伝統文化

倭王は百済 大王の 侯王

 

O ヒロヒト 日皇は 1984年全斗換大統領が日本を訪問した当時
晩餐 席上で ¥”推古 (33代 592‾628年 在位)日皇 以前 日皇の歴史は
まだよく明かされない部分が多い. 日皇 の中には韓国と関連がある
粉餌日本に 渡来してその 血統が 日皇の歴史の中に含まれている
指導分からない¥” と言って ¥”生きている神さま¥”で存在した 日皇 自ら
日本の 皇統が 韓半島人だと明らかにした. 日皇の言葉をよくよく見れば
歴史の真実が見える.

 

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その名称を 隅田八幡神社画像鏡とも言う 人物画像鏡は
日本の国宝に指定されて東京国立博物館に所長されているのに,
直径が 19.8cmであるあかがね鏡として, 外まわりに沿ってぐらっと帰りながら
次のような字が刻まれている.

 

癸末年八月日十, 大王年, 男弟王, 在意柴紗加宮時, 斯麻,
念長寿, 遺開中費直穢人今州利二人等, 取白上銅二百早,
作此竟

 

503年 8月 10日 大王(百済 武寧王)時代, 男弟王
(後日の 継体天皇, 男大迹)がオシサキグング(忍坂宮)にある時,
斯麻(武寧王)が 長寿を 念願して 開中費直 穢人
今州利 など 2人を派遣するのに, 最高級グリスェッ
200旱にこの鏡を作った.


上の 銘文をよく見よう.
まず 癸未年という 年度に注目しよう.
癸未年は西紀 503年だ.  ところで西紀 502年に 倭と百済には
普通ではない事が起こる. 一体何の事が起こったことだろう?
梁書を見れば 502年に 倭王武が 梁国 天子から 征東将軍
で 軍号をオルリョバッアッゴ, その後でこれ以上の記録がない.
倭王武が 死亡したという記録もない.  イサングスロウン仕事ではない数
ない. ところで日本書紀を見ればまさにその 502年に百済では
東城王が 白加が送った 刺客に刀に突かれて死んで 斯麻王が
東城王の後を引き継いで 百済王で即位する事件が起こる.
ところでこの事件を日本書紀では百済系 史書 百済新撰を
引用して次のように記録している.


が 年(502年)に 末多王が 無道して民に暴虐な仕業をした.
国人このようにとり除いた. 武寧王が立った. 諱は 斯麻王だ.


502年に 倭と 百済で起こった事件が全然別個の事件であること
のようだが, 決してこの事件は 別個の事件ではない.
正しくそれは 人物画像鏡の 癸未年の 年度の性格をよく見れば
分かることができる. 先立って言及したとおり 癸未年は 503年だ.
503年は 名実共ヒ 斯麻王が 百済王として百済を統治する
初 年だ.  日本書紀によれば  502年は 前王 東城王が死亡した
年であり, 同時に 斯麻王が百済王で即位した 年利己のため
前王の 統治期間と 斯麻王の 即位年が重なるようになって真の
斯麻王の時代だとすることができなくなる.  ところで 癸未年 すなわち
503年は 斯麻王が 前王の影を脱いでしまって百済を
統治する 斯麻王の時代のことだ. だから 梁書で
倭王武が 502年以後には消えてこれ以上記録されない
のは決して偶然ではない.  倭王武が 502年以後には百済の
斯麻王として百済を統治したからだ.

 

 

 

 

 

 

 

 

 

癸未年 すなわち 503年は 斯麻王が実質的に百済を統治する
時代だ.  だから 人物画像鏡はその重要な意味を盛って
癸未年をまた 大王年だと再び強調しているのだ.
ここの 大王年は 大王の時代という意味だ. ところで日本人たちは
癸未年 次に 大王年が来ている点に対しては敏感ではない.
もし 癸未年と 大王年がお互いに違う意味を内包していたら,
例えば 癸未年は 斯麻王が即位した年で, 大王年はまた違う
王を意味したら適切に 大王年が前に出て, 癸未年はその次に
出なければならないのだ. これが適当な 礼法だ. ところで 癸未年が
先に出て次に 大王年が出ることはまさにこの 癸未年が
大王年に異同ではないという意味を内包しているのだ.

 

また一部日本人歴史学者たちの主張によれば ¥”癸末年八月日十大王年¥”は
¥”癸末年八月, 日十大王年¥”で切って読まなければならないと言う.
ところで私たちは先にこの 人物画像鏡が百済で作られたことだというのを
思い出す必要がある. 百済の 誌石 及び 銅鏡や, 舍利函, 碑文 などで発見される
銘文は 年,月,日歯が抜けることなしに記録されている.
はいたち聞いて見るようにしよう.

 

1)武寧王の 誌石

 

寧東大将軍百済斯麻王年六十二歳
癸卯年五月丙戌朔七日壬辰崩到
乙巳年八月癸酉朔十二日甲申安〓登 冠大墓立志如左

 

寧東大将軍 百済 斯麻王が 62歳になった
癸卯年 5月 7日に 崩御なさって
乙巳年 8月12日にあげて仕えて 大墓に記録するのを以上のようだ.


2)王興寺址 舍利器 銘文

 

丁酉年二月 十五日百済王昌為三王子
立刹本舍利二枚葬時神化為三

 

丁酉年(577年) 2月 15日に百済王 昌(27台 威徳王)が三つの王子を
ために塔を建てた. 本来 舍利は 2枚だったが 葬礼(私利を 柱礎 の中に
問う意識を示し) 時神妙した変化で 3個になった


3)砂宅智積碑

 

寅年正月九日奈祇城砂宅智積慷身日 之易往慨体
月之難還□金以建珍堂組玉以立宝塔□□
慈容吐神光以送雲□□悲貌含聖朗以

 

 

寅年 正月 9日, 奈祇城の 砂宅智積は日が易しく行くことを悲しんで
月が  難しく帰って来るのが悲しくて金を掘って貴重な 堂を建てて玉を
売って貴重な塔を建てた. にょっきと湧いた慈しみ深い姿は神霊な光を
吐日雲を送って, 尖ったようだから悲しい姿は神聖な明るさを含んで...

 

このような例で見るように百済人たちが 銘文を残す時 年,月,日を全部
だ記録して 年,月だけ記録する場合はないということが分かる.
それなら 人物画像鏡の 銘文で ¥”八月日十大王年¥”と
記録されたことは何のわけだろう? おこる ¥”八月十日大王年¥”で記録する
場合本来の意図とは違うように 大王年が ¥”十日大王年¥”になって
大王年の意味を 激減させるから 十日の字をお互いに変えて
日十で記録したことと考えられる.  この時解釈は ¥”日は 十¥”と
言ったはずだ.

 

人物画像鏡の 銘文を通じて見る時 斯麻王は自らを 大王だと
したし, 倭を 侯国で思っていることが分かる.
それでは百済王たちが自らを 大王だと称えた歴史的根拠が
あるか? 中国歴史書である 南斉書にその根拠になることができる記録が
ある. ¥”建武 2年(495年, 東城王 17)に 牟大が使臣を送って
表文をあげて ¥”今 天下が静かになったことは 沙法名 などの業績だから
その手柄を当然に賞さなければならないでしょう. ここに 沙法名を
仮行征虜将軍 邁羅王で (中略) 解礼昆を 仮行武威将軍
弗中侯で(中略) しました.¥”
上の記録を見れば 東城王 の時の百済には 大王  以外に 近親
王族(王弟,王父)で 王,侯 などの 侯王があったことを分かる.
また百済 武寧王の 墓誌石に中国 天子が  使う  崩という字が
刻まれていることはすなわち彼が 生前に 大王だったというまた他の証拠だ.
そして日本書紀 欽明天皇 2年 夏4月を見ると 任那の 旱岐入り
百済 聖王を 大王だと 号称することを見られる. ところで 梁職貢図を
見ればまさにこの 任那にあたる地域(叛波, 卓, 多羅, 前羅, 止迷,
麻連, 上己文, 下枕羅)が百済に 附庸する 小国だと記録されていて,
百済の 傍小国が百済王を 大王だと称したことを分かる.
も打つかも 銘文を見れば百済 王世子が倭王を 侯王だと 号称と
おいて名実共に百済王は 倭に対して 大王の位置にあるというのを
確認することができるのだ.

 

そして 男弟王は 5世紀当代の 人物画像鏡の 銘文に登場する
倭の 実力者の名前なのに,  ibm1082様の 卓見どおり 男弟という名前は
元々 地名だったと考えられる. 日本書紀 継体天皇 12年を見ると,
¥”弟国で都邑を移した¥”と記録されているところ, この 弟国は元々
男弟王が百済の 担魯として治めた 倭の一地域だった可能性が多い.
百済では百済王が 担魯である王や 侯を任命する時その 地域
名で任命する場合が多かった. 例えば 邁羅王, 弗中侯 などが
それだ. このように 男弟という名前は 地名から始まったが, 後日
それが固有名詞化したことだと考えられる.

 

ところで上の 銘文を見れば 大王年という 年度が出て, その後に
斯麻という名前が出る. そのまま名前そのままだ. これは前に 大王年だと
もう 表記になっているから文を書くことができる狭い空間を考慮して
斯麻王が自分の 諱のみを使ったし, また 男弟王に 斯麻王が自分の名前のみを
記録することで自分より 年長者である親戚(百済の 担魯は王子, 王族の身分である
場合が大部分だった)に対する礼遇をしたと思う.

 

それでは 斯麻王が 人物画像鏡を作るように指示した 開中費直(注1)と 〓人 今州利は
果してどんな人だろう? まず 開中の意味が何なのかから調べる事にしよう.
蘇鎭轍 教授に注げば 開中はすぐ 河内を意味すると言う. すなわち日本列島に
ある 大阪 地域を意味するというのだ. この 大阪には古代にこの地域 人口の
腕九十パーセントが 百済人と言うほど 百済人がたくさん住んでいた.
そして 費直は超次の行く 実勢として特定地域を治める 首長を行こうぞ
つける言葉で 〓人は江原道を含めた韓半島の 東北部に基盤を置いて
居住した 種族の名前と言う. だから 開中費直と  〓人 今州利は
開中 すなわち 河内 地域を責任負って治める 首長と韓半島 〓族 出身の
今州利という名前を持った人という意味を持っているのだ.
まさにここで私たちは韓半島の百済にある 斯麻王が日本列島にある
倭王 次の行く席を占めている 開中費直に言い付けて 人物画像鏡を
作るようにすることを見つけることができる. これは何を意味しようか?
第一に 斯麻王が韓半島の 百済王で 登極する前に 開中費直に命令を
下すことができる位置にあったということ, すなわち 倭王であったということを意味して,
二番目で 斯麻王が韓半島の百済に 王でありながらも 倭王の意見を聞くのも
なくて日本列島にある 最高位官吏にわがまま言い付けることができることは
彼がすなわち韓半島と 倭 列島を同時にダース里は 大王というのを意味すると
言える.

 

注1) 開中費直(kawachinoadai) : 人物画像鏡の 銘文には 開中費直なのに, 日本書紀
欽明天皇 2年には 河内直(kawachinoadai)という 官職名と一緒に百済本記を
引用して 加不至費直と言うと記録されている. ところで前の kawaは元々
kara>kaha>kawaで移り変わった単語なので 河内直 あるいは 加不至費直は 加羅の地域を
治める管理を意味する. (kawachinoadaiの元々表記は 河内直ではない
加不至費直だったと考えられる. 何故ならばこの用語自体が 百済語載せるからだ)
すなわち 開中費直は百済で派遣されて 傍小国である 加羅と 侯国である 倭の最初 担魯国である
百済郡(=河内) 一帯(現在の 大阪, 元々は 加羅人らが来て住んだ所だったが後日
百済が占領した地域)を治める管理を意味する.

 

 

 

 

 

 

 

武寧王が 男弟王(男大迹)に 人物画像鏡を送った時は
日本書紀によればまだ 男弟王が王位に上がる 4年前だった.
三国史記の記録によれば百済 東城王が 白加に 刺殺にあうと,
斯麻王が 王位を受け継ぐのにあの時年が 40歳だ.
(三国史記では百済本紀の 斯麻王を彼が王位に即位した時,
すなわち年 40世人の時から記録している. その以前の記録はない)
それでは 40歳以前に 斯麻王は何をしていたことだろう?
先立って言及したとおり 23年間 倭王として 倭 列島を治めていたのだ.
正しくそれは 倭王武が 宋の 天子に送った 上表文(倭王武の 即位年は
478年, 475年に 倭王武の父親と 兄が死亡) 及び過去に溯及されて
蓋鹵王の 即位年に合わせられた 雄略天皇の 在位期間 23年で
確認することができる.  言い替えれば溯及されられた 雄略天皇の 在位期間 23年を
雄略天皇の 死亡年(479年)から始めて次  天皇代でずっとシェア
出始めればすぐ 百済 斯麻王が百済に渡った時期を 推算して
出すことができるのだ. すなわち 479年 + 23年 = 502年になる.
まさにこの時期がすぐ 架空の天皇である日本書紀の 武烈天皇 4年だ.
言い替えれば 倭王武 すなわち 百済王で 登極する前の 斯麻王が 倭王で
在位一最後の 年度になるのだ.

 

ところでこの時期に 男弟王はまだ 倭王として王位に上がる 4年前だ.
どうして 男弟王は 倭王として王位に上がることができなかったことだろう? 正しくそれは
斯麻王が 倭王の地位を持ったまま百済に渡って来ていたからだ.
人物画像鏡はすぐ 大王だった百済 斯麻王がまだ 王位には
上がることができなかったが 斯麻王から 倭王の権限を 委任受けてその権限を
行使している 男弟王に対する 信任の 標として , 男弟王の 倭 統治に対する
認証書として 男弟王に送られたのだ. (男弟王が王位に上がるのも
なかったが, どんな理由で 王号を持っていると質問する人々が
ある. ところで百済では王子や王族たちが 王と呼ばれていた.
まさにこの点が 百済王が自らを 大王だと称えたというまた他の証拠だ)

 

[参照]

1.百済 武寧王の 誌石

 

寧東大将軍百済斯麻王年六十二歳
癸卯年五月丙戌朔七日壬辰崩到
乙巳年八月癸酉朔十二日甲申安〓登 冠大墓立志如左

寧東大将軍 百済 斯麻王が 62歳になった
癸卯年 5月 7日に 崩御なさって
乙巳年 8月12日にあげて仕えて 大墓に記録するのを以上のようだ.
[解説]百済 武寧王の 誌石に皇帝の死を意味する 崩者が刻まれている.
すなわち百済 武寧王は百済, 中国大陸一部, 倭 列島を統治する皇帝だった.


2.梁書 列伝 諸夷 東夷 百済

[原文]王余隆始復遣使奉表,称「累破句驪,今始与通好」.
而百済更為強国.
[翻訳文](百済)王 余隆(=斯麻王)が初めてまた 使臣を送って
表をあげた. 早いのを何回 高句麗を 破と今なの
初めて 友好を 通すると言ったが百済は再び ¥”強国¥”が
になった.

3. 七支刀 銘文

*前* 泰(和)四年{五あるいは四}月十{六}日 丙午正陽 造百練鉄
七支刀 {出} 百兵 宣供供候王 0000作 - 泰和 4年 五月(あるいは 4月)
十六日 丙午正陽に 百錬鋼鉄で 七支刀を作った.
これはひいては 百兵を退けることができることなので 候王に送ってくれる.
0000街製作したのだ.

 

*裏* 先世以来 未有此刀 百済{王}世{子} 奇生聖音 故為倭王旨
造伝示 {後} 世 - 先世以来でこのような刀はなかった.
百済(王)世(子) 奇生聖音が 倭王 旨のために作ったから
後世に永遠に 伝したように見えるすべきだ.

[解説]百済 王世子が 候王である 倭王に 七支刀を 下賜とある.
倭王が百済の 候王だと 4世紀頃の遺物 七支刀に 銘文で使われている.
またそんな文が書かれた遺物を宝物で 倭国がおさめている. 倭王がすぐ百済
王世子のこの命令を憶えたからだ. ¥”伝示後世¥” (後世に伝えたように見えなさい)
これを見れば百済皇太子たちが植民地 倭を統治する総督であることが分かる.

 

 

 


 

 


 


백제 斯麻王은 백제와 倭의 大王이었다

倭王은 백제 大王의 侯王

 

O 히로히토 日皇은 1984년 전두환 대통령이 일본을 방문했을 당시
晩餐 席上에서 "推古 (33代 592~628년 在位)日皇 이전 日皇의 역사는
아직 잘 밝혀지지 않은 부분이 많다. 日皇 중에는 한국과 관련이 있는
분이 일본에 渡來하여 그 血統이 日皇의 역사 속에 포함되어 있는
지도 모른다" 라고 하여 "살아있는 신"으로 존재했던 日皇 스스로
일본의 皇統이 韓半島人이라고 밝혔다. 日皇의 말을 잘 살펴보면
역사의 진실이 보인다.

 

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그 명칭을 隅田八幡神社畵像鏡이라고도 하는 人物畵像鏡은
일본의 국보로 지정되어 동경 국립 박물관에 소장되어 있는데,
직경이 19.8cm인 구리 거울로서, 바깥 둘레를 따라 빙 돌아가면서
다음과 같은 글자가 새겨져 있다.

 

癸末年八月日十, 大王年, 男弟王, 在意柴紗加宮時, 斯麻,
念長壽, 遺開中費直穢人今州利二人等, 取白上銅二百早,
作此竟

 

503년 8월 10일 大王(백제 武寧王)시대, 男弟王
(후일의 繼體天皇, 男大迹)이 오시사키궁(忍坂宮)에 있을 때,
斯麻(武寧王)께서 長壽를 念願하며 開中費直 穢人
今州利 등 2인을 파견하는데, 최고급 구리쇠
200旱으로 이 거울을 만들었다.


위의 銘文을 살펴보자.
우선 癸未年이라는 年度에 주목하자.
癸未年은 서기 503년이다.  그런데 서기 502년에 倭와 백제에는
심상치 않은 일이 일어난다. 도대체 무슨 일이 일어난 것일까?
梁書를 보면 502년에 倭王武가 梁나라 天子로부터 征東將軍
으로 軍號를 올려받았고, 그 후로 더 이상의 기록이 없다.
倭王武가 死亡했다는 기록도 없다.  이상스러운 일이 아닐 수
없다. 그런데 일본서기를 보면 바로 그 502년에 백제에서는
東城王이 白加가 보낸 刺客에게 칼에 찔려 죽고 斯麻王이
東城王의 뒤를 이어 百濟王으로 즉위하는 사건이 일어난다.
그런데 이 사건을 일본서기에서는 백제系 史書 백제新撰을
인용하여 다음과 같이 기록하고 있다.


이 年(502년)에 末多王이 無道하여 백성에게 포학한 짓을 하였다.
國人이 같이 제거하였다. 武寧王이 섰다. 諱는 斯麻王이다.


502년에 倭와 百濟에서 일어난 사건이 전혀 별개의 사건인 것
같지만, 결코 이 사건은 別個의 사건이 아니다.
바로 그것은 人物畵像鏡의 癸未年의 年度의 성격을 살펴보면
알 수가 있다. 앞서 언급한 대로 癸未年은 503년이다.
503년은 名實共히 斯麻王이 百濟王으로서 백제를 통치하는
첫 年이다.  일본서기에 의하면  502년은 前王 東城王이 사망한
年이요, 동시에 斯麻王이 백제왕으로 즉위한 年이기 때문에
前王의 統治기간과 斯麻王의 卽位年이 겹치게 되어 진정한
斯麻王의 시대라고 할 수가 없게 된다.  그런데 癸未年 곧
503년은 斯麻王이 前王의 그림자를 벗어버리고 백제를
통치하는 斯麻王의 시대인 것이다. 그러므로 梁書에서
倭王武가 502년 이후에는 사라지고 더 이상 기록되지 않은
것은 결코 우연이 아니다.  倭王武가 502년 이후에는 백제의
斯麻王으로서 백제를 통치하고 있었기 때문이다.

 

 

 

 

 

 

 

 

癸未年 곧 503년은 斯麻王이 실질적으로 백제를 통치하는
시대다.  그러므로 人物畵像鏡은 그 중요한 의미를 담아
癸未年을 다시 大王年이라고 재차 강조하고 있는 것이다.
여기의 大王年은 大王의 시대라는 의미이다. 그런데 일본인들은
癸未年 다음에 大王年이 와있는 점에 대해서는 민감하지 않다.
만일 癸未年과 大王年이 서로 다른 의미를 내포하고 있다면,
예를 들어 癸未年은 斯麻王이 즉위한 년이고, 大王年은 또 다른
왕을 의미한다면 마땅히 大王年이 앞에 나오고, 癸未年은 그 다음에
나와야 하는 것이다. 이것이 마땅한 禮法이다. 그런데 癸未年이
먼저 나오고 다음에 大王年이 나오는 것은 바로 이 癸未年이
大王年에 다름 아니라는 의미를 내포하고 있는 것이다.

 

또 일부 일본인 역사 학자들의 주장에 의하면 "癸末年八月日十大王年"은
"癸末年八月, 日十大王年"으로 끊어서 읽어야 한다고 한다.
그런데 우리는 먼저 이 人物畵像鏡이 백제에서 만들어진 것이라는 것을
상기할 필요가 있다. 백제의 誌石 및 銅鏡이나, 舍利函, 碑文 등에서 발견 되는
銘文은 年,月,日이 빠짐없이 기록되어 있다.
예들 들어 보도록 하자.

 

1)武寧王의 誌石

 

寧東大將軍百濟斯麻王年六十二歲
癸卯年五月丙戌朔七日壬辰崩到
乙巳年八月癸酉朔十二日甲申安爀登冠大墓立志如左

 

寧東大將軍 百濟 斯麻王이 62歲되던
癸卯年 5월 7일에 崩御하시고
乙巳년 8월12일에 올려 모셔 大墓에 기록하기를 이상과 같다.


2)王興寺址 舍利器 銘文

 

丁酉年二月 十五日百濟王昌爲三王子
立刹本舍利二枚葬時神化爲三

 

丁酉年(577년) 2월 15일에 백제왕 昌(27대 威德王)이 세 왕자를
위해 탑을 세웠다. 본래 舍利는 2枚였으나 葬禮(사리를 柱礎 중에
묻는 의식을 가리킴) 때 신묘한 변화로 3개가 되었다


3)砂宅智積碑

 

寅年正月九日奈祗城砂宅智積慷身日之易往慨體
月之難還□金以建珍堂조玉以立寶塔□□
慈容吐神光以送雲□□悲貌含聖朗以

 

寅年 정월 9일, 奈祗城의 砂宅智積은 해가 쉽게 가는 것을 슬퍼하고
달이  어렵게 돌아오는 것이 서러워 금을 캐어 귀중한 堂을 짓고 옥을
파서 보배로운 탑을 세웠다. 우뚝 솟은 자애로운 모습은 신령한 빛을
吐해 구름을 보내고, 뾰족하니 슬픈 모습은 성스러운 밝음을 머금어...

 

이러한 예에서 보듯이 백제인들이 銘文을 남길 때 年,月,日을 전부
다 기록하였지 年,月만 기록하는 경우는 없다는 것을 알 수 있다.
그렇다면 人物畵像鏡의 銘文에서 "八月日十大王年"이라고
기록된 것은 무슨 까닭일까? 이는 "八月十日大王年"으로 기록할
경우 본래의 의도와는 다르게 大王年이 "十日大王年"이 되어
大王年의 의미를 激減시키기 때문에 十日의 글자를 서로 바꾸어
日十으로 기록한 것으로 생각된다.  이때 해석은 "日은 十"이라고
하였을 것이다.

 

人物畵像鏡의 銘文을 통해서 볼 때 斯麻王은 스스로를 大王이라고
하였고, 倭를 侯國으로 여기고 있는 것을 알 수 있다.
그러면 백제왕들이 스스로를 大王이라고 일컬은 역사적 근거가
있는가? 중국 역사서인 南齊書에 그 근거가 될 수 있는 기록이
있다. "建武 2년(495년, 東城王 17)에 牟大가 사신을 보내어
表文을 올려 "지금 天下가 조용해진 것은 沙法名 등의 업적이니
그 공훈을 마땅히 표창해야 할 것입니다. 이에 沙法名을
假行征虜將軍 邁羅王으로 (중략) 解禮昆을 假行武威將軍
弗中侯로(중략) 삼았습니다."
위 기록을 보면 東城王 때 백제에는 大王  이외에 近親
王族(王弟,王父)으로 王,侯 등의 侯王이 있었음을 알 수 있다.
또 백제 武寧王의 墓誌石에 중국 天子가  사용하는  崩이라는 글자가
새겨져 있는 것은 곧 그가 生前에 大王이었다는 또 다른 증거이다.
그리고 일본서기 欽明天皇 2년 夏4월을 보면 任那의 旱岐들이
백제 聖王을 大王이라고 號稱하는 것을 볼 수 있다. 그런데 梁職貢圖를
보면 바로 이 任那에 해당하는 지역(叛波, 卓, 多羅, 前羅, 止迷,
麻連, 上己文, 下枕羅)이 백제에 附庸하는 小國이라고 기록되어 있어,
백제의 傍小國이 백제왕을 大王이라고 호칭한 것을 알 수 있다.
또한 칠지도 銘文을 보면 백제 王世子가 왜왕을 侯王이라고 號稱하고
있어서 명실공히 백제왕은 倭에 대하여 大王의 위치에 있다는 것을
확인할 수가 있는 것이다.

 

그리고 男弟王은 5세기 당대의 人物畵像鏡의 銘文에 등장하는
倭의 實力者의 이름인데,  ibm1082님의 卓見대로 男弟라는 이름은
원래 地名이었다고 생각된다. 일본서기 繼體天皇 12년을 보면,
"弟國으로 도읍을 옮겼다"고 기록되어 있는 바, 이 弟國은 원래
男弟王이 백제의 擔魯로서 다스리던 倭의 한 지역이었을 가능성이 많다.
백제에서는 백제왕이 擔魯인 왕이나 侯를 임명할 때 그 地域
名으로 임명하는 경우가 많았다. 예를 들면 邁羅王, 弗中侯 등이
그것이다. 이처럼 男弟라는 이름은 地名에서 비롯되었으나, 후일
그것이 고유명사化한 것이라고 생각된다.

 

그런데 위의 銘文을 보면 大王年이라는 年度가 나오고, 그 후에
斯麻라는 이름이 나온다. 그냥 이름 그대로다. 이것은 앞에 大王年이라고
이미 表記가 되어 있기 때문에 글을 쓸 수 있는 좁은 공간을 고려하여
斯麻王이 자신의 諱만을 썼고, 또 男弟王에게 斯麻王이 자신의 이름만을
기록함으로써 자신보다 年長者인 친척(백제의 擔魯는 왕자, 왕족의 신분인
경우가 대부분이었다)에 대한 예우를 하였다고 본다.

 

그러면 斯麻王이 人物畵像鏡을 만들도록 지시한 開中費直(注1)과 濊人 今州利는
과연 어떠한 사람일까? 우선 開中의 뜻이 무엇인지 부터 알아보기로 하자.
蘇鎭轍 교수에 따르면 開中은 곧 河內를 의미한다고 한다. 즉 일본 열도에
있는 大阪 지역을 의미한다는 것이다. 이 大阪에는 고대에 이 지역 人口의
팔구십 퍼센트가 百濟人이라고 할 만큼 百濟人이 많이 살고 있었다.
그리고 費直은 왕 다음 가는 實勢로서 특정 지역을 다스리는 首長을 가리
키는 말이며 濊人은 강원도를 비롯한 한반도의 東北部에 터전을 두고
거주하던 種族의 이름이라고 한다. 그러니까 開中費直과  濊人 今州利는
開中 즉 河內 지역을 책임지고 다스리는 首長과 한반도 濊族 출신의
今州利라는 이름을 가진 사람이라는 의미를 가지고 있는 것이다.
바로 여기서 우리는 한반도의 백제에 있는 斯麻王이 일본 열도에 있는
倭王 다음 가는 자리를 차지하고 있는 開中費直에게 명령하여 人物畵像鏡을
만들게 하는 것을 발견할 수 있다. 이것은 무엇을 의미할까?
첫째로 斯麻王이 한반도의 百濟王으로 登極하기 전에 開中費直에게 명령을
내릴 수 있는 위치에 있었다는 것, 즉 倭王으로 있었다는 것을 의미하며,
둘째로 斯麻王이 한반도의 백제에 王으로 있으면서도 倭王의 의견을 듣지도
아니하고 일본 열도에 있는 最高位官吏에게 마음대로 명령할 수 있는 것은
그가 곧 한반도와 倭 열도를 아울러 다스리는 大王이라는 것을 의미한다고
할 수 있다.

 

注1) 開中費直(kawachinoadai) : 人物畵像鏡의 銘文에는 開中費直인데, 일본서기
欽明天皇 2년에는 河內直(kawachinoadai)이라는 官職名과 함께 백제本記를
인용하여 加不至費直이라고 한다고 기록되어 있다. 그런데 앞의 kawa는 원래
kara>kaha>kawa로 변천한 단어여서 河內直 혹은 加不至費直은 加羅의 지역을
다스리는 관리를 의미한다. (kawachinoadai의 원래 표기는 河內直이 아닌
加不至費直이었다고 생각된다. 왜냐하면 이 용어 자체가 百濟語이기 때문이다)
즉 開中費直은 백제에서 파견되어 傍小國인 加羅와 侯國인 倭의 최초 擔魯國인
百濟郡(=河內) 일대(현재의 大阪, 원래는 加羅人들이 와서 살던 곳이었으나 후일
백제가 점령한 지역)를 다스리는 관리를 의미한다.

 

 

 

 

 

 

武寧王이 男弟王(男大迹)에게 人物畵像鏡을 보낸 때는
일본서기에 의하면 아직 男弟王이 왕위에 오르기 4년 전이었다.
삼국사기의 기록에 의하면 백제 東城王이 白加에게 刺殺을 당하자,
斯麻王이 王位를 계승하는데 그때 나이가 40세이다.
(삼국사기에서는 백제본기의 斯麻王을 그가 왕위에 즉위한 때,
곧 나이 40세인 때부터 기록하고 있다. 그 이전의 기록은 없다)
그러면 40세 이전에 斯麻王은 무엇을 하고 있었던 것일까?
앞서 언급한 대로 23년 동안 倭王으로서 倭 열도를 다스리고 있었던 것이다.
바로 그것은 倭王武가 宋의 天子에게 보낸 上表文(倭王武의 卽位年은
478년, 475년에 倭王武의 부친과 兄이 사망) 및 과거로 소급되어
蓋鹵王의 卽位年에 맞추어진 雄略天皇의 在位期間 23년에서
확인할 수 있다.  다시 말해서 소급되어진 雄略天皇의 在位期間 23년을
雄略天皇의 死亡年(479년)부터 시작하여 다음  天皇代로 계속 세어
나가기 시작하면 바로 百濟 斯麻王이 백제로 건너간 시기를 推算하여
낼 수가 있는 것이다. 즉 479년 + 23년 = 502년이 된다.
바로 이 시기가 바로 架空의 천황인 일본서기의 武烈天皇 4년이다.
다시 말해서 倭王武 곧 百濟王으로 登極하기 전의 斯麻王이 倭王으로
在位한 마지막 年度가 되는 것이다.

 

그런데 이 시기에 男弟王은 아직 倭王으로서 왕위에 오르기 4년 전이다.
왜 男弟王은 倭王으로서 왕위에 오르지 못했던 것일까? 바로 그것은
斯麻王이 倭王의 지위를 지닌 채 백제로 건너와 있었기 때문이다.
人物畵像鏡은 바로 大王이었던 백제 斯麻王이 아직 王位에는
오르지 못했지만 斯麻王에게서 倭王의 권한을 委任받아 그 권한을
행사하고 있는 男弟王에 대한 信任의 標로서 , 男弟王의 倭 統治에 대한
認證書로서 男弟王에게 보내어진 것이다. (男弟王이 왕위에 오르지도
아니하였는데, 어찌하여 王號를 지니고 있느냐고 질문하는 사람들이
있다. 그런데 백제에서는 왕자나 왕족들이 王으로 불리우고 있었다.
바로 이 점이 百濟王이 스스로를 大王이라고 일컬었다는 또 다른 증거이다)

 

[참고]

1.백제 武寧王의 誌石

寧東大將軍百濟斯麻王年六十二歲
癸卯年五月丙戌朔七日壬辰崩到
乙巳年八月癸酉朔十二日甲申安爀登冠大墓立志如左

寧東大將軍 百濟 斯麻王이 62歲되던
癸卯年 5월 7일에 崩御하시고
乙巳년 8월12일에 올려 모셔 大墓에 기록하기를 이상과 같다.
[해설]백제 武寧王의 誌石에 황제의 죽음을 의미하는 崩자가 새겨져 있다.
즉 백제 武寧王은 백제, 중국 대륙 일부, 倭 열도를 통치하는 황제이셨다.


2.梁書 列傳 諸夷 東夷 百濟

[원문]王餘隆始復遣使奉表,稱「累破句驪,今始與通好」.
而百濟更爲强國.
[번역문](백제)王 餘隆(=斯麻王)이 비로소 다시 使臣을 보내어
表를 올렸다. 이르기를 여러 번 高句麗를 破하고 이제야
비로소 友好를 通한다고 하였는데 백제는 다시 "强國"이
되었다.

3. 七支刀 銘文

*앞면* 泰(和)四年{五혹은四}月十{六}日 丙午正陽 造百練鐵
七支刀 {出} 百兵 宣供供候王 0000作 - 泰和 4年 五月(혹은 4月)
十六日 丙午正陽에 百鍊鋼鐵로 七支刀를 만들었다.
이는 나아가 百兵을 물리칠 수 있는 것이므로 候王에게 보내준다.
0000가 제작한 것이다.

*뒷면* 先世以來 未有此刀 百濟{王}世{子} 奇生聖音 故爲倭王旨
造傳示 {後} 世 - 先世以來로 이와 같은 칼은 없었다.
百濟(王)世(子) 奇生聖音이 倭王 旨를 위하여 만들었으니
後世에 길이 傳하여 보일지어다.

[해설]백제 王世子가 候王인 倭王에게 七支刀를 下賜하고 있다.
倭王이 백제의 候王이라고 4세기경의 유물 七支刀에 銘文으로 쓰여져 있다.
또 그런 글이 쓰여진 유물을 보물로 倭國이 간직하고 있다. 倭王이 바로 백제
王世子의 이 명령을 기억했기 때문이다. "傳示後世" (後世에 전하여 보여라)
이것을 보면 백제 왕세자들이 식민지 倭를 통치하는 총독인 것을 알 수 있다.

 

 

 


 

 


 



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