伝統文化紹介 Relationship

あ。 端書き

 

日本は徳川さん[徳川氏] 幕府(幕府) 末期の 1853年アメリカ海軍の艦砲射撃脅威に屈服して 1854年米・日本通産条約(美日通商條約)を締結して開国(開国)した後, 西洋勢力との通常貿易で貿易赤字が累積して西洋列強の圧力が加重されると難局打開の方法として韓国を侵略して征腹しようという鼎韓論(征韓論)を定立した.

 

近代以後日本の鼎韓論は 1850年代に吉田松陰[吉田松陰]が 17世紀日本国学(国学)を含めた一部日本人の歪曲された韓国館(韓国観)を受け継いで定立した政策として a。 先に三韓(三韓)を征腹して金・銀・物産のこれ(利)を取って貿易赤字をあてて日本の難局を打開して, b。 次に北では満洲(満州)とモンゴル(蒙古)まで ‘進出’して支配して, c。 南へは台湾(台湾)とフィリピン[呂宋]をおさめて支配するという侵略では(侵略論)だった.

 

 

吉田松陰の鼎韓論はいわゆる明治維新[明治維新] 直後の 1869年頃に城東ダカー要の時[木戸孝允] などによって政治的側面でもっと発展したし, 1873年頃にはサイコダカー森[西郷隆盛]・イタがキDaisuke[板垣退助]・ などによって具体的決めた(征韓) 計画が樹立されたりした. しかし 1873年 9月に帰国したこれと区だとドモミ[岩倉具視] など欧米視察団がゾングハンの時期尚早を指摘してソンネチ(先内治) 厚情した(後征韓)を主張することで選定した(先征韓) フネチ(後内治)を主張する西向き派(西郷派)と尖鋭に対立した. 結局権力闘いで西向き派が敗れて政権をアムチァングパ(岩倉派)が主導するようになったが, これは日本の明治政権(明治政権)の政策で鼎韓論が完全に消滅したのではなく戍だけで引き延びになったことに過ぎなかった. 日本が船内治下で近代的富国強兵(富国強兵)を実現した後には彼らも韓国を侵略・征腹して植民地にして永久的に支配する目標を持っていた.

 

 

が文では鼎韓論は韓国侵略では(韓国侵略論) そのものなので扱わないでアムチァングパが日本内の権力闘いで勝利した以後より狡く日本帝国主義政府の韓国侵略を擁護して正当化した日本帝国主義擁護では(日本帝国主義擁護論)から扱おうと思う. しかし主題は膨大で地面は極めて制限されているので日本帝国主義海外侵略(日本帝国主義海外侵略)を擁護して正当化した日帝(日帝) 殖民主義史観(植民主義史観)を中心にして極めて選別的に主題を限定して論述しようと思う.

 

い。 日本の殖民主義史観(植民主義史観)の台も及び韓国歴史打率性では(韓国歴史他律性論)とその批判

 

 

日本では 1850年代後半に吉田松陰などによって ‘鼎韓論(征韓論)’が頭をもたげて, 1868年明治維新でチンファング(親皇) 政権が樹立された後鼎韓論が国策に採択されると日本の韓国侵略を歴史的に正当化して擁護しながら日本国民を韓国侵略に動員するために韓国歴史を ‘鼎韓論’に合わせて解釈しようとする動きが頭をもたげた. そして日本最初で 1882年 3月日本陸軍参謀本部(日本陸軍参謨本部)で朝鮮国史編纂(朝鮮国史編纂) 作業が始まった.

 

近代日本で韓国歴史に対する編纂作業を学界で学者たちが学問的真実を探求する目的に始めないで日本陸軍参謀本部で ‘鼎韓論’の実践のための精神全力(精神戦力) 体系樹立の一環で始めたという事実が韓国歴史を歪曲して彼らの韓国侵略を正当化して擁護するように捏造する蓋然性を示唆するのだった. 引き継いで 1885年東京[東京]の帝国大学(帝国大学)が設立されて, 1887年その中に史学科(史学科)が設置されると日本陸軍参謀本部傘下編纂と(編纂科)の朝鮮国史編纂事業が帝国大学史学科に移管された. 日本の帝国大学は史学との主任教授でドイツで実証主義(実証主義) 歴史学派の対価で有名なランケ(Leopold von Ranke)の弟子であるリース(Ludwig von Riess)を招いて日本学徒たちがドイツ歴史学派の近代的歴史研究方法を取るようにした. しかしランケ学派であるリース教授の歴史研究方法論が日本明治政権の国策として韓国・満洲侵略のための士官や邪論を歪曲・定立するのに誠意ある協力ができないで, 1889年には史学科と別に国史学と(国史学科)をまた新設するようになった. その結果史学科ではリース教授の指導の下に主に西洋史学を勉強したし国史学科では日本人学者たちが中心になって国策としての日本歴史体系樹立と決めた(征韓)の目的を果たすのに協力して韓国侵略を正当化しながら擁護するための韓国歴史に対する殖民主義史観を定立するのに集中し始めた.

 

 

まず帝国大学国史学と教授たちであるシゲノ−ヤツスで[重野安繹], Gumeクニダケ[久米邦武], ホシノ−尚[星野恒] などが 1890年に『国史の中(国史眼)』という教科書を出版したが人々は韓国が古代開国と同時に日本の服属国(服属国)であることを強調して, 例えば日本のツルウンシンファ(出雲神話)から出るスサノ−オノ−米してからも[素佐之男尊]が古朝鮮(古朝鮮)の支配者になって, イナヒノ−ミしてからも[溜永命]が新羅(新羅)の国王になって, 彼の息子アメノ−ヒボコ[天日槍]が日本にグィボック(帰服)と, 神功王后(神功王后)が新羅を征伐して降参させたと主張した. もちろんこれが彼らの荒唐無稽(荒唐無稽)一捏造なのはもう言うまでもない.

 

 

なので日本の帝国大学史学科出身であるHayashiタイ号[林泰輔] などは 1892年に『朝鮮社(朝鮮史)』(5本)を刊行したが, 彼はここで大伽揶(大伽〓)の王子俄羅斯(阿羅斯)が日本国王を尋ねて内助(来朝)したし, 後に国名を変えて任那(任那)と言ったし, いわゆる神功王后在位期の時には任那に日本府(日本府)を置いたが, 伽揶の 7国が皆ここに属したし, 後に近所の小国をもっと竝合して皆任那だと呼んだと記述した.

 

Hayashiがずいぶん前から捏造された日本の古代史料を歪曲・使って作り出した いわゆる ‘任那日本府説(任那日本府説)’は近代に入って初めて日本人たちが敍述した韓国歴史にいわゆる任那日本府(任那日本府)という捏造された偽りを正式で挟みこんで 古代伽揶の昔の地が皆日本の征服誌(征服地)であったし百済と新羅も日本の神国(臣国)だったというとんでもない憶説(臆説)を捏造し出したのだった.

 

 

Hayashiが日本帝国主義勢力の韓国侵略を史学で擁護して, 傍助するために韓国民族の過去の事実と能力を捐下して歪曲する中に一番大きく歪曲させた部分が高麗大学韓国民族の中国と日本に対する関係だった. 彼は古代朝鮮が時には北方の中国に, 時には南方の日本に服属してはじめから自律性(自律性)がない打率性(他律性)の民族だったのを主張して, いわゆる ‘任那日本府説’を除いてからもいわゆる神功王后が新羅を侵攻して征伐(征伐)したと主張した.

 

Hayashiは a。 いわゆる任那日本府説 b。 いわゆる神功王后の新羅征伐説(新羅征伐説) 以外にも c。 百済が日本に服属されて朝貢を捧げたという説 d。 百済が日本に保護を依頼して滅亡を兔れたという説 e。 高句麗が日本の臣下になって朝貢したという説 f。 新羅が三韓を平定した以後にも日本を軍国(君国)で仕えて朝貢したという説...... などを主張した. 彼のこのような主張などはもちろん捏造されて歪曲された荒唐無稽した主張だ.

 

 

日本の帝国大学史学科と国史学との教授たちと卒業生たちは 1889年史学回(史学会)を組織して『史学回雑誌(史学会雑誌)』を刊行しながら, この雑誌にYoshidaドオで[吉田東伍]・ナカ及んでください[那珂通世]・シラトリグラキチ[白鳥庫吉]・シデしなさい平[幤原坦]・ツボイ駆魔組[坪井九馬三] など多数の新進学者たちが彼らの殖民主義史観に基づいて韓国歴史を歪曲した論文たちを本格的に発表し始めた.

 

日本帝国主義侵略者たちは日本陸軍参謀本部が始めた事を学問研究の仮面をかぶって帝国大学の歴史学者たちが代行してくれると気高万丈(気高万丈)して日本が韓国を ‘征伐’することは侵略ではなく古代に日本が支配した ‘日本旧領土(旧彊土)の回復で復旧(復旧)’と騷いで宣伝した. 日本政府が体系的な教育によって捏造された韓国歴史と日本歴史を国民と学生たちに教えると, これにだまされて暴れ狂う日本国民と日本学生たちがますます増加した.

 

 

日製のこのような初期殖民主義史観と韓国歴史に対する歪曲・捏造に正面から対抗した人物が短才(丹斎) シン・チェホ(申采浩, 1880‾1936)だった. 短才はもう 1908年頃に古代朝鮮が北方の中国に服属したという日本学者たちの主張を 無説(誣説)と一蹴しながら ‘たいてい(漢) 世宗(世宗)が設置した四郡(四郡)は 韓半島にはなかったし韓国人たちの先祖になる付与族(扶余族)とは無関係で中原の帝王だった数(隨) 羊蹄(煬帝), 党(唐) 太宗(太宗), 敷布団(遼) 成宗(聖宗) などは むしろ韓国を侵略してから敗れたが, 昔の韓国民族が中国に服属したという 日本人たちの主張は偽り’に過ぎないと読史新論(読史新論)を通じて駁した.

 

特に短才(丹斎)はいわゆる ‘任那日本府説’を含めて古代韓国が日本に服属したというHayashiなどの偽りされた主張などを自分の著述である読史新論できっぱりと不正で 次のように痛烈に批判した.

 

第一, 日本の女王(女王) 非Miho(卑彌乎)が新羅を侵犯したという主張は我が国の昔の歴史書には全然記録されていないのみならず日本の歴史書を見ても大魚協奏(大魚挟舟) 朝日級国(潮〓及国) などの彼ら資料説明が現わすところのように事実にない事を捏造し出した荒唐無稽した主張に過ぎない.

 

第二, もっとおかしいことは失性麻立干(実聖麻立干)が兄弟間に泊った感情を抱いて弟ミサフン(未斯欣)を外国で放逐した事があるのに日本学者たちが非Miho(いわゆる神功王后)のいわゆる新羅征伐説(新羅征伐説)を証明するために神功王后(神功王后)が新羅を侵攻すると新羅の国王が屈服して弟であるミサフンを日本に人質に送ったと歪曲して捏造したのだ.

 

 

第三, 古代には日本が我が国のどの地も占拠した事実のないのに彼らは日本が大伽揶を滅ぼしていわゆる ‘任那日本府’を設置したと捏造して主張しながらまるで日本が韓国の国土を占拠することを歴史上の常例と一緒に見るようにしようとしたのだ.

 

短才は日製の初期殖民主義史観のいわゆる ‘任那日本府説’が全然歴史的事実ではない荒唐無稽するように捏造された無説(誣説)と痛烈に批判した.

 

短才は高句麗の国力が強大で何回にかけた中国の侵略も飽きたのに日本に朝貢したということは荒唐無稽した主張だと日本学者たちを痛烈に批判した. 短才は百済と新羅も剛性して文化が大きく先進して日本に朝貢するとか服属するどころか返って百済と新羅の先進文化を日本に教えてくれて日本を開化させてくれたと歴史的事実をあげて日製の初期殖民主義史観を一つ一つ批判した.

 

 

それでは日本の歴史学者たちが韓国歴史をこんなに歪曲して捏造しながらこのような荒唐無稽した嘘を歴史的事実のように主張する理由は何か? 短才はその理由を次のように二つで分けて入った.

 

第一, 韓国を古代から日本の所有物のように認識するようにして韓国を侵略するのだ.

 

第二, そんなことで日本国民の畏敬思想(外競思想)を鼓吹して国民精神を振作させるためのことだ.

 

短才は日帝殖民主義史観の韓国歴史に対する歪曲と捏造の目的をこんなに鋭く指摘した. 彼は ‘虚無(虚無)意思(斯)’もますます繰り返えせば ‘確かな死’と一緒になると警告こんにちはだった. すなわち『三国志(三国志)』・『守護だ(水滸誌)』が小説のとは皆分かるもののそれを重ねて読んで重ねて伝えるの間に諸葛功名(諸葛孔明)の錦嚢三戒(錦嚢三計)やムソング(武松)の敬譲網打豪奢(景陽罔打虎事)をまるで事実であることのように思うようになることのように彼ら日本人は皆歴史書の中で “韓国が元々日本の属国と言った類”の言葉を書き入れて商戦サンソン(相伝相誦)ハメ学校講義では日本の子供が嬉しくて走って閑居読書(間居読書)の場合には帳簿の勇気がほとばして韓国を昔から日本の所有物と一緒に考えさせて韓国を侵略して征腹して日本の所有物で作るのが当たり前だと思うようになるというのだ.

 

短才はここで日本帝国主義勢力の韓国侵略を擁護して正当化する日帝殖民主義史観の弊害をよく認識して異意徹底的な批判と克服を促したのだった.

 

 

大韓帝国末期に 日本帝国主義勢力の韓国侵略を擁護して正当化しようとする理論である 日製の初期殖民主義史観に一番鋭く抵抗して批判した人は短才(丹斎) シン・チェホ(申采浩)・白岩(白巌) 朴殷植(朴殷植) など韓国の民族主義歴史学者たちだった. しかし日帝が 1910年 8月韓国を完全植民地に強点することを前後して短才は 1910年 4月に, 白岩は 1911年 4月に中国に亡命した. 日帝は殖民主義史観に基づいて韓国併呑が ‘日本の旧領土(旧彊土)の回復であり, 復旧’と途方もない川辺をしながら, 日製は明治維新[明治維新] 時期に侵略目的に主張し始めた偽り学説である ‘日鮮同組論(日鮮同祖論)’をもっと強調して韓国民族の抵抗と独立運動を撫でさしようと企てた.

 

 

も日製は彼らの ‘鼎韓論(征韓論)’が元々韓国征服次に満洲侵奪を目的にしていたので, 南蛮鉄道株式会社(南満鉄道株式会社) 中に ‘満船地理歴史調査室(満鮮地理歴史調査室)’を設置して シラトリグラキチ[白鳥庫吉]・松井Hitoshi[松井等]・IkeuchiHiroshi[池内宏] などを中心に至ったところ ‘満船社(満鮮史)’という植民主義史学を作り始めた.

 

日製の御用史学者たちはこのような作業をした中に韓国民族主義史学係で出版した書籍から大きい打撃を受けた. 白岩朴殷植が 1915年『韓国通史(韓国通史)』を著述・刊行して海外の独立運動家たちの間に広く読ませた のみならず国内にも秘密裡に流入されて民族独立思想を鼓吹したからだ. 日製はこれに対する対抗策として日帝殖民主義史観による『朝鮮半島社(朝鮮半島史)』を編纂・普及するために 1916年に ‘朝鮮半島社編纂委員会(朝鮮半島史編纂委員会)’を朝鮮総督府(朝鮮総督府) 中に設置した. これは韓国民族が日本の支配から独立する名分と実利が絶対ないし, 永遠に日本の植民地奴隷に暮さなければならないという論理を強調して 殖民主義史観を普及して注入させるために日帝(日帝)が用意した最善の方策だった.  

 

日帝は 1925年に朝鮮半島社編纂委員会を朝鮮史編修会(朝鮮史編修会)で改称して,『朝鮮半島社』も『朝鮮社』(私は37本)で改称して 1932年から刊行し始めた. この本は日帝の韓国侵略を ‘恩恵’で分かるようにして史料集も兼ねるように考慮して日帝の植民地政策に有利なことだけ選択して不利なことは皆抜いて韓国の歴史を日帝の植民地支配に相応しいように極度に捐下して歪曲したのだった.

 

朝鮮史編修会の会員たちを中心にその外郭ダンチェとして組職された朝鮮史学回(朝鮮史学会)が発行したその外の多数の韓国歴史に関する書籍たち,「チォンググハックチォング(青丘学叢)」など多くの学術雑誌に載せられた日本御用史学者たちの論文たちも日帝の韓国侵略と植民地支配を擁護して 正当化するために韓国歴史を極度に歪曲した. 歪曲のいくつかの要点を持てば次のようだ.

 

第一, 彼らは韓国民族史の起源が周辺国家の植民地(Colony)で始まったと捏造して主張した. 彼らは韓国歴史が記者朝鮮(箕子朝鮮)で始まると主張したり, 衛満朝鮮(衛満朝鮮)で始まると主張したりしたし, たいてい(漢)の植民地である漢四郡(漢四郡)で始まると主張したりした. 彼らは檀君朝鮮(檀君朝鮮)は事実にない荒唐無稽した神話に過ぎないと強調して主張して, 韓国民族の古代史が北方民族の植民地から出発したことを強調するのに発狂した.

 

第二, 彼らは韓国歴史の特徴を打率性だと強調して主張した. 彼らは韓国歴史が高麗大学以後最近世に至るまで北では強大な北方民族と中国, 南へは日本の繩張と影響圏の下あったし, したがって外勢によって韓国歴史が決まった打率性の歴史を兔れることができなかったと主張した. そして彼らは北方民族の支配力を強調しながら韓国歴史の部首性(附隨性), 周辺性(周辺性)を強調していわゆる ‘満船士官(満鮮史観)’を主張して韓国歴史の打率性を主張したり, いわゆる ‘任那日本府説’を捏造して日本が古代にあぶらはや部屋に直轄植民地を設置して新羅と百済も支配したし高句麗の朝貢も受けたという虚偽事実を捏造したり, 韓国歴史のこのような打率性は韓国の ‘半島’という地理的環境から出た ‘半島的性格’として運命的なことだと主張したりした. このような主張などが捏造されて歪曲されたことだったのはもう言うまでもない.

 

第三, 彼らは韓国歴史の打率性から出たことだと言いながら韓国歴史の特徴一つを事大性(事大性)と歪曲して非常に強調した. 韓国民族は周辺の強大国に従って彼らに寄り掛かって国家と生命を維持して来た事大主義の歴史を持ったのが特徴だと彼らは主張した.

 

 

第四, 彼らは韓国歴史に現われる文化は独創性(独創性)がなくて宗主国を模倣したことに過ぎない模倣性(模倣性)が特徴だと歪曲して主張した.

 

五番目, 彼らは韓国歴史は高麗大学以後最近世まで党争(党争), 政争(政争)が支配して党派性(党派性)が支配した特徴を持っていると歪曲して主張した. 彼らは韓国歴史の党派性が思索党争(四色党争)だけではなく事大性と結合して親院派(親元派), 親命派(親明派), 親清派(親清派), 親老婆(親露派) などパダンを建てて一度島まともに団結して見られなかったことが韓国歴史の特徴だと歪曲して主張した.

 

 

六番目, 彼らは日帝が韓国を併呑して ‘童話(同化)’という名前で韓国民族抹殺政策を実施して韓国民族を永久に消滅させて日本民族内の賎民層で編入する政策を推進するとここに補助を合わせて, 韓国民族は元々日本民族と先祖が等しかったと主張しながら, 王倹(王倹) 檀君(檀君)が消残・鎖残オゾン(素盞嗚尊)の弟と主張したり, 韓国民族が日本民族の恨み支流だと主張したりするなどさまざまな形態の捏造されたいわゆる日鮮同組論(日鮮同祖論)を主張した.

 

七番目, 彼らは韓国歴史は長期間アイデンティティ(停滞性)が支配して内部で自ら発展することができる能力と原動力を欠けたし, 19世紀末と 20世紀初の韓国社会の発展段階は日本の古代言葉や 10世紀Fujiwara[藤原] 時代にあたると歪曲して主張した. この点は臓を変えてまた論議する事にする.

 

 

八番目, 彼らはここに止めないで韓国歴史を支配したこのような特徴たちが韓国人の買って来て行動と日常生活に沈積して民族的性格で固着して韓国民族は事大性・党派性・模倣性など劣悪な民族性を持つようになったと捏造して歪曲して主張した.

 

日製御用学者たちのこのような主張などは皆が韓国歴史の暗い面を浮上させて歪曲して捏造したものなどだった. 日本人たちが韓国歴史の創造的な面, 自主独立, 剛性した面, 誇らしいこと, 勝利した面, 団結したことを皆不正で韓国歴史を事実と違うように徹底的に歪曲したことは一方で日本帝国主義勢力の韓国侵略と植民地支配を擁護して正当化することと同時に他の一方で韓国民族の独立思想を根源から消滅させてしまおうと企てたのだった.

 

日製御用学者たちのこんな主張などはとても途方もない歪曲と捏造なのでここで一つ一つ批判するより結論で集めてまとめて批判する事にする.

 

 

◆ 出処 〓 社会史(社会史) 研究叢書第8冊「日帝(日帝)の植民地政策と殖民至近対話では(植民地近代化論) 批判」文学と知性社編(2006年版)

 

◆ 解説 〓 シン・ヨンハ(愼〓廈) 漢陽大学校社会学科碩座教授

 

{引き続き}


일본 제국주의 옹호론(日本帝國主義擁護論)과 그 비판 ⓐ

㈀ 머리말

 

일본은 도쿠가와씨[德川氏] 막부(幕府) 말기인 1853년 미국 해군의 함포 사격 위협에 굴복하여 1854년 미·일통상조약(美日通商條約)을 체결하고 개국(開國)한 후, 서양 세력과의 통상무역에서 무역적자가 누적되고 서양 열강의 압력이 가중되자 난국 타개의 방법으로서 한국을 침략하여 정복하자는 정한론(征韓論)을 정립하였다.

 

근대 이후 일본의 정한론은 1850년대에 요시다 쇼인[吉田松陰]이 17세기 일본 국학(國學)을 비롯한 일부 일본인의 왜곡된 한국관(韓國觀)을 계승하여 정립한 정책으로서 ⓐ 먼저 삼한(三韓)을 정복하여 금·은·물산의 이(利)를 취해서 무역적자를 충당하고 일본의 난국을 타개하며, ⓑ 다음에 북으로는 만주(滿州)와 몽고(蒙古)까지 ‘진출’하여 지배하고, ⓒ 남으로는 대만(臺灣)과 필리핀[呂宋]을 거두어 지배한다는 침략론(侵略論)이었다.

 

요시다 쇼인의 정한론은 이른바 메이지유신[明治維新] 직후인 1869년경에 기토 다카요시[木戶孝允] 등에 의하여 정치적 측면에서 더욱 발전되었으며, 1873년경에는 사이코 다카모리[西鄕隆盛]·이타가키 다이스케[板垣退助]· 등에 의해 구체적 정한(征韓) 계획이 수립되기도 하였다. 그러나 1873년 9월에 귀국한 이와쿠라 도모미[岩倉具視] 등 구미시찰단이 정한의 시기상조를 지적하고 선내치(先內治) 후정한(後征韓)을 주장함으로써 선정한(先征韓) 후내치(後內治)를 주장하는 서향파(西鄕派)와 첨예하게 대립하였다. 결국 권력 투쟁에서 서향파가 패배하여 정권을 암창파(岩倉派)가 주도하게 되었지만, 이것은 일본의 명치정권(明治政權)의 정책에서 정한론이 완전히 소멸된 것이 아니라 순서만 지연된 것에 불과했다. 일본이 선내치하여 근대적 부국강병(富國强兵)을 실현한 후에는 그들도 한국을 침략·정복해서 식민지로 삼아 영구적으로 지배할 목표를 갖고 있었다.

 

이 글에서는 정한론은 한국침략론(韓國侵略論) 그 자체이므로 다루지 않고 암창파가 일본내의 권력 투쟁에서 승리한 이후 보다 교활하게 일본 제국주의 당국의 한국 침략을 옹호하고 정당화한 일본 제국주의 옹호론(日本帝國主義擁護論)부터 다루려고 한다. 그러나 주제는 방대하고 지면은 극히 제한되어 있으므로 일본 제국주의 해외침략(日本帝國主義海外侵略)을 옹호하고 정당화한 일제(日帝) 식민주의사관(植民主義史觀)을 중심으로 하여 극히 선별적으로 주제를 한정해서 논술하려고 한다.

 

㈁ 일본의 식민주의사관(植民主義史觀)의 대두 및 한국 역사 타율성론(韓國歷史他律性論)과 그 비판

 

일본에서는 1850년대 후반에 요시다 쇼인 등에 의해 ‘정한론(征韓論)’이 대두되고, 1868년 메이지유신으로 친황(親皇) 정권이 수립된 후 정한론이 국책으로 채택되자 일본의 한국 침략을 역사적으로 정당화하고 옹호하며 일본 국민들을 한국 침략에 동원하기 위하여 한국 역사를 ‘정한론’에 맞추어서 해석하려는 움직임이 대두되었다. 그리하여 일본 최초로 1882년 3월 일본 육군 참모본부(日本陸軍參謨本部)에서 조선국사 편찬(朝鮮國史編纂) 작업이 시작되었다.

 

근대 일본에서 한국 역사에 대한 편찬 작업을 학계에서 학자들이 학문적 진실을 탐구할 목적으로 시작하지 않고 일본 육군 참모본부에서 ‘정한론’의 실천을 위한 정신전력(精神戰力) 체계 수립의 일환으로 시작했다는 사실이 한국 역사를 왜곡하여 그들의 한국 침략을 정당화하고 옹호하도록 날조할 개연성을 시사하는 것이었다. 이어서 1885년 도쿄[東京]의 제국대학(帝國大學)이 설립되고, 1887년 그 안에 사학과(史學科)가 설치되자 일본 육군 참모본부 산하 편찬과(編纂科)의 조선국사 편찬 사업이 제국대학 사학과로 이관되었다. 일본의 제국대학은 사학과의 주임교수로 독일에서 실증주의(實證主義) 역사학파의 대가로 유명한 랑케(Leopold von Ranke)의 제자인 리스(Ludwig von Riess)를 초빙하여 일본 학도들이 독일 역사학파의 근대적 역사 연구방법을 섭취하게 하였다. 그러나 랑케 학파인 리스 교수의 역사 연구방법론이 일본 명치정권의 국책으로서 한국·만주 침략을 위한 사관이나 사론을 왜곡·정립하는데 성의 있는 협력을 하지 못하자, 1889년에는 사학과와 별도로 국사학과(國史學科)를 다시 신설하게 되었다. 그 결과 사학과에서는 리스 교수의 지도하에 주로 서양사학을 공부하였고 국사학과에서는 일본인 학자들이 중심이 되어 국책으로서의 일본 역사 체계 수립과 정한(征韓)의 목적을 달성하는데 협력하고 한국 침략을 정당화하며 옹호하기 위한 한국 역사에 대한 식민주의사관을 정립하는데에 집중하기 시작하였다.

 

우선 제국대학 국사학과 교수들인 시게노 야츠쓰구[重野安繹], 구메 쿠니다케[久米邦武], 호시노 히사시[星野恒] 등이 1890년에『국사안(國史眼)』이라는 교과서를 출판했는데 이들은 한국이 고대 개국과 동시에 일본의 복속국(服屬國)임을 강조하여, 예컨대 일본의 출운신화(出雲神話)에서 나오는 스사노오노 미코도[素佐之男尊]가 고조선(古朝鮮)의 지배자가 되고, 이나히노미코도[溜永命]가 신라(新羅)의 국왕이 되며, 그의 아들 아메노히보코[天日槍]이 일본에 귀복(歸服)하고, 신공왕후(神功王后)가 신라를 정벌하여 항복시켰다고 주장하였다. 물론 이것이 저들의 황당무계(荒唐無稽)한 날조임은 더 말할 필요도 없다.

 

이어서 일본의 제국대학 사학과 출신인 하야시 타이호[林泰輔] 등은 1892년에『조선사(朝鮮史)』(5책)를 간행했는데, 그는 여기서 대가야(大伽倻)의 왕자 아라사(阿羅斯)가 일본 국왕을 찾아가 내조(來朝)했고, 뒤에 국명을 바꾸어 임나(任那)라고 했으며, 이른바 신공왕후 재위기 때에는 임나에 일본부(日本府)를 두었는데, 가야의 7국이 모두 이에 속했으며, 후에 부근의 소국을 더욱 병합하여 모두 임나라고 불렀다고 기술하였다.

 

하야시가 오래 전부터 날조된 일본의 고대 사료를 왜곡·사용하여 만들어낸 소위 ‘임나일본부설(任那日本府說)’은 근대에 들어와서 처음으로 일본인들이 서술한 한국 역사에 이른바 임나일본부(任那日本府)라는 날조된 거짓을 정식으로 끼워 넣어 고대 가야의 옛 땅이 모두 일본의 정복지(征服地)였으며 백제와 신라도 일본의 신국(臣國)이었다는 당치도 않은 억설(臆說)을 날조해낸 것이었다.

 

하야시가 일본 제국주의 세력의 한국 침략을 역사학으로 옹호하고, 방조하기 위하여 한국 민족의 과거의 사실과 능력을 폄하하고 왜곡하는 중에 가장 크게 왜곡시킨 부분이 고대 한국 민족의 중국과 일본에 대한 관계였다. 그는 고대 조선이 때로는 북방의 중국에, 때로는 남방의 일본에 복속하여 처음부터 자율성(自律性)이 없는 타율성(他律性)의 민족이었음을 주장하고, 이른바 ‘임나일본부설’을 제외하고도 이른바 신공왕후가 신라를 침공하여 정벌(征伐)했다고 주장하였다.

 

하야시는 ⓐ 이른바 임나일본부설 ⓑ 이른바 신공왕후의 신라정벌설(新羅征伐說) 이외에도 ⓒ 백제가 일본에 복속되어 조공을 바쳤다는 설 ⓓ 백제가 일본에 보호를 의뢰하여 멸망을 면했다는 설 ⓔ 고구려가 일본의 신하가 되어 조공했다는 설 ⓕ 신라가 삼한을 평정한 이후에도 일본을 군국(君國)으로 섬겨 조공했다는 설...... 등을 주장하였다. 그의 이러한 주장들은 물론 날조되고 왜곡된 황당무계한 주장이다.

 

일본의 제국대학 사학과와 국사학과의 교수들과 졸업생들은 1889년 사학회(史學會)를 조직하고『사학회잡지(史學會雜誌)』를 간행하면서, 이 잡지에 요시다 도오고[吉田東伍]·나카 미치요[那珂通世]·시라토리 구라키치[白鳥庫吉]·시데하라 다이라[幣原坦]·츠보이 구마조[坪井九馬三] 등 다수의 신진 학자들이 그들의 식민주의사관에 의거하여 한국 역사를 왜곡한 논문들을 본격적으로 발표하기 시작하였다.

 

일본 제국주의 침략자들은 일본 육군 참모본부가 시작한 일을 학문 연구의 탈을 쓰고 제국대학의 역사학자들이 대행해주자 기고만장(氣高萬丈)하여 일본이 한국을 ‘정벌’하는 것은 침략이 아니라 고대에 일본이 지배했던 ‘일본 구강토(舊彊土)의 회복이며 복구(復舊)’라고 떠들고 선전하였다. 일본 정부가 체계적인 교육에 의하여 날조된 한국 역사와 일본 역사를 국민들과 학생들에게 가르치자, 이에 속아서 날뛰는 일본 국민과 일본 학생들이 날로 증가하였다.

 

일제의 이러한 초기 식민주의사관과 한국 역사에 대한 왜곡·날조에 정면으로 대항한 인물이 단재(丹齋) 신채호(申采浩, 1880~1936)였다. 단재는 이미 1908년경에 고대 조선이 북방의 중국에 복속했다는 일본 학자들의 주장을 무설(誣說)이라고 일축하면서 ‘한(漢) 세종(世宗)이 설치한 사군(四郡)은 한반도에는 없었고 한국인들의 조상이 되는 부여족(扶餘族)과는 무관하며 중원의 제왕이었던 수(隨) 양제(煬帝), 당(唐) 태종(太宗), 요(遼) 성종(聖宗) 등은 오히려 한국을 침략했다가 패배했는데, 옛날 한국 민족이 중국에게 복속했다는 일본인들의 주장은 거짓’에 불과하다고 독사신론(讀史新論)을 통해 반박했다.

 

특히 단재(丹齋)는 이른바 ‘임나일본부설’을 비롯하여 고대 한국이 일본에 복속했다는 하야시 등의 거짓된 주장들을 자신의 저술인 독사신론에서 단호하게 부정하고 다음과 같이 통렬히 비판하였다.

 

첫째, 일본의 여왕(女王) 비미호(卑彌乎)가 신라를 침범했다는 주장은 우리 나라의 옛 역사서에는 전혀 기록되어 있지 않을 뿐더러 일본의 역사서를 보더라도 대어협주(大魚挾舟) 조일급국(潮溢及國) 등의 그들 자료 설명이 나타내는 바와 같이 사실에 없는 일을 날조해낸 황당무계한 주장에 불과하다.

 

둘째, 더욱 가소로운 것은 실성마립간(實聖麻立干)이 형제간에 묵은 감정을 품어 아우 미사흔(未斯欣)을 외국으로 추방한 일이 있는데 일본 학자들이 비미호(이른바 신공왕후)의 이른바 신라정벌설(新羅征伐說)을 증명하기 위하여 신공왕후(神功王后)가 신라를 침공하자 신라의 국왕이 굴복하여 아우인 미사흔을 일본에 인질로 보냈다고 왜곡하여 날조한 것이다.

 

셋째, 고대에는 일본이 우리 나라의 어느 땅도 점거한 사실이 없는데 그들은 일본이 대가야를 멸하고 이른바 ‘임나일본부’를 설치했다고 날조하여 주장하면서 마치 일본이 한국의 국토를 점거함을 역사상의 상례와 같이 보도록 만들고자 한 것이다.

 

단재는 일제의 초기 식민주의사관의 이른바 ‘임나일본부설’이 전혀 역사적 사실이 아닌 황당무계하게 날조된 무설(誣說)이라고 통렬하게 비판하였다.

 

단재는 고구려의 국력이 강대하여 여러 차례에 걸친 중국의 침략도 물리쳤거늘 일본에 조공했다는 것은 황당무계한 주장이라고 일본 학자들을 통렬하게 비판하였다. 단재는 백제와 신라도 강성하고 문화가 크게 선진해서 일본에 조공하거나 복속하기는커녕 도리어 백제와 신라의 선진문화를 일본에 가르쳐주고 일본을 개화시켜 주었다고 역사적 사실을 들어 일제의 초기 식민주의사관을 낱낱이 비판하였다.

 

그러면 일본의 역사학자들이 한국 역사를 이렇게 왜곡하여 날조하면서 이러한 황당무계한 거짓말을 역사적 사실처럼 주장하는 이유는 무엇인가? 단재는 그 이유를 다음과 같이 두 가지로 나누어 들었다.

 

첫째, 한국을 고대부터 일본의 소유물같이 인식하게 하여 한국을 침략하는 것이다.

 

둘째, 그렇게 함으로써 일본 국민의 외경사상(外競思想)을 고취하고 국민정신을 진작시키기 위한 것이다.

 

단재는 일제 식민주의사관의 한국 역사에 대한 왜곡과 날조의 목적을 이렇게 예리하게 지적하였다. 그는 ‘허무(虛無)의 사(斯)’도 날로 거듭하면 ‘확실한 사’와 같이 된다고 경고하였다. 즉『삼국지(三國志)』·『수호지(水滸誌)』가 소설인 줄 모두 알지만 그것을 거듭 읽고 거듭 전하는 사이에 제갈공명(諸葛孔明)의 금낭삼계(錦囊三計)나 무송(武松)의 경양망타호사(景陽罔打虎事)를 마치 사실인 것처럼 생각하게 되는 것과 같이 저들 일본인은 모두 역사서 속에서 “한국이 원래 일본의 속국이라 한 류”의 말을 써 넣어서 상전상송(相傳相誦)하매 학교 강의에서는 일본의 어린이가 기뻐 뛰며 한거독서(閒居讀書)의 경우에는 장부의 용기가 솟아올라 한국을 옛날부터 일본의 소유물과 같이 생각하게 해서 한국을 침략하여 정복해서 일본의 소유물로 만드는 것이 당연하다고 여기게 된다는 것이다.

 

단재는 여기서 일본 제국주의 세력의 한국 침략을 옹호하고 정당화하는 일제 식민주의사관의 폐해를 잘 인식하고 이의 철저한 비판과 극복을 촉구한 것이었다.

 

대한제국 말기에 일본 제국주의 세력의 한국 침략을 옹호하고 정당화하려는 이론인 일제의 초기 식민주의사관에 가장 날카롭게 저항하고 비판한 사람은 단재(丹齋) 신채호(申采浩)·백암(白巖) 박은식(朴殷植) 등 한국의 민족주의 역사학자들이었다. 그러나 일제가 1910년 8월 한국을 완전식민지로 강점함을 전후하여 단재는 1910년 4월에, 백암은 1911년 4월에 중국으로 망명하였다. 일제는 식민주의사관에 의거하여 한국 병탄이 ‘일본의 구강토(舊彊土)의 회복이요, 복구’라고 터무니없는 강변을 하면서, 일제는 메이지유신[明治維新] 시기에 침략 목적으로 주장하기 시작했던 거짓 학설인 ‘일선동조론(日鮮同祖論)’을 더욱 강조하여 한국 민족의 저항과 독립운동을 무마하려고 획책하였다.

 

또한 일제는 그들의 ‘정한론(征韓論)’이 원래 한국 정복 다음에 만주 침탈을 목적으로 삼고 있었으므로, 남만철도주식회사(南滿鐵道株式會社) 안에 ‘만선지리역사조사실(滿鮮地理歷史調査室)’을 설치하고 시라토리 구라키치[白鳥庫吉]·마쓰이 히토시[松井等]·이케우치 히로시[池內宏] 등을 중심으로 이른바 ‘만선사(滿鮮史)’라는 식민주의 역사학을 만들기 시작하였다.

 

일제의 어용사학자들은 이러한 작업을 하던 중에 한국 민족주의 사학계에서 출판한 서적으로부터 큰 타격을 받았다. 백암 박은식이 1915년『한국통사(韓國通史)』를 저술·간행하여 해외의 독립운동가들 사이에 널리 읽혔을 뿐 아니라 국내에도 비밀리에 유입되어 민족독립사상을 고취했기 때문이다. 일제는 이에 대한 대항책으로서 일제 식민주의사관에 의한『조선반도사(朝鮮半島史)』를 편찬·보급하기 위하여 1916년에 ‘조선반도사편찬위원회(朝鮮半島史編纂委員會)’를 조선총독부(朝鮮總督府) 안에 설치하였다. 이것은 한국 민족이 일본의 지배로부터 독립할 명분과 실리가 절대 없으며, 영원히 일본의 식민지 노예로 살아야 한다는 논리를 강조하여 식민주의사관을 보급하고 주입시키기 위해 일제(日帝)가 마련한 최선의 방책이었다.  

 

일제는 1925년에 조선반도사편찬위원회를 조선사편수회(朝鮮史編修會)로 개칭하고,『조선반도사』도『조선사』(전37책)로 개칭하여 1932년부터 간행하기 시작하였다. 이 책은 일제의 한국 침략을 ‘은혜’로 알게 하며 사료집도 겸하도록 고려해서 일제의 식민지 정책에 유리한 것만 선택하고 불리한 것은 모두 빼어 한국의 역사를 일제의 식민지 지배에 적합하도록 극도로 폄하하고 왜곡한 것이었다.

 

조선사편수회의 회원들을 중심으로 그 외곽 단채로서 조직된 조선사학회(朝鮮史學會)가 펴낸 그밖의 다수의 한국 역사에 관한 서적들,「청구학총(靑丘學叢)」등 여러 학술잡지에 게재된 일본 어용사학자들의 논문들도 일제의 한국 침략과 식민지 지배를 옹호하고 정당화하기 위하여 한국 역사를 극도로 왜곡하였다. 왜곡의 몇가지 요점을 들면 다음과 같다.

 

첫째, 그들은 한국민족사의 기원이 주변 국가의 식민지(Colony)로 시작되었다고 날조하여 주장하였다. 그들은 한국 역사가 기자조선(箕子朝鮮)에서 시작된다고 주장하기도 하고, 위만조선(衛滿朝鮮)에서 시작된다고 주장하기도 했으며, 한(漢)의 식민지인 한사군(漢四郡)에서 시작된다고 주장하기도 하였다. 그들은 단군조선(檀君朝鮮)은 사실에 없는 황당무계한 신화에 불과하다고 강조하여 주장하고, 한국 민족의 고대사가 북방민족의 식민지로부터 출발했음을 강조하는데 발광하였다.

 

둘째, 그들은 한국 역사의 특징을 타율성이라고 강조하여 주장하였다. 그들은 한국 역사가 고대 이후 최근세에 이르기까지 북으로는 강대한 북방민족과 중국, 남으로는 일본의 세력권과 영향권 아래 있었으며, 따라서 외세에 의하여 한국 역사가 결정된 타율성의 역사를 면하지 못했다고 주장하였다. 그리하여 그들은 북방민족의 지배력을 강조하면서 한국 역사의 부수성(附隨性), 주변성(周邊性)을 강조하여 이른바 ‘만선사관(滿鮮史觀)’을 주장해서 한국 역사의 타율성을 주장하기도 하고, 이른바 ‘임나일본부설’을 날조하여 일본이 고대에 가라지방에 직할 식민지를 설치하여 신라와 백제도 지배했으며 고구려의 조공도 받았다는 허위사실을 날조하기도 하고, 한국 역사의 이러한 타율성은 한국의 ‘반도’라는 지리적 환경에서 나온 ‘반도적 성격’으로서 운명적인 것이라고 주장하기도 하였다. 이러한 주장들이 날조되고 왜곡된 것이었음은 더 말할 필요도 없다.

 

셋째, 그들은 한국 역사의 타율성에서 나온 것이라고 하면서 한국 역사의 특징 하나를 사대성(事大性)이라고 왜곡하여 매우 강조하였다. 한국 민족은 주변의 강대국에 복종하고 그들에게 의존해서 국가와 생명을 유지해온 사대주의의 역사를 가진 것이 특징이라고 그들은 주장하였다.

 

넷째, 그들은 한국 역사에 나타나는 문화는 독창성(獨創性)이 없고 종주국을 모방한 것에 불과한 모방성(模倣性)이 특징이라고 왜곡하여 주장하였다.

 

다섯째, 그들은 한국 역사는 고대 이후 최근세까지 당쟁(黨爭), 정쟁(政爭)이 지배하고 당파성(黨派性)이 지배한 특징을 가지고 있다고 왜곡하여 주장하였다. 그들은 한국 역사의 당파성이 사색당쟁(四色黨爭)뿐만이 아니라 사대성과 결합하여 친원파(親元派), 친명파(親明派), 친청파(親淸派), 친노파(親露派) 등 파당을 지어 한번도 제대로 단결해보지 못한 것이 한국 역사의 특징이라고 왜곡하여 주장하였다.

 

여섯째, 그들은 일제가 한국을 병탄하여 ‘동화(同化)’라는 이름으로 한국 민족 말살정책을 실시해서 한국 민족을 영구히 소멸시켜 일본 민족내의 천민층으로 편입하는 정책을 추진하자 이에 보조를 맞추어, 한국 민족은 원래 일본 민족과 조상이 동일했다고 주장하면서, 왕검(王儉) 단군(檀君)이 소잔오존(素盞嗚尊)의 아우라고 주장하기도 하고, 한국 민족이 일본 민족의 한 지류라고 주장하기도 하는 등 여러가지 형태의 날조된 이른바 일선동조론(日鮮同祖論)을 주장하였다.

 

일곱째, 그들은 한국 역사는 장기간 정체성(停滯性)이 지배하여 내부에서 스스로 발전할 수 있는 능력과 원동력을 결여했고, 19세기 말과 20세기 초의 한국 사회의 발전 단계는 일본의 고대 말이나 10세기 후지와라[藤原] 시대에 해당한다고 왜곡하여 주장하였다. 이 점은 장을 바꾸어 다시 논의하기로 한다.

 

여덟째, 그들은 여기에 그치지 않고 한국 역사를 지배한 이러한 특징들이 한국인의 사고와 행동과 일상생활에 침전하여 민족적 성격으로 고착되어서 한국 민족은 사대성·당파성·모방성 등 열악한 민족성을 갖게 되었다고 날조하고 왜곡하여 주장하였다.

 

일제 어용학자들의 이러한 주장들은 모두가 한국 역사의 어두운 면을 부각시켜 왜곡하고 날조한 것들이었다. 일본인들이 한국 역사의 창조적인 면, 자주 독립, 강성했던 면, 자랑스러운 일들, 승리한 면, 단결했던 일들을 모두 부정하고 한국 역사를 사실과 다르게 철저히 왜곡한 것은 한편으로 일본 제국주의 세력의 한국 침략과 식민지 지배를 옹호하여 정당화함과 동시에 다른 한편으로 한국 민족의 독립사상을 근원부터 소멸시켜 버리려고 획책한 것이었다.

 

일제 어용학자들의 이런 주장들은 너무 터무니없는 왜곡과 날조이므로 여기서 낱낱이 비판하는 것보다 결론에서 모아서 일괄하여 비판하기로 한다.

 

▶ 출처 ☞ 사회사(社會史) 연구 총서 제8권「일제(日帝)의 식민지 정책과 식민지근대화론(植民地近代化論) 비판」문학과 지성사編(2006년版)

 

▶ 해설 ☞ 신용하(愼鏞廈) 한양대학교 사회학과 석좌교수

 

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