伝統文化

 

642年高句麗の平壌城にはクーデターが起きた. 朝廷の大臣と貴族たち 1百名余が悽惨に犠牲されたしヤングリュテワング(栄留太王) も死にあう. そのクーデターの主役はヨンゲソムン(淵蓋蘇文)だった.

 

高句麗末期の 642年クーデタを通じて権力を取った後 665年世を去るまで 23年間ヨンゲソムンは高句麗の最高の権力者だった. しかしヨンゲソムンに対する記録はほとんど残っているのがない. 中国側の記録と三国史記のミョッズルにならない記録が全部だ. 三国史記(三国史記)によれば ¥”ヨンゲソムンは凶暴で武道した人物だ. ヨンゲソムンが全国を号令して国仕を自分勝手にするのに言葉に上り下りする度にいつも貴族や武将たちを地に伏せるようにして足場をした¥”は記録が見えるのに, こんな記録で見て彼がすごく無慈悲な独裁者だったという話で受け入れられて長い間ヨンゲソムンはそのように認識されて来た. そうしたことが 1920年代朴殷植(朴殷植), シン・チェホ(申采浩) などによって全然違った主張が申し立てられた. シン・チェホは ¥”韓民族(韓民族) 4千年歴史で第一に指折ることができる英雄¥”とヨンゲソムンをほめたてた.

 

人物に対する評価は時代によって見る視覚によって常に変わって来たがヨンゲソムンのようにこんなに極端的な二つの評価を受ける場合は珍しい. 果してヨンゲソムン(淵蓋蘇文)はどんな人物だったろうか?

 

北京市内に位置した京劇専門公演場. 青黛(清代)からゾンヘネリョオン京劇(京劇)はその長年の歴史程中国人たちの情緒をよく反映している. 今も中国全域で公演されている京劇, その中一番人気ある公演はすぐヨンゲソムンが登場する京劇だった. しかし今中国のどの公演場でもヨンゲソムンの登場する京劇は見られない. 京劇にはどうしてヨンゲソムンが登場したのか. そして公演が中止された理由は何だろう. 中国の一京劇俳優は ¥”当時北朝鮮はヨンゲソムンを高句麗の歴史的リーダーとして偉い英雄豪傑で思ったが中国の京劇で彼は反逆自適な人物に描かれた. これは北朝鮮に対する一種の侮辱と尊重しない態度で照らされた. それでこの京劇公演を北朝鮮の要請で禁止させた.¥”と言った.

 

 

それならヨンゲソムンはいつからどんな姿で京劇の中に登場したことだろう?

 

ソング(宋), 円(元), 名線(明代)にスィになった戯曲集め, 唐長寿ソルイングィ(薛仁貴)が皇帝である太宗(太宗) 二世民(李世民)を護衛して退却する姿が描かれていて彼らを向けて刀を持ち上げてしまう沒我追撃して来る賊将がすぐ高句麗のヨンゲソムン(淵蓋蘇文)だ. 唐と高句麗の間の戦争を背景でヨンゲソムンとソルイングィの間の先日をドラマチックに描いておいている. 中国の郷土史学者チチォングプは ¥”ヨンゲソムンの戦術に巻きこまれて危機に落ち込んだ太宗皇帝を雪男帰宅現われて高句麗軍を退けて救出するという内容なのに, ヨンゲソムンがすごく猛猛しくて知略がすぐれた人物に描写されている.¥”と説明した.

 

戯曲でヨンゲソムン(淵蓋蘇文)とソルイングィ(薛仁貴) の間の対決結果はヨンゲソムンの敗北で描かれる. しかしマックリジビドデゾン(莫離支飛刀大戦)という題目でも分かるようにマックリだヨンゲソムンの刀を非道(飛刀), すなわち飛ぶ刀で描くほどにヨンゲソムンをすぐれた長水路描いている. ヨンゲソムンは中国各地で伝えて下る地方戯曲に抜けないで登場する. このような地方戯曲が発展したのが京劇(京劇). 公演が禁止された京劇の中のヨンゲソムンはどんな姿だろう?

 

京劇の衣装と扮装は変わらない原則を持っている. 衣装と扮装を通じて登場人物の性格を表現する観客との約束だからだ. 舞台衣装を研究するシンギョングソブ先生は長い間中国京劇の中のヨンゲソムンを研究した.

 

これが京劇の中に登場するヨンゲソムンの姿だ. ヨンゲソムンがよく使う武器に表現される非道(飛刀)は猛猛しい長寿なのを現わして, などにただ旗模様の肉(高其)は異民族(異民族)であることを象徴する. そしてチォングリョングポは左青竜右白虎から取ったことで中国の左側, すなわち高句麗(高句麗)を象徴してひげに使った赤い光は血, 殺気(殺気)を現わして青い光の顔化粧は威厳はあるが残忍で悪辣で荒しい性格を象徴する. ヨンゲソムンを荒しくて残忍で悪辣な人物に描きながら猛猛しくてすぐれた長水路表現したのだ. 7世紀ヨンゲソムンが中国人たちにいくら恐ろしいゾンゼヨッナを悟るようにしてくれる断面に違いない.

 

ヨンゲソムンが登場する京劇, サルサムン. 争う時神妙に近い武術を広げるヨンゲソムンを勝つ唐長寿ソルイングィ. 長い間中国で一番人気ある京劇だった.

 

日本には中国の京劇に劣らない伝統劇歌舞伎がある. その歌舞伎には私たちがあまりよく分かる壬辰の乱(壬辰倭乱) 時の戦争英雄金市民(金時敏) 将軍が登場する. わずか 3800人余りの軍事で日本の 2万大軍を退けた 1592年 10月, 第1次晋州城戦闘. その戦闘を勝利に導いた人物が金市民将軍だ. そうしたら壬辰の乱を通じて日本陸軍が一番恥辱的に思う敗北が第1次晋州城戦闘でその勝利の主役である金市民将軍は恐ろしい存在であるしかない. そのためか日本歌舞伎ではむしろ金市民を馬鹿でこっけいな人物に描いている. それならヨンゲソムンが中国京劇に登場する理由をジムザックハルだけもする.

 

ヨンゲソムンが暮した西紀 640年頃, 当時高句麗と代置していた中国の統一王朝は党(唐)だった. この時高句麗の実権者はヨンゲソムンだったし唐の国王は中国歴史上一番立派な君主に指折り数えられる太宗(太宗) 二世民(李世民)だった. このヨンゲソムンと太宗の間に一帯決戦が起る. これがちょうど 645年から始まった唐と高句麗の間の戦争だ.

 

唐の首都だった中国島書聖(陜西省)の書案の時(西安市). 市内メイン・ストリートに入って行けば巨大な性, 長安性(長安城)に会う. 長安性北門には毎週公演が開かれる. 唐の派手だった過去を再演しているのだ. 中国歴史上一番派手で強大だった時期中の一つがすぐ唐慌(唐皇) 太宗(太宗) 集権期だ. 彼が集権した時期を定款(貞観)入れ歯(治)ラしてその時代を記録した貞観政要(貞観政要)が今日まで膾炙されるほどに太平聖代を成した時期だ.

 

こんなに対内的に豊饒と安定を享受した時代, 唐慌(唐皇) 太宗(太宗)は国外でも力を伸びて行った. 党は周辺にあった同突厥(東突厥), 吐蕃(吐蕃) 西突厥(腺厥) コチャン国(高昌国)を順に屈服させた. 642年党(唐)に屈服しない国は高句麗(高句麗)だけだった. 644年, 唐皇帝太宗はいよいよ高句麗の内政に干渉し始めた. 当時新羅との仲直りをはかった太宗は住んだ現場を行かせてこれ以上新羅を苦しめれば高句麗を攻撃すると脅かす. しかしこれに対するヨンゲソムンの立場(入場)は強硬だった. そしてとうとうヨンゲソムンは唐使臣を監獄に閉じこめてしまう. 結局太宗は高句麗侵略を断行, 644年 12月唐依遠征軍が領主(英州), 今の朝陽地域に集結するようになる. 当時党の選択した戦略は水陸両面作戦だった.

 

645年 3月いよいよ唐軍事たちは高句麗に向けて出征を開始する. 唐陸軍は高句麗の神聖を陷落させるのに失敗すると開毛性, 遼東城, 白岩性を始じめ, 高句麗の 10個性を奪って軍糧米 60万石を確保する戦果をあげる. そして出征 3ヶ月ぶりにANSI性に到着する. 太宗の実家君(親征軍)を含んだ唐軍は故研修(高延寿) などが導く高句麗支援軍を退けてANSI性に対する総攻撃を敢行するが城主梁マンチュン(楊万春)をはじめとしたANSI性(安市城)の守備軍は 60日余りの間のしつこい抗戦あげく唐軍の攻勢を撃退させる. この戦闘の敗北で唐軍事は急いで退却するようになる.

 

 

堂の侵略軍がANSI性攻撃の失敗で易しく崩れた理由に対して軍事専門家たちは高句麗軍が唐軍に奪われた遼東城と開毛性及び秘史性を再奪還して唐軍の補給路を遮断した結果だと診断する. このような主張に対する根拠はまさに唐軍が選択した退却路にある. 当時唐軍は沼地が多い腰下河口方へ退却するのに, 敢えてこの腰下重傷類側の易しい道を置いて難しい道を選んだのだ. 唐依軍隊が退却したという腰下下流は今も悲歌来ると易しく水があふれる所だ. 今のように堤防がなかった当時, 腰下下流は全体が沼地だった. 自治痛感(資治通鑑)には太宗が直接草を切って道を補って車で足を作って退却したと記録している. 国王が直接出て道を作らなければならないほどに手に負えなかった退却路, これは当時の戦争状況がどうだったのかを言ってくれる. その後に隠れた高句麗の軍事統帥権者ヨンゲソムンの戦略は何だったろうか?

 

高句麗には町角ごとに積んでおいた山城がある. 酸性を利用して唐依補給路を徹底的に遮断する清夜戦術だった. 中国との頻繁な戦争で悟った高句麗の典型的な戦略だった. 神聖, 白岩性, ANSI性など搖れ地域を向けて一列で竝んでいる高句麗の搖れ防禦陣. そして秘史性から海岸に沿って鴨緑江河口までのぼる海洋防禦陣. 高句麗国境に沿って堅固に竝んでいる搖れ防禦陣と海洋防禦陣は高句麗の清夜戦術ができるようにした. 高句麗のこのような徹底的な補給路遮断戦略に対応した唐の戦略は水軍を活用するのだった. 山東半島のドングズジヨックには唐依水軍基地があった. 当時党が水軍に対していくら気を使ったのか分かる記録がある. 水軍の主な任務は陸軍に軍糧と各種物資を普及する事だった. その規模がどの位だったろうか? 正確にわからないが唐展示期のスナラの伝えることを通じてその規模を見当をつけることができる. 陸軍と同時に敵陣に向けた水軍は 4万3千. 彼らの計画は高句麗最南端の島である秘史性を攻撃した後直ちに平壌城で行くことだった.

 

堂の水軍は予定通り秘史性を落ちた. そして鴨緑江上り口に向けた. しかしその後党水軍に対する記録はどこにもない. 秘史性を落ちた唐水軍はどうなったのか? もし唐水軍が搖れ組も南側でもじもじしたことは高句麗水軍の反撃のためではなかっただろうか? 高句麗水軍が唐水軍を效果的に防御したということを知らせてくれる手がかりがある. 当時党は搖れ半島に行く町角に多くの水軍基地を作った. その中一つが五胡も. 中国から搖れ半島に行く町角に竝んでいる島々の中で1ヶ所だ. 五胡島は地政学的位置のため今も中国の重要な軍事基地に活用されている. 中国側記録によれば中国の軍事基地である五胡島を煮こむね軍事 1万名余が襲ったと言う.実際高句麗水軍が活動したということを知らせてくれる記録だ. そうであるかと思えば戦争直後唐皇帝太宗は前科に責任を問って張良を含めた水軍責任者たちを懲罰する. 高句麗水軍に対立して唐水軍が自らの役割ができなかったから起った事件だ.

 

当時の状況を総合して見れば高句麗水軍の防衛戦に支えた唐水軍は彼らの主要任務だった軍糧普及をすることができない. この時高句麗陸軍が下ってその間唐軍事たちが確保した軍糧 60万石さえもとの通りに取り戻す. ANSI性攻撃が思った通りにならないで軍糧米さえ奪われた太宗の唐軍主力部隊は孤立するしかなかった. 太宗が導く唐軍事が難しく腰下河口を渡って到着した所が万里長城はしっこにある林留官. 記録によれば太宗は退却以後初めてこちらで服を着替えたと言う. あれほど時間に追われる退却だった. 外史(野史)によれば太宗はANSI性城主梁マンチュンの矢にそう一方目を失ったと言うのに, その事実を確認して見る方法はないが実際記録によれば 645年以後太宗は各種病気に苦しむ. これは唐軍事たちが高句麗軍との戦争で徹底的に敗れた状況をとても象徴的に言い表す記録だ. 結局高句麗との戦争で敗れた太宗はそれから 4年後に死ぬ.

 

中国歴史上最高の帝王で指折り数えられる唐の太宗がこんなに惨めな敗北に喫したから京劇でヨンゲソムンを恐ろしくて暴悪な人物でグリルだけもする. しかし高句麗立場(入場)で見たらヨンゲソムンは危なげだった時期に国を求めたすぐれた戦略家です, 救国の英雄であるわけだ. ところで三国史記には ¥”ゲソムンは王を弑害した後その身をミョッドマックで切って小川の中に捨てた¥”と記録してヨンゲソムンを残忍な人物に描いている. また ¥”身に五つや刀をさしているから左右人々が敢えて眺めることができなかった.¥”と言って彼を暴悪な性格で描いている. しかし唐人々が高句麗風俗に対して使った ¥”翰園(韓原)¥”という本には ¥”高句麗の一般男たちは誰も身に刀五つ袋と砥石を蹴って通った¥”と記録している. だからだからヨンゲソムンが刀五つ袋が冷たくて通ったのは特別に暴悪な性格のためではなく高句麗の一般的な風習だったようだ.

 

ヨンゲソムンを暴悪な人物に描いた三国史記の記録が何か釈然としないのに, なおかつ疑わしいのはヨンゲソムンに対する記録がクーデタを起こした時点で集中されていて, そうしたらヨンゲソムンは国王を殺して権力を奪った独裁者に描いているという点だ. 実際ヨンゲソムンがクーデタを起こした過程はどうだったしその理由は何だったろうか?

 

中国遼寧省装荷県の石聖. その酸性てっぺんにある望桜はヨンゲソムンの妹さんが守っていたという伝説が伝われている. 性案内員は妹さんがいた樓閣すぐ向こう側にヨンゲソムンがあったと言う. 実際ヨンゲソムンが積んだのかそしてヨンゲソムンに妹さんがいたかはわからない. しかし明らかなのはヨンゲソムン家は代代に武将(武将)家だった. クーデタを起こす当時ヨンゲソムンは国家の軍事指揮圏を牛耳った代代ロジッグにあった. 電線の動きを誰よりも正確に把握していたはずだ.

 

高句麗は上では党, 下では新羅と緊張関係にあった. 高句麗としては力強い統一帝国党が問題だった. このような状況で高句麗の対(対) 唐政策には二つの気流が現われる. スナラとの戦争でたとえ勝ったが高句麗の国力も非常に多く疲弊されたから外交的な柔和策で平和を謳歌しようという勢力が一つあったしもう一つはスナラとの戦争で勝ったが唐だと勝つことができないのが何があるのか... 私たちが唐に弱腰外交をする必要ないという強い自尊的な立場を現わすそんな気流があった. 唐の太宗は徐徐に高句麗に圧力を加えて来始めた. 631年には高句麗の自負心である景観を崩しなさいと言う. 景観はスナラとの戦争勝利を記念するために立てた塔だ. そうであるかと思えば 641年には濃い大徳を使臣で派遣する. 濃い大徳は唐が行かせた諜者だった. 高句麗の地形と山河を偵察して行く. 党は高句麗を打つ機会を狙っていたのだ.

 

しかし当時ヤングリュテワング(栄留太王)が選択した台当り政策(対唐政策)は柔和策だった. 高句麗の指導である封域島を唐に行かせて唐依要求どおり景観を壊してしまってそしてとうとう王世子まで党に行かせて朝貢をする. ヨンゲソムンの立場(入場)では唐の属国を自任する行為だった. 光ヶ土豪太王(広開土好太王) フンゾックビ(勳積碑)と牟頭婁墓地碑文(牟頭婁墓誌碑文)を見れば当時高句麗人たちが自分を天孫(天孫)と思った位に強い自尊心があった. そしてそこに付け加えてわずか何十年前には統一帝国であるスナラとの戦争に勝利したし結局スナラを滅亡させた強い自負心があるのに正しくそんな自負心を代表すると見られるヨンゲソムンの立場(入場)ではヤングリュテワングとその周辺の大臣たちが酔う唐に対する弱腰外交に強い不満を抱いていたはずだ.

 

 

すぐ近頃ヨンゲソムンはクーデターを起こす. 三国史記記録だけ持ってみたらヨンゲソムンは個人的恨みによって明らかな名分なしに革命を起こしたことで見られるところがヨンゲソムンが以後に広げた政策を見れば単純な個人的な恨みではなく特に党との関係で穏健な政策を広げるのか壮健な政策を広げるのかそういう立場違いによって革命を起こしたことで見られる. ヨンゲソムンの立場(入場)では確かに高句麗に攻め寄せると信じたし高句麗が糖菓争う道だけが国をいかす道と信じたはずだ. だからヤングリュテワングはスナラとの戦争で国力消耗が大きかったと判断した. それで党に対して柔和策を使って平和を維持したかったのだ. しかしヨンゲソムンの考えは違った. 唐がいつかは高句麗を侵略して来るはずでそういう状況で柔和策を使うことは彌縫策であるだけだと思ったのだ. ヨンゲソムンがクーデタを起こしたのは正しくこんな理由のためだ. 当時ヨンゲソムンは台当り強硬論者だったことだ.

 

シン・チェホ(申采浩) 先生はヨンゲソムンに対して特別な関心を持って研究をした. しかし残っている記録ではヨンゲソムンの実際をまともに把握するのに限界があるというのが分かって中国あちこちを発露歩き回って現地に伝わっている各種戦勝や秘史を中心にヨンゲソムンの活躍の姿を追跡して行った. そうしてシン・チェホが紹介したいくつかの面白い話がある.

 

海上雑録(海商雑録)と金海病で(金海兵書) シン・チェホによればこの本は代代に伝えて下ったことでヨンゲソムンが直接至恩ビョングボブチェックだと言う. シン・チェホが使った朝鮮上古史(朝鮮上古史)を見ればこの本に対して言及しているのに高麗時代には将軍が地方で赴任仮面国王が必ず下賜したと言う. そして中国が誇る 7台兵書の中にひとつの ¥”李偉功病で¥”のモデルになったと言う. 今は切なくもこの本の行方をわからない.

 

そしてシン・チェホはトハンがだおもしろい主張をしている. 党太宗との戦争の時のヨンゲソムンが中国内陸深く北京まで侵透して入って行ったというのだ. 果して可能な事だろう. その可能性を推正して見る事にしよう.

シン・チェホがヨンゲソムンの軍隊が北京まで進撃したと主張する根拠であるゴリョヤング(高麗領)を捜した. 難しくなくゴリョヤングだと使われた看板を見られた. シン・チェホによればまさにこの高麗霊異ヨンゲソムンの導く高句麗軍が駐屯した性だと言う. しかしこちら人々は単純に地名だけで分かっていた. 地名の来由を確認して見るために私たちの区役所格である高麗栄進を捜した. 北京スンウィヒョンの歴史を記録している ¥”ブックギョングヒョンスンウィだ¥”, そこにはゴリョヤングに対する来由が記録されているのに唐の時に高句麗人が移住して来たというただ1行だけだった. 零なら軍隊の駐屯地という意味, こちらどこかに省の跡が残っているでしょう. 村に立ち入るとひと目に城跡だったということが分かった. 村を取り囲んだ川は垓字なのが明らかだった. 村の一方に昔の城の跡があった. 聖恩板築跡が明らかな土星だった. 中々に石灰も見えた. こちらがシン・チェホが主張するヨンゲソムンの軍隊が駐屯した所だろう? その記録はどこにもない. しかし将星向こうにあるキタイ族を含んだ北方民族に万里長城は障壁にならなかった. 中国の歴史にしたページを飾っている 5号16国是台, 南北朝時代皆北方民族が万里長城を越えて建てた国だった. 北方民族が中国に下る通路中の一つの故北欧...故北欧から北京まではやっと1時間距離(通り)に過ぎない.

 

それなら高句麗人たちも万里長城を過ぎることができただろうか? 高句麗は実際模本王(慕本王), 光ヶ土豪太王(広開土好太王) 在位期にもうこちら北京隣近地域であるオヤングを攻撃した経験がある. まだこちらには当時の故城跡が残っていた. 今もバッゴラングサイには幾多の土器と瓦の破片たちが散らばっていた. 万里長城は高句麗にも越えにくい性では決してなかった. 万里長城はヨンゲソムンにも越えにくい性ではなかったはずだ. ヨンゲソムンの軍隊が易しく北京を出入りしたはずだという事実を証明してくれる手がかりが発見された. 北京民族大学の黄牛歩教授は最近荒凉台でゴリョポボだと書かれた碑石を見つけた. 党太宗が高句麗軍を欺くために偽装倉庫を設置しておいた荒凉台, それはヨンゲソムンの中原大陸攻略説と深い関連があった. 黄教数が見つけた荒凉台を連結すれば実際高句麗軍が活動した所は北京近くだった.高句麗軍に北京は決して遠い地ではなかった.

 

645年戦争での惨敗にもかかわらず唐は絶えず高句麗の国境を侵犯する. しかしヨンゲソムンは党太宗との戦争で一度も負けたことがない. そして太宗が死んだ後王位に上がった高宗(高宗)も執拗に高句麗を侵攻したがヨンゲソムンは高句麗の領土を少しも渡さなかった. ヨンゲソムンが死ぬまでおおよそ 20余年間絶えなかった党との戦争, しかし高句麗は戦争で勝利した. 高句麗立場(入場)で見た時ヨンゲソムンは中国大陸の剛性した国だった党から国を守り出した英雄だ. ところで不思議なことにヨンゲソムンに対する記録はほとんど残っていないだけでなく否定的な記録たちだけだ. どうしてこんな記録たちだけ残るようになったのか?

 

書案東北 80キロメートルに位した巨大な山. それは太宗の後を引き継いで唐皇帝に即位した高宗の御陵だ. 党高宗は高句麗に対する政策に変化をはかる. 全面戦争代わりに局地戦をしながら新羅と外交に重点を置く. これは党が高句麗を打つためのもう一つの戦略だった. 唐と新羅の軍事同盟に対するヨンゲソムンの対応も敏感だった. ヨンゲソムンは集権以後百済と連合して新羅が党に行く町角であるタンハン城を攻撃して日本に集中的に使臣を送る. 反党連合勢力を構築したのだ. 660年百済を滅亡させた唐と新羅の連合軍は高句麗を圧迫する. しかしヨンゲソムンの戦略の前にもう一度崩れてしまう. 661年 8月バングヒョテ(訪效泰)が従えた唐軍事たちが射手戦闘(蛇水戦闘)で全滅されたこともヨンゲソムンのすぐれた戦略のためだった. 以後党はヨンゲソムンが死ぬまで高句麗を一度も侵略することができなかった.

 

ヨンゲソムンの死は高句麗の運命を置き変える. ヨンゲソムンのカリスマ, その空白はあまりにも大きかった. 20年,ギナンギン戦争の中に埋まっていた高句麗内部の葛藤が現われたし新羅と党はその葛藤を利用して高句麗を滅亡させた. 高句麗内部の葛藤-それはヨンゲソムン家族にまで続ける. ヨンゲソムンの弟(妹)は新羅に投降して長男は党に行った. 中国の河南省博物館. こちらにはヨンゲソムンの息子ヨンナムセングがある. 墓地席にはお父さんヨンゲソムンがデマックリジだったという記録が見えて先祖台どおり鉄をよく扱ったという記録も残っている. 代代に武将家なのを話すのだ. 党に行ったヨンナムセングは姓が変わった. 党太宗のお父さんである離縁の蓮子を避けてからだった. 三国史記もその変わった性をそのまま記録した. ヨンゲソムンさえその性が布地に変わったのだ.

 

だ太宗に決定的な打撃を加えて結局は死にまで至るようにしたヨンゲソムンに対する中国側の記録はとても極度に悪いしかなかった. そしてもう一つヨンゲソムンに対する記録は高句麗を滅亡させた新羅の立場(入場)で記述されたことが今日残っていることなのに新羅立場(入場)でもヨンゲソムンはキム・チュンチュとの連結を断ったしそして新羅がどんな属国で仕えた唐と持続的な緊張関係を維持したそういう人物だから新羅立場(入場)でも否定的に記述したしその否定的な技術を金腐食が三国史記でそのまま引用したのだ.

 

高句麗が滅亡するわずか 3年前ヨンゲソムンは死にながら息子たちにこんな遺言を残した. ¥”君たちの兄弟たちは魚と水の関係のように仲良くしなさい. 作為を争えば必ず隣国の笑い物になるでしょう.¥”[日本書紀(日本書紀)]

 

ヨンゲソムン(淵蓋蘇文)に対する評価は長い間まともに成り立つことができなかった. ヨンゲソムンが死んだ後 3年ぶりに高句麗は敗亡したしヨンゲソムンに対する記録もつけるしかなかったからだ. 今日私たちの見たことは唐との戦争で国を守ったヨンゲソムンの姿だった. 彼は確かに危なげな時期に国を守ったすぐれた軍事戦略家だった. しかし現在残っている資料では彼が対内政治はどのようにしたのか当時国民にはどんな権力者だったかは具体的にわからない. ただ明らかなのは残酷で暴悪な独裁者でヨンゲソムンを描いた三国史記(三国史記)の記録は当時高句麗の敵国だった唐の視覚で書かれた歪曲された記録という事実だ.


연개소문(淵蓋蘇文). 독재자인가, 영웅인가?

 

642년 고구려의 평양성에는 쿠데타가 일어났다. 조정의 대신과 귀족들 1백여명이 처참하게 희생되었고 영류태왕(榮留太王) 역시 죽음을 당한다. 그 쿠데타의 주역은 연개소문(淵蓋蘇文)이었다.

 

고구려 말기인 642년 쿠테타를 통해 권력을 잡은 뒤 665년 세상을 떠날때까지 23년간 연개소문은 고구려의 최고의 권력자였다. 하지만 연개소문에 대한 기록은 거의 남아있는 게 없다. 중국 측의 기록과 삼국사기의 몇줄 안되는 기록이 전부이다. 삼국사기(三國史記)에 의하면 "연개소문은 흉포하고 무도한 인물이다. 연개소문이 전국을 호령하며 나라일을 제멋대로 하는데 말에 오르내릴때마다 항상 귀족이나 무장들을 땅에 엎드리게 하여 발판을 삼았다"는 기록이 보이는데, 이런 기록으로 보아 그가 대단히 무자비한 독재자였다는 이야기로 받아들여지고 오랫동안 연개소문은 그렇게 인식되어 왔다. 그러던 것이 1920년대 박은식(朴殷植), 신채호(申采浩) 등에 의해 전혀 다른 주장이 제기되었다. 신채호는 "한민족(韓民族) 4천년 역사에서 첫째로 꼽을 수 있는 영웅"이라고 연개소문을 극찬했다.

 

인물에 대한 평가야 시대에 따라 보는 시각에 따라 늘 달라져왔지만 연개소문처럼 이렇게 극단적인 두가지의 평가를 받는 경우는 드물다. 과연 연개소문(淵蓋蘇文)은 어떤 인물이었을까?

 

북경 시내에 자리한 경극전문공연장. 청대(淸代)부터 전해내려온 경극(京劇)은 그 오랜 역사만큼이나 중국인들의 정서를 잘 반영하고 있다. 지금도 중국 전역에서 공연되고 있는 경극, 그 중 가장 인기있는 공연은 바로 연개소문이 등장하는 경극이었다. 그러나 지금 중국의 어느 공연장에서도 연개소문이 등장하는 경극은 볼 수 없다. 경극에는 왜 연개소문이 등장했던 걸까. 그리고 공연이 중지된 이유는 무엇일까. 중국의 한 경극배우는 "당시 북한은 연개소문을 고구려의 역사적 지도자로써 위대한 영웅호걸로 여겼는데 중국의 경극에서 그는 반역자적인 인물로 그려졌다. 이는 북한에 대한 일종의 모욕과 존중하지 않는 태도로 비춰졌다. 그래서 이 경극공연을 북한의 요청으로 금지시켰다."고 말했다.

 

그렇다면 연개소문은 언제부터 어떤 모습으로 경극속에 등장한 것일까?

 

송(宋), 원(元), 명대(明代)에 씌여진 희곡모음집, 당나라 장수 설인귀(薛仁貴)가 황제인 태종(太宗) 이세민(李世民)을 호위하며 퇴각하는 모습이 그려져 있고 그들을 향해 칼을 치켜들고 말을 몰아 추격해오는 적장이 바로 고구려의 연개소문(淵蓋蘇文)이다. 당나라와 고구려 간의 전쟁을 배경으로 연개소문과 설인귀 간의 일전을 드라마틱하게 그려놓고 있다. 중국의 향토사학자 치청푸는 "연개소문의 전술에 말려들어 위기에 빠진 태종 황제를 설인귀가 나타나 고구려군을 물리치고 구출한다는 내용인데, 연개소문이 대단히 용맹스럽고 지략이 뛰어난 인물로 묘사되어 있다."고 설명했다.

 

희곡에서 연개소문(淵蓋蘇文)과 설인귀(薛仁貴) 간의 대결 결과는 연개소문의 패배로 그려진다. 그러나 막리지비도대전(莫離支飛刀大戰)이라는 제목에서도 알 수 있듯이 막리지 연개소문의 칼을 비도(飛刀), 즉 날으는 칼로 묘사할 정도로 연개소문을 뛰어난 장수로 그리고 있다. 연개소문은 중국 각지에서 전해 내려오는 지방희곡에 빠지지않고 등장한다. 이러한 지방희곡이 발전한 것이 경극(京劇). 공연이 금지된 경극속의 연개소문은 어떤 모습일까?

 

경극의 의상과 분장은 변하지않는 원칙을 가지고 있다. 의상과 분장을 통해 등장인물의 성격을 표현하는 관객과의 약속이기 때문이다. 무대의상을 연구하는 신경섭 선생은 오랫동안 중국 경극 속의 연개소문을 연구했다.

 

이것이 경극 속에 등장하는 연개소문의 모습이다. 연개소문이 자주 사용하는 무기로 표현되는 비도(飛刀)는 용맹스러운 장수임을 나타내고, 등에 단 깃발모양의 고기(高其)는 이민족(異民族)임을 상징한다. 그리고 청룡포는 좌청룡우백호에서 따온 것으로 중국의 좌측, 즉 고구려(高句麗)를 상징하며 수염에 쓴 붉은 빛은 피, 살기(殺氣)를 나타내고 푸른 빛의 얼굴화장은 위엄은 있으나 잔악하고 사나운 성격을 상징한다. 연개소문을 사납고 잔악한 인물로 묘사하면서 용맹스럽고 뛰어난 장수로 표현한 것이다. 7세기 연개소문이 중국인들에게 얼마나 두려운 존재였나를 깨닫게 해주는 단면이 아닐수 없다.

 

연개소문이 등장하는 경극, 살사문. 싸울 때 신기에 가까운 무술을 펼치는 연개소문을 이기는 당나라 장수 설인귀. 오랫동안 중국에서 가장 인기있는 경극이었다.

 

일본에는 중국의 경극에 버금가는 전통극 가부끼가 있다. 그 가부끼에는 우리가 너무 잘 아는 임진왜란(壬辰倭亂) 때의 전쟁영웅 김시민(金時敏) 장군이 등장한다. 불과 3800여명의 군사로 일본의 2만 대군을 물리친 1592년 10월, 제1차 진주성 전투. 그 전투를 승리로 이끈 인물이 김시민 장군이다. 그러다보니 임진왜란을 통해 일본 육군이 가장 치욕적으로 생각하는 패배가 제1차 진주성 전투이고 그 승리의 주역인 김시민 장군은 두려운 존재일 수 밖에 없다. 그래서인지 일본 가부끼에서는 오히려 김시민을 바보스럽고 우스꽝스러운 인물로 그리고 있다. 그렇다면 연개소문이 중국 경극에 등장하는 이유를 짐작할만도 하다.

 

연개소문이 살았던 서기 640년경, 당시 고구려와 대치하고 있던 중국의 통일왕조는 당(唐)이었다. 이때 고구려의 실권자는 연개소문이었고 당나라의 국왕은 중국 역사상 가장 훌륭한 군주로 손꼽히는 태종(太宗) 이세민(李世民)이었다. 이 연개소문과 태종 간에 일대 결전이 벌어진다. 이것이 바로 645년부터 시작된 당나라와 고구려 간의 전쟁이다.

 

당나라의 수도였던 중국 섬서성(陜西省)의 서안시(西安市). 시내 중심가로 들어가면 거대한 성, 장안성(長安城)을 만나게 된다. 장안성 북문에는 매주 공연이 펼쳐진다. 당나라의 화려했던 과거를 재연하고 있는 것이다. 중국 역사상 가장 화려하고 강대했던 시기 중의 하나가 바로 당황(唐皇) 태종(太宗) 집권기다. 그가 집권한 시기를 정관(貞觀)의 치(治)라하고 그 시대를 기록한 정관정요(貞觀政要)가 오늘날까지 회자될 정도로 태평성대를 이룩한 시기다.

 

이렇게 대내적으로 풍요와 안정을 누리던 시절, 당황(唐皇) 태종(太宗)은 국외로도 힘을 뻗어나갔다. 당은 주변에 있던 동돌궐(東突厥), 토번(吐蕃) 서돌궐(腺厥) 고창국(高昌國)을 차례로 굴복시켰다. 642년 당(唐)에 굴복하지않은 나라는 고구려(高句麗)뿐이었다. 644년, 당나라 황제 태종은 드디어 고구려의 내정에 간섭하기 시작했다. 당시 신라와의 화해를 도모했던 태종은 사신 현장을 보내 더 이상 신라를 괴롭히면 고구려를 공격하겠다고 협박한다. 그러나 이에 대한 연개소문의 입장은 강경했다. 그리고 급기야 연개소문은 당나라 사신을 감옥에 가둬버린다. 결국 태종은 고구려 침략을 단행, 644년 12월 당의 원정군이 영주(英州), 지금의 조양지역에 집결하게 된다. 당시 당이 선택한 전략은 수륙양면작전이었다.

 

645년 3월 드디어 당나라 군사들은 고구려를 향해 출정을 개시한다. 당나라 육군은 고구려의 신성을 함락시키는데 실패하자 개모성, 요동성, 백암성을 비롯, 고구려의 10개 성을 빼앗고 군량미 60만석을 확보하는 전과를 올린다. 그리고 출정 3개월만에 안시성에 도착한다. 태종의 친정군(親征軍)을 포함한 당군은 고연수(高延壽) 등이 이끄는 고구려 지원군을 물리치고 안시성에 대한 총공격을 감행하지만 성주 양만춘(楊萬春)을 위시한 안시성(安市城)의 수비군은 60여일 동안의 끈질긴 항전 끝에 당군의 공세를 격퇴시킨다. 이 전투의 패배로 당나라 군사는 서둘러 퇴각하게 된다.

 

당의 침략군이 안시성 공격의 실패로 쉽게 무너졌던 이유에 대해 군사전문가들은 고구려군이 당군에게 빼앗겼던 요동성과 개모성 및 비사성을 재탈환해 당군의 보급로를 차단했던 결과라고 진단한다. 이러한 주장에 대한 근거는 바로 당군이 선택한 퇴각로에 있다. 당시 당군은 늪지대가 많은 요하 하구쪽으로 퇴각하는데, 굳이 이 요하 중상류쪽의 쉬운 길을 두고 어려운 길을 택한 것이다. 당의 군대가 퇴각했다는 요하 하류는 지금도 비가오면 쉽게 물이 넘치는 곳이다. 지금처럼 둑이 없던 당시, 요하 하류는 전체가 늪지대였다. 자치통감(資治通鑑)에는 태종이 직접 풀을 베어 길을 메우고 수레로 다리를 만들며 퇴각했다고 기록하고 있다. 국왕이 직접 나서서 길을 만들어야 할 정도로 힘겨웠던 퇴각로, 이것은 당시의 전쟁상황이 어떠했는지를 말해준다. 그 뒤에 숨은 고구려의 군사통수권자 연개소문의 전략은 무엇이었을까?

 

고구려에는 길목마다 쌓아놓은 산성이 있다. 산성을 이용해 당의 보급로를 철저히 차단하는 청야전술이었다. 중국과의 빈번한 전쟁으로 터득한 고구려의 전형적인 전략이었다. 신성, 백암성, 안시성 등 요동지역을 향해 일렬로 늘어서있는 고구려의 요동 방어진. 그리고 비사성에서부터 해안을 따라 압록강 하구까지 이르는 해양 방어진. 고구려 국경을 따라 견고하게 늘어서있는 요동 방어진과 해양 방어진은 고구려의 청야전술을 가능하게 했다. 고구려의 이러한 철저한 보급로 차단 전략에 대응한 당나라의 전략은 수군을 활용하는 것이었다. 산동반도의 등주지역에는 당의 수군기지가 있었다. 당시 당이 수군에 대해 얼마나 신경을 썼는지 알 수 있는 기록이 있다. 수군의 주요한 임무는 육군에게 군량과 각종 물자를 보급하는 일이었다. 그 규모가 어느 정도였을까? 정확하게 알 수 없지만 당나라 전시기인 수나라의 전함을 통해 그 규모를 짐작할 수 있다. 육군과 동시에 적진으로 향한 수군은 4만3천. 그들의 계획은 고구려 최남단의 섬인 비사성을 공격한 뒤 곧바로 평양성으로 가는 것이었다.

 

당의 수군은 예정대로 비사성을 함락했다. 그리고 압록강어귀로 향했다. 그러나 그 이후 당 수군에 대한 기록은 어디에도 없다. 비사성을 함락했던 당나라 수군은 어떻게 된걸까? 혹시 당나라 수군이 요동반도 남쪽에서 머뭇거린 것은 고구려 수군의 반격 때문이 아니었을까? 고구려 수군이 당나라 수군을 효과적으로 방어했다는 것을 알려주는 단서가 있다. 당시 당은 요동반도로 가는 길목에 여러 수군기지를 만들었다. 그 중 하나가 오호도. 중국에서 요동반도로 가는 길목에 늘어서있는 섬들 중 한곳이다. 오호도는 지정학적 위치 때문에 지금도 중국의 중요한 군사기지로 활용되고 있다. 중국 측 기록에 의하면 중국의 군사기지인 오호도를 고구려 군사 1만여명이 습격했다고 한다.실제 고구려 수군이 활동했다는 것을 알려주는 기록이다. 그런가하면 전쟁 직후 당나라 황제 태종은 전과에 책임을 물어 장량을 비롯한 수군책임자들을 징벌한다. 고구려 수군에 맞서 당나라 수군이 제 역할을 하지 못했기 때문에 벌어진 사건이다.

 

당시의 상황을 종합해보면 고구려 수군의 방어전에 막힌 당나라 수군은 그들의 주요 임무였던 군량보급을 하지 못한다. 이때 고구려 육군이 내려와 그동안 당나라 군사들이 확보했던 군량 60만석마저 도로 되찾는다. 안시성 공격이 뜻대로 되지않고 군량미마저 빼앗긴 태종의 당군 주력부대는 고립될 수밖에 없었다. 태종이 이끄는 당나라 군사가 어렵게 요하 하구를 건너 도착한 곳이 만리장성 끝자락에 있는 임유관. 기록에 의하면 태종은 퇴각 이후 처음으로 이곳에서 옷을 갈아입었다고 한다. 그만큼 시간에 쫓기는 퇴각이었다. 야사(野史)에 의하면 태종은 안시성 성주 양만춘의 화살에 맞아 한쪽 눈을 잃었다고 하는데, 그 사실을 확인해볼 방법은 없지만 실제 기록에 의하면 645년 이후 태종은 각종 병에 시달린다. 이것은 당나라 군사들이 고구려군과의 전쟁에서 철저하게 패배한 상황을 아주 상징적으로 말해주는 기록이다. 결국 고구려와의 전쟁에서 패배한 태종은 그로부터 4년 후에 숨을 거둔다.

 

중국 역사상 최고의 제왕으로 손꼽히는 당나라의 태종이 이렇게 비참한 패배를 당했으니 경극에서 연개소문을 무섭고 포악한 인물로 그릴만도 하다. 하지만 고구려 입장에서 본다면 연개소문은 위태로웠던 시기에 나라를 구한 뛰어난 전략가요, 구국의 영웅인 셈이다. 그런데 삼국사기에는 "개소문은 왕을 시해한 다음 그 몸을 몇도막으로 잘라 개천속에 버렸다"고 기록하여 연개소문을 잔인한 인물로 묘사하고 있다. 또 "몸에 다섯 개나 칼을 차고 있으니 좌우 사람들이 감히 쳐다보지 못했다."고 하여 그를 포악한 성격으로 그리고 있다. 그러나 당나라 사람들이 고구려 풍속에 대해 쓴 "한원(韓原)"이라는 책에는 "고구려의 일반남자들은 누구나 몸에 칼 다섯자루와 숫돌을 차고 다녔다"고 기록하고 있다. 그러니까 그러니까 연개소문이 칼 다섯자루를 차고 다닌 건 특별히 포악한 성격 때문이 아니라 고구려의 일반적인 풍습이었던 것 같다.

 

연개소문을 포악한 인물로 그린 삼국사기의 기록이 뭔가 석연치않은데, 더욱이 의심스러운 건 연개소문에 대한 기록이 쿠테타를 일으킨 시점으로 집중되어있고, 그러다보니 연개소문은 국왕을 죽이고 권력을 빼앗은 독재자로 그리고 있다는 점이다. 실제 연개소문이 쿠테타를 일으킨 과정은 어떠했고 그 이유는 무엇이었을까?

 

중국 요녕성 장하현의 석성. 그 산성 꼭대기에 있는 망루는 연개소문의 여동생이 지키고 있었다는 전설이 내려오고 있다. 성 안내인은 여동생이 있던 누각 바로 맞은편에 연개소문이 있었다고 한다. 실제 연개소문이 쌓았는지 그리고 연개소문에게 여동생이 있었는지는 알 수 없다. 그러나 분명한 건 연개소문 집안은 대대로 무장(武將)집안이었다. 쿠테타를 일으킬 당시 연개소문은 국가의 군사지휘권을 좌지우지했던 대대로직에 있었다. 전선의 움직임을 누구보다도 정확히 파악하고 있었을 것이다.

 

고구려는 위로는 당, 아래로는 신라와 긴장관계에 있었다. 고구려로서는 강력한 통일제국 당이 문제였다. 이러한 상황에서 고구려의 대(對) 당나라 정책에는 두가지 기류가 나타난다. 수나라와의 전쟁에서 비록 이겼지만 고구려의 국력도 상당히 많이 피폐해졌기 때문에 외교적인 유화책으로 평화를 구가하자는 세력이 하나 있었고 또 하나는 수나라와의 전쟁에서 이겼는데 당나라라고 이기지 못할게 뭐가 있냐... 우리가 당나라에 저자세외교를 할 필요없다는 강한 자존적인 입장을 나타내는 그런 기류가 있었다. 당나라의 태종은 서서히 고구려에 압력을 가해오기 시작했다. 631년엔 고구려의 자부심인 경관을 무너뜨리라고 한다. 경관은 수나라와의 전쟁승리를 기념하기 위해 세운 탑이다. 그런가하면 641년엔 진대덕을 사신으로 파견한다. 진대덕은 당나라가 보낸 첩자였다. 고구려의 지형과 산천을 염탐해 간다. 당은 고구려를 칠 기회를 노리고 있었던 것이다.

 

그러나 당시 영류태왕(榮留太王)이 선택한 대당정책(對唐政策)은 유화책이었다. 고구려의 지도인 봉역도를 당나라에 보내고 당의 요구대로 경관을 헐어버리며 그리고 급기야 세자까지 당에 보내 조공을 한다. 연개소문의 입장에서는 당나라의 속국을 자처하는 행위였다. 광개토호태왕(廣開土好太王) 훈적비(勳積碑)와 모두루묘지비문(牟頭婁墓誌碑文)을 보면 당시 고구려인들이 자신을 천손(天孫)이라 생각했을 정도로 강한 자존심이 있었다. 그리고 거기에 덧붙여서 불과 몇십년전에는 통일제국인 수나라와의 전쟁에 승리했고 결국 수나라를 멸망시킨 강한 자부심이 있는데 바로 그런 자부심을 대표한다고 볼 수 있는 연개소문의 입장에서는 영류태왕과 그 주변의 대신들이 취하는 당나라에 대한 저자세외교에 강한 불만을 품고있었을 것이다.

 

바로 이즈음 연개소문은 쿠데타를 일으킨다. 삼국사기 기록만 가지고 본다면 연개소문은 개인적 원한에 의해 뚜렷한 명분 없이 혁명을 일으킨 것으로 볼 수 있다 그렇지만 연개소문이 이후에 펼친 정책을 보면 단순한 개인적인 원한이 아니라 특히 당과의 관계에서 온건한 정책을 펼치느냐 강건한 정책을 펼치느냐 그러한 입장 차이에 의해 혁명을 일으킨 것으로 볼 수 있다. 연개소문의 입장에서는 분명히 고구려에 쳐들어온다고 믿었고 고구려가 당과 싸우는 길만이 나라를 살리는 길이라 믿었을 것이다. 그러니까 영류태왕은 수나라와의 전쟁으로 국력소모가 컸다고 판단했다. 그래서 당에 대해 유화책을 써 평화를 유지하고 싶었던 것이다. 그러나 연개소문의 생각은 달랐다. 당나라가 언젠가는 고구려를 침략해올 것이고 그러한 상황에서 유화책을 쓰는 건 미봉책일 뿐이라고 생각한 것이다. 연개소문이 쿠테타를 일으킨 건 바로 이런 이유 때문이다. 당시 연개소문은 대당강경론자였던 것이다.

 

신채호(申采浩) 선생은 연개소문에 대해 특별한 관심을 가지고 연구를 했다. 하지만 남아있는 기록으로는 연개소문의 실상을 제대로 파악하는데 한계가 있다는 것을 알고 중국 곳곳을 발로 누비며 현지에 전해지고 있는 각종 전승이나 비사를 중심으로 연개소문의 활약상을 추적해 나갔다. 그렇게 해서 신채호가 소개한 몇가지 재미있는 이야기들이 있다.

 

해상잡록(海商雜錄)과 김해병서(金海兵書) 신채호에 따르면 이 책은 대대로 전해 내려오던 것으로 연개소문이 직접 지은 병법책이라고 한다. 신채호가 쓴 조선상고사(朝鮮上古史)를 보면 이 책에 대해 언급하고 있는데 고려시대에는 장군이 지방으로 부임가면 국왕이 꼭 하사했다고 한다. 그리고 중국이 자랑하는 7대 병서 중에 하나인 "이위공병서"의 모델이 됐다고 한다. 지금은 안타깝게도 이 책의 행방을 알 수 없다.

 

그리고 신채호는 또한가지 흥미로운 주장을 하고 있다. 당 태종과의 전쟁 때 연개소문이 중국 내륙 깊숙이 북경까지 침투해 들어갔다는 것이다. 과연 가능한 일일까. 그 가능성을 추정해보기로 하자.

신채호가 연개소문의 군대가 북경까지 진격했다고 주장하는 근거인 고려영(高麗領)을 찾았다. 어렵지않게 고려영이라고 쓰여진 간판을 볼 수 있었다. 신채호에 의하면 바로 이 고려영이 연개소문이 이끄는 고구려군이 주둔했던 성이라고 한다. 그러나 이곳 사람들은 단순히 지명으로만 알고 있었다. 지명의 유래를 확인해보기 위해 우리의 구청격인 고려영진을 찾았다. 북경 순의현의 역사를 기록하고 있는 "북경현순의지", 거기엔 고려영에 대한 유래가 기록되어 있는데 당나라 때에 고구려인이 이주해왔다는 단 한줄뿐이었다. 영이라면 군대의 주둔지라는 뜻, 이곳 어딘가에 성의 흔적이 남아있을 것이다. 마을에 들어서자 한눈에 성터였다는 것을 알 수 있었다. 마을을 둘러싼 강은 해자임이 분명했다. 마을의 한켠에 옛 성의 흔적이 있었다. 성은 판축흔적이 분명한 토성이었다. 중간중간 석회도 보였다. 이 곳이 신채호가 주장하는 연개소문의 군대가 주둔했던 곳일까? 그 기록은 어디에도 없다. 하지만 장성 너머에 있는 거란족을 포함한 북방민족에게 만리장성은 장벽이 되지않았다. 중국의 역사로 한 페이지를 장식하고 있는 5호16국시대, 남북조시대 모두 북방민족이 만리장성을 넘어 세운 나라였다. 북방민족이 중국으로 내려오는 통로 중 하나인 고북구...고북구에서 북경까지는 겨우 한시간거리에 불과하다.

 

그렇다면 고구려인들도 만리장성을 넘을 수 있었을까? 고구려는 실제 모본왕(慕本王), 광개토호태왕(廣開土好太王) 재위기에 이미 이곳 북경인근 지역인 어양을 공격한 경험이 있다. 아직도 이곳에는 당시의 고성터가 남아있었다. 지금도 밭고랑사이엔 수많은 토기와 기와조각들이 널려 있었다. 만리장성은 고구려에게도 넘기 어려운 성은 결코 아니었다. 만리장성은 연개소문에게도 넘기 어려운 성은 아니었을 것이다. 연개소문의 군대가 쉽게 북경을 넘나들었을 것이라는 사실을 증명해주는 단서가 발견되었다. 북경민족대학의 황우보 교수는 최근 황량대에서 고려포보라고 쓰여진 비석을 발견했다. 당 태종이 고구려군을 속이기위해 위장창고를 설치해놓은 황량대, 그것은 연개소문의 중원대륙 공략설과 깊은 관련이 있었다. 황교수가 발견한 황량대를 연결하면 실제 고구려군이 활동하던 곳은 북경근처였다.고구려군에게 북경은 결코 먼 땅이 아니었다.

 

645년 전쟁에서의 참패에도 불구하고 당나라는 끊임없이 고구려의 국경을 침범한다. 그러나 연개소문은 당 태종과의 전쟁에서 한번도 진적이 없다. 그리고 태종이 죽은 뒤 왕위에 오른 고종(高宗)도 집요하게 고구려를 침공했지만 연개소문은 고구려의 영토를 조금도 내주지 않았다. 연개소문이 죽을때까지 무려 20여년간 끊이지않았던 당과의 전쟁, 그러나 고구려는 전쟁에서 승리했다. 고구려 입장에서 봤을 때 연개소문은 중국대륙의 강성했던 나라였던 당으로부터 나라를 지켜낸 영웅이다. 그런데 이상하게도 연개소문에 대한 기록은 거의 남아있지 않을 뿐만 아니라 부정적인 기록들뿐이다. 왜 이런 기록들만 남게된걸까?

 

서안 동북 80킬로미터에 위치한 거대한 산. 그것은 태종의 뒤를 이어 당나라 황제로 즉위한 고종의 릉이다. 당 고종은 고구려에 대한 정책에 변화를 꾀한다. 전면전 대신 국지전을 벌이면서 신라와 외교에 치중한다. 이것은 당이 고구려를 치기 위한 또다른 전략이었다. 당나라와 신라의 군사동맹에 대한 연개소문의 대응도 민감했다. 연개소문은 집권 이후 백제와 연합해서 신라가 당으로 가는 길목인 당항성을 공격하고 일본에 집중적으로 사신을 보낸다. 반당연합세력을 구축한 것이다. 660년 백제를 멸망시킨 당나라와 신라의 연합군은 고구려를 압박한다. 그러나 연개소문의 전략 앞에 또 한번 무너지고 만다. 661년 8월 방효태(訪效泰)가 거느린 당나라 군사들이 사수 전투(蛇水戰鬪)에서 전멸당한 것도 연개소문의 뛰어난 전략 때문이었다. 이후 당은 연개소문이 죽을 때까지 고구려를 한번도 침략하지 못했다.

 

연개소문의 죽음은 고구려의 운명을 바꿔놓는다. 연개소문의 카리스마, 그 공백은 너무나 컸다. 20년,기난긴 전쟁 속에 묻혀있던 고구려 내부의 갈등이 드러났고 신라와 당은 그 갈등을 이용해 고구려를 멸망시켰다. 고구려 내부의 갈등-그것은 연개소문 가족에까지 이어진다. 연개소문의 동생은 신라에 투항하고 큰아들은 당으로 갔다. 중국의 하남성박물관. 이곳엔 연개소문의 아들 연남생이 있다. 묘지석엔 아버지 연개소문이 대막리지였다는 기록이 보이고 조상대대로 쇠를 잘 다뤘다는 기록도 남아있다. 대대로 무장집안임을 이야기하는 것이다. 당으로 간 연남생은 성이 바뀌었다. 당 태종의 아버지인 이연의 연자를 피해서였다. 삼국사기도 그 바뀐 성을 그대로 기록했다. 연개소문마저도 그 성이 천으로 바뀐 것이다.

 

당 태종에게 결정적인 타격을 입히고 결국은 죽음에까지 이르게 한 연개소문에 대한 중국 측의 기록은 아주 극도로 나쁠 수 밖에 없었다. 그리고 또 하나 연개소문에 대한 기록은 고구려를 멸망시킨 신라의 입장에서 기술된 것이 오늘날 남아있는 것인데 신라 입장에서도 연개소문은 김춘추와의 연결을 거절했고 그리고 신라가 어떤 속국으로 섬겼던 당나라와 지속적인 긴장관계를 유지했던 그러한 인물이기 때문에 신라입장에서도 부정적으로 기술했고 그 부정적인 기술을 김부식이 삼국사기에서 그대로 인용한 것이다.

 

고구려가 멸망하기 불과 3년 전 연개소문은 죽으면서 아들들에게 이런 유언을 남겼다. "너희 형제들은 물고기와 물의 관계처럼 사이좋게 지내라. 작위를 다투면 반드시 이웃나라의 웃음거리가 될 것이다."[일본서기(日本書紀)]

 

연개소문(淵蓋蘇文)에 대한 평가는 오랫동안 제대로 이뤄지지 못했다. 연개소문이 죽은 뒤 3년만에 고구려는 패망했고 연개소문에 대한 기록도 묻힐 수밖에 없었기 때문이다. 오늘 우리가 본 건 당나라와의 전쟁에서 나라를 지킨 연개소문의 모습이었다. 그는 분명 위태로운 시기에 나라를 지킨 뛰어난 군사 전략가였다. 그러나 현재 남아있는 자료로는 그가 대내정치는 어떻게 했는지 당시 국민들에게는 어떤 권력자였는지는 구체적으로 알 수 없다. 다만 분명한 건 잔인무도하고 포악한 독재자로 연개소문을 그렸던 삼국사기(三國史記)의 기록은 당시 고구려의 적국이었던 당나라의 시각에서 쓰여진 왜곡된 기록이라는 사실이다.



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