伝統文化

 

イルゼチハシックミントングチゾックギョングゼゲバルでは(日帝治下植民統治的経済開発論)と言う(のは)日本帝国主義勢力が朝鮮を植民地で支配しながら朝鮮の経済開発に大きい影響を及ぼしたという主張だ. すなわち自力で近代化を成すことができなかった朝鮮が日本帝国主義勢力の殖民統治おかげで農業, 工業, 近代的教育, 国民所得などでおびただしい発展を成したし, これはすなわち 1960年代‾1970年代韓国の経済成長にも基礎になったという理論で日本帝国主義勢力の朝鮮強点と殖民統治を正当化する論理が敷かれている. このような主張は初めに日本ミリタリズム時代の植民地政策と侵略戦争を美化して歴史を歪曲する日本のナショナリズム的な政治家や教育者たちが 看板で三隠 理論だったが最近には国内の一部親日的知識人たちが学術大会などを通じて植民地的経済開発では(植民地的経済開発論)を発表して論難を起こしたりした.

 

たとえ歴史的真理が相対的なことだと言っても, 太平洋戦争(太平洋戦争)の主体である日本ミリタリズム勢力の敗亡を導き出したエノルラゲイの乗務員が ¥”私は日本民間人ではなくさむらいを相手に争った.¥”と主張した訴えが幾多の人名を殺傷した広島, 長崎に対する原爆投下を政党化させてくれるのではなそうに美しい年に軍服を着て祖国日本の領土拡張のために戦地に出て命を捨てた幾多の日本青年たちに対する追慕が日本ミリタリズム時代の植民地政策と侵略戦争を正当化してくれないだろう. 同じくいくら ¥”近代化¥”や ¥”開発¥”のようなありったけ 美辞麗句(美辞麗句)に修飾すると言っても, 自国の利益のためにむやみに弱小国を侵略して踏み付ける帝国主義も容認されることができないのだ.

 

近代帝国主義列強の弱小国侵略を肯定的な歴史観で評価する人々が立てる一番代表的主張のひとつの ¥”開発(開発)¥”というのは実は当時植民地支配を受けた民族には非常に無意味なのだった. 日帝の殖民統治を受けた朝鮮で開発というのが決まった意味を持とうとすればそれが朝鮮人の開発につながらなければならないが, 民族別で極端的に不平等な生産手段の所有関係とそれによる分配の不平等, またそこで派生する差別などによって植民地体制が持続する一朝鮮人たちに真正な意味の開発はあることができなかった. また日本の植民地支配が終わった時, 日帝強制占領期間を通じて行われた驚くべきな開発がまるで蜃気樓のように消えてしまって解放後韓国経済はまた日帝の殖民統治直前の状態に帰ってしまったし, 植民地時期に成り立った開発の遺産が解放後韓国の工業化過程で非常に制限的な役目しかできなかった. 自国の利益を貫徹させるために隣り国の自由意志を踏み付ける帝国主義的侵略は野蛮化, 反(反)文明化の過程だったことだ.

 

● 植民地工業開発の真実

 

日帝(日帝)の朝鮮殖民統治器具である朝鮮総督府(朝鮮総督府)が 1910年(檀紀 4243年) 12月に発表した会社令(会社令)の内容を一部さえよく見れば次のようだ.

 

 

第1条には朝鮮人が会社を設立しようとすれば必ず朝鮮総督の許可を受けなければならないし, 第2組には国外で設立した朝鮮人の会社が朝鮮内に本店や支店を置く時にも必ず朝鮮総督の許可を受けなければならないという内容があって, 第4組には上の条件を違反する時, そして ¥”善良な風習¥”を違反する時には事業を止まり, 禁止することができるし会社を閉鎖, 放出することができるとなっている. また第12条には第1条の許可を受けないで 会社設立行為を一寝る 5年以下の懲役または金庫, 5千ウォン以下の罰金に処して, 不実申告をして許可受けた子道 同じ処罰されることができるように規定した.   

 

しかし日本本土の場合とは違い, 総督府は日本人が朝鮮内に企業を作ろうとする場合には無条件許可してくれた.

 

 

植民地朝鮮では朝鮮総督府が会社を積極的に設立するどころか, むしろ総督府に届けて許可を受ければこそ会社を設立するようにするオックゼチェックを使った. 

 

外国企業も朝鮮にわがまま入って来ることができなかったし 総督府の許可を受ければこそ支部を建てることができて 自由な貿易活動が抑制された. また総督府の許可を受けないで設立された会社は 会社創業株を監獄に閉じこめて罰金を弁償させる処罰を加害 企業活動を進行することができないようにした.

 

日本帝国主義は朝鮮内で資本の自由な移動と会社設立を通じる資本主義の基礎を磨く過程を抑圧したのだ.

 

これを整理すれば, 朝鮮総督府の会社令公布は朝鮮で会社が設立されて発展することを抑圧したし結果的に朝鮮で資本主義が成長する町角を阻んだのだ.

 

 

以後 1920年に会社令が撤廃されることはするが, この時成長ががロマックヒン朝鮮の資本主義は以後でもまともに発展することができない(日本人たちが市場を掌握するために朝鮮人の会社設立を邪魔したのだ.). こんな措置を取った日本帝国主義勢力が朝鮮を殖民統治しながら資本主義発展を助けたという日本極右派の主張は説得力がないのだ.

 

会社令が撤廃された後の西紀 1928年朝鮮総督府の統計に出た京城(ソウル)市内土幕民(植民地時期にできた都市貧民)の職業分布率をよく見よう.

 

土幕民(ソウルの貧民) 1143人の職業分布率

 

44.6%(510人): 無職(無職)

31.6%(361人): 日雇

8%(91人): 背負子師

(28人): 商店雇用である

 

(25人): 車引き

(20人): 石工

(15人): 工場職工

(15人): 果物行商

 

貧民の 44.6%が働き口がない状態に処している. 生業をする 人も 日雇, 車引き, 果物行商 など大部分工業生産に何の役に立たない事をしている. これは朝鮮総督府が朝鮮の貧民たちに対する社会福祉を初めからしていないという証拠だ. もし総督府が植民地朝鮮に資本主義的発達が成り立つように積極的な政策を広げたら朝鮮の貧民たちを工場労動者で充分に吸収しなければならなかった.

 

1930年代にも状況は特に違わなかった. 下は土幕民に対する 1931年の統計だ.

 

土幕民 1536人の職業分布率

 

 

30.1%(462人): 日雇

10.7%(164人): 背負子師

17.6%(270人): その他

 

朝鮮の工業化が成り立ったという 1931年にも大部分の貧民たちは工場労動者に働くことができなかったし, 収入が不適切な生業にだけエネルギーを消耗するしかない環境だった. 日本の資本主義は農土で追い出された植民地朝鮮の貧民たちを労動者に引き入れるほど発展することもできなかったし, 朝鮮に全般的な工業化を催すこともできなかった. 一言で朝鮮人たちが工場労動者に就職することができる道はよほど狭かったのだ. こんな状況で朝鮮が日本資本の影響で工業化を成すことができたという日本極右派の主張は説得力がない. 

 

甚だしくは太平洋戦争(太平洋戦争)が起きて軍需工業が活発に進行された時の 1942年にも朝鮮貧民たちが携わった職種の中一番高さは割合を占めたのが人足(人夫)だった. もし日本極右派の主張どおり日帝の殖民統治が朝鮮の工業化を繰り上げたら(たとえ軍需工業でも), 工場労動者の 割合が高くなって他の職種の割合は相対的にナッアッオはする. しかしその反対に青服の割合は低く日雇あるいは人足の割合だけ高かったという 事実は 日帝の殖民統治が終わる日まで日本は朝鮮に真の工業化を催すこともできなかったししたがって日本によって朝鮮の工業化が成り立ったという主張はあまり説得力がないことを 見せてくれるのだ.

 

 

満州の変(満洲事変)と日中戦争(中日戦争) 時に朝鮮に多い工場が立ち入ったが, 朝鮮の労動力大部分が戦争期間にだけ動員されたし, 解放以後には工場労動者に働くことができずに帰って来てそのまま農民や失業者になった. 結局日帝の殖民統治のため農村で強制で追い出された朝鮮の労動力は解放とともにほとんど大部分またもとに帰ったのだ. ¥”原点¥”で帰ったわけだ. 

 

戦争期間に進行された軍需工業や強制徴用も朝鮮の資本主義成立にお手助けになるとか間接的な土台になることはできなかった.

 

1944年に朝鮮で生産される銑鉄(銑鉄)の 89.4%が日本に搬出されたことで分かるように生産品の大部分が軍需工業の原料として日本に搬出されて朝鮮自らの民需用重化学工業の発展で繋がれることができなかった. こんな状況で重工業が発展するように願うこと自体が無理だった. 工場の大部分は北朝鮮地域に集中されていたし, それまでも 6・25南北戦争(六二五南北戦争)で大部分 破壊された. したがって韓国の工業化には日帝強制占領期間に残された工場たちが別に役に立たなかったし, 特に南韓は大根(無)で工業化をまた始めなければならなかった.

 

もし日帝(日帝)が韓半島に残して去った工場のため近代的工業化が可能だったら, どうして日製の立てた工場が相対的に多かった北朝鮮が今は南韓よりもっと経済家立ち後れされて周辺国の援助がなくては堪えることもできないほどになったのか論理的に説明しなければならない.

 

それに植民地時期に戦争を遂行しようと作った工場で機械を動かした大部分の技術者たちはほとんど日本人たちだったし, 朝鮮人が工業技術に近付く機会は極めて例外的だった. この結果で前後(戦後) 日本人経営者と技術者が本土で撤収した以後に残された工場はほとんど皆操業が止められてしまうほどだった. したがって日本人たちがいくら工場をたくさん建てて機械を動かしたと言っても, それが朝鮮人技術者やクラフトマンを育てることはできなかったし工業を発展させようと思っても民族的差別のため技術をまともに学ぶことができずに単純労動のみをできる労動者だけある状況では難しい事だった. 

 

日本の植民地支配工業政策は工業化を呼んで来るほど大きく発達することはできなかったし, 工業化に役に立つ技術者を育てることもできなかった. 日本帝国主義勢力の植民地造船工業化は敗戦といっしょにすべてのものが原点に帰るほどに虚弱なのだった. 

 

● 植民地農業発展の真実

 

果して朝鮮総督府は朝鮮の農業近代化を成しただろうか?

 

 

朝鮮併呑以後日帝(日帝)が推進した政策 の中一つは土地調査事業(土地調査事業)を通じて総督府に届けない土地を沒収して日本の農民を移住させて地主に作った後朝鮮人から小作料を受けるようにした地主制を確立した事だった. 土地所有が地主と小作農という封建的な関係を脱して今日の農村のように地主に縛られないで農民たちがわがまま農土を売買することができるし引っ越しをしたければわがまま移すことができるし自分の地を持ってわがまま農業をすることができる状況を農村近代化だと規定したら, 総督府は農村を近代化するどころかむしろ封建的な土地所有をもっと強く固めたわけだ.

 

それに総督府は農民たちが地主制に反抗するとか不満を打ち明ける事までも憲兵警察制(憲兵警察制)を通じて降下なの弾圧した. 半分(半)封建的な制度に対する人民の抵抗や不満申し立てを ¥”権力¥”である総督府が押えつけてその制度を壊すことができないように阻んだという事実は総督府が ¥”近代化¥”で行く過程を押えつけたという事実を言ってくれて結果的に(事実は意図的に) 総督府は朝鮮の農村と農民たちが農業近代化で行く道を塞いだのだ.

 

もし日帝(日帝)が朝鮮の農村を近代化させようと思ったら, 解放以後成り立った土地改革や地主制打破で封建的な土地所有制を強制で崩して農民たちの生活を進めなければならなかった. しかし彼とは反対に朝鮮の農民たちが自治をするとか自作農になることを阻んで, 大部分の農民を小作農にして日本人地主に一方的に属するようにして小作争議(小作争議)を承諾しない総督府の措置を農業近代化だと評価することは大変だ.

 

 

農村で生活する農民たちは果して資本主義にお手助けになるに値する存在だったのか? 返事は否定的だ. 農民たちは地主に小作料を捧げなければならなかったが, 資本主義経済での重要な媒介体である ¥”お金¥”ではなく穀食という ¥”現物(現物)だったしそれも上がり高の 50%を越えた. 農民たちに残ることがほとんどなかった. 小作料を出す時 お金ではなく穀食という現物で出さなければならなかった自体が資本主義的であってアンゴニと, 余剰生産量の大部分を 小作料で捧げて残ることが消費活動に使うとか他の事に投資する のが ほとんどなくて 消費者になることができなかった農民たちが資本主義経済に寄与するということは不可能だった.

 

人身拘束関係も近代的ではなかった. 地主と小作農という関係自体が封建主義的だった. また地主はまるで中世西ヨーロッパで領主が ¥”重要な労動力¥”である農奴を取り締まったように 農民たちが地主にチン光を必ず返すように 小作農を ¥“5人組み制度¥”で縛ってお互いに見張るようにして小作農が ¥”徒党を作って¥” ¥”不穏な言動ができないように¥” 見張った.  小作農はわがまま引っ越すこともできなかったし他の人々が入って来る事も厳禁した. これが中世西ヨーロッパの農奴制度と違うことが何か? これが ¥”近代的な土地所有制¥”と言えるか?

 

また小作農は地主に完全に縛られていた. 肥料を買うか, 種子を買うか, 農機具を買うか, 農業に苦い薬味の中身を借りることにも地主によらなければならなかったし, これは農奴(農奴)と特に違うところがなかった. 日帝強制占領期間の地主制度は朝鮮農業を沒落させて近代的な土地所有制が現われる道を阻んでしまう結果を呼んで来た.

 

 

西紀 1916年には自作農の割合が 20.1%, 紫蘇作農(自作農ながら小作農)が 40.6%, 小作農が 36.8%, 地主が 2.5% であった. 小作農の割合が 36.8%であるところ比べて 自作農と紫蘇作農を合した割合が 60.7%もなって農村中問層がそれほど多かったことを分かるようにする.

 

しかしこれより 16年後の西紀 1932年には 自作農の割合が 16.7%, 紫蘇作農が 26%, 小作農が 54.2%, 地主が 3.7%に変わった. 自作農と紫蘇作農を合した割合が 60.7%から 42.7%で減少したのに比べて 小作農が 36.8%から 54.2%で大きく増加して,地主も 2.5%から 3.7%で大きく増加したことを卵 ことがある.

 

果して何が農業の近代化か?

 

殖民統治と教育での民族差別

 

先に朝鮮総督府歳出内容を見よう. 1936年‾40年間総督府が学校, 図書館運営費で出費した予算の百分比を計算して見れば平均 4% 未満なのを分かる. この金額は警務費(10.3%)や通信施設費(22.9%) などをずっと下回る数値だ. 1910年代朝鮮人児童の就学率は 4%を越えることができなかったし朝鮮に居住する日本人児童の就学率は 90%以上もある. 1943年に至って児童就学率 63%に到逹したが, 結局義務教育制度は実行されなかった. 1930年‾45年間朝鮮人文字解読可能者 23.3%として文盲率が 78%にのぼったが, 特に女性文盲率が 92%にのぼった, これは当時朝鮮に居住する日本人文盲率 26%と比較される統計数値だった.

 

日帝(日帝)は日本人を優待して朝鮮人を粗末にあしらう二重的な民族差別教育制度を実施した. 朝鮮に居住する日本人に本土と等しい教育機会を提供した一方, 朝鮮人に対しては 3・1反日デモ運動(三一反日示威運動) 以前まで彼と違う教育制を適用した.

 

日帝強制占領期間朝鮮人と日本人の初等学校の旧称就学率をよく見れば, 1919年朝鮮人の初等学校の旧称就学率は 3.7%にとどまった一方日本人は 91.5%に達した. 1936年にも朝鮮人児童の就学率は 25%に過ぎなかった. 専門学校就学率は朝鮮人が 6313人, 日本人が 4674人だった. 植民地朝鮮の唯一の大学だった京城帝国大学(京城帝国大学)の韓国人在校生は 206人, 日本人は 350人だった. ここで参考する点は当時朝鮮に居住した日本人の割合は私は朝鮮人口の 2.9%に過ぎなかったという事実だ. しかし京城帝国大学日本人学生の割合は 63%に達する. 事実がこのようなのに まだ日本の右翼勢力と国内の親日御用学者たちは日帝の殖民統治時期に教育の近代化が成り立ったと呼吸するように嘘を吐き出している. 

 

 

いざ日本人たちより先立って西洋の宣教師たちと朝鮮の啓蒙活動家たちが教育活動にもっと力をつくしていたし, 宣教師たちが設立した女学校を調査しても ソウルに精神(貞信:1887) ・排貨(培花:98) ・所命(進明:1906) ・宿命(淑明:1906) 女学校が設立されたし, 平壌に正義(正義:1894) ・スングの(崇義:1903), 東莱に一身(日新:1895), 仁川に映画(永化:1897), 原産にルシ(樓氏:1903) ・真性(進誠:1904), 木浦に正明(貞明:1903), 個性にホスドン(好寿敦:1904), 先天(宣川)にポソン(保聖:1906), 光州にスピア(須皮亜:1907), 大邱に上機嫌(信明:1907), 前週に記伝(記全:1907) , 1908年 4月には官立漢城高等女学校が設立された.

 

これは朝鮮を植民地にした日本政府が朝鮮人教育に対する意志が全然なかったということを反証させる研究結果であることだ. 

 

 

出処; 銀杏 纂「開発ない開発; 日帝治下朝鮮経済開発の現象と本質」(2005年 版)

解説; ホ数列(許粹烈) 忠南大学校経済貿易学部教授

 


일제치하식민통치적경제개발론(日帝治下植民統治的經濟開發論)의 허구와 모순

 

일제치하식민통치적경제개발론(日帝治下植民統治的經濟開發論)이란 일본 제국주의 세력이 조선을 식민지로 지배하면서 조선의 경제개발에 큰 영향을 끼쳤다는 주장이다. 즉 자력으로 근대화를 이룰 수 없던 조선이 일본 제국주의 세력의 식민통치 덕택에 농업, 공업, 근대적 교육, 국민소득 등에서 엄청난 발전을 이루었고, 이는 곧 1960년대~1970년대 한국의 경제성장에도 기틀이 되었다는 이론으로 일본 제국주의 세력의 조선 강점과 식민통치를 정당화하는 논리가 깔려 있다. 이러한 주장은 처음에 일본 군국주의 시대의 식민지 정책과 침략 전쟁을 미화하고 역사를 왜곡하는 일본의 국수주의적인 정치인이나 교육자들이 간판으로 삼은 이론이었으나 최근에는 국내의 일부 친일적 지식인들이 학술대회 등을 통해 식민지적경제개발론(植民地的經濟開發論)을 발표하여 논란을 일으키기도 하였다.

 

비록 역사적 진리가 상대적인 것이라고 해도, 태평양전쟁(太平洋戰爭)의 주체인 일본 군국주의 세력의 패망을 이끌어 낸 에놀라게이의 승무원이 "나는 일본 민간인이 아니라 사무라이를 상대로 싸웠다."라고 주장한 호소가 수많은 인명을 살상한 히로시마, 나가사키에 대한 원폭투하를 정당화시켜 주는 것이 아니듯이 꽃다운 나이에 군복을 입고 조국 일본의 영토확장을 위해 전쟁터로 나가 목숨을 버린 수많은 일본 청년들에 대한 추모가 일본 군국주의 시대의 식민지 정책과 침략 전쟁을 정당화해주지는 않을 것이다. 마찬가지로 아무리 "근대화"나 "개발"과 같은 온갖 미사여구(美辭麗句)로 수식한다고 해도, 자국의 이익을 위해 함부로 약소국을 침략하여 짓밟는 제국주의 역시 용인될 수 없는 것이다.

 

근대 제국주의 열강의 약소국 침략을 긍정적인 역사관으로 평가하는 사람들이 내세우는 가장 대표적 주장의 하나인 "개발(開發)"이라는 것은 사실 당시 식민지 지배를 받던 민족에게는 매우 무의미한 것이었다. 일제의 식민통치를 받은 조선에서 개발이라는 것이 일정한 의미를 가지려면 그것이 한국인의 개발로 이어져야 하지만, 민족별로 극단적으로 불평등한 생산수단의 소유관계와 그에 따른 분배의 불평등, 또 거기에서 파생하는 차별 등으로 인해 식민지체제가 지속되는 한 한국인들에게 진정한 의미의 개발은 있을 수 없었다. 또 일본의 식민지 지배가 끝났을 때, 일제강점기를 통해 이루어졌던 놀라운 개발이 마치 신기루처럼 사라져 버리고 해방 후 한국 경제는 다시 일제의 식민통치 직전의 상태로 되돌아가 버렸으며, 식민지 시기에 이루어졌던 개발의 유산이 해방 후 한국의 공업화 과정에서 매우 제한적인 역할밖에 하지 못하였다. 자국의 이익을 관철시키기 위해 이웃 나라의 자유의지를 짓밟는 제국주의적 침략은 야만화, 반(反)문명화의 과정이었던 것이다.

 

● 식민지 공업개발의 진실

 

일제(日帝)의 조선 식민통치 기구인 조선총독부(朝鮮總督府)가 1910년(단기 4243년) 12월에 발표한 회사령(會社令)의 내용을 일부만 살펴보면 다음과 같다.

 

제1조에는 한국인이 회사를 설립하려면 반드시 조선 총독의 허가를 받아야 하며, 제2조에는 국외에서 설립한 한국인의 회사가 조선내에 본점이나 지점을 둘 때에도 반드시 조선 총독의 허가를 받아야 한다는 내용이 있고, 제4조에는 위 조건을 위반할 때, 그리고 "선량한 풍습"을 위반할 때에는 사업을 정지, 금지할 수 있고 회사를 폐쇄, 방출할 수 있다고 되어 있다. 또 제12조에는 제1조의 허가를 받지 않고 회사설립 행위를 한 자는 5년 이하의 징역 또는 금고, 5천원 이하의 벌금에 처하고, 부실신고를 하여 허가받은 자도 같은 처벌을 받을 수 있도록 규정하였다.   

 

하지만 일본 본토의 경우와는 달리, 총독부는 일본인이 조선내에 기업을 만들려고 할 경우에는 무조건 허가해 주었다.

 

식민지 조선에서는 조선총독부가 회사를 적극적으로 설립하기는커녕, 오히려 총독부에 신고하고 허가를 받아야만 회사를 설립할 수 있도록 하는 억제책을 썼다. 

 

외국 기업도 조선에 마음대로 들어올 수 없었고 총독부의 허가를 받아야만 지부를 세울 수가 있어 자유로운 무역 활동이 억제되었다. 또 총독부의 허가를 받지 않고 설립된 회사는 회사 창업주를 감옥에 가두고 벌금을 물리는 처벌을 가해 기업 활동을 진행하지 못하도록 했다.

 

일본 제국주의는 조선내에서 자본의 자유로운 이동과 회사설립을 통한 자본주의의 기틀을 닦는 과정을 억압했던 것이다.

 

이를 정리하면, 조선총독부의 회사령 공포는 조선에서 회사가 설립되어 발전되는 것을 억압했고 결과적으로 조선에서 자본주의가 성장하는 길목을 막았던 것이다.

 

이후 1920년에 회사령이 철폐되기는 하지만, 이때 성장이 가로막힌 조선의 자본주의는 이후로도 제대로 발전하지 못한다(일본인들이 시장을 장악하기 위해 한국인의 회사설립을 방해했던 것이다.). 이런 조치를 취한 일본 제국주의 세력이 조선을 식민통치하면서 자본주의 발전을 도왔다는 일본 극우파의 주장은 설득력이 없는 것이다.

 

회사령이 철폐된 뒤인 서기 1928년 조선총독부의 통계에 나온 경성(서울)시내 토막민(식민지 시기에 생겨난 도시 빈민)의 직업 분포율을 살펴보자.

 

토막민(서울의 빈민) 1143명의 직업 분포율

 

44.6%(510명): 무직(無職)

31.6%(361명): 날품팔이

8%(91명): 지게꾼

(28명): 상점고용인

(25명): 인력거꾼

(20명): 석공

(15명): 공장 직공

(15명): 과일 행상

 

빈민의 44.6%가 일자리가 없는 상태에 처해 있다. 생업을 하는 사람도 날품팔이, 인력거꾼, 과일 행상 등 대부분 공업생산에 별다른 도움이 되지 않는 일을 하고 있다. 이것은 조선총독부가 조선의 빈민들에 대한 사회복지를 아예 하지 않고 있다는 증거이다. 만약 총독부가 식민지 조선에 자본주의적 발달이 이루어질 수 있도록 적극적인 정책을 펼쳤다면 조선의 빈민들을 공장 노동자로 충분히 흡수했어야 했다.

 

1930년대에도 상황은 크게 다르지 않았다. 아래는 토막민에 대한 1931년의 통계이다.

 

토막민 1536명의 직업 분포율

 

30.1%(462명): 날품팔이

10.7%(164명): 지게꾼

17.6%(270명): 기타

 

조선의 공업화가 이루어졌다는 1931년에도 대부분의 빈민들은 공장 노동자로 일하지 못했고, 수입이 부적절한 생업에만 매달릴 수밖에 없는 환경이었다. 일본의 자본주의는 농토에서 쫓겨난 식민지 조선의 빈민들을 노동자로 끌어들일 만큼 발전하지도 못했고, 조선에 전반적인 공업화를 불러 일으키지도 못했다. 한마디로 한국인들이 공장 노동자로 취업할 수 있는 길은 상당히 좁았던 것이다. 이런 상황에서 조선이 일본 자본의 영향으로 공업화를 이룰 수 있었다는 일본 극우파의 주장은 설득력이 없다. 

 

심지어 태평양전쟁(太平洋戰爭)이 일어나서 군수공업이 활발하게 진행되던 때인 1942년에도 조선 빈민들이 종사한 직종 가운데 제일 높인 비율을 차지한 것이 인부(人夫)였다. 만약 일본 극우파의 주장대로 일제의 식민통치가 조선의 공업화를 앞당겼다면(비록 군수공업일지라도), 공장 노동자의 비율이 높아지고 다른 직종의 비율은 상대적으로 낮았어야 한다. 그러나 그 반대로 공장노동자의 비율은 낮고 날품팔이 혹은 인부의 비율만 높았다는 사실은 일제의 식민통치가 끝나는 날까지 일본은 조선에 참된 공업화를 불러 일으키지도 못했고 따라서 일본에 의해 조선의 공업화가 이루어졌다는 주장은 그다지 설득력이 없음을 보여주는 것이다.

 

만주사변(滿洲事變)과 중일전쟁(中日戰爭) 때에 조선에 많은 공장이 들어섰지만, 조선의 노동력 대부분이 전쟁 기간에만 동원되었고, 해방 이후에는 공장 노동자로 일하지 못하고 돌아와서 그대로 농민이나 실업자가 되었다. 결국 일제의 식민통치 때문에 농촌에서 강제로 쫓겨났던 조선의 노동력은 해방과 함께 거의 대부분 다시 제자리로 돌아간 것이다. "원점"으로 되돌아간 셈이다. 

 

전쟁 기간에 진행된 군수공업이나 강제 징용도 조선의 자본주의 성립에 도움을 주거나 간접적인 바탕이 되지는 못했다.

 

1944년에 조선에서 생산되는 선철(銑鐵)의 89.4%가 일본으로 반출된 것에서 알 수 있듯이 생산품의 대부분이 군수공업의 원료로서 일본으로 반출되어 조선 자체의 민수용 중화학공업의 발전으로 연결될 수 없었다. 이런 상황에서 중공업이 발전되기를 바라는 것 자체가 무리였다. 공장의 대부분은 북한 지역에 집중되어 있었고, 그것조차도 6·25남북전쟁(六二五南北戰爭)으로 대부분 파괴되었다. 따라서 한국의 공업화에는 일제강점기에 남겨졌던 공장들이 별 도움이 안 되었으며, 특히 남한은 무(無)에서 공업화를 다시 시작해야 했다.

 

만약 일제(日帝)가 한반도에 남기고 떠난 공장 때문에 근대적 공업화가 가능했다면, 어째서 일제가 세운 공장이 상대적으로 많았던 북한이 지금은 남한보다 더 경제가 낙후되고 주변국의 원조가 없이는 버티지도 못할 정도가 되었는지 논리적으로 설명해야 한다.

 

게다가 식민지 시기에 전쟁을 수행하려고 만든 공장에서 기계를 돌리던 대부분의 기술자들은 거의 일본인들이었고, 한국인이 공업기술에 접근할 기회는 극히 예외적이었다. 이 결과로 전후(戰後) 일본인 경영자와 기술자가 본토로 철수한 이후에 남겨졌던 공장은 거의 모두 조업이 정지되어 버릴 정도였다. 따라서 일본인들이 아무리 공장을 많이 세우고 기계를 돌렸다고 해도, 그것이 한국인 기술자나 숙련공을 길러내지는 못했으며 공업을 발전시키려고 해도 민족적 차별 때문에 기술을 제대로 배우지 못하고 단순 노동만을 할 수 있는 노동자만 있는 상황에서는 어려운 일이었다. 

 

일본의 식민지 지배 공업정책은 공업화를 불러올 만큼 크게 발달하지는 못했고, 공업화에 도움이 되는 기술자를 길러내지도 못했다. 일본 제국주의 세력의 식민지 조선 공업화는 패전과 더불어 모든 것이 원점으로 돌아갈 정도로 허약한 것이었다. 

 

● 식민지 농업발전의 진실

 

과연 조선총독부는 조선의 농업 근대화를 이룩했을까?

 

조선 병탄 이후 일제(日帝)가 추진한 정책 가운데 하나는 토지조사사업(土地調査事業)을 통해 총독부에 신고하지 않은 토지를 몰수하고 일본의 농민을 이주시켜서 지주로 만든 뒤 한국인으로부터 소작료를 받게 한 지주제를 확립한 일이었다. 토지 소유가 지주와 소작농이라는 봉건적인 관계를 벗어나 오늘날의 농촌처럼 지주에게 매이지 않고 농민들이 마음대로 농토를 사고 팔 수 있으며 이사를 하고 싶으면 마음대로 옮겨갈 수 있고 자기 땅을 가지고 자기 마음대로 농사를 지을 수 있는 상황을 농촌 근대화라고 규정짓는다면, 총독부는 농촌을 근대화하기는커녕 오히려 봉건적인 토지 소유를 더욱 강하게 굳힌 셈이다.

 

게다가 총독부는 농민들이 지주제에 반항하거나 불만을 털어놓는 일까지도 헌병경찰제(憲兵警察制)를 통해 강하게 탄압했다. 반(半)봉건적인 제도에 대한 인민의 저항이나 불만 제기를 "권력"인 총독부가 억누르고 그 제도를 부수지 못하게 막았다는 사실은 총독부가 "근대화"로 가는 과정을 억눌렀다는 사실을 말해주며 결과적으로(사실은 의도적으로) 총독부는 조선의 농촌과 농민들이 농업 근대화로 가는 길을 가로막은 것이다.

 

만약 일제(日帝)가 조선의 농촌을 근대화시키려고 했다면, 해방 이후 이루어진 토지개혁이나 지주제 타파로 봉건적인 토지소유제를 강제로 무너뜨리고 농민들의 생활을 향상시켰어야 했다. 하지만 그와는 반대로 조선의 농민들이 자치를 하거나 자작농이 되는 것을 막고, 대부분의 농민을 소작농으로 삼아 일본인 지주에게 일방적으로 종속되게 만들어 소작쟁의(小作爭議)를 허락하지 않은 총독부의 조치를 농업 근대화라고 평가하기는 힘들다.

 

농촌에서 생활하는 농민들은 과연 자본주의에 도움을 줄 만한 존재였는가? 답변은 부정적이다. 농민들은 지주에게 소작료를 바쳐야 했는데, 자본주의 경제에서의 중요한 매개체인 "돈"이 아니라 곡식이라는 "현물(現物)이었고 그것도 수확량의 50%를 넘었다. 농민들에게 남는 것이 거의 없었다. 소작료를 낼 때 돈이 아니라 곡식이라는 현물로 내야 했던 자체가 자본주의적이지 않거니와, 잉여 생산량의 대부분을 소작료로 바치고 남는 것이 소비활동에 쓰거나 다른 일에 투자할 것이 거의 없어서 소비자가 될 수 없었던 농민들이 자본주의 경제에 기여한다는 것은 불가능했다.

 

인신구속관계도 근대적이지 못했다. 지주와 소작농이라는 관계 자체가 봉건주의적이었다. 또 지주는 마치 중세 서유럽에서 영주가 "중요한 노동력"인 농노를 단속했듯이 농민들이 지주에게 진 빛을 반드시 갚도록 소작농을 "5인조 제도"로 묶어 서로 감시하도록 하고 소작농이 "도당을 만들고" "불온한 언동을 하지 못하도록" 감시했다.  소작농은 마음대로 이사하지도 못했고 다른 사람들이 들어오는 일도 엄금했다. 이것이 중세 서유럽의 농노제도와 다를 것이 무엇인가? 이것이 "근대적인 토지소유제"라고 말할 수 있는가?

 

또 소작농은 지주에게 완전히 매여 있었다. 비료를 사거나, 씨앗을 사거나, 농기구를 사거나, 농사에 쓸 소를 빌리는 데에도 지주에게 기대야 했고, 이는 농노(農奴)와 크게 다를 바가 없었다. 일제강점기의 지주제도는 조선 농업을 몰락시키고 근대적인 토지소유제가 나타날 길을 막아버리는 결과를 불러왔다.

 

서기 1916년에는 자작농 비율이 20.1%, 자소작농(자작농이면서 소작농)이 40.6%, 소작농이 36.8%, 지주가 2.5% 였다. 소작농 비율이 36.8%인 데 비해 자작농과 자소작농을 합친 비율이 60.7%나 되어 농촌중간층이 그만큼 많았음을 알 수 있게 한다.

 

그러나 이보다 16년 뒤인 서기 1932년에는 자작농 비율이 16.7%, 자소작농이 26%, 소작농이 54.2%, 지주가 3.7%로 변했다. 자작농과 자소작농을 합친 비율이 60.7%에서 42.7%로 감소한 데 비해 소작농이 36.8%에서 54.2%로 크게 증가하고,지주도 2.5%에서 3.7%로 크게 증가했음을 알 수 있다.

 

과연 무엇이 농업의 근대화인가?

 

식민통치와 교육에서의 민족차별

 

먼저 조선총독부 세출 내용을 보자. 1936년~40년간 총독부가 학교, 도서관 운영비로 지출한 예산의 백분비를 따져 보면 평균 4% 미만임을 알 수 있다. 이 액수는 경무비(10.3%)나 통신시설비(22.9%) 등을 훨씬 밑도는 수치다. 1910년대 한국인 아동의 취학률은 4%를 넘지 못했고 조선에 거주하는 일본인 아동의 취학률은 90%이상이나 된다. 1943년에 이르러 아동 취학률 63%에 도달하였지만, 끝내 의무교육제도는 실행되지 않았다. 1930년~45년간 한국인 문자해독 가능자 23.3%로서 문맹률이 78%에 이르렀는데, 특히 여성 문맹률이 92%에 이르렀다, 이는 당시 조선에 거주하는 일본인 문맹률 26%와 비교되는 통계수치였다.

 

일제(日帝)는 일본인을 우대하고 한국인을 하대하는 이중적인 민족차별 교육제도를 실시하였다. 조선에 거주하는 일본인에게 본토와 동일한 교육 기회를 제공한 반면, 한국인에 대해서는 3·1반일시위운동(三一反日示威運動) 이전까지 그와 다른 교육제를 적용했다.

 

일제강점기 한국인과 일본인의 보통학교 취학률을 살펴보면, 1919년 한국인의 보통학교 취학률은 3.7%에 그친 반면 일본인은 91.5%에 달했다. 1936년에도 한국인 아동의 취학률은 25%에 불과했다. 전문학교 취학률은 한국인이 6313명, 일본인이 4674명이었다. 식민지 조선의 유일한 대학교였던 경성제국대학(京城帝國大學)의 한국인 재학생은 206명, 일본인은 350명이었다. 여기서 참고할 점은 당시 조선에 거주한 일본인의 비율은 전 한국인구의 2.9%에 불과했다는 사실이다. 그러나 경성제국대학 일본인 학생 비율은 63%에 달한다. 사실이 이러한데 아직도 일본의 우익세력과 국내의 친일 어용학자들은 일제의 식민통치 시기에 교육의 근대화가 이루어졌다고 숨쉬듯이 거짓말을 토해내고 있다. 

 

정작 일본인들보다 앞서 서양의 선교사들과 조선의 계몽운동가들이 교육 활동에 더욱 힘쓰고 있었으며, 선교사들이 설립한 여학교를 조사해도 서울에 정신(貞信:1887) ·배화(培花:98) ·진명(進明:1906) ·숙명(淑明:1906) 여학교가 설립되었고, 평양에 정의(正義:1894) ·숭의(崇義:1903), 동래에 일신(日新:1895), 인천에 영화(永化:1897), 원산에 루씨(樓氏:1903) ·진성(進誠:1904), 목포에 정명(貞明:1903), 개성에 호수돈(好壽敦:1904), 선천(宣川)에 보성(保聖:1906), 광주에 수피아(須皮亞:1907), 대구에 신명(信明:1907), 전주에 기전(記全:1907) , 1908년 4월에는 관립 한성고등여학교가 설립되었다.

 

이것은 조선을 식민지로 삼은 일본 당국이 한국인 교육에 대한 의지가 전혀 없었다는 것을 반증시키는 연구결과인 것이다. 

 

출처; 은행나무 纂「개발 없는 개발; 일제치하 조선 경제개발의 현상과 본질」(2005년 版)

해설; 허수열(許粹烈) 충남대학교 경제무역학부 교수

 



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