伝統文化紹介 Relationship

 





以下、基本的に、2017年に行った投稿の再掲です。




東京都心部の西部の静かで落ち着いた住宅地にある、我が家の近所の、私の実家は、元々、私の母方の祖父母の家で(ちなみに母は、一人っ子です)、現在は、両親が引き継いで暮らしています。既に、母方の祖父母共に、亡くなっています。



亡くなった、私の母方の祖母が、最も、好きであった、イラストレーターが、この投稿で紹介する、蕗谷虹児(fukiyakoji)です。


私の母方の祖母は、竹久 夢二(takehisa yumeji)等も好きでしたが、何よりも蕗谷 虹児(fukiya koji)の絵やイラスト(illustration)が好きだった様です。私の母方の祖母は、絵を描くのが好きでしたが、生涯、蕗谷 虹児(fukiya koji)の様な絵を、たくさん描いていました(絵と言っても、スケッチ(sketch)みたいな物ですが。。。)。

私の母方の祖母は、田舎の裕福な地主の家の娘であったので、おそらく、幼い頃・子供の頃、女学校(第二次世界大戦以前の階級社会の日本において、主として、比較的裕福な、中流階級以上の家庭の娘が通った、女子向けの中等教育機関。ほぼ、現在の小学校と大学の間、即ち、中学と高校に当たる)時代、東京での大学時代、東京での独身の社会人時代(まあ、私の母方の祖母は、社会人になって間もなく結婚し、以後、ずっと主婦であったのですが。。。)に、私の母方の祖母の実家(私の母方の祖母の親)に、当時の、日本の、女性の子供向けの雑誌、少女向けの雑誌、若い女性向けの雑誌を、たくさん買って貰っていたと思います。






この投稿は、前に、kjで、行った、2011年に、横浜駅周辺(東京の南部郊外最大の繁華街)にある、規模の大きなデパートの一つ、そごう(sogo)デパート横浜店内にある美術館で行われた、蕗谷 虹児(fukiya koji)(下の補足説明を参照)の展覧会(exhibition)に関する投稿の中から抜粋して来た物です。


蕗谷 虹児(fukiya koji):1898年、新潟(niigata)県(日本の中部地方の北端に位置する県)生まれ。1979年に亡くなる。父は、新聞記者。1920年代から1970年代に活躍した、日本の有名な、近代画家、詩人、イラストレーター(illustrator)。有名とは言っても、竹久 夢二(takehisa yumeji)とは違って、超有名(とても有名)と言う程ではありません。雑誌・本・新聞等は、購買者別に、幼年(子供)向け・少年向け・少女向け・成人の男女向け・女性向けと大雑把に分類出来ますが、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、それら全ての分野に絵や文を書いているものの、幼年(子供)向け・少女・女性向けの出版物において、最も、仕事をしました(この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)より。。。)。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、竹久 夢二(takehisa yumeji)、高畠 華宵(takabatake kasyo)等と共に、日本の少女漫画(少女向けの漫画)の画風の原型を作った作家です。現代の、日本の、少女漫画家(少女向けの漫画の、漫画家)にも、蕗谷 虹児(fukiya koji)のファン(fan)は多く、「蕗谷 虹児(fukiya koji)を参考にした」と明言している、竹宮 恵子(takemiya keiko)は、これまた、次世代の、日本の、少女漫画家(少女向けの漫画の、漫画家)に、大きな影響を及ぼし続けている漫画家の一人となっています(この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)より。。。)。





以下、蕗谷虹児(fukiyakoji)4(すぐ下でリンクを付けた投稿)の続きです。

蕗谷虹児(fukiyakoji)4→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3761295?&sfl=membername&stx=nnemon2



以下の写真は、全て、この展覧会(exhibition)のカタログ(catalogue)より。。。説明文も、基本的に、カタログ(catalogue)の文から抜粋して来た物です。



蕗谷 虹児(fukiya koji)は、第二次世界大戦後、再び、雑誌の仕事を手掛けるようになると、戦前からの、主な活躍の舞台であった、「令女界(reijyo kai)」と「少女倶楽部(少女club)」を中心にして、1947年に創刊された、ひまわり(向日葵)」の他、「少女の友」、「少女世界」、「紺青」、「女学生の友」、「少女」等、各社から出版される、日本の少女雑誌(少女向けの雑誌)の挿絵も幅広く手掛けました。

 

写真以下2枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)の、「少女の友」における作品例。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「少女倶楽部(少女club)」や「少女の友」では、「令女界(reijyo kai)」よりも、低年齢の読者を想定して、少女の姿を可愛らしく表現しています。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、第二次世界大戦前から、それぞれの少女雑誌(少女向けの雑誌)の性格に合わせて、少女のタイプ(性質)を描き分けていました。例えば、17歳から20歳代前半が対象の、「令女界(reijyo kai)」には、理知と官能を秘めた、大人の女性を描いたのに対し、「少女の友」には、上品で大人しい雰囲気を持つ令嬢(良い家柄の娘)風の少女を、描きました。また、小学校5、6年生を基準に据え、小学校高学年から女学校低学年(10歳から14歳前後)を対象とした、「少女倶楽部(少女club)」には、素朴な、他誌(他の雑誌)と比べると、大人しい少女を描きました。




茅野 雅子「初冬(抒情名歌集)」。1949年。口絵原画。

 




「花嫁人形(人形童謡集)」。1951年挿絵原画。



蕗谷 虹児(fukiya koji)が、戦後に、「少女倶楽部(少女club)」に次いで、多くの仕事をした雑誌は、「ひまわり(向日葵)」でした。「ひまわり(向日葵)」は、中原 淳一(nakahara jyunichi)(下の補足説明参照)が、日本の女性雑誌、「それいゆ(soleil)」に次いで、1947年1月に創刊した、日本の少女雑誌(少女向けの雑誌)です。「ひまわり(向日葵)」は、文芸的な嗜好の色濃い、少女雑誌(少女向けの雑誌)であり、主筆の中原 淳一(nakahara jyunichi)が、表紙の他、口絵や小説の挿絵に至るまで、大いに描いていたので、蕗谷 虹児(fukiya koji)の活躍は、目立たない様に見えますが、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、実は、創刊当初から1952年10月に終刊するまで、ほぼ毎号の様に、「ひまわり(向日葵)」に描き続けていました。
中原 淳一(nakahara jyunichi):1913年生まれ、1983年に亡くなる。1930年代から1970年代にかけて活躍した、日本の、イラストレーター(illustrator)、人形作家。竹久 夢二(takehisa yumeji)、蕗谷 虹児(fukiya koji)等に続いて、日本の少女漫画(少女向けの漫画)の画風の原型を作った作家。




写真以下2枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)の、「ひまわり(向日葵)」における作品例。森 三千代「天使」。挿絵原画。1947年。












第二次世界大戦後、日本の少女雑誌(少女向けの雑誌)は、第二次世界大戦前を踏襲した内容から、新しい時代の流れに従い、大きく様変わりして行きました。例えば、「少女倶楽部(少女club)」は、蕗谷 虹児(fukiya koji)が復帰した、1946年4月号では、挿絵や活字が、小さ目で、読み物主体の内容でしたが、1949年から、折込みのカラー(color)口絵が入り、その後、漫画も、徐々に増えて行き、映画、舞踏やバレエ(ballet)の記事、写真を使った読み物の登場等、写真の掲載が目立つようになり、誌面のヴィジュアル(visual)化が進んで行きました。「令女界(reijyo kai)」は、1950年1月号から、表紙が、絵から、映画女優等の写真に替わり、その後、間も無く、1950年9月号を以って、終刊してしまいました。また、「ひまわり(向日葵)」は、社会情勢が変わって、少女雑誌(少女向けの雑誌)の性格や使命の転換期が来たとして、新しい時代に即した少女雑誌(少女向けの雑誌)の創刊を予告しながら、終刊して行きました。この様に、時代の流れと共に、蕗谷 虹児(fukiya koji)の、主だった活躍の場が、一つずつ失われて行きました。「少女倶楽部(少女club)」に話を戻しますと、蕗谷 虹児(fukiya koji)の作品が姿を見せなくなる、1955年には、まだ、少女小説や絵物語の、読み物類が多いものの、もはや芸能人が大々的に巻頭を飾り、手塚 治虫(tezuka osamu)の「リボン(ribbon)の騎士(Princess Knight)」(最も初期のシリーズ(series)は、1953年から1956年に、「少女倶楽部(少女club)」に連載)等の、漫画の存在が顕著になりました。蕗谷 虹児(fukiya koji)が、戦後、「少女倶楽部(少女club)」で活躍した、約10年の間に、「少女倶楽部(少女club)」の総頁数は、約60頁から約280頁に増量し、「少女倶楽部(少女club)」は、現在に繋がる、通俗的な娯楽を提供する雑誌に向かって行きました。こうした転換は、他の、日本の少女雑誌(少女向けの雑誌)でも、同じ傾向でした。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「少女の友」、「少女世界」、「女学生の友」、「少女」等でも、口絵や挿絵を描いていましたが、蕗谷 虹児(fukiya koji)が、少女雑誌(少女向けの雑誌)で、存分に魅力を発揮できた、1920年代から1930年代の黄金期(全盛期)から時代は流れ、1950年代中頃までには、蕗谷 虹児(fukiya koji)の雑誌での仕事が無くなって行きました。蕗谷 虹児(fukiya koji)が、第二次世界大戦後、少女雑誌(少女向けの雑誌)で描いてきた、主な内容は、抒情的な詩や歌、少女小説、世界の名作物語、日本の年中行事や童謡等、懐古的な作品であり、漫画の需要の激増で、益々、娯楽化やヴィジュアル(visual)化が進展して行く少女雑誌(少女向けの雑誌)は、蕗谷 虹児(fukiya koji)が必要とされる媒体ではなくなって行きました。


蕗谷 虹児(fukiya koji)は、第二次世界大戦後も、引き続き、「世界名作童話全集」等、講談社(kodansha)が発行する児童(子供)向けの書籍に携わって行きました。これ等を手掛けた、1950年代初め、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、同時進行で、少女雑誌(少女向けの雑誌)の挿絵も描いていました。この頃は、蕗谷 虹児(fukiya koji)にとって、少女雑誌(少女向けの雑誌)から離れて行く過渡期にあたり、「世界名作童話全集」の仕事が、蕗谷 虹児(fukiya koji)の、その後の絵本での活躍に繋がって行きました。ちなみに、1940年代末から1950年代は、日本では、各出版社が、世界の名作物語全集を刊行するブーム(boom)を迎えていました。


 



写真以下6枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)の、講談社(kodansha)の「世界名作童話全集」における作品例。





「雪の女王」 口絵原画。1951年。





「マッチ売りの少女」 口絵原画。1951年。丁寧な仕事ぶりに、幼い子供にこそ、良い絵を、と言う、蕗谷 虹児(fukiya koji)の意識が、よく表れています。






写真左、「人魚の、お姫さま」。写真右、「人魚の、お姫さま」の表紙原画。1953年。






「人魚の、お姫さま」。口絵原画。1953年。

 





「空とぶトランク」。口絵原画。1953年。






「空とぶトランク」。挿絵原画。1953年。




「令女界(reijyo kai)」と「ひまわり(向日葵)」が終刊し、雑誌の仕事が減少した1953年頃から、蕗谷 虹児(fukiya koji)の活動の主軸は、絵本に移行する事になりました。1960年代中頃までに、「小学館(shogakukan)の幼年絵本」や「講談社(Kodansha)の絵本」等を次々と手掛けて行きました。



「講談社(Kodansha)の絵本」は、小学校入学前の子供の為の絵本を出版しようと言う企画から始まった、日本の絵本で、1936年12月に創刊しました。1冊1テーマの形式で、日本の、一流の挿絵画家を起用し、偉人物語、昔話、漫画、童謡画集、知識絵本等、あらゆる分野が扱われました。ほぼ毎月、4冊ずつが発売され、1942年4月で、一旦終刊するまでに、計203冊に上るシリーズ(series)となり、絵本と言えば、「講談社(Kodansha)の絵本」と言うイメージが出来る程の成功を収めて、広く大衆に普及しました。第二次世界大戦後も、復刊を要望する機運が高まり、1948年に改訂版の刊行が始まり、改訂版も評判を呼びました。講談社(kodansha)は、「講談社(Kodansha)の絵本」だけでなく、「講談社(Kodansha)の一年生文庫」等の学年別絵本、「講談社(Kodansha)の、なかよし(仲良し)絵本」、改訂版の「講談社(Kodansha)の絵本」を1958年に改題した「講談社(Kodansha)の絵本ゴールド版」等、子供向けの絵本シリーズ(series)を、幅広く展開し、蕗谷 虹児(fukiya koji)も、こうした絵本シリーズ(series)に、次々と絵を描いて行きました。第二次世界大戦後、間もない頃から1950年代にかけて、他の出版社も、講談社(kodansha)が型を築いた大衆絵本に力を入れており、数多くの、日本の、絵本シリーズ(series)が、出版されました。小学館(shogakukan)は、1950年代初めから、乗り物、動物、童謡、物語等を扱った、「小学館(shogakukan)の育児絵本」や「小学館(shogakukan)の幼年絵本」を刊行しており、蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「小学館(shogakukan)の幼年絵本」を、「講談社(Kodansha)の絵本」(ゴールド版を含む)に次いで、多く手掛けました。



写真以下13枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)の、第二次世界大戦後の、絵本における作品例。戦前に始めた、蕗谷 虹児(fukiya koji)の幼年(子供)向けの絵本の仕事は、1950年代に入って、一気に花開き、蕗谷 虹児(fukiya koji)の仕事の主軸は、少女雑誌から、絵本に移行して行きました。1960年代中頃までに、「小学館(shogakukan)の幼年絵本」、「講談社(Kodansha)の絵本」、「講談社(Kodansha)の、なかよし(仲良し)絵本」、「講談社(Kodansha)の絵本ゴールド版」等で、世界の名作童話や日本の昔話と言った、日本の絵本を次々と手掛けて行き、この間、蕗谷 虹児(fukiya koji)の手掛けた絵本は、20冊以上にもなりました。




「講談社(Kodansha)の絵本 人魚姫」。原画。1956年。





講談社(Kodansha)の、なかよし(仲良し)絵本。はくちょうのおうじ(白鳥の王子)」。原画。1956年。






「講談社(Kodansha)の、なかよし(仲良し)絵本。はくちょうのおうじ(白鳥の王子)」。原画。1956年。





「講談社(Kodansha)の二年生文庫 かぐやひめ」。原画。1956年。






「講談社(Kodansha)の絵本 あかずきん」の中から、「かえるの王さま」。原画。1957年。





「講談社(Kodansha)の絵本ゴールド版。ふしぎなランプ」。原画。1959年。







「講談社(Kodansha)の絵本 湖水の鐘」。1958年。







「かぞえうた(わらべ歌)」。「講談社(Kodansha)の絵本ゴールド版。童謡画集(4)」。原画。1960年。






「とおりゃんせ(わらべ歌)」。「講談社(Kodansha)の絵本ゴールド版。童謡画集(4)」。原画。1960年。







浅野 鏡村「てるてるぼうず」。講談社(Kodansha)の絵本ゴールド版。童謡画集(4)」。原画。1960年。






鹿島 鳴秋「はまちどり」。[講談社(Kodansha)の絵本ゴールド版。童謡画集(4)」。原画。1960年。






「かごめかごめ(わらべ歌)」。「講談社(Kodansha)の絵本ゴールド版。童謡画集(4)」。原画。1960年。

 





「おつきさまいくつ(わらべ歌)」。「講談社(Kodansha)の絵本ゴールド版。童謡画集(4)」。原画。1960年。




蕗谷 虹児(fukiya koji)は、絵本の仕事と並行しながら、今まで手掛けた事がなかった、アニメーション(animation)にも挑戦しました。アニメーション(animation)に可能性を感じていた、東映(toei)(日本の大規模映画会社の一つ)は、1953年に始まった、日本のTV放送で、アニメーション(animation)番組やコマーシャルフィルム(commercial film)の需要が増加する事を見越して、技術面や興行面を調査すると共に、大正時代(1912年から1926年)後期から継がれた、日本のアニメーション(animation)制作会社であり技術もある日動映画に、アニメーション(animation)作品の制作を委託して行きました。1955年に完成した、「うかれバイオリン」が評判となって手応えを得ると、日動映画を買収して、1956年に、東映(toei)動画(現在の東映(toei)アニメーション(animation)。「Dragon Ball」等、数々の人気アニメーション(animation)を制作しています)を設立させました。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、この東映(toei)動画の、1958年の、約15分の短編アニメーション(animation)作品、「夢見童子」の構成と原画を担当しました。この作品は、独創性や海外進出も意識した、実験的な作品でした。この作品は、梅の木の下で眠る夢見童子は、心優しい良い子には、夢を与えるが、そうでない子には夢を与えないと言う、単純な物語で、セリフ(登場人物の言葉)やナレーション(narration)がない代わりに、蕗谷 虹児(fukiya koji)が作詞した、童謡風の歌で語られて行きます。「静かな場面展開と静かな動きは、動画製作上、最も困難な技術を必要とするが、これを、私達は、よく極めて、今後の、静かな動画への道を拓こうとした」と言う会社側の意図もあり、アニメーション(animation)の最大の特徴と言える動きを、敢えて、穏やかにすると言う斬新さが狙われていました。「夢見童子」は、思想や理念を込めて制作されたものの、現在に繋がる、アニメーション(animation)の歴史においては、淡々たる内容で、独創性を狙い過ぎたと言った印象も否めません。しかしながら、蕗谷 虹児(fukiya koji)が残した作品と言う観点から見れば、むしろ、蕗谷 虹児(fukiya koji)の世界観が色濃く反映された貴重なアニメーション(animation)作品として見る事が出来るでしょう。




「夢見童子」原画。1958年。「夢見童子」は、江戸(edo)時代(17世紀から19世紀半ば)の伝承物語を基にした作品ですが、作品の舞台設定は、天平時代(奈良(nara)時代前半。729年から749年まで)となっています。




荒廃した、第二次世界大戦直後の日本の子供達を思って復帰した蕗谷 虹児(fukiya koji)は、挿絵画家として教育的な責務を担いながら、子供達に作品を描き続けて来たのでしょう。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、「私は想う。子供達に、未熟な果物を与えてはならないように、未熟な、卑しい絵を与えてはならない」と記しています。蕗谷 虹児(fukiya koji)は、人気絶頂期が過ぎた、第二次世界大戦後も、決して、無責任な仕事をするような事はなく、子供向けの絵であっても、一枚一枚、心を込めて丁寧に描きました。漫画やアニメーション(animation)、テレビの普及によって急激に娯楽化が進み、高度経済成長を背景に、人々の生活様式も変化して行く時代に、蕗谷 虹児(fukiya koji)の仕事は、少女雑誌(少女向けの雑誌)から、絵本やアニメーション(animation)へと移行して行きました。しかし、媒体が変わろうとも、1920年代から築き上げて来た、蕗谷 虹児(fukiya koji)の信念だけは、翻弄される事はありませんでした。「夢見童子」も、詩的で優雅なアニメーション(animation)を追求して、身を削る思いで制作したと言います。

 

 

蕗谷 虹児(fukiya koji)は、晩年には、悲願だった絵画制作に、意欲的に取り組み、現代の浮世絵(ukiyoe)美人画と言える、独自の絵画作品を発表して行きました。


 

写真以下4枚。蕗谷 虹児(fukiya koji)の晩年の絵画作品例。




「薔薇と少女」。1968年。





「花嫁」。1968年。





「金髪」。1969年。






「雪うさぎ」。1973年。






 



후키곡홍아(fukiyakoji) 5





이하, 기본적으로, 2017년에 간 투고의 재게입니다.




도쿄도심부의 서부의 조용하고 침착한 주택지에 있는, 우리 집의 부근의, 나의 친가는, 원래, 나의 외가의 조부모의 집에서(덧붙여서 어머니는, 독자입니다), 현재는, 부모님이 계승하며 살고 있습니다.이미, 외가의 조부모 모두, 죽습니다.



죽은, 나의 외가의 조모가, 가장, 좋아함 , 일러스트레이터가, 이 투고로 소개하는, 후키곡홍아(fukiyakoji)입니다.


나의 외가의 조모는, 타케히사 무지(takehisa yumeji) 등도 좋아했습니다만, 무엇보다도 후키곡홍아(fukiya koji)의 그림이나 일러스트(illustration)를 좋아했던 님입니다.나의 외가의 조모는, 그림을 그리는 것을 좋아했습니다만, 생애, 후키곡홍아(fukiyakoji)와 같은 그림을, 많이 그리고 있었던(그림이라고 말해도, 스케치(sketch)같은 것입니다만...).

나의 외가의 조모는, 시골의 유복한 지주의 집의 딸(아가씨)였으므로, 아마, 어릴 적·어릴 적, 여학교(제이차 세계대전 이전의 계급 사회의 일본에 있고, 주로, 비교적 유복한, 중류 계급 이상의 가정의 딸(아가씨)가 다닌, 여자 전용의 중등 교육 기관.거의, 현재의 초등학교와 대학의 사이, 즉, 중학과 고등학교에 해당된다) 시대, 도쿄에서의 대학시절, 도쿄에서의 독신의 사회인 시대(뭐, 나의 외가의 조모는, 사회인이 되어 머지 않아 결혼해, 이후, 쭉 주부였습니다만...)에, 나의 외가의 조모의 친가( 나의 외가의 조모의 부모)에, 당시의, 일본의, 여성의 어린이용의 잡지, 소녀 전용의 잡지, 젊은 여성취향의 잡지를, 많이 사 받고 있었다고 생각합니다.






이 투고는, 전에, kj로, 간, 2011년에, 요코하마역 주변(도쿄의 남부 교외 최대의 번화가)에 있는, 규모의 큰 백화점의 하나, 소고(sogo) 백화점 요코하마 점내에 있는 미술관에서 행해진, 후키곡홍아(fukiyakoji)(아래의 보충 설명을 참조)의 전람회(exhibition)에 관한 투고중에서 발췌해 온 것입니다.


후키곡홍아(fukiya koji):1898년, 니가타(niigata) 현(일본의 중부 지방의 북단에 위치하는 현) 태생.1979년에 죽는다.아버지는, 신문기자.1920년대부터 1970년대에 활약한, 일본의 유명한, 근대 화가, 시인, 일러스트레이터(illustrator).유명하다고는 말해도, 타케히사 무지(takehisa yumeji)와는 다르고, 초유명(매우 유명)이라고 말할 정도가 아닙니다.잡지·책·신문등은, 구매자별로, 유년(아이) 향해·소년 전용·소녀 전용·성인의 남녀 전용·여성취향과 대략적으로 분류 할 수 있습니다만, 후키곡홍아(fukiya koji)는, 그것들 모든 분야에 그림이나 문장을 쓰고 있지만, 유년(아이) 향해·소녀·여성취향의 출판물에 대하고, 가장, 일을 했던(이 전람회(exhibition)의 카탈로그(catalogue)보다...).후키곡홍아(fukiya koji)는, 타케히사 무지(takehisa yumeji), 다카바타케 가쇼(takabatake kasyo) 등과 함께, 일본의 소녀 만화(소녀 전용의 만화)의 화풍의 원형을 만든 작가입니다.현대의, 일본의, 소녀 만화가(소녀 전용의 만화의, 만화가)에게도, 후키골짜기 홍아(fukiya koji) 팬(fan)은 대부분, 「후키곡홍아(fukiya koji)를 참고로 했다」라고 명언하고 있는, 타케미야 케이코(takemiya keiko)는, 이것 또, 차세대의, 일본의, 소녀 만화가(소녀 전용의 만화의, 만화가)에게, 큰 영향을 계속 미치고 있는 만화가의 한 명이 되고 있습니다(이 전람회(exhibition)의 카탈로그(catalogue)보다...).





이하, 후키곡홍아(fukiyakoji) 4(바로 아래에서 링크를 붙인 투고)의 계속입니다.

후키곡홍아(fukiyakoji) 4→
https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3761295?&sfl=membername&stx=nnemon2



이하의 사진은, 모두, 이 전람회(exhibition)의 카탈로그(catalogue)보다...설명문도, 기본적으로, 카탈로그(catalogue)의 문장으로부터 발췌해 온 것입니다.



후키곡홍아(fukiya koji)는, 제이차 세계대전 후, 다시, 잡지의 일을 다루게 되면, 전쟁 전부터의, 주된 활약의 무대에서 만난, 「령녀계(reijyo kai)」와「소녀 클럽(소녀 club)」를 중심으로 하고, 1947년에 창간 된, 해바라기(해바라기)」외, 「소녀의 친구」, 「소녀 세계」, 「감청」, 「여학생의 친구」, 「소녀」등 , 각사로부터 출판되는, 일본의 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지)의 삽화도 폭넓게 다루었습니다.



사진 이하 2매.후키곡홍아(fukiya koji)의, 「소녀의 친구」에 있어서의 작품예.후키곡홍아(fukiya koji)는, 「소녀 클럽(소녀 club)」나 「소녀의 친구」에서는, 「령녀계(reijyo kai)」보다, 저연령의 독자를 상정하고, 소녀의 모습을 사랑스럽게 표현하고 있습니다.후키곡홍아(fukiyakoji)는, 제이차 세계대전 전부터, 각각의 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지)의 성격에 맞추고, 소녀의 타입(성질)을 그려 나누고 있었습니다.예를 들면, 17세부터 20대 전반이 대상의, 「령녀계(reijyo kai)」에는, 이지와 관능을 숨긴, 어른의 여성을 그린 것에 대해, 「소녀의 친구」에게는, 품위있고 얌전한 분위기를 가지는 따님(좋은 집안의 낭) 풍의 소녀를, 그렸습니다.또, 초등학교 5, 6 학년을 기준에 자리잡아 초등학교 고학년으로부터 여학교 저학년(10세부터 14세 전후)을 대상으로 한, 「소녀 클럽(소녀 club)」에는, 소박한, 다른 잡지(다른 잡지)와 비교하면, 얌전한 소녀를 그렸습니다.




지노 마사코 「초겨울(서정 명가집)」.1949년.삽화 원화.




「신부 인형(인형 동요집)」.1951년 삽화 원화.



후키곡홍아(fukiya koji)가, 전후에, 「소녀 클럽(소녀 club)」에 이어, 많은 일을 한 잡지는, 「해바라기(해바라기)」였습니다.「해바라기(해바라기)」는, 나카하라 준이치(nakahara jyunichi)(아래의 보충 설명 참조)가, 일본의 여성 잡지, 「빗나가(soleil)」에 이어, 1947년 1월에 창간 한, 일본의 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지)입니다.「해바라기(해바라기)」는, 문예적인 기호의 현저한, 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지)이며, 주필의 나카하라 준이치(nakahara jyunichi)가, 표지의 외, 삽화나 소설의 삽화에 이르기까지, 많이 그리고 있었으므로, 후키곡홍아(fukiya koji)의 활약은, 눈에 띄지 않게 보입니다만, 후키곡홍아(fukiya koji)는, 실은, 창간 당초부터 1952년 10월에 종간 할 때까지, 거의 매호와 같이, 「해바라기(해바라기)」에 계속 그리고 있었습니다.
나카하라 준이치(nakahara jyunichi):1913 년생, 1983년에 죽는다.1930년대부터 1970년대에 걸쳐 활약한, 일본의, 일러스트레이터(illustrator), 인형 작가.타케히사 무지(takehisa yumeji), 후키곡홍아(fukiyakoji) 등에 잇고, 일본의 소녀 만화(소녀 전용의 만화)의 화풍의 원형을 만든 작가.




사진 이하 2매.후키곡홍아(fukiya koji)의, 「해바라기(해바라기)」에 있어서의 작품예.모리 미치요 「천사」.삽화 원화.1947년.












제이차 세계대전 후, 일본의 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지)는, 제이차 세계대전전을 답습한 내용으로부터, 새로운 시대의 흐름에 따라, 크고 님 바뀌어 하고 갔습니다.예를 들면, 「소녀 클럽(소녀 club)」는, 후키곡홍아(fukiya koji)가 복귀한, 1946년 4월호에서는, 삽화나 활자가, 소눈으로, 읽을 거리 주체의 내용이었지만, 1949년부터, 때포함의 칼라(color) 삽화가 들어가, 그 후, 만화도, 서서히 증가해서 가, 영화, 무도나 발레(ballet)의 기사, 사진을 사용한 읽을 거리의 등장등 , 사진의 게재가 눈에 띄게 되어, 지면의 비쥬얼(visual) 화가 진행되어서 갔습니다.「령녀계(reijyo kai)」는, 1950년 1월호로부터, 표지가, 그림으로부터, 영화 여배우등의 사진에 바뀌어, 그 후, 이윽고, 1950년 9월호로, 종간 해 버렸습니다.또, 「해바라기(해바라기)」는, 사회 정세가 바뀌고, 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지)의 성격이나 사명의 전환기가 왔다고 해서, 새로운 시대에 맞은 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지)의 창간을 예고하면서, 종간 하고 갔습니다.이와 같게, 시대의 흐름과 함께, 후키곡홍아(fukiyakoji)의, 주요했던 활약의 장소가, 한개씩 없어져서 갔습니다.「소녀 클럽(소녀 club)」에 이야기를 되돌리면, 후키곡홍아(fukiya koji)의 작품이 모습을 보이지 않게 되는, 1955년에는, 아직, 소녀 소설이나 그림 이야기책의, 읽을 거리류가 많기는 하지만, 이미 연예인이 대대적으로 권두를 장식해, 데즈카 오사무(tezuka osamu)의 「리본(ribbon)의 기사(Princess Knight)」(가장 초기의 시리즈(series)는, 1953년부터 1956년에, 「소녀 클럽(소녀 club)」에 연재) 등의, 만화의 존재가 현저하게 되었습니다.후키곡홍아(fukiya koji)가, 전후, 「소녀 클럽(소녀 club)」로 활약한, 약 10년간에, 「소녀 클럽(소녀 club)」의 총 페이지수는, 약 60 페이지로부터 약 280페이지에 증량 해, 「소녀 클럽(소녀 club)」는, 현재에 연결되는, 통속적인 오락을 제공하는 잡지로 향해 갔습니다.이러한 전환은, 다른, 일본의 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지)에서도, 같은 경향이었습니다.후키곡홍아(fukiya koji)는, 「소녀의 친구」, 「소녀 세계」, 「여학생의 친구」, 「소녀」등에서도, 삽화나 삽화를 그리고 있었습니다만, 후키곡홍아(fukiyakoji)가, 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지)로, 마음껏 매력을 발휘할 수 있던, 1920년대부터 1930년대의 황금기(전성기)부터 시대는 흘러 1950년대 중순까지는, 후키곡홍아(fukiya koji)의 잡지로의 일이 없어져서 갔습니다.후키곡홍아(fukiya koji)가, 제이차 세계대전 후, 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지)로 그려 온, 주된 내용은, 서정적인 시나 노래, 소녀 소설, 세계의 명작 이야기, 일본의 연중 행사나 동요등 , 회고적인 작품이며, 만화의 수요의 격증으로, 더욱 더, 오락화나 비쥬얼(visual) 화가 진전해 가는 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지)는, 후키곡홍아(fukiya koji)가 필요하게 되는 매체는 아니게 되어서 갔습니다.


후키곡홍아(fukiya koji)는, 제이차 세계대전 후도, 계속해, 「세계 명작 동화 전집」등 , 코단샤(kodansha)가 발행하는 아동(아이) 보내의 서적에 종사해서 갔습니다.이것등을 다룬, 1950년대 초, 후키곡홍아(fukiya koji)는, 동시 진행으로, 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지)의 삽화도 그리고 있었습니다.요즘은, 후키곡홍아(fukiya koji)에게 있어서, 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지)로부터 떨어져 가는 과도기에 해당해, 「세계 명작 동화 전집」의 일이, 후키골짜기 홍아(fukiya koji)의, 그 후의 그림책으로의 활약에 연결되어서 갔습니다.덧붙여서, 1940년대말부터 1950년대는, 일본에서는, 각 출판사가, 세계의 명작 이야기 전집을 간행하는 붐(boom)을 맞이하고 있었습니다.






사진 이하 6매.후키곡홍아(fukiya koji)의, 코단샤(kodansha)의 「세계 명작 동화 전집」에 있어서의 작품예.





「눈의 여왕」삽화 원화.1951년.





「매치 매도의 소녀」삽화 원화.1951년.정중한 일하는 태도에, 어린 아이에게야말로, 좋은 그림을, 이라고 말하는, 후키곡홍아(fukiya koji)의 의식이, 잘 나타나고 있습니다.






사진왼쪽, 「인어의, 공주님」.사진 오른쪽, 「인어의, 공주님」의 표지 원화.1953년.






「인어의, 공주님」.삽화 원화.1953년.






「하늘 나는 트렁크」.삽화 원화.1953년.






「하늘 나는 트렁크」.삽화 원화.1953년.




「령녀계(reijyo kai)」와「해바라기(해바라기)」가 종간 해, 잡지의 일이 감소한 1953년경부터, 후키곡홍아(fukiyakoji)의 활동의 주축은, 그림책으로 이행하는 일이 되었습니다.1960년대 중순까지, 「쇼우갓칸(shogakukan)의 유년 그림책」이나 「코단샤(Kodansha)의 그림책」등을 차례차례로 다루어서 갔습니다.



「코단샤(Kodansha)의 그림책」은, 초등학교 입학전의 아이를 위한 그림책을 출판하자고 말하는 기획으로부터 시작된, 일본의 그림책으로, 1936년 12월에 창간 했습니다.1권 1 테마의 형식에서, 일본의, 일류의 삽화 화가를 기용해, 위인 이야기, 옛날 이야기, 만화, 동요 화집, 지식 그림책등 , 모든 분야가 다루어졌습니다.거의 매월, 4권씩이 발매되어 1942년 4월로, 일단 종간 하기까지, 합계 203권에 오르는 시리즈(series)가 되어, 그림책이라고 말하면, 「코단샤(Kodansha)의 그림책」이라고 하는 이미지를 할 수 있을 정도가 성공을 거두고, 넓게 대중에게 보급했습니다.제이차 세계대전 후도, 복간을 요망하는 기운이 높아져, 1948년에 개정판의 간행이 시작되어, 개정판도 평판을 불렀습니다.코단샤(kodansha)는, 「코단샤(Kodansha)의 그림책」뿐만이 아니라, 「코단샤(Kodansha)의 1학년 문고」등의 학년별 그림책, 「코단샤(Kodansha)의, (안)중 좋아(의좋은 사이) 그림책」, 개정판의 「코단샤(Kodansha)의 그림책」을 1958년에 제목을 고침 한 「코단샤(Kodansha)의 그림책 골드판」등 , 어린이용의 그림책 시리즈(series)를, 폭넓게 전개해, 후키곡홍아(fukiya koji)도, 이러한 그림책 시리즈(series)에, 차례차례로 그림을 그려서 갔습니다.제이차 세계대전 후, 얼마 되지 않은 무렵부터 1950년대에 걸치고, 다른 출판사도, 코단샤(kodansha)가 형태를 쌓아 올린 대중 그림책에 힘을 쓰고 있어 수많은 , 일본의, 그림책 시리즈(series)가, 출판되었습니다.쇼우갓칸(shogakukan)은, 1950년대 초부터, 탈 것, 동물, 동요, 이야기등을 취급한, 「쇼우갓칸(shogakukan)의 육아 그림책」이나 「쇼우갓칸(shogakukan)의 유년 그림책」을 간행하고 있어, 후키곡홍아(fukiya koji)는, 「쇼우갓칸(shogakukan)의 유년 그림책」을, 「코단샤(Kodansha)의 그림책」(골드판을 포함한다)에 이어, 많이 다루었습니다.



사진 이하 13매.후키곡홍아(fukiya koji)의, 제이차 세계대전 후의, 그림책에 있어서의 작품예.전쟁 전에 시작한, 후키곡홍아(fukiya koji)의 유년(아이) 향해의 그림책의 일은, 1950년대에 들어오고, 단번에 꽃 피어, 후키곡홍아(fukiyakoji)의 일의 주축은, 소녀 잡지로부터, 그림책으로 이행해서 갔습니다.1960년대 중순까지, 「쇼우갓칸(shogakukan)의 유년 그림책」, 「코단샤(Kodansha)의 그림책」, 「코단샤(Kodansha)의, (안)중 좋아(의좋은 사이) 그림책」, 「코단샤(Kodansha)의 그림책 골드판」등으로, 세계의 명작 동화나 일본의 옛날 이야기라고 말한, 일본의 그림책을 차례차례로 다루어서 가, 이전, 후키곡홍아(fukiya koji)가 다룬 그림책은, 20권 이상이나 되었습니다.




「코단샤(Kodansha)의 그림책 인어공주」.원화.1956년.





코단샤(Kodansha)의, (안)중 좋아(의좋은 사이) 그림책.입는 나비의 지난날(백조의 왕자)」.원화.1956년.






「코단샤(Kodansha)의, (안)중 좋아(의좋은 사이) 그림책.입는 나비의 지난날(백조의 왕자)」.원화.1956년.





「코단샤(Kodansha)의 2학년 문고 가구점 공주」.원화.1956년.






「코단샤(Kodansha)의 그림책 열리지 않고 오지 않아」중에서, 「돌아가는 것 임금님」.원화.1957년.





「코단샤(Kodansha)의 그림책 골드판.이상한 램프」.원화.1959년.







「코단샤(Kodansha)의 그림책 호수의 종」.1958년.







「숫자풀이 노래(와라베노래)」.「코단샤(Kodansha)의 그림책 골드판.동요 화집(4)」.원화.1960년.






「과 우리응키(와라베노래)」.「코단샤(Kodansha)의 그림책 골드판.동요 화집(4)」.원화.1960년.







아사노 카가미무라 「비치는 비치는 중」.코단샤(Kodansha)의 그림책 골드판.동요 화집(4)」.원화.1960년.






카시마명추 「」.[코단샤(Kodansha)의 그림책 골드판.동요 화집(4)」.원화.1960년.






「바구니째나 째(와라베노래)」.「코단샤(Kodansha)의 그림책 골드판.동요 화집(4)」.원화.1960년.






「수행원님몇(와라베노래)」.「코단샤(Kodansha)의 그림책 골드판.동요 화집(4)」.원화.1960년.




후키곡홍아(fukiya koji)는, 그림책의 일과 병행하면서, 지금까지 다룬 일이 없었다, 애니메이션(animation)에도 도전했습니다.애니메이션(animation)에 가능성을 느끼고 있던, 토에이(toei)(일본의 대규모 영화 회사의 하나)는, 1953년에 시작한, 일본의 TV방송으로, 애니메이션(animation) 프로그램이나 CF(commercial film)의 수요가 증가하는 일을 예측하고, 기술면이나 흥행면을 조사 함과 동시에, 타이쇼 시대(1912년부터 1926년) 후기부터 이어진, 일본의 애니메이션(animation) 제작 회사이며 기술도 있는 날동영화에, 애니메이션(animation) 작품의 제작을 위탁해 갔습니다.1955년에 완성한, 「들떠 바이올린」이 평판이 되고 반응을 얻으면, 일동영화를 매수하고, 1956년에, 토에이(toei) 동영상(현재의 토에이(toei) 애니메이션(animation).「Dragon Ball」등 , 수많은 인기 애니메이션(animation)을 제작하고 있습니다)을 설립시켰습니다.후키곡홍아(fukiyakoji)는, 이 토에이(toei) 동영상의, 1958년의, 약 15 분의 단편 애니메이션(animation) 작품, 「꿈꾸어 동자」의 구성과 원화를 담당했습니다.이 작품은, 독창성이나 해외 진출도 의식한, 실험적인 작품이었습니다.이 작품은, 매화의 나무 아래에서 자는 꿈꾸어 동자는, 마음 상냥한 좋은 아이에게는, 꿈을 주지만, 그렇지 않은 아이에게는 꿈을 주지 않는다고 하는, 단순한 이야기로, 대사(등장 인물의 말)나 나레이션(narration)이 없는 대신에, 후키곡홍아(fukiya koji)가 작사 한, 동요풍의 노래로 말해져서 갑니다.「조용한 장면 전개와 조용한 움직임은, 동영상 제작상, 가장 곤란한 기술을 필요로 하지만, 이것을, 저희들은, 자주(잘) 지극히, 향후의, 조용한 동영상에의 길을 개척하려고 했다」라고 하는 회사측의 의도도 있어, 애니메이션(animation)의 최대의 특징이라고 할 수 있는 움직임을, 감히, 온화하게 한다고 말하는 참신함이 표적이 되고 있었습니다.「꿈꾸어 동자」는, 사상이나 이념을 담아 제작되었지만, 현재에 연결되는, 애니메이션(animation)의 역사에 있어서는, 담담한 내용으로, 독창성을 너무 노렸다고 한 인상도 거절할 수 없습니다.그렇지만, 후키곡홍아(fukiya koji)가 남긴 작품이라고 하는 관점에서 보면, 오히려, 후키곡홍아(fukiyakoji)의 세계관이 현저하게 반영된 귀중한 애니메이션(animation) 작품으로서 볼 수가 있겠지요.




「꿈꾸어 동자」원화.1958년.「꿈꾸어 동자」는, 에도(edo) 시대(17 세기부터 19 세기 중반)의 전승 이야기를 기본으로 한 작품입니다만, 작품의 무대 설정은, 텐표우시대(나라(nara) 시대 전반.729년부터 749년까지)되고 있습니다.




황폐 한, 제이차 세계대전 직후의 일본의 아이들을 생각해 복귀한 후키곡홍아(fukiya koji)는, 삽화 화가로서 교육적인 책무를 담당하면서, 아이들에게 작품을 계속 그려 왔겠지요.후키곡홍아(fukiya koji)는, 「 나는 생각한다.아이들에게, 미숙한 과일을 주어서는 안 되게, 미숙한, 천한 그림을 주어서는 안 된다」라고 적고 있습니다.후키곡홍아(fukiya koji)는, 인기 절정기가 지난, 제이차 세계대전 후도, 결코, 무책임한 일을 하는 일은 없고, 어린이용의 그림이어도, 한 장 한 장, 마음을 담아 정중하게 그렸습니다.만화나 애니메이션(animation), 텔레비전의 보급에 의해서 급격하게 오락화가 진행되어, 고도 경제성장을 배경으로, 사람들의 생활 양식도 변화해 가는 시대에, 후키곡홍아(fukiyakoji)의 일은, 소녀 잡지(소녀 전용의 잡지)로부터, 그림책이나 애니메이션(animation)으로 이행 하고 갔습니다.그러나, 매체가 바뀌어도, 1920년대부터 구축해 온, 후키곡홍아(fukiya koji)의 신념만은, 번농 되는 일은 없었습니다.「꿈꾸어 동자」도, 시적이고 우아한 애니메이션(animation)을 추구하고, 몸을 깎는 생각으로 제작했다고 말합니다.





후키곡홍아(fukiya koji)는, 만년에는, 비원이었던 회화 제작에, 의욕적으로 임해, 현대의 강호시대의 풍속화(ukiyoe) 미인화라고 말할 수 있는, 독자적인 회화 작품을 발표해서 갔습니다.




사진 이하 4매.후키곡홍아(fukiya koji)의 만년의 회화 작품예.




「장미와 소녀」.1968년.





「신부」.1968년.





「금발」.1969년.






「눈토끼」.1973년.









TOTAL: 984

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