伝統文化紹介 Relationship






以下、基本的に、2010年に行った投稿の再掲で、2010年の4月の前半に、当時、交際していた女性と、私の、長野(nagano)県(日本の中部地方に位置する県の一つ)にある、別荘で、過ごした際、別荘から足を延ばし、戸倉上山田(togurakamiyamada)温泉(長野(nagano)県にある温泉保養地の一つ。長野(nagano)県には、温泉・温泉保養地が、たくさんあります)に宿泊した後、東京の我が家(東京都心部の西部の静かで落ち着いた住宅地に位置します)への帰り道に、富岡(tomioka。群馬(gunma)県の南西部にある小都市)に寄って、日本の代表的な近代化産業遺産の一つ、旧富岡(tomioka)製糸工場を見学したりした時の物です。旧富岡(tomioka)製糸工場は、この時、初めて、訪れました。旧富岡(tomioka)製糸工場は、2014年に、UNESCOの世界文化遺産に登録されたのですが、(べつに、その事を意識していた訳ではないのですが)、UNESCOの世界文化遺産に登録されて、観光客で、混む前に訪れて来ました(べつに、今でも、そんなに観光客で、混んでいる訳でもないのかもしれませんが)。




4月の前半に、私の、長野(nagano)県にある、別荘で、過ごした際、別荘から足を延ばし、戸倉上山田(togurakamiyamada)温泉に宿泊した後、東京の我が家に帰って来たのですが、その帰り道に、富岡(tomioka。群馬(gunma)県(下の補足説明参照)の南西部にある小都市)に寄って、日本の代表的な近代化産業遺産の一つ、旧富岡(tomioka)製糸工場を見学したりした時の物です。旧富岡(tomioka)製糸工場を見学したのは、この時が、初めてでした(富岡(tomioka)を散歩したのも、この時が、初めてでした)。

群馬(gunma)県:東京area(東京圏)の北西端に位置する県。南は、埼玉(saitama)県、西は、長野(nagano)県、東は、栃木(tochigi)県、北は、新潟(niigata)県と(少しではあるが)福島(fukushima)県と接する。



日本では、多くの伝統的な文化財が保存されていますが、それと共に、(伝統的な文化財には、遥かに及ばないものの)、多くの近代化産業遺産が、保存されています。その様な近代化産業遺産(日本に保存されている近代化産業遺産)の中で、群馬(gunma)県の南西部にある小都市、富岡(tomioka)にある、旧富岡(tomioka)製糸工場(旧富岡(tomioka)製糸場)は、代表的な物の一つとなっています。



以下、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)の続きです。富岡(tomioka)製糸工場については、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)も参照して下さい。


富岡(tomioka)製糸工場前編→

https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3629110?&sfl=membername&stx=nnemon2


写真以下31枚。旧富岡(tomioka)製糸工場(旧富岡(tomioka)製糸場)の続きです。旧富岡(tomioka)製糸工場は、日本における産業革命を象徴する史跡であると共に、日本の代表的な近代化産業遺産の一つです。富岡(tomioka)製糸工場(富岡(tomioka)製糸場)は、1872年に操業が開始された、官営(国営)(後に民営化された)の製糸工場で、日本初の器械化された製糸工場です。富岡(tomioka)製糸工場は、1987年まで、約115年間操業を続けましたが、現在は、富岡(tomioka)市の所有・管理の下、日本の近代化産業遺産として保存され、史跡として一般に公開されています。現存している、(旧)富岡(tomioka)製糸工場の、主要な建物の、ほとんどが、1870年代初めに建てられた物です。

 

富岡(tomioka)製糸工場は、日本の製糸工場の模範となるべき工場として、国が、フランスから技師を招き、フランスから、最新式の器械を導入して(当時、フランスとイタリアが、世界の製糸業の先端を行っていた)、19世紀後半に建てた製糸工場(1872年に操業開始)で、当時としては、最新式の設備を持つ、世界最大級の規模を持つ製糸工場でした。




写真以下9枚。繰糸場(製糸作業場)の建物。





規模の大きな建物です。上の写真に写っている部分は、建物全体の40%程で、奥に、さらに長く建物が続いています。
































現在、繰糸場(製糸作業場)に残されている機械は、1987年の工場の操業停止時に使われていた物で?、昭和40年代(1960年代半ばから1970年代初め)に導入された日本製の物です(創業時の、フランス製の製糸器械(創業当時、世界最先端の製糸器械が導入されました)は、長野(nagano)県の中南部にある小都市、岡谷(okaya)(1910年代から1930年代にかけて、日本の製糸産業の中心地の一つ(おそらく、日本の製糸業の最大の生産拠点)として栄えた)にある、蚕糸(製糸)博物館(私は、まだ、訪れた事がありません)に保存されています)。


























古い絵に描かれた、操業開始当初の富岡(tomioka)製糸工場の工女(女性工場労働者)の姿(旧富岡(tomioka)製糸工場のパンフレット(leaflet)から。。。)。富岡(tomioka)製糸工場の工女(女性工場労働者)の服装は、後に、西洋式の物に変わりましたが、初期の頃は、この様な日本(伝統)式の服装でした。前述の通り、富岡(tomioka)製糸工場は、その後、日本各地に、たくさん建てられた製糸工場の模範となるべき工場として、1872年に操業が開始された、官営(国営)の製糸工場で、1893年に民営化され(民間(三井(mitsui)家)に売り渡され)ました(その後、富岡(tomioka)製糸工場は、2回、所有者(owner)・経営者が変わっています)。第二次世界大戦前の、日本の製糸工場と紡績工場については、賃金面、労働時間面等も含めた、工女(女性工場労働者)達の悲惨な労働環境(資本家(経営者)達による低賃金労働者の搾取)が有名ですが(中には、工場労働者の労働環境・福祉について、先進的な考えを持った資本家(経営者)達も存在しました)、日本各地の製糸工場に模範を示す役割を担っていた、官営(国営)時代の富岡(tomioka)製糸工場は、事情が、少し異なっていました。工女(女性工場労働者)は、一日8時間労働で、日曜日は休み、夏休み、年末年始の休暇有りと言った、当時としては、決して悪く無い待遇でした。また、雇われた工女(女性工場労働者)達も、比較的良い家柄の娘達で、賃金面での待遇も、決して悪く無かった物と思われます。官営(国営)時代の富岡(tomioka)製糸工場には、全国から多くの工女(女性工場労働者)が集められ、工場における、器械化された製糸作業を学び、習得しました。彼女達は、富岡(tomioka)製糸工場で、ある程度勤務した後、それぞれの故郷に帰り、地元の製糸工場で指導的な立場で活躍し、日本の器械化された製糸工業の発展と産業の近代化に大きく貢献しました(旧富岡(tomioka)製糸工場のパンフレット(leaflet)を参考にしました)。しかしながら、理想と現実は、完全には合致せず、官営(国営)時代の富岡(tomioka)製糸工場は、大規模過ぎるが故の効率性の悪さ(官営(国営)だったので、経営が甘かったと言うのもあると思います)、工女(女性工場労働者)達の待遇(賃金・労働時間)の良さ(当時としては)等から、(生産された高品質の生糸は、海外でも、好評を得たものの)、経営は、決して黒字ばかりではありませんでした(確か。。。ちょっとガイド(guide)さんに受けた説明の記憶が曖昧。。。)。




写真以下6枚。工場内の病院として使われていた建物です。













































写真以下5枚。工場内、その他の建物等。







































写真以下3枚。前述した通り、現存している、(旧)富岡(tomioka)製糸工場の、主要な建物の、ほとんどが、1870年代初めに建てられた物ですが、この煙突は、1939年に建てられた鉄筋コンクリート製の物です。高さは、37.5m有ります。尚、工場の1872年の創業時の煙突は、鉄製で、高さは、36m有り、フランス製と言われる避雷針も設置されていましたが、暴風雨の為、倒壊してしまいました。





































写真以下5枚。西繭倉庫。規模の大きな建物です。




































富岡(tomioka)製糸工場に関しては、これで終り。




 

写真以下10枚。富岡(tomioka)の市街地には、1910年代から1930年代頃に建てられたと思われる、商店や一戸建て住宅の建物が点在して残っています。こうした建物は、1910年代から1930年代頃の、日本の地方(田舎)や大都市近郊の、小都市の市街地の風景をイメージさせてくれます。




写真以下2枚。時計屋さん(時計店)の建物。


















洋服屋(tailor。顧客から注文を受けた服を仕立て(製作し)販売する店)の建物。






写真以下2枚。日本料理食堂の建物。











写真右側に見える、白い壁の建物は、蔵(倉庫)。




 

写真以下3枚。日本伝統式の一戸建て住宅(写真以下3枚は、同じ一戸建て住宅)。空き家の(現在は、もう誰も住んでいない)様でした。



























裏路地。







古い店舗の建物を改装した(記憶が曖昧だが、確か、そんな感じだったと思う)、レストラン。









昼食は、富岡(tomioka)市街の、庶民的な、うどん・蕎麦食堂で、お切り込み(okirikomi)を食べました(写真は、一人分)。お切り込み(okirikomi)は、群馬(gunma)県で、昔から、よく食べられている家庭料理です。お切り込み(okirikomi)は、うどんに似た食べ物ですが、平らな麺を使い、具が多い点に、特徴がある様です。また、ほうとう(houtou)と同様、麺と具を汁で煮込んでいる事から、普通の、うどんに比べ、濃厚な独特な味わいが有る所に特徴がある様です(wikiを参考にしました)。お切り込み(okirikomi)は、ほうとう(houtou)(山梨(yamanashi)県(日本の中部地方に位置する県の一つ。東京圏の西部・長野(nagano)県等に隣接する)で、昔から、家庭で、よく食べられている、山梨(yamanashi)県の名物料理。うどんに似ているが、麺は、通常、平らな物で(すいとん状の物も有り)、汁(soup)は、味噌仕立てで、(通常)具の量が多い所に、特徴が有る)に、よく似ていますが、ほうとう(houtou)は、汁が、味噌仕立てで有るのに対し、お切り込み(okirikomi)は、汁が、(普通のうどんの汁に似た)醤油仕立ての物と、(ほうとう(houtou)の汁に似た)味噌仕立ての物、両方ある点が、異なる様です。この店の、お切り込み(okirikomi)の汁は、普通のうどんの汁に似た、醤油仕立ての物でした。また、ほうとう(houtou)は、南瓜(カボチャ)が、好んで、よく、具の一つとして使われますが、(南瓜(カボチャ)を中心に甘い具が含まれる、ほうとう(houtou)に対し)、お切り込み(okirikomi)は、サツマイモ(sweet potato)や南瓜(カボチャ)の様な甘い具は、あまり用いられない点に、特徴が有ります(wikiより)。お切り込み(okirikomi)は、記憶に残る限り(もしかしたら、今まで、宿泊した、旅館の料理の一品か何かとして、出ていた事があったかも。。。)、今回(この時)、初めて食べたのですが、中々、美味しかったです。







富岡(tomioka)製糸工場後編






以下、基本的に、2010年に行った投稿の再掲で、2010年の4月の前半に、当時、交際していた女性と、私の、長野(nagano)県(日本の中部地方に位置する県の一つ)にある、別荘で、過ごした際、別荘から足を延ばし、戸倉上山田(togurakamiyamada)温泉(長野(nagano)県にある温泉保養地の一つ。長野(nagano)県には、温泉・温泉保養地が、たくさんあります)に宿泊した後、東京の我が家(東京都心部の西部の静かで落ち着いた住宅地に位置します)への帰り道に、富岡(tomioka。群馬(gunma)県の南西部にある小都市)に寄って、日本の代表的な近代化産業遺産の一つ、旧富岡(tomioka)製糸工場を見学したりした時の物です。旧富岡(tomioka)製糸工場は、この時、初めて、訪れました。旧富岡(tomioka)製糸工場は、2014年に、UNESCOの世界文化遺産に登録されたのですが、(べつに、その事を意識していた訳ではないのですが)、UNESCOの世界文化遺産に登録されて、観光客で、混む前に訪れて来ました(べつに、今でも、そんなに観光客で、混んでいる訳でもないのかもしれませんが)。




4月の前半に、私の、長野(nagano)県にある、別荘で、過ごした際、別荘から足を延ばし、戸倉上山田(togurakamiyamada)温泉に宿泊した後、東京の我が家に帰って来たのですが、その帰り道に、富岡(tomioka。群馬(gunma)県(下の補足説明参照)の南西部にある小都市)に寄って、日本の代表的な近代化産業遺産の一つ、旧富岡(tomioka)製糸工場を見学したりした時の物です。旧富岡(tomioka)製糸工場を見学したのは、この時が、初めてでした(富岡(tomioka)を散歩したのも、この時が、初めてでした)。

群馬(gunma)県:東京area(東京圏)の北西端に位置する県。南は、埼玉(saitama)県、西は、長野(nagano)県、東は、栃木(tochigi)県、北は、新潟(niigata)県と(少しではあるが)福島(fukushima)県と接する。



日本では、多くの伝統的な文化財が保存されていますが、それと共に、(伝統的な文化財には、遥かに及ばないものの)、多くの近代化産業遺産が、保存されています。その様な近代化産業遺産(日本に保存されている近代化産業遺産)の中で、群馬(gunma)県の南西部にある小都市、富岡(tomioka)にある、旧富岡(tomioka)製糸工場(旧富岡(tomioka)製糸場)は、代表的な物の一つとなっています。



以下、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)の続きです。富岡(tomioka)製糸工場については、以下の投稿(すぐ下でリンクを付けた投稿)も参照して下さい。


富岡(tomioka)製糸工場前編→

https://www.kjclub.com/jp/board/exc_board_11/view/id/3629110?&sfl=membername&stx=nnemon2


写真以下31枚。旧富岡(tomioka)製糸工場(旧富岡(tomioka)製糸場)の続きです。旧富岡(tomioka)製糸工場は、日本における産業革命を象徴する史跡であると共に、日本の代表的な近代化産業遺産の一つです。富岡(tomioka)製糸工場(富岡(tomioka)製糸場)は、1872年に操業が開始された、官営(国営)(後に民営化された)の製糸工場で、日本初の器械化された製糸工場です。富岡(tomioka)製糸工場は、1987年まで、約115年間操業を続けましたが、現在は、富岡(tomioka)市の所有・管理の下、日本の近代化産業遺産として保存され、史跡として一般に公開されています。現存している、(旧)富岡(tomioka)製糸工場の、主要な建物の、ほとんどが、1870年代初めに建てられた物です。

 

富岡(tomioka)製糸工場は、日本の製糸工場の模範となるべき工場として、国が、フランスから技師を招き、フランスから、最新式の器械を導入して(当時、フランスとイタリアが、世界の製糸業の先端を行っていた)、19世紀後半に建てた製糸工場(1872年に操業開始)で、当時としては、最新式の設備を持つ、世界最大級の規模を持つ製糸工場でした。




写真以下9枚。繰糸場(製糸作業場)の建物。





規模の大きな建物です。上の写真に写っている部分は、建物全体の40%程で、奥に、さらに長く建物が続いています。
































現在、繰糸場(製糸作業場)に残されている機械は、1987年の工場の操業停止時に使われていた物で?、昭和40年代(1960年代半ばから1970年代初め)に導入された日本製の物です(創業時の、フランス製の製糸器械(創業当時、世界最先端の製糸器械が導入されました)は、長野(nagano)県の中南部にある小都市、岡谷(okaya)(1910年代から1930年代にかけて、日本の製糸産業の中心地の一つ(おそらく、日本の製糸業の最大の生産拠点)として栄えた)にある、蚕糸(製糸)博物館(私は、まだ、訪れた事がありません)に保存されています)。


























古い絵に描かれた、操業開始当初の富岡(tomioka)製糸工場の工女(女性工場労働者)の姿(旧富岡(tomioka)製糸工場のパンフレット(leaflet)から。。。)。富岡(tomioka)製糸工場の工女(女性工場労働者)の服装は、後に、西洋式の物に変わりましたが、初期の頃は、この様な日本(伝統)式の服装でした。前述の通り、富岡(tomioka)製糸工場は、その後、日本各地に、たくさん建てられた製糸工場の模範となるべき工場として、1872年に操業が開始された、官営(国営)の製糸工場で、1893年に民営化され(民間(三井(mitsui)家)に売り渡され)ました(その後、富岡(tomioka)製糸工場は、2回、所有者(owner)・経営者が変わっています)。第二次世界大戦前の、日本の製糸工場と紡績工場については、賃金面、労働時間面等も含めた、工女(女性工場労働者)達の悲惨な労働環境(資本家(経営者)達による低賃金労働者の搾取)が有名ですが(中には、工場労働者の労働環境・福祉について、先進的な考えを持った資本家(経営者)達も存在しました)、日本各地の製糸工場に模範を示す役割を担っていた、官営(国営)時代の富岡(tomioka)製糸工場は、事情が、少し異なっていました。工女(女性工場労働者)は、一日8時間労働で、日曜日は休み、夏休み、年末年始の休暇有りと言った、当時としては、決して悪く無い待遇でした。また、雇われた工女(女性工場労働者)達も、比較的良い家柄の娘達で、賃金面での待遇も、決して悪く無かった物と思われます。官営(国営)時代の富岡(tomioka)製糸工場には、全国から多くの工女(女性工場労働者)が集められ、工場における、器械化された製糸作業を学び、習得しました。彼女達は、富岡(tomioka)製糸工場で、ある程度勤務した後、それぞれの故郷に帰り、地元の製糸工場で指導的な立場で活躍し、日本の器械化された製糸工業の発展と産業の近代化に大きく貢献しました(旧富岡(tomioka)製糸工場のパンフレット(leaflet)を参考にしました)。しかしながら、理想と現実は、完全には合致せず、官営(国営)時代の富岡(tomioka)製糸工場は、大規模過ぎるが故の効率性の悪さ(官営(国営)だったので、経営が甘かったと言うのもあると思います)、工女(女性工場労働者)達の待遇(賃金・労働時間)の良さ(当時としては)等から、(生産された高品質の生糸は、海外でも、好評を得たものの)、経営は、決して黒字ばかりではありませんでした(確か。。。ちょっとガイド(guide)さんに受けた説明の記憶が曖昧。。。)。




写真以下6枚。工場内の病院として使われていた建物です。













































写真以下5枚。工場内、その他の建物等。







































写真以下3枚。前述した通り、現存している、(旧)富岡(tomioka)製糸工場の、主要な建物の、ほとんどが、1870年代初めに建てられた物ですが、この煙突は、1939年に建てられた鉄筋コンクリート製の物です。高さは、37.5m有ります。尚、工場の1872年の創業時の煙突は、鉄製で、高さは、36m有り、フランス製と言われる避雷針も設置されていましたが、暴風雨の為、倒壊してしまいました。





































写真以下5枚。西繭倉庫。規模の大きな建物です。




































富岡(tomioka)製糸工場に関しては、これで終り。




 

写真以下10枚。富岡(tomioka)の市街地には、1910年代から1930年代頃に建てられたと思われる、商店や一戸建て住宅の建物が点在して残っています。こうした建物は、1910年代から1930年代頃の、日本の地方(田舎)や大都市近郊の、小都市の市街地の風景をイメージさせてくれます。




写真以下2枚。時計屋さん(時計店)の建物。


















洋服屋(tailor。顧客から注文を受けた服を仕立て(製作し)販売する店)の建物。






写真以下2枚。日本料理食堂の建物。











写真右側に見える、白い壁の建物は、蔵(倉庫)。




 

写真以下3枚。日本伝統式の一戸建て住宅(写真以下3枚は、同じ一戸建て住宅)。空き家の(現在は、もう誰も住んでいない)様でした。



























裏路地。







古い店舗の建物を改装した(記憶が曖昧だが、確か、そんな感じだったと思う)、レストラン。









昼食は、富岡(tomioka)市街の、庶民的な、うどん・蕎麦食堂で、お切り込み(okirikomi)を食べました(写真は、一人分)。お切り込み(okirikomi)は、群馬(gunma)県で、昔から、よく食べられている家庭料理です。お切り込み(okirikomi)は、うどんに似た食べ物ですが、平らな麺を使い、具が多い点に、特徴がある様です。また、ほうとう(houtou)と同様、麺と具を汁で煮込んでいる事から、普通の、うどんに比べ、濃厚な独特な味わいが有る所に特徴がある様です(wikiを参考にしました)。お切り込み(okirikomi)は、ほうとう(houtou)(山梨(yamanashi)県(日本の中部地方に位置する県の一つ。東京圏の西部・長野(nagano)県等に隣接する)で、昔から、家庭で、よく食べられている、山梨(yamanashi)県の名物料理。うどんに似ているが、麺は、通常、平らな物で(すいとん状の物も有り)、汁(soup)は、味噌仕立てで、(通常)具の量が多い所に、特徴が有る)に、よく似ていますが、ほうとう(houtou)は、汁が、味噌仕立てで有るのに対し、お切り込み(okirikomi)は、汁が、(普通のうどんの汁に似た)醤油仕立ての物と、(ほうとう(houtou)の汁に似た)味噌仕立ての物、両方ある点が、異なる様です。この店の、お切り込み(okirikomi)の汁は、普通のうどんの汁に似た、醤油仕立ての物でした。また、ほうとう(houtou)は、南瓜(カボチャ)が、好んで、よく、具の一つとして使われますが、(南瓜(カボチャ)を中心に甘い具が含まれる、ほうとう(houtou)に対し)、お切り込み(okirikomi)は、サツマイモ(sweet potato)や南瓜(カボチャ)の様な甘い具は、あまり用いられない点に、特徴が有ります(wikiより)。お切り込み(okirikomi)は、記憶に残る限り(もしかしたら、今まで、宿泊した、旅館の料理の一品か何かとして、出ていた事があったかも。。。)、今回(この時)、初めて食べたのですが、中々、美味しかったです。








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