그리고 그 모든 침공 준비는 762년을 향하고 있었다.

후쿠오카의 향추문은 3세기 전설의 영웅 신공왕후를 모신 사당이다. 고대 일본은 신라와의 크고 작은 분쟁이 생길 때마다 이곳 향추묘에 와서 일일이 보고하고 신라에 대한 처벌을 기원했다. 남장을 하고 신라를 정벌했다는 신공왕후의 전설을 사실로 믿어왔기 때문이었다. 신공왕후가 병선을 거느리고 신라에 들어오자 신라국왕이 싸우지도 않고 항복했다는 전설. 오랜 숙원이 만든 이야기는 아닐까? 하지만 이러한 이야기는 역사적 사실처럼 일본서기에 기록되어 있다.

오랫동안 신라정벌을 꿈꾸어왔던 일본인들에게 신공왕후는 전설로나마 숙원을 이룬 영웅이었던 것이다.

사토 마코토 도쿄대학 교수는 "신공왕후의 이야기를 당시 사람들이 전설로 여겼는지 역사적 사실로 여겼는지 알수는 없지만 다만 당시 일본인들은 일본서기를 국정역사서로 신뢰하고 있었다."고 말한다.

후쿠오카에서 차로 30분 거리에 있는 다자이후시, 이곳에는 신라에 대한 일본인들의 적대감을 말해주는 또 하나의 유적이 있다. 665년에 세워진 일본 최초의 산성인 오노성.

오노성은 산의 능선을 따라 세워진 일본 최초의 산성으로 석축과 토루를 쌓고 침입이 용이한 계곡에는 석단을 쌓는 기술을 썼다. 이 축성법은 이전의 일본성에서는 볼수 없었던 백제만의 기술이다.

665년 백촌강 해전에서 백제, 왜 연합군이 당, 신라 연합군에 패배하였을 때에 오노성이 지어졌다고 한다. 즉 나,당 연합군의 침공을 막기 위해 쌓은 산성인 것이다.

백촌강 해전에서 백제 부흥군과 함께 나당연합군과 맞섰으나 무참하게 대패한 일본은 신라에 대한 원한이 더욱 깊어졌다. 백촌강 해전의 패배 직후, 일본은 다자이후라는 지방관청을 설립했다. 다자이후는 당나라와 신라의 사신들이 입국할 때 외교절차를 거치던 곳이다.

속일본기에는 이곳에 왔던 신라 사신들을 그냥 돌려보냈다고 기록하고 있다. "신라인들은 말에 믿음이 없고 예의가 없다." 이것이 신라 사신들을 문전박대한 이유였다. 특히 8세기에는 신라와 일본 사이의 외교 마찰 문제가 더욱 극대화되고 있었다. 신라로 간 일본의 사신들도 오만하고 무례하다는 이유로 국왕을 만나지 못하고 수차례 쫓겨 돌아왔다. 신공왕후의 전설이 내려올 만큼 신라 정벌에 대한 오랜 숙원을 가져온 일본, 백촌강 해전과 외교마찰을 겪으며 762년에 마침내 신라를 침략할 계획을 세우게 된다.

신라 침공의 주모자는 후지와라 나카마로[藤原仲麻呂]라는 인물이었다.

당시 일본의 수도였던 나라시에는 역대 국왕이 소장하고 있던 정창원이라는 일본 최대규모의 왕실유물창고가 있다. 정창원의 도록에는 후지와라 나카마로의 수결이 씌여져 있다. 당시 내상의 자리에 앉아 있었던 후지와라 나카마로는 일본 조정의 병권을 쥐고 내외제병사를 장악할만큼 최고의 권력을 휘두르고 있었다.

평성궁터 바로 옆에 위치한 흥복사는 오로지 후지와라 가문만의 번영을 위해 평성궁과 함께 창건된 절이었다. 평성궁에서 채 1km도 떨어지지 않은 곳에는 집터가 하나 발견되었는데, 일본 학자들은 이곳이 후지와라 나카마로의 집이라고 확신했다. 궁궐이나 사찰에서만 사용되던 거대한 주춧돌을 사택에 쓸 수 있었던 인물은 후지와라 나카마로 뿐인 것이다.

발굴현장에서 출토된 유물들은 나카마로의 권세가 어느 정도인지 알수 있게 해주는 유물이 많이 발굴되고 있다. 화려한 연화문이 새겨진 기와막새가 그것이다. 나라시대 국왕이 머물던 궁궐에만 쓸수 있었던 문양으로 개인의 집에서는 감히 둘수 없었던 막새이다.

나카마로는 당시 쥰닝 국왕이 자신의 아버지라 여길만큼 친밀한 관계를 맺어 국왕을 등에 업고 독재적인 권력을 행사했던 인물이다. 나카마로의 위세가 극에 달하자 당시 일본에서는 그의 전제 독재를 비난하는 여론이 들끓기 시작한다. 당시 권력이 집중되어 있던 나카마로의 세력에 반발하는 무리가 일어나기 시작하자 그러한 반발을 무마하기 위해 해외로 눈을 돌릴 수밖에 없었던 것이다.

자신의 권세를 위협하는 여론을 외부로 돌리기 위해 신라에 대한 전쟁을 선포했던 나카마로. 과연 신라에서는 이러한 일본의 침공 계획을 모르고 있었을까?

신라의 수도였던 경주에서 울산으로 달리다 보면 두 도시의 경계 지역에 모화리라는 마을이 보인다. 이곳에 산의 능선을 따라 만든 신라의 옛 산성이 하나 있다. 722년 10월에 쌓여진 이 성은 모벌군성이라 불린다. 신당서에 따르면 신라의 노사들이 이 성을 지키고 있다고 적혀 있다. 노사란 어떤 군인들일까?
당시 신라에는 활의 일종인 노라는 비밀병기가 대량생산되고 있었다. 노는 삼국시대에 중국에서 처음 들여왔지만 신라인들의 기술이 더해져 신라 군사력을 대표하는 무기로 발전했다.


노는 기본적인 형태는 활의 모습이지만 그 사용법과 위력은 다르다. 일단 노는 여러개의 화살을 한꺼번에 쏠수 있다. 그러기 위해선 일반적인 활과는 달리 물레와 같은 기계의 힘을 이용해 강력한 화살을 쏘기도 한다. 화살촉도 보통의 화살촉보다 세배 이상 무겁다.

활보다 명중률이 높고 누구나 손쉽게 조작할 수 있는 신라노는 천보를 날아간다는 말이 생길 만큼 명성이 높았다. 모벌군성에는 신라노를 다루던 궁수들이 오래전부터 일본의 침략에 대비해왔던 것이다.

일본의 신라 침공준비가 한창 진행되던 때에 신라는 제35대 임금인 경덕왕(景德王)이 다스리던 시절이었다. 고구려와 백제를 멸하고 한반도를 통일한 신라는 그 어느때보다 평화로운 시기를 보내고 있었다. 하지만 경덕왕은 8세기 중반, 대대적인 군사개편을 실시한다.

경덕왕은 중앙군을 육기정이라는 하나의 시스템으로 재편해 왕경방어 체제를 더욱 강화하였다. 그리고 지방에는 새롭게 9주정을 설치하여 유사시에 대규모 병력을 동원할수 있는 네트워크를 구축해놓았다.

그렇다면 일본의 신라 침공 준비는 어떻게 진행되고 있었을까?

761년 11월에 일본은 각 지역에 절도사란 직책을 두어 전쟁에 동원할 선박과 무기 군사의 수효를 검열하고 있었다. 최종적으로 보고된 수는 백촌강 해전에서 동원된 군사력의 두배 수준이었다. 동해도 남해도 서해도에서 마련된 군함의 수는 총 394척, 동원된 군사의 수는 4만여명이었다.

그럼 만일 그 군사력으로 신라를 침공했다면 어떤 결과가 나왔을까? 일본 고대 군사학의 최고 권위자인 사사야마 하루오 교수는 그 가상 시나리오를 이렇게 예측하고 있다.

"일본은 섬나라이기 때문에 대륙국가처럼 실전 경험을 쌓을 수가 없었다. 고대에는 실전을 통해 군사력이 발전할수 있었다. 일본의 4만 군사가 바다를 건너갈 수는 있었을 테지만 실전 경험이 없고 병법에 어두운 일본군이 신라를 상대로 제대로 싸울 수는 없었을 것이다. 아마 백촌강 전투의 재탕이 될 가능성이 높다."

만약 일본이 각 지역에서 동원된 4만명의 군사들과 4백여척의 병선을 이끌고 신라를 침공했다면 이미 대대적인 개편을 거친 신라의 중앙군과 지방군의 총반격을 받아 격퇴됐을 가능성이 높다. 상륙에 성공했다고 하더라도 노사 부대가 주둔하고 있는 모벌군성을 통과하지는 못했을 것이다.

나카마로는 일본 단독의 힘으로 신라를 치기는 힘들 것으로 보고 발해의 도움을 받아 신라를 침공하기로 결정한다.

후쿠라 항구는 1300여년전 발해의 사신들이 일본에 첫 발을 내딛었던 곳이다. 발해 사신이 처음 일본에 온 것은 727년, 일본과의 우호를 바라는 국서에 발해는 자신들이 고구려를 계승한 부여족의 후손임을 강조하고 있다. 발해에서 사신이 오면 배웅하는 형식으로 사신을 파견하던 일본이 758년 전례를 깨고 이례적으로 오노타모리를 앞세운 사절단을 발해에 파견한다. 이때에 발해로 건너간 오노타모리는 신라와 긴장관계에 있던 발해를 끌어들여 신라를 남북으로 협공할 것을 제의했던 것으로 추정된다.

발해에 건너갔던 오노타모리는 특별한 손님을 데리고 함께 귀국하였다. 바로 좌응위대장군 양승경을 주축으로 한 발해의 사절단이었다. 일본에 초청된 발해대사 양승경은 평성경에 머물면서 이전에 없었던 특별한 대우를 받았다. 특히 나카마로는 송별회라는 명목으로 양승경을 초대하여 일본국왕의 선물이라며 궁궐의 무희와 1만둔의 솜을 그에게 주었다. 당시 일본에서 외국의 사신들에게 주던 솜은 3백둔이었는데 양승경은 규정의 무려 30배나 되는 양을 선물받았던 것이다.

아마도 나카마로는 양승경을 자신의 집에 초청했을때, 신라 침공에 대한 일본의 계획을 털어놨을 것이다. 그리고 그 계획에 발해가 꼭 협조해 줄 것을 요청했을 것이다. 일본의 간곡한 요청을 안고 양승경 일행은 759년 2월, 발해로 돌아가는 뱃길에 오른다.

당시 발해는 고구려의 옛 영토를 회복하기 위해 수도를 지금의 영안시인 상경으로 옮긴 직후였다. 건국한지 60년이 되어가던 무렵, 발해는 상경성이라는 도시 계획을 건설하며 고구려의 계승국임을 대외적으로 알리고 있었다.

당시 발해 제3대 황제인 문제(文帝)가 일본의 신라 공격 협조 요청에 어떠한 답을 내렸는지는 사료에 제대로 나타나 있지 않다. 그런데 신라를 침공하려고 했던 762년, 일본 조정은 고려대산이라는 이름을 가진 인물을 견발해사로 임명해 사절단을 다시 발해에 보낸다. 고려라는 성씨와 그가 사신으로 선택된 데에 무슨 연관이 있는 것일까?

고대 무사시는 일본 동경의 근처였다. 그곳에 고려신사라는 낯익은 이름의 신사가 있다. 고구려의 사신으로 일본에 머물던 중 조국이 멸망하자 그대로 일본에 안주해버린 약광이라는 인물을 모시던 사당이었다.

오늘날 이곳은 출세와 합격을 기원하는 신사로 알려져 있지만, 고려라는 성씨를 얻고 일본에서 살았던 고구려 유민들의 영혼이 깃든 곳이다.

고려신사의 제단에는 약광의 동상이 있다. 716년 당시 일본 조정에서 이곳에 고려군을 설치하고 관동지역의 고구려 유민 1천 7백여명을 집단이주시켰다. 762년 발해로 떠난 고려대산은 바로 발해와 같은 혈통을 지닌 고구려의 후손이었다. 일본은 고려대산을 통해 발해를 마지막으로 설득하려 했던 것이다.

그렇다면 과연 발해는 일본의 신라 협공 제의를 받아들였을까, 아니면 거절했을까?

우에다 다케시는 발해의 사신들을 집중적으로 연구하고 있는 재야사학자다. 주로 발해 사신들이 일본에 남기고 간 흔적들을 모아 시대에 따라 조금씩 변하고 있는 발해 사신의 성격을 분석하고 있는데, 그가 특히 흥미로워 하는 것은 발해 사신들이 남기고 간 한시들이다.

우에다 다케시는 "발해가 일본에 보낸 사신들은 모두 무관들이었는데, 762년 고려대산과 함께 온 왕신복이란 사신은 문관이었다. 이때부터 발해가 일본에 보내는 사신들은 모두 문관으로 대체된다."고 설명했다.

무관에서 문관으로 교체된 후기 발해 사신들은 일본 대신들과 한시 대결을 즐겼다고 한다. 762년 고려대산이 발해에서 데려온 왕신복이란 사신은 발해에서 정당성 좌윤의 직책을 맡고 있는 문관이었다. 발해는 그해 왜 문관을 사신으로 파견했던 것일까?

"일본발해관계사연구"라는 논문을 쓴 이시이 마사토시 쥬오대학 교수는 "발해는 그동안 무관들을 사신으로 보내던 관례를 깨고 762년에 문관 출신인 왕신복이란 사람을 사신으로 일본에 보낸다. 이것은 발해가 일본과 손잡을 수 없다는 입장을 밝히기 위해서였다고 추측되고 있다."고 설명했다.

발해의 문관 왕신복이 사신으로 온 이후 속일본기에는 신라 침공을 준비하는 단 한줄의 기록도 발견되지 않는다.

그리고 764년 후지와라 나카마로는 반란을 일으켰으나, 실패하고 처형된다. 그의 몰락과 함께 신라침공계획은 역사에서 사라지고 만다.

그렇다면 왜 발해는 일본의 신라 침공시 원조 요청을 거절했던 것일까?

북한에서는 중요한 발해의 유적이 있는데 바로 북청토성으로 북한 학자들은 이곳이 발해의 남경남해부가 있었던 자리라는 결론을 내놓았다. 남경남해부는 오경 가운데 신라와 가장 가까운 곳이었다.

신당서에 따르면 발해에는 외국으로 가는 5개의 길이 있다고 하는데, 이 중에는 남경남해부를 지나는 신라도도 있었다고 한다. 발해와 신라 사이에 역들이 설치되어 있었다는 이 기록은 두 나라 사이에 분명 신라도라는 살성 교통로가 존재하고 있었음을 증명하는 것이다.

송기호 서울대학 교수는 발해와 신라가 줄곧 대립적인 관계에 있었다는 기존의 학설을 깨고 신라도를 주목해 두 나라 사이에 활발한 교류가 있었음을 밝혀냈다.

송기호 교수 "국경선에 성을 쌓았다는 기록은 있지만 양국간에 전쟁이 있었다는 기록은 삼국사기에도 찾아볼 수 없다. 이는 발해와 신라가 서로 대립적이지만은 않다는 결론이 나온다."

송 교수는 신라가 경덕왕 대에 국경지역인 천정군에 탄항관문을 쌓았다는 기록에 주목한다.

오래전 발해를 경계해 쌓았던 관문에 비로소 문이 열린 것이다. 그것은 경덕왕대에 이르러 두나라의 관계가 달라졌음을 의미한다.

송 교수 "장성을 쌓았다는 곳에 관문을 설치했다는 것은 상호 통로를 개설했다는 얘기가 된다. 결국은 발해와 신라 사이에 교류의 통로가 만들어졌다는 얘기가 된다."

그렇다면 신라는 왜 경덕왕 대에 이르러 발해와 교류를 갖기 시작한 것일까?

조이옥 교수 "8세기 중엽에 이르러 발해와 신라가 아주 활발히 교류를 하는 듯 하다. 거기에는 여러가지 요인이 있겠지만 첫째가 일본을 견제하기 위해서는 신라의 입장에서는 발해와의 협력이 필요로 했던 것 같고, 그래서 그때 신라가 발해를 인식하는 것이 소위 삼한통일의식에 의해서 동일민족이란 인식을 8세기 중엽에 신라인들이 갖게 되었던 것 같다. 그래서 발해의 고구려 계승의식이란 것이 천손(天孫)족으로 나타나게 됐고, 그것이 신라가 고구려를 계승한 발해와의 교류라는 것이 우리가 말하는 탄항관문으로 귀착됐다고 말할수 있겠다."

경덕왕 대의 신라와 발해는 한민족이라는 의식을 갖게 되며 서로 손을 잡기 시작했다. 결국 일본의 야심찬 신라침공계획은 두 나라의 이러한 변화 속에서 거창한 청사진만 남기게 된 것이다.

762년 일본의 신라 침공계획은 이렇게 발해의 협공 거절로 무산되고 말았다. 일본의 신라침공 계획이 무성하던 무렵, 신라는 발해를 고구려의 계승국으로 인정하기 시작했고 또 발해는 신라를 한민족으로 받아들이고 있었다. 이로인해 신라의 국경지대에 있는 장성에는 탄항관문이라는 교류의 길이 열리고 신라는 발해에 사신들까지 보내게 된다. 762년 동북아시아에 불어닥친 격동의 회오리가 발해의 협공 거절로 조용히 지나갈 수 있었던 것이다. 만일 발해가 신라 침공을 위한 일본의 원조 요청을 받아들였다면 과연 한국 역사는 어떻게 전개되었을까?



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